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Published: Feb. 21, 2003
Updated: Jul. 1 2004
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 *遊園地再生事業団『トーキョー/不在/ハムレット』公演(二〇〇五年一月)と、
  それに先立つ「プレ公演」のお知らせはこちら。 → CLICK

 *『トーキョー/不在/ハムレット』プレ公演第二弾・映像作品上映会
  『
be found dead』は池袋シネマ・ロサにて2004年7月17日からレイトショー。
  17日はアフタトーク「青山真治×宮沢章夫」あり。必見。


Jun.30 wed.  「稽古は進む、そして京都の空」

■いきなりだが寝不足だ。朝、眼が覚めてから思うようにからだが動かなかったが朝食を食べなんとか九時ちょうどぐらいには大学内にある小劇場「studo21」に到着。入ったすぐの壁に田中泯さんのダンス公演のポスターが貼ってあるが、見れば大きな文字でポスターに、「こんにちは、田中泯です」とあって笑う。また「テキストを読む」で学内を歩いた。途中、ものすごい雨。しばらくすると、また空は晴れ暑い京都になった。どうなってるんだこの天気は。授業を終えてホテルに戻り眠った。夕方五時に眼が覚めてまた大学に戻る。「studo21」で、二年生の発表公演『ガレージをめぐる五つの情景』の稽古をする。五つある景のうち(ってタイトルを読めば当然そうだが)、第四景の稽古をわりと細かくやる。少しずつ世界ができてきた。そこに生きる人物たちになってきた。
■今年の二年生は受講者数が多かったので、そもそも出演者が比較的多い作品だがAとBのダブルキャストになって、誰か欠席する者がいても、どちらかの出演者がいることで稽古はできる。とはいえ、どうしても稽古の足りない学生が出てくる。だから全体的に考えればまだまだ半分もできていない印象。
■ホテルに戻って夜、東京と映画のことで連絡をとる。7月2日に追加の撮影をする進行の話など。浅野の監督した第二話はもう死体部分の撮り直しをすませたそうだ。よかった。『亀虫』の富永君の担当部分もどうやら完成したらしい。みんなそれぞれ限られた条件のなかでがんばってくれるし、2日の撮影には、映像班の鈴木、浅野が、自分の仕事や、作品の編集時間を割いて追加撮影に参加してくれる。その2日には、二回目の試写会があり、出演者、協力者に見てもらうが、僕の『川』は、そういうわけでまだ未完成だ。申し訳ない。というわけで私はこのところ仕事ばかりしていて世界がどういうことになっているかまったく無知だ。新聞も読まないしニュースも見ない。これはいいことなのかどうかよくわからない。

(10:31 jul.1 2004)


Jun.29 tue.  「京都は暑かった」

■朝九時から授業があり、しかも「テキストを読む」という授業は学内を歩くが坂道と階段ばかりのキャンパスを歩くのはきわめて疲れる。午後、発表公演のための授業で、『ガレージをめぐる五つの情景』の稽古だったが、授業時間を越え夕方六時過ぎまで続く。その後、大学内にある小劇場「studo21」の客席を公演にあわせて変則的に組んだものを元に戻す作業があって学生たちが自主的に進行する。そのあいだ僕はなにもすることがないが、担当教員として、ただ待っている。食事をして部屋に戻ったのは夜の九時過ぎ。
■午前中の授業のせいかぐったりしていたが、「文學界」からゲラがホテルにFAXで届いて深夜の午前二時までに戻さなくちゃならない。かなり眠かったがこつこつ進める。途中、桜井君から『
be found dead』の音楽の件で電話がある。今週はまだできないとのこと。困った。来週から僕はずっと京都になってしまう。ネットを利用して音楽ファイルのやりとりで相談しようかとも思ったが、映像とあわせ、編集してくれる人間に指示をしながら音楽を入れたいので、7月11日は稽古が休みだからその日だけ東京に戻り音楽を入れる作業をすることにしようと決めた。小説のゲラは深夜の一時を過ぎてようやくできあがりFAXで送る。できあがったら眠気がさめていたものの、あしたも授業が朝からあるので薬を飲んで強引に眠る。
■眠る直前、青山真治さんの「名前のない日記」を読む。東大でやっているという青山さんの授業をいよいよ聴講したくなった。とはいっても、時間的にいまは完全に無理だ。秋からも続くならぜひ行きたい。で、関係ないが、失敗したのは『資本論』を京都に持ってくるのを忘れたことだ。原稿が書けない。締め切りはすぐそこに来ている。「ユリイカ」の連載もある。先月は休載したので、今月こそはいい原稿を書きたいが、かなり不安である。京都はひどく暑い。京都での生活もあと一ヶ月ぐらい。これが最後だから、もう少し京都を楽しみたかったがしょうがない。こんどは、大学とは関係がなく、ただ観光するために京都に来たい。ぶらぶらしたい。そうだ、円通寺にはぜひとも行きたいのだ。そんなことを考えているうちいつのまにか眠っていた。

(14:45 jun.30 2004)


Jun.28 mon.  「桜井君は音楽を作っているだろうか」

■こう忙しいと、忙しくないとおかしな気分になるくらい仕事をしているわけだが、午後のわりと遅い時間に東京を出て、夜、京都に行き大学の発表公演のための稽古をする。いつものように大学内にある小劇場「studo21」である。つくづくこのスタジオが贅沢だ。僕が着くと、すでに学生の手で今回の発表公演『ガレージをめぐる五つの情景』のために変則的な客席が組まれていた。こうしたことができるのも「studo21」のおかげだ。少しずつ作業は前進。公演までもう一ヶ月を切った(7月23日〜25日)。あちらこちら命がけ。また稽古を少しずつ進める。それにしても今年の学生の自主性のようなものには助けられ、励まされ、映画や自分の公演だけではなく、こっちもきちんと仕事をしようと後押しされる。しかもこのあいだの土曜日、稽古の前に鍼治療をしたおかげか、腰にほとんど違和感がなくなって、自由に動けるものだから、ここはこうやってと動きながら演出ができるようになって力が入る。
■ホテルに戻り気がついたときには、うつぶせになってまだベッドカヴァーのついたベッドに倒れるように眠っていた。目が覚めたら少し風邪気味だったので薬を飲む。深夜、映画のことで東京と連絡。少しずつ着実にできてゆく。いま心配なのは、もうご存じのように、もちろん音楽のことだ。桜井君は作っているだろうか。あれからなにも連絡がない。サンプルとか作ってくれればいいが、文字通り音沙汰がないので、それだけが不安でならない。作ればいつもいい音楽を提供してくれるが、時間だけがなあ。5日から僕はもうずっと京都に滞在することになる。不安だ。そういえば、このあいだの試写会のとき、富永君の作品だけ一部、音楽が入っていて、音楽ってやつは油断がならないと思うほど、それだけで世界ができるから困りものだよ。シネマロサは席もよければ、音響もいい。
■最近ではもう、京都にいるんだか、東京にいるんだかよくわからないことになってきたが、ともあれ、『
be found dead』はできるだけ多くの人に見てもらいたい。唯一、関係者以外で試写を見てくれた「文學界」のOさんから面白かったとの感想のメールがあった。うれしかったが、最後まで粘って作ろうと思う。

(8:14 jun.29 2004)


Jun.27 sun.  「夕暮れの新宿歌舞伎町」

■夕方、新宿の歌舞伎町に行き、といってもべつに遊びに行ったわけではなく、来年一月の『トーキョー/不在/ハムレット』本公演に使われる映像の撮影である。どうしてもこの場面はこの時期、つまり六月に撮影しなくてはいけなかったのだが、なんとかそれに間にあった。撮影はいつものように映像班の鈴木で、出演者は片倉君だ。贄田継次が歌舞伎町を歩く場面だ。薄暗くなるのを待つあいだ、歌舞伎町の奥の方にある喫茶店で時間をつぶす。その、なにやら怪しい喫茶店には若い女の子が働いており、こんな喫茶店で働くくらいなら、風俗で働いたほうがずっと稼げるのではないかとまことに失礼なことを考えていたのだった。
■日も落ちて、それでもなお空は明るく、ぼんやりとした光のなかで撮影。派手な色にあふれた看板やらネオンがやかましいくらいに歌舞伎町を包む。いろいろな人がいる。奇妙な人々の群れだ。といっても、私たちもそのうちの一人であり、はたから見たらさぞかし怪しかっただろう。いくつかのテイクを撮影してきょうのところは終了。終わってから食事をしたのは、伊勢丹に近い「王ろじ」というトンカツ屋で、これもまた実は小説に出てくる店だ。「王ろじ」の「ろじ」は「路地」のことだと店の壁に貼ってある「店名の由来」で知ったのはもうずいぶん以前のことだ。まあとにかく、トンカツがうまい。
■それで、もう一日、映画の撮影をすることにした。スケジュールはほとんどないが、それでもぎりぎり一日だけ時間が取れ、みんなに無理を言って頼む。つまり、『
be found dead』の第五話、『川』の死体だ。これをどうしてももっとよくしようと、とにかく粘る。さらに編集案をいろいろ考え、鈴木にもいくつかアドヴァイスをもらってまた編集も直すことにした。制作の永井をはじめ、みんなには迷惑をかけるが、いいものにすることで理解してもらいたいと思うのだ。

■少し時間があったが、気分的にはあまり余裕はなく、いまは『川』のことで頭がいっぱいだ。それにしても、なんてせっかちな人間なんだと思うのはきのうのことで、夕方、稽古があるからそのとき話せばすむものを、きのうの昼間、浅野の作った『
be found dead』の第二話の死体発見場面が気になって撮りなおすようにと笠木と浅野に立て続けに電話したことだ。脚本段階からかなり浅野には注文をつけ、何度か書き直しもしてもらったが、見事にそれに応える作品になっていた。だから、最後だ。死体である。そう思ったらいてもたってもいられず、電話していた。せっかちだなあ。焦ったところでろくなことがないのは、よく知っているはずだが、それができないから困る。夜、「Mac Power」の原稿を書く。今回はほんとうにくだらない原稿になった。

(4:30 jun.28 2004)


Jun.26 sat.  「そしてまた稽古はつづく」

■さらに水曜日(23日)と木曜日(24日)は京都にいた。木曜の授業を終えたのは午後五時ほど。それからタクシーで京都駅に向かい、家に戻ったのは夜九時少し前だった。家には制作の永井と、『トーキョー/不在/ハムレット』に出演し自分でも映画を作っている岸がいて、『be found dead』の第五話『川』の編集をしていた。僕も加わり岸に注文をつけながらアップルのビデオ編集ソフト「Final Cut Pro」を操作する岸の手つきを横で見る。急いでいたのは25日の夜に池袋シネマロサで「試写会」が予定されているからだ。時間は刻々と過ぎてゆき気がついたときにはすでに25日の夜九時になっていた。なにがあったんだこの二十四時間で。京都にいたのが、ついさっきのような、あるいは、ずっと過去のことのように感じ、時間に対する感覚がおかしくなっていた。
■編集中の岸のことについては書き出したら気が狂いそうになるのでやめるが、編集にもっとも時間がかからないだろうと思われた第三話『イマニテ』(というのもワンカット固定カメラの作品だからだ)の作業に約五時間かかったのはいったいなぜだ。編集にはテープからコンピュータに取り込む行程がまずあるが、最初に試した岸が持ってきた
iBookで取り込めぬからと、次に僕のPower Bookで試したがだめだ。だったら最初から使えよって話だけれど、なぜかそこにあったPower Mac G5でも試したが、やっぱり取り込めないことがわかって、だが、そこにゆきつくまでに様々な試行錯誤や謎が出現し、時間はあれよというまに過ぎていったのだった。その途次、ひとまず編集し終えた『川』をテープに書き出そうとしたときのことだ。「Final Cut Pro」には書き出しの際、カウントダウンが付けられるようになっているが、カウントダウンの「5」のあたりで「コマ落ち」が発生し書き出しが自動的に停止した。カウントダウンでコマ落ちするなよといますぐ近くにあるアップル社に抗議しにゆこうと思ったが、行くとアップルの社員に、「あなたたちは、こんなことをしている場合じゃないでしょう」と言われるのではないかと思い、抗議するのはやめることにした。そうだ、時間がないんだ。そんなことをしている場合ではない。しょうがないから、二台のカメラを使ってマスターから上映用のビデオへ、編集もしてないただの素材のままコピー。『川』と『イマニテ』を手に池袋へ急いだ。夜十時ぐらいになって上映開始。
■鈴木、浅野の作品もよくできている。まだ音楽がついていないのでさらにこれからよくなるのではないか。富永君はまだ編集の途中だった。聞けば、編集をはじめたのはその日の三時からだったという。だが、それでもあわてずのんびりと、悠々と構えている風情が独特で面白いっていうか、なんだこの男は。すべてが終わったのは深夜の十二時になっていた。いろいろ思うところがあって、反省点も多く、運転しながら帰りの道、少し憂鬱になったのだが、やっぱりタイトルにある通り、
be found deadなのだから、死体をいかに撮影するかだと僕の作った『川』は、最後に発見される川に浮かぶ女のカットだけで一日かけるべきだったとか、考え出したらもうきりがないものの、編集でもまだできることがあると、ずっと鬱々していたのだった。やっぱり『川』は腰が悪いときに作った映像である。腰が見事に反映している。
■「文學界」に発表する小説は、タイトルが『秋人の不在』になった。七月初旬に書店に並ぶだろう。その直したゲラを取りに文學界のOさんがシネマロサまで来てくれた。申し訳ない。そのまま試写も見てもらい感想を聞く。

■26日(土)は『トーキョー/不在/ハムレット』プレ上演第三弾「実験公演」の稽古。「実験」のための「実験」をする。それはきわめて楽しい実験になったがそれよりずっと『川』のことを考えていた。まだできることがあるのではないか。どうしたらいいか、そうだ、あれをああしてなど、いろいろ。考えはじめたら眠れない。

(16:00 jun.27 2004)


Jun.22 tue.  「日焼けをした」

■ノートの更新がずいぶん滞ったのは単純に忙しかったからだ。京都の大学で教え、週末は映画『be found dead』の撮影。「文學界」に掲載される小説のゲラの直し。頼んであった映画の荒編のチェックなど。
■先週まで車椅子で授業をしていた人間が、週明けに会うとやけに日焼けしているのを見たら学生はどう思うだろうかと思いつつ京都にやってきたのはきょう(22日)の朝だった。昨夜(21日)は台風の影響で新幹線が止まって京都に行けないのをいいことに夜遅くまで、編集を頼んである岸と永井が家にいて、編集について打ち合わせをしていた。しかしそこにいたるまでの岸のうっかりぶりとつくづくついてない男の話を書き出すときりがないので、またこんどそれは書くことにする。
■撮影の日々を少し記録しておこう。

■19日(土)。横須賀市の久里浜という町である方のお宅をお借りしてロケだった。久里浜は三浦半島の突端のような位置にあり、ペリーの黒船がやってきたのがこのあたりらしく近くにペリー公園がある。東京からだとおそろしく遠い。朝、七時に家を出て首都高と横浜横須賀道を走ったが途中、首都高が渋滞し、さらに道をまちがえ少し遅刻。俳優の小田豊さん、桜井昭子さん、そして漫画家の安彦麻理絵に出てもらった。桜井さんと一緒に舞台をやったのは『箱庭とピクニック計画』だからもう十年ぶりに仕事をしたことになるし、安彦にいたっては『ヒネミの商人』(一九九三年)以来である。桜井さんはかつてよりずっと落ち着きを感じ、からだから静けさのようなものがにじみ出ていると思ってそれがこの十年という時間なのだろう。そして安彦はやっぱり面白い。安彦が僕の舞台に初めて出たのは十六年前、十九歳のときだったという。それがいまや一児の母だ。驚かされる。オムニバスで構成された『
be found dead』のうち僕の担当する『川』には、鈴木慶一さんをはじめかつて舞台を一緒にやったことのある人たちに何人も出てもらった。撮影はおそろしく大変な仕事だったが、こうしていろいろな人と作業できることの楽しさだけで、また作りたくなった。浅野、鈴木組の作品には何人かの編集者に出演してもらっているが、柏書房のHさんに出てもらわなかったことがいま最大の後悔である。慶一さん、小田さんと一緒に洗濯機をただ見ているだけでもいいから出てもらえばよかった。
■20日(日)は埼玉県北部での撮影。朝七時に加須のココス駐車場に集合。北川辺、栗橋、加須の三つの町を行ったり来たりする一日だった。小田さんと田中夢、そして「犬」に参加してもらい、取りこぼしたカット、あるいはすでに撮影がすんでいたが確認すると使えない場面をいくつか再撮影。午前中はまだ曇り空だったが、午後から埼玉県北部はびっくりするような好天で、利根川や渡良瀬川の河川敷で映画のロケをしていたわたしたちに紫外線は容赦なく射す。服から出ているからだの部分が、赤くなり次第に黒に変わり、顔は健康そのものである。これでまだ腰が悪く車椅子で行動していたらいかがなものかという日焼けだ。それにしてもやっぱり悩まされたのは犬だったよ。つまり次のように書かれた脚本がそもそもまちがいだったのだ。
○利根川の河川敷
     犬をつれた高哉。
     不意に、犬が茂みに入ってゆこうとするので、

高哉 こら、なんだ、おい。

     犬はまだ進もうとする。

高哉 引っ張るな。力がな、入らないんだ。
   ダンベルがな、ゆうべあれだったから。
   おい、そう引っ張るなって。

     だが、犬に引きずられ、
     河川敷の茂みになったあたりに入って行く。
     川の音が大きくなる。
     茂みは続く。
     犬が止まる。
     高哉も足を止めた。
     川からの流れがせき止められ池のようになった場所。
     水。
     川の流れる音がさらにする。
     見つめる高哉。一点を凝視したまま、動かなくなる。
 なかでも、「犬が止まる」だ。止まらないんだよ、犬は。疲れたり、走るのに飽きるとべったり地面にへたりこむ。犬の機嫌をとるのに必死だ。
■小田さんと犬の撮影は昼までに終え、あとは風景やモノを20カットほど撮る。「利根川」「草」「ローソン」「河川敷に群生する植物」「空」「国道125号線」「北川辺町の風景」「携帯電話」など。帰りぎわふと「携帯電話」を撮っていなかったのを思い出したときにはもう暗くなる時間で、東北自動車道の蓮田のサービスエリアの明るい場所で撮影。それにしても一日中クルマを運転しているうち埼玉県北部の地理にやたら詳しくなった。運転は疲れたが、今回の撮影にスタッフで参加してくれたもう一台のクルマを運転している片倉君に「疲れない?」と質問すると、「基本的にクルマの運転は疲れないんですよ」という返事だ。この人はいったいどうなっているのかと思った。その前日、久里浜からの帰りの車中、疲れきったわたしは運転しながら、同乗していた、『トーキョー/不在/ハムレット』に出演し今回はほとんどの撮影にスタッフとして参加してくれた上村や、浅野、演出助手のMさん相手に、ずっとくだらないことをしゃべり続けた。「携帯電話」のカットを撮り終えて『川』の撮影はすべて終了。帰りの首都高は渋滞。家に戻ったのはもう深夜になっていた。

■腰はほぼ治った。まだ少し痛いが普通に歩ける。木曜日の夜(17日)、東京に戻ってすぐに鍼治療してもらったのがよかったようだ。18、19、20日と『
be found dead』の撮影が心配だったが、20日の午後から歩行が楽になった。ずっと立っているとさすがに腰に疲労を感じるし、同じ姿勢でずっと座っていると立ったとき痛みがあるが、もう車椅子は大丈夫だろう。よかった。これから大学の発表公演の稽古が待っている。六年前のように一ヶ月半その状態だったらどうしようと不安だったが、それから解放されただけでも精神的にたいへんよろしい。
■きょう(22日)は朝六時台の「のぞみ」で京都へ。車中、ずっと「文學界」に掲載される小説のゲラの直しをしていた。京都駅からタクシーで大学内にある
studio21のすぐそばまで来る。午前中、一年生の「舞台基礎」。午後、二年生中心の発表公演のある授業を夕方六時まで。僕が忙しいのもあって稽古はあまり進まない。もどかしい。ただ学生たちの自主性に助けられており、稽古時間は圧倒的に足りないがそれなりの形になってきた。といっても、まだまだ。ホテルにチェックインするとすぐに眠る。先週はベッドが柔らかすぎて腰が痛くなったが、今週は驚くべきことにマットと布団のあいだにベニヤを引いてくれて固くなっている。ベニヤ板の上で熟睡。
■演劇についてもっと考えたいが、20年舞台をやっていると、新しい発見をすることが少なくなって、ある一定の法則や身につけた手法で作ってしまうきらいがあるが、映像作品を作るのが楽しかったのは、限られた条件のなかで、しかも自主制作というきわめて小さな枠の中で作るとき、様々な工夫を思いつくことだ。だから逆に言うと、もっと乱暴な表現のふるまいができたのではないかという反省があり、僕の作った二作に関して言えば、小さくまとまってしまった印象だ。あと、撮った映像をあとで見返したところ、「テレビはつけるな」「リモコンはだめだ」という、よく考えてみればなんでもないせりふを、小田さんがものすごいシリアスに演じているので演出の失敗だなあと思いつつ、不謹慎にも、大笑いしてしまった。これはこれでいいのかな。だけど演出をしっかりするべきだったとやはり反省。もっと力を抜きましょうと伝えなくちゃいけなかった。ダンベルを手にして構え全身に力をこめると、「リモコンはだめだ」と言う。そういうせりふじゃないですね、これはあきらかに。

(6:24 jun.23 2004)


Jun.18 fri.  「トーキョーに戻る、そして鍼と撮影」 ver.2

■なにより大変なのはホテルのチェックアウトだ。大きな荷物をどうやって運びつつ車椅子でフロントまで行くかだが、車椅子で部屋を出るのがまず一苦労だ。きのう(16日)の夜、学生の松倉から電話があって、なにか困ったことがあったら連絡してください、家が近いからすぐ行きますと言われ、そのときは、だいじょうぶだいじょうぶと応答したが、さすがにチェックアウト(17日)は助けがほしかったし、チェックアウトの時間が午前11時、授業が午後1時から、そのあいだ、ホテルのそばにあるスターバックスで本でも読んで時間を潰そうと思うがそこまで行くのもこの腰だと想像を絶する大事業になる。助けてもらおうと松倉に電話すると、よりにもよってその朝から松倉の携帯が止められてやがった。
■ホテルの方の助けを借りてなんとかスターバックスへたどり着き、『ロスト・イン・アメリカ』という映画に関する本を読む。黒沢清、青山真治、阿部和重らによる対談や座談会がまとめられている。そういえば、うちの学生の四年生のY君から、Y君が主催する学内映画上映会でのアフタートークのようなものへの出演を依頼されたのだった。月に一度、特集を組んでそのつど教員の誰かが話をする。カサヴェテスのときは太田省吾さんが話をしたという。竹中直人はカサヴェテスがすごく好きだが、それはとてもよくわかる。カサヴェテスの受容は様々な側面があると思われ、太田さんと竹中だと、おそらく受容の方向がちがうように感じるがカサヴェテスの「ある一面」は竹中にぴたっと重なるからだ。そういうやつだよ竹中は。僕は「マルクス兄弟」の特集で話をすることになった。「ハーベー・カイテル特集」はどうだという提案もしたがそれというのも単純にファンだからだ。かつて私は髪が長かったが、なぜ髪を伸ばしはじめたかというと『ピアノ・レッスン』でハーベー・カイテルが長髪にしておりそれがかっこいいと思ったというかなり単純な理由だ。
■午後(17日)、発表公演のある二年生中心の授業。からだが動かせないのがもどかしい。僕のからだの調子が悪いこともあって稽古はあまり進まない。でも最終的にはなんとかなる。してみせる。なにがなんでもそうする。だからなおさら、からだが動かないのがもどかしい。

■東京に戻ったのは夜の八時過ぎだったが、それから腰の具合があまりよくないので鍼治療を頼んだ。いつもの先生の息子さんが家に来てくれた。声も顔も佐野史郎に似ている。息子だからといって油断できない。遠慮しないよ、この人がまた。ものすごく痛い。なにか、腰の、ある一点に鍼を差し込むと、「よし、入った」と声を高くあげ、「いまのは今月のベストですよ」と理解に苦しむことを言う。「いまのは痛かったでしょう」とさらに続けるが言葉が出ないほど痛い。さらに治療を続けているうち、「うわー」とか、「うーん」などと僕のからだについてなにやら驚きの声をあげ、「これはちょっと大変だぞお」と今後のことも心配してくれるが佐野史郎がそう言ったとしたらどうだ。おそろしくてしょうがない。それでもからだは快復する方向に向かっている。ただ、休めない。休んでいる時間はほとんどない。
■きょう(18日)の夜は、鈴木慶一さん、小田豊さんの二人を招いて撮影。ただ回っている洗濯機を見ている二人である。そして洗濯機。いい絵が撮れた。撮影には、『トーキョー/不在/ハムレット』の出演者の一人で身長189センチの柴田、『トーキョー・ボディ』のときは生中継のカメラを担当してくれた服部が手伝いに来てくれ、撮影はもろもろの事情で自分でも自主映画を作っている岸に頼む。それにしても、鈴木さんと小田さんのツーショットはよかった。とても感謝した。その後、岸が「荒編(=大ざっぱな編集)」したものを見て、いろいろ注文をつける。うーん、いくつか不備。悩む。少し落ち込む。しかし、なんとかなる。なんとかしてみせる。常に前向きだが、いいものを作るためには妥協しないようがんばろう。それからさらに映画のことを考える。20日に、また北川辺に撮影に行くが天気だよ問題は。また曇りのち雨の予報。今週はウイークデーが晴天で週末になると天気が崩れる。腹立たしい。
■鈴木さんも、小田さんもとても協力的で頭が下がる。そういう大人に私はなりたいのだ。観客に満足してもらうために、そして映画としての完成度をもっと高めよう。わたしは素人なのでまだまだ不備な点は多々あるものの、周囲のスタッフに助けられる。最後までぎりぎりねばって観客の鑑賞に耐える作品したいと思った。しかし、それぞれの監督の個性が出て、これはきっと面白い映画になるはずだ。ぜひ、大勢の人に見てもらいたい。頼む、見てくれ。

(2:46 jun.19 2004)


Jun.16 wed.  「京都にて」

■月曜日(14日)の夜に京都に着く。出発の東京駅ではかなり歩行が困難で、荷物もあるしいったいどうしたものか途方にくれたが、京都にはホームまで松倉が迎えに来てくれた。荷物を運ぶのを手伝ってもらうが、乗ったのが16号車でホームのはしである。そこからエスカレーターまでのなんという距離の長さだ。タクシーでいつものホテルへ。
■京都に着くまで新幹線のなかで考えていたのは映画のことだった。僕が担当している「川」という作品では、小説にも戯曲にも登場する「詩人」の長いせりふが最後にある。長さを計ったところ優に五分以上だ。音楽のことはこのあいだ桜井君と打ち合わせしたが、考えてみると、シナリオでの指定がただ、「川が流れている」とだけあって、それだけで五分もつのかどうか、いや、もしかしたら六分以上あるかもしれないそのシーンは、それひとつで単独の作品のように考えるべきかと思い、せりふを割って、映像のことを考えていたら、「川の流れ」のほかに30カットぐらいなにかあるべきではないかと思えたし、すると編集もかなり緻密にやるべきだと、せりふをさらに読み直し、いろいろ構想する。まず、全体としてどんな映像にしてゆくか。なにを撮ったらいいか。「植物」「北川辺町」「北川辺ライブラリー」「ローソン前」「携帯電話」「国道125号線」など、小説というか、舞台に出てくるものをいろいろ並べてみる。それをどんなふうにつなげばいいか。
■かなりむつかしそうな作業だと考えてゆくうち、だからこそ面白くなってきた。それでまた夢中になりそうだ。これ以上、仕事を増やしてどうするつもりだ。

■翌朝(15日)、研究室で事務を担当されてるKさんがホテルまで迎えに来てくれた。ほんとに申し訳ない。車椅子を用意し、ホテルからクルマで授業のある
Studio21まで運んでくれた。一週間前は立つこともできなかった状態はかなりいい方向に向かっている。少しは歩くことができるがまだ前屈みでゆっくりしか進めないし、少し動けるようになったからと油断すると、やっぱり痛い。その腰をかばってべつの筋肉でからだを支えようとするから、そこがさらに痛くなる。午後二年生中心の「発表公演」のある授業。少しずつ稽古を進めてゆく。稽古中、そこはこうやればいいと、自分でやってみせたいが、からだが動かないのはほんとにもどかしい。いきなり出てくる「道に迷う女」という登場人物が路上で倒れるが、それがうまくいかない。やってみたいんだ俺は。倒れたいんだ。からだが動かないと、そういったわけのわからぬことにことさら情熱がむくのだった。
■そしてきょう(16日)も朝、ホテルに迎えに来てもらい
Studio21に行く。午前中は一年生の授業だった。
■東京を出る前に仕事をいくつか片づけた。そのひとつが小説のまとめで、第一稿で文學界のOさんに指摘された部分は書き直したものの、全体的なことで小説の登場人物のひとり松田杜李子の、人を支配する「絶対的な力」に対する「信」がどのようなものであるか、もっと書き込めたかもしれないが、からだの調子が悪くてその気力が出なかった。ただOさんに電話してそのことを話すと、「これだけの完成度があれば大丈夫です」という意味の言葉をかけてもらい励まされた。小説は七月に発売される「文學界」八月号(文藝春秋社)にこんどこそは掲載される。『
be found dead』の上映は七月十七日から(池袋シネマ・ロサ)。それに間にあってよかった。

■夜、少し歩けるようになったと油断したらホテルのベッドがやわらかくて、少し変な具合になり、ぐきっと痛い。またやっちまったかと不安になる。このまま通常通りの歩きができないんじゃないか、しばらくこのままではないかと、ひどくいらだたしい。ゆっくり休むしかないのだな。いろいろ見たいもの(舞台、映画)があってもそれもままならぬ。ほんとうに腹が立つものの、なにに対して腹を立てていいかわからない。映画の撮影でいくつか不備が出て、それもいらだたせる原因だ。天気が悪かったのがすべていけないんだ。もっと時間をかけいいものを妥協せずに作りたい。本を読むことはようやく集中できるようになってきた。せめてそれだけでも。

(3:00 jun.17 2004)


Jun.13 sun.  「さらに、その後の腰。それからの日々」

■11日(金)、12日(土)の二日間はロケだった。埼玉県の栗橋と、横浜の戸塚に行く。
■現地の栗橋に午前七時集合だった11日は午前五時に家を出た。腰が痛いがクルマの運転はふつうにできる。早朝の明治通りはすいていた。王子まで走り、そこから高速に乗って首都高から東北自動車道へ。加須のインターチェンジで降りて映画に出てもらう犬を知り合いの家で借り、集合場所へ急いだ。クルマを降りると突然、「腰がだめな人」になってしまう。ずっと車椅子で移動だ。まあ、撮影はいろいろ。天気と犬に泣かされる。その話はまたこんどすることにしよう。この日は夕方五時までぎりぎり撮影したあと、写真家の鬼海弘雄さん、装幀家の間村俊一さんと鼎談があるので、会場にあてられている水道橋のアテネフランセに急いだ。かなり遅刻。申し訳ないことになってしまった。到着したころにはすでに二人の話がはじまっていて、途中で加わるが、驚いたのは入場者の数の少なさだ。10数人しかいない。どうしたことだろう。柏書房のHさんが来てくれた。ほかには以前、僕の舞台に出たこともあるOがいた。撮影でかなり疲れていたが、なにより苦しいのは、エレベーターのないアテネフランセのホールまでの階段だ。四階である。腰の痛い人間にこれはきびしい。また話をした。終わってから鬼海さんの写真集『
PERSONA』にサインしていただいた。
■12日は晴れ。この日はほとんど屋内の撮影なのでなぜ撮影日を逆にしなかったか腹立たしい。こればかりは運にたよるしかないと思ったが、やはり雨男がきっといるのだな。ある方の自宅を借りて午前八時過ぎから撮影をはじめ、途中、休憩を入れつつ、あと三カット撮ればきょうの予定は終わると思ったころにはもう夜の11時過ぎだ。最後のカットを撮ったのは戸塚駅の改札付近だったが、戸塚の夜は怖い。ヤンキーが寄ってきて話しかけられたがこっちはもうへとへとだし、だいたい俺は腰が痛いからおまえたちの相手はしたくないと思いつつ、怖いので話をあわせると、「向こうにもっと面白いものがありますよ」と教えてくれる。なかなかいいやつである。ただ、「面白いもの」が、「血だらけの地面」という話で、面白いんだか、怖いんだかわからない。午前一時近くになってようやく戸塚ロケ終了。横浜新道、第三京浜、環八を走ってものすごい勢いで東京に戻る。
■で、きょうは音楽の打ち合わせのため、うちに『
be found dead』のそれぞれの監督と、音楽を担当してくれる桜井圭介君、制作の永井と笠木、演出助手のS君が初台の私の家に集合。もちろん『亀虫』の富永君もいたわけだが、聞けば富永君はすでにほかの人の音楽を使う予定だとのことで、なぜ、ここにいるのかよくわからないものの、まあ、いると面白いから来てくれただけでうれしかった。音楽の打ち合わせを終え、あとから来た編集を担当してくれる岸と、永井、S君とで、もろもろの調整。

■腰の調子はだいぶよくなった。心配してメールを送っていただいた方たちにはほんとうに感謝している。そういえば、うちの大学の卒業生のO君たちのパフォーマンス集団、「
dots」の公演『うつつなれ』の日付を数日前に、八月九日と書いてしまったが、八月七日のまちがえだった。詳しくはそちらのページへ。できるだけ多くの人に見てもらいたい。K君からも腰を心配するメールをもらったが、そのなかで、「東京」に対するある種のプレッシャーを感じながら稽古しているという意味のことが書かれていた。いや、大丈夫、「東京」はそれほどのことでもないのだ。で、また京都へ。まだ腰が完全ではないけれど、なんとか授業はできるだろう。いろいろやることはある。やりたいことがまだたくさんある。

(4:44 jun.14 2004)


Jun.10 thurs.  「きょうの鍼」

■午後からまた鍼治療。ぼこぼこに鍼を打たれる。きょうは尻のあたりの奥にある固まりをほぐすのだが、痛いなんて生やさしいものじゃなかった。いてえいてえと何度も声を出す。「テキスト・リーディング・ワークショップ」に来ていたKさんという方から腰を心配してくれるメールをもらった。カイロプラティックスを勉強している方だ。いくつかのアドヴァイス。感謝。ほかにもいくつかもらった腰を心配してくれるメールがありがたい。
■あしたが撮影なので早く眠ったつもりだが、深夜に目を覚ましてしまった。まずい。この国の出生率はさらにひどい減少傾向にあるという。21世紀の終わりには人工が半減するとされている。なぜ子供を作らないか考えると、前方に希望が持てないからで、せめて自分の子供に豊かに育ってもらいたいと思っても、その想像が働かないからだ。子孫を増やすことで一族が繁栄するなんて価値観はもう誰ももっていないのだし、国家を形成する家族というもっとも小さな単位の性格も変質している。むしろ、自分を幸福に維持することで精一杯だ。いや、個人すら抑圧されている。少子化は進む。いまのこの国の制度や構造ならそうなるのは当然だ。このうっとおしい空気はいったいなんだ。

(3:39 jun.11 2004)


Jun.9 wed.  「その後の腰」

■このところ体調不良についてばかり書いており生産的なことがなにもない内容はいかがなものか。本を読もうとしても集中できなかったり、そもそもなにかを見に行こうとしても動けない。読もうと思う小説はいくらでもあるが、だめだった。それで「ユリイカ」の連載を休ませてもらおうと青土社のYさんに連絡した。休載するのはとてもショックだが、この体調ではいい原稿が書けないにきまっている。来月こそは『ワーニャ叔父さん』についてきちんとまとまった文章を書こうと決意する。
■また鍼治療を受けた日。いったいどれだけ鍼を打ったかもうわからない。あとで腰を手で触れるとぼこぼこになっている。それで帰り、やはりクルマを運転して帰ってきたが、めまいがして、そのほうが危険である。よく入れ墨とかタトゥーとか入れると全身に熱を帯びて苦しむという話を聞くが、あれに近い。って、入れ墨はさすがにやったことがないのでわからないが、おそらくこの感じなのだろう。頭がくらくらする。とにかく、それほど鍼を打ったという話。まだ全快ではないので、あしたまた行くことにした。一度、打っているところを見せたいほどすごいことになっている。僕のからだはとことんがんこなので生やさしい鍼ではない。五、六センチ鍼をからだに入れなかでぐりぐりやる。あんまり力を入れるものだから鍼が曲がる。以前、歩くと太ももがどうにも痛かったときやはり鍼で治した。そのときは大腿筋の外側に鍼を打ち、腿のなかで、神経をぶるんとふるわす感じで、つまり、ギターの弦を鍼がつま弾いている感じだった。それで歩けるようになったから不思議だ。
■で、いまの状態でふつうの整形外科などにかかったら、手術させられ入院するはめにきっとなるはずで、しかも痛み止めの注射を打たれたりするらしいのだが、それはぜったいだめだ。西洋医学を頭から否定しているわけではないが、切ったり、注射はだめだ。ぜったいだめだ。そんなことを考えて一日が過ぎてゆく。

■このあいだ早稲田で今回、僕を呼んでくれたO先生が、すごくインプットしていると僕について話してくれたのだが、このところはだめである。出すばかりだ。京都を行き帰りする新幹線のなかでも疲れてたいていぼーっとしている。このところ「からだ」についての考えが曖昧で、かつてのように「ただ立つ」という考え方だけでは語ることができない状況のなかにいるように思え、そのことをもっとじっくり検討したいのだし、そのために学ぶべき「身体論」はもっとあるにちがいない。東洋と西洋という二元論をもこえ、なにか異なる「からだの考え方」はきっとあるし、こうして「腰」がだめになってつくづく「からだ」を意識する。シアタートラムで今週末、枇杷系のダンス公演があって、天野由起子さんのダンスを見たいがこの腰ではちょっと無理だろう。でも少し回復方向には向かってはいるのだ。あ、あと、八月九日にはうちの大学の卒業生が作っているパフォーマンス集団「
dots」の公演が青山のスパイラルホールである。いまの演劇状況に漫然と流れる傾向とはまったくちがう位置から出現しているのでまた異なる舞台の文脈の提出として、特に『トーキョー/不在/ハムレット』の出演者は全員、見るべきである。
■映画の撮影は俳優のスケジュールの関係で、いくら腰が痛くてもはってでもやらなくちゃならない。あと「犬」である。いい芝居をしてくれるか、天気と同様にひどく心配だ。

(3:09 jun.10 2004)


Jun.8 tue.  「腰のことなど」

■月曜日(7日)のことから書いておく。
■午後から早稲田大学で講演があるし、夕方京都に向かう予定だったので、少しでも腰を治そうと午前中、鍼治療に行くことにした。家から駐車場まで移動し車に乗ってしまえばふつうにいられる。とにかく立って移動するのが困難だ。なにかにつかまりながらものすごいゆっくりしたスピードでガレージまで行き、クルマで都立家政へ。鍼治療。またおもいっきり鍼をうたれる。苦悶する。それでもしないよりはずっとよくなっている。そのあと早稲田へ。早稲田では車椅子を用意してくれていたので移動だけはなんとかできる。午後2時半から4時半ぐらいまで小野講堂という建物で講演。座ってしまえばもうあとはべつにどうってことはないのだ。途中、いくつか遊園地再生事業団の九五年の作品『知覚の庭』、〇三年の『トーキョー・ボディ』や、二〇年前に上演されたラジカル・ガジベリビンバ・システムによる『スチャダラ』という舞台の一部をビデオで見る。久しぶりに見て自分でも懐かしい気分になったし、この場面の発想がどんな状況で生まれたかなどいろいろ思い出していた。でも、むかし話はもういいのだった。
■たくさんの人が来てくれて感謝した。『トーキョー/不在/ハムレット』の出演者たちも何人か来ていたが、実は稽古スケジュール表にきょうのことが記されていてこれも稽古の一環なのだと思って来たといううっかり者もいた。申し訳ない。白水社のWくんも来てくれたし、実業之日本社のTさんも来ていたのだとあとでメールが届いて知った。池袋シネマロサの方もいらしたし、11日、アテネ・フランセで夕方六時から開かれる、写真家の鬼海弘雄さんたちとのシンポジュウムを企画してくれたSさんとは終わってからはじめてお会いした。みんなに感謝である。
■それから家に戻り検討。どう考えてもこれから京都に行く人間のからだではない。あした午前中の授業を休講し、午前中の「のぞみ」で京都に行き午後の授業だけはやろうと決めて大学に電話。さらに、もう卒業してしまったが一年生の授業でストレッチの指導をしてくれるYと松倉に連絡をとり、京都駅まで迎えに来てもらうよう依頼。つくづく情けない。あした(8日)、ある程度よくなっていればの話だ。なんとか京都に行くことができるのではないか。ある程度は回復したが、まだ、ものを支えにしていないと立っていられない。

■そして、今朝(8日)、目を覚まして動こうとしたがやっぱり立てない。あまり回復していないので大学に電話し休講の旨を告げ、Yと松倉にも事情を説明する。二年生中心の発表公演がある授業は松倉も受講しているので、休講だけど自主稽古をするように伝える。せりふを覚えるとの返事。頼もしいというか、学生たちにに助けられる。じっと横になっていた。座っているだけならなんとかなるものの、集中力がなくてものが考えられない。この腰痛は単に身体的なものだろうかと、うまく動かぬ頭でつらつら思うに、ストレスが腰にたまったのではないかというか、つまり精神的な作用が大きいように思え、からだがそれに反応して休め休めと言っているのではないか。で、思い出せば、二年生の授業で発表する作品の初演時、やはり同様の症状で一ヶ月半の車椅子生活だった。この作品が呪われているのかもしれない。六年前だ。車椅子で二本の舞台を演出したのだった。演出助手らに助けられて車椅子で移動した。だけどなあ、京都はなあ、さすがに遠い。とにかく腰を早く治し、発表公演の稽古に集中したいのだ。そして映画の撮影もある。茫然とする。
■あ、そうだ、それで思い出した。映画『
be found dead』は、舞台とちがってやろうと思えばどこでも上映会ができ、たとえば、関西上映委員会というようなものがあれば、「やっといてくれ」と伝言しDVテープを送ればいいのではないか。九州上映委員会でも北海道上映委員会でもいいのだし、とにかくDVテープを送るから勝手にやっといてもらうというのはどうだ。

(1:56 jun.9 2004)


Jun.6 sun.  「腰がだめになっていらつく」

■腰が完全にだめである。動けない。動けないまま、ただぼんやりしていたし、腰が痛いとなにかに集中できず、このノートを書くのもひどく時間がかかった(きのう書いたぶん)。「ユリイカ」の連載の締め切りは月曜日だが、それはほぼ不可能で、あした午後二時くらいからはじまる早稲田の講義に行くのもかなり困難ななか、その夜には京都に行くがほんとうにそんなことができるだろうか。なにしろ、なにか手すりのようなもの、あるいは台の支えがないと立っていられない。久しぶりの激しい腰痛である。鍼治療をさぼっていたあいだに蓄積された腰の疲労がここにきて爆発した。早稲田の講義はすでに予約で一五〇人くらい来るという。ふらっとあらわれた人がいたらもっと増え、すると、そのオーディエンスの前に、うまく歩けず前屈みになっている人物が出現するのだった。申し訳ない。
■やるべきことがあったはずだが、なにもできなかった。届いた雑誌を何冊か読む。最近発刊された蓮実重彦さんのスポーツ批評に関する著書に対する「書評」(スポーツライター玉木正之氏の文章)のなかで、「なぜおまえたちはえらそうなのか」という意味の批判があるそうで、ある対談のなかで蓮実さん自身が応答している。
そこで早速問題の玉木さんの書評ですが、「なぜおまえたちはそんなに偉そうにしているのか」と彼はいいたいんでしょうが、これは事実誤認も甚だしい。われわれは「偉そうに」しているんじゃなくて、たんに「偉い」だけです。
 笑った。そしてほかにも送っていただいた文芸誌などをちらちら読む。ぼんやり考えごと。腰が痛い。インターネットのニュースサイトを読む。テレビのニュースを見る。しかし、CMなどを見ているとどういう感覚をしているとこういうCMを作ってしまうのかというものがしばしば見られ、ふつうこんなにかっこわるいものは作れないだろうという、逆に言ったらすごいのかもしれないような、だめなものを見ることがあって驚かされる。しかし、テレビのニュースを見てるとなにかいらつく。聖火リレーなんかまったく興味がない。腰のせいでなにもできない一日は、ただただいらつくばかりの日だ。

(2:42 jun.7 2004)


Jun.5 sat.  「日本の夜と霧」

■午後から都内某所において、『be found dead』の撮影がある日だ。第三話「イマニテ」。最初の撮影としては順調だったものの、北川辺などで予定していたスケジュールを調べると雨の日だと予報され、憂鬱になる。そんなことを忘れ「いま」のことだけ考え撮影にのぞむ。固定カメラでワンカット撮り。そのための稽古とテイクを重ねる。

■撮影本番には、あるパフォーマーのお父さんと、以前、湘南台市民シアターで太田さんの戯曲を市民とともに舞台化するという企画で一緒にやった秋山さんにシナリオに指定されている家庭の母親役として来ていただいた。お父さんはソファでずっと眠っている(かのように見える)役なのだが、微動だにしないという設定なので心配したが見事にそれを演じきってくれた。そして、秋山さんはとてもうまい。台本がなく、段取りだけ書いたメモを渡し、母親役を演じてもらう。演出助手のMさんがこれまで作った内容で、母親役を見本として一度やり、それを見てもらってからすぐ稽古。素早くそれを飲み込み、演じてくれる。やはりこうした種類の自主制作映画では(特に若い者らが作る場合)、若い者だけしかキャスティングできない傾向になりがちだが、お父さん、秋山さんがいるだけでまったく異なる奥行きが出る。ほんとうに助けられた。
■途中、ここ、こうしようと、その場で思いついたことを付け足したら思いのほか長くなる。『
be found dead』は五本のオムニバスだが予想外に長くなる可能性が高くなってきた。ただ、僕の監督するもう一本の『川』はできるだけ短くするつもり。『亀虫』の富永君をはじめ、鈴木、浅野の作品も楽しみだ。
■それはそうと、あとで知ったが、秋山さんは学生の頃、大島渚の『日本の夜と霧』に出たという。とても驚いた。というか、ひっくりかえりそうになった。アルバイトみたいにかかわったそうだが、当時の松竹大船の撮影所ではとなりのスタジオで小津安二郎が原節子主演の映画を撮っていてそれをときどきのぞきにいったという。それにしても『日本の夜と霧』だよ。それでビデオを出してきて秋山さんはどこに映っているだろうと探すが、この人だろうという人を発見。で、結局、また『日本の夜と霧』を最後まで見てしまった。見るたびに面白い。六〇年安保当時の運動状況や左翼の潮流について語られたきわめて政治的な作品だが、劇映画としての面白さもある。いろいろな意味で刺激を受ける。

■撮影は午後一時からはじめ、照明をたき、プロの音効さんに来ていただいて技術的にできるだけのことはした。俳優たちも、きちっとばかなことを演じてくれた。終了は夜の10時過ぎ。疲れていたが、ついつい『日本の夜と霧』を見た。繰り返し書くが、このところ出すばかりで入れることがなかった。それで『日本の夜と霧』に、というか大島渚に、あるいは六〇年代的なるものにまた喚起された。
■あと、この撮影での収穫は、渕野の「勝手な人キャラ」を発見したことだ。なんでも勝手に決める人物を演じるとやけに生き生きとする。で、いろいろ考えていたが、今回の映画の演出でなにより大変なのは、「犬」ではないかと思ったのだが、犬はこちらの意図通りに動いてくれるか不安だ。よく動物が映像作品に登場するのは知っているし、犬が演じているのもよく見るが、それはかなり「芝居をしている」という気がする。「もっと自然にやってくれ」と犬に要求できるだろうか。青山さんの『月の砂漠』のニワトリはなんであんなに自然に庭にたたずんでいたのだろう。どこかに走り出すでもなく、なんとなくそこにいる。あのニワトリのいる情景がとてもきれいだった。
■で、撮影は無事に終了したが、腰がだめになった。このあいだ鍼治療を受けたばかりだが、そのとき先生が言っていた通りすぐにもう一度治療を受けるべきだったのだな。腰が痛い。かなり深刻な事態だ。京都に行けるかどうかも怪しい。しかも月曜日(7日)は早稲田で講演だ。少しの距離を移動するのにひどく時間がかかる。困った。いろいろこれからだってときに、ほんとうに困った。そしてニュースを見ると憂鬱になる。いまもまた霧がかかったようにどんよりとしたこの国だ。

(14:26 jun.6 2004)


Jun.4 fri.  「晴れた日には」

■京都から帰ってきたら白水社の新刊本が届いていた。白水社のW君が送ってくれたものだろう。ありがたい。その一冊が『晴れた日には巨大仏を見に』(宮田珠己)だ。まだ少し読んだところだが、冒頭にあるのが牛久大仏のカラー写真。これは以前、牛久に行ったとき僕が撮影したのとほぼ同じ角度で撮られているので、おそらく近い地点で撮影されたとおぼしい。で、ものすごい巨大仏の写真がいくつかあるが、なによりすごいのは、山のふもとで、横になっている涅槃仏だ。これはすごい。笑った。この本の刊行にあわせてトークとスライドでつづる「巨大仏の世界」のイヴェントがあるらしい。「宮田珠己氏トークスライドショー&サイン会」だ。見に行きたいが仕事があってぜったい無理だ。スライドは、見たいなあ。本の写真で見てこれだから、スライドで大きな画面に映し出されたらすごいだろう。残念だ。誰か見に行って報告をメールしてほしい。

■さて横浜方面に出かけた日。映像作品『
be found dead』の打ち合わせをするため、横浜の戸塚へ。というのもロケに使わせていただくお宅が戸塚にあり、現場を下見しどうやって撮るかカメラなどを担当する鈴木と浅野と相談するためだ。ガソリンを満タンにしようと甲州街道を西へ。このあたりでは安いガソリンスタンドに入った。原油が高騰しているからだろう、どこに行ってもいまガソリンがひどく高い。するといろいろ国際政治や経済といったことを考えてしまいかねないのだが、どうもこの値上げは怪しい。疑義を感じる。原油が高騰しているというニュースがあった翌日に町のガソリンスタンドの値段がいきなり上がるのか。じゃあなにかい、町のガソリンスタンドは中東から精製の過程も踏まずにいきなり輸入しているのか。精製する企業もあれかい、まったくストックがなくて輸入するなりガソリンスタンドに卸して輸入価格がすぐに値段に反映するのか。経済の仕組みはよくわからない。
■環八から用賀で東名高速道路に乗り「横浜町田」インターで降りる。久しぶりの東名は気持ちがいい。それにしても天気がいい。一週間これがずれてくれたら北川辺での撮影は夏の光の下でできたはずだが、週間予報によれば来週はあまり天気がよくない。誰か雨男がいるのではないか。これまで僕の舞台の公演があるときは雨がまず降ったことがなかったのに、このあいだのリーディングの最終日は雨だった。なにかあるなこれは。誰か今回のメンバーのなかに雨男、雨女がいる。戸塚に行くのははじめてだった。神奈川というか、横浜(戸塚は横浜市戸塚区)というといいイメージがあるが、いろいろだ。戸塚もいいところだが、このあたりの暴走族はすごかったのではないか。帰りは横浜新道を走り首都高に入ったがうしろをすごいバイクの男が走っていた。そういえば、ロケに貸していただくお宅でスイカをごちそうになった。今年はじめてのスイカ。美味しかった。

■いろいろやることがあってせわしないがひとつひとつ丁寧に仕事をしようと思う。雑にだーっと片づけるのは意味がない。このあいだ書いた「労働に含まれる諸要素の身体化」を良質にするには、丁寧な作業がきっと必要だ。お金にならなくてもかまわない。面白ければやる。学生と接するのが大変だと書いたけれど、べつに学生たちと付き合うことが得にならないといった気持ちはまったくなく、それは学生に限らず、それがなにか「得になる」などといういやらしい計算はしない。会いたい人とは会う。会いたくない人とは会わない。なにかを喚起してくれる人と出会いたいのだし、それは学生かもしれない。
■それで思い出したのは、青山真治さんが映画の講義を東大でやったという話を青山さんの「名前のない日記」で知ったことだが、聴講したかった。それで考えたんだけど、自分が聞きたいからという動機だけで、「青山真治映画講義」というものを遊園地再生事業団で企画するのはどうだ。だって聴きたいじゃないか。そうなるといろいろな人の話も聴講したくなって「遊園地再生事業団主催・講義シリーズ」というものを漠然と思いつく。そんなに自分を忙しくさせてどうするつもりだって思うけれど、やりたいものはやる。「労働に含まれる諸要素の身体化」をさらにいいものにするためだ。

(12:10 jun.5 2004)


Jun.3 thurs.  「たばこをねだる学生」

■六月に入って更新が止まっていたのは、京都に持っていったPower Bookに、Photoshopなど画像を作るソフトがまったく入ってなくて「六月分」のタイトルが作れなかったからだ。ただ、泊まっていたホリデー・イン京都のロビーでは、AirMacが使えることが判明し、いきなり高速通信ができるようになっていた(と書いてもなんのことだかわからない方も多いと察しますが、ようするに無線通信ができるという話)。というわけで、いつものように月曜日の夜に京都着。翌火曜日、朝九時から夕方まで授業。きょう木曜日の午後の授業を終えて帰ってきた。
■火曜日と木曜日の午後は、二年生が中心の発表公演のある授業で、内容は授業というより、おおむね稽古である。スタッフワークの授業で美術を教えている舞台美術家の池田さんが来てくださり、学生たちにアドヴァイスだ。池田さんには毎年、助けられるし、発表公演のためにいろいろ尽力してくれる。火曜日はほぼ全員がそろった状態で稽古ができたが、きょうは欠席者が多かった。そのなかですでにせりふが入った学生もいて感心したが、そういった学生が一人でもいると周囲への刺激になるだろう。少しずつ稽古を進める。まだ動線や、立ち位置が曖昧だが、少しずつ作る。それにしても疲れた。なぜかわからないが、きょうは授業でかなり疲れた。そういえば、もう一つやっている一年生の「表現基礎」の授業は、今週から新しい一年生に教えることになるが、そのなかにいた学生にたばこをねだられた。この五年間ではじめての経験だったので新鮮だった。やたら酒を飲みに行きましょうと誘う学生がいて(って、俺、飲めねえんだよ)、学生の一部に感じる「たかり体質」には辟易しているが、たばこをねだった学生は、おずおずと、最初言い出せずにいて、学校内でたばこを買う場所はあるのか質問してきたが、ないと答えると、困ったなあとつぶやき、あきらかにたばこが欲しいと言いたげだが、けれど言い出せないその姿が面白かった。ただ学生につきあいたくてもこっちは時間がないんだ。
■というわけで大学の授業で消耗する日々。なにもできない。週末は七月にある映像作品『
be found dead』の打ち合わせ、撮影があって時間がない。そんなとき来週の月曜日が、「ユリイカ」の連載「チェーホフを読む」の締め切りだ。書けるかどうか自信がない。しかも月曜日は早稲田大学で、いま演劇博物館でやっている「遊園地再生事業団と宮沢章夫展」に関連する講演がある。早稲田で講演をすませたらすぐに京都に向かう。あわただしい東京の生活だ。

■文學界のO編集長からメール。『トーキョー/不在/ハムレット』の小説版は七月発売の八月号に掲載してもらえることになったが早く直しを書かなくてはいけないのにそれもできずにぐずぐずしていた。今月の半ばまでには完成させる。ますます時間がない。でもまあ、なんとかなる。これまでにも最終的にはなんとかなってきた。六月十一日はアテネ・フランセ文化センターで、写真家の鬼海弘雄さんらとの鼎談がある。
■そういえば、「舞台制作」の授業を取っている学生が、「発表公演の企画書を作る」という課題のために僕の取材をしたいと約束させられていた。これまで学生のこの手の取材はろくでもなかった。以前、書いたこともあるが、あれはなにかフリーペーパーみたいなものにインタビューを載せるというので話をしたことがあり、それが子どもインタビュアーでなにも質問することなど考えていない。三人くらい学生がいたが、話の途中、一人は完全に飽きてずっと落書きをしていた。また、去年も「制作」の授業の同じ課題で話を聞きに来た学生がいたが、一つ質問したところで、「もう聞くことないや」と言ったのだった。俺の「時間」はなあ、金に換算するとけっこう高くつくんだばかやろうと思いつつ、まあ、学生だからと許した。今回の学生はずっとまともで、いくつも質問が出て、取材らしい取材になっていたものの、まだ学生と教員の関係でしかなくあきらかに「取材者」ではない。まあ、プロとおぼしき取材者でもたまにろくでもないやつがいたりするので、それに比べたらずっとましだが。
■結局、大学のなにが大変かといえば、「学生」である。学生さえいなければ大学はもう少しまともな場所になるはずだ。そうなるともう、なにがなんだかわからない。ちろんいい学生も大勢いる。こちらからもっと話をしたいと思う学生もいる。

■午前中、ホテルをチェックアウトしたあと、まだ午後の授業まで時間があったので、ホテルの近くの川の土手でぼんやりしていた。鴨川は出町柳のあたりで上流から二つの川が合流しているが、その一方の高野川だと思う。川の流れがきれいだった。天気もよかったし、ビデオを持っていれば映像作品のために撮影したのだが、残念だ。

(10:58 jun.4 2004)


二〇〇四年五月後半のノートはこちら → 二〇〇四年五月後半