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*遊園地再生事業団『トーキョー/不在/ハムレット』公演(二〇〇五年一月)と、
それに先立つ「プレ公演」のお知らせはこちら。 → CLICK
*大阪上映情報。京都に続き、11月20日(土)〜26日(金)、
『be found dead』が大阪、十三の「第七芸術劇場」で上映される。詳細はこちらのページへ。
■気がついたら東京競馬場(府中)の近くにいた。なにやら、にぎわっている。いつだったかやはりぶらっと府中に行ったらその日、東京競馬場で大きなレースがあったらしく人が大勢いたが、きょうもなにかあるのか、それとも休日の東京競馬場はいつもこうなのか、たいへんな人とクルマだ。あとで知ったが「天皇賞」という名前のレースが開催される日だったのだな。まったく無知っていうのはある一面において面白いもので、なにも知らないとなんでこんなに盛況なのかすらわからず、すごいなあ、競馬、すごく人が集まるんだと見ていたのだった。なにも知らないんだ俺は。あと、競馬場の近くにはいまだに立ち飲み屋みたいなものがあるのだな。どっちも私とはまったく無縁だ。
■東京近郊の人にしかわからないことを書くが、かつて府中市に住んでいた。ケヤキの並木のあるいい町だった。で、こういった土地のことを「郊外」と呼ぶのだろうが、最近になって知ったのは、「郊外」のファミリーレストランはクルマが止め放題なことだ。駐車券を取るなんて面倒がなくていい。駐車場が広くていつもどこかあいている。クルマに乗るようになってはじめて知った「郊外」の利点のひとつだ。それで地理的なことを考えると、「郊外」「ニュータウン」「ベッドタウン」といった言葉によって示される地域はつまり、「都市」の一部として機能し、むしろ、「都市」にくくられると考えられる。だとしたら、埼玉県北埼玉郡北川辺町はいったいなにか。「都市」との距離の取り方よって土地の感触の一面を知ることになると思われる。「府中」や「調布」に住む者らはたとえば、新宿に出て、買い物をし、映画を観、舞台を観るとしても、「トーキョーに行く」という言葉は発しないだろう。だが、北川辺町はそうではない。たしかに、関西にいたり、私が生まれた静岡だったら、あきらかに「東京」は「トーキョー」として存在するし、そこに行くことを「トーキョーに行く」と言葉にするのは移動時間や距離としてもはっきりしている。だが、北川辺町あたりだったら、そんなに遠くはないのだ。けれど、埼玉県の北部からすれば、「東京」はあきらかに、「トーキョー」だと思われる。つまり「北川辺町」は「郊外」ではない。そうでありながら、さして遠くもない。この「模糊とした距離の感覚」そのものを牽強付会だと知りつつ、「天皇」と結びつけると面白いように思えて、『秋人の不在』を書いた。「天皇はどこにいるのか」だ。距離がわからないのだ。いまそれはいよいよ、模糊として、なにかわからないものになっているが、不在のように見えて、きわめてはっきり実在もしている。
■あ、そんなことを書いていたら、いま、小説のアイデアがひとつ生まれた。
■映画be foun deadを京都で上映したとき、東京に就職活動に来た女が夜の町で路頭に迷う「第二話」を観て、あれは話としては東京でしか成立しないし、観る者も東京のことを知っていないとわからないのではないかという意見が出た。そのとき、そこ(打ち上げの席)にいた岡山の大学の教員の方が、「岡山で路頭に迷ってもねえ」と、岡山で路頭に迷っても話として成立しないといった意味の発言をされていた。けれど、むしろ僕には、「岡山の夜に迷う」ほうが面白いと思えたのだった。だって、岡山だよ。私には想像を絶する夜である。横溝正史のことを少し思い出しもした。
■それにしてもなんだなあ、世の中はきわめて不平等にできている。腹立たしいほど不公平だ。いま、なにからなにまで、腹立たしいことばかりだ。
(15:54 Nov.1 2004)
■午後、気晴らしに都内をクルマで走る。ぐるぐる回っているとやけに「街宣車」がいると思われ、これはきのう「あの人」が、「日の丸・君が代は強制ではないのが望ましい」と発言したことに関係しているのだろうか。あわてたのだろうな。いきなりな発言に政府もすぐに対応し官房長官が声明を発したのは、あのお方の発言は政府の基本方針と同じであるという内容だ。じゃあ、なぜ日の丸掲揚に際して立ち上がらない教師が処分の対象になるかは疑問になるものの、あの方は政治的な発言が許されていないことにもなっており、ややもすると錯綜した構造に見えても、考えるべきはもっと見えぬ場所に発動するこの国の仕組みだ。うまくできてやがる。あるいはべつの見方をすれば単純すぎて考えるのもいやになるが、いや、もっと見つめるべきは「天皇」によってもたらされる、ねっとりとしたこの国の感触だ。外国からの一観光客でしかなかったロラン・バルトにはよくわからなかったにちがいないゆるりと漂う質感だ。
■で、昼ご飯を食べようと思ってなにかないか探しているうち、うっかり六本木ヒルズに行ってしまったわけだが、そこにも街宣車はいたのだった。たしかにうるさくていやになるが、それはそれで、ヒルズと街宣車というなかなかによろしい組み合わせの光景だった。食事をしたあと、森美術館まで上がりなにか見ようと思ったがたいして興味をひかれる展示じゃないと感じて入るのをやめ、またクルマを走らせていると四谷で学習院の小学生がぞろぞろ帰るところに出くわした。その制服が、いまにも戦争に行ってしまいそうなデザインに見えて面白い。行ってしまえ。
■いま日本中の誰もが気にしているのは、「ハイパーレスキュー隊」のことだ。なにしろ、「ハイパー」である。ただごとではない。優太ちゃんの救出はたしかに奇跡だが、ハイパーレスキュー隊の隊員に、アナウンサーが「なにか声をかけてあげましたか」と質問していたのをニュースで見た。それはそれでいいにしても、「優太ちゃんはなにか言っていましたか?」とさらに訊くが、あの状況のなかから助け出された二歳の子どもがすぐに声を出せるわけがないじゃないか。ハイパーレスキュー隊に向かって助け出されたばかりの優太君が、「ご苦労様です」と応えたとしたらどうだったか。「おつかれさまです」とか、「お世話様です」とねぎらわれたら、ねぎらわれたほうもひどく困るだろう。だって相手は二歳の子どもだぞ。
■ある映画をビデオで二回連続して観た。そのことの意味がよくわからないままそうしてしまったが、こういった見方もあるということを教えられた。
(15:23 oct.30 2004)
■昼少し前、東京オペラシティのなかにある郵便局に行ってある書類を速達で出したが、そのあとぶらぶらしていると、ジーパンのポケットからアップル社の社員証をぶらさげた男が二人、タバコを吸いながら信号待ちしているのを見つけ、Mac Powerの原稿の題材にしようと思って尾行したのだった。そのとき考えていたのは、以前、ある映画監督から聞いた探偵学校の話だ。人は振り返るとき、ある一定の方向に顔を向ける傾向が強いので、尾行の際には、それとは逆側を歩くといいという。尾行しながら連載に書く原稿の構成を考えていた。むしろ、その映画監督から聞いた「探偵学校」の話が中心になると構想し、しかし、こうして尾行する話は、その尾行に、なんの意味もないからこそ面白いにちがいない。アップルの社員を尾行したところで意味がない。そして二人の男は、初台商店街の蕎麦屋に入っていった。
■で、全然、関係がないけれど、私は「演技」というものについてある法則を発見した。よく「芝居が下手」という言葉を口にするが、「演技」において、「へた」だからいけないという原理はないはずである。むしろ、小器用に「巧い」ものに魅力があるかといったら、そんなことはぜったいにない。「へた」なほうが魅力的であることもきっとあるのだ。まあ、程度の問題もあるし、一見、芝居ができるように見えて、「へた」なのはいかがなものかとは思うものの、私は発見した。ひとつの定理だ。
Macというコンピュータが好きな俳優はだいたい下手である。
いまのところ、サンプルとしては三人ぐらいしか思い浮かばないが、これはかなりの確率で正しいと思われ、『トーキョー/不在/ハムレット』に出ている俳優のなかに一人、ものすごく、「Mac」が好きな男優がいて、いったいどうなっているのだと人を震撼させるほど芝居が下手だ。いや、けっしてそれは否定ではない。下手でいけない理由はなにもないのだし、魅力がなければ、私は自分の舞台に出さないものの、見事なほどうまくない。感動的ですらある。
まあ、それは冗談にしてもですよ、芝居に関して、「うまい」「へた」といったことはしばしば人は口にしがちだが、ではその「うまい」とはなにかを考えると単純化することはできないのだし、「うまい俳優」など世界に百万人はいて、べつに「うまい俳優」が珍しくないなら、求められるのは「魅力的な俳優」だが、けれど、「魅力的な俳優」の「魅力」の論理化が不可能だとすれば、これほど、俳優を目指す者らを不安にさせる要因はない。そして、「魅力」だけでも俳優にはなれないから、ことはいよいよ複雑になる。だからといって単純に要約しない。簡単に要約しない態度こそがもっとも正しいと思われる。「芝居とはこうしたもんだ」とまとめられてもねえ。わからない。わからないので、私たちはまた稽古をするのだった。
■そのあと、制作の永井と会って、稽古スケジュール表を渡されめまいがしてきた。11月10日から、また稽古がはじまるのだ。11月24日からはパブリックシアターの稽古場に入り、初日までずっと同じ場所で稽古ができるが、それまでやはり杉並区、世田谷区を転々とする。
■同じオペラシティのなかにあるカフェで、TVブロスの取材があり、きのう書いたとおり、以前、『14歳の国』をドラマ化してくれたO君と対談する。それというのも、ドラマ化された「演技者。」という番組がDVD化され、その一本に『14歳の国』も入るからだ。楽しい会話だった。
■その後、私はある病院の精神科の待合室にいた。そこに、血圧測定の機械があったので、試しに測定してみた。正常なので安心したが、問題はそのあとで、なぜか、私が血圧を測っているのを見たべつの患者がやはり、血圧を測り、なにを思ったか次々と血圧を測る者が現れ、とうとう待合室にいた患者全員が血圧を測ってしまった。いったいなにごとだ。これは私の初期のエッセイ集、『彼岸からの言葉』に所収されているあるエッセイとほぼ同じ状況で、それはある知人から聞いた話だった。やはり、精神科の待合室の話だ。そこに体重計があり、知人がなにげなく体重を計ったそうだ。すると、そこにいた患者全員が体重を計ってしまった。体重計に列ができたという。それを思い出した。秋の病院の待合室のできごとだ。
(12:03 oct.29 2004)
Oct.27 wed. 「駒場に行く。そして、一同、口々に」 |
■首のあたりが痛い。以前、テキスト・リーディング・ワークショップに来ていたカイロプラクティクスの勉強をしているという方から、「肩が内側に入ってますね」と言われたが、首が痛かったり肩が痛いのを解消するには、根本的に「からだ」を矯正しないとだめなのだろうな。これまでもっぱら、「からだ」について考えるとき、いまの時代のなかにある「からだ」といった抽象的な概念が中心だったが、単純にいま、「からだ」が痛いといったことがあるとフィジカルに考えざるを得なくてですね、つまり、このままだと、歳をとるにつれ、俺、動けなくなるんじゃないかと不安になるのだ。鍛えよう。
■「からだ」についていろいろ考える。もっと考えることはある。学ぶべきことはさらにある。そういえばきょう会った批評家の内野さんもエジプトのカイロで実験演劇を二十数本観ているうち、舞台の一番前に座らされ、さらに舞台が高いので見上げる格好になって首を痛めたという。内野さんとはほぼ同年齢。首を痛めがちな年齢である。
■あと関係ないが、TAMA映画フォーラムで、映画『be found dead』が上映されることはすでに書いたが、大阪でも上映される。11月20日(土)から、26日(金)まで、第七藝術劇場にて。21日は僕も劇場に足を運びアフタートークをやる。関西方面の方、どうかお越しいただきたい。詳しくはこちらへ。
■家を出ようと思ったらクルマの鍵がどこにもないのだった。探しても見つからない。あきらめてガレージの大家さんのところまでゆく。なにかあったときのためにスペアキーを保管してもらっている。それで家を出たが、大家さんがいらっしゃらず、その息子さんの妻とおぼしき方が出ていらしたがどこにスペアキーがあるかわからないという。で、ここではないかという金属製の小箱がガレージにあって、見ればその方は、金槌とドライバーを手にしている。小箱を開ける鍵のありかがさらにわからず、壊すというのだった。すこし大袈裟な事態になってきたのでタクシーで行きますと告げて山手通りまで歩いた。山手通りでタクシーはすぐにつかまり、批評家の内野儀さんの授業で話をするため、駒場の東大に行く。ものすごく近い。正門の近くで制作の永井が待っていた。
■これまで僕がやってきた活動を時代に沿ってビデオで紹介し、それに付随した説明と、そのときなにを考えて舞台をやってきたか話す。ほぼ、早稲田の岡室さんの授業と似た流れではあったが、ただ、それぞれ視点がちがうところから質問をしてくれるのでよく似た内容とはいっても、また異なる側面から話ができたのではないか。いまでは見ることができないだろう、ラジカル・ガジベリビンバ・システム時代の『スチャダラ』のビデオからワンシーン。九〇年代に入ってからの舞台をひとつふたつ。『トーキョー・ボディ』から、ここだけ抜き出してもしょうがないと思いつつ、「レスリング」を見せた。そして、『トーキョー/不在/ハムレット』のプレ公演のなかから、「準備公演」の詩人の独白「風と柳」版。90分間の授業があっというまに終わった。ほんとは質問の時間を予定していたのにできなかったのは申し訳ない。そのあと、学生たち数人とお茶を飲んで話をする。
■やはり、人と会うのはとてもいいと思ったのは、学生の質問に応答することで僕もいやおうなく考えざるをえないからだ。ところで、東大駒場のなかに「矢内原公園」というのがあって、いうまでもなく、ニブロールの矢内原美邦のおじいさんにあたる人を記念した公園だ。驚いたものがあったもんだよしかし。このところ、家から出ないで鬱々し、かなり重度の「だめ状況」にあったが、こうして人と話すと少し調子が出る。からだが暖まったとでもいえばいいか、「だめ」から解放されつつあるのを感じた。あしたTVブロスという雑誌の取材があってなんどもこのノートに登場するテレビドラマ版『十四歳の国』を演出してくれたO君に会うのもとても楽しみだ。
■ところで、戯曲を読んでいるとき、舞台上に群衆が登場する場面を目にした機会が誰でも一度はあるのではないか。そこには、「一同、口々にわめきたてる」とか、「一同、小声でなにやらささやく」といったト書きがあるのを読んだことがあるだろう。そうした会話は「劇言語」ではないとでもいうかのように、劇作家はつい、省略しがちだ。あれはおそらく書くのが面倒だというだけだ。それというのもそれをいちいち書くのは表記上、きわめて難しい行為だからで、いっせいにしゃべりだしでもしたらどう書いたらいいかよくわからない。二日ほど前に気がついたのは、ことによると僕は九〇年代、この「一同」を書こうとしていたのではないかだった。「一同、口々に」というト書きの代わりにそれを丹念に書いてきた気がする。つまり、僕の戯曲に出てきたのは「一同」の皆さんだったのではないか。「一同」の言葉が僕には面白かった。それを丹念に書くのに快感を得ていたのだし、そして、いま書くに値するのはそうした「ことば」だと九〇年代の半ばは思っていた。いままた、その考え方が変わった。だからといって、「一同」とはちがって、「主な登場人物」だけを書こうという逆行ではない。その状況をどう考えたらいいか。
■学生たちにそうして考え続けるというか、また次へ更新してゆくことこそが演劇ではないかと話したら、一人が、「デリダですね」と言ったのだった。ジャック・デリダのことだが、その意味内容はともかく、このとき、「デリダ」という発話が、「デ」にアクセントを置かず平坦に音をするのを聞いて、なにか専門的なものを感じたのだが、じつは、「準備公演」を観に来たテレビ製作会社に勤め最近プロデューサーになったことで「カシピー」と呼ばれている貸川がやはり、平坦に、「デリダってなんですか?」と口にしやはりそのときも気になったのだ。カシピーもまた学生時代、哲学かなにかが専門ではなかったか。ただ、「ジャック・デリダ」とフルネームで呼ぶとき、「デリダ」を平坦に発話するとどうも変だ。ちょっと口にしてみてほしい。「ジャック・デリダ」。茨城県人かよ。
■と、そんなことを気にしつつも、書かなくてはいけない原稿のことを思い出し、やらなくちゃいけないことがまだある。もう一踏ん張りである。
(11:26 oct.28 2004)
■三坂のことを前回のこのノートで「特殊」と書いたのは不適切な表現だったと思われるので訂正したい。正しくは、「異常」と書くべきだった。
■さて、21、22日は家で仕事。鍼治療にも行って少しからだをメンテナンス。そして、23日(土)は京都にまたも日帰りで行ったのだった。映画『be found dead』の京都上映会が京都造形芸術大学内の映像ホールで開かれた。満員。ありがとうございました。アフタートークで丹生谷貴志さんと話をさせてもらった。丹生谷さんの話がきわめて面白く、刺激的で、ただ聞き入る。トークでもなんでもないというか、単に丹生谷さんの講義を聴かせてもらっている気分だった。で、ここにも、三坂と演出助手の相馬が来ていた。三坂はそのあと「維新派」の舞台を見に行くとのことだが、この上映会のためにわざわざ大阪在住の玄月さんを呼んでくれた。ところで、今回の上映会を主催した京都の「CINEMA ENCOUNTER SPACE」のT君には、上映を企画してくれたことはもちろんだが、パンフレットの作製、いい環境で上映しようと性能の高いプロジェクターを用意してくれたりなど、ほんとに感謝してやまなかった。おそらく最新のプロジェクターだと思われるそれは、光量も高く、発色もよく、開映前に音の調整のため試写したとき驚かされた。あと、パンフレットで何人かの方に僕についてのインタビューをしており、読めば、みんな勝手なことを言っている。面白かった。
■そのパンフレットのなかで樋口泰人さんが冨永君について語っているページも面白くて、たとえば、杉山彦々君について話している部分など笑ったが、一点だけ気になるところがあった。「オムニバスの映画のなかに冨永君が入ると、一緒にやっている人間はいやなやつが入ってきたと思うだろう」といった意味のことを樋口さんは発言している。この発想が我々にはなくて、え、そういうものなのかといった軽い驚きがあった、っていうか、そうした言葉が我々のなかにはなかった。逆に言うと、「第四話」は冨永君でなければならなかったのだ。「死体発見についてのお話」は三話でほぼ出尽くすだろうから、「第四話」あたりでかなり変則的なものが入ってこなくてはならないという話は、すでに製作以前に「第一話」を作った鈴木から出ており、僕もそう考え、すると必然的に担当は冨永君だったのだ。想像以上にでたらめなものを作ってくれた。それもうれしかった。だからこの映画の構造をまず示さなくてはならない「第一話」を作った鈴木には、樋口さん的な発想で考えるとひどく損な役目を押しつけてしまったことになる。鈴木はねえ、プロだってことなんですね、一緒に仕事をしてわかるのは。そういったことをいちいち先まで読んでおり、技術面でもかなり助けられた。
■久しぶりの京都は当然ながら秋だった。まだ紅葉のシーズンには早かったが、匂いがね、なんだか東京とは異なりやはりいい。で、学生たちに何人かにあって話をしたが、当然、松倉がおり、久しぶりに会ったとき、僕はべつのある学生と話をしていた。ある学生というのは、こんなことを書くのはきっとまずいとは思うが、そのあとの松倉の言葉が面白くてどうしても書かずにおれないので、書くが、その学生が松倉がつきあっていた「彼」だったわけで、僕と話しているのを見て松倉は怒ったのである。そのあと、松倉と会って話すと、「あいつ調子がいいんだからもう」などと怒っている。それで話を聞いて大笑いだ。その「彼」から、つい最近、プレゼントをもらったという。別れたあとでのプレゼントである。もらった松倉は言ったという。
「これは、参加賞か」
笑ったなあ。見事な表現だ。そしてぷんぷん怒っていたかと思うと、上映会が終わって打ち上げがあった店で松倉は、一月に卒業制作のライブをすることが決まり、そのためにこの七月の授業で一緒に発表公演をした二年生たちが手伝ってくれることなど報告してくれたのだが、話している途中でまた泣いてしまう。泣いたり怒ったり笑ったりで大忙しだ。
そのころ、新潟で大きな地震があったことは、東京から電話をもらってはじめて知った。携帯で東京と連絡を取ろうとしたが、つながらないのでおかしいと思っていたのだ。しばらく前、「地震予知」に関する本を読んだが、その本の結論はつまり、「地震予知は不可能」ということだった。まったくである。私が子どものころから、「東海大地震」の話は繰り返し伝えられてきたものの、東海地方ではまったく地震が起こらず、そのあいだに、ほかの地域で大きな地震が起こったのは阪神淡路の震災をはじめいくつもある。東海地方ではいやになるほど地震対策をやっている。備えあれば憂いなしとはいうが、危機感をやけに劇的に煽る類のメディアを見るにつけ腹立たしい。あと、自衛隊はサマワからさっさと帰ってきて、小千谷に行け。
■うちの大学にある舞台芸術センターから、先日ここにも書いた、太田省吾さんとの対談を起こした原稿がメールで届いたのはもう二週間以上前のことだ。直さなくてはいけないが忙しくて怠けていた。で、直そうと思ったらマイクロソフトのワープロソフト「ワード」の文書で、こりゃ開けねえと思ったが驚いたことに、Jedit Xであっさり開くことが判明した。で、二通目に来た太田さんの直しの入った原稿は、Windowsマシンで受信してしまったのだが、たしか、元々Windowsに付属している簡易なワープロで開けると思ったのだが開けない。しかもいったん、Windowsマシンのほうのメーラーで受信してしまうとサーバーから削除する設定にしてあるので、もうだめだ(あ、考えてみればあらためてWindowsマシンから自分宛にそのメールを回送しMacで受け取ればいいのか)。で、それとはまたべつの方面から届いた原稿がやはり「ワード」のファイルだ。持ってないんだよ俺は、「ワード」ってやつを。問題はなぜ、「ワード」で他人に添付ファイルを送ってしまうかだ。世の中の常識として、誰もが「ワード」を持っていることになっているのだろうか。わからない。
■やらなくてはいけない仕事はいくつもあるが、京都から帰ってなにもする気にならず、一日、だらだら過ごす。わざわざ書くようなことではないが、いま私は、かなりの、だめ状況である。というか、「準備公演」の途中からかなり「だめ」で、稽古に遅刻ばかりしていた。そんな状況にありながらも、仕事は次々と来る。しかも、「いま、だめ状況なので仕事はできません」と断るわけにもゆかず、他人に「だめ」をいかに理解してもらうかは困難な作業だ。こんなに駄目なのですと、「だめな写真」を送ればいいのだろうか。いったいそれはどんな写真だ。
(07:26 oct.25 2004)
■書くまでもないことだが台風だった。
■体調を整えようと休もうとするが、どうも気分は落ち着かず、次のことに追い立てられる。もう二十年以上、こんな状態が続いているように感じ、それで、年齢のことをふと考えたら、来年から二年間さらに大学をやると、終わるころにはもう五十歳近くなっており、四十歳代の七年間を大学で生きることをそれは意味し、ひどくたまげた。かつて七年といったらとても長い時間だった。七歳のころは生きてきたすべてが七年間だ。あたりまえだけど。十代でも、二十代でも、やはり七年は長かった。二十四歳のとき仕事をはじめた。で、七年後にはその業界をやめていた。国外逃亡。そして放浪。しかし、長かった。ものすごく長く仕事をしていた記憶があるのだが、最近の七年はあっというまだ。七年前、つまり一九九七年には、『あの小説の中で集まろう』という舞台をやった。記憶を再現しようとすると、僕の場合は、なんの舞台をやったかが手がかりになるのだが、『あの小説の中で集まろう』など、ついこのあいだのできごとのように感じる。もう七年も前だったのか。
■時間の感覚は相対的で、そりゃあ当然、生きてきた時間との関係によって変化してゆく。でも、今年はやけに長い。三月から稽古をはじめ、五月に「リーディング」、六月、七月が「映像作品発表」、そして九月に「実験公演」、そして数日前に終わった「準備公演」と次々こなしていると、「リーディング」がかなり過去の出来事だった感がある。それもまた奇妙なことだ。
■一連の『トーキョー/不在/ハムレット』に関わっている南波さんから感想のメールをもらった。
プレ公演を重ねるごとに、ひとつの戯曲と長期間共に過ごす楽しさというのをたくさん発見しているのですが、今回の公演は特に、自分達でいろいろ考えることができたので、それぞれのシーンの面白さを違った角度から再発見することができましたし、共演者のみんなのそれぞれの魅力もガンガン見せつけられ、本当に刺激的な稽古、そして本番でした。
そう感じてくれたのなら幸いだ。やけに評判のよかった「準備公演」は自分でも驚いている。そして出演してくれた俳優たちもまた、同様に、これまでとちがった刺激を受けたのならこれ以上の成果はない。その南波さんについて、雑誌「ユリイカ」のYさんは次のように書いてくれた。
中でもっとも物語性を感じたのは、やはり最後の詩人の独白であそこは身体的な表現とあいまって、すばらしかったですね。(彼女のたたずまいは僕は本当に好きで、ぜひいつかオリュウノオバ役をやってほしいですね。そんな芝居できるのかわかりませんけど。)
南波さんが「オリュウノオバ」を演じるためには少なくともあと三〇年かかるのではないか。あくまで年齢的なものですけどね。とにかく、「準備公演」で得たあの詩人の独白、それも単に独白するのではなく、「風と柳」とその場面を呼んでいたように四人の男たちが「風」になり、独白する詩人のからだに触れて「柳」である詩人のからだを動かす。これをもっと深めよう。本公演はこれまでやってきた一連のプレ公演のなかから成果の高かったものを、さらにクオリティを上げる作業がひとつあると考えている。まだ、全体像はつかめていない。なにかひょこっと生まれるはずだ。本公演を楽しみにしていただきたい。
■丹生谷貴志さんの本を読んでいる。刺激的である。借りた本や、京都で上映に活動していただいたTさんから渡された資料を全部読むには時間がないものの、可能な限り、丹生谷さんのことを理解してからトークをしよう。それが礼儀というものだ。そしてこうしたことを機会になにか喚起されることがあるから人と会うのは大事なのだろうな。
■書くのを忘れていたが、「準備公演」のとき、何日目だったか、終演後、ロビーにいたら三坂の知り合いと思われる方が僕の隣の椅子に腰を下ろしていたのがわかり、どういった種類の知り合いの方だろうと思っていたら、その方から声をかけてくれた。そして、言ったのだった。「宮沢さんですか? 玄月です」。これにはひっくりかえりそうになった。三坂、誰とも知り合いだよ。知らない人を探すのがむつかしいくらいだ。そして玄月さんと少しお話をする。声をかけていただきうれしかった。あとで三坂が「お知り合いじゃなかったんですか?」と言ったが、そんなに人は知り合いがいるわけないじゃないか。三坂は自分がかなり「特殊」だということを自覚したほうがいいのではないか。
■台風は去ったが気分は焦燥だ。目の前に仕事がある。とはいっても焦燥がなくなったら人生つまらない。あした天気がよかったら美術館にゆこう。
(06:33 oct.21 2004)
■「準備公演」が終わった。個人的な感想としては16日の夜の回がもっともできがよかった。だからといって、ほかの回がだめだというわけでもなく、たしかに日曜(17日)の昼は少し出来が悪かったと、何度も「通し」を見ている者の目からすれば感じたが、観客にとってはそれほど印象がことなるわけでもないだろう。今回は俳優たちにこれまで以上に助けられた。様々な面で俳優に負担をかけ、僕の体調も悪かったこともあって迷惑ばかりかけた。
■そのころ青山真治監督はいよいよ撮影に入る、という話を楽日に観に来てくれた『亀虫』の監督冨永君とその映画に出演する杉山彦々君から聞いた。制作の永井のところに舞台を見に来られないというメールをいただいたが、もう撮影に入っているだろうからこの日記を読めないと思うので、どなたかお近くの方は、ぜんぜん気にしていない、気を遣ってメールしてくれたことだけでうれしかったとお伝え願いたい。もちろん、青山さんばかりではなく、様々な理由で見られなかった方もあるにちがいなく、そういったことを僕はまったく気にしていない。
■それにしても、カーテンコールのときがいちばん自分で爽快なのだが、それというのも、どうだ、この役者たちを見てみろと誇らしい気分になるからだ。中地を演じていた岩崎の身長は180センチで、べつに小さくないのだが、柴田と渕野に挟まれると小さく見える。柴田は189センチで体脂肪7だという。マラソン選手かおまえは。で、この「準備公演」には出られなかった佐藤にいたっては190センチだ。ほんとうに鬱陶しいほど背が高い。いや、べつに身長が誇りなわけではない。いろいろな意味で、この人たちと舞台ができることが私にとっての誇りなのだ。
■その後も、いろいろな方が観に来てくれてうれしかったが、『14歳の国』のTVドラマ版を演出してくれたO君が来てくれたとき、終演後、一緒に誰かがいて、なにかぼそぼそっとしゃべってそれからふいっと姿を消してしまったとき、なにを言ったのよく聞き取れず、O君のところで仕事をしているADの人なのかと思っていたのだった。で、O君の日記を読んだら、その青年がシャンプーハットという劇団の赤堀君だと知って驚いた。名前は聞いていたものの舞台を観ていないので申し訳ないが、もう少しはっきりしゃべるべきだと思う。なにしろ外国の方かと思ったほどで、なれない日本語をしゃべらせてしまってすまないとすら考えたのだ。うそですけどね。それはそれとして、挨拶のできなかった方にはこの場を使って劇場に足を運んでくれたことにお礼申し上げます。そして感想のメールもたくさんいただいた。ありがとうございます。
■打ち上げのとき、しばしば話に出がちなのは、稽古の回顧だ。稽古の前半、それぞれ考えてきた方法を使って各場面をやってもらい、それを見て僕が意見し、手直しし、いい部分が少しでも見つかるとそれをきっかけに場面を広げるといった作業が続いたが、いくつかやってもらったなかに、僕がまったく無反応だったときがあってそれは俳優らにとってショックだったという。「うん。じゃあ、ほかのを見せて」とそれだけだったことがあるらしいのだが、あまり記憶にない。おそらく、私にはよくあることだが、それを見ている途中ですでに、べつのことを考えていたのだと思う。それを見ながらまたべつの方法についてそれをきっかけに考えはじめていたのであって、単純に無反応だったわけではなく、それを見せてもらったからこそ、べつの方法について考えが発展していったと言い訳させてもらいたい。あるいは、俳優らが考えてきたことをほとんど手直しなしで舞台にあげた場面もいくつかある。で、僕の仕事といったら各場面をつなげてゆくだけのことなんですよ、結局。こことここは、こうするとつながるといったことを整理してゆく。
■で、一段落。といっても舞台があるあいだに手つかずになっていた仕事は山積だ。というわけで、最初にアップしたのが「ver. 0.5」だが、これは、通常のノートだ。今回、すべてのプレビュー公演を見てくれた方は多いが、数年前の「関西ワークショップ」に参加しいまはテレビ制作会社でプロデューサをしているので、最近はもっぱら「カシP」と呼ばれている貸川もその一人だ。そのとき話をしたのは忙しいと「入れることができない」という話で、つまり余裕がないと出すばかりで、本を読んだり映画を見たりなどできなかったという。いまは少し余裕ができて、なにしろP(=プロデューサー)だし、様々なことを入れられるようになったという。私はまだだめだ。10月23日、京都に行く。映画『be found dead』の上映会があってアフタートークをするからだ。台風は大丈夫なのか。ま、それはそれとしてトークに出席してくださる丹生谷貴志さんの著作を読もうと思っているが、「準備公演」で演出助手をし、映像関係をすべて取り仕切ってくれた相馬(とその兄)から、『死体は窓から投げ捨てよ』ほか、数冊を借りる。これを読まねばならない。読むべき本は無数にある。読む暇がなかったあいだに読みたいと思っていた本を一冊ずつ丁寧に読んでゆこう。ほかにも年末にある、ある舞台の台本も書くのだった。もちろん「ユリイカ」の連載がある。連載がまとまって単行本になったら、来年春からの大学でそれを教科書にしたいと思っているのだ。
■大学の事務的な作業をなんども催促されながらぜんぜんできない。ものすごく苦しむ。本公演の稽古は11月10日からはじまる。それまでに、本をたっぷり読みたいし、仕事を滞りなくすませもしたい。既報だが、映画『be found dead』のDVDはアップリンクから発売される。あと、私は来年からある大学でまた教えることになったが、「演劇」だけではなく、「文芸専修」というクラスでも教えることになりそうである。でもコマ数は増えないというので一安心。「演劇」だけだと、また京都のときのように煮詰まると思っていたので、「文芸専修」で小説などの話ができるのは、それだけでも新鮮だ。
(20:02 oct.19 2004)
二〇〇四年十月前半のノートはこちら →
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