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「トーキョー/不在/ハムレット」告知
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Published: Feb. 21, 2003
Updated: Aug. 1 2004
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 *遊園地再生事業団『トーキョー/不在/ハムレット』公演(二〇〇五年一月)と、
  それに先立つ「プレ公演」のお知らせはこちら。 → CLICK


Jul.31 sat.  「七月が終わる」

■Tさんという方からメールがあり、産経新聞の文芸時評で『秋人の不在』が取り上げられていると教えてもらった。さらに、最近からだの具合が悪そうだと心配してくれたが、このところそういったメールをたくさんいただき、心配をかけて申し訳ない。いまは少し休養がとれているので大丈夫だ。検査に行こうと思っているがどうもおっくうになっていけない。人間ドックってやつに入って徹底的に調べたほうがいいとわかっているが、人間ドックの検査でいやな結果が出たらどうするかという問題がそこには立ちはだかるのだ。知りたくないことは極力さけて通りたいのが人の常である。「知らなければよかった」ということは往々にしてある。知る必要のないこともまた数多く存在する。つい知っちゃうんだよな。うっかりしていると情報はするっと耳に入ってくるのだ。
■人間ドックもそうだが、そろそろ私のクルマも車検を受けなければいけない時期だった。もう13年前のクルマだけにさすがにいろいろ不具合が出てきているのでこの機会に徹底的に直してもらおうと思い、さらにあと数年このクルマに乗りたい。新しいクルマに興味がないわけではないがこう毎日のように乗りどこに行くにもこのクルマを使っていると愛着というか、情のようなものがわいてきて手放せなくなる。コンピュータは情がわくともう使わないと思っても家にしまっておけるがクルマはそういうわけにはいかない。映画『
be found dead』には私のクルマがちらっとというか、かなり大幅に登場する。なんかあの映画全体の「自作解題」といったものを書きたい気分になったが、まだ水戸、京都、大阪の上映があるのでそれまでは書かずにおこうと思う。
■それでまた、きょうもクルマで出かける。仕事で人に会うためだったが、まったく場所をまちがえ、南青山周辺をぐるぐるまわっていた。しかももう夜10時半を回った時間で、僕は約束の場所が青山霊園の近くだと勘違いしており、路駐してあたりを歩いたが、すぐそこに霊園があり、暗い中、墓が並ぶ光景に出くわしてひどく夏らしい気分にさせられた。

■九月から東京では、『ドキュメンタリー・ドリーム・ショー』という催しがはじまるが、そのパンフレットをその企画にかかわっているHさん(ペドロ・コスタ監督との対談もセッティングしてくれた方)から送っていただき目を通したが、ものすごい数のドキュメンタリーが上映されると知って驚いた。以前から観たいと思っていた王兵監督の『鉄西区』も上映されるし、小川伸介監督の「三里塚もの」をはじめとする六〇年代のドキュメンタリー、そして青山真治監督の『あじまぁのウタ』もラインナップされている。で、この企画の一環として『A』『A2』の森達也監督とトークをすることになっているが、もうすでに知らされていたスケジュールのはずなのに、パンフレットを見るとそれが9月11日だとあらためて知った。あれから三年になるのだった。九月にある『トーキョー/不在/ハムレット』のプレ公演第三弾、「実験公演」には「二〇〇一年九月十一日」のことをなんらかの形でどこかに入れたい。
■七月が終わる。一年でもっとも好きな七月が終わってしまう。
■いろいろあった今年の七月だが、少し休息を取ってからだを元に戻したいとは思うが、それより、ゆっくり考える時間を作るとか、だらだらと時間をすごし、出すのではなく、入れることもしたいし、とにかく少しでものんびりしよう。なんていうか、もっと余裕を持って自分と、その内面と向かい合うような時間が必要だと思えてならないのだ。

(14:27 aug.1 2004)


Jul.30 fri.  「様々なメール」

■以前、『演技者』というテレビ番組で、僕の書いた『14歳の国』(白水社)を演出してくれたO君からメールが届いた。海岸でテレビドラマを撮影中、事故が起こった過去の出来事を教えてくれたが、同じ海岸に遊びに来ていた人が溺れて行方不明になり、その後、O君自身が死体が浮かんでいるのを発見したという話だ。まさに、『be found dead』である。ほんとは全文引用したいほどの内容だった。あるいは、水に浮かぶ女を写真に撮るのが趣味という人に協力した方からのメールもいただいたが、詳しいことは書けない(書けないその部分にこそ話の焦点があるが)。ただ、興味を持ったのはその写真だ。僕は単に、オフィーリアのことが頭にあって、『be found dead』の第五話「川」の水に浮かぶ女のシーンを作ったが、では、「水に浮かぶ女」を、単にその被写体が好きで写真に撮り、しかもべつに広く発表するわけでもなく淡々と趣味で撮っている人によって映像化されたそれは、いったいどのようなものか。つまり「本気の人」にはかなわないのじゃないかという問題がここにあらわれる。この方のメールもほんとうに面白かった。やっぱり全文引用したいがそれはできない。
■あるいは、またべつの方からいただいたメールに次のような文面があって、ふと気づかされたことがある。
今後は、全く大学と関わりなくなってしまわれるのですか。特別講義などで、学生と繋がっていただく方法はないのでしょうか。今は、考えたくない、かもしれませんが、関西をもう少し攪拌していただきたい、そんな気がします。
 そうだった。大学を使ってなにかもっとできることがあった。僕にできることがあったはずだが、授業だけで手一杯になっていたのはなぜだろう。たとえば、ほかの教員の方の授業で、しりあがり寿さんと学生の前で話す企画があったが、すると学生がかなり集まった。ほんとだったら僕が企画すべき授業だ。なぜできなかったのかな。自分の問題もあると思うし、特に去年から新幹線で京都に通うようになってから、まったく余裕がなくなった。もう少し余裕があれば、いろいろ考えられたはずだが、なにしろ、研究室にまったく行かないような教員だったわけで、「大学」ってものの意味をよくわかっていなかった。終わってからようやく気がついた。で、五年間の京都での大学生活も終わったわけだが、終わったときなにか意識に発生し、たとえば、「やれやれ」とか、「終わったあ」と、一仕事終えたあとのような気分の変化があるかと思ったら、これといってなにもなく、実感もないまま東京に帰ってきたのだった。帰りの新幹線は演劇のことばかり考えていたし。
■それから映画の感想、舞台の感想などたくさんいただいてとてもありがたかった。以前、僕の舞台に出たこともあるO君からのメールには次のようなことが書かれていた。
「映像作家宣言」大歓迎です。映画の感想とまではいかないかもしれませんが、いつだったか湘南台で太田さんとの市民講座でしたか、僕が「美」を意識して作品作りをしますかという質問に、太田さんは「常に意識する」と答えたのに対し、宮沢さんは「今、何が美なのかわからない」というようなことをおっしゃっていました。僕が今回、宮沢さんの映像に感じたのはその筋立てや手法より、宮沢さんの「美」意識です。簡単に言ってしまえばですね。
「なーんだ、照れてるだけじゃん。めちゃくちゃ意識してんじゃん」
てなことなんです。
 まあね。つまり、私たちは、「含羞の世代」なのである。もちろん世代でくくることはできないので、たとえば後藤明生さんの作品にもそれを感じ、後藤さんはそれを「楕円」のように中心点がひとつではないことによって表現し、ゴーゴリをひいてその方法論を語ったが、驚いたのは、大学の授業発表公演『ガレージをめぐる五つの情景』を観に来てくれた京都精華大学の学生のことで、いきなり、「『サーチエンジン・システムクラッシュ』は後藤明生さんの『挟み撃ち』ですか」と言ったのだった。ただ、「うん」と答えるしかなかった。ばれたかというか、そんな感じで、ただ「うん」としか言葉が出なかった。

■そういえば、池袋シネマロサで上映された『
be found dead』初日のことだが、映像とせりふが微妙にずれていることが気になり、終わった直後に、第一話を作った鈴木と、第二話を作った浅野にそのことを告げたが、二人とも沈黙していた。なんの反応もなく、いつもだったらこういうとき、鈴木がまず対策を考えて発言するが何も言わないのでおかしいと思ったら、上映のとき二人は、観客の反応が恐くて劇場の外に出ていたとあとで知った。なにしろ、カメラを忘れて利根川に撮影に行ったあの日、初台から出発する時点で二人は、カメラがないことに気がついていたという。なぜ言わないんだよ。
■「
Mac Power」の連載をだらだら書いていた木曜日は深夜にビデオを借りに行ったり本を読んでいたが、ようやく、きょうの午後、書き終えた。それにしても、「Mac Power」という雑誌は「Mac文化圏」というものが仮にあるとするなら、そのなかでは唯一といっていいほど硬質なのがとても好きだ。
■前回ここに、「近代をちゃんとやり直す」と書いたけれど、よく考えてみると、それ、ただごとならない大事業だ。そんなことができるだろうか。この国における「近代劇の成立」から分析してゆくなど、まずそういったことからはじめると、たとえばふと奇妙に感じるのは、なぜ近代化の過程で「劇場用語」に古典芸能で使われていた過去の言葉が残ったのかといったことがあげられ、そしてまた、なぜ六〇年代を通過してもそれらは残ったかがよくわからない。わからないことばかりだ。道はなおも遠い。

(4:22 jul.31 2004)


Jul.27 tue.  「サヨナラ京都」

■中島らもさんにはじめて会ったのは、もう二十年近く以前になるのではないか。当時、よみうりテレビのディレクターをし、いまは映画監督をしている中野裕之を通じて知り合った。それほど親しくならなかったが、そのころ会うたびに、ひどく不可解なことを話しかけられ、あの独特な口ぶりで、そしてらもさんに特有の冗談なのだが、唐突すぎてどう応接していいかいつも戸惑った。それから、らもさんの書いた戯曲を演出させてもらえないかと話をしたのはさらに後年になり、場所は渋谷にあったシードホールの楽屋だ。らもさんたちのある舞台を観てそれがとても面白かったのだが、俺が演出すればもっと面白くなると傲慢にもそう考えており、戯曲を送ってもらえないか依頼した。戯曲は届かなかった。それから10年以上、会う機会はなかった。ときどき文章を読んだり、関西のテレビに出ているのを見かけるくらいだった。ネットのニュースサイトでそれが事故死だと知ったとき、正直なところ、「ばかやろう」と思った。死んじゃいけないんだよ、やっぱり。しかもあんな死に方をするなんてほんとにばかやろうだ。八〇年代に知り合った人たちとは、いまではすっかり疎遠になっているし、歩いている道もまったく異なるが、それでもやはり時代を共有したという意味での同志意識を僕は勝手に持っていた。死んじゃいけないんだ。死ぬにはまだ早すぎた。ほんとうにばかやろうとしか言葉にならない。

■そして僕は、東京に戻ってきた。これまで、何度かこのノートにも書いてきたことだが、「ウェブデザイナーになる」とか、「コンピュータプログラマーになる」「F1レーサーになる」といった野望をしばしば抱いたが、いまはきっぱり、「映像作家になる」という気分だ。で、イメージフィルムというのでしょうか、どうカテゴライズしていいかわからない映像作品が収められたDVDを観ていたら、「こりゃあ、俺でも映像作家になれるよ」と感じたわけだが、もうひとつ、DVDのパッケージにマリファナを付けて売らなきゃ商品として成立しないと思った。
■さて、この数日。
■25日が、発表公演『ガレージをめぐる五つの情景』の楽日だった。この日も一日二回の公演で、しかも朝11時の回があるというあまり類を見ない日程だったが、それというのも、大学ではちょうどコミュニケーション入試が実施されており受験生たちに観てもらうためだ。寝屋川のYさんはじめ、M君、Kさん、それから、『トーキョー/不在/ハムレット』に出演する渕野や田中、演出助手の相馬、そして制作の永井らもはるばる東京から観に来てくれた。Yさん、M君、Kさんとはほんとうに久しぶりに会った。去年、神戸に行って以来だ。それで大阪在住のYさん、M君は、『
be found dead』を大阪で上映する計画を立てているとのこと。すると、水戸、京都、大阪と、立て続けに上映されることになってたいへんよろこばしい事態になる。舞台はこの日がいちばんできがよかった。A、Bとダブルキャストで上演したが、どちらも落ち着いて、それはけっして達成ではないが、いま可能だった、この稽古を通じて獲得できたことをもっとも出せた舞台だったように思う。それを観せてくれた学生たちに感謝した。
■これでこの大学での僕の仕事はほとんど終わった。終演後、学生たちを集めて最後の話をしたが、そのあと学生の一人が、「これまで先生の授業を受けた学生を代表して」と言い、「差し上げたいものがあります」とさらに続くので、すかさず「いらない」と応答したけれど、それというのも照れるからだが、学生たちから花束を贈られた。うれしかった。単純にうれしかった。
■その翌日(26日)、午後から合評がある。わたしはなぜか、授業発表公演後の合評がすごく好きだ。公演に関わった学生と、何人かの教員が集まり、様々な角度から発表について討議する。いろいろあったけれど、毎年、太田さんから意見されるのは「演技」についてだ。簡単にまとめると、ひとつのモデルとして「新劇」の演技システムがあったとき、六〇年代に出発した太田さんたちは、「新劇」を越えようと異なる演技システムを構築していったが、九〇年代に入って、平田オリザ、そして僕のように、六〇年代的なる方法とは異なり、ミニマルな方向へと「新劇」の持つうそくさいリアリズムを「脱構築」しようとしたが、このある種のミニマリズムは太田さんによれば、「訓練を積んでこなかった俳優でも演技ができてしまうシステム」になる。これは一面ではまったくその通りだ。というのも、この何年か発表公演をやるたび授業の最初に「やりたいこと」を募ると、ほとんどの学生が俳優を希望し、可能な限りやりたいことをさせようとできるだけ舞台に立ってもらうことにしていた。で、僕が演出したとおりにやれば、ほとんどの学生が(たとえ、舞台コースではなく、映像コースの学生でも、経験がある者もない者も)それなりに演技ができるようになる。教えるのはただ呼吸の方法だけだ。せりふを発するときどう呼吸をすればいいかというまったくごく基本的なことだけ。だから、「誰でも演技ができる」ことになるが、ただ、太田さんの話を聞きながら考えていたのは、「この技法を使えば、誰でも演技できるようになるが、誰もが魅力的とは限らない」ということだ。わたしはただ、「魅力的な俳優」にだけ興味がある。
■この話を書き出すときりがないが、ただ一点、問題にすべきは、太田さんの話にしても、そして、九〇年代の僕が持っていた考えにしても、議論の基点に「新劇」が存在することだろう。どうしていつまでも私たちは「新劇」を問題化していたのか。そんなことを考えていたのは、京都から東京に向かう新幹線のなかだった。もっとこのことについて、太田さんと話をするべきだった。それで私が考えたのは、六〇年代のいわゆるアンダーグラウンド演劇と呼ばれたもの、あるいは、小劇場運動と呼ばれた演劇は、「新劇を否定するのにきわめて性急だった」ということだ。「新劇」を「近代」と書き換えたほうがわかりやすくなると思うが、六〇年代の演劇人が考えていた以上に、「近代」は分厚かったのだし、そして、「新劇」によって「近代」が明確に成立していたわけではけっしてなかったという歴史だ。六〇年代の「反近代(=アンチモダン)」にしろ、八〇年代から九〇年代にかけての、「ポストモダン」にしても、「近代」が強固に存在することを前提にしていたが、ほんとうにそうだっただろうか。このところ私は、「演技」や「方法」について考えては迷路に入りこんでしまったようにとまどうことが多く、「新しい」という陳腐なものではなく、また異なるもうひとつべつの方法(=オルタナティブ)がきっとあるはずだと考えあぐんでいたが、気がついたのは、「あらためて近代をちゃんとやり直す」ということで、新幹線で東京に向かう途次、それはおそらく、静岡あたりだったと思うが、ふっと演技論がそこに及んだ。つまり、「新劇」の「近代」はまだそれほど、「近代」ではないし、かつても「近代」ではなかった。どこにも「近代」など存在していなかった。だからこそ、この国の演劇にスタンダードは成立することがなかったにちがいない。
■だとしたら、「あらためて近代をちゃんとやり直す」にはなにが必要とされるか。やるべき手がかりはなにか。考えるヒントはどこにあるか。『トーキョー/不在/ハムレット』がそうした試みのきっかけになるだろうか。わかんねえなあ。ぜんぜんわからない。で、ようやく、そうしたことも含め、ゆっくり考える時間ができた。最新号の「ユリイカ」が届いていたのでぱらぱらめくっていたら、『大島渚一九六八』(青土社)という本の広告があり、一瞬、数年前に出た『大島渚一九六〇』(青土社)の広告だと錯覚したが、よく見れば新刊だった。早速、新宿の高島屋のなかにある紀伊国屋書店に買いに行った。で、やっぱり面白いわけだが、巻末にある年譜のようなものを見ると、たとえばこういう記述がある。
1967年
1月15日●『日本春歌考』撮影開始
2月11日 はじめての建国記念日
  15日●『忍者武芸帳』封切り
  23日●『日本春歌考』封切り
 こりゃ驚いた。クランクインから公開までがすごく早い。当時の撮影所や劇場のシステムがそうさせていたのだと想像するが、われわれの『
be found dead』もクランクインから公開までがひどく短かったので、六月に撮影しているときある人から、「いま撮影して、来月公開って、普通ないですよね」と言われたが、あったんだよ、かつての映画界は。しかも、『日本春歌考』が特別ではなく、翌年の『帰ってきたヨッパライ』にいたってはクランクインから公開まで一ヶ月もない。
■最新号の「ユリイカ」は「文学賞」に関する特集のようであまり興味をひかれなかったが、千野帽子さんという方が書かれている「踊る銓衡委員会 芥川賞選評を読む」が面白かった。「あの人はなぜ落ちたか」という章で、「賞を取れなかったけれど気になるあの人は、いったいどんなことを言われたのでしょうか」とあって何人もの作家が取り上げられているが、吉本ばななの『うたかた』について水上勉が評した言葉がすこぶる面白い。
恋物語だが、少しかわっている。父親もおもしろい。こういう父親にはこういう娘が育つものか、と納得はしたが、さてそれでどうということもないのである。
 これはべつに、吉本ばななと、吉本隆明のことが書かれているわけではないのだった。小説の中身について書いてあるが、説明がなかったら、どうしたって吉本家のことにしか読めないではないか。ほかにも、「あの人はなぜ落ちたか」の章に引用された選評はどれも面白く、あははあははと読んでいたら最後あたりに次のような選評が引用されていて驚いた。
ある時期一時代を風靡した前衛劇の手法を散文で試みているが、至る所で散漫
 筆者の千野帽子さんは、「そんな小説だっけ?」と書いているが、誰が、誰の小説について書いた選評かはいわずもがな。しかし、「ある時期一時代を風靡した前衛劇の手法」ってなんだろう。ベケットをはじめとする不条理劇のことだろうか。カントールとか東欧系の演出家の作品のことだろうか。それとも、ニューヨークの演出家、たとえばジョン・ジェスランといった実験演劇の人たちか。わからない。

■で、そんなことはともかくですねえ、まだ書きたいことはいろいろあるものの、「
Mac Power」の連載原稿を書かなくてはいけないことをすっかり忘れていた。青山真治さんが「名前のない日記」で、『be found dead』について書いてくれたことに感謝したが、青山さん、サウナに行ったことがないと知り、だとしたら、「サウナの作法」をいろいろ教えなくてはいけない。で、『be found dead』の第四話を作った冨永君から届いたメールによれば、いま青山さんは風邪だそうだ。さらに、その青山さんのメールによれば「自主制作映画」を作ろうと思案中とのことで、ぜひとも協力させてもらいたい。なんでもやろう。マイクの棒を持って撮影に参加したいくらいだ。

(16:52 jul.28 2004)


Jul.24 sat.  「徴候、そして発表公演はつづく」

■全然、関係ない話で申し訳ないが、少し気になっていることがこのところあった。汚い話になりますが、痰に血が混じっていることがしばしばある。不安になってネットで調べたところ、次のようなことが書かれたサイトがあった。
せきがつづく
たんがふえた
たんに血が混じる(血痰)
胸が痛い
背中が痛い
息切れするようになった
声がかすれるようになった
肩や、腕が痛い
体重がへった
熱が下がらない
 このうちのかなりの項目があてはまるのだった。これは「肺癌」の初期徴候である。ガンかよ、俺。しかも「肺癌」は治りにくいという。まあ、そんときはそんときでしょうがないな。でもまだやりたい仕事が数多くあることだけが心残りである。漱石は四十八歳で死んだがあの膨大な仕事を残した。僕はもうすぐ四十八歳になるが、まともな作品など、これといって残していない。中上健次は四十六歳。三島由紀夫は四十五歳。みな偉大である。そして、内田百間はなかなか死にはしなかったが、淡々と多くの作品を残した。
■そして、『ガレージをめぐる五つの情景』の二日目。だいぶ落ち着いてきた。終わったあとホテルに戻ってメールチェックしたら卒業生のMから「五年間お疲れ様でした」とメッセージが届いていた。そうか、五年、やっちまったか。で、きょうも疲れた。疲労はかなりなところまできている。こりゃ、死ぬよね、この発表公演ってやつをずっと続けていたら。一週間で9コマはちょっと多すぎたのかもしれないし、毎週、新幹線で京都に通っていたかと思うと想像を絶する仕事ぶりだった。それが公演と合評を含めあと二日で終わりだ。長かったような、短かったような。そして学生ひとりひとりと話をするのはひどく疲弊することではあったものの、基本的に学生は好きだった。できるだけ相談にも乗り、話もしてあげたし、ぼくが教えられることは伝えてきたつもりだ。

■ただ大学の坂がたいへんでした。あと経理課にはいつも迷惑をかけた。研究室のKさんにもいつも迷惑をかけた。大学で仕事をした当初、給与のことで相談したとき、なかなか話をしてくれないのでその旨伝えると大学のえらい人が「これだけ教員の数が多いと、見落としてしまう先生もいるんですよ」と言ったが、うそつけこのやろう。じゃあなにかい、教員よりずっと数の多い学生の何人かは見落として入学金を取り忘れているのか。取るときは見落とさず、出すときは見落とす。都合のいい人たちだ。
■それにしても坂でしたね。毎日が山登りだ。すると、僕が大学をやめると知ったある人から、キャンパスが平坦で、東京の家からクルマで30分ぐらいの場所にあり、週に二コマでいいともしも、あくまでもしも誘いを受けたら、もう大学はいいよ、学生とつきあってるといよいよ死ぬと思っていても、つい引き受けそうになってしまうのが、なんというか、人間の愚かなところである。坂がないってだけで引き受けても後悔するだけだし。
■だけど、大学と京都から刺激を受けることは多大であった。ほかの教員から喚起されることも数多くあった。もっと勉強できるはずだったが、僕が怠けてその機会をみすみす逃した。京都に来ることができ言葉にできないなにか深いもの、自分でもそれと気づかない、なにものかを会得することができたように思う。それはなにより得難い経験だった。だからたしかに死にそうでしたけど、この五年間は無駄ではなく、とても意味のあるものだった。

■『ガレージをめぐる五つの情景』はあと一日。きょう、初日とは少し異なる演出を一カ所だけやりました。松倉にある場面で、『鎮静剤』という歌を、なにげなく、ほんの少し鼻歌みたいに歌わせたのだった。そのときの客席がすごかった。びしっと空気が固まったのがわかった。特権的な肉体である。段取りぜんぜん覚えないし、動きも勝手でほかの役者に迷惑をかけるが、特別な人ってのは、特別なんだから、表現の領域では、なんともしがたいことなのだな。世界はほんとうに平等にできてはいない。もちろん、ほかの学生たちもそれぞれに舞台について考え、自主的に芝居に取り組んでくれる。この五年間でもっとも自主性が高く、そして結束力の固いクラスだった。びっくりするほど仲いいんだ、これがまた。どれだけ助けられたかしれない。最後の年にこのクラスと発表公演ができたのはほんとうに幸福なことだった。

(6:36 jul.25 2004)


Jul.23 fri.  「初日と楽日」

■最近、僕のメールサーバーの調子が悪い。メールを送っていただいたのにすぐエラーで戻ってきてしまうことがあるという。もし、そういう方がいらしたら、再度送ってください。何度か送ると届くことがある奇妙な状況です。お願いします。エラーになって戻ってきてしまってもそれはアドレスがおかしいとかではないです。単なるサーバーのエラーです。お願いします。
■さて、大学の発表公演『ガレージをめぐる五つの情景』の初日である。そして東京では、映画『
be found dead』の楽日だった。なにやら複雑な気分になりつつ、『ガレージをめぐる五つの情景』は午後五時半に幕を開けた。ほんとはいろいろ書きたいことはあるものの、時間がないのできょうはその報告だけ。『ガレージ〜』は出来が悪かったが、初日だったからというのは理由にならず、結局ですね、「稽古は正直である」というしかなく、稽古がしっかりできなかったところは不安定であり、開演の直前まで稽古していた場面は安定していた。学内の学生や教職員がほとんどだったとはいえ、なんとか席は一杯になった。だからいいってわけでもない。なにより舞台の内容だ。そして、映画『be found dead』のことで東京の永井に連絡したところ、木曜、金曜と、連日一〇〇人を越える入場者だとの報告。六日間の合計で768人の方に観ていただいた。夜九時開映のレイトショーでこれは満足すべき結果なのだろうか。千人はゆきたかったが。でもただただ感謝。ありがとうございます。次は水戸。そして京都。そして『ガレージをめぐる五つの情景』はさらにつづく。これが大学での僕の最後の仕事だ。最後までしっかりやろう。というか、最後とかそういうこととは関係なく、きちんと舞台ができないといらいらする。ぜひご来場いただきたい。

(8:14 jul.24 2004)


Jul.22 turs.  「やけに早起き」

■東京からの連絡によると、池袋西口シネマロサで上映されている『be found dead』は「レイトショー」としてはかなりの観客動員だとの話を永井から聞いてほっとする。支配人の方も「すごいです」と仰っていたとのこと。ほっとした。23日(金)まで。京都と水戸で上映が決まっている。水戸の短編映画祭では、松尾スズキとアフタトークのようなものをやる。好評なのであれば、東京でもさらに上映することを検討していいのではないか。本公演『トーキョー/不在/ハムレット』の宣伝にもなるし。制作の永井はDVD化することも検討している。しかし、本作品第四話(冨永昌敬監督)によれば、「DVDは忙しい」ということになっており、それから想像するにまた大変なことになってしまうのではないか。ただ、青山さんとのトークの模様を撮影していたのでそれを特典映像として入れたいとも言い、永井の野望はふくらむ。
■さて、大学の発表公演はもう間近だ。で、なぜか午前5時40分に眼が覚めた。きょうはゲネ。クオリティはもっと高くなるはずだが時間切れという状態。まったく俳優をやったことのない者もいるがその成長ぶりに、もちろん、それが完全というわけではないにしても「伸び率」のようなものに驚かされる。淡々とした一時間四〇分の作品。これもまた、関西の方々には時間があればぜひ観に来ていただきたい。情報はこちらにあります。
■ゲネののち、だめ出し、抜き稽古を終えてから、ケイコ・クルディさんのクラスの、発表公演のゲネを見に行く。クルディさんはフランス人の方だが日本語がかなり達者だ。チャットによる観客参加型のパフォーマンス。チャットの会話によって次に観たいシーンを観客が選べる。春秋座の舞台だけを使い観客もそこで観る。空間が広々として気持ちがよかった。ヒントになることもいくつかあった。大学ではこうした様々な人の作品が見られるのはとても刺激になる。
■ホテルに戻ってすぐに眠った。眼が覚めたらまた早い。午前四時だ。まずい。あしたは初日。もっと眠っておかなくてはいけない。ふと気がついたら初日なっていた。東京もひどく暑いと永井からのメールにあったが、京都もかなり日が強い。夏である。あたりまえのように夏である。

(5:24 jul.23 2004)


Jul.21 wed.  「稽古」

■朝九時過ぎから、一日中、大学内にある小劇場「studio21」にこもりきりだった。私のクラスの発表公演『ガレージをめぐる五つの情景』のための稽古である。で、なぜか朝六時四〇分に眼が覚めてしまい、いちおう睡眠時間はよくとったつもりだが、夜から少し疲れが出てきた。さらに「studio21」のエアコンが効きすぎてやたらと寒い。逆に外に出ると暖かいと感じるほどだ。今年は受講者が多いのでAとBの二チームに編成したダブルキャストだ。とにかく人が多いよ。で、全員の名前をきっちり覚えたのはわたしとしては奇跡的である。年々、人の名前を覚えるのがだめになっている。なにか話そうと思うと、たとえば音楽でもいいが、そのミュージシャンの名前が出てこないことがある。エアコンで冷えたのと、通し稽古を観ている体勢が悪かったせいで腰が痛くなった。まずい。最近というか、ある時期から私の場合、疲れがまず腰に来るので鍼治療でメンテナンスして快復させるが、その周期がやけに短くなっている。ほんとうにまずい。稽古が終わって「studio21」を退出したのは午後十時。疲れた。電話をする気力もなく、映画の様子を訊くために制作の永井に連絡することもできず、ホテルに戻るとメールチェックをしてすぐに眠る。十一時前には眠ってしまった。初日はもう二日後である。

(7:30 jul.22 2004)


Jul.20 tue.  「水は利根川に流れていた」

■というわけで、東京では、映画『be found dead』が絶賛公開中である。くわしい情報はこちら。毎日、東京にいる永井に電話をしてその日の報告を聞く。やはり初日は異常な観客動員だった。その後は通常のレイトショーと同じか、少し多めの入場者だとのこと。でもまあ、なにより。もっと多くの人に観てもらいたい。23日(金)までだ。
■冨永君の映画に出ている俳優の杉山君からメール。初日も観ているがまた劇場に足を運んでくれたとのこと。僕の作った「川」について、いくつか「水」が出てくるが、それがすべて最後に死体が発見される利根川に流れ込んでいるのだと想像し、恐くなったという。ああ、それは考えてもいなかった。しかも無意識のうちに、やけに「水」が出てくる映画を作っていた。言われてはじめて気がついた。なるほど。ただ、やたら「ものを見ている人」については、最後の死体発見で茫然とそれを見ている人につなげようと意識していた。水は気がつかなかった。さらに未知の、Gさんという映画を勉強していたという方から、『映画の文法 -実作品にみる撮影と編集の技法- 』(ダニアル・アリホン/訳:岩本憲児・出口丈人/紀伊國屋書店)という本をメールで紹介してもらった。きのう映画を勉強しようと書いたからだと思う。ありがたい。打てばひびく。それがこのノートのいいところだ。
■しかし、あれですね、自分で映画を作るとつくづく、やっぱり大きなスクリーンで観てもらいたいと思う。かつてビデオやDVDなど想像もできなかったころ、当然映画は劇場で観るしかなかったわけだが、ただ所有欲のようなものはあり、この映画が自分の手元にあっていつでも観られたらいいと思っていたころがある。いまではそれが当たり前になってしまった。で、逆にビデオで観ればいいなと、劇場に足を運ぶのが面倒になることが最近はとても多い。映画は劇場で観なければだめだと、原理主義的なことを書く気はさらさらないものの、大きい画面と、音響がいいというのは、それだけで、やっぱりいいと今回のことをきっかけにあたりまえのことを考えた。

■午後から「場あたり」という作業であった。私のクラスの発表公演も間近だ(7月23日〜25日)。学生の集まりが悪くなかなか「場あたり」がはじまらない。「場あたり」というのはテクニカルリハーサルとも呼ぶときがあるように、舞台において、照明、音響などを含め、きっかけの稽古である。あるいは、俳優の出はけも確認。AとB2チームあるダブルキャストの公演のために、想像以上に時間がかかった。いままで私の舞台でもっとも最短の「場あたり」の記録は30分ぐらいだった。出はけ(俳優の登退場)に関しては、稽古場に劇場と同じサイズの装置を作ってあって確認する必要がなかったし、とにかく、音楽にしろ照明にしろきっかけが少なかったのもある。さすがに、音響も照明も、そして舞台監督もプロなので、さくさくと作業が進んでいるうち、気がついたら30分ですべてが終わっていた。
■きょうは長かった。午後2時少し前からようやくはじめ、終わったときにはすでに午後9時半を回っている。だからといって、音楽がかかったり、照明が変化するきっかけが多いかというとさほどのことのない舞台だが、ただ、「出はけ」が稽古のときには正確な距離でできなかったのもあり、それに手間がかかった。それと、進行を舞台監督をやっている学生に任せたので、それがスムーズではなかったのもあり、僕が進行してしまえばいいがそれでは舞台監督自身の稽古にもならず、あと、教育的配慮ということで任せたのだ。ただ、どうしても口を挟みたくなるところはあった。それで私は最近、やけにものわかりのいい演出家になっており、たとえば照明がもわもわっとした明かりを作ってくるとかつてだったらもっとシンプルにとダメを出したかもしれないが、「そうか、やりたいのか、やりたいんだな。やりたいんじゃしょうがないな、やればいいさ」とすべてOKだ。衣装もヒールだと走れないからもっとローヒールを要求しただろうが、履きたいんだな、それでやりたいのか、だったらやればいいさと、やけにものわかりがいい。まあ、やってみて、ヒールで芝居するのは大変だってことがわかればそれが教育である。
■だからほとんどのことがOKだ。やりたいようにやらせる。すると、この舞台に熱心じゃない演出家に見られるおそれがあるので、少し口をはさむ。ただ学生が遅れてきても怒らないし、今回はほとんど怒鳴ることもなかった。これはかなり以前とは変わったところだが、というのも、怒ると疲れるからだ。怒る体力がなくなっていて、それで体力を使うくらいだったらべつのことにエネルギーを注ぎたいのだ。

(9:09 jul.21 2004)


Jul.19 mon.  「この数日」

■わたしはジョン・カサヴェテスと誕生日が一緒だった。と、唐突に書いてもなんのことかわからないにちがいないが、映画の打ち上げのとき青山真治さんから、ゴダールかカサヴェテスと誕生日が一緒ですよと指摘されしらべたところ、ゴダールは12月3日で、カサヴェテスと同じと判明したのだった。そんなメールのやりとりをする私と青山さんだが、とにかく八月はサウナに一緒に行くことになったし、「サウナ会」というものを作ることになった。だが、「最初はサシで行く」と強く青山さんが主張するので、新宿のグリーンサウナに行こうと思うのだ。そう、あれはもう何年前になるのだろう、わたしはグリーンサウナの休憩室にいた。目の前にスポーツ新聞を熱心に読む男がいた。中上健次だった。わたしと青山さんがグリーンサウナに行くと中上健次が出るのではないか。なにかひとこと言いに出てくるのじゃないかと思えてならない。
■で、18日(日)は「ピナ・バウシュとブッタヴァール舞踊団」のダンス公演を観に行った。埼玉の与野で新作を公演した直後の、過去の作品の再演だが、なにかわけのわからない資本の力に巻き込まれ、それで再演しなければならなかったような、不本意な、どこか疲弊している印象を受けた(といってもすごくきれいなところはやっぱり見応えがあったけれど)。周辺を取り巻くばかが持ち上げるのがだめなのではないか。作品を練り上げるのをそっと見守るべきではないか。
■最近耳にしたダンスの話で面白かったのは、うちの大学でやはり教員をしている八角さんから聞いたものだ。八角さんが、あるところでダンスの講義をしたという。受講する対象はごく一般的な人たちで、ダンスについてなにも知らない人たちもいた。ダンスのビデオを見せながら話をしたそうだが、受講者の一人に武道をやっている者がいた。ダンスのことをなにも知らない武道の人はたったひとつの視点に絞ってダンスのビデオを観ていたという。それがすごい。「そいつに勝てるかどうか」。ふつうそんなふうにダンスを観るだろうか。そして武道の人は数多く紹介されたダンサーのなかで、どうしても「勝てない」と感じたダンサーを二人発見した。ウィリアム・フォーサイスとグルーチョ・マルクスだったという。なぜなら、この二人だけは次の動きが読めないからだ。次の動きが読めない相手には勝てない。ダンスは(あるいはあらゆる表現は)どんな視点で見ても自由なのは当然ながら、こうして「武道の視線による、勝てるかどうか」が、ときとして本質を見極めるのはことのほか面白い。

■で、ぜんぜん関係ないけれど、突然、短編映画の着想がひらめき作りたくなった。たった五分くらいの映画なのに撮影に一年くらいかかる映画。映像でなければぜったいに面白くないと思われる着想。というわけで、なんだか映画が面白くなってきてしまった。特に「自主制作映画」と呼ばれる種類のものを作りたい。大規模になるといろいろめんどくさいからである。今回、『
be found dead』を作っていろいろ知ったのは、たとえばカメラマンのことだ。浅野の作品と、冨永君の作品は、月永君というカメラマンが撮影している。するとやっぱり月永君の映像なのである。そうなってしまうところがすごい。映画の現場になんどか行ったことがある。カメラマンは現場でかなり偉い人だが、そのことの意味がよくわかった。なるほどなあ。
■あと、打ち上げのとき冨永君といろいろ話したが、そのなかで出たのが「俳優」のことだ。演劇をやっていると、当然ながら「俳優」の身体について意識せざるをえないが、冨永君はこれまで、カメラを置く位置、照明をはじめとする機材のことしか考えないで映画を作っていたと言い、はじめての試写を観たとき、「やばいな」と感じたのは、たとえば、僕の作った「イマニテ」で俳優の動きを観、俳優の演出について考えたからだという。ぜんぜん意識していなかった。いつものとおりに作ったのだった。ただ意識していたのは、カメラがぽんと置いてあり、俳優が自由に動き、作り手はなにもしていないと見えるかどうかだけだ。なにをやっていたかは秘密。むしろ、冨永君の作った第四話のラスト近く、女が横を向いて「ねえ」と誰かに同意を求めるが誰に話したかよくわからず、少し話が進行してからもう一人いる男とともにカメラが横移動するとそこに「詩人」がいて、さっきの「ねえ」が詩人に向かって発せられているのだとはじめてわかるあたりがすごくうまいと思ったし、僕の場合、「映画とはこのようなものではないか」と詳しく知りもしないのにある種の「映画文法」をなぞったのがだめだったと話したが、すると冨永君は「僕は映画文法、ぜんぜん勉強してこなかったんですよ」と言う。
■それでしばらく、冨永君と「俳優論」というか「演出論」のような話。さらに大島渚のことをずっと話したが、冨永君もかなりな大島渚マニアだった。しかも大学(日大芸術学部)で教えてもらった教員のなかには、初期の大島映画のカメラマン川又昂さんがいたという。不意にもっと映画について勉強しようと思った。演劇が面白くなったころ、「演劇論」「演出論」「方法論」「劇作法」について夢中になって読んだが、いま、映画についてそのような気分である。

■で、この数日のことを書けば、16日は、この時期を逃すと皆、忙しくて時間が取れないというのでこの日になったある打ち合わせで東京に戻っていた。秘密の会議だ。詳しい内容は九月ぐらいにあきらかになるであろう。そういえば、世田谷パブリックシアターで「劇作」について考える、というか、スコットランドのトラヴァースシアターにおける劇場と劇作家の関わりに習って、鐘下達男、川村毅ら、何人かの劇作家が集まり「劇場と劇作家」といったテーマの会議が六月ぐらいにあって僕も呼ばれていたものの、忙しくて参加できなかった。まだ進行中のはずだが、あれはどうなっているだろう。とても興味深いテーマだった。
■そして本日(19日)、また京都に来た。夕方、大学内にある小劇場、「
studio21」に到着。23日(金)が初日の僕のクラスの発表公演『ガレージをめぐる五つの情景』の仕込みがほぼ終わっているところだった。僕がいないあいだも、学生たちは自主的に稽古をし、こうして仕込みをしていてくれた。ほんとうに助けられる。いちばん稽古が進んでいない松倉はそのころなにをしていただろう。知っているが、学生の手前、書けない。とにかく稽古をしろ。
■あれよあれよというまの、七月だ。一年でいちばん好きな時期だ。京都に来たらもうすでに祇園祭は終わっていた。鴨川の川べりは夏らしい風景。ほんの少しでもいいから京都の夏の夕暮れを味わいたい気分にもなっているのだ。

( 8:37 jul.20 2004)


二〇〇四年七月前半のノートはこちら → 二〇〇四年七月前半