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富士日記

PAPERS
菜の花
河津桜

 Published: Feb. 17, 2003
 Updated: Feb. 26 2003
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Feb.28 fri.  「どこもかしこも戦争」

■気がついたら二月が終わってしまう。
■『演技者。』というテレビ番組で『14歳の国』が放送されていることは何度か書いたがその番組で流す原作者のインタビューという仕事をする。演出したディレクターのO君本人がインタビュアーだったが、インタビューというよりふつうの会話として面白かった。今年のはじめニブロールの矢内原さんと公演で販売されるパンフレット用の対談をしたがあのときもふつうの会話として楽しく、やっぱり人と話をするのが大事であって、誰かに会いに行かなければという思いを強くする。誰に会うかだけどね。
■考えてみれば友だちがほとんどいない。
■というか、むかしはいやでも人に会わなければいけない仕事だったので日々様々な人に会ったが最近、ほっとくと誰とも会わず家にいるのであって、油断すると家から出ないし、電話で話すのもおっくうになっており、電話にも出ないのは申し訳ない次第だ。というのも大学の実習公演も含め舞台の稽古に入るとものすごく大勢の人と作業をするがそれにへとへとになってしまうから、せめてふだんは人に会わずにしようとついからだがそっちの方向に向いてしまう。

■芝公園の近く東京タワーがすぐそこに見える場所にあるカフェで収録。
■面白かったのでかなり長い時間話した。ディレクターのO君は自分のやっている仕事を客観化できるすぐれた人と見受けられた。どんな世界にも、すぐれた人とだめな人がいて、その領域それぞれに、やっぱりだめはだめだと思うし、領域そのものに優劣はぜったにないのであって、もっとよく見れば、演劇でもだめなやつはだめだろうし、テレビの仕事に誠実に取り組んでいる人もまた数多くいる。
■ただ、テレビでも音楽でもいいが、そうした業界はお金になるわけですね、やり方によっては、すると、テレビのだめ、というか、その業界のインチキ野郎は、どうしても許せないだめが漂うのだ。O君はよかった。話をしても面白かった。『14歳の国』は四回放送される。最後の回で原作にはない演出があるらしく「怒るかもしれない」とO君は言う。話を聞いてなんとなくその演出が予想できたが、最終回が楽しみになった。

■家に戻って「考える人」の原稿を書く。書けない。で、『ボウリング・フォー・コロンバイン』の監督、マイケル・ムーアが書いた『アホでマヌケなアメリカ白人』を少し読む。面白い。その話はまた後日。

(12:12 mar.1 2003)


Feb.27 thurs.  「戦争、あるいは転がるボウリングの球のように」

■ところで、いま東京でもっとも話題の映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』のことだが、ものすごく面白かったわけですけれども、ますますドキュメンタリー映画を作りたくなったと、そんなふうに簡単に書けばドキュメンタリー映画作家の方に申し訳ないわけで、うちの大学に『阿賀に生きる』を作った佐藤真監督がいらっしゃりいかに一本の作品を作るのに時間がかかるかといった話を以前聞いた。
■たとえば、ドキュメンタリーの対象になる相手とふつうに挨拶ができるまでに半年かかるとおっしゃっていた。カメラを回すまでにさらに時間をかけるだろうし、それ以前にも取材はさらに長いだろう。「作りたい」という曖昧な意識じゃいいものなどできるわけがないのだが、『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観ながらひとつアイデアが浮かんだ。結局ぼくは舞台を作る人間であって映像作家ではない。だから舞台に軸足を置きつつ、映像を作り、舞台と融合させるためのまたべつの方法。
■それにしても、『A2』の森達也監督にしろ、『ボウリング・フォー・コロンバイン』のマイケル・ムーアにしろものすごくタフだ。体力の問題だけではなく、「視線のタフさ」とでも言うか、対象への向かい方の姿勢のタフさというか、そのような目は「笑い」へと向かうと感じ、つまるところ「タフな批評する精神」だ。僕もタフでは負けないつもりだけど「批評する精神」がときどき疲れているのを感じる。カメラを回してみようと思った。「書く」ことと同様の意味でカメラを使おうと思った。
■あと、関係ないけど、どうしたって次に楽しみなのはアキ・カウリスマキの『過去のない男』だ。

(12:02 feb.28 2003)


Feb.26 wed.  「憂鬱な戦争」

■書くことが決まると原稿がすぐできてしまうのはいいことかよくわからないが、『考える人』の連載「考えない」になにを書こうか悩む。「考えない」について書き続けてきたが「考えない」のはむつかしいのだった。人間、ついつい考えてしまうものだが、いかにして「考えない」か、「考えない方法」を考えているというよくわからない一日だ。
■うーん、手が尽きたか、と困っている次第で、しかしいかにして「ひとつのテーマ」で書きつづけてゆけるかというのがプロの腕の見せどころというやつだろう。この「富士日記」のようにいろいろ書いていいのだったらそんなに楽なことはないというか、まあ、お金を取るつもりがまったくないし、字数が決められているといった制限がないからいくらでも書けるものの、ある連載の担当の方が「いつものエッセイのように気楽な気持ちで」と言い、それはそれでいやな気持ちになる。気楽な気持ちで原稿を書いたことがないぞ、俺は。どんなにくだらないことを書こうと死にものぐるいだ。
■で、締め切りがせまり、ぎりぎりのところで無理矢理書いたような、わざとらしく面白くした原稿がけっこう評判がいい場合があってですね、書いたときの苦しさでその原稿にいい記憶がないのに「面白かったですよ」と言われるとそれはそれで複雑だ。
■そんなことより原稿を書かねばならない。

(11:15 feb.28 2003)


Feb.25 tue.  「戦争を拒むことに向けて」

■書こうと思いつつ、つい忘れていたのは、『トーキョー・ボディ』の楽日に来てくれた、しりあがり寿さんのことだ。
■舞台が終わったあとすぐにしりあがりさんに会おうとロビーに出ていったらどこにも姿がない。帰っちゃったのかとがっかりしていたら、しばらくして姿を現した。手に差し入れ。差し入れてくれたのはしりあがりさんの単行本で、よく見ると本屋の袋に入っておりつまり近くの書店に足を運びわざわざ自分の著作を買ってきてくれたのだった。
■どうしてそこまでしてくれたのか。
■で、その作品集に驚いた。わざわざしりあがりさんが買いに行ったのには意味があった。その単行本、『なんでもポン太』(太田出版)はでたらめの極地をゆく実験的な短編をまとめた作品集だが、作品の途中、なんの脈絡もなくモンドリアンの絵画、つまり『トーキョー・ボディ』の舞台装置と同様のものが差し挟まれているばかりか、短い作品が並ぶ、その作品のラストは必ず人が背後に倒れるのだった。
■この共時性はなにごとだ。
■僕はその作品をまったく知らなかった。ほんとうに驚いた。

■原稿を書いて過ごす一日。朝、ニュースを見た流れでNHKの連続テレビ小説ってやつを見てしまった。主題歌を歌っているのは、たしか、DEEP FORESTのCDにも参加しライブにも出たという人ではなかったか。奄美大島出身の独特な「こぶし」で歌う女性シンガー。DEEP FORESTは好きだろうな、この「こぶし」と「声」は。
■「声」について考えた。というか僕はかなり「声」が好きだ。「持って生まれたもの」としての「声」はあるにちがいないが、それ以上に「声」には様々な「その人」が出現するのだと思える。コスモ石油のCMのナレーションは田口トモロヲ君だ。単純に「いい声」というだけでは理解できないよさがトモロヲ君の声にはあるし、一躍彼の「声」を有名にした「プロジェクトX」のナレーションがいいのは「声」の魅力がもちろんあり、同時に淡々と語るその調子が、淡々としているからこそ「声」の魅力をより引き立たせている。たとえば新劇の俳優がやれば「うまい」にきまっているが、「淡々としつつも多くのことを語りかけてくる」あのトモロヲ君の声、ナレーションのよさは出現するはずがない。
■ヴォイストレーニングはきっと意味のあることだし、トレーニングするにこしたことはない。だけど消えないのは「自分の声」だ。なにかによって作られてきた声。「自分の声」を大事にしつつ持っている魅力を磨くことでさらに出てくる深さも大切なのだろう。奄美大島の島歌をベースにした元ちとせの「声」を聴きながら思い出したのは都はるみさんだ。ある年の大晦日、それまでほとんど紅白歌合戦を見たことのない私だが、静岡の実家に帰省したおり両親が見ている紅白歌合戦で歌う都はるみを見た。演歌にはまったく興味がないが、すでに歌の世界から身を引いていた都はるみの久しぶりに歌う姿は、すごいとしかいいようがなかった。
■都はるみにしろ、元ちとせにしろ、なにが「声」を生み出したか。
■「路地」と「南島」。
■演歌という湿潤な世界とか、音楽とか、そういったものをひとまず脇においといて、「声」ということ、それが発せられる「からだ」のことを抽象化するというか、それだけを抽出して考えたとき出てくるもの、そこから考えを出発させると、いま僕がかかえている表現の問題のヒントになる予感がする。

■そんなことばかり考えている。
■毎日新聞は書けたが、また「資本論を読む」の締め切りが来た。だけどそれより先に『考える人』の連載がある。そして小説。

(13:55 feb.26 2003)


Feb.24 mon.  「戦争、あるいは世界」

■舞台の稽古がはじまるころDVDのデッキを買ったが忙しくてまったく活用していなかった。
■きのう書いたようにヤツイ君から送ってもらったDVDを見、もっと活用するべきだと新宿までソフトを買いにいったわけだけれど、それまで気がつかなかったのは、様々なDVDのソフトが出ていることだし、DVDならではの機能がそれぞれにあることだ。ゴダールの『映画史』がビデオよりずっと安価で発売されている。しかも「注釈」を読むことが可能というのか、つまりWebからリンクをたどるようにして作品をより理解する仕組みになっているらしい。
■ほかにもマフバルバフの三作品が一枚に収まっているものがあったり、パゾリーニがやけに目立つ場所に並べられていた。新宿のTSUTAYA。あるいはよく理解できないソフトもある。知らなかった。なんということになっていたんだ世の中は。
■きのう「政治思想」について書くと予告したのは、ヨーロッパにおける反戦デモのニュースを目の当たりにしつつある本を読んでいるうち、「左翼」に関するパラダイムシフトと、旧来の政治言語における「左翼」ではなく、べつの姿をした「左翼」はあってしかるべきだと思いつつ、いまこの国の「左翼的なるもの」がだめなのは、「レフト」とはあきらかに無縁な「左翼的心情を持つおやじ的」なるロマンチシズムにまるでリアリティがないというより退廃と害悪でしかないことでありなにも行動しないくせに左翼的言動をする「だめだめな左翼」から逃れつついやそれでもなおかつ修正主義的ではない断固とした「レフト」であることについて考えていたからだが、むろんのことそれは「レフト」であることの生き方の問題であって声高に政治的発言をするというのではなく自分の持ち場でいかにして「レフトポジション」を堅持するかそれを支えるこれまでとは異なる思想があるはずだともやもや思いをめぐらしていたからだ。
■考える。

(9:50 feb.26 2003)


Feb.23 sun.  「どうやって声を上げるか戦争について」

■シアターテレビジョンから届いた『トーキョー・ボディ』のビデオを見る。映像で観ると舞台がひどく暗い。穴がよく見えない。ただスリットの向こう側はきれいに見えるし、舞台より、映像とスリットの向こう側を同時に把握できるよい部分もある。あるいは、ビデオとシンクロして人が動く「ビデオ屋」「ボーリング」「レスリング」のシンクロ具合がとてもわかりやすい。むつかしいな、舞台を映像化するのは。舞台では見えていたものが見えない、あるいは「見えないなにか」がいくつかある。素材をもとに映像作品として作り直させてもらえたらとすら思った。
■で、ここはこうすればよかったといまになって気がつく場面もあるし、反省点もいくつか。夕方、まだ調子の悪い腰をかばいつつ新宿に買い物しに行ったが、町を見ていたらまだ書くべき東京があると思え、すぐにでも舞台をやりたい気持ちになった。気持ちが盛り上がるというか、気分が昂揚するというか、すぐにでも書きださんばかりの勢いだ。
■だけどほかにもやらなくてはいけない仕事がある。

■さらに、「演技者。」というテレビ番組の『14歳の国』と、エレキコミックのDVDを観た。映像作品として準備された『14歳の国』はとてもよくできている。絵がきれいだし。舞台には出ていない、「よいこ」の浜口君と、俳優の光石さんもいい。V6の若い男の子はなぜあんなに深刻そうな内面を作るのか気になる。
■で、不思議なのは、映像の演出家はこの戯曲から感じたこと戯曲にある考え方を正確に表現しようと淡々とした世界を構築するが、それに反して、演劇の人が演出するとなぜ世界観が異なるものになってしまうケースが数多くあるかだ。多くの演劇には、「演劇とはこうであろう」という「問い直しのない無自覚さ」を感じる。もちろんテレビ版の『14歳の国』には、映像作品だからこそ表現できる部分があるし、舞台でこうした演出をするには困難もきっとある。とはいえ、考え方の核となる部分がしっかりしているからテレビ版『14歳の国』は安心して観ていられる。
■エレキコミックのヤツイ君は顔がずるいと思う。
■顔をそうとう作る。だがいやな気がしない。これはむつかしいことなのですね。「顔で演技するな」とはしばしば稽古場で口にするが、顔で演技しても「いい人」と「いけない人」がいる。喜劇的な場合も悲劇的な場合も。ヤツイ君は身体性が高いということだろうか。そして「よろこびの記憶」にあふれていると感じるのは演技中、相手の動きを見て本気で笑っているとしか思えないところがあるからだ。そこに「道化的なるもの」を感じ、それとは異なる系譜も存在すると考えられ、それを次のような図式にすることができるのではないか。一方を「Aの系譜」、もう一方(つまり道化的なるもの)を、「Bの系譜」としてみる。

喜劇人 知人 外国の人 最近の人
A タモリ いとうせいこう モンティ・パイソン ラーメンズ
B ビートたけし 竹中直人 マルクス・ブラザーズ ヤツイ君

 どっちがいいと比較するような問題ではない。僕はどちらも好きだ。さらに過去にさかのぼると「Aの系譜」には「トニー谷」が、「Bの系譜」には「由利徹」がいるがこんなことを書いてもわからないだろうなあ。
 で、たまたま「笑い系の人」についてこうして図式化したがおそらく「俳優」にしろ、あらゆる表現者には「Aの系譜」「Bの系譜」が存在するのではないか。「よく似たタイプ」といった種類の単純な分類ではない。
 これまで「喜劇論」はもっぱら「Bの系譜」が書かれてきたし、「道化」としての喜劇人を考えれば「Bの系譜」が正統なのだと思う。だからなおさら「Aの系譜」が気になる。とはいうものの、かつてのようにこうしたことを考える興味がいまの僕にはない。じつは「Bの系譜」が強調されてきた背景に、「喜劇論」がそもそもかつて傍流として、サブカルチャーとして登場してきた事情があり、ことさら「道化」が強調されたという意味があると想像するが、ポスト構造主義という思想と符合しているところがどこかありだから山口昌男さんは「道化論」を書いたのではないかと話は興味がつきないけれど、書き出すと長くなるし、くりかえすようだがいまは考える興味を失っているのだ。とにかくヤツイ君は面白いという話。エレキコミックのコントは、ラーメンズのように形式的に新しいことをしているのではないが、もっぱら、エレキコミックの二人が面白い。ふたりに魅力があるということで、演劇ではそれを「特権的肉体」などと呼んだわけですね。
 これがまあ、「Aの系譜」「Bの系譜」のちがいって話になるわけだけど、書かないぞこれ以上、詳しくは。

■で、きのう「流行思想の「ばか」が流布し」と書いた「ばかという態度の構え方」とでもいうべきそれは、つまるところ「アナーキズム」の変種なのだろう。といったことをきょうある本を読みながら考えていた。
■また長くなった。ほんとはアメリカに留学しているU君や、フランスに留学中のMさんのメールも紹介したかったがきょうはこれまで。というわけで、あしたは「政治思想」について書く。

(15:03 feb.24 2003)


Feb.22 sat.  「戦争も悲惨だが、鍼も痛い」

■夕方、鍼治療。ものすごい数の鍼を打たれた。だいぶ楽になった。夜おそく制作の永井が家に来て、事務所に届いている郵便物などを渡してくれた。シアターテレビジョンで放送する『トーキョー・ボディ』の仮編集版のビデオ。「演技者。」というテレビ番組でやった『14歳の国』の第二回放送分のビデオ。エレキコミックのDVDとパーカー。映画『ロスト・イン・ラ・マンチャ』の試写状。『ロスト・イン・ラ・マンチャ』は監督がテリー・ギリアムだと試写状を見て知った。これは見なければ。ほかにはいくつか舞台の招待状。
■このあいだ、「見たくないけど興味をひかれる現実を見に行くツアー」について書いたら編集者のE君から「それは面白そうですね」とメールをもらったが、次の部分をどうしても引用したい。

学生のころ中野の武蔵野ホテルでアルバイトしてたことがありまして、当時ホテルとホール両方の支配人だったH氏から「これ観て感想聞かせて」と渡されたビデオが『死霊の盆踊り』でした。家で観て−−もちろん唖然としたわけですが−−、「見たくもないようなものを無理矢理見せ続けられる」という主旨はくだらないと思い、H氏に「ああ、いいですよ、これ」と答えておいたら翌月ほんとに武蔵野ホールで公開が始まってしまいました。「みんな騙されたと思うだろうなぁ」、とひとり良心の呵責に胸を痛めてました。

『死霊の盆踊り』は未見だがちらっとなにかで見たことがある。公開にそんないきさつがあったとは知らなかった。笑うなあ。しかもE君によれば、『死霊の盆踊り』はギャガ・コミュニケーションズの第1回配給作品だという。すごいことになっている。『ロード・オブ・ザ・リング』や『戦場のピアニスト』を配給している会社だよ。世の中わからないことだらけだ。
 あるいは、去年の三月に敢行した「サーチエンジン・システム・クラッシュ・ツアー」に参加してくれよくメールをいただくS君からもメール。

私が最近気になるの(というかココ一年ぐらい)は、「ルシ」という人です。宮沢さんが「小説ノート」を書かれなくなって、「ルシ」は消えてしまってような気がしています。さまよいたくても、さまよえないような感じがします。私にとっては、「ルシ」に逢わせてくれるのは宮沢さんにたのむしかないので、もうすこし「ルシ」を見せてください。

 こういうのは、なんというのでしょう、作家冥利に尽きるというか、作家の創造した架空の人物がすでに一人歩きしている気がする。また書こう。そうだ、「私は小説家でもあった」。

■以下、思いつきで書いたノート。
■まずやるべきことのひとつに、「あたりまえだと考えていることを問いなおす」という作業がある。「問い直した結果」として出てきた表現が一見、「あたりまえのこと」だったとしても、それはそれでいいのではないか。というか、ある時期から様々な芸術ジャンルは「問い直し」、あるいは、「カウンター」「実験」「革命」としてあったし、現代のおおむねの表現は「芸術について考える芸術」「表現について考える表現」だった。「現代芸術」はそう宿命づけられた。演劇だけではなく、文学、美術、建築、音楽……、あらゆるカテゴリーにおいて。
■で、政治の革命の季節が終焉したころをさかいに、そんなこともどうだっていいと、<「問い直した結果」として出てきた表現が一見、「あたりまえのこと」だったことを自覚している>というねじれた状況が出現し、「わかってますよ。新しいこと、実験的なことは大切ですけれど、でも、それがどうしたわけ」とばかりに、またべつの自覚が生まれた。
■まあ、そのあたり、一部をのぞいたたいていの「実験」はつまらないという事情があったし、たとえば「劇場という制度を破壊し」とテントで芝居をやろうと「だからそれがなに」とばかりに以降の演劇はひどく醒めた姿勢で舞台と向かいあった。

■なによりだめなのは、「問い直し」すらしない「無自覚さ」だが、「無自覚」であることの「ばかの力」の面白さもなかにはあるからことは複雑。ただたいていの「無自覚な表現」はつまらないものの、なかに突出して出現する「ものの見事な無自覚の鋭利さ」があることは忘れてはならずつまりそれは「底知れぬばか」ということだが、「底知れぬばか」ほどすごいものはない。
■そこには身体性がある。生身がある。
■「知識人の身体論ほどつまらないものはない」から遠く隔たった場所に位置し、「ばか」を自覚しているのではなく、「やむにやまれぬ力によってばかになってしまう」が、ほんとうの「ばか」とも異なる。ただ、それが強調されたことで「ばかを演じることのつまらなさ」も出現したことは否めず、ばかは演じるのではなく、「ばかになるです」という困難な命題が忘れ去られたとき、潮流として、ある意味、流行思想の「ばか」が流布し、そこにあるのは演じられる「浅薄なばか」、いわば、「思想性のないばか」「抜け殻としてのばか」だった。
■「ばか」は自分のことを「ばか」とは口にしない。くりかえすが「演じられるばか」ほどつまらないものはない。それが大量に流通している。そうした状況もまたひどくつまらない。

■そしてまた、そんなこととはまったく無縁な「なにも考えぬ芸術な人たち」もいる。確実にその世界がいまだ存在するから手に負えない。様々なことをわかっている「硬直しない自覚的な芸術家たち」がいてその存在を尊重するが、ことは複雑、「なにも考えぬ芸術な人たち」とは、逆に言えばそれこそが「通俗」だ。極端な例をあげればたとえば美術の世界では「日展」「二科展」なんか見るとほんとうに「通俗的な芸術」がごろごろしているし、文学では「純文学らしきもの=通俗」が大量に産出されている。
■そうしたことからどうやって逃れ、「いい舞台」「いい小説」を書いていけるだろうと考えるが、答えははるか遠くにある。ぼんやりとしている。とりあえず、というか、さしあたり、いまは腕を磨くことではないかと思っているのだ。「長くやっていれば人はうまくなってしまう」ことからかつてはどう逃れよう、どうしたら「へた」に、からだの内部から噴出するようにものが作れるかとそんなことばかり考えていたけれど、いまはあえて、もっと「うまく」なりたい。いい戯曲が書きたいし、もっと文章がうまくなりたい。
■そして、岩松さんに指摘された『トーキョー・ボディ』の問題、「ブランドの女の袋がやけに軽く見えた」をどう考えるか。重たい指摘だ。わたしにとっては。

■まあ、なんと言いますか、緊急な問題としては腰を治さないとだめでしょう。なにもできない。集中してものが考えられない。「からだ」である。なにより「からだ」から発するものからの出発。

(12:44 feb.23 2003)


Feb.21 fri.  「腰と戦争」

■大学のための仕事をしていた。その途中、必要なものが見つからずちらかった部屋を妙なかっこうでものを探していたらまた腰を痛めた。きのうまで痛かったのは左側だが、こんどは右側。動けないほどではないがかなり痛い。ものを考えるのもおっくうになる。
■死ぬ思いをしながら仕事。なんとか片づける。ほんとうに死ぬ思いであった。

■このあいだ「富士日記」は武田百合子だと書いたが、江戸期、すでに「富士日記」というものを書いている人がいることを「重信房子の裁判傍聴」に行ったとメールを送ってくれたM君からさらに教えてもらった。賀茂季鷹による「富士日記」が存在するのだった。武田百合子はそのことを知っていて自分の日記を「富士日記」としたのではないか。きっとそうだ。
■武田百合子の「富士日記」にはその日食べたものが克明に記されている。三坂の日記がよく似ている。「富士日記」に記された武田泰淳の言動が面白い。

午後、主人、シャワーを浴びて洗髪。つづけて体も洗おうとすると、あんまり洗うと頭が悪くなるといって断られる。

 さらに次の箇所。

主人、夜ねるとき、こたつをつけてタオルの白い帽子をかぶっている。「もう一枚毛布をかけようか」と言うと、目をつぶったまま「あんまり毛布をかけると煮えてしまう」と言う。頭だけ寒いらしい。

 もちろん「主人」と表現されている武田泰淳が面白いのではなく、それを見つめている百合子の視線に読む者の気持ちを動かす力があるのだし、それを言葉として定着する力があるから見事な文章としていまも読みつがれている。「富士日記」、最後の一節を読むとそれがよくわかる。書かれたのは一九七六年九月。夫の看病をする百合子の、泰淳、死の直前の日記である。

向いの丘の新築マンションに、いつまで経っても灯りが煌々とついている部屋が二つあって、部屋の中の椅子や道具まではっきり見えている。人が立ったり歩いたりするのも見える。眠くなりそうになると、その部屋をみつめて夜が明けるのを待った。夜中ずっと雨が降って、風もつよくなった。朝になると風はやんで、小ぶりの雨だけになった。


■夕方になってようやく仕事を終えたがほんとうは毎日新聞の原稿がまだある。でももう力つきた。夕食のあとただぼーっとしていたのだ。そういえば、『トーキョー・ボディ』のオーディションに来たが俳優よりもっと異なる表現者としてきっと面白いことをこの人はするのじゃないかと稽古場に来させ、稽古の写真を撮らせていた小沢から、ドイツ文化センターでブレヒトの映画の連続上映があるとメールで教えてもらった。もう何本かやってしまったようだ。残念。
■いろいろなことにうとくなっている。情報にうとい。まあ、うといのも悪くないとは思うのだが。
■腰が痛いので早めに就寝。きょうも一歩も外に出なかった。

(9:17 feb.22 2003)


Feb.20 thurs.  「戦争から遠く離れて」

■携帯電話の電源を切っています。ふつうの電話にも出ない。すいません。
■仕事をしようと思いつつ、ブレヒトの演劇論集、『今日の世界は演劇によって再現できるか』を学生以来何年かぶりで再読。かつては幼かった。あのころより少しは理解できるほどに私も成長しているのである。
■午後、鍼治療のため都立家政にある中田先生のところへ。腰のあたりに鍼を打つと電流のようなものが神経を通じびりびり足の先まで流れるのはこれまでにもたびたび経験したが、きょう強烈だったのは腰から少し下に鍼をさしたら、なんというんでしょう、股間あたりで回転するように電流が流れるという初めての経験をした。なんだこれは。治療が終わったら中田先生から米を五袋くらいもらった。「いいから持って行きなさい」と言う。魚沼産のこしひかり。治療費より米のほうが高いのではないかと思って恐縮。
■僕が紹介したことで、かつて僕の舞台に出ていた小林が先生の治療を受け、さらに小林の紹介で岩松さんや僕の舞台にも出、いまはプリセタという舞台を主宰している戸田君も治療を受けた。『トーキョー・ボディ』の出演者たちも行ったし、いまに小劇場の役者たちが次々と通うようになってしまうのではないか。
■腰、だいぶ回復。仕事をしなければいけない。

(7:25 feb.22 2003)


Feb.19 wed.  「戦争のこともそうだけど」

■腰が痛い。
■大学の仕事進まず。締め切りはとうに過ぎている。『考える人』の原稿も書かなくてはいけないし、毎日新聞の締め切りも目前。そんなおり、留守電に岩崎書店のHさんの声。絵本を作る話が出てからもう一年以上になるのじゃないだろうか。不義理をしてすみません。ダイヤモンド社の方から頼まれている『論語を読む』もほったらかしだ。あといくつか稽古と公演のあいだに原稿を頼まれたのに断ったり連絡しなかったりで申し訳ないことこのうえないのだった。
■そんなとき、こんど筑摩書房から出る『茫然とする技術』の文庫版の解説をメールで送ってもらった。解説を書いてくれたのは松尾スズキだ。とてもありがたかった。少し仕事への意欲がでてくる。で、松尾のやつ、泣かせやがるんだ、こいつめが。『ユリイカ』の松尾の特集の原稿を書かなかったのは本人にも申し訳なかったとあらためて思うものの、『トーキョー・ボディ』の初日が1月22日で、原稿の締め切りが20日だったからまず不可能だった。もし引き受けていたら確実に迷惑をかけていたというか、落としていたと思う。どっちがいいんだ。
■町に出ようと思いつつ、まあ仕事もたまり腰も痛いからしかたがないが、家にずっといた。すきあらば眠ってしまって仕事は進まない。ひどく冷える。腰の鍼治療にゆこうと予約をした。

(13:55 feb.20 2003)


Feb.18 tue.  「くりかえすようで申し訳ないが戦争に反対しつつ」

■その後も「どこから見ていた富士山クイズ」の解答のメールが送られてくる。重複しますが次の写真。

くりかえすようだが富士山

 タイトルに使っている(左上)富士山は東名高速道路富士サービスエリアの駐車場で撮影したけれど問題の富士山はそれとはまったく異なる場所です。つい最近やはり見たというurianさんは「山梨側中央道から国道52号方向に向かっている途上あたり・・・でしょうか。わたくしは、山梨の増穂町小室という場所で見ておりました」と書いてくれた。あるいは、『トーキョー・ボディ』を初日に観てくれたというMさんのメールには「富士日記どこかで聞いたことがあるので一報したわけですが武田百合子ですよね。私が最も大好きで一生のうち何度も読み返すであろう書物の1つです。そしてもうひとつ富士山の写真ですが、中央道のどこかで撮られたのではないでしょうか?(なんの根拠もないですが、石和温泉あたりに行かれたのでは?という気がしました)」とあった。そう、武田百合子さんの日記のタイトル。作家・武田泰淳の奥さん。というか、武田の作品『もの食う女』のモデル、というか写真家・武田花の母親。けれど、二人とも正解ではありませんでした。
■さらに、Kさんという方は「ずばり西荻窪駅の高架から見た図」という。
■「先日西荻窪の駅(高架になっています)で電車を待っていたら、突然目の前にでっかい富士山が見えたからです。いえ、最初は富士山だとは思いませんでした。あまりにもでっく、かつクリアに見えたからです。東京からこんなにもくっきりと、しかも大きく見えるはずがない。でも形は明らかに富士山そのもの。ホントびっくりしました。電車に乗ってからも新宿方面に向かいながら その姿が見えなくなるまでずーっと見つめてしまいました。高円寺くらいまで」
■ああ、それは見てみたい。東京には「富士見坂」という名前の坂がたくさんあるけれど、あれは富士が見えた場所だと「東京の坂」という本で読んだことがある。文學界のOさんも住んでいる国立から天気のいい日は富士山が見えるとメールをくれた。見えるのですね、富士山。東京でも。

■そして、最近コピーライターという職をやめたというM君は「例の富士山の写真、“静岡スタジアム エコパ”とも思ったのですが、「富士日記」というタイトルから推測すると“富士山本宮浅間大社”からの撮影で間違いないのではないでしょうか。行ったこともない場所なのですが、根拠のない自信に満ち溢れています」と書いてくれた。
■で、仕事をやめたM君は最近時間をもてあましていることをメールに書いているが富士山のことより次の部分が気になった。

一人ぼっちでハワイに行ってみたり、エロ漫画家によるトークショー(ストリップ&浣腸ショーつき)を満喫したり、重信房子女史の裁判を傍聴したり(丸岡修氏の証人喚問)と、行き当たりばったりの日々です。(中略)ところで、重信房子女史の娘さん重村メイさんを目の前で拝見した際に、叶姉妹の妹に似ているコトを発見しました。

 これを読んで、やっぱり行動しなくちゃいけないと思い知らされた。書を捨てよ町に出よう。システムを落とし町に出よう。丸山修の証人喚問は聞きたかったというか、見たかった。ていうか、「浣腸ショー」ってのはいったいなんだ。まだ見るべきことが世の中には数多くあるのだなあ。
 去年、「池袋サーチエンジン・システムクラッシュ・ツアー」という催しをやったが今度は、「見たくないけど興味をひかれる現実を見に行くツアー」というものをやってみたい気すらしたのだった。そもそも『サーチエンジン・システムクラッシュ』を書いたとき、その途中、桜井圭介君をはじめ数人で、「いまの東京のカラダを見に行くツアー」をやり、夜の西麻布近辺のクラブに行きそれがどれだけあの作品にとって重要だったかしれない。外に出よう。そのためにはまず腰を治さないといけない。まだ調子が悪いのだ。

■さて、どの方のメールもすべてまちがいです。
■解答を発表します。それはここである。
■伊豆スカイラインをクルマで走っていたら見つけた場所。絶景だった。ものすごかったねしかし。広い画像にすると次のようになる。

富士山遠景

 かすか遠くに見えるのが富士山。それよりこのながめのよさだよ。だから図書館員のS君が書いてくれた「伊豆熱川バナナワニ園」はあたらずとも遠からずだったわけだ。で、東京までの帰り、御殿場を抜け富士のわき、山名湖や河口湖の近くを通ってから中央高速に入ったが、驚いたのは、中央高速から首都高に入って初台で降りると家まで一直線という感じだったことだ。私のために初台の降り口があるのかと思ったほどである。

■東京は寒い。暖かくなったら今度は自転車のシーズンだな。自転車で思い出したが『トーキョー・ボディ』の稽古、公演中、三軒茶屋まで自転車で通っていた何人かの出演者が、自転車を盗まれたというし、小浜にいたってはバイクを盗まれた。三軒茶屋は危険だ。何を盗まれるかわからない。そんなことを書いているうちにまた長くなった。
■で、きょうのこと。静岡にある古書店をインターネットで見つけ『マラーの迫害と暗殺』(ペーター・ヴァイス.内垣啓一、岩淵達治訳/白水社/1974四刷)を注文し、オペラシティのなかにある銀行に代金を振り込みに行った。腰が痛いので慎重に歩く。手数料が420円だったので腹立たしい気分になった。なにごとだそれは。オペラシティのなかにある美術館ではアジアの現代美術展をやっていた。近くにある美術書など扱うショップで買い物。
■大学の仕事がある。それに手こずる。

(7:06 feb.19 2003)


Feb.17 mon.  「戦争には断固反対しているわけだが」

■クイズの解答(きのうの日記の貼り付けた富士山を見た位置)を何通かメールでもらった。図書館員のS君は「伊豆熱川のバナナワニ園」だと強く主張する。以前、リドリー・スコットが作った初代MacのCMを紹介してくれたT君は「清水港」から見た富士だと言うし、ほかにも「箱根」という意見もあった。
■ぜんぶ不正解です。
■というかこれわかるわけがないと思うものの、もしピンポイントで正解する方がいたらなにか差し上げたいくらいだ。その場所を発見したときの感動はなかった。見事な絶景。春になってまた暖かくなったらもう一度行ってみたいとすら思った。

■ほんとはPAPERSのほうに載せるべき情報が二点あるのを忘れていた。まず、シアターテレビジョンでこの3月、『トーキョー・ボディ』を含む僕の舞台が何作か放送される。そして3月15日14時よりパブリックシアターのおそらく会議室のような場所を使い「劇作家協会」が主宰する「戯曲教室」(正確な名前が不明です)の講師をやるのだった。おそらく以前演劇のレクチャーをやった場所ではなかったか。何年前になるだろう。ものすごくたいへんなレクチャーだった。毎回様々な演劇論を読み、読んだことについて話をする。外国の演劇人の演劇論として、ピーター・ブルック、スタニスラフスキー、アルトーを取り上げたが、ブレヒトを忘れていたことをいまになって後悔している。
■というのもいま、ブレヒトの再読をしているからだ。
■いくらハイナー・ミュラーからなにか学んでも、その先にあるブレヒトをきちんと読んでおかなければなんにもならない。そもそも、ブレヒトの書いた作品をどれだけ見ているかといったらもう数えるほどしかなくひどく勉強不足。戯曲を読もう。未来社から出ている「ブレヒト戯曲全集」をすぐにアマゾンで買おうと思ったがふとよぎるのは、大学の研究費だ。四月にならないと使えない。がまんだ。あと図書館に行く手がありますな。
■あるいは、旧東ドイツをはじめ東欧の歴史を知っているようでほんとはなにも知らない。むろんのこと反スターリニズム関係で様々な東欧に対するソ連の政治的な介入や侵攻の歴史はわかっているつもりでも、ハイナー・ミュラーの発言に出てくるたとえば七〇年代から八〇年代、そしてベルリンの壁崩壊にいたる一連の東ドイツの政治状況にはひどくうとい。そうした背景を理解した上でこそミュラーの戯曲を正しく読みとることができるのではないか。

■白水社のW君に第二子誕生の知らせ。おめでとう。さらに筑摩書房の打越さんもまもなく第二子誕生。打越さんは筑摩を退社なさるとのこと。ただ、今年の暮れまでに「どんぶり学校」という12歳の子ども向けに出版されるシリーズ本で「演劇の作り方」のような本を僕が書くことになっており、その編集は打越さんにしてもらうことになっている。このところ、『牛乳の作法』にしろ、文庫版『茫然とする技術』にしろ舞台があって迷惑ばかりをかけていたので、こんどこそはきちんと仕事しようと思うのだ。
■そんなこんなではありますが、また腰が痛くて動けなくなってしまった。
■小説を書こうと鋭意努力中。
■とにかく、『28』を書き上げよう。それから「小説ノート」で模索している小説に取りかかるのが目標だ。部屋の中にいるばかりではだめだ。稽古場にいるだけではものは書けない。町を歩くこと。話を聞くこと。誰かに会うこと。調べること。富士山ばかり見ているわけにはいかないのだ。

(11:35 feb.18 2003)


Feb.16 sun.  「戦争には反対するが」

■暫定的と表現してはなんですが、四月からはじまる大学の日々までを『富士日記』としてここに記すことにしました。なぜ『富士日記』か。公演が終わってからしばらくして私は富士山を見たのです。それがやけによかった。様々な位置から見る富士山。そこで問題です。次の富士はどこから見たものでしょう。

富士山

 正解がわかった方はメールをください。

■さて舞台が終わってからのことを少し書いておこう。なぜ私はノートを更新できなかったか。べつに『トーキョー・ボディ』の公演が終わり灰になっていたわけではないのであった。いろいろ考えていた。舞台のことを考えていた。小説のことも考えていた。戦争のことだって考えていた。考える毎日。人は誰だってそうなんだろうとは思いますが。

03日 舞台終了翌日。ぼーっとして一日が終わった。
04日 仕事でイラン映画の試写会にゆく。
05日 腰がだめになった。けれど原稿の締めきりに追われる。
06日 腰がだめで動けない。原稿は書く。
07日 腰のために鍼治療にゆく。原稿を書く。
08日 まだ腰は不安だが東中野で食事をした。
09日 何とか動けるようになって旅に出る。
10日 旅先にて。ドイツにいる高原がゴールしたことに興奮する。
11日 犬と散歩をする。ほか仕事。
12日 旅先にある大きな寺でおみくじをひく。「吉」。
13日 伊豆の下田でウニ丼を食べる。滝と桜を見る。
14日 旅先のコンビニでバック駐車しようとし軽トラにぶつけた。
15日 東京に戻ってきた。メールが200通以上あった。

 そんな毎日だったのである。舞台が終わって連載だのもろもろの仕事がどっとやってきたのだ。まだやらなくちゃいけないことはあるが、腰がだめになったのと、どうしても旅に出なければいけない事情もあった。原稿を書いてばかりで疲れ本が読めない。だめだった。PAPERSを更新しようと努力もしたがだめだ。予告したとおり、公演の反省をまとめようと思っているがそれもできなくて申し訳ない話だ。

■さて、劇作家の岩松了さんが公演を観に来てくれて感想を話してくれたことは『トーキョー・ボディ』ノートにすでに書いた。詳しく記しておきたいがそれは後日。簡単にまとめると、「ブランドの女が手にする袋がやけに軽く感じる」と岩松さんは言ったのだった。これだけではなんのことかわからないかもしれないが、ここに、わたしの問題が集約している。「弱点」と「特徴」を見事に言い当てられた。また異なる種類の劇作法、劇言語を使いつつも、あの「ブランドの袋」を重くするためにはどうしたらいいかこの旅のあいだずっと考えていたのだ。
■道はまだ遠い。
■劇ばかりではなく、それは小説をはじめ、あらゆる表現に関わってくる問題だ。僕と岩松さんの劇は、どこか似ているように思われがちだがまったく異なる。それは「人間観」と申しましょうか、どの位置から人を見ているかのちがい。どちらも人を「客体化」することに変わりはないのだが、客体する視線の位置が異なる。僕や岩松さんだけではなく様々な表現を見てもそれは感じ、どちらの視線もそれぞれのよさがあるにちがいないが、僕自身の反省として、異なる表現を模索する上で、そこを曖昧にしてはいけないと考える。だから、もっとしっかりフォークナーを読もうとか、ドストエフスキーを読もう、チェーホフを丹念に読もうと、よくわからないがそんなことを思う。岩松さんとまた話がしたいのだ。

■でもって、きょう、ニブロールが「演劇に挑戦」という舞台を天王洲に観に行った。いろいろ刺激された。面白かったのは、俳優たち、というか登場人物が他人の言葉をまったく聞いていないことで、たしかにこういう方法もあると思って興味深かった。それがしばらく続いているうち、だんだん笑いたくなってきた。こいつら人の話ぜんぜん聞いてないよと笑い出しそうになったのだ。で、家に帰ってから折り込みチラシのあいだにあった、ある女性演出家とニブロールの矢内原さんの対談を読むと、演劇は言葉を使うという理由から「わかるように。お客さんにわかるように」といった意味の発言を矢内原さんがしており、だとしたらちょっと方法がちがうと思った。つまり「観客の想像力を信頼する」ということだ。「わかる」ためには「言葉」そのものではなく、「言葉」と「言葉」が発生する「あいだ」のことを考えるべきではなかろうか。
■話は前後するが、終演後、矢内原さんに会ったらいきなり「すいません」と謝られたので面白かった。いきなり謝られても困る。べつに謝ることはなにもないし、参考になることというか、舞台を見ながらいろいろ考えるきっかけになったことに感謝したいくらいだ。『トーキョー・ボディ』にも出ていた小浜が来ていた。今週中にもどこかで会って話をしようと思っていたのでちょうどよかった。
■考えてみれば小浜と会ってからもう10年になる。そのあいだに小浜はダンサーになってしまった。来年はドゥクフレのカンパニーの一員として世界ツアーするという。世の中わからないことばかりだ。

■「演技者。」というテレビ番組で、僕が書いた『14歳の国』を原作にしたドラマが放映された。ビデオを送ってもらったので観る。原作を脚本化したのはかつて僕の演出助手もしていた山名だ。山名もよくわかっているし、演出しているのがどんな方かわからないけれど、原作にある考え方というか、方法論を巧みに読みとってくれた演出がうれしかった。舞台のときも出演していた、原さんとモロ諸岡さんが出ている。モロさんが舞台のときよりさらにいい味を出している。舞台のころはもう少しやせていて怖さがあった。ドラマで観ると妙な力の抜けぐあいだ。
■それにしてもジュビロがひどい負け方をしたことで私は寝込みそうになりあやうくニブロールを観に行けなかったかもしれない。その件でサッカーについて考えたことを書こうと思ったが、長くなるのでまたにするし、戦争についても書かずにいられないがやはりまただ。あと、あれです、以前も書いたがWebをデザインするのにすっかり飽きてしまったのでこのノートもデザインが代わり映えしなくて申し訳ない次第。PAPERSは更新しました。

(9:01 feb.17 2003)