1998年に神戸のニュータウンで14歳の少年による衝撃的な事件が起こった。
20年が経ったいま(2018年)、事件の直後に書かれた『14歳の国』をあらためて上演することで(早稲田小劇場どらま館)20年の時間と作品が描き出す「14歳」の姿がまた異なった姿で浮かび上がるのではないか……というのが、再演の意味だった。世界は変わってしまった。私たちも変わった。そして、現在を構成する<モノ>や<コト>の変容が、あの時代、すでに萌芽していたのを知るにちがいない。あるいは、学生を中心にした若い観客はなにを思うか。
登場するのは五人の教師だ。体育の授業中。生徒たちはグラウンドにいる。教師五人が誰もいない教室で「持ち物検査」をする。舞台に姿を見せない中学生たちが、こっそり「持ち物検査」をする教師たちの喜劇的な姿を通して描かれる。
私たちは、あの日のことを覚えているだろうか。
意識することのできる顕在化した記憶だけではない。いつもは息をひそめ、ひっそりたたずむように身体に刻まれた時間がある。『14歳の国』を20年ぶりに上演したのは深い場所にあるそうした記憶を呼び起こすためだった。あの記憶は私たちになにをもたらしたのか。
いつも書くことだが、遊園地再生事業団の公演サイクルは長い。前作『子どもたちは未来のように笑う』からまた2年ぶりだった(2016年9月/早稲田小劇場どらま館)。
『14歳の国』の初演は1998年の青山演劇劇場だ。円形劇場の舞台は比較的広かった。再演は、「早稲田小劇場どらま館」の舞台だ。どこをどう変えたらあれが可能か。とはいうものの、演出のことなど、ほとんど記憶がないし、記録されたビデオもあえて観ることをやめ、新しい舞台を創作つもりで取り組んだ。そして、前回『子どもたちは未来のように笑う』はアゴラ劇場との共催だったが、今回も、早稲田小劇場どらま館に協力してもらった。
さて、『14歳の国』は戯曲が単行本になってから(といっても、初演の舞台の初日にはすでに白水社から発売されたその戯曲はあったのですが)多くの高校の演劇部から上演の問い合わせがあありました。いまでもあります。ただ、高校演劇のルールとして上演時間が60分という制約が存在し、そのために、こんなふうに書き直しましたと戯曲を送ってもらう。すべて許可を出しました。なにしろ上演してもらえることが嬉しかったですから。それに関しては、『14歳の国』の単行本の戯曲とはべつに、「高校演劇必勝作戦」という、一見ふざけた、しかしながらほんとはまじめな気持ちで書いた手引を戯曲本の巻末に載せました。もちろん今回は60分というわけにはいかないものの、少しは手がかりになるのではないかと書き直した部分がいくつかあります。
あるいは、高校の演劇部は女子が多い。それを考え、女優中心の舞台にしました。その試みも面白いと思ったのと、男たちの劇を書き、演出するのが私の得意技なので、そうではないことをやってみたかったのです。
だからこれは再演ではなかった。まったく異なる舞台になった。
「子どもたちは未来のように笑う」(2016年9月)はこちら