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富士日記

PAPERS

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花
草
岩

Published: Feb. 21, 2003
Updated: Sep. 28, 2003
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 | PAPERS | 京都その観光と生活 | 市松生活 | からだ | トーキョー・ボディ | send mail |

 *戯曲を読もう。「テキスト・リーディング・ワークショップ」のお知らせ。案内はこちら。 → CLICK
  (ENBUゼミの「短期集中講座」のページに直リンクさせてもらいました)



さて、「富士日記」は今後も続きますが、10月2日にある松倉のライブのために、その日までのことを書こうと思い、暫定的な「緊急ライブ日記」を書くことにしました。東京に出てきた松倉は、なにを見るか、どんな歌を歌うか。どんなとんでもないことをしでかすか。そして、今回、多大なる協力をしてくれた、ヨミヒトシラズのT君、ギターを弾いてくれるやはりT君、そして、笠木、伊勢などとのライブ当日までの、生々しい日々を綴る人間ドキュメンタリー。そして、そのあいだにも原稿を書いている私。「緊急ライブ日記」にご期待ください。



Sep.28 sun.  「緊急! 松倉ライブ決定」

■連絡が遅くなって申し訳ない。松倉のライブの詳細がようやくほぼ決定した。時間については未定だが、10月2日(木)は確実である。詳細は決定次第、お伝えするが、次のような内容である。
 松倉如子ライブ
 ・日時 10月2日(木)夜7時以降(時間は未定)
 ・場所 「恵比寿 Otra」(詳しい場所はまた続報で)
 ・料金 1000円+ワンドリンク
     (ご来場のお客様にはもれなく松倉のデモテーププレゼント)
 ・演目 松倉如子の歌。
     宮沢章夫の雑談。
     『トーキョーボディ』にも出た伊勢由美子が踊るかもしれない。

 といったことになっているのだった。これは見逃すな。こうなったら私もとっておきの話をしよう。で、きのうのノートを読んでカンパしたいという方からメールをいただきとてもうれしかったが、当日来てくれるのが、なによりのカンパである。

(2:17 sep.29 2003)



Sep.27 sat.  「秋。楽しみいろいろ。」

■六七年、六八年ごろに「陽子」という名前が多かったという話を書いたところたいへん有力な情報を送っていただいた。未知のYさんという方からのメールだ。

 一九六七年あたりに「陽子」が多いのは、三浦綾子の「氷点」ブームからではないでしょうか。朝日新聞の懸賞小説に入選して連載されたのは六四年ですが、テレビドラマになったのは、六六年のことだそうなので(当時わたしはまだこの世にいませんので)、わたしが生まれたとき、母の姉が「陽子」とつけたがっていた、と聞いたことを思い出しました。

 なるほど。その線があったか。『氷点』は未読だったので思いつかなかった、というか、私のたてた「説」はかなりでたらめである。さらに、『氷点』についてこのようなページがあるのも教えていただいた。ありがとうございます。テレビドラマ版『氷点』の陽子を当時演じていたのは、内藤洋子である。さらにその後、七一年に『続・氷点』が放送され、このときの陽子役は島田陽子だという。ちょっと笑った。笑ったで思い出したが、テレビドラマ『氷点』がブームになり(最終回の視聴率は42・7%)、それをもじって「笑点」という番組が生まれたことなどいまとなっては誰も知るまい。
■貴重な情報をありがとう。

■というわけで私は、ワークショップをやっている。今回は少し内容に変化をつけた。岩松さんの『アイスクリームマン』という戯曲を渡して、ト書き、内容から類推する、グループ分けした各班で舞台の空間を考えるところから出発。いわば空間演出。各班ごとに図面とかスケッチを描いてもらう。主要なというか、最初にしゃべり出す、君原、吉田、聡子が横一列に並んでいるのはいいとして、前から観ると縦に横一列で、しかも机を挟んで佐藤が座ってるというのが奇妙だ。これが面白かった。俳優は、やりにくくて仕方がない。で、この作業をすることは「空間演出」ということになるのだろうし、そのことから各自の「演劇感」が見えてくる。少しだけ、ほんの少し、「空間演出」という概念の手がかりに近づけたかという印象。つまり僕にとって。各自が考えた「舞台空間」で戯曲の読み合わせを動きを交えながらする。やっているうちに、芝居そのものはもちろん、動線など違和感が生まれることに大切なものがあると思ったし、考えの基本にあるのは、まだ「演劇とはこうではなかろうか」という狭い視点。舞台をもっと立体的に感じるためのレッスンだ。
■面白かったが、午後から夜遅くまで、11時過ぎるのも希じゃない。さすがに疲れた。タフでなければとしきにり思う。小説の道はまだ遠い。
■松倉東京進出大作戦はいろいろ困難なことがあると判明。でも、どこでも歌える場所があれば、なんとか生の松倉を聞いてほしいのだ。ヨミヒトシラズのT君には迷惑をかける。路上パフォーマンスにしろ、ライブハウスで歌うにしろ、困難がいろいろあるのだと、ここへきてばたばたと僕も知ったのだった。無知はおそろしい。だいたい機材をレンタルしなくちゃだめなんだろうな。各自(演奏の方など)のスケジュールもあるし、むつかしい。できるだけの協力を頼みたい。松倉が東京に来るにあたっての旅費など、カンパしていただければと切に願う次第。

■家に戻ってなにげなくBSテレビをつけたら東京スカパラダイスオーケストラのライブをやっており、かっこいいと思ってみていたが、ライブの場所が気になって、背後に朱塗りの宗教建築風な建物が見える。これはもしかしたらと観ていたら、案の定、京都の平安神宮だった。すごいところでライブをやっていると軽い驚き。しかしスカパラはかっこいい。いろいろ書きたくなることがあるが、それはまた、いずれ。またあしたもワークショップ。ここを乗り越えれば少し楽になる。松倉のこと。「テキスト・リーディング・ワーックショップ」のことなど楽しみはいろいろな秋である。急激にやってきた秋。いい季節ではある。

(10:20 sep.28 2003)



Sep.25 thurs.  「図書館へ」

■ゲオルク・ビューヒナーの『ヴォイツェク』が読みたくて図書館に行った。図書館に来るのも久しぶりで、そういえば去年の夏、京都府立図書館にはずいぶんお世話になった。坪内逍遙である。京都府立図書館はすごくいい。蔵書がものすごい。開架の本が少ないので、蔵書があまりないかと思ったら出てくる出てくる、坪内逍遙の翻訳したシェークスピアの戯曲はここですべて借りられた。その後、館内閲覧のみになってしまったが、あれはことによると、僕が返却せずにいつまでも借りていたからだろうか。だったら申し訳ない。
■それはともかく、渋谷区内にある西原図書館(最寄り駅、京王線幡ヶ谷)で『ゲオルク・ビューヒナー全集』を見つけた。家に戻って早速読む。『ダントンの死』『ヴォイツェク』などの戯曲のほか、「小説」「政治的小文」「詩」「書簡」などが入っている。これはぜひとも手に入れる、って、べつに返却しないでそのままにし、いつのまにか家の本棚にあるという意味ではけっしてないのであって、えー、ひょっこり古書店に出現するかもしれないので、それを待つのである。
■ゲオルク・ビューヒナーが死後になって「発見」された作家であることは知っていたが、『ヴォイツェク』が、書き残された下書きのような稿しか存在していなかったことを全集で知った。各場が断片的に書かれたものしかなく本来は一本の戯曲の姿をしていない。ゲオルク・ビューヒナー、二十三歳の作品である。その後、編纂されるにあたって、断片を一本の戯曲の形態にしたが、それは暫定的ともいうべき措置で、これといった決定稿はいまだに出ていない。ここにこそ、演出家に刺激を与えるテキストとしての『ヴォイツェク』の意味があるのではないか。断片を並べ替えることもできる。並べ替えることによって異なる解釈が生まれる。

■『ヴォイツェク』を読み終えたらちょうどいい時間になったので外に出る。
en-taxiという雑誌の編集をしている、Iさんと、Tさんに会う。三十枚くらいの小説をというお話。で、スケジュール的なことを伝え、それでも、来年の二月いっぱいくらい。つまり、「文學界」のOさんに小説を渡すことできたら、書こうという、で、それはもう、締め切りなので、すると必然的に「文學界」のOさんに渡すだろう小説も書けているはずである。さらに逆算すれば、「新潮」「群像」も書けているし、不思議なことに、「トリッパー」も書けているにちがないと思う。
■Tさんは、下の名前が「陽子」といい、一九六八年生まれだと聞いて驚いたのは、六七年、六八年生まれの、「陽子」という名前の人をほかに何人か知っておりこれは単なる偶然と言うより、六七年、六八年に、なにかあったと想像せざるえず、ここに二つの説が存在すると私は考えた。「山本陽子説」と「真赤な太陽説」だ。山本陽子がブレイクしたのがこの時期じゃないか。たとえば、いまは野球解説者の荒木大輔が甲子園で活躍した年、生まれた子供につける人気の名前は「大輔」で、西武の松坂大輔は、やはりその年に生まれている。「陽子」は「山本陽子」から来ているという説がひとつある。
■「真赤な太陽説」は、美空ひばりのヒット曲「真赤な太陽」がリリースされたのが一九六七年だからで、その語尾の文字、「陽」を取って、「陽子」にしたっていうのはどうだ。しかしこの場合、だったらなぜ、「太陽子」にしなかったかという疑問が残る。みんなほんとはそうしたかったのだ。だが、残念ながら、「太陽子」の字面はあまりにばかに見えるのだった。男の子にはときとして「太陽」という名前を見かけるが、いい名前のようでいて、ちょっと考えるとばかにも見える。だって、「太陽」だよ。「宇宙」と書いて「そら」と読ませる強引な親もいるが、それにしたって、「太陽子」ってことはないじゃないか。あと、「真赤子(まっかこ)」も考えられないことはないが、これはいくらなんでもだめである。
■「太陽子」
■いや、すごくいい名前だ。誰か会ったことのある人はいないだろうか。

■Iさんがべつの仕事があるというので先に席を立たれ、その後Tさんと話しをして面白かった。で、いつも仕事で待ち合わせをするのは東京オペラシティのなかのカフェだが、毎回使っているにもかかわらず、名前が覚えられないのだった。そのつど同じ説明をする。いくらなんでももう覚えてもいいじゃないかと思うが、なぜか覚えられない。いまももう忘れている。というわけで、世界は名前によって埋めつくされているのである。

(13:20 sep.26 2003)



Sep.24 wed.  「ヴォイツェク」

■東京国際フォーラムでロバート・ウィルソンの演出によるオペラ『ヴォイツェク』を観た。デンマークのベティ・ナンセン劇場の公演で、同劇団がウィルソンに演出を依頼したという経緯があるとのこと。
■『ヴォイツェク』というテキストに限っていえばほかでも上演されているのを観たが、ロバート・ウィルソンの舞台はテキストというよりつい技術的なことに目がゆき、たとえば、「地明かり」というものが一切ない照明とか、例によって背後の壁面全部を使ったスクリーンの色が一気に変化するのはどういった照明の仕掛けによるのか、あれは映像なのかと、そんなことばかり気になっていた。シンプルな装置。繊細にデザイン化された舞台。すべてシャープである。音楽はトム・ウェイツ。東京国際フォーラムの建築と符合する舞台の造形を感じたが、色彩の感覚は異なり、ウィルソンが使う色は多彩で、しかしいやらしくない。衣装がとても贅沢だ。質の高さと上品さということか。ちょっと失敗したら気持ち悪くなる一歩手前という印象だ。
■『ヴォイツェク』にしろ『ダントンの死』にしろ、ゲオルク・ビューヒナーの作品は、いま簡単に手に取ることができない事情もあるが、読みたいと思う理由のひとつに、ハイナー・ミュラーもまたビューヒナーを高く評価していることがある。というか、ミュラーを理解する手がかりとしてのビューヒナーである。「テキスト・リーディング・ワークショップ」で『ヴォイツェク』も読みたいがテキストが手に入らない。古書店を検索するサイトで、『ゲオルク・ビューヒナー全集』を探しても見つからなかった。あとは図書館だろうな。探すしかないな。誰か持っている人とか、どこそこの図書館にあると教えてくれる人はいないだろうか。と書いている途中、渋谷区の図書館を検索したら、ありました。借りよう。ほんとは欲しいけど。

■ウィルソンの演出が新しい解釈なのか、新しい舞台として表現されているのか考えると、それがよくわからないのだ。しかし過去の戯曲を上演する際にしばしば語られることになる「新しい解釈」というやつがくせもので、演出家がやけに前面に出てきていやらしくなりがちな舞台は観ていてうんざりする。ウィルソンのそれはどうだったか。ロバート・ウィルソンの演出作品をすべて見ているわけもないのでなんとも言えないが、「ウィルソンの舞台」としか言いようのない演出だった感想を持ち、ロバート・ウィルソンが舞台を造形すればこうなりましたということではなかろうか。それはそれで刺激的ではあったのだった。
■音楽を担当したトム・ウェイツは昔よく聴いたが、七月に大学の発表公演『アイスクリームマン』ではカーテンコールに、同名のウェイツの歌「アイスクリームマン」を使った。学生のKがこういうものがあると持ってきてくれたのだった。Kは12月に北村想の戯曲『寿歌』を大学で上演することになっている。彼女の関西の言葉がとても面白かったからで、だったら『寿歌』をやれとすすめた。というか、関西の言葉ばかりか、彼女が持っているものにそもそも魅力があり、トム・ウェイツを持ってくるところなどすでにほかの学生とは少しちがう。
■音楽で思い出した。ヨミヒトシラズのT君からメールがあった。松倉が10月になったらこちらに来るが、練習用のスタジオを押さえてくれたという。T君も忙しいはずなのにほんとうにありがたい。その後、どこかでライブをやるだろう。そういえばきのう新宿を少し歩いている途中、駅で歌っている女の子がいた。ギターの伴奏。ちゃんと音響の機材を使っていたが、あの場合、どこから電源を取っているのか気になった。そういえば、新宿の南口や西口でいつも歌っているアンデスの人々もどこから電源を取っているんだあの連中は。道になあ、コンセントがあるとは考えられんものなあ。

■「資本論を読む」の連載の締め切りを知らせるメールがJノベルのTさんからあった。もう締め切りか。さらに共同通信のKさんからまたべつの本の書評を頼まれる。読みますね、わたしは。もうこうなったらとことん読む。

(13:46 sep.25 2003)



Sep.23 tue.  「東京に戻って」

■静岡に住む両親の家に一泊。それで明けた翌日(22日)、午後の少し遅い時間になって東京に戻る。途中、少し雨が降ったが台風はもう過ぎ去ったあとだった。
■東京に戻ってすぐに日常に帰ろうと思ったが、旅先でいろいろな疲れをいやしたのと同時に、クルマの運転はひどく疲れる。すでに書いたが旅の途中、速度違反で切符を切れられたし、まあ、そのこと、警察とのやりとりや「指紋」の押捺、「理由」を書く欄が書類にあるなど、「貴重な経験」として考えれば罰金の一万八千円は高くない。世の中の仕組みを身体的に認識することができた。
■もちろん温泉はよかったし、のんびりしたものの、東京に戻って疲れていようとこういうときこそ本を読むと努力したのはカフカの『掟の門』だ。かなりむかし読んで記憶も薄くなっていたがごく短い小説だった。努力するほどのものではありませんでした。漱石の『門』を読んだのはごくふつうに中学だったか、高校のころで、内容についてまったく記憶がない。『三四郎』『門』『それから』は、断片的に記憶している内容がごっちゃになっている。というわけでしばらく「門」が私のテーマになるだろう。

■神戸でH君が撮影してくれた取材ビデオはコンピュータに取り込みそれをもとに小説を書く準備をしよう。だけどやっぱり少し休憩。刺激の強さ、喚起されたものの大きさにへとへとになる。むろんきのう紹介した新穂高ロープウェイから見た絶景も捨てがたいし、高山の市内も面白いと言えば面白かったが、まあ、それは観光。観光もたまには悪くはないのだ。
■東京に戻ってニュースを見れば、新内閣の人事の報道ばかり。興味なし。というか、つまらない。安部幹事長は父親と同じ黒めがねをかけるべきだと思った。大きな政治より、これまで「政治言語」にならなかった「見たくない現実(=大澤真幸)」ともいうべき様々な小さな政治的現場における現実にとっては、閣僚の人事に大騒ぎするマスコミなんてどうでもいい気がするのだし、とくに今回の人事は11月に予定されている総選挙に向けて若手登用など、イメージ戦略の様相を強く感じ、けれど若手の背後にある二重構造としての古い政治体質はどこか見えない場所で動いているにちがいない。ソフトな面影に隠された小泉のタカ派的政治は口当たりのいい言説でこの国を覆う。憲法は改変されますね。徴兵もされるでしょう若者たちは。子どもたちは。ごくろうさまです。防衛庁長官の石破の目は死んでいるし。しかも俺と同い年っていうのはどうなんだ。
■どんな政治体制だろうと(それがかつての東欧にあっても)、豊かさが喧伝されるこの国において「革命」という言葉に新鮮さは消えてしまったとはいうものの、「異議申し立て」と、それぞれの現場における、アクティビティはそこかしこで、いまもまた生まれており、「意義申し立て」がなくなったら、それができなくなったら、いよいよファッショである。新内閣発足のニュースは大きく報じられてもどこかでひっそり起こっている「小さな出来事」や「些細な不幸」、あるいは「遠くで聞こえるかすかに軋む音」、「ねじれ」や「ふるえ」「ゆがみ」、いわば、あらゆる種類の「マイノリティーの政治」が報じられることはまずない。まじめなニュースプログラムとして「マイノリティーの政治」(たとえば、ジェンダー、性同一世障害、暴力、身体、ホームレス、ナショナリズム、ポストコロニアリズム……)しか扱わない報道があってもいいじゃないか。スポンサーがつかないのだろうが、こういったときこそ、町の金融業が打って出るべきで、アコムだの、アイフルだの、なりふりかまわぬPRをすればいいと思うが、「借金苦問題」が扱えないなあ、この手のスポンサーじゃ。で、こんなページを発見した。笑った。

■政治性をいやでもにじませるあらゆる表現の現場は、こうした時代だからこそより強い意志で「見なければいけない」と考えれば、僕にできることは、ささやかながら小説や戯曲という微々たる活動しかないのだし、かといって、凡庸な過去の政治言語によって語られるような表現ではありえない。とするならば、やはり「戦術」だな。必要なのは考える限り巧緻な「戦術」である。そして「マイノリティーの政治」へのコミットメント。断固、コミットメントしよう。
■きょう(23日)、新宿の青山ブックセンターで『ウェブログ入門』(インプレス)という本を買った。以前から「ウェブログ」という言葉に興味があり、それはこうしていま書いている「日記の形式をして表現される文章」とどう異なるか、といったことなど知りたかったこともあるし、「ウェブログ」を支える技術に興味があったからだ。「インターネットは情報の発信地」といううそくさい謳い文句は過去のもので、そもそも人は、発信すべき「情報」などそれほど持っていなかったのだった。そしてその逆に、情報を持っている発信すべき者の多くは、その手段がない。コンピュータはいったいどれくらいの割合で使われているか、世界的に見て。そして「更新の頻度」が大きな意味になる。ウェブにとってそれこそが中心にくる命題であろう。そのための「ウェブログツール」があり、「簡単」ということがなにより大事だ。
■そのための「ウェブログ入門」。

■休日だったのか。クルマで新宿に買い物に行く道はすいていた。新宿を少し歩く。面白い町ではなく、やはりここには「町の面白さ」がある。

(5:42 sep.24 2003)



Sep.21 sun.  「旅先で考えたこと」

■罰金を取られるのは、まあ、いいとしよう。点数を引かれるのも仕方がないし、120キロは出ていたはずだが、計測したという速度が107キロっていうその数字の曖昧さも許そうじゃないか。だけど、なにより腹が立つのは、「指紋」を押捺させることだ。そのことにどういう意味があるんだ。
■19日の朝、まだかなり早い時間、神戸を出発した。阪神高速から、名神高速へ。名古屋の手前、一宮ジャンクションで東海北陸高速道に入った。しばらく走っていると、そのクルマは突然、背後に現れたのだった。覆面パトカーのようだ。ライトを点滅させ止まりなさいという指示、減速すると、そのクルマが前に出る。リアウインドウに電光掲示板のようなものがあって、「警察車のあとに続いて走りなさい」といった意味の文字。少し走って路肩に停車した。まあ、しょうがない。こんなところで捕まるとは思わなかった。やられたな。それでパトカーのなかで説明を受けたが、最後に書類を出し、指定された位置に指紋を押せという。なるほどなあ、こうやって権力は人の情報を収集するわけか。巨大なデータベースに私の「指紋」が記録されたのである。
■あと、書類に理由を書かされる欄があるのが奇妙で、「指紋」も「理由」も、しばらく戸惑って、なにもしないでぼんやりしていると、「急いでた?」と声をかけられ、「いや」と答えつつ、しかしこれといった理由もないので、しかたなく「急いでいた」と書くが、そう書いている自分がおかしくて声を出して笑ったのだった。

■たしかに、急いでいたといえば、急いでいたのかもしれないのは、これから行く温泉が地図で見るとひどく山深い土地で、どういった場所なのかよくわからなかったからだ。暗くなってから山道を走るのはかなりまずい気がしていたことはたしかだし、途中、白川郷に寄ろうと思っていたこともある。警察から解放されその先のサービスエリアで少し休憩した。東海北陸高速道を荘川のインターで降りて「白川郷」に向かう。「白川郷」は、つまり、近隣にあった「合掌造りの家」を移築し人工的に集落の姿に作りあげたテーマパークということではないのか。「合掌作りの家」を発見したブルーノ・タウトは偉かったかもしれないが、世界遺産にしては集落一帯がひどく観光化し通俗的になっているので興ざめだ。再びクルマを走らせてその日宿泊する宿に向かった。周囲はただ山だ。高山の市内で休憩し、それから地図を調べると、まだかなり距離があるとわかった。
■飛騨は山の中である。さらに山道は続く。温泉への道は遠い。さらに道は森の奥へと続いている。奥飛騨温泉郷新穂高に着いたのは夕方の6時きっかりで、雨が降り外は暗くなっていた。温泉につかる。気持ちがいい。久しぶりの休みだ。しばしの休憩。そして、翌日(20日)見た景色がこれだ。

ロープウェイからの新穂高のながめ


 朝から曇り空で霧も出ており、話に聞いていたロープウェイからのながめもそれほどよくないと想像していたが、思ってもみないような絶景である。こういう景色を見ると、登山愛好家の気持ちもわからなくはない。そして夜は温泉。ぼんやりする時間がとても気分がいい。読もうとしていた本をバッグに詰めて東京を発った。本もいいが、ぼんやりする時間がほしかったのだな。ただぼんやりする。風呂につかってぼんやりする。こうして神戸のあとは、飛騨地方でぼんやりしながら過ごしていたのだ。

■神戸に滞在していたのは三宮で、「三宮」は、「三宮」と書いて「さんのみや」と読むが、兵庫県立美術館を見たあとあらためてホテルに戻ろうとクルマを走らせ、三宮駅の近く、鉄道の高架下をくぐったとき、目の前の町の景色がどこかで見たことがあると思い、それは八年前の神戸の震災のときにたびたび報道された、ビルの崩壊があった三宮駅前の光景だ。崩壊したビルの跡地には新しい建築ができていた。
■温泉でぼんやりしているあいだも、神戸のことは頭から離れず、それはあの「門」のことになるのだし、「門」について様々なイメージが浮かぶ。たとえば、漱石の『門』のことがふとよぎり、カフカにも「門」についての小説があったこと(それは以前、なにかの舞台で引用したことがある)、「あの中学校」の「門」をめぐる事件はもちろんだが、数日前にここに書いた体育教師の「池田の事件があってから厳しくなってな」という言葉を思い出して、それで美術館に一緒に行ったKさんが指摘してくれた神戸で起こったまたべつの「門に拘わる事件」のことも思い出した。それというのも、なぜあの日、僕たちは、高校にするりともぐりこめたかがよくよく考えれば奇妙で、それを話しているとき、その高校には「校門」らしきものがはっきり存在しないことについてKさんが、「やっぱり神戸であの事件があったから」と、九〇年に起こった「門に拘わる事件」のことを切り出したからだ。つまり女子高生が校門を閉ざす扉によって圧死した事件をきっかけに「校門」についての考えが神戸で劇的に変化した影響が校門がはっきり存在しない学校を生み出したと想像できる。そして「池田の事件があってな」と体育教師が口にした出来事がまた、状況を変えようとしている。キーになるのは「門」だ。
■「門」についてずっと考えていた。そして、「中学校の門」を長いあいだ見ていたあの時間のこと、そのことで喚起されたもの、あるいは「門」そのものから出現するイメージがふつふつと湧き、ぼんやりしているあいだずっと、様々な考えがめぐるのだった。

■神戸に喚起されるものはとても大きかった。どんなふうに形象したらいいか、あるいはそれを作品にするだけの力が自分にあるか迷い書くのを躊躇させるし、事件そのものを書いてもしょうがない。なにしろ、事件そのものについて書かれたものは、スキャンダラスという意味で、読み物としてすでに面白いからだ。それをあらためて文節化するのが文学ってものでしょう。もちろん案内してくれた彼の言葉の意味も大きかったが、「門」からなにか生まれる予感がする。つまり「門」を見ていたあの時間なのであり、「あの町」を歩いた経験である。もっといろいろな人から話を聞けばよかったとも思う。はじめて会う人たちにはどうもうまく言葉を切り出せないのだ。
■東京に戻ればワーックショップをはじめまた忙しい一週間がはじまる。松倉が東京に来るのは僕のほうに少し時間ができてから、つまり、29日以降になる。東京滞在の数日のどこかでなんらかのライブを必ずやろう。たくさんの人に生の松倉を聴いてもらいたい。「テキスト・リーディング・ワークショップ」もはじまる。楽しみがいろいろ。忙しいがもちろん小説は書く。

(10:53 sep.22 2003)



Sep.18 thurs.  「そうでしょう」

■朝から「兵庫県立美術館」に行く予定を立てていた。
■きのうまで行動を共にしていた学生二人、さらに、松倉のCDを渡そうと思っていたけれどきのう焼き忘れていたので京都に住むKさんがそれを受け取りに朝10時にホテルに来ることになっている。ロビーに行くとすでにKさんはいたが、学生たちから電話があり、遅れるとのこと。そんなことじゃないかと思ったら案の定、そうだ。Kさんも一緒に「兵庫県立美術館」の「クリムト展」を見ることになっており、二人で近くのカフェに入って待つことにした。11時を過ぎてようやく、学生たちが現れた。
■「兵庫県立美術館」へ。平日だというのに「クリムト展」は人があふれている。常設展と合わせて2時間ぐらい見ていただろう。それから安藤忠男がデザインした美術館そのものを見る。めまいがするような建築で、なにしろ、自分がいま、どこにいるかよくわからない。それが面白かった。

■でも、それはそれとしていい。きょう考えていたのは、ある種類の絵画を前にすると、自分のなかに出現する不可解な意識のことだ。パリのポンピドゥーセンターで見たマグリットの作品のひとつを見ているときもそれを感じたし、東京現代美術館の常設展でしばしば、それは発生するが、悲しいとか、気持ちいいとか、にがいとか、そうした簡潔な言葉では言い表すことができないし、もちろんどれにもあてはまらないが、「懐かしさ」に似ているようでしかし、「懐かしさ」とも異なり、絵画の、描かれたもの、そのパーツのひとつひとつから色合いの複雑なイメージがいくつも発生し、そして目は作品を離れ、画家の姿や、作品が制作された場所のようなものが浮かび、それらがある時間のうちにあることを、感じる、つまり、制作された世界そのもの、絵画に描かれた見えるイメージと同時に、「見えないもの」もまた、それらすべてがどっと意識のなかに押し寄せてうねり、その瞬間にやってくる奇妙な感覚が、意識をどこかにつれてゆく。
■おそらく僕は、それをもう一度、経験したいと思っては、美術館に行くのではないだろうか。だけどそれは、「こういった傾向の作品に顕著だ」といことではない。きょうも、「クリムト展」のなかの、一九〇〇年前後、クリムトと同時代の画家のひとつの作品にそれを感じた。マグリットの作品すべてにそれが起こるというのでもなかった。べつに美術作品を解釈しようとしているのではなく、ただ作品を前にしたとき発生する奇妙な意識がほかではあまり感じたことのないものであることが「不可解」と書いたことの意味になるのだとすれば、風景をはじめとする自然を見てもこの「不可解」は生まれないと思え、すると、「不可解」は「作品」というものから与えられるにちがいなく、だとすればそこには、「作った人」が必然として存在するが、けれど、「人」ばかりが条件ではないし、「空間」も含まれ、「時間」もあり、「作品」であれば「映画」や「演劇」でもいいはずでありながら、しかしたいていそれは「絵画」であることにもまた、「不可解」はある。それはとても「奇妙」な感情だ。
■そのことばかり考えて絵を見ていた。それは、「意識」と書くより、もっと生々しい「感情」と表現したほうが正しいと思えるが、けれど、「絵画」を見る体験は、こうして「作品を前にした自分の意識の変化」に、まさに「意識的になること」ではないか。しかも細密な意識化とでもいうべき状態に、絵の前で自分が、なっている、ことへの、またさらなる「奇妙さ」がそこには、ある。

■美術館をあとにし、四人で南京町へ。屋台みたいに営業している店のラーメンを食べる。美味しかった。で、さらにその後、南京町の近くの喫茶店で、学生の一人が浪人時代に小論文を教えてもらったという予備校の講師をしているSさんという方に会った。Sさんは、ホームレスをしたことがあるという。その体験を質問するといろいろ答えてくれた最後に、「しますか?」と、意味不明なことを逆に問われるのだが、「いやあ、しないですねえ」と答えるとSさんはすかさず、「そうでしょう」とゆっくりした口ぶりでしかしきっぱりそう言う。会話は、このテンポと、よくわからない内容で進行したのだが、「そうでしょう」と口にするSさんが面白くて困る。しかも、この喫茶店に来る途中、道に迷ったSさんは着いた直後、やたら汗をかいている。それが気になって仕方がない。大学時代は東京にいたというSさんはもう40歳だというが、これまでに二度、一緒に住んでいた女性に追い出された経験がある。それで、「僕もありますよ、一度、追い出されたこと」と話しはじめると、すかさずSさんは言う。
■「そうでしょう」
■だけどいくらゆったりした口ぶりとはいえ、「そうでしょう」ときっぱり断言する根拠がよくわからない。Sさんはこれまで一度も就職をしようと思ったことはなかったと言い、なりゆきで県庁に勤めたことがあるそうだが、そこも三ヶ月でやめたと話すので、「僕もないですねえ、就職しようと思ったこと」と相づちのつもりで切り出すと、やはりSさんはすかさず言うのだ。
■「そうでしょう」

■ああそうですか、と言われるのを覚悟して書くが、このごろ僕は、疲れが二日後にやってくる。「あの町」を三時間以上歩いた疲れが、きょうになって足や腰に出て、ホテルに戻ると倒れそうになった。ゆっくり時間をかけてぬるい湯につかる。あしたは朝早くチェックアウトして飛騨に向かう。

(0:10 sep.19 2003)



Sep.17 wed.  「神戸、二日目」

■この日もずっとその町にいた。
■午後、彼の母校だという高校に行った。ニュータウンからは少し離れた場所にある。彼に案内されてついて行ったが、校内に勝手に入り、グランドなど見ていた。すると教師が彼の名前を遠くから呼ぶ。彼が在学中の部活の顧問だという。色が黒くていかにも体育教師という印象で、「不審者がいるって連絡が入ったからすぐ来たんだ」と冗談で言うが、いや、あきらかに我々は不審者で、なにしろ授業中の学校にクルマで乗り込み校内をぶらぶら歩いていたし、H君はあいかわらずビデオカメラを手に撮影している。「池田の事件があってから厳しくなってな」
■体育教師に声をかけられたあとも、こりずに彼のあとについて校舎の中まで入ってゆく。階段を上がる。廊下を歩くと授業中のクラスが開け放たれた廊下側の窓から見える。教師の声がする。制服姿の高校生たちが机に向かっている。昔とちっとも変わらない授業風景。廊下の向こう、どこかの教室から「六〇年代の社会的な運動が……」という教師の声が聞こえた。家庭科の授業をしている教室では、エプロンをつけた男子高校生の姿が見えた。あきらかに私たちは不審者ではないだろうか。けれど、こういう機会もめったにない。面白い経験をした。

■高校をあとにし、また彼の案内で、明石海峡の見える場所まで行った。すごくいいながめだ。海と明石海峡大橋、その向こうに淡路島が見えた。高校があった場所もそうだったがそこはもう須磨区ではなく垂水区になるという。海沿いを走る国道2号線を東に向かった。人工的に作られた砂浜で女の子が生き埋めになった事故があったすぐそばを通る。何年か前の花火大会の夜、海につづく橋で群衆がそこに閉じこめられ、将棋倒しになって大きな事故になったのもこの近くだ。
■さらに国道2号線を東に走り、それからまたあの町に戻る。風景が一変する。整えられた街路。整然と並ぶ住宅群。少し町の中を走って彼に教えられたお好み屋で少し遅い昼食。お好み焼きと、「そばめし」を食べた。とても美味しい。話には聞いていたし、いまでは東京でも食べることができるらしいが、「そばめし」を食べるのは初めてだった。
■彼の家に戻ってまたいろいろな話をする。きのうここにお邪魔してからも、彼の母親にいくつか質問し話を聞いたが、また少しずつ、ゆっくり話が聞けた。べつにインタビューしようとか、取材というのではなく、ただあたりまえに話を聞けたことがよかった。もっと時間があれば、自分たちでも意識していなかったこと、記憶のなかにしまいこまれたものが言葉になって出てきたのかもしれない。それでも少しずつ話を聞くことができた。夕方になってから彼の家をあとにする。かつて関西ワークショップに参加していた何人かと会うことになっているので、案内をしてくれるお母さんのクルマを追って三宮に向かう。来るときは海側を通っている高速道路で来たが、こんどは山側のバイパス道路を使う。「源平橋」や「ひよどり」だのと、「源平合戦」の話を彷彿させる土地の名前が目について面白い。山麓バイパスというその道は、慣れないと少し怖いほどのカーブや起伏だ。長いトンネル。とんでもない場所に道路を作ったのだという印象。
■三宮に到着。神戸市の中心の町だという。山と海に挟まれて町ができている。ホテルの前で彼らと別れたが、ほんとうにお世話になった。なにからなにまで助けられた。なにしろ山麓バイパスの料金まで払ってもらい恐縮することこのうえない。あなたはオレのおふくろかという歓待ぶりだったが、じつは彼の母親は僕とほぼ年齢が同じなので、よけいに恐縮するのである。そして、なによりあの町を歩いたのはとても大きな収穫で、刺激されることが多かったけれど、もちろん、町はなにも語りかけてはくれないのだ。こちらから語りかけることでようやく、町は重い口を開く。たしかに、もっと一人で歩くべきだったかもしれないのだし、一人で歩くことの意味は大きい。一人で歩くことで見えてくることもある。だけど、それとはべつに、人に話を聞くことではじめて知ることだってあるし、それは言葉にならないなにかかもしれない。

■ホテルにチェックインする。夜、関西ワークショップに参加していた何人かと近くにある老舗のイタリアンレストランで食事をした。ここのピザには開業以来何枚焼いたか、これは何枚目のピザかという証明書が添えられている。107万何千枚という数字が証明書に記されていた。そういえば、神戸は外国からはじめて日本に入ってくるものが多いという歴史のある町で、なにかと発祥の地だということも知った。「テニス発祥の地」であり、「サッカー発祥の地」であったり、そして、「そばめし発祥の地」でもあるのだ。京都とはまた異なる風土の土地であり、そう考えてくると、京都は天皇を中心とする政治の歴史の都市だとするなら、神戸は明治以降の、「近代」という歴史が形象されているのかもしれず、けれど「東京」とはまた異なる「近代」がいまに引き継がれているのではないか。関西のなかでもそれぞれの地域で言葉がちがうのは知っていたが、しかし、ニュータウンの、彼や、彼の母親の言葉に、神戸の言葉ともまたちがった色合いを感じたのは不思議だった。その町だからだろうか。整然とした町の風景とそれがどこか符合していると思えた。
■みんなと話をするのも久しぶりだったが楽しかった。特に、神戸出身でいまは無職のKさんと、三宮に住むMさんが、ものすごくしゃべる。特にMさんのしゃべりっぷりがすごかった。突然、無根拠な「説」を口にする。食事をしたあと、元町というJRの駅の近くにある古い喫茶店に案内してもらった。いいお店だった。いい喫茶店だが、アンティックな時計が無数にあるというおそろしい店で、なにより、時計の音、例のカチカチカチという音がそこらじゅうからずっとしているのだ。気が狂いそうになる。
■ホテルに戻るとものすごい勢いで眠った。そういえば睡眠不足だった。昨夜はあの町を歩いたことを忘れないうちに文章にしておこうと思い、ノートを書いていたし、今朝(17日)はやけに早く目が覚めたのだった。ここは神戸なのか。ああ、そうか、神戸だったのか。あ、そうだ、ピザ屋の証明書を店に忘れた。

(9:45 sep.18 2003)



Sep.16 tue.  「神戸へ。そしてその町を歩く」

■よりにもよってなんというタイミングで関西に来てしまったのだろう。

■昼少し前に京都に着き、ビデオ撮影してくれるH君と、神戸の「あの町」で育った学生をクルマに乗せ、一路神戸へ。彼と話しながら名神高速を走る。そのあいだずっとH君がビデオで二人の様子、外の景色を撮影してくれる。その町に着いて彼の家に近づいたころ、五年前、なんども繰り返し報道され、映像で目にしたその学校の「門」が左手、間近に目に入る。一瞬、ぞくっとした。
■彼の家で手厚い歓迎を受けて恐縮する。部屋から中学校が見えた。ほんとうにすぐそばで五年前のあの事件は起こったのだった。午後、その町を歩くことにした。「ニュータウン」と呼ばれる土地。整えられた街路。整然と並ぶ住宅群。どこをとっても清潔に感じられる。とても理想的な町ではないか。だからこそ見えないたくさんのものがあるかもしれない。最初に行ったのは、水道タンクのある小高い山だ。マンションタイプの住宅が多いこの町にしては、その付近一画は戸建ての住宅が多い。そしてひどく静謐だと感じた。人の気配もほとんどない。奇妙なほどの静けさだ。タンクのある山に登るには、子どもたちが「チョコレート階段」と呼んでいたというコンクリートでできた、土砂止めのようなものを登るルートがあるが、そこはあの「事件」以降、立ち入り禁止になったという。「立ち入り禁止」と書かれた水道局の立て看板と簡単に作られた柵があるが、柵はあっても、入ろうと思えば入れないことはない。「チョコレート階段」を登る。山の上からは町の一部が見下ろせた。それからタンクからすぐそばの空間に、おそらく「事件」のあとに作られたのだろう宗教的なモニュメントがあった。
■それからまた歩く。
■説明を聞くと学校が多いのに軽い驚きを感じる。小、中学校はもちろん、高校、大学もある。そして彼は、小学校の「学区」のことをしきりに語る。子どもたちは皆、その「学区」を自分のテリトリーと感覚的に把握し行動していたという話。もちろん整備された町なのでそれは道路によってくっきりわかれている。そして自分が属してた「学区」の外に出るといまでもアウェイの感じを受けるそうだ。事件は、ほかにも小学生の女の子が襲われるなどいくつかの場所で起こっており、それが「学区」を越え、様々な場所で起こっていると彼は当時の印象を口にするが、報道ではそんなことはあまり話題にならなかった。当時、高校の受験を間近に控えていた中学生だった彼は、まだ「学区」の感覚を強く持っており、事件のあったポイントが印象に残った。そして鈍器で殴られた少女の事件は、「学区」と「学区」の境界で発生していると教えられそこまで歩いて来たが、幅の広い道路にはクルマの往来も激しくなぜここで事件が起こったか不思議だった。
■水道タンクのある山はわかるのだ。しかも、事件の核心になったタンクは、タンクと地面とのあいだにすきまがあり、当時、小学生や中学生が、家に持ち込めない「やばいもの」を隠す格好の場所になっていたと言い、捜査のとき、きっといろいろなものが見つかったのではないかと、少し笑って彼は言った。鈍器で殴られた少女の事件現場は、「学区」の境界だけに、逆に人の目の届かなかった場所ではないかというのが彼の推測だ。
■いくつか、町に作られた公園を見た。公園がやけに人工的な美しさだ。神戸の地震の直後はこのあたりの公園には仮説住宅がびっしり作られたとの話。

■三時間ほど歩いたあと中学校の向かい側にある小高い場所から、あの「門」を長い時間をかけて見ていた。日が暮れかかっていた。ごくふつうの風景がそこにある。そこはまさに、テレビの報道カメラからとらえたアングルの見える場所で、けれど、当然のことながら映像とは異なる印象を強く持った。だが、ごくふつうの風景だ。どこにでもあるかもしれない中学校の風景だが、けれど私たちはすでに、「門」に付与されてしまった物語を知っている。「物語」や、様々な「言説」を通じてそれを見てしまう。そして学校名が記された文字のある「例の壁」の表側は映像でよく見ていたが、その裏側がどうなっているかはまったく知らないことを思い出した。あの壁の裏側はどうなっているのだろう。
■いまその「門」は、その中学校の「裏門」として使われ、新しくべつの場所に「正門」が作られたという。事件の記憶を消してしまおうという、在学生、これから入ってくる新入生への配慮だろうか。彼に聞くと、「いや、正門が家から近くなって楽になったんですよ」との答え。五年という時間は少しずつ事件を風化させているのだろうし、部活から帰る中学生たちはいまは裏門になった「門」からなんでもないように、下校してゆく。
■しばらく小高い丘から「門」を見ていた。見ているだけで様々なことを喚起させられるが、事件を外部の者として見ていた者の、単なる「物語化」だったにちがいない。そして僕がこの町に来たのは、「事件」について考えるというより、あの「事件」がごく身近な場所に発生し、テレビ局のクルーや警察で町が騒ぎになっていることに、なんの「実感」も持てなかった「彼」のことがもっと知りたかったからだ。彼は町を説明してくれる。「説明」してくれる言葉が僕には「事件」という「事実」、あるいは「物語化」されたものよりずっとたいせつなことだと思える。それはインタビューということでもない。説明しているとき、ぽろっと口に出てくる「言葉」が大事だった。僕がその町のことを書きたいのは、「町」そのもの、「事件」そのものより(なにしろ事件は資料を調べれば詳しく分かる)、「彼」の言葉だった。それは強い表現になっているはずだと確信していた。町をずっと歩いて考えることがとても多く、あるいは、エモーショナルなものがからだから吹き出しそうになる。ここに来てほんとうによかった。

■書くことはまだいろいろあるが、長くなる。夜になって彼の家に戻ると、また手厚い歓迎。神戸牛のすきやきをごちそうになる。ただ食が細くなっていたので、せっかく用意してくれた料理をかなり残してしまって申し訳なかった。彼と、H君とで、いろいろなことを話す。「表現」のことなど大量に。そして彼が僕の申し出にのってくれた意味など。さらに彼とH君の作った映像作品をビデオで見せてもらった。意見をいろいろ言ったが、でも基本的にはとてもいい作品だ。
■もう眠らなくてはいけない。あしたはまた、神戸の町を散策。歩こう。歩く速度でなければ見えないものがあり、歩くからこそ、考えることができるようになる。デザートにいただいたババロアがまたほんとうに美味しかった。いい神戸の夜である。彼の家に一泊。あしたは三宮のホテルに宿泊する。くりかえすが、彼の家族のあたたかい歓迎に心から感謝している。それから関西ワークショップに参加していた何人かとあしたの夜、会うことになった。それもまた楽しみだ。

(3:23 sep.17 2003)