不在日記十一月タイトル写真1 | PAPERS | 京都その観光と生活 | 市松生活 | からだ | トーキョー・ボディ | 松倉ライブ日記 | 富士日記 |
不在日記十一月タイトル写真2
不在日記タイトル文字

宮沢宛メイルアドレス
ローソン前の男たち
「トーキョー/不在/ハムレット」告知
東京の通り

二〇〇四年四月前半 二〇〇四年四月後半
二〇〇四年五月前半 二〇〇四年五月後半
二〇〇四年六月 二〇〇四年七月前半 二〇〇四年七月後半
二〇〇四年八月 二〇〇四年九月
二〇〇四年十月前半 二〇〇四年十月後半
二〇〇四年十一月前半 二〇〇四年十一月後半

"■" RINGS
ここではありません。
タンブリン・ノート
ヨミヒトシラズ
ANAMANIA
下北沢スタジアム
Matatabi Online
LOOKING TAKEDA
ここであいましょう
あわわアワー
ボクデス on the WEB
Superman Yellow
more...
more...


Published: Feb. 21, 2003
Updated: Dec. 1 2004
Copyright (C) 2003
by the U-ench.com


 *遊園地再生事業団『トーキョー/不在/ハムレット』公演(二〇〇五年一月)のお知らせはこちら。 → CLICK


WWW を検索 u-ench.com を検索
Nov.30 tue.  「意気消沈する経済の壁」

■かなりいい調子で稽古は進行し、むしろもう、かなり細部を直してゆく作業をしているが、そんなことより意気消沈したのは「美術」が思った通りにできないことだ。美術費にあてた予算じゃぜんぜん間に合わないらしい。経済の壁だ。意気消沈して稽古していてもうつろになる。変に安い予算でなにか作るのならなにもないほうがいいと思えてきた。スリットをやめ、本来なら「スリット越しに見える芝居をカメラで撮ってプロジェクターで投射」だが、「ただ、少し奥でやっている芝居」を生中継するというのはどうか。それでいけない理由がない。遠くのほうでなにかやっているのがぜんぶ見える。悪くはないな。
■稽古を終えて家に戻ってから美術を根本的に考え直そうと決意した。ゼロからのやり直しだ。すると俳優の動線も変わってくるので、もう一度、そこから稽古をするしかないが、できなくはない。時間はまだある。ただ、どうするともっとも最善か、その構想がまだ、うまくまとまらない。なにかヒントはないかと、画集など見たり、記憶の中にあるなにかを探す。気分は落ち込むがそんなとき、長野のHさんからメールが届いてうれしかった。
プレ公演をずっと見せていただいていて実感していることなのですが、たぶん今度の本公演は何か歴史に残る名芝居となるような気がしてなりません。学生のときにヒネミをみせていただいてから宮沢さんのお芝居をいくつも見せていただいておりますが、今度のはちょっと桁が違うような印象をもっています。
 まあ、「歴史に残る名芝居」にはきっとならないとは思うものの、そんなふうに書いてもらえてありがたかった。いま私たちが稽古しているパブリックシアターのべつの稽古場では、あの『子午線の祀り』の稽古をしている。すぐそばでそれこそ日本の演劇の歴史に残る舞台の稽古場がある。すごいよ。同じ場所でたいへんな役者さんたちがやはり稽古し、ある時間と空間を共にしているような奇妙な感覚だ。そういえば伊勢がエレベーターで野村萬斎さんと一緒になったと興奮していた。萬斎さんとは少し話をしたことがある。すごく勉強している方だった。僕が話したチェーホフの「喜劇」について興味をもたれたようだった。そうだ、『子午線の祀り』は見たいな。いま、この時代に、その舞台が上演されることの意味と、もっとべつのことを確認するために見たい。

■稽古はいくつかの場面を反復する。冒頭の三坂の芝居を考え直す。それから島村幸彦を演じる佐藤の芝居をなんどかやってみる。だんだんよくなってきた。パンフレットの編集をしてくれる白水社のW君が稽古場に来てくれたが、W君も時間がなく、僕も稽古に集中していたのでなにも話ができなかった。それにしても、「美術」のことだ。ゼロから考え直そう。白紙にする。わたしは意気消沈したのだった。まあ、しょうがない。そんなふうにして11月も終わった。

(11:04 dec.1 2004)


Nov.29 mon.  「さらに稽古は進む」

■あまり稽古するところがなくなってきた。ちょっと稽古しすぎだよ。それでも反復することでようやくわかることもある。細かいことを演出してゆくというよりそこから出てくる本質みたいなものがなにか把握しようとつとめる。それで必要なのはどういったことか見極める作業だ。何度も見ることでわかることもある。
■いま稽古ではまずストレッチを一時間やる。それでからだをほぐす。怪我をしないためだ。そのあと、声がすぐ出せるようにと、劇中にある、ほぼ全員が出てせりふをたたみこむように発するある場面をとにかく三回流す。演出もなにもなくただ三回だ。少しずつテンポを速めて三回。さらに、円になって座り同じ場面のせりふをまったく感情を入れずただ早口でまくしたてるのを三回ほど。ものすごいスピード。なにを言っているのかわからない。とにかく速度を競う。よくある演技での感情とかそういったものをまったく排除するのが気持ちいい。途中でまちがう人がいるとまた最初からやりなおし。これは須田を演じている鈴木が稽古場に持ちこんだものだが、なんだか面白い。きのうは僕が原稿を書かなくちゃならなかったので、夜以降、自主稽古にしてもらったが、その成果はかなりあった。うまくいかないと書いた「風俗店」の場面の基本形はほぼできていた。さらに卓球のラリーもスピード感が出て試合をしている感じになってきた。もっとよくなるな、きっと。さらに、三坂の「さあ」が面白い。大河内君が松田貞治を演じる、松田家も、大河内君が積極的に、その息子鶏介を演じる熊谷、娘杜李子の田中にアドヴァイスしてくれ、動きがよくなった。田中はよくなったとはいえ、まだまだ。大河内君と演じる場面が多いのはいい刺激になるだろう。
■もちろん、もっと安定させようとは思うが、できるだけ全員が稽古できるようにと気を遣いながら、いま誰が稽古していないか見計らいつつ、次はなにをするかその場で決めてゆく。ある劇団では、稽古のスケジュールをきちっと決め、何時から何時までどのシーンだから、そこに出ていない人は稽古場にいなくてもいいとか、それぞれ入り時間を変えるというきわめて合理的な方式を採用しているそうだ。それはすごく合理的だ。それはいい。ぜったいにいいだろう。ただ僕は稽古を見ることも稽古だと思っているので、なにもしなくても稽古場にいるのが必要だと思うし、稽古場にいることが、そもそも稽古だと思う。芝居してればいいってもんではないのじゃないだろうか。ただそこにいるだけの不合理だ。どこまでも演劇は不合理だと私は考える。
■終わってから、舞台監督の森下さん、美術の武藤、演出補の小浜らと打ち合わせ。予算がなあ。やりたいことができない。ちょっと憂鬱な気分になった。っていうか、その打ち合わせの場所に行く途中、稽古場のある建物の駐車場でクルマをこすってすでにその時点でいやな気持ちになっていたのだった。家に戻ってメールをチェックすると原稿の催促ばかりだ。やはりきょうもまた、残念なことになっている。

(11:19 nov.30 2004)


Nov.28 sun.  「モンスターとしての夏郎治」

■夕方の六時に稽古をいったん終了しあとは自主稽古にしたのは、僕が危機的状況になったからだ。あしたの朝までに原稿がないと、ページが白くなると「小説トリッパー」のOさんから連絡があった。目次にもう名前が入っているんだろうな。さらに、「考える人」もある。でも、午後の何時間かは稽古ができた。
リハーサル中舞台正面がスリットになってその内側、つまり奥に演技スペースがある。そこで演技される芝居は生中継としてプロジェクターでスクリーンに投射されるが、動きのある風俗店の場面がうまくゆかない。実験公演ですでにやったことだが、これはもうすでに、演劇的なものではない。いかに映像のフレーム内におさまるか、造形としていかにきれいに見せるか微妙なことが要求される。俳優がうまく動けない。渕野と柴田(きのうの写真でただ立っている二人)は身長が190センチ近くあり、立つとフレームから頭が切れてしまう。その絵がちょっと笑う。四人の登場人物の動きが定まらない。うまくゆかずいらいらしてきた。はじめて稽古したというわけではないのに、以前決めたことが守られていないことにいらつくのだ。
■そういったいくつか問題のある場面をのぞくと、ほぼ芝居の基本はできており、稽古はたいてい場面をいくつもつないで流してゆく。大河内君もほとんどせりふが入った。元々、芝居がうまいので安心して見ていられる。というか、うますぎるような気さえする。大河内君とはじめてあったのは、もう20年近く前になると思うが、そのころからうまかった。で、その大河内君が「牟礼夏郎治」を演じるにあたって、夏郎治をこの劇世界の中の「モンスター」として解釈しているのは面白かった。まったく正しいと思われ、僕もそのような存在として意識していたが、「モンスター」という言葉は浮かばなかった。それで役をかなりデフォルメして作った。これが怖い。なにしろモンスターだ。若い俳優にも大河内君が適切にアドヴァイスしてくれる。稽古場がいい感じになってきた。
■家に戻って原稿を書く。深夜にようやく書き終える。眠い。それでもまだやることがある。でも、次から次へとそう仕事ができるわけもなく、さすがに疲れた。竹中の舞台の制作をしているNさんからメールがあり、僕が書いた台本が届いたことで稽古場が明るくなったとのこと。よかった。あっちの稽古場にも行きたいが時間がむつかしい。あと、舞台監督の森下さん、美術のプランを実際に設計してくれる武藤から、いまのままでは予算が足りないとの報告。なんてこった。でも、まあ、きっとなんとかなる。

(9:23 nov.29 2004)


Nov.27 sat.  「不思議なこともあるもんだよ」

■稽古を終えて家に戻ると夕刊に「島田正吾さん死去」という記事があった。とても驚く。この20年間ぐらい、というかほぼずっと、「島田正吾」を意識したことは数少なかったと思うし、記憶をさかのぼってももう10年は確実にその名前を口にしたことがなかった。驚いたのは、その日の稽古のあいまに大河内君と雑談していたとき、たまたま島田正吾さんの話題になったからだ。NHKの時代劇で共演したことがあるという。カメラに写っている顔半分は演技をしているが、もう半分で大河内君に向かって怒っていたという。「勉強させてもらった」と大河内君は言い、「まだ生きてるんだからすごいよね」と僕は間抜けなことを言ったのだった。驚いたな。不思議なことがあるものだ。で、島田正吾さんの出発点である「新国劇」という種類の演劇とその創始者である「沢田正二郎」について書き、この国の演劇の歴史を少し考えようかと思ったけれど、それより私には書くべき仕事があるので、またにする。
■やはり午後から稽古だった。いくつかの場面を抜きでやってゆく。まだ整理されていない場面をいくつか。もっとも時間をかけたのは、「島村家」の場面。この島村家には原作では、姑がいて、その長男幸彦、その嫁巻子、次男幸森、幸彦と巻子のあいだに綾という三歳の娘がいるが、舞台に出てくるのは、幸彦、幸森、巻子の三人である。戯曲の問題もあるが、どうもこの三人(俳優)が家族に見えない。これまでプレ公演すべてに関わっていた幸森役の上村と巻子役の笠木は距離が近くなっているが、幸彦を演じる佐藤が、うまく関わっていない。細かく演出。演出でどうなるもんではないところもあって、もちろん技術も必要だが、技術もそれ以前の俳優同士の関わりのなかで出てくるように感じる。まだ時間が必要だし、ただ反復だ。納得がゆくまでにはまだ時間がかかりそうだ。佐藤は無名塾に所属しているが、これまで一度も、日本人を演じたことがないという。急になあ、そういう人が、このねっとりした北川辺町の住人になるのはむつかしいだろうと思いつつ。
パンフレット用の撮影夕方からパンフレット用に俳優全員の撮影。デザイナーの斉藤さんと、カメラマンの引地さんが稽古場に来てくれた。写真は、その撮影模様を僕がデジカメで撮ったもの。壁に白い布を垂らし、ばか二人が踊っている。背の高い二人がただ立っている。パンフレットも着々と作業が進んでいるようだ。今回はいろいろな意味でにぎやかな公演になってそれが楽しい。たくさんの人が協力してくれる。で、桜井君から音楽のサンプルが届けられ、たとえば、『ウナセラディ東京』のボサノバ版といったものを作ると、桜井君、ほんとうまいな。こりにこってる。さらに、オープニング用にと作ってくれた曲はドラムンベースなんだけど、かっこいいなあと思って聴いていたら、ちゃんと、この舞台のテーマ曲ともいうべきメロディーが流れている。あといま心配なのは卓球だなあ。卓球のラリーしながらせりふを発するのはきわめて困難だったが、きょうは、せりふ言い終わるまでラリーが続かなければ、途中で、やり直し、また最初からという稽古をした。ぜんぜん終わらない。えんえんラリーの稽古。途中、気合いを入れるためか、三坂が、「さあ」と福原愛のような声をあげていた。
■体調はかなりよくなったとはいえ、さすがに睡眠不足だ。少し疲れた。土曜日のノートが書けなかったのは原稿を書いていたからで、竹中の舞台の台本も書いた。向こうは稽古日数も残り少ない。このせりふ覚えきれるだろうか心配になりつつメールで送った。あ、そういえば、青山真治さんの「名前のない日記」が終わるそうだ。残念。青山さんの決意表明ともいうべき言葉に私も熱くなった。

(10:15 nov.28 2004)


Nov.25 thurs.  「原稿もあれば、稽古もある」

■午前中、原稿を書こうと思ったが書けない。「考える人」の連載もあることを思い出した。暗い気分になる。
■青ざめたのは家を出ようと思ったらカード入れが見つからなかったことだ。免許証が入っている。クレジットカードから銀行のキャッシュカード、ほかはたいしたものじゃないにしても大事なカードが何枚も入っている。かばんの中にない。ジャンパーのポケットにあるかと思ったが出てくるのはごみばかりだ。もしかしたらクルマのなかに忘れたのじゃないかとガレージまで探しに行く。よくクルマの座席の下にものを落としがちで、座席の下ってのがほんと探しづらくてですね、しばしば苦労するが、第一、暗いのがいけない、狭い、いらいらしてきた。ここにも見つからない。だんだん焦ってきた。ことによると昨夜、ジャンパーのポケットに入れていて、たしかゆうべはあまり寒くなかったので身につけず、手でさげてガレージから家まで帰ったが、あのとき、ポケットから落としたのではないかといやな予感がしてきた。はじめはすぐ見つかるだろうとたかをくくっていたが、徐々に焦りが高まる。もう稽古の時間だ。「ない」ことにもっと早く気がついていれば稽古に遅刻しなかったが、家を出ようとする直前に「ない」ことで慌てているのが愚かである。ない。あせる。
■結局、家の中を落ち着いて探したら見つかったが、稽古をする前からもうなんだか疲れてしまった。それでも稽古は続く。

■基本はできているがまだ、芝居としてきちっと成立していない部分、もっとよくなるはずの部分を細かく稽古してゆく。舞台奥に、『トーキョー・ボディ』のときと同様、スリットで隔てられた空間があってそこで演技する俳優はカメラで中継されスクリーンに投射されるが、フレームの中に収まるためには(しかも絶妙な位置に)立ち位置をきちっと決めなければならず、それがむつかしいのは、俳優は演劇とは少し異なる作業を強いられるからだ。あるいは、プレ公演にあまり参加できなかった佐藤と、笠木は夫婦という役だが、どうやっても夫婦の関係が成立していない。これがしっかり土台としてないと、その妻が義理の弟と性的な関係になることのねっとりとした危うさが表現されない。そういったことを細かく詰めてゆく。
■夕方から、「
SWITCH」という雑誌の取材があって稽古場の写真をカメラマンの人がずっと撮っていた。するともう、俳優の意識が少し変わり、取材があることはきのう伝えてあったが女優の何人かは化粧している。そして三坂は、脱ぎたくて仕方がないとばかりに、「あそこ、やりますか」と身を乗り出す。わけがわからない。
■大河内君は、松田貞治という松田家の父と、牟礼夏郎治という二役だが、夏郎治が妻を抱きながら言葉をかける場面を少し稽古した。自分で動きをいろいろ考えていて面白かった。こここうして、こうなってと、やってみせてくれる。そして、妻の衣装について僕はガウンがいいとイメージしていたが、大河内君が、「ふつうの主婦のような格好のほうがいやらしいでしょう」とそんなことまで考えていた。笑った。夜、10時少し前に稽古終了。
■稽古場を出てから、三軒茶屋の夜遅くまでやっているカフェで「
SWITCH」の取材。プレ公演をすべて見ているライターの徳永さんがインタビュアー。疲れていたが話が面白かったのでずいぶん話す。取材を終えて家に戻ったのはもう深夜の12時を過ぎていた。疲れた。原稿があるが書けない。困った。で、だったらこのノートを書くより原稿を書いたらどうだという話になるがこのノートもまた、「劇」の一環であり、これも、『トーキョー/不在/ハムレット』の一部だ。だから毎日、書く。記録として。そして、稽古場が外側に開かれていればと。さらに、オープンソースの精神だ。少しでもこのノートを通じて私たちの方法が外に伝わればと思う。インターネットはおそらくそのようなメディアとしてある。深夜、メールチェックをすると編集者のメールばかりだ。残念なことになっている。

(11:00 nov.25 2004)


Nov.24 wed.  「稽古再開」

■世田ヶ谷パブリックシアターの稽古場がきょうから使える。稽古で使う小道具など荷物をいつもだったら僕のクルマに積んで移動していたがこれからは稽古場に置きっぱなしでいい。俳優全員とスタッフが揃い、さらに演技エリアを確保するとパブリックの稽古場すら狭い。多いよ、人が。俳優らは壁際にしかいられない。最初の一時間はストレッチをみっちりやる。というか、僕が遅刻したのだった。なんと申しましょうか、きのうの、竹中のあれがあって、なにやらいらついていたせいか昨夜、眠れず、変な時間に眼が覚めたし、朝はぐだぐだだった。稽古再開にあたってなにごとだ。
■そして、いきなりで申し訳ない話だが、「通し」をやってみたのだった。もう「通し」かよ。初日までまだ一ヶ月以上ある。スタッフたちに見てもらうことと時間を計る目的。2時間45分だった。長い。どこかを削らなければならない。少しずつ切りつめてゆけばいいと思うものの、どこをどう削ったらいいか悩むのだ。映画と演劇のちがいは数多くあるが、劇は稽古場で俳優と常に一緒にいるという大きな問題があり、俳優の顔を見ているとどこを切るか悩むのだ。このあいだ映画の編集をして思ったのは俳優がそばにいないせいで、ばっさばっさ切ってゆくことができるのは仕事がしやすい。悩みどころだが心を鬼にして切ろうと思うのは、べつに長いからいけないということではなく、劇場の退出時間が午後10時だからだ。開演が7時半で退出に間に合わない。まあ、つまらないっちゃあつまらない理由。で、自分で書くのもなんですけど、飽きなかった。大河内君が絶好調だ。松田家の父という役だが、でたらめな登場である。ぐでんぐでんに酔っぱらって帰ってくる。しかも台本にないわけのわからないことを口にして。
■舞台監督の森下さんは、べつの仕事があってプレ公演を通じてはじめて観たが、「もうできてるんじゃないですか」と驚いたように言っていた。たしかに基本はできた。まだ稽古が足らないと思われる。ただ反復。これからもっと磨く。終わってからスタッフ会議。美術を手伝ってくれる武藤、照明の斉藤さん、音響の半田君らと美術プランなどの詰め。いつもの強力なスタッフ陣である。ニブロールで映像を担当する高橋君も加わっていよいよはじまる。森下さん、武藤と作り物の詰めをしているあいだ、鈴木、浅野の映像班は、高橋君と打ち合わせをしていた。

■そういえば、「通し」のとき伊勢のことを、みょうに力が出てないと思って見ていたが、「肉離れ」をやったという。あばらにひびは入るし、肉離れだしで心配だ。というか、伊勢にはじめて会ったのは数年前、まだころころしたからだつきだったのが、しばらく会う機会がなかったある日、いきなり痩せていて驚かされ、あの急激な体重減はからだによくなかったのではないか。はじめて会ったころの伊勢はでかかった。身長もあった。でかかった。このあいだ、映画『
be found dead』のDVDに特典映像としておさめられる上映会のアフタートークの映像をチェックしたら、七月の青山真治さんとのアフタートークと、このあいだの森達也さんとのアフタートークでは、僕の体重があきらかに異なると思われる。いちばんからだがしんどかった七月の私はやせている。このところ体調がよくなったのは体重が増えたせいだろうと思ったのだった。人間、「肉」は必要ですね。俺はこの冬、意地でも風邪をひかないぞ。死んだ気になって風邪から身を守る。あと、笠木が風邪をひいたときの鼻声も人を不安にさせ、あの幸森と二人だけになった部屋での場面、なんと申しますか、セクシーさがまったくなくなって、なんだこれはという気分になるのだ。三坂は少しぐらいからだを壊したほうがいいような気がする。寝込んだと話を聞けばみんながほっとするのではないか。そうそう、三坂はすでに稽古場で率先して脱いでいる。

(10:35 nov.24 2004)


Nov.23 tue.  「仕事は次から次へと」

■大阪のM君(きのうの写真でビールを飲んでいた人)経由で、映画『be found dead』の感想を書いてくれた方のサイトを読んだが(ほかには、イズミヤさんという方の感想もこちらにある)、僕の作った『川』についての感想、それはちょっと、考えすぎだ。そんなに大それたものじゃないよ。たいしたものじゃないって。ただ最後の実景、そうです、あの「世界の車窓から」をまねしたというあれ(って、うそですけどね)に、詩人が語る言葉が流れる映像を描きたかっただけなのだった。青山真治さんが、その実景を「圧巻」と少し慰めてくれたのではないかと思われる言葉を書いてくれたあの映像が撮りたかっただけでしたよ。あと、ほとんどなにも起こらない、どこにでもある家庭のなにもなさ。なにもおこらない。たいしたことないですよ。かなりいいかげんに作っていたのだ。『イマニテ』もほとんどなにも起こらないし。まあ、なにも起こらないことをしたかったとはいうものの、なぜ、洗濯機にカメラが寄るのかわけがわからないけど。大阪では「第2話」が評判がいいような印象。よかったなあ、浅野。すごくがんばって作っていたからな。
■またせっぱ詰まった原稿があるが竹中直人の舞台の稽古場に行き、相談。よし、これでゆこう。こうすると、かなりまとまると家に帰ってその台本を書いていたらまた竹中から思いつきであろうと思われるメールが届いて、僕の構想ががたがたに崩れ、途中まで書いたラストシーンが無駄になって徒労感。書く気がまったくなくなった。もう書かないぞ、てこでも動かねえ。そういったことも含め、全体を見渡して稽古の進行をまとめてゆくのが演出家の仕事だしそこが演出の苦しいところ。せっかく書いてくれたケラの台本もまったく使わないと言うし、ケラに申し訳なくて困っている。ばかやろう。作家をなめるのもいいかげんにしろ。入れられるよ、俺が演出していたら強引にでも入れた。だからその舞台のパンフレットにも書いたが竹中と仕事をするとろくなことがないのだ。時間があれば、自分で演出がしたい。ま、しょうがない。
■ただ、竹中の途方もないくだらなさは必見。ほんとにくだらない。見せてもらったが大笑いした。あと緋田、大堀、井口が面白いし、きょう見ていたら、木村佳乃さんがシリアスに演技すると面白くてひどく好感を持った。ただ、竹中は「構造的なコント」ないし、「構造的なスケッチ」にまったく興味がないので、むしろ、ひどくわかりやすい笑いに流れがち、なぜ、俺たちを呼んだんだ、おまえは。まったく松倉とほとんど同じ。すごく似ている。このわがままさ。松倉とほかの学生が一緒にやってゆくのがむつかしいのはそういったことなのだな。まあ、演出家は少々のわがままがなければいけないとはいうものの。

■夜、制作の永井が家に来て、もろもろ打ち合わせ。いよいよあしたから三軒茶屋の世田ヶ谷パブリックシアターの稽古場に入る。本格的な稽古だ。
■それにしてもなんだなあ、五月から連続してきたプレ公演だが、私の意識はつねに、「プレ公演だからさあ、いい加減な気持ちでやる」ということだったが、「リーディング」にしろ、「実験公演」「準備公演」など、思いのほか、しっかり作ってしまってですね、「いい加減にできない」といった性分があるのだ。しっかり作らずにいられない。特に映像の企画ができたときなど、もう、これいいかげんにやろうよ、適当に作るというコンセプトでやろうとみんなとも話していたが、みんなしっかり作る。それを楽しんでくれた。私は腰が痛くて立てず、演出する気力もなく必然的にいいかげんだったが。
■「小説トリッパー」のOさんから何度か電話。原稿の催促。中上健次のこと。書けない。申し訳ない。ところで、こんな時間に眼が覚めてしまった。あした本格的な稽古初日なので早く眠らなくてはいけない。なぜか早寝したつもりがこんな時間に眼が覚めてしまった。「小説トリッパー」の原稿を書こうと思うがやはり眠い。竹中のことも助けたいがうまくいかない。竹中、また思いつきでなにか言ってくるだろうし。いやだいやだと思いつつ、長年のつきあいだから、一緒にしっかりしたものを作りたい気持ちはやまやまだが。

(5:03 nov.24 2004)


Nov.22 mon.  「多摩へ、大阪へ」

■とても楽しい三日間だった。映画『be found dead』が、東京の多摩と、大阪で上映された(大阪は26日まで上映中)からだ。
■土曜日(20日)は多摩の上映後、舞台で森達也監督と話をさせてもらった。意外なところで接点があったのはひどく不思議だ。過去の話。とても面白い対話になったが、「天皇」について森さんが語る話はとても興味深く、もっと聞いていたかったのと、森さんが作る予定の「
NONFIX」でのドキュメンタリー(テーマが「天皇」)を早く観てみたい。僕も森さんも忙しく、終わってから話ができなかった。また今度、会いましょうということになってその日は別れる。で、この日、『be found dead』の各話の監督が勢揃いして上映前に挨拶をしたのだが、そのあと、僕以外の、鈴木、浅野、冨永の三監督は、『トーキョー/不在/ハムレット』の上演時、劇場で販売するパンフレットに掲載される座談会があった。進行は白水社のW君だ。僕がいると三人がなにもしゃべらないという制作の永井の配慮で僕ひとり先に帰る。上映には『トーキョー/不在/ハムレット』に出演する俳優らが何人か来てくれた。このメンバーの熱心さにはほんとに頭が下がる。そういえば、ある人から、「TAMA映画フォーラム」で上映会場にあてられた京王線の「聖蹟桜ヶ丘」についてその名前の由来を教えてもらったのだが、それはまた次の機会に紹介しよう。とても面白い話だった。
■日曜日(21日)、大阪へ。十三という町にある「第七藝術劇場」で『
be found dead』が上映中である。新大阪駅まで、今回の上映を手配してくれた、M君とSさんが迎えに来てくれた。タクシーで十三の町へ。なんだか面白い町だった。アフタートークは、いまはもうなくなってしまった「扇町ミュージアムスクエア」にいた吉田さんとの話だ。吉田さん、ほんといい人だ。話がはずむ。かつて僕の舞台の演出助手をしていた宮森や、うちの大学の学生らが来てくれた。M君の知り合いで、10数年前にラジカルの舞台を観ているという方も来てくれてうれしかった。打ち上げで久しぶりによけによくしゃべった。映画の評判もそこそこよくて、気分よくその日は終えたが、けれど、そこからが私の死にものぐるいの闘いである。
■ホテルにチェックインしてからすぐに、「早稲田文学」の原稿を書く。ああでもない、こうでもないと文章をこねくりまわす。朝五時に書き上げメールで送信。六時にようやく眠る。でも、アフタートークにしろ打ち上げにしろ、楽しかったせいか、原稿も気持ちよく書けた。眼が覚めてからメールチェックしたら、「早稲田文学」のI編集長から原稿を受け取ったとの返事。送信時間が午前六時過ぎだ。すごく早い。面白かったとのことでほっとする。

ビールを飲むM君とSさん翌朝、といってももう午前11時を過ぎていたがホテルをチェックアウトしようと思ったら、M君とSさんがロビーで待っていてくれた。ホテルのカフェでコーヒーを飲んで目を覚ましたあと、十三で食事。自分で焼くというたこ焼き屋に入る。写真は、昼間からビールをのんで調子のあがったM君とSさんである。たこ焼き。お好み焼き。焼きそば。美味しかった。もっと大阪でのんびりしたかったが、さすがに眠い。新幹線のホームまでM君とSさんは見送りに来てくれた。今回の大阪の上映に際して、二人をはじめ、KさんやYさんに、とても助けられた。
■帰りの新幹線で考えていたのは、『トーキョー/不在/ハムレット』のプレ公演のことだ。今回は、ひとつの戯曲を様々な方法でアプローチしたが、もっと異なるやり方があったのではないかと思えた。それはたとえば、「島村家」だけの話を広げそれを一時間程度のドラマにするとか、「ローソン前」だけでもいい。『トーキョー/不在/ハムレット』の本編には描かれない隠されたドラマがあるはずで、省略された部分をすべて出す。それが「不在」という大きな物語になるような長い期間の劇があってもよかったのではないか。次はそんなことをやってみよう。というか、来年、一月の公演のあとでそういった散発的な舞台をやるのも面白いと構想していたのだった。
■でも、それはまだ先のことだ。やるかどうかわからないし。可能か、どうかも。大事なのは、いま、ここ。24日からまた稽古を再開する。

(10:12 nov.23 2004)


Nov.19 fri.  「稽古は一区切り」

五人の巻子、稽古中土曜日は「TAMA映画フォーラム」で、映画『be found dead』の上映がありアフタートークで森達也監督と話をする仕事もあって稽古は休み、そのあと僕は大阪にゆき、大阪でも上映(20日から第七藝術劇場)とトークがある(トークは21日)。というわけで、稽古はひとまずしばらく休憩に入る。次は24日から。いよいよ本格的な稽古だ。
■田園都市線、桜新町の駅から少し歩く公共施設をきょうは使う。流浪する演劇人だ。部屋は狭かったが卓球台があった。「卓球の場面」を中心に作ってゆく。ほぼ芝居の形はできているがもっと磨いてゆく作業と、なにかさらにできるのではないかと反復する。演劇はただただ反復だ。反復することでようやく発見することもある。

■大河内君はさらに、場になじんで、共演する者らとうまく接触することができつつあるのではないか。いい方向に向かっている。もう、演劇ってやつは、ずっと同じ場所にいなければいけない、ただからだが表現の根元ということがあってですね、ごくつまらないように見えるこうした人との関係がかなり重要になるのは、もう何年もやっているとわかってくる。ただ、だからって、稽古場で他者と出会うことで刺激を受けることのたいせつさもあって、「劇団」、固定されたメンバーの「集団」を否定しないが、なにもかもわかってしまった仲間と空間を共にするのがいいか、そうではない刺激を重視するかは演劇観のわかれるところ。まあ、「集団論」についてさらに考えるともっと複雑な言説になるが。
■小さな劇団でも、いまはどこも、ある程度、技術的にうまくなっているのではないか。ドラマもきちんと書いていることだろう。うまくできているだろう。それが面白いか。演劇の世界を覆うある種の「新保守主義」から遠ざかり、かといって六〇年代の性急な演劇解体にも有効性のないいま、どこになにを求めるか。やることがあって時間はないが、24日の稽古再開に向けてさらに考えることはあるのだった。ニブロールに私は期待する。矢内原美邦に後押しされる。そして、「早稲田文学」の原稿も少しは書いているのだ。あと、比較的、自由にやらせてきた俳優の演技だが、またべつの表現を獲得し開拓するためには、もっとすることがあると、きょうの稽古を観ていて思った。これまでのプレ公演で「基本」はできた。さて、これからだ。
■で、俳優それぞれを写真入りで紹介するページを作ろうと思っているがその時間がない。近日公開。するとこのノートも、ああ、この名前の人がかこんなかおをしているのだなと、理解できて、より親しみやすくなるのではないか。それはまた、大阪から帰ってきてからだろうな。てなわけで、稽古は進む。

(6:02 nov.20 2004)


Nov.18 thurs.  「ストレッチを一時間ほど」

■夕方からやはり西荻窪で稽古だった。で、私はいま早起きなので、午前中に仕事をし一月に文藝春秋から刊行される小説『不在』のゲラチェックを終えた。ひとつひとつ仕事をまとめる。竹中直人からはメールがやたら届き、稽古場に来てほしいとのことだが、松尾スズキが、いま舞台をやっているにもかかわらず休演日を使って竹中の稽古場に顔を出してくれたとのこと。松尾君にそのあとのことを頼もうと思いつつも、でもやはり、僕もなんとか竹中を助けようとやりくりしているのだ。メールでアイデアを送る。
■午後、「早稲田文学」の原稿を書こうと思ったが、ひどく眠い。早起きしたせいだ。眠ろうか、原稿を書こうか逡巡しているうちに時間は過ぎてしまい、あ、まずいと思っているうちに稽古に出かける時間になった。外は雨である。環八という幹線道路から五日市街道に入ったら思いのほか道が混んでいた。途中よく見たらガソリンがないと表示されているので給油。以前、「群像」という文芸誌で青山真治さんと対談したとき、僕が「カーチェイスに給油シーンは省略される」という話をしたら、なにかの映画で給油する場面があって、「観ている者はそれをつまらないシーンだと感じているのではないか」という意味のことを青山さんは話していたが、つまり、「給油」ってのはきわめて「非映画的」なのだろうとあとで考えた。ところが、「人の食事」はどこか映画的だ。しばしば映画のなかで人は食事をしている。「給油」と「食事」はどこか似ていながらなにが、「映画的」か、「非映画的」かをわかつのだろうといったことを考えつつ、環八沿いにあるガソリンスタンドで給油が終わるのを待っていた。
■五日市街道から西荻窪の駅南にある稽古場を探して入り組んだ道を走る。また奇跡的に稽古場に到着した。

■パパタラフマラに所属している熊谷の指導で、まずストレッチを一時間ほどやる。というのも12月からダンスの稽古がはじまるのにあたって単純に「怪我」をしないためだ。僕もかつてはストレッチをばかにしていた。というか、集団でそんなことをすることにむしろ否定的だった。ニブロールの矢内原さんもアップなどばかにしていたというがある日、足の腱を切って以来、ストレッチを入念にやるようになったという。ここは考え方だな。集団でアップやストレッチ、肉体訓練を「形式的」にやることには断固否定的だが、ただ、ストレッチの方法がわからない者もいる場合、やはり、熊谷のように経験のある者から指導を受けるのは必要だ。あとは自己責任。怪我をしたらその俳優の責任だ。とはいえ、動けないやつがいたら舞台は進行しない。
■12月からは、ダンス作りを午前中からはじめ、その後、芝居の稽古になる。俳優にはかなり負担になる。だが、矢内原美邦のダンスや動きが入ると、この舞台の厚みはさらに増すと思われ、そうでなくちゃ、本公演ではない。あるいは、俳優たちにとって、この経験が、「得難い価値」だと感じてくれるかどうか。矢内原の指導を受けることにしろ、大河内君と芝居ができること、それに意味を見いだしてくれればと思うのだ。いろいろなことをしてきた一年でした。まだ先はあってこれからさらに、またべつの発見があるにちがいない。僕も俳優たちと同様である。この一年の作業を通じて発見はいくつもあった。あるいは、よくある舞台の作り方とは異なる方法の試みでもあり、それがなにを生み出すかは、来年の一月の公演が終わってからでなければまだわからない。九〇年代の半ば、いくつか演劇論のようなものを書いたが、いまはなにを書いたらいいか、発言したらいいか戸惑っている。この先、またなにか発言できるようになるかもしれない。協力してくれる俳優たちには感謝してやまないのだ。
■そんなわけで、私の体調はかなりよくなってきた。集中力もました。大河内君もだいぶ稽古場に慣れてきた。稽古は順調に進行している。

(9:06 nov.19 2004)


Nov.17 wed.  「演劇的なもの」

■まとめて仕事を片づけようとしてもそんなにいっぺんにできるはずもなく、ひとつひとつ片づけてゆこうと気持ちを落ち着かせたが、どうにも「早稲田文学」の原稿が書けない。まずこれを最初に書かなくてはいけないのだし(もちろん連載は大事だったがほとんど落としました)、編集しているIさんからメールをいただき申し訳ない気持ちは山々だが、仕方がないので、文庫版『サーチエンジン・システムクラッシュ』のゲラの直しを終えて、さらに単行本として一月に発売される『不在』(原題『秋人の不在』)のゲラをチェックする。
■『不在』を少しずつ読んでゆくと、この小説を原作にした戯曲『トーキョー/不在/ハムレット』では表現しきれなかったことがいくつかあるのに気がついて、それはたとえば、杜李子の秋人への思いの強さだ。巻子の意識は戯曲にかなり反映しているが、杜李子がうまく描ききれなかったのはですね、これこそ、演劇的なのかもしれないが、杜李子を田中夢(本名)という若い女優が演じるのが前提だったという問題がそこにあり、田中がそれを演じられるかどうかかなり不安だったのだ。ところが、稽古とプレ公演を通じて田中がだんだんよくなってきて、もっと書くべきだったかと思うものの、これ以上、戯曲が長かったら、それこそ上映時間が四時間になる。いま制作の永井がもっとも不安に思っているのは上映時間である。シアタートラムは夜10時を過ぎると延滞料金がかかるのであった。これ以上はもう長くしない。むしろ削る方向でゆく。むつかしい。
■といったことを考えているあいだに、自民党の「憲法改定案骨子」が新聞に出ていたのだが、いよいよ「戦前」に、いや「戦中」になってまいりました。「天皇」が「元首」だという。「軍」が明確に規定されることになる。まだ自民党内の「案」だとはいうものの、いやな気分がつのる。

■夕方から中央線西荻窪駅の近くにある公共施設で稽古。大河内君の出演する場面を中心にいくつかやってみる。最初は若い俳優たちとの関係に戸惑っていたようだが、だいぶ慣れてきた感じを受け、それが芝居にも反映してゆく。少しこわばっていた大河内君のからだが、本来持ってるやわらかなものになってきた。あとはせりふが入ればもう大丈夫だろう。安心して見ていられる。いくつかの場面をやりつつ、少しずつ整えてゆく。これまでしっかりできていなかった芝居を明確にしてゆく作業だ。たとえば、巻子と幸森との関係をもっと作ることができるのではないか、二人きりになったときの気まずさと、性的なものは、どのように描くことができるか考える。まだ、なにかあるように思える。

(13:02 nov.18 2004)


Nov.16 tue.  「ニブロールが稽古場にやってきた」

矢内原、高橋、大河内
踊る伊勢
踊る伊勢と、柴田
■ようやく外国から帰ってきたニブロールの矢内原美邦と、ニブロールで映像を担当している高橋啓祐君が稽古場に来てくれたのだった。矢内原さんはタフである。世界中各地を飛び回っており、このあとまた、ベルリンに行く。本格的なダンスの稽古は12月からになるが、きょうは来てくれてとてもよかった。短い場面の振り付けをしてくれた。だけど、僕のもくろみでは単に、「振り付け」という役割ではなく「演出協力」でいてもらいたいので、むしろ、ニブロールとのコラボレーションというのが本公演の主旨である。だから、高橋君の映像、そして矢内原充志君の衣装があり、そして矢内原美邦のダンスをはじめ動きに対するアドヴァイスがあってはじめてニブロールとの共同作業が成立すると考える。
■で、はじめて、美邦さんがダンスの動きをつけているのを見せてもらったがその歯切れのよさ、次々とダンスが生まれてゆくのを見ているのはとても興味深く、かなり時間を割いたがいくら見ていても飽きない。そして、わたしは、ニブロールが入ったことでいよいよ『トーキョー/不在/ハムレット』がたいへんな舞台になると興奮してきたのだ。これはただごとではないよ。とんでもない舞台になるよ。これまでプレ公演で積み上げてきたものと、そこに大河内君、そしてニブロールが入ってきたことで、稽古場にいる全員が刺激されとてもいい感じで稽古は進んでゆくのだ。
■さて本日の写真は、一番上が、左より、大河内君、高橋くん、矢内原さん。二番目はダンスを作っているところ。三番目もまた、ダンスを作って、このころすでにへとへとになっている伊勢と柴田である。よく見ると、うしろのほうでこの場面で踊るわけでもないのに、笠木と田中がまねして踊っている。なぜ? からだを動かすのは面白いということか、矢内原さんがこう動いてみたらと振りをつけると、じつは、カメラに写っていないべつの場所でも俳優たちがまねして動いていたのだった。笑ったなあ。おまえ関係ないだろと、言いたいが、わたしもからだを動かしたくなった。ほかにも、大河内君と熊谷、田中による、松田家の場面も少しずつできてきた。あるいは、ここはなにかダンス的な動きを入れることができるのじゃないかという場面を矢内原さんに見てもらったが、興味を持ってくれたようだ。

■稽古が終わってから、近くのファミレスに移動し、矢内原さん、高橋君、それから演出補の小浜、演出助手の相馬、制作の永井とで、打ち合わせ。まず映像の話からはじめ、今後の稽古の進行など取り決めてゆくが、このときもまた、矢内原美邦は次々とアイデアを提出してゆくのだった。ここの映像はどうしようかと高橋君と相談していると、少し離れた位置にいた美邦さんが、「そこはあ」と少し関西なまりの言葉付きで話しはじめる。タフだよ。エネルギッシュだよ。この共同作業はかなりうまくゆきそうだ。僕もまた、矢内原さんに刺激を受ける。がんがんやってくるエネルギーに後押しされる。12月からの本格的なダンスの稽古が楽しみになってきた。
■あ、そうだ、そんなわけで昼間、竹中の稽古場に行ったのを忘れていた。あちらの稽古場はどこかどろんとしていた。まずいな。竹中を助けてやらねばという気持ちも大いにあるのだ。なんとかしなくてはいけないが、うまく作業が進まない。で、そんなこともあり、原稿のことなど鬱々していたわけだけれど、矢内原美邦のチカラで私はなにやら、勢いがついてきたのだ。よし、あちらこちら命がけ。やってやろうじゃないか。死んだ気になってやってやる。ぜったいいい舞台にしてみせる。

(9:44 nov.17 2004)


二〇〇四年十一月前半のノートはこちら → 二〇〇四年十一月前半