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Published: Feb. 21, 2003
Updated: Nov. 16 2004
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 *遊園地再生事業団『トーキョー/不在/ハムレット』公演(二〇〇五年一月)のお知らせはこちら。 → CLICK

 *「TAMA映画フォーラム」で、11月20日(土)、『
be found dead』が上映される。
  宮沢と森達也監督との対談もある。詳細はこちらのページへ。

 *大阪上映情報。京都に続き、11月20日(土)〜26日(金)、
  『
be found dead』が大阪、十三の「第七芸術劇場」で上映される。詳細はこちらのページへ。


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Nov.15 mon.  「稽古とその他の出来事」

演出する小浜
悩む人たち
相談する者ども
■またしても断腸の思いで、「一冊の本」の連載を休んでしまった私だが、きょうも荻窪で稽古だった。大河内君が休み。いくつかの場面を整理してゆくのと、構成をし直したのでそれを把握し、場面と場面のつながりを考えてゆく。
■で、写真は上から、「演出をする小浜」「悩む俳優たち。岩崎、柴田、渕野、伊勢」「相談する俳優たち」だ。で、ほんとは全員のポートレートをデジカメで撮影し、俳優紹介のページを作ろうと思っていたが、女優陣が口を揃えて、「きょうはだめだ」という。伊勢にいたっては「つけまつげがない」と断固撮影拒否の姿勢である。
■今回、『トーキョー・ボディ』に出ていた小浜は、ニブロールとのあいだに入ってもらい(というのも小浜が以前、ニブロールに出たことがあるから)、演出補といった立場で参加してもらっているのだが、小浜が稽古場にいるとなんだか私はうれしい。落ち着くような心持ちにさせられるのだった。稽古初日、スタッフも含め、全員で自己紹介などしたが、第一回公演『遊園地再生』に出演した大河内君をのぞくと、もっともつきあいの長いのが、『ヒネミの商人』から僕の舞台に出ている小浜だ。次が『知覚の庭』から出ている笠木ということになって、この二人とこんなに舞台を続けるとは思ってもいなかった。二人ともそれぞれに活動の場を広げ、べつの場所でいろいろなことをしているが、それでも声をかければ、僕の舞台を支えてくれる。ほんとに助けられる。

■「準備公演」のときは、体調がひどく悪く、稽古には毎日、遅刻していたし、どこかうつろだったが、本公演の稽古に入ってから順調である。もちろん、原稿や、やらなくてはいけない仕事があって気分は落ち着かないが、それでもからだの調子がいいので稽古場でも集中することができる。疲れが少し取れたのだな。「実験公演」から、「準備公演」の期間が短すぎた。というより、それ以前の、映画の撮影、編集、それから大学の公演などが重なって疲労が堆積していたのだろうと思う。ようやくそれが取れたようだ。風邪が快復したのもかなり大きい。頭がよく動く。もっといい舞台にしてやろうと気力も出てくる。ただ気になっているのは上演時間だ。全体の構成表を見せたら制作の永井から、できるだけ、時間を短縮してくださいと相談される。そりゃあ、わかっているのだがなあ。やりたいんだ。どうしてもこれだけはやってみたいのだ。それだけが悩みどころだ。
■それはそうと、竹中からはあっちのほうの稽古場に来てくれと永井に連絡が頻繁にきているらしい。そっちもやらなくてはいけないのか。あちらこちら命がけとはこのことだ。で、文庫本化される、『サーチエンジン・システムクラッシュ』と『草の上のキューブ』のゲラチェックをしていたが、『草の上のキューブ』を読んだら、どう考えても『サーチエンジン・システムクラッシュ』よりよく書けている。なんで『サーチエンジン・システムクラッシュ』があんなに注目されてこっちは誰からも相手にされなかったかだ。うーん、コンピュータのというか、クラックとかハックが文学の世界ではだめだったのだろうか。いろいろだよな。まあ、しょうがない。
■やらなくてはいけないことが混乱して気が狂いそうだが、ひとつひとつ丹念に仕事をしておこう。それにしても、今月は連載がほぼ全滅だ。気がめいる。

(12:55 nov.16 2004)


Nov.14 sun.  「日曜日だったが」

■以前から告知しようと思っていた11月20日の「TAMA映画フォーラム」で上映される、映画『be foun dead』だが、その公式サイトがわかりづらい仕組みになっている。公式サイトのどこにリンクをはったものか悩んでいたが、あらためて告知することにした。(主催者の告知より)

 映画祭TAMA CINEMA FORUMにおいて、映画界に新風を巻き起こすよう な才能を自分たちで発見し送り出したいとの思いから始まったTAMA NEW WAVEコンペティション。おかげさまで5回目を迎えることができました。今年は5周年を記念して11月20日(土)〜23日(火・祝)の計4日間“TAMA NEW WAVE 4DAYS”として特集上映を行います。
11月20日(土)のオープニング企画は“≪エイガ≫の新たな可能性”と題し、スペシャルなゲストをお迎えします。ジャンルを問わず挑戦しつづける作家、宮沢章夫氏と森達也氏。誰にも似ていない二人の作品に触れた後、世界はきっと違って見えるはず。このプログラム、見逃したらもったいない!!

 12:00−14:15 『A2』[135分/監督:森達也]
 14:45−16:33 『be found dead』[108分/監督:宮沢章夫ほか]
 16:50−17:30 トーク 宮沢章夫氏×森達也氏

会場:ヴィータホール(京王線聖蹟桜ヶ丘駅 徒歩2分)
入場料金:前売り1200円 当日1400円(共に一日通し券)
※チケットぴあ、ローソンチケット他で前売り券発売中

 お問い合わせ:TAMA映画フォーラム実行委員会
 TEL 080-5450-7204(直通)042-337-6661(永山公民館)

 いまようやくわかったが、ここに詳細があった。スケジュール表がずーっと下まで伸びていたのか。そんなに人はこまめに下まで見るのでしょうか。わかりづれえっての。というわけで、今週の末、わたしは森達也監督と会う。楽しみだ。その翌日、大阪へ。忙しいじゃないか。原稿は書けぬ。で、きょうの稽古は休み。原稿に苦しんでいたがつい逃避して眠くなる。あるいは、デジタルカメラの画像を加工して「本公演」用のバナーみたいなデザインをやって気をまぎらわしたりなどしていたのだ。そんなことをやっている場合ではなかった。『サーチエンジン・システムクラッシュ』は文庫本(『草の上のキューブ』も入っている)化されるが、そのゲラのチェックもしなくてはいけない。新しい小説の単行本『不在』のゲラチェックもある。
■竹中からは、「助けてくれー」というメール。助けてもらいたいのはこっちだよ。

(0:03 nov.15 2004)


Nov.13 sat.  「そして稽古はつづく」

稽古場の片づけこの写真になんの意味があるかわからないが、稽古場を片づけている俳優たちである。世田谷パブリックシアターの稽古場に入るまではまた例によって都内の公共施設を転々とする。今回は杉並区が多く、わたしは毎日のように、荻窪まで通っているのだった。あのあたりも住宅街に入ると道が錯綜としている。なにか変な道にクルマで入って行くと、もうお手上げだ。ぐるぐるあたりをまわるはめになる。さらに荻窪駅から歩いてもかなりあり、俳優の大半は歩く。バイクの者もいる。自転車もいる。町はひどく冷えてきた。そういう季節だ。だが、むかしは僕も稽古場には毎日、自転車で通った。いま考えるとものすごく走ったのではなかったか。
■稽古はすでに、「実験公演」「準備公演」をすませているので、かなり芝居はできているが、まだ足りない部分がある。細かい動作の精度をあげよう。つまりは完成度をさらに高める作業だ。余分な動きが少し気になる。あとはどこをカットしようか考えながら作業を進めており、というのも、やりたいことをすべてやると、とてつもなく長くなると思われるからだ。これまでのプレ公演はすべて二時間二〇分だった。これ以上は長くしたくないのは、様々な事情があるのだった。べつに長いといけないわけではないはずだが、劇場の退出時間など、いってみれば、つまらない制約がある。
■大河内君はさすがに面白い。まだせりふが覚えられず苦労しているところもあるが、そんなことはどうでもよくてですね、ただ存在が魅力的だし、ときどきわけのわからない芝居をしてそれが笑う。松田貞治という重要な役だが、いきなり酒を飲んで帰ってくる場面ででたらめな酔っぱらいを演じていた。このやわらかさ。得難い。また異なる質の演技が入ってきた感じが新鮮だった。だけど、今回の舞台の課題のひとつはまた異なる表現の模索であり、からだを中心にした演劇へのアプローチだ。「準備公演」ではクオリティの部分で曖昧だった部分をこの稽古で細かく詰めてゆこう。いまはリーディングで使った台本を少し直したものを使っている(雑誌「テアトロ」にも掲載予定)が、構成も少し変え、また異なる演出を加えてゆく。考える。考える。この一年を無駄にしないように考えるが、試行してゆく稽古のなかで発見がもっとあればいいと思っているし、俳優それぞれに発見があればいい。特に演技だ。異なる演技はどこにあるか。またべつのからだは。

■しばらくは稽古のことを書こうと思っているが、べつのページで各俳優のポートレートを掲載し、このノートがより楽しく読めるようにしたいと思っている。もう本番まで二ヶ月を切ってしまった。今年中には完璧にしていい正月を迎えたい。今年最後の力をいれるところだ。いい舞台をつくることをこころがけたい。

(8:36 nov.14 2004)


Nov.12 fri.  「稽古ははじまっている」

■少し時間が経ってしまったが、この10日から『トーキョー/不在/ハムレット』(本公演)の稽古がはじまったのだった。きょうはもう稽古三日目。本公演から俳優の大河内浩君が参加する。思えば、大河内君とは「遊園地再生事業団」の第一回公演『遊園地再生』に出てもらっている。あれからもう14、5年経っているのではないか。そのときの大河内君の役は、「内田百間(ほんとは門構えに月・ウチダヒャッケン)」だった。ちなみに、『遊園地再生』は手塚治虫キャラクターが多く登場し、アセチレン・ランプ役が「松尾スズキ」、ハムエッグが「吹越満」、ほかには、カフカの役で「山崎一」が出ておりその後、あんなに活躍する人たちになるとは想像もしていなかった。
■稽古は、大河内君のところを少しずつ進めるところからはじめる。これまでやったプレ公演の成果を生かしつつ、戯曲としてある元の台本を構成し直し、本公演はまた異なる舞台になるのは、たとえば、ニブロールが参加することによって当然のように変化するからだ。そして大河内君によってもたらされるものも大きい。大人が入ることで舞台に厚みが増す。ただ、私がまだ、本公演のための決定的な着想を出すことができず、それというのも、まあ、これまで書いてきたようにいろいろあるからだ。で、「ユリイカ」は断腸の思いで今月も休載だ。青土社のYさんにはほんとうに申し訳ないのだった。竹中からはやたらメールと電話が来るが、こっちも稽古やってんだ。台本書いても、結局、稽古でばらばらにされるので、むなしい気分になるが、まあ私はいいとして、ケラと、松尾スズキに申し訳ないのは、そんなわけで、二人の作家性がないがしろにされているからだ。これはまあ、あれか、「名前を貸した」ていどのことなのだな。いまの作業だったら、誰か竹中の言うことを書き起こすライターがいればいいのではないか。
■まあ、それはそれでしょうがない。最初からそのことはある程度、覚悟していたのだ。「竹中が面白い」という舞台になるだろう。それでもいいのだろうな。とにかく私は自分の舞台を重視し、いい舞台にしようと思う。

■準備公演のときより私の体調がだいぶよく稽古も楽しくなってきた。まだ先は長い。で、たいていの俳優はもうすでにせりふが入っている。いくつか整理しなくてはいけない動線があって、まずは、そこから。戯曲をなぞるのではなく、稽古の中でまたべつの発見があればいいと思う。まだ、なにかあると思いつつ。本公演だからこその、なにかを見つける。もっと考える。

(4:43 nov.13 2004)


Nov.9 tue.  「ニュースを見ながらいらいらすること」

■今月はすでに、「資本論を読む」を落としてしまったわけだが、少しずつ調子は上向きになっているとはいえ、いくら上向きでも、竹中の舞台のために世にもくだらないことを考えて書くのと平行し、「ユリイカ」を書くというのはですね、右手と左手でことなる絵を描くようなものであって、もう、綱渡りのような日々だ。しかも、「ユリイカ」に毎日、苦しんでいるし。
■それにしてもあれですか、アメリカに対抗する勢力は「テロリスト」という言葉でなにもかも片づけられてしまうのでしょうか。「テロ」を正しいとはけっして考えないが、なにもかもが「テロリスト」だとレッテルを貼られたら、あらゆるアメリカに対する抵抗勢力、異議申し立ての勢力は「テロ根絶」という根拠で駆逐されることになる。米軍が圧倒的な戦闘力で勝つに決まっている戦争は小刻みに伝えられ、それは数字でしか報じられない戦争という名前の「虚」のように思えて、ニュース映像を見るたびいやな気分になる。そしてまた、「抵抗勢力」の側もまた、香田さんの殺害ひとつとっても、やっている行為がばかにしか思えない。もちろん人道的にまちがっているのは、米軍のペルージャにおける市民を巻き込む戦闘と同様の意味で否定的になるが、それ以上に、抵抗勢力に対する米軍の「テロリスト」という規定に正当性を与えてしまうのを思うとそれは戦略的にまちがっているとしか考えられない。それがなにか効果をもたらしたか。ただ生み出したのは、もちろん米軍の攻撃も同様だが、連鎖する憎悪でしかなかったではないか。
■ここは東京。イラクからはるか遠くにある。戦争は遠いできごとだ。実感を持てと言われても、その実感は、どんなに意識的になったところで曖昧なものでしかない。経済的な豊かさとともに自殺者が三万人を越えている国だ。そして、戦争がニュースとして伝えれ、だが、遠いできごとの、なにか大変なことになっているとしか想像できぬ国では、人は金とセックスのことしか考えていないが、それが悪いとはちっとも思わぬし平和なことでようござんしたと感じつつ、いやしかし、遠い町で戦争が起こっていること、それがもたらすのは、深い場所で展開している人の目に触れぬ確実に進行している政治だ。私は人の欲望を、性的なものも含めある限定された部分で圧倒的に支持するのと同様に、その欲望を戦闘機の襲撃によって脅かされている人をも理解したいのだ。
■そうした世界の中にいることを身体的に感じ、理解しつつ、自分のフィールドである、「演劇」や「小説」の分野で書こうと思う。それしかないだろう。いま、私にできることは。それはもちろん、直接的な戯曲のテーマになりえぬが、そこに生きている者としてただ書くことによって反映するのなら、それにこしたことはない。

(4:02 nov.10 2004)


Nov.8 mon.  「なにもしていない」

■クルマを運転中の携帯電話使用が厳しく取り締まられるようになったのはいいことだ。前を走っているクルマの様子がおかしいときがあってしばしば怖い思いをするが、たいてい携帯で話をしていやがる。で、きのうの夜、クルマで走っていると携帯に着信があった。そのような事情で出られず、応答メッセージのボタンを押したが、それではじめて、「音声メッセージ」という機能があることに気がついた。もちろん、留守電があるのは知っているが、電話があったあと留守電は残されておらず、しばらくその、「音声メッセージ」というやつに気がつかなかったのだ。再生すると、青山真治さんだった。僕や岩松さんの舞台に出たこともある俳優の戸田昌宏君といま飲んでいるから電話したという。まだ、北海道なのだろうか。東京に戻っているのだろうか。撮影の様子は樋口泰人さんが書かれている日記で少し知っていたが、電話をもらってとてもうれしかった。だけど、そうとう酒を飲んでいるのか、ろれつがまわっていない。面白かったなあ。まだ撮影中のはずだが、そういう状況にある映画監督には、どんな時間に電話すればいいのだろう。
■というわけで、ふとなにかを食べたいとどこかへ出かけることはあるが、ほとんど家を出ることなく原稿を書いている。あるいは、原稿が書けないと苦しんでいる。で、苦しめば苦しむほど、この苦しみの原因を自分以外のなにかに求めようとするので、米軍のファルージャ攻撃がいけないのではないか、アラファト議長が危篤だからいけないのではないかと、おかどちがいなことを考えるのだが、もっぱら原因は自分だ。そんなことは最初からわかっている。書けないんだ。書けないものは書けない。パレスチナのことはひどく気がかりで、しかし気がかりになるばかりでなにもしていない自分もいやになる。
■このノートもそんなことばかり書いてなにも生産性がない。これでいいのかい。誰それに会ったとか、どんな本を読んでなにを考えたか、なんの映画に感動したかといったことを書きたいものだが、そんな余裕がない状況を書くのも面白いのかもしれず、そして余裕がないときは、たとえ、なにかを食べようと思って出かけた町の古本屋に入ったところで買いたいと思う本もみつからず、ぼんやり棚に目をやるがそれもうつろだ。うつろな目にはどんな本もこちらにひっかかってこない。けれど、書けない書けないと、唸りながらうずくまっているのも悪いことばかりではなく、それでだいぶ体調はよくなった。つまり、なにもしていないので休養しているということでもあるのだ。なにもしていない。それはそれで大事だと思うことにした。

(5:59 nov.9 2004)


Nov.6 sat.  「いろいろあるのだが」

■最近、私は「東京の地下」のことを忘れていた。やることが多くてあまり考えることができなかった。そうだ、『東京人』に原稿を書いたとき地下を見学させてもらい、それでクルマがレッカーされたんだった。以来、地下のことを考えると腹立たしい気分にもなっていたのだ。久しぶりに「ヨミヒトシラズ」のT君が作っている「地下」に関するブログを読むと、まだ熱心に追いかけており、やっぱり「地下の話」は面白い。ある知人が『東京人』のあの原稿に添えられた私の写真を見て、工事現場でヘルメットをかぶらなくてよかったのかとメールをくれたのもずいぶん前だ。あれは、原稿の依頼がきた時点で、ヘルメットをかぶりたくないというひどく勝手な理由で原稿を書くこと自体、断ったが、じゃあヘルメットなしにしますと編集者が言うので引き受け、撮影のときだけヘルメットを外したのだった。
■で、なぜ工事現場の「ヘルメット」について触れたかというと、かなりむかし、ある建築現場で発生した事故を目撃したことについて書きたいと思ったからだ。もう10数年前に住んでいた家の前の、ある企業の社宅の建物が改修工事をしていた。足場が組まれ塗装の職人さんらが作業していたがその足場から一人の職人さんとおぼしき人が落下したのだ。下が芝生だったので、大事には至らなかったが、足から落ちたからおそらく骨折はしただろう。「痛い、痛い」と悲鳴を上げている。すぐに現場監督らしき人物がやってきた。そして近くにいた部下に向かって言ったのだった。
「おい、ヘルメット持ってこい」
 つまり、落下した男がヘルメットをかぶっていなかったので、現場監督としては、それがもっとも大きな問題だった。笑ったなあ。うめきながら倒れている男に現場監督がヘルメットを無理矢理かぶせていた。それでようやく救急車を呼んだ。事故の一部始終を見ていたが、現場を管理する者の責任としては、落下した男の怪我より、まずはヘルメットなのだった。大事なのだな、「ヘルメット」。この「ヘルメット」が象徴するもののことを考えていた。

■夕方、竹中直人が演出している稽古場に行く。つまりこれですね。久しぶりに緋田康人に会ったが、かつて一緒に舞台をやっていたころの名前でしか呼ぶことができず、「緋田」と声をかけられない。竹中はとてつもなくばかばかしい芝居をしていた。いくつかの場面を見せてもらったが「ばか」と思わず声を出した。だって、ほんとくだらないんだ、これがまた。笑ったなあ。木村佳乃さんは、稽古場に置いてあった一輪車を見つけ夢中になって乗っていた。
■この仕事も進めなくてはいけないが、いろいろあって思うように書けないのだった。まあ、構成案のようなものはすでに渡してある。ちょっとどうかと思うようなでたらめさだ。みんなで笑ったという。俳優たちが楽しんでくれればいいと思う。
■稽古場は高田馬場にあった。近くには美容専門学校など、学校が多く、やけに若い連中が歩いていた。そういう町なのだな。駅前のロータリーではなにかの工事をしている。けれど山手線沿線の少し大きな町で駅前周辺の光景がこんなに変わらない土地も珍しい。

■ネットで新聞社のサイトを読むことが最近はかなり多い。以前も書いたが、これと紙媒体の新聞とでなにが異なるかについて考えていた。ネットで記事を読んだあと、新聞に目をやると記事ひとつひとつの印象がかなり異なることに気がついたのは、つまり、限られた新聞のスペースのなかで「記事」がどれだけのスペースを占めているかというごく単純な視覚から与えられる印象がかなり異なるからだ。ネットで知ったニュースをあらためて「紙媒体の新聞」で見たとき、そのレイアウトのちがいから記事そのものに対する各新聞社の対応がまったく異なるし、片隅の記事は、片隅に小さくあるというだけで、読む者はそれほど大きな出来事ではないと判断する傾向にある。ネットはちがう。ほぼすべての記事が同列に掲載されている。「見出し」も、どの記事も同じ大きさだ。ネットには、「新聞の片隅に小さく掲載された記事」という概念がない。ここに「紙媒体」と、「ネット」の大きなちがいがある。これは興味深い。ネットからもたらされる様々な情報もまた、同様に存在すると思われ、そこにネットの本質的なものがある印象を受ける。
■で、まあ、そんなことはともかく、どうにも気分が上向かないことに相変わらず鬱々しているのだ。竹中の稽古場に行くと気分が晴れるかと楽しみにしていたが、かつてのように、こうした舞台に関わってももうひとつ気が晴れない。だめである。

(17:19 nov.7 2004)


Nov.3 wed.  「自由業の悲しさだ」

■もう11月だが、ふと気がつくとやたら仕事を引き受けてしまったことにいまさら後悔してもおそいものの、引き受けないとなにか不安になるのが自由業の悲しいところだ。それで結局、みんなに迷惑をかける。で、ついつい、「BRUTUS」という雑誌の原稿を書くことにしたのは、二〇〇四年の「演劇」を振り返るといった内容だが、振り返りたくても私は舞台をほとんど観ていなかった。観ることができなかった事情もある。ただ、「私にとっての」といったポイントに主眼が置かれた内容なので、いま私が「演劇」において興味があること、あるいは、問題意識を持つことを書けばいいので、それだったらいくつか書くべきことはあるだろうと思われた。
■あるいは、朝日新聞社のというか、いまは、「小説トリッパー」の編集をしているOさん(映画にも出てもらった)から、最近発見された中上健次の手になるコミックの原作がFAXで届いた。それを読んでなにか感想を書くという仕事。引き受けてしまった。「早稲田文学」からは井土紀州監督の『
LEFT ALONE』について。引き受けてしまった。でもやっぱり、引き受けてつくづく自分のだめさかげんを思い知らされているのは、この年末に上演される、ある舞台の仕事だ。引き受けてしまったことが相手に迷惑をかける結果になっている。その稽古が五日からはじまるが、わたしはほとんどなにも書いていないばかりか、書く気にぜんぜんなれない。しかも、構成を私がすると約束してしまったものの、構成すらする気になれない。勝手にやっといてくれという気分だ。なんてわがままなと思うかもしれないが、そうなんだよ、わがままなんだよ。申し訳ない。
■実業之日本社のTさんと会って食事したのは二日ほど前だ。単行本の話をする。最初に話が出てからもう一年以上になる。なんとかしなければと思いつつも、うまく仕事が進まず、だけど熱心に考えてくれるTさんに感謝し、できるだけのことはしなければいけないが、そういった状況なのだった。自分の稽古も10日からはじまる。「ユリイカ」の原稿がある。「資本論を読む」がある。そして、ブッシュは再選。これがこの20数年のあいだにあった米大統領選でもきわめて重要な選挙だったと、あらためて思うのはその投票率の高さから教えられるが、この国の政府がそれを受けて日米同盟をより強固にするといった発言をするのをニュースで聞いているといよいよ気分が悪くなり、仕事なんかしてたまるかよと、やけくそになっている。大袈裟に報道されるブッシュ再選の表面的な様相よりもっと本質的なところで、きわめてまずい政治は確実に進行しているらしい。そうした状況の逼迫と同時に、私の個人的な逼迫が同時にやってきて、ひどくまずいことになっている。そうした状況に鬱々しているのにも飽きてきた。他人から見たらどうでもいいことにちがいないが、逆に、荒くれてやろうか、ならずものになってやろうかと、誰かれ構わず、ばかだばかだとわめき散らしてやりたいような、わけのわからない気分だ。

■少し気持ちを落ち着けようと思って焼き肉を食べに行った。意味がわからない。

(15:39 nov.4 2004)


二〇〇四年十月後半のノートはこちら → 二〇〇四年十月後半