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  松倉如子ライブの内容はこちらで。→ click

Oct.4 sat. 「松倉、京都に帰る」

■いきなりこのページに来てしまわれた方に、10月5日分のノートは「富士日記」で再開しております。
■夜10時45分の深夜バスで松倉は京都に帰った。収穫の多かった数日である。このノートは「期間限定十月二日まで」と書いておきながら、とうとう松倉が帰るまで続いてしまった。今後、松倉は歌をメインにするとはいうものの、なんにせよ、ジャンルは問わず表現することにおいて、今回の東京ライブの経験はとても貴重なものになったのではないか。いろいろな人に助けられそのことの重い意味も感じただろう。まったく自分のことを知らない誰かに向けて表現することの怖さも味わっただろう。そのひとつひとつが、大事だったと思う。
■話は前後するが、夕方、松倉を世田谷線・松陰神社前の商店街を少し入ったところにあるうなぎの店、「一二三(ひふみ)」に連れてゆく。ああ、美味しかった。なんてうまいんだ、ここのうなぎは。ここのうな重は身がぎっしり入っていてはじめて食べるとたいていの人がお重の蓋をあけた瞬間、その「ぎっしり感」に驚くが、松倉は蓋をあけてしばらくそれを見、「きらきらしてる」と言った。うなぎの表面がたれでてかっているのをそう表現。なにに感動するかわからんね、この人は。
■でも喜んでくれたからよかった。関東のうなぎと、関西のうなぎは、「さばき方」「焼き方」がちがうので、どうかなと思っていたが、満足したらしい。きれいに食べた。ご飯を一粒も残さずえらかったって、子どもに作法を教えるような気分だ。

■僕の周囲には、いろいろな表現をしたい様々な人が集まる。もちろん芝居をしたい人が多いが、興味を持った人に対してはなんらかの形で関わりたい。バックアップもしたい。それにはやはり様々な関わり方があって、まず一緒に舞台をやってみたい人たちがいる。松倉みたいに歌を聞かせてもらいたい人もいる。文章を書きたいという人にはその場を提供できたらいい。あと、とても大切なのは、「小説に書きたい人」だ。書かれるほうはたまったものではないかもしれないが、「物語を喚起してくれる特別な人」がいて、どうしてもその人のことを書きたくなる。小説を書いてゆくことが本来の僕の仕事のひとつだから。
■いろいろな人に出会う。まだ知らない場所に僕を喚起してくれる誰かがいて、どこかでなにかの偶然で出会うのかもしれない。それが面白くてこういう仕事をしているのではないか。
■松倉は深夜バスの車内から見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。それからすぐ携帯電話からメールが届いた。今回のことがとてもうれしかったという内容。深夜、笠木と電話。ほんとに今回は楽しかったなと話す。あの人はいったいなんだったんだろうと二人でいろいろ考えたが、なにしろ、東京に来た数日ですっかり僕たちを楽しさに巻き込んでくれた。ヨミヒトシラズのT君に感謝のメールを書こうと思ったがT君への言葉がうまく出てこない。ギターを弾いてくれたT君と二人に、感謝の言葉がうまく書けないのだ。またきっとライブをやろう。ライブをというより、とにかく、僕はただ、松倉の歌が聞きたいのだけど。

■「2003年10月2日」というページはもちろんあらためて作りますが、このノートもきょうで終わりです。今後も「松倉情報」は随時書いてゆくつもり。また歌を聞いてやってください。ライブについての感想メールをたくさん送っていただきありがとうございました。「2003年10月2日」で紹介させてもらいます。また、あしたから「富士日記」の再開です。つまりは日常に戻るのです。

(9:01 oct.5 2003)



Oct.3 fri. 「新宿路上ライブ戦争」

■さて、きのう(2日)のライブのことはあとで詳述するとして、ひとまずきょうのことを書いておこう。
■朝から「資本論を読む」の連載原稿を書いていたのだった。書き終えてメールで送る。一息ついたら寝不足なのにもかかわらずやけに気分がいい。ライブが楽しかったからだな。このノートを少し更新。きょうの予定としては夜八時に新宿でヨミヒトシラズのT君らと待ち合わせすることになっているので、まだ時間がある。少し読書。それから眠ることにした。目を覚ましたのは夕方、松倉から電話があったからで、いま笠木と一緒にオペラシティにいるという。二人が家に来て少し話をしたあと、では松倉に東京見物をさせようと話が突然まとまり、あわててクルマで六本木に行く。子どもにはヒルズでも見せときゃいいだろうと、外苑西通りを、コーネリアスの『
POINT OF VIEW POINT』を流しながら走ってヒルズへ。松倉、案の定おおよろこび。ところが、新宿へ戻る道が渋滞している。
■新宿に到着したのは八時半。機材を降ろし、かけつけたT君、松倉、笠木たちは先に南口に行ってもらい、僕はどこかにクルマを止めようと新宿を走る。南口のわりと駅に近い駐車場に入庫。そこから駅の改札方向に歩き出したが、金曜日の夜の新宿はとんでもないことになっている。バンドがものすごくいる。ギター一本で弾き語りとか、そういったレベルではなく、もうバンドだ。みんなと落ち合ってどうしようか相談。なにしろ、これはもう戦争である。バンドによる、場所の取り合いだ。

■で、面白かったのは、あたりを仕切っているおじさんがいたことだ。どう見ても、ホームレスにしか見えないその人は、このあたりを仕切っているとのことで、ここはJRの敷地内だから警備員に排除されるし、南口の階段下、GAPの前の広場は「怖いお兄さんたち」の縄張りだから気をつけたほうがいい、警備は一時間おきぐらいに見回りに来る、いつもここにいる「アンデスの人たち(ミュージシャン)」が来たら話をつけてやるなどいろいろ教えてくれる。話を聞いた笠木に、「しっかりしなきゃだめじゃないか」と説教したらしい。そういう「仕切屋のおじさん」が二人いた。いったいこの人たちはなんだろう。
■路上ライブをやった初日(10月1日)、集合場所になったルミネの東側出口、その前の歩道で歌うことにしたが、となりでバンドが大きな音で演奏中。そちらの演奏が終わるのを待っていなければいけない。待っているあいだ、下の広場を見れば、やはりバンドが演奏しており人垣ができていた。で、さっきおじさんが話していたとおり、「怖いお兄さんたち」が突然やってきて排除されていた。ああ、おじさんのアドバイスは的確だなあと思いつつも、あの「怖いお兄さんたち」も何者かと思うが、まあ、つまり、その筋の人たちですね。新宿で歌う松倉
■少しとなりが落ち着いたので松倉の歌がはじまった。気がつけばこのノートを見たのだろう人も何人か来てくれた。かつて関西ワークショップに来ていたK君も仕事帰りに足を運んでくれ、だからやっぱりスーツ姿だ。バンドの映像を撮り続けている人がいて、話によればそうしたドキュメンタリーを作っているという。二日前の路上ライブより歌はずっとよくなっている。落ち着いて歌えるようになった。一通り歌って休憩することにした。こちらが終わったとわかると、となりのバンドがまた音を出す。戦争だな。新宿路上ライブ戦争である。おそろしい。仕切屋のおじさんたちもいるし。

■近くのカフェで休憩したあと、再び、同じ場所に戻る。そのあいだ足を止め見てくれた人に松倉のことを教えようと、このページのURLをプリントしたものを笠木たちが近くのキンコスで作ってくれた。笠木は松倉の母親みたいになっており、本人に言わせると、ずっと家に泊まっている松倉との関係は、「うるるん滞在記」だそうである。
■二回目の演奏。だんだんギターのT君と松倉の呼吸もあってきて、さらによくなっている。堂々と歌う松倉。T君のギターもとてもいい。これがきょう最後の歌。第一回目の東京での松倉の最後の歌だ。少し成長したのではないかというのが僕の感想である。たとえば、これまで松倉は大学の発表公演の舞台で歌ったりライブをするたび声をつぶしていたが、今回はそれがなかった。本人が意識してのどを守ろうとしていたのもあるだろうし(表現者としての自覚)、のどがつぶれないコツ(ある種の技術)を身につけたのではないか。精神的な成長も大きかったはずだ。それと、「成長」とはべつの話だが、声がつぶれなかったのはサポート体制が万全だったのもある。ヨミヒトシラズのT君がほんとうによく松倉をフォローしてくれた。感謝してやまない。笠木とだんなさんの瓜生君もすごくよくしてくれたし、場所を見つけ、ダンスも披露した伊勢にも助けられた。そしてライブに足を運んでくれた80数人の方たち。ほんとうにありがとうございました。
■歌がすべて終わったころ、白水社のW君がかけつけてくれた。もう一度聞いてほしかったな。で、W君がかかわっている「巨大仏」のサイトがあるのでそちらを読んでいただきたい。そういえば、ライブ当日、編集者四人、W君、柏書房のHさん、「ユリイカ」のYさん、現在無職中のE君(誰かE君に仕事を)が、固まって話しているのが面白かった。ほかにも、岩崎書店のHさんもいたので加わってほしかったなあ。男の編集者が輪になって話をする姿は見事に不思議な図であった。

■というわけで、「ライブ当日(10月2日)」のことを書こうと思ったが、それはべつのページにする。いただいたいメール、きのう紹介した武山君の何枚かの写真がみんないいので、それもまとめて紹介だ。えーと、ここまで書いて私は疲れてしまいました。「ユリイカ」の連載も書かなくてはいけないのだ。ああ、もう連載の締め切りが次々と来る。「2003年10月2日」というページを近日中にアップ予定。ご期待いただきたい。それにしても楽しかった。松倉の歌もたっぷり聴けたし、子どもぶりをずいぶん楽しんだ。ライブはまたきっとやるがこれから先のことはまだ考えない。メジャーデビューとか、そういったことを考えはじめるとつまらなくなりそうだからだ。誰かが、どこかで、発見してくれるのを待つ。それが松倉らしいと僕は思うのだ。

(6:45 oct.4 2003)



Oct.2 thurs. 「その日である」

■ライブに足を運んでいただいたみなさん、ほんとにありがとう。80人以上が恵比寿の
Otraに来てくれた。詳細は追って書くがひとまず簡単な、お礼と報告まで。私はいま、「資本論を読む」の原稿を書いている。午後の二時までに書かないと落ちるのだ。

歌う松倉と、ギターのT君


 写真は、会場に足を運んでくれた武山君からメールで提供してもらいました。とてもきれいな写真だったので掲載。ありがとう。そういえばヨミヒトシラズのT君は、念のためといって当日配布されるCDを100枚焼いたのだが、念のためどころか、関係者分をふくめ、あるいは、終わってから来た人のぶんをふくめほとんどさばけた。100枚用意してよかったよほんと。T君は死にそうになりながら焼いたそうだがあやうく足りなくなるところだった。今回、T君の活躍にほんとうに感謝。やっているわれわれも楽しかった。感想のメールも多数いただきました。随時、紹介していきます。松倉も新宿でやったときよりずっとのびのびできたのではないか。うしろのほうの席になると音響が少し聞こえが悪くなりそこが課題であろうか。またライブはやってゆくつもりなのでこれを手がかりに松倉の歌をもっと多くの人に聴いてもらいたい。詳細はまた。繰り返しますが、ご来場、ほんとにありがとうございました。わたしは原稿を書くのです。

(14:30 oct.3 2003)



Oct.1 wed. 「深夜、路上で練習」

■もっと練習が必要だ。突然だが路上で歌うことにした。もう、夜11時になっていた。深夜の路上ライブである。場所は新宿。松倉は歌う。その姿を目撃している人たちのなかにはムーンライダーズの鈴木慶一さんもいる。

歌う松倉と、ギターのT君


■話は前後するが、きょうの記録を書いておこう。
■宿泊先を提供してもらっている笠木に連れられ、松倉が千葉の船橋から新宿に着いたのは午後五時過ぎ。風邪をひかないようにとずっとマスクをしている。ヨミヒトシラズのT君が重い荷物を運んでやってくる。アンプとスピーカーが一体になった機材やギター。これから練習をかねて路上ライブをやろうという思いつきの計画だ。みんな集まったところで近くの喫茶店「ピース」に入ってミーティングすることにした。
■喫茶店に向かう途中、路上で歌っている二人組の女の子がいた。沖縄から来たのだという。その姿を見て、われわれは、様々なことを学んだのだった。自分たちが何者であるかを知らせるアピールが書かれた手書きのボードがある。ああ、そうか、そうだったか、こういうことになっていたのか路上ライブ界は。私たちはなにも用意していなかった。喫茶店「ピース」に入り、笠木も交えてあしたのこと、きょうの練習のことなど相談する。ボードを作ろう、あしたのライブを告知する簡単なフライヤーがあったらいいなど決める。

■笠木は六時半から芝居の稽古だというので、中野坂上へ。そこで私たちは、ひとまず腹ごしらえと下見を兼ね、恵比寿の
Otraに行ったのだった。いろいろ料理を注文したが、ピザみたいな料理(名前がわからない)がとても美味しかった。そして現場を視察し、さらにあしたのことをミーティング。松倉はあしたここでライブをやると気がついているだろうか。食べ物に夢中である。
■さらに初台のわが家に戻り、ボードなどを作る仕事へ。クルマで移動。パネルに紙を貼って簡単なアピールボードを作るが、松倉が絵の具を使って筆で描く。絵ができてゆく。「タコ」「トリ」「カタツムリ」。ここでもまた、松倉の子どもぶりは全開である。私は、
iBookで簡単なフライヤー作り。このページのトップにある文字の、Illustratorに保存してあるデータを使ったので作業は早い。プリントし、それをコピー。コピーしたものをT君がハサミで切りそろえてゆく。ものすごい速度で作業は進んだが、「タコ」の絵を描いている松倉は、途中、子どもの時に描いたという「タコのマンガ」の話をしてくれる。筆が止まる。フライヤーの作業は終わったが、そんなわけで松倉の仕事は進まない。

絵を描く松倉は、筆が止まっている


■すべての準備を終え、家を出たのはもう夜の10時だ。スタジオ練習にもつきあってくれたギターのT君がかけつけてくれた。場所を決めかね、南口の、青山ブックセンターがあるルミネのちょうど下あたりにいたら、警備員がこちらをじっと見ている。なにかしたら注意するという構えだ。機転をきかしたヨミヒトシラズのT君がその警備員の一人に質問してくれた。歩道か、さらに階段を下りた広場になったような場所なら歌ってもいいとのこと。階段を下りることにした。
■広場ではこんな時間だというのに、まだ人がいて、さらにこれから歌うのだろう女が機材のセッティングをしている。慣れた手つきでてきぱきと作業しているところを見ると、どうやらこの世界ではそうとうな経験者と見た。われわれも場所を決め、簡単な機材のセッティング。そのころ、稽古を終えた笠木が夫婦でやってきた。T君のギターが響く。松倉の声。いよいよ歌いはじめたが、松倉はひどく緊張し、いつもののびやかな声が出ない。途中、「なにやったらええやろ」と僕のところに相談に来る。そして、鈴木慶一さんも来てくれた。松倉も緊張し、不安になっているが、僕もまた緊張したのは、はじめて生の松倉を慶一さんに見てもらうからだ。硬いまま、一通りの歌を終え、ひとまず休憩。
■まだまだ課題はあるな。「東京はこわい町なので」という言葉通り、歌い終えた松倉は「なんか怖いねん」と地べたにへたりこむ。たしかになあ、いきなり路上で歌うのは勇気がいるな。しかも知らない土地だ。途中から見に来てくれた、『トーキョー・ボディ』のスイッチャーをやってくれた(と書いてもなんのことだかわからないでしょうが)浅野が、「ここはアウェーですからね」と言う。それを聞いて慶一さんが、「どこだってアウェーだよ」と重い一言。そうだ。これを松倉に経験させたかったのだ。だから東京で歌えと声をかけたのだ。大学のなかで歌うだけでは足りない。他者に出会わなければいけない。それでまた、松倉は歌ったのである。

さらに歌う松倉


 また一通り歌い終えたあと、慶一さんから感想を聞かせてもらった。まるで自分の舞台について話を聞くときのような気分だ。いくつかのアドバイスがうれしかった。今後はこういう歌を歌えと勧めてくれ、さらに笠木経由で、やってみたらどうかという曲をメールで送ってくれるという。ありがたい。忙しいなかを(いま慶一さんは舞台の稽古中)わざわざ足を運んでくれただけでもうれしかったが、言葉のひとつひとつが、松倉にとって大切なものになった。歌い終わったあと松倉は必ず、「ありがとうございました」と言うのだが、その、少しはにかんだような、はずかしそうな、それでいて、てらいのない言葉がとてもいい。慶一さんも、「あれがいいんだよなあ」と仰っていた。

■みんなと別れ、家に戻ったのはもう午前一時になろうとする時間。JノベルのTさんから「資本論を読む」の締め切りがあしただとメールがあった。よし、それも書く。ユリイカも書く。書評も書く。すべて書く。松倉のライブで雑談もする。すべてをきっちりやってしまおう。船橋に着いた松倉から電話。ほんの少しダメ出し。それは、つまり、僕こそが、いちばん気持ちよく松倉の歌を聞きたいからだ。「雑談」について考えながら夜はどんどん深まり、もう朝になる。

(6:35 oct.2 2003)



Sep.30 tue. 「松倉、東京へ」

■とうとうその日が来た。京都から松倉がやってきたのだった。
■夕方、いま新宿にいるとの電話。迎えに行こうかと思ったが初台まで来れる、一度来たことがあるからわかるという。しばらくすると電話が掛かってきてやっぱり迷っていた。道を少し説明して迎えに行くと、遠くのほうから「宮沢さん」とよく通る声。松倉だった。近くにいた人がびっくりするような声だ。六時近くになってわが家に集合したのは、松倉、ヨミヒトシラズのT君、伊勢の三人。それぞれの紹介が一通りすむと、食事をしながらライブのことを相談する。写真はなにかを見ているT君と松倉。

何を見るT君と松倉


 松倉は早速、子どもぶりをいかんなく発揮。人見知りだが、話をしだすと子どもの傍若無人に加速がつき、いきなり「ショウちゃんがね」と、それが誰か、僕以外わからない人の話をはじめる。鞍馬の火祭りに行ったときの話をしてくれた。自転車で鞍馬の山まで走った。「誰もおらへんかった」と言う。それというのも、日にちをまちがえたからで、祭りでもないのに誰もいないのは当然だが、鞍馬の山のなかは「星がきれいやったあ」そうで、「星々祭り」と名付けて満足して帰って来た。ほかにも松倉が持参した、「小学生の前で歌ったときのビデオ」を見たが、よくメールで「小学生と遊びます」と書いてくるのは、どうやらダンスを小学生と一緒に作るという企画のことらしい。これで合点がいった。その流れで歌うことになったようだ。
 その後、練習スタジオに移動の途中で桜井君と小浜が合流。二人は当日来られないので練習で松倉の歌を聞いてもらうことになっている。スタジオで、ギターを弾いてくれるTさんに初めてお会いした。Tさんのギターは大人の音だった。こんな子どもの松倉で大丈夫だろうかと思っていると、Tさんは、松倉に調子をあわせ、歌いやすいようにと気をつかってくれる。そして、とても心地よいギター。松倉の声。小さなスタジオに人がぎっしりいて松倉の歌を聞く。緊張するなというほうが無理かもしれないが、もっと落ち着いてどうどうとしていればいいが、どうもタメがないのだ。声をじっくり聞かせるという演出をしたくなる。ステージの演出ということではなく、できる限り、松倉のいいところを聴いてもらうためのちょっとした演出である。何曲か予定の歌を練習。

■そういえば、ある方から、メールで、「来場者にデモテープもれなくプレゼント」に関して「テープは聴けない」という指摘をいただいた。つい「デモテープ」と書いたがもちろん「CD」に焼きます。配布されるメディアは「CD」です。さらに、ライブ当日の相談をして問題になったのはいったいどれくらいの人が来るかだ。それに応じて、いろいろ考えなくてはいけない課題があるが、そのひとつに、どれだけの数のCDを焼けばいいかがある。スタジオからわが家に全員で戻ってそんなことを話していると、小浜が仕切る。それが面白い。小浜はもう初日直前のドゥフクレの舞台の稽古で当日は来られないにもかかわらず、やたら仕切るのだった。あと小浜と松倉の会話が面白い。途中から松倉は、この人の話していることはぜんぶ嘘ではないかと気がついてきた。関係ないけど小浜は、「牛久の巨大大仏(あるいはこちら)が見たい」とわけのわからないことを口にする。そもそも「巨大大仏」という言葉がおかしいじゃないか。だって、そもそも、「大仏」だよ。「巨大な大きな仏」というのはいったいなんだ。正確に表現すれば、「巨大仏」ではないだろうか。
■まあ、大仏のことはともかくとして、いったいどれだけの方が来てくれるのだろうか。人数が予想を超えていた場合の混乱に対処できるかどうか。そんなとき、去年まで京都の大学にいらしていまは柏書房で本を作っているHさんからメールがあり、手伝えることはないでしょうかとのありがたい言葉。助けてもらおう。なにかあったらHさんに頼もう。ライブを予定している恵比寿の
Otraは「恵比寿ガーデンプレイス」のすぐ近く(ここ)にある。笠木と伊勢が考えたのはその夜景をバックに歌うという演出だが、では、歌っている松倉がはっきり見える照明があるかといえば、ないわけで、どうしたらいいか考えていると、「懐中電灯を手にして歌おうか」と小浜が松倉に言う。右手にマイク。左手に懐中電灯という仕草。すぐに、「あ、どっちがマイクかわからなくなっちゃうな。懐中電灯に歌っちゃって」とさらに小浜。「声聞こえへんやん」と松倉。いったいこいつらはなにを話しているのだ。そして気まずくなった二人である。

小浜と松倉


 で、私は、きのう書いた「とっておきの雑談」という言葉が気にいっている。こんどなにかの連載をはじめるさいにはこれを使おう。私たちはこうして、「とっておきの雑談」をしつつ、ライブに向けて真剣な討議を続けていたのである。

■遅くなったので、自転車で来たという伊勢と、バイクで来た小浜以外の、桜井君、松倉を新宿駅までクルマで送る。南口に笠木が待っていた。もう深夜の12時を過ぎていた。これから船橋まで、笠木に、松倉を託したのだった。船橋に到着したという電話を笠木からもらったのは、もう2時近く。遠いなあ。それで、子どもぶりが迷惑になるだろうこと、いきなり「ショウちゃんがね」と言い出すだろうことをあらかじめ告げたら、「もう聞きました」という。「出ました、ショウちゃん、すでに」と笠木。
■ライブに向けて、すでに戦いははじまっていた。あしたもまた、松倉を東京の町に連れだしライブに向けて修行をするのである。あ、そういえば、カンパしたいと申し出てくれた方からさらにメールがあり、きのう、「ライブに来てくれるのがなによりのカンパである」と書いたが、長野の人だった。申し訳ない。いつかサイトから音楽が配信できればと思うのだ。長野から、船橋から、そして京都から、と、いきおいにまかせて書いてしまったが、なにを書こうとしていたかよくわからない。ともかく戦いはすでにはじまっている。「ショウちゃんがね」との戦い。いったい「ショウちゃん」の正体は何者か。

(6:19 oct.1 2003)



Sep.29 mon. 「10月2日にむけて」

■暫定的に数日間だけ「松倉緊急ライブ日記」を書くことにした。それから、ライブ会場のお店、「
Otra」はこちらのページに詳しい情報があります。あと詳しい地図はこちら。

■ヨミヒトシラズのT君。笠木、それから『トーキョー・ボディ』にも出ていた伊勢と連絡をとりあいながら連携プレイ。というのも、あした(30日)、松倉が東京に出てきてT君の知り合いのギターを弾いてくださる方と練習を都内某所で開始するからだし、ライブが目前に迫っているからだ。ここに来て、ばたばたしているが、T君と笠木、それから店のことを手配してくれた伊勢のおかげでなんとかうまくいきそうだ。
■チケット代は少し高いかなと思いつつカンパも含まれるとご理解いただきたい。あと、僕もとっておきの雑談をする。伊勢も踊るかもしれないと、僕が勝手に決めたので本人は驚いていたが、ほっといても踊るのではないだろうか。あと誰かがコントをやるという案もあったが、きっと失敗するに決まっているし、お客さんが「あれさえなければなあ」とつぶやきながら帰ってゆくのは目に見えている。なにしろ、松倉の歌がメインだ。まあ、紹介もかねて僕は話をしようと思うのだし、ここにいたる経過を話しておきたいと思っているのもある。
■桜井君から、2日はローザスを見に行くとのことで来られないと残念な話。いや、それより、桜井君の病気が想像以上に重いようなので、そっちのほうに、驚く。みんなある年齢に達してくるとからだがどこかおかしくなる。僕もそうだ。昔からの友だちがみんなそうした年齢になっていることに、なにか愕然とした思いになるのだ。

■ライブ以外にも、桜井君にも聴いてもらいたいし単発でどこか路上でできたらいいが、いろいろ条件はむつかしいのであった。あと、松倉は船橋にある笠木の家に泊まることになったのだった。いやあ、船橋はいい町だ。人情ってものがまだ生きている町で、松倉に笠木がメールで、「うちでよければ、船橋というとても遠い町ですが」と書いたところ、松倉の返事が、「東京はこわいところなので千葉で幸いです」と遠いことを気にしていなかったという。というか、松倉に地理感覚というか、東京の距離感覚がないだろう。
■で、あした松倉が東京に来たらすぐに打ち合わせと練習だが、練習のときデモテープを作る(2曲入り)。それを2日のライブ当日に来たお客さんに配布するのだが、その作業もヨミヒトシラズのT君がやってくれる。そういえば、『トーキョー・ボディ』以来、久しぶりに、今回のことで伊勢と電話で話をしたが、伊勢の人をなごませる感じはいったいどうなっているのだろう。とても楽しかった。で、当日はいろいろ手伝ってくれるとのこと。ありがたい。そして私は深夜になっていきなりこのページや、地図を作ろうと思い立ち、せっせと作っていた。
■というわけで、なによりも大勢の人が見に来てくれたら幸いである。そして繰り返すようだが、メインは松倉の歌だ。松倉の歌を堪能してください。御高評受けたまわり今後の課題にしたいと思います。これをきっかけに誰かに「歌」が届けばと思うのだ。

(6:44 sep.30 2003)