富士日記タイトル写真
富士日記

PAPERS

2
菜の花
河津桜

Published: Feb. 17, 2003
Updated: Mar. 17, 2003
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 | PAPERS | 京都その観光と生活 | 市松生活 | からだ | トーキョー・ボディ | send mail |



  *遊園地再生事業団二年ぶりの新作『トーキョー・ボディ』公演、シアターテレビジョン放送。
   シアターテレビジョン、「宮沢章夫特集」の案内はこちら。 → CLICK

Mar.16 sun.  「高原のゴールだ」

■ドイツのブンデスリーガ・ハンブルガーSVに在籍している高原が堂々の勝ち越し点を上げたのがきょうなによりのニュースである。
■「たまちゃんを想う会」をどうしてくれようかと思案していたが高原のヘッドからの一発で晴れ晴れとした気分だ。まあ、「たまちゃんを想う会」もなんだけど、戦争が目前という状況もまたどうするか、ずっとニュースを見ていたわけだけれど、国連はどういうことになっているのか、アメリカはっていうかブッシュのぼけの腹立たしさをどうしたものかとさらに考えていたところNHKのスポーツニュースでは高原のゴールシーンを放送しないでさらっと伝えただけだったのもまた、受信料払わないぞばかやろうと思い、ブンデスリーガを放送しているWOWOWに加入しようかとすらしたのだ。
■その後、民放のスポーツニュースでゴールシーンが見られたのでほっとする。ゴール直後、高原は意味なくユニフォームを脱いで上半身裸だった。その番組で、デニス・ホッパー監督の『イージー・ライダー』がつい最近、特別に上映されたことを紹介するニュースのようなものをやっていた。観に行けばよかった。あれはたしか、中学生のとき住んでいた町の映画館で観たわけだが、おそらく『イージー・ライダー』ともう一本、同時上演だったと記憶する。それが思い出せない。『イージー・ライダー』の脚本はデニス・ホッパー、ピーター・フォンダが書いたのは当然だろうと思っていたが、テリー・サザーンも参加しているとリンクしたページで知って驚いた。謎だな、テリー・サザーン。どこまでもカウンター・カルチャーな人だったのだなあと思う。それにしてもリンクしたページの「感想」はバイク好きな方のものでそれはそれで面白く、そこへゆくと映画そのものへの感想として書かれたここの感想はいかがなものか。

■ですから、デニス・ホッパー、ハーベイ・カイテル、ジム・ジャームッシュといった流れがアメリカ文化のなかで一つの軸を作っているように思え、これはあきらかにディズニーの『リロ&ステッチ』ではないわけですよ。いや、いいけどね、『リロ&ステッチ』も。『ドラッグ・ストア・カウボーイ』を観たのはもう10年以上前だと思うけど、このあいだ深夜にテレビでやっていたのを再見したところバロウズが「ドラッグ中毒の神父」という役で出ておりさすが本物のジャンキーの実在感はなかったと思い出したわけですけれども、バロウズもまた、この軸にあるのではないか。っていうか、その軸にある者らの父親みたいな存在。
■そういうアメリカは好きですよ。カイテルが主演していた『ブルー・イン・ザ・フェイス』の背景にある文化、的なるもの。で、『イージー・ライダー』の上映があったことを紹介していたテレビ番組で「映画はやっぱり映画館で観るのがいちばん」というあたりまえのことを話していた。子どものころ映画は劇場でしか観られないのが当然だったけれど、そのころ僕は「ビデオ」のようなもの(当時はどんな形態のものか想像もできなかった)があり、いつでも好きな映画が観られたらいいと空想していた。それがあたりまえになってしまった時代に逆に、「映画はやっぱり映画館で観るのがいちばん」という言葉が出るのは皮肉な話だ。
■キューブリックの『2001年宇宙の旅』のDVDが安価で売られているけれど、やっぱりねえ、いまはなきテアトル東京のどうかと思うほど巨大なスクリーンで観ちゃったら家のモニターがいくらでかくたってかなわないでしょう。ほかの劇場で観る気にならないくらいだもの俺は。あと「フィルム」ということでしょうか。フィルムの質感にはどこかごつごつしたものを感じそれがいいと書けば、ある種の懐古趣味になるおそれもあるけれど。

■『トーキョー・ボディ』に出ていた南波さんからメールがあった。稽古中のこと、それから戦争のことなどが書かれとてもうれしかった。南波さんももっといろいろな舞台に出られたらいい。僕の舞台にもまた出て欲しいがなかなか次の予定が立たなくて、制作の永井ともいろいろ相談しているものの、劇場のこと、予算のこと、日程のこと、俳優たちのこと、考え出すと憂鬱になる。とりあえず戯曲を書いておこうと思うのだが、次、なにをやるべきかだ。いま書くこと。書きたいこと。それが生まれるのを待っている。
■何日か前に書いたようにクルマがようやく修理から戻ってきたので日曜日の都心を意味なく走る。東京は少し雨模様。春はまだ来ないのか?

(7:24 mar.17 2003)


Mar.15 sat.  「戯曲セミナー」

■早朝、メールをチェックしたら大学のY君から、松倉如子コンサートの詳細が届いていた。宣伝のページを作ろうと思ったがきょうは仕事だ。関西にいる人たち、以前、ワークショップに来ていた人たち、ああ、そういえば大阪で芝居をやっている、ワイヤーのサカイ君からもメールが来ていたが、みんなに見てもらいたい。まだ未熟な部分もありますが松倉というまれな表現者の姿を見てもらいたい。だから16日で閉館になる扇町ミュージアムスクエアのYさんにも見に来てもらいたいと思った。誰か、連絡してほしい。

■午後から世田谷パブリックシアターのセミナールームで、劇作家協会が主催する「戯曲セミナー」の講師をつとめる。40人くらいの受講者。2時からはじめて4時までの予定だったが質疑応答などを含め、5時までやってしまった。途中、舞台版『14歳の国』と『トーキョー・ボディ』のビデオをそれぞれ五分程度流した以外はほぼしゃべりっぱなしだ。
■「戯曲セミナー」ということもあって、「ことば」に関する話が中心。九〇年代における「劇言語へのうたがい」と、その後、『トーキョー・ボディ』にいたる過程など。いちばん前の席に、三坂に似ている女がいると気になっていたが、よーく見ると三坂本人だった。どこにも姿を現す三坂。三坂は五人いるんじゃないかという説がある。
■どうしても、演出家としての話になりがちなのを、なんとか「ことばの問題」に引き戻す。『牛乳の作法』におさめた演劇について考えた原稿、つまり九〇年代以降に考えたことを中心に話しつつもでは『トーキョー・ボディ』でどうしてああいった「ことば」になっていったか、その変遷をうまく語ろう、わかりやすく説明しようとするがこれはむつかしい。というか、『トーキョー・ボディ』が結論ではないのであって変遷にいたる、あるいは、これから書いていこうとする劇についての手がかりとしての舞台だという話は説得力に欠けると、話しながら思う。そこらは、まだ考えているところなのだが、しっかり論文を書くなりして、自分の中でまとめなくてはいけないと思いつつもですね、それを発表する場もないのである。
■書かせろよ、誰か。発表の場を与えてくれ。

■質疑応答は、あらかじめ紙に書いて提出してもらうことにした。というのもこの国ではこうした場合、手を挙げて質問する人がほとんどいない。フランスに行って驚いたのはそうしたとき質問者がやたら出現することだ。とにかく話したくてしょうがないという気がするよ、連中は。世界中を調べたことがないのでわからないが、欧米はそうなのかもしれないし、日本だけではなく遠慮がちの民族はきっといるにちがない。
■質問のなかに「コラボレーション」についての話もあったが、そういった意味、つまり表だって自己主張しない社会での、「コラボレーション」は困難な話ではないのか。お互い主張しあってこそそこに衝突が生まれ本来「コラボレーション」が持つ意味が生まれると思えてならず、端的に書けば、「日本人にコラボレーションはむいてない」と極端なことも感じる。
■ほかに、「平和の反対語はなんですか」とか「人生相談みたいな質問」「哲学的命題に関する質問」などあって答えるのもむつかしいが、面白かった。答えているうちというか、話しているうちに、あたかもすでに解答があったかのように話しだすこともあり、むしろ質問されたからこそ「そのことに意識的になる」というのは収穫だ。たとえば、「テーマ」という問題。これはこのあいだ書いた、タルコフスキーの「テーマは探すものではない」という話をしたことを受けて出てきた質問だが、戯曲を書いてセミナーで講師に渡すと「この戯曲のテーマはなんだ?」と追求されるのだが、「テーマは探すものではないとしたら、ではテーマはなんだと質問されてどう答えたらいいか」という意味の内容だった。テーマが簡単に言葉にできるのだとしたらそれは「表現するに値するもの」なのかと僕は思った。そのとき気がついた。うまく言葉にできないからこそ表現しようと、劇として構成、分節化しようとするのではないか。
■語ることが困難だからこそ、「劇として表現に値するもの」が生まれる。単純な例をあげれば「戦争反対」というテーマがあったら「NO WAR」とかいたプラカードを手にして町に出たっていいわけだろ。うまく語れないからこそ「劇」という表現方法で、「うまく語れない」そのこと自体を姿にする。あるいは、そのために「劇」という表現のスタイルがあるのではないか。質問されてはじめてそのことに意識的になった。

■終わってみるとほんとに疲れた。立ちっぱなしでほぼ3時間だ。
■帰り、「DEEP FOREST」のCDをTSUTAYAで買う。パブリックの近くにある餃子屋「東京餃子楼」で食事。家に戻ってすぐに睡眠。

(6:04 mar.16 2003)


Mar.14 fri.  「ハーベイ・カイテル」

■このあいだここに、ハーベイ・カイテルが好きだと書いたところニブロールの矢内原さんからまたメールがあり添付されていたのはどうやら画像ファイルだった。
昨日、ミサカさんや関くんとお話する機会がありまして宮沢さんがハーべイ・カイテルのファンだということを知りました。すいません、こんな迷惑メールみたいなものをお送りして大丈夫か不安なのですがとりあえず写真をみていただきたくお送りさせていただきました。
 いや、ちっとも迷惑ではない。むしろ、うれしかった。
 ところが添付されていたファイルがなにで作った画像かわからないのだ。フォトショップで開こうとしても開けず、グラフィックコンバータでも開くことができず、で、試しに、ResEditという、Macのファイルに特有のリソースを書き換えることのできるソフトで、「Type」と「Creater」をフォトショップの「JPEG」と同じものにしたらようやく開いた。見ればニューヨークのどこかでハーベイ・カイテルと偶然出会った日本人が数人、並んで写真を撮ってもらったという画像だ。ただのファンたちである。なんというか、ばかものと言いたくなるような写真だったが、カイテルと一緒じゃしょうがないという気もする。
■ファイルを開くことができようやく見ることもできたが、なぜか画像が縦にびろーんと伸びており、どう表現していいか、つまり円柱の鏡に映った姿のような写真だ。理由がわからない。さらにフォトショップで修正、加工すると、次のようなことになっていた。

ハーベイ・カイテルと矢内原さんたち


 左から、ハーベイ・カイテル、矢沢君、矢内原さん。加工してこうなったがほんとにこれで正しく映っているのかよくわからない。僕の舞台にも出たこともあり、いまではすっかりニブロールのダンサーになった関も、ほんとはカイテルの向かって左に映っていたが画像サイズを小さくするため省略。関は満面の笑みを浮かべていた。つまり次のような表情だ。





関






 とてもうれしそうな関である。ふざけるなと関には言いたい。それにしてもハーベイ・カイテルがこんなに笑っているとはなにごとだ。いったいどんな面白いことがあったというのだろう。

■ほかにも、以前、『トーキョー・ボディ』の取材をしてくれたあと、自分のサイトに僕のインタビュー動画を掲載してくれたM君からもメールがあり、MacOSXで動作可能なスクリーンセーバーを教えてもらった。すごくいい。ただ、慣れないせいか、まだOSXを僕はあまり使っていないのだった。ついついOS9.2で起動する。慣れだな、きっと慣れだ。M君といえば、『トーキョー・ボディ』を見に来てくれたときロビーでずっと待っていてくれたのにあの伊地知がずっと僕にまとわりついていたので話ができなかった。悪いことをしてしまったのだった。
■昼間、外に出たらやけに暖かだったので驚く。
■春なのだろうか。京王線で南大沢へ。ようやくクルマの修理ができたので引き取りにいった。帰り甲州街道はひどく混んでいた。

(3:17 mar.16 2003)


Mar.13 thurs.  「寿司と桜」

■それにしても驚いたのは、三坂がニブロールに出るという話だ。きょうはじめて知った。矢内原さんから連絡をもらって出ることになったという。踊るのかよ。踊っていいのか。踊らせてもいいものなのか。なにしろ、ワークショップのとき猫のコスプレをしてにゃんにゃんとか言って踊ったばかりか、そのあとすぐレオタードで踊った女だよ。
■でもよかったなあ。人ごとながらうれしい。ニブロールでどんな三坂が見られるのだろうか。
■で、それを知らせてくれた三坂のメールによるともう稽古がはじまっており、稽古の初日、初日だからと矢内原さんが全員に寿司をおごったという。なんて太っ腹な女だ。俺も稽古に参加すればよかった。聞くところによると、四国での中学生時代、学校に通うまでの道のり、それすべて矢内原家の敷地の中だったという。自分の家の敷地に学校があるというとんでもない話で、おそらく寿司なんて子どものときからおやつがわりに食べていた。ポケットにいつも寿司を入れていた。ちょっとお腹がすくとポケットから寿司を出して食べる小学生だ。知らないけど。

■小説の作業を進めようとしたところコンピュータがプリンターを認識しないのだった。プリントアウトしてこれまで書いたものをゆっくり読み返そうとしたところ、プリントアウトの途中エラーが発生し、それっきりネットワーク上にあるプリンターを認識しない。おかしい。いろいろ試す。ネットワーク関係のドライバがだめになっているのかとか、設定がおかしいのかと、いろいろ試してもいっこうに直らず、きょう不意に強く現れた「小説への意志」が中断させられたのだ。悪いことにまた腰が痛くなる。
■眠ることにしました。
■眠るにかぎるよ、こういうときは。
■目を覚ましてからさらにいろいろ試す。で、ふと思いたちというか、どうして最初からそれを確認しなかったのか失敗したが、ほかのコンピュータから認識できるのかどうか。そうやって不具合の振り分けをしていくのがこういう場合のセオリーだろう。たとえば居間にあるiBookからプリンターを探したがやはり認識しない。となると、これはネットワーク上に問題があるかプリンターそのものがいかれているか、どちらかだ。ためしに、プリンターの電源をいったん切って再稼働させてみた。すると、iBookから簡単に認識するじゃないか。で、Windowsマシンであらためてネットワークを確認すると、きちんと認識されていた。無駄な時間を使ってしまった。
■ようやくプリントアウトできずっしりとした小説の束を手にするとまたやる気も出てくるというものだ。私は書く。断固、書く。

■笠木もメールで、もう舞台の稽古に入っていることを知らせてくれたし、三坂は踊るし、なにか春が来たというよくわからない気分になるのだった。
■京都のS君からもメールがあった。去年、映画監督の青山真治さんが出席なさったシンポジュウムを企画した人だ。青山さんは「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」時代の僕の舞台をよく見ていたらしい。
 今年こそ、宮沢さんにもシンポジストになって頂き、青山さんとコラボレーションにまで至るかはわかりませんが、そのきっかけになることが、最近、「富士日記」に書いておられることの具現になるのではないか、という煽動にも似たお願いを申し上げる次第です。昨年、青山さんが「ラジカルの言語センスは、映画活動に大きな影響を及ぼしている」と仰っていたこともあり、ぜひいちど、東京ではなく京都の地で、御一緒してはいただけないでしょうか。
 と誘ってくれた。とてもうれしい。シンポジュウムというか、単純に青山さんと話がしたいと思ったのだ。しかし関係ないけど、「シンポジスト」って言葉はあるのだろうか。どこか「シンポジュウム主義者」みたいな響きだ。シンポジュウムの出席者は「パネラー」じゃないのかな。わからない。それはともかく機会を作ってくれたらぜひとも参加させてもらいたいと思った。

■そんなわけで春なのであり、小説と、岩崎書店の絵本、「ユリイカ」の「チェーホフを読む」の原稿ほか、あといくつもの仕事を大学がはじまるまでにやりきろうと決意するのであって、これで光ファイバーが開通すればうれしいし、桜も咲いてくれたら言うことなしだ。あと寿司も食べたい。

(5:10 mar.14 2003)


Mar.12 wed.  「朝から打ちのめされる」

■NTT−MEの工事関係の人が午前中やってきた。光ファイバーをひくための事前調査ということで、マンション全体の電話線を調べここまでどういった状態でラインが延びているかを探る。で、「プールボックス」というものが部屋の中に出ている回線口のすぐそばにないという。壁のどこかに埋められているらしいがよくわからない。説明を受けたがいったいなんだその「プールボックス」ってやつは。
■となると、また壁をぶちこわして調べなくてはいけないのだろうか。壁を壊し「プールボックス」が見つかればいいがなかったらどうするかだ。しかも、家のリフォームをする施工業者に「プールボックス」のことがわかるのか怪しいものだ。「えーと、なんですっけ、プール、え、なに、え、プールのなんとかって、えー、どんな形のあれなんでしょうか、っていうか、なんで壊してるんでしたっけ、壁?」ということになってしまうのではないか。
■ましてなかったらどうするか。その、例の、「プールボックス」ってやつが壁の中にすらないとしたら、壁を壊しまた直すという二度手間っていうかそれだけ無駄な経費を使うことになるばかりか、光ファイバーが引けない事態になってしまうのである。調査に来たのは初老の方とその方よりいくぶん若いふたりで、もっとしっかり調べる手だてはないのかと少々いらだたしいが、しょうがないか。この二人にとって光ファイバー普及の意識はさほどないと見えた。日本のブロードバンド環境、しいていえば、ネットにおけるインフラ整備の必要性に貢献しようという思いはまずないだろう。二人に「プロジェクトX」を8時間ぐらいぶっとおしで見せてやろうかとすら思った。なかでも、太平洋の底、日本とアメリカの間にケーブル回線を引いた男たちの血のにじむような物語を見せてやらねばならないとすら思ったのだ。

■ふたりが帰ったあとすぐに東京電力に電話した。東京電力の光ファイバーの工事はどのようなことになっているか知りたかったらだ。そもそも接続料など東京電力版光ファイバー、その名も「ひかり」は、NTTの「Bフレッツ」よりだんぜん安い。フリーダイヤルに電話した。すると東京電力の女は冷淡に言った。
■「マンションは三階までです」
■なんでだよ。うちはそれ以上高い階にある。線がないのか。四階以上までのばすケーブルが足りないのだろうか。延長コードみたいないものはないのか。あんまり高いところで工事するのは怖いからだろうか。というわけで「光ファイバー計画」はいきなり挫折した。その女も家に呼んで「プロジェクトX」を見せてやろうかと思った。朝から打ちのめされた。まあ、可能性はないわけではないが面倒なことこのうえないし、思いもよらぬ出費がかかるという問題に直面するのである

■光ファイバーが引けたら家にサーバーを構築し「u-ench.com」を家から配信してやろうかとすら思っていたのだ。野望は砕かれた。と書いていたら、これ毎日新聞の「日々の査察」に使えると思った。面白い話にきっとなる。ただ、「NTT−ME」とか「東京電力」といった固有名詞を出すのはきっとまたクレームが来るだろうと思うので、「ある光ファイバーを推進している電話会社」と、「最近光ファイバーのサービスに積極的な電力会社」と表記する手があるが、すぐにわかってしまうのではなかろうか。っていうか、わかるに決まっているが。
■出鼻をくじかれた私は、一日、調子が出なかった。
■午後になったら美術展でも観に行こうと思ったがぜんぜんやる気なしだ。なにかしようとすると面倒なことが次々とやってくる。

■ニブロールの矢内原さんからさらにメールがあって、この四月からニューヨークに勉強しにゆく矢内原さんが、向こうで、ハーベイ・カイテイルとジム・ジャームッシュに会うとありうらやましいことこの上ない。とくにハーベイ・カイテイルですよ。アメリカでは大好きな俳優である。かつて僕は髪が長かったがあれは、『ピアノレッスン』という映画でカイテルが髪を伸ばしておりそれがかっこいいと思え伸ばしたのがきっかけだ。
■それはともかく光ファイバー問題でくさくさし、すぐに新宿に行って新しいPoweBookか、PowerMacを買ってやかうかとすら思った。酒も飲まない、ギャンブルもしない人間がそれくらいの贅沢をしたっていいじゃないか。自作機も作りたいと思った。もうどんどん金を使ってやろうかとなにやらわけのわからないやる気にあふれたのである。

■昨夜、テレビドラマ版『14歳の国』のメーキング版が放送された。僕のインタビューもあり久しぶりにテレビでしゃべってしまったというか、テレビに出てしまった。恥ずかしい。稽古場風景も面白かったが、撮影風景をもっと見たかった。
■あとはウツ気味。なにもする気が起こらない。修理に出したクルマがもう二週間ぐらい戻ってこないのも調子が出ない一因だ。夜、担当の人に電話。穏便に話したつもりだが途中、「ばかやろう、なにしてやがんだ、このぼけが。てめえなんかにもう、頼まねえよ、このくそばかが」と言いそうになるのをぐっとこらえる。

(3:44 mar.13 2003)


Mar.11 tue.  「タルコフスキー」

■先日BSでタルコフスキーの作品『サクリファイス』のメーキング映画が放送されていた(リンクしたページの感想文はちょっとあれですがほかに適当なサイトがなかったもので)。ビデオに録画してあったので観る。撮影現場のドキュメンタリーとタルコフスキーへのインタビュー、その他の映像で構成されている。撮影中のタルコフスキーは作品の持つ静謐さからイメージするのと異なってときには「ばか」とかスタッフに罵声を投げ、かなり熱くなっているのが印象に残った。妥協しない姿勢はすごい。あきらめない。ラストの家屋が炎上するシーンは一度失敗し、もう一度、撮り直している。すごいな。まったく同じロケセットを組んでいる。家一軒あらためて建てるようなセットだ。
■あらかじめ書いておけば、わたしはタルコフスキー作品が大好きである。
■いくつか印象に残ったタルコフスキーの言葉がメイキングのなかにある。
「テーマは探すものではない。作家の内部で成長し子どものように生まれでる。詩人は主人ではなくしもべなのだ。作品のみが詩人の姿であり詩人はそれを取り消せない。このことに気がついたとき作家は自己の思想に対して忠実になる。イメージの体系とはすなわち生の体系だからだ。映画は人生の一部だ」
 いいものを作ろうという欲望は誰だって持っているだろうが、「作品」は「作り出すものではなく生まれるもの」という、しばしば語られる言葉と同様、「テーマ」が探すものではなく作家の内部から生まれてくるとすれば、生まれ出るはずの作家のからだという土壌が豊かでなくてはならず、だから「映画と人生のあいだに境界線など引けない」とタルコフスキーが言うのもうなずける。だったら、この東京という町に置かれている「私」などという存在はたかがしれていると思え、そのような者にとって「テーマ」はどんなふうに立ち現れるか疑問になる。
 たしかに「テーマ」を発見してそこから書き出すことなどこれまでなかった。書き終えてから「テーマ」に気づくことはしばしばで、「テーマ」は探すものではなく「生まれるもの」なのだろううが、だからなおさら、「そのテーマは大丈夫なのか?」ということになる。語るに値するテーマか。表現に値するテーマだったか。結果としてそれは生まれたか。むしろそのことを逆手にとり、「なにもない」と言葉にしてきた八〇年代は幸福だった。「なにもない」が表現たりえた。それを引きずりつつ九〇年代があったけれど、「書くことがないなんて甘い気分の崖っぷちからどうやって這い上がるか」という多くの作家の危機意識の作業過程が九〇年代ではなかったか。とすれば、いまはなんだ。
「映画と人生のあいだに境界線など引けない。映画を作るために今まで何度も重い決断を迫られた。人生と映画を区別できる監督はたくさんいる。彼らの日常と彼らが映画で表現する思想はそれぞれまったく別物なんだ。あるいは映画でしかものを考えないのかも。私は違う。映画作りは単なる職業ではなく私の人生そのものの根源的な行為だ」
 この位置までどうやってゆけるだろう。いや、目的として歩き出すような場所ではない。「人生と映画を区別できる監督はたくさんいる」というように、職業的な監督、むろん作家、劇作家、演出家など、なんでもそうだろうが、それはそれとして甘くはないが、そうしようと思わないのではなく、そうなれない者もいる。「人生そのものの根源的な行為」としてしか表現できない者。タルコフスキーはそうしようとしてそうなったのではないだろう。そのようにしかものが作れなかった。
「芸術家の仕事は誰かになにかを語ることではなく人々に仕え、代弁することだ。独力で創造していると考えるのは大きな誤りである。その時代とそこに生きる人々が芸術家を生み出すのだ。詩にある。”眠るな、芸術家よ””眠り込むな””お前は永遠の人質、時間の、とわわれ人”」

「思うに芸術を定義するにはまずもっと重要な問いに目を向けなければならない。”なぜ人は存在するのか”だ。人は与えられた人生の時間を精神の向上のために使うべきだ。芸術もそれに役立つものであるべきだ。もしも私が別の選択をしていたら考えも違っただろうし別種の映画を作っていただろう。ある人は芸術を教育的であるべきだと言い知的活動の一つとみなす。だが私は教育を信じていない。知識は我々を知から遠ざける。学べば学ぶほど分からなくなる。あまりに深く、学びすぎると人生や世界に対する広い視野を失ってしまう。
 だから、「なぜ人は存在するのか」という一見するとひどく単純な問いを曖昧にしたまま簡単に答えを見つけた気になっていなかったか自戒する。重い問いだ。複雑であるべきテーマだ。答えがあるのかすらわからない。だから途中で投げ出し「人のことなんか知るものか」とばかりに単純化してこなかったか。あるいは簡単に定義する。タルコフスキーは死ぬまでおそらくその答えを見いだせぬまま、むしろ、「考え続ける作業」を「作品」そのものでしたのだろう。むろん、タルコフスキーが伝統的な「モンタージュ」という映画作法を疑い言ってみれば「省略しない」という手法で作品をつむいだり、イメージによって美しい映像を生み出したのはよくわかるが、単なる「目新しい手法」「実験的な作法」「きれいな映像」というだけでおさまらないのは、そうした問いへの深いまなざしが支えになっているからにちがいない。
「芸術の目的は人間の精神の向上を促すことだ。人が自由意志で自己を高めるように」
 こうして真っ直ぐに言葉にされると少々照れくさくもなるが、そう言葉にしてはばからない映像作家の真摯な態度に頭が下がる。むろん僕はタルコフスキーのように作品を作ることはできないが、刺激される言葉たちでありドキュメンタリーだった。だからなおさら、俺はどういうことになっているか、なにを問おうとしているか、というか、そもそも、なぜ「劇」を続けているか、といったことをあらためてうたがう。で、やっぱり生きるためとしか言いようがない。むろん生活のために書いている、食べるために劇を作ることもあるが、経済とは遠いところにおける生きるための糧とでもいうか、それこそ「人生そのものの根源」だ。
 だからってそんなにえらそうなもんじゃない。いいかげんに生きているし、いいかげんに生きてきたし、人に自慢できるような人格でもない。だめである。だめだめである。ただ、タルコフスキーが「人間の精神の向上」と言葉にしたとき、それはもっとねじれている印象を受ける。ある種の宗教家がする説教の言葉ではないだろう。坂口安吾が『堕落論』に書いた意味での「人間は堕落する」もまた「精神の向上」のひとつにちがいなく、「堕ちる」のがいかにきついことか知らないほどに、この町に住む者、この町で表現するものはいま、油断してはいないか。自分も含めて。言い訳ばかりうまくなってしまう表現者だ。
 だからくり返せば「なぜ人は存在するのか」という問いをゆっくりつきとめようと思う。簡単な言葉にすれば「人のことを考える」ということだろう。「人間観察」なんてわかったような言葉で表現されるもんじゃないね、おそらくそれは。いやらしい言葉だよ、「人間観察」なんて。むしろまだ知らない誰か(他者)を理解しようとする強い働きかけになるのではないか。全身全霊の理解だ。もう一歩踏み込んだところでようやく、なにか書けるような気がしてならない。

■今週末、劇作家協会が主催する「戯曲セミナー」で講師をする。その準備をしなければいけない。あと、きのう書いた松倉のライブのほかにも、学生たちがstudio21を使って様々な試みをするらしくFAXで案内を送ってくれた。ガイダンスなど大学のスケジュールが突然変更になったという知らせもあり、仕事との関係で、どう日程をやりくりしようか悩む。

(14:35 mar.12 2003)


Mar.10 mon.  「春の京都に思いをはせて」

■いろいろな方からメールをもらう。たとえば、ライターをなさっているFさんの舞台に関する感想はとてもはげまされた。『トーキョー・ボディ』に出た三坂からは「TVブロス」にでた川勝正幸さんの舞台評の引用。いろいろなことを三坂のメールで教えられる。三坂、いろんなところをチェックしているので驚かされる。三坂の出た映画も見なければな。
■で、東京の僕の家にも来たことのある大学のY君からひさしぶりにメールがあった。
■四月七日、九日に以前も何度か書いたことのある「松倉如子」のライブを京都造形芸術大学Studio21でやるとのしらせ。通常の「音楽ライブ」とは異なることをするそうだ。
さて、実は今度4月7日・9日(予定)に映像・舞台学科主催で、「松倉如子と仲間たち(荒木・村川・山田etc)コンサート vol.2(仮)」をstudio21でやることになりました。ライブ演奏のコンサートを主体に、「松倉如子」の身体の持つ多様な表現力を出現させるために、ダンスや無言劇の身体表現を参考にしながら、単なるライブでもミュージカルでもない舞台作品としての松倉コンサートを目指し、目下製作中です。
 かなり楽しみなのと同時に大勢の人に見てもらいたいと思い、宣伝段階でできることならなんでも協力したい。「そこで、チラシやポスターに宮沢さんの言葉が載っていたら、だいぶ興味を引くものになるのではないかと思い、ぜひ宮沢さんに松倉如子についての推薦文のようなものを書いて頂けたら、と思っています」とメールにあった。書かせてもらおう。素直に多くの人に紹介したい。すぐに書こう。あと、このグループで東京に来ないかとすら思っている。まだ未熟な部分はあるかもしれないがもっと多くの人に見てもらいたいし、もっと場を踏んで成長できたらいいと期待している。
 もちろん松倉の歌も興味があるが、「松倉如子」の身体の持つ多様な表現力を出現させるために、「ダンスや無言劇の身体表現を参考にしながら、単なるライブでもミュージカルでもない舞台作品」とあるこの部分がとくに興味がある。どんなものになるのだろう。観たいなあ。早く観てみたい。
 前回、去年の10月の第一回ライブもいろいろあって楽しめたがさらに洗練されているのではないかと期待は高まる。これを読んでいる関西在住の人はなにがなんでも観に来るように。このサイトでも宣伝のページを作ろうと思った。

■さてY君のメールにもあったが、Y君や松倉はじめ映像舞台芸術学科の「映像コース」の五人の学生が「舞台コース」に転科した。たいへんなことになってしまいました。事件です。驚くべき出来事。正直ぼくはすごくうれしいんですけどね。
■そう考えていたら、もう大学が始まる時期が近づいているのを思い出した。また仕事はたいへんだろう。また新しい誰かに出会えるのではないかとそれは楽しみ。刺激させてもらえるなにかをそこで、大学で、京都で見つけることができたらいい。まあ、なにより京都ですよ。桜ですよ。神社仏閣ですよ。清水寺では200何年だか封印されていた秘仏が公開されるという。
■またきょうもウツ気味だったが、Y君のメールで気が晴れたのと、このあいだニブロールのアフタートークに出たお礼のメールを矢内原さんからもらいその返事を書いていたが、するとみるみるからだの調子がよくなって、これは「書く」という行為がスポーツ選手のアップに似たような効果、からだが暖まるという状態への効果になったと感じ、「書くこと」だなあ。僕にとっては「書くこと」がなにより大切だとつくづく思ったので、書かねば、なにがなんでも書かねばと思っているうち、まだ締め切りが一週間先の「毎日新聞」の連載「日々の査察」も書いてしまった。ただごとならないできごとだ。

■あとは、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』を少し読む。

(3:42 mar.11 2003)


Mar.9 sun.  「9・11以降の恋愛劇」

■一九四七年に作られたエリア・カザンの『紳士同盟』は民族問題をテーマにしつつそこはさすがにエリア・カザンらしい見事なエンターテイメントになっておりその年のアカデミー賞監督賞をとるのもうなづけるものの、どうしてもいまの目で見れば違和を感じるのは、ユダヤ人差別をテーマにし民族問題をあつかっていながらただの一人も黒人が出てこないことだ。
■その国には黒人差別がまったくないかのようだ。むしろ、黒人、というかアフリカ系アメリカ人をはじめとするマイノリティーがまったくアメリカ社会に存在しないかのように。
■その数年後、レッドパージ(いわゆる赤狩り)がアメリカ映画界を揺らした時代、政府の委員会で、あっけなく「政治的転向」を表明し、さらに共産主義に同調するだろうと思われる映画人の名前を密告したことで知られるエリア・カザンは、アクターズスタジオの創設者の一人で、映画界、演劇界に果たした功績はたたえてしかるべきだとしたら、こうした政治的な「汚点」(といっていいだろう、やはり)において、どう評価するべきかと考えつつそうした視点で『紳士同盟』をいやでも見てしまう。作品は進歩的でありつつも、結局、ハリウッド製恋愛映画かよと、簡単に結論を出すこともできるが、「映画人」、あるいは、「演出家」としての腕の確かさ、技術の高さ、そして一九四七年の時点ではたいへんリベラルだったことは先人として惜しみなくたたえるべき仕事だ。
■いまこうして、「政治性」と「表現」という視点からものを批評することは無意味な行いなのだろうか。「政治」という観点によってその作家の立場から作品を評価することは無化されてしまったのだろうか。たしかにそれは単純な、画一化された批評言語にしかならないことがしばしばで、「表現」のレベルでなにか語ることのない批評のつまらなさに辟易することはしばしばあったものの、だからって、『ランボー・怒りのアフガン』をエンターテイメントとして評価するのもまた、いまとなったらひどく単純するぎるだろうっていうか、評価できないけどね、どう転んでも。

■ゴダールの『小さな兵隊』はテロリストの物語だが、根底にあるのは日活アクション映画にも通じるリリシズムに思えて仕方なかった。
■そこには「政治性」がたっぷりしこまれていながら物語は、日活アクション映画とほとんど変わらないし、ハンフリー・ボガートが出てきても、石原裕次郎が出てきてもおかしくないほどの構造だ。「悪」として表現されるテロリストを追う者らは、最後、テロリストの恋人を殺す。だがその悲劇をこらえてテロリストはまた目的のために逃げてゆく。こここに流れるのは、日活アクション映画のロマンチシズムやリリシズムにそっくりで、日活アクション映画をほとんど見ている私としては、発表当時からはるか時間が過ぎて『小さな兵隊』を観たとはいえ、懐かしい気分にすらなった。
■するといきおい、マフバルバフの『パンと植木鉢』の、見事な表現と政治性の絶妙なバランスは傑作というに値すると思えたし、『ボウリング・フォー・コロンバイン』の「笑い」にこそいまあるべき「批評性」「政治性」の高さを感じる。
■ある人から、「9・11以降」という言葉を使えばなにかそれですべて解決してしまう安易さがあるのではないかと意見されたが、しかし、いやでも私は「9・11」のあの事件をテレビというメディアを通じて見てしまった。あえて無視するにしろ、意識的になるにしろ、どのみち「9・11以降」だ。そこから逃れられない。そしていま戦争の危機は高まる。「演劇に閉じこもる」のではなく、「演劇の外に出る」のでもなく、あえて「演劇にとどまる」という演劇との関わりのなかで、政治の渦中に飛び込むのは「戦争反対」と発言することもひとつの方法にちがいないが、一見、「政治」と、「9・11」と、まるで関係ないかのように見えつつも、表現すること、表出されたもの、あらわれとなったものとして、いやでも反映するだろう。
■というか、反映していないのだとしたら、それは、「演劇に閉じこもって」しまったがゆえの、時代とのアクチャリティを喪失した「退廃した演劇」でしかないのだが、「戦争反対」とあからさまに語る演劇にもあてはまる退廃である。

■だとしたら、反映した劇は一見すれば「恋愛」について語り出した物語かもしれない。むしろ「9・11以降の恋愛劇」があってもおかしくはないのだ。それはどんな姿をしているだろう。見てみたいと思った。

(5:36 mar.10 2003)


Mar.8 sat.  「仕事をする週末」

■今月のこのノートはやけに長くなりそうだ。なにかしていたわけでもないののだが書くことがいろいろあってどんどん文章がのびてゆく。これではページ自体がひどく重くなりそうなので前半と後半の二回にページを分離しようと考える。短めにしよう。きょうのところは短めに。

■「一冊の本」の連載を早めに片づけてしまおうと横光利一の『機械』再読。これでいったい何度読んでいるのだ。で、思いついたことがあって、書きはじめ、気がついたらできていた。異常事態が発生した。催促される前に原稿ができているという異常事態。このまま週末に「毎日新聞」に連載している『日々の査察』を書こうと思う。このあいだここに書いた、「勝ち組」「負け組」の話にしよう。もちろん内容は多少異なる。なんというかここに書くのがベータ版だとしたら仕事で書くのは製品版だ。
■で、何人かの方からメールがあった。「勝ち組」「負け組」の本来の意味は、ブラジル移民における「日本は戦争に勝ったと信じている人」「負けたと考えている人」だと教えられたが、もちろん知っていたのだが忘れていたというか、このあいだ書いたのはそれとは関係のない、最近、流布している言葉としての「勝ち組・負け組」のことであって、いま流布しているこの言葉の世界観だ。
■けっしてブラジルの移民たちのことを知らなかったわけではないのだと書けばいいわけめいてしまうが、それを忘れさせるほど、最近流布している「勝ち組・負け組の世界観、論理」が気持ちが悪くていやだったのだ。
■で、まったく関係ないがテレビでは反戦パレードのニュース。ニュース映像は編集されている。みんなプラカードに「NO WAR」の文字。ほんとかよ。国連査察報告のニュース。アメリカ・イギリスの強硬な態度。フランスの妙な頑なさの背景にある石油をめぐる利権が気になって、なにも信用できない。いろいろな考えに惑わされるのだがここは落ち着いて小説を書こうと思った。

(8:14 mar.9 2003)


Mar.7 fri.  「演劇に閉じこもらず」

■夕方、ようやく『資本論を読む』の原稿を書き終えた。
■さて、いろいろメールをいただいているのだが、 Sさんという方から頂いたメールを勝手ながら引用させていただく。もし支障があるようだったらすぐに削除しますが、どうしても書かずにいられないことがここには存在する。
 もう随分前に、ワークショップのことなどでメールを送らせていただいたときがありましたが、あのあと演劇をやめてしまい、芝居も全然見なくなってました。演劇に付随する全てのもの、チラシやDMや劇場そのものなどに近づけなくなったというか。
 ということで、以下に書かれたような状況がSさんを演劇から遠ざけることになった一因ではないかと思え、読んでいると「そこに書かれている人物」に対して無性に腹立たしい気分になったのだった。
 ばかがひとりいたんです。私の劇団に客演してもらったんですが、新劇系の養成所を卒業して準劇団員であるという自負があるのか、自分が一番えらくて上手いと思い込んでる人。練習中ずっとぷちぷちキレててすごく雰囲気悪くて、でも上演が終わるまでの我慢だと思ってたのですが、小屋入りに自分のカノジョを連れてきて、ただ見させてるの。何か手伝ってもらおうと思って、掃除を頼んだり、受け付けをやらせたりしたら、「彼女はすごくえらい人だから、そんな人に受け付けやらせるな」といって夜中に電話かかってきてマジギレされました。
 翌日は演出家を劇場によびつけて再ギレ。その女がどれだけえらいか知りませんが、こっちから見たらただのひとなのに。で、後で聞いたらただ単に劇団を主宰しているというだけの「えらさ」でした。えらいんですかね主催すると。こうゆうセコい権力が好きな人のようでしたが、そういう土壌は多分彼が養成された新劇系の劇団にあるんだと思います。
 という話で、書かれた「新劇系の養成所を卒業して準劇団員であるという自負」のある人間のせこさは噴飯ものである。たとえ新劇系の劇団員でも僕はべつにえらいやつとは考えないし、むしろばかにしたい気分になるばかりか、たとえ新劇のえらい人でも、笑ってやりたい気分こそなれ、えらいなどと考えたこともない。まして劇団を主宰していようがそれがなんだ。権威なんか知ったことか。「こうゆうセコい権力が好きな人のようでしたが、そういう土壌は多分彼が養成された新劇系の劇団にあるんだと思います」とあるが、というより「演劇」そのものが持つ小さな世界の退廃だと僕には感じられた。特にこの国の「演劇」に存在するなにか。いや、むろん外国にもきっとあるし、どんな世界にもせこい「権力大好き」なばかはいるだろうが。

 このあいだ、批評家の内野儀さんが時評で『トーキョー・ボディ』について取り上げてくれたことを書いたが、その文章で印象に残ったのは、「演劇にとどまるか」「演劇に閉じこもるか」という、言葉はよく似ているが本質的に異なる演劇に対する姿勢の問題の提起だ。そしてそこでは「Jという場所」が前提になっており、この言葉がうまく理解できなかったものの世界的視野のなかでパフォーミングアーツを考えたとき、「Jという場所」のローカリティの特殊性が分析され、いまこの時代に「演劇」に関わることに対する演劇人の問題意識に疑問を投げかけているのだし、演劇によって表現することを洗練させ「芸術」あるいは「美学」として取り組むことの是非に疑義を投げかかる一方、あえて「演劇にとどまる」か、あるいは無自覚に「演劇に閉じこもるか」という二項を提出することで、政治性を含みつつ「いま、ここ」を分析していた。
 興味深い議論だった。
 そして、「新劇系の養成所を卒業して準劇団員であるという自負」のある人間のせこさは、「演劇に閉じこもっている」ことになんの疑義も持たないばかりか、むしろそれ以前の「演劇についてなんの疑問も持たない」、むしろ「演劇や芸術にことさら重い意味を持たせる過去の文脈から一歩も出ていないばか」ということになってしまうが、それは、その個人だけの「ばか」ではなく、内野さんの言葉を借りれば「Jという場所」におけるいよいよもって腐敗した現在をあからさまに表現されていると感じ、ほんとに、こういうやつをどう駆逐するか、罵倒するか、むしろそうした者を存在させる「演劇ってやつ」をどう切り崩していったらいいかを考えていたのだった。
 ほんとに腹が立つ。ばかはほんとに手に負えない。そう考えると内野さんのいう「Jという場所」が実在するのか、それは問題かもしれないと、ついつい同意もしたくなってしまうのだが、まあ、端的に表現すれば、「いやだなあ、演劇、この国の演劇、小劇場ってやつ」と、Sさんがメールに書いてくれた、「演劇をやめてしまい、芝居も全然見なくなってました。演劇に付随する全てのもの、チラシやDMや劇場そのものなどに近づけなくなった」という言葉も理解できるのだ。
 どうしたもんでしょうか、実際。

■夜、永井が来る。シアターテレビジョンで放送される『トーキョー・ボディ』のビデオを持ってきてくれたが、再生したらなにも入っていなかった。さらにテレビドラマ版『14歳の国』のビデオ。その他ダイレクトメールなど。
■テレビドラマ版『14歳の国』を演出したO君からもメールがあってうれしかった。視聴者による感想の掲示板があるのを教えてもらった。フジテレビ番組掲示板と、2チャンネルのテレビドラマ版『14歳の国』スレッドがあるらしい。最終回が「怖かった」という意見が多い。原作の戯曲にもある「家族写真の家族の顔をコンパスで傷をつけた映像」は舞台だと言葉だけでそれが語られるものの映像になるとほんとうに怖い。そして淡々とした物語が急展開するあたりの演出は、映像ならではの「劇性」が、舞台よりずっと強かった気がする。怖いといわれてもしょうがないか。といっても、ナイフで刺すといった即物的な怖さではなく、このドラマ自体の持つ怖さ、あるいは狂気が、最終回に集約されているからではないか。「人物の表情」や「もの」のアップという映像ならではの技法はそれをより強めると感じるし、教室の天井がいつのまにか低くなってゆき圧迫感を与える演出は息苦しさを与える。
■おそらくV6ファンなのだろう中学2年生の感想が面白かった。

■いろいろ考えた。内野さんの意見を全面的に認めるのもしゃくだし、それにあらがいつつも、しかし「演劇に閉じこもる」ことはしたくないと思い、けれど、「舞台に関わる」ことはどうしたって「演劇をしてしまう」ことなのだから、むしろ意識的であり、自覚しつつも油断していると「演劇に閉じこもってしまう」のではないかと危惧も感じ、それも含め、「演劇にとどまりつつ」、外に向かうこと。それはどうしたら可能か。といったことを考えて。

(7:04 mar.9 2003)


Mar.6 thurs.  「うれしいメール」

■原稿を書かなくてはいけないので『資本論』を読んでいた。
■『資本論』は「商品」の項の難解な概念に比べたらそれ以降だいぶ読みやすい内容になるとはいうものの、難しいのはあまりかわりなく、理解しようとするとなにかサブテキストが欲しくなるのだがこの連載はそうしたサブテキストの助けを借りずただ読もうという企画なので、理解しようがするまいがただひたすら読むのだった。
■ただ、きょうは理由もなくウツだったのである。わけもわからず調子が出ない。理由がないのに気分が沈む。書くべきメールの返事があるが(仕事関係)、どうもだめだった。こういうときなにかあると一昨年の暮れのような軽いパニック障害になるのではないかと不安だった。あのとき、と書いても、わからないと思うが、ある日事件があったのだった。事件がきっかけでそれまで経験したことのない不安感に襲われかなりまずい精神状態になった。まったく経験のない状況にうろたえた。
■いまだから書けるがそこから立ち直るのはかなりきつかった。

■で、一通のメールが届いてきょうのウツから救われた。
 さて、今日の「富士日記」を拝見し、私も昨日の朝日新聞・夕刊のしりあがりさんの記事を読んでからというもの、仕事中も反戦パレードのことで頭がいっぱいだったので、明日の朝になったら宮沢さんにメールをだしたことを後悔するかもしれぬこともかまわず、メールいたしました。
 実は、ここ1週間ほど、パレードに参加しようか迷っていたのですが、昨日の記事をみて「行かなくてはいけない」と思ったのです。そして、早速今朝から数少ない友人に呼びかけてみたのですが、既に6人中3人に断られ、「何? 宗教?」とまで言われ、今夜はとても落ち込んでいたのです。しかし、今回みんなを誘って思ったのですが、「反戦」という言葉は重いなー、と言うことです。「反戦デモ(パレード)に行きませんか?」というフレーズにどうもなじめません。相手もきっとそうだと思います。
 ですから、宮沢さんの書いていらした「フタリ・ハンセン」という言葉は新しく、是非引用させていただきたいと思います。とりあえず、私は一人でもあきらめずに行くつもりです。
 じつはこれ、ある知人からのメールだったが、え、おまえがという者だったので驚かされたのと同時にすごくうれしくなった。しかし、「反戦が重い」というのはどうだろう。「反戦」でもいいはずだが、なぜこの言葉が人を遠ざけるのか。「NO WAR」だったらいいのだろうか。「非戦」なら許される範囲なのか。「フタリ・ハンセン」を提案してしまった者がいうことではないが、「反戦はちょっとあれだし」とそこを曖昧にしてしまうというか、「反戦が重い」かどうか、そこらあたり、うやむやにしてしまう「気分」といったことをまず、曖昧なままにせず考えることからはじめよう、といったことを引用したメールから示唆され、するとなにかウツが晴れてきたのだ。メールがうれしかった。ほんとうにありがとう。

■さらに、編集者のE君から届いたメールによれば以前書いたこともある『スーパーハッカー入門』という本の謎の著者の方が、僕が日記で取り上げたことに感激してくれたとのことで、お会いできるかもしれないのだった。なにしろ相手はほんもののハッカーである。ただごとではない。
■『トーキョー・ボディ』のパフォーマンスグループのリーダー、小浜からも3日に書いたこのノートについてメール。
 僕本人はそれほど冷静でなく、単にこないだのパフォーマンスチームのメンツだけで舞台がつとまるかと考えると、大いに不安があったのです。上手い下手ということではなく、 テキストチームと比べてしまうと、意識としてやはりアマチュア色が濃かった。
 うーん、まあ、そうなんだろうきっと。結局、3日に書いたことは小浜が言うのと同様のことを遠回しに書いたのだった。で、さらに小浜は書く。
 で、次の展開に行くとしたら、ちゃんとしたパフォーマンスチームを作りたいと思うのです。「トーキョー・ボディ・パフォーマンスミックス」に懐疑的なのもパフォーマンスが補完しなければならないレベルだからではないかと思ってるのです。だったら、最初から作りたいと思います。「トーキョー・ボディ」から離れてでも。難しい作業だとは思います。指導とか含め。多くの実験と名乗った公演がつまらないのは見せるための実験だからと思うのです。最初は、ほんとに実験するだけの場でもいいのかもしれません。
 そうだな。現場の人間としてよく考えている。特にパフォーマンスグループは僕が最終的に演出の判断を決めたとえはいえ、経過段階は、小浜を中心に作業をしていたし、作業のむつかしさを肌でわかっているだろうから(あれは大変だったにきまっている)、「最初は、ほんとに実験するだけの場でもいいのかもしれません」もよくわかる。このあいだのニブロールを見たあとでですね、ダンスにしろ、パフォーマンスと呼ばれるものにしろ、「からだ」を使ってなにかしようと思うと、これはもう、ちょっとやそっとの思いつきなんかじゃ太刀打ちできないわけですよ。
 あるいは、中村有志君のあの高い表現力、テクニック、からだの鍛え方からしたら、パフォーマンスグループ単体で取り出したらどう考えても見劣りがする。そして最後に小浜はそうした実験の場について、「たとえば宮沢さんの振付師への道用。とか」と、書いてくれた。どうあがいても、俺、振付師にはなれないとは思うものの、また異なる「演出技法」の模索としては意味がきっとある。もう少し考える。立ち止まらずに。

■ほかにも、よくメールをもらうSさんの便りを引用しようと思ったのですが、長くなったのでまた。Sさんのメールに出てくる「小劇場演劇界のばか」の話は、ほんとSさんの気持ちに共感し、ばかはどうしたものかと、そのばか個人の「ばか」ではなく、こうなるともう、演劇という小世界の「ばか」の問題と思えてきて書きたいことが次々に浮かぶのだ。
■しかし原稿だ。原稿がある。仕事だ。
■あらためてまた書く。

(5:21 mar.7 2003)


Mar.5 wed.  「引き分け組、そしてフタリ・ハンセン」

■朝日新聞の夕刊の記事だった。読者から「戦争に反対する活動をしたいがどこにゆけばいいかわからない」といった意味の投稿があったという。きっかけになったのは、しりあがり寿さんの、同紙連載の「地球防衛家族のヒトビト」だ。ある日の連載。地球防衛家族が反戦運動に出かけようとするが、どこにいったらいいか、「それが問題だ」とつぶやく。
■たしかにそうだ。演劇人の反戦の集会があったのも知っているし、8日には大規模な集会が開かれる予定があるのも知っている。しかし、どうも足が向かない。同記事で取材を受けているしりあがりさんも、「信用している友人から誘われでもしないと行かないかも」と記者の質問に答えている。そこで私は、しりあがりさんにメールを書こうと思った。
「フタリ・ハンセンをやりませんか」
 はっきりってこれはだじゃれである。むかしスタン・ハンセンというプロレスラーがいたのですね。「フタリ・ハンセン運動」というのを呼びかけ、兄弟、恋人、夫婦、友だち、なんでもいいから、二人一組で戦争に反対するのである。二人一組が次々と名乗りを上げ、大きな二人一組の組織が出現するものの、基本は二人なのであって、その後の活動を二人で相談して決めなければいけない。たまたま、五千組の「フタリ・ハンセン」が連絡を取り合い集まって一万人の集会になってしまうかもしれないが、あくまでも二人だ。
 するとなかには、「どうしても、二人じゃなきゃだめですか、我が家は三人家族なのですが」というご家庭もあるだろう。それは、「ハンセンス・トリオ」である。柔軟である。「ハンセン・カルテット」も許そうじゃないか。「ハンセン・イレブン」もいいよ。なかには「ハンセン」とカタカナで表記することに抵抗のある向きもあるだろうから「反戦義兄弟」と名乗っても結構だ。
 冗談だと思うかもしれないが、このことを私はいま、本気で考えているのである。

■それはそうと、「勝ち組」「負け組」という言葉をどう考えたらいいのだろう。あれはいったいなんだ。どうにも気持ちが悪くて仕方がないのだ。誰が言い出したんだ、そんなくだらないレッテルを誰が作った。基準はなんだ。なにが勝ちで、なにが負けだ。いつか負けるかもしれないし、いつか勝つかもしれないし、なにがそれをわかつのか、わけのわからない基準を持ち出すなこのばかものめが。
■でもって、そうした基準でものごとを見る人間の貧しさは、ほんとうにクズ野郎の視線で、たとえば10年くらい前、僕が仕事もしないでぶらぶらしているときは冷淡な態度で接していた人間が、こっちが少し調子が出てくるととたんに態度を変えるので、ほんとうのクズどもだと、それっきりつきあいをやめた。これでまた、こっちが調子悪くなれば手のひらを返すように態度を変えるだろう。そんなやつとは仕事をしたいと思わない。その根底にあるのは、「勝ち組」「負け組」の世界観だろう。くだらない。仕事をしないでぶらぶらしている時間が、いまの私にとってどれだけ重要だったか。仮に「負け組」という存在があるのだとしたら、その時間の重み、その状況から学ぶことが生きることにとってどれだけ大切か。ともあれ、「勝ち組」「負け組」なんかどうだっていい。そんなふうに世界を見ない。くだらない。ばかばかしい。相手にしたことにいまひどく後悔している。
■だったら、「引き分け組」というものに、私はなろう。
■勝っているかもしれないし、負けているかもしれないし、けれど、どっちかよくわからぬまま、黙々と仕事をしている人間に私はなりたい。ただぼんやりとしている。人がどうであろうと、そんなことは知ったことではない。他人のことなんて気にならない。生産主義とも無関係、そして、あらゆるカテゴリーにおける「排除される側」にいつでも立っていられるような「引き分け組」というものに私はなりたい。

■でたらめなことを書く場所を探しているときのう書いたら早速、連絡してくれたのは「文學界」のOさんだった。「書きませんか」とメール。ことによると「文學界」ででたらめなことを書くことこそ「文学」かもしれないのだが、どうもちがうような気がする。
■というのは、どういうことか分析してみると、同じように書いた「でたらめ」でも、「文學界」と、たとえば「Spa!」では、「書かれたもの」として出現したそれが、異なる意味合いを持ってしまうのではないかと予想され、どうしたってそれは「書かれたもの」に反映するのではないか。うーん、どうもうまい説明ではないな。「文學界には小説を」と決めているのもあるが、とにかく「文學界」じゃないと思うのだが、すぐに連絡してくれたOさんにとても感謝した。
■さらに、新潮社のN君からも「新潮社のどこかで書いていただきたい」という連絡があった。この、「新潮社のどこか」という大ざっぱさは、「文學界」という媒体に限定されていないぶん、少し気が楽である。なにしろ、「新潮社のどこか」である。社内報かもしれないし、壁新聞かもしれないのだった。とにかく、お二人の気遣いがとてもうれしかった。

■ほかにも岩崎書店の絵本の連絡もしなくちゃいけないのだったなあ。原稿もある。小説も書く。読むべきものもまだある。やるべきこと山積。だけど、なにしろ私は「引き分け組」だ。しかも「フタリ・ハンセン」である。いや、まだしりあがりさんにはなんの連絡もしていないのだが。

(3:16 mar.6 2003)


Mar.4 tue.  「でたらめを書く意志へ」

■春が近いはずだがやけに寒い日。
■気がつけばもうすぐ大学の授業も始まる。そのころ京都は桜の季節だ。銀閣寺に向かう哲学の道の桜はきっときれいだろう。楽しみだ。今年は東京と京都の往復になる。そういえば、僕が所属しているのは「映像・舞台芸術学科」で、映像コースと、舞台コースがあるのだが、映像コースの学生が何人か舞台コースに転科したという。これには驚いた。舞台の実習授業をやっているうち「身体表現」が面白くなったのではないか。そう感じてくれたら授業はある意味成功。成果があったということだ。
■逆に僕は映像に興味をもっており、なにかできないかと思う日々である。ニブロールの映像はかっこよかった。あの場合、使い方というか、舞台との融合がすぐれていると思うのであってその意味での舞台全体の演出ってことになるのだろう。どこもかしこも映像を使う舞台ばかりになってゆき、プロジェクターにしろ機材の性能はあがっているし、映像を作る環境もコンピュータででき、そんな作業もあたりまえになってゆくとしたら、映像と舞台とのコラボレーションが問題になる。同時に、「かっこいい映像」がふつうになってゆくのだとしたら、そのなかで、いかに「あたりまえでないもの」を作るかだ。まだべつの方法があるはずである。

■どうしようか困っていたが夕方ようやく『考える人』(新潮社)の連載を書きおえた。一息つくひまもなく次は『資本論を読む』だ。それが終ったら『一冊の本』の連載。
■少し前に『一冊の本』最新号が届いたので楽しみにしている連載をいくつか読む。で、目次に目をやると僕の「文学でゆく」という連載が70回に達しているのをあらためて知った。一年に12回だから計算すると五年と10ヶ月もこの連載を書いていることになる。というか一回落としているからほとんど六年である。六年前といえば一九九七年。時間の認識は僕の場合たいていそのときやっていた舞台で感覚的に知るわけだが、九七年は『あの小説の中で集まろう』を公演した年だし、もうあれから六年が過ぎていたのか。ずいぶん状況は変わってしまった。世界も。演劇も。僕自身も。
■「文学でゆく」は横光利一の『機械』を読む連載だということは何度か書いたが、六年間、読みっぱなしだ。ようやく三分の二を過ぎたあたりになったが、全体で五〇枚程度の小説をこれだけ長い時間読み続けているのもどうかしているが、いかに先に進まないかということがだんだん面白くなってきており、いったいいつになったら完結するかはまだわからない。終わったら単行本になる予定だ。どういうふうに世の中に受け止められるだろう。ほんと、わけのわからない連載である。
■『資本論を読む』はいつ単行本になるか。気が遠くなるくらい遠い作業だ。『ユリイカ』に連載が予定されている「チェーホフを読む」も書かなくてはいけない。考えるにこれは「劇を書く」といういま私にとって大事な課題において大きな意味を持つ仕事になるはずである。とは考えつつも、『牛への道』路線のでたらめなエッセイを書く場がないのがいま悩みの種でどこかないでしょうか。でたらめなことが書きたいのだ。まだまだ「でたらめ」を書く意志を持ち続けたいのだ。

■原稿を一つ書き終え、ちょっと気持ちが落ち着いたところで突然ですが、新しいPowerBookが欲しくなってしまった。12インチディスプレイのやつ。あのアップルのCMはすごいね。以前までやっていた、人が出てきてMacのよさを語るCMがこれ逆効果じゃないかと思えたのに比べたらずっとアップルらしくていい。なにしろMacのよさを語る人がばかに見えるのだし、OSXの安定性を語るということはですね、過去のMacOSが不安定だと自ら語っているようなものじゃないか。僕はまだ、OS9である。ときどきフリーズ。
■で、さらにWindows機の自作もしたい気分になっており、久しぶりにコンピュータについて考えそういったサイトを巡回。でもいま使っている自作マシンで十分使えているからコンピュータの速度の進化ってやつもだいぶ落ち着いているのではなかろうか。あとは付加価値みたいなものが勝負ということか。
■で、話の脈絡からはずれるが、深夜『演技者。』というテレビ番組を見たのだった。『14歳の国』のドラマ化。これまでは送られてきたビデオを見ていたのでテレビで見るのははじめて。CMがあるという感じがビデオを見るのとはまた異なった感触で不思議だし、CMとはあきらかに異なるドラマのテイストがまた奇妙だ。テレビとはそうしたものなのだな。
■新たに加えた演出というのを楽しみにしていたが意外に微妙だった。で、どうやらこのあいだ撮ったインタビューを元に来週「特別編」というのをやるらしい。ドラマの最後にちょろっとインタビューが入るというようなものを想像していたのでこれもまた意外で、恥ずかしいなあ、なに話したんだっけ、俺。

■早く暖かくならないだろうか。自転車で思い切り走りたいと思う。

(6:18 mar.5 2003)


Mar.3 mon.  「ふと気がついたこと」

■原稿に苦しむ一日だった。
■で、きのう小浜たちとパフォーマンスグループだけでなにかできないか相談したが、そのとき出た、「芝居のなかにあったからこそ、あのパフォーマンス部門が面白かったのではないか」という小浜の意見のことを考えていたのだが、そうだ、ふと気がついた、その構造がわかった。とんだまちがいをするところだった。
■その構造をとてもわかりやすい例で説明しましょう。

■もうずいぶん以前のことだ。「コント55号再結成」という舞台があったのだった。僕は見ていないがそれを観たある人が、「やっぱりコント55号って、坂上二郎さんが面白かったんだね」と言った。これはあきらかなまちがいである。いまの目で見ればむろんのことコント55号は「古い笑い」になってしまうが、登場時はまったく斬新なスタイルの笑いとして出現した。「A」というごくふつうの人物がいる。そこに「B」という異常な人物が出現する。異常な「B」によって「A」が翻弄されるという仕組みがコント55号の笑いの本質である。で、むろんのこと、この場合、「B」が萩本欽一さんだ。これが当時としてはまったく新しい笑いの質だった。で、萩本さんにとって、「A」は誰でもよかったのであり、「面白い人」である必要はないというより、むしろ「ごくふつうの、つまらない人」ぐらいがちょうどよかった。
■しかし、一般的な観客の目は、なぜか「A」に向けられ、それが面白いかのように見える。そうして人気の出てしまった坂上二郎さんに萩本さんは興味を失い、それ以後、新しい「A」を様々な形式で探すことになるので、萩本さんがヒットさせたテレビ番組はすべてこの「笑いの仕組み」になっている。それは最終的には「素人」になってゆくが、このシステムさえあれば、べつに相手が誰だろうと萩本さんには関係がない。そしてやはり、一般的な観客の視線の先にあるのは素人かもしれない「A」であり評価もそこに向けられる。一般的な観客ばかりか、テレビなどの作り手もまた、この仕組みが見えず「A」の人が「面白い」と勘違いする。「A」を萩本さんのシステムとはべつに単独で使ったりするが、「A」は単なる「素人」か「普通の人」なんだから単独で使ったところで面白いわけがない。
■面白いのは、萩本さんであり、萩本さんの作ったこのシステムだ。
■いとうせいこう君が、テレビというメディアの本質を見抜いていた最初の人としての萩本欽一さんについて語っていたのをどこかで読んだが、まったくその通りであり、この萩本システムともいうべきものが、その後のテレビを支配しているといっても過言ではなく、その変形が様々なテレビ番組を生んだ。

■だけど、くり返すようだがなぜか、一般的な観客(視聴者)は「A」に、つまり「ごくふつうの人」「つまらない人」に向けられる。かつてラジカル・ガジベリビンバ・システムで、大竹まことさんが、加藤賢崇に、つっこむだけつこむというのをやったが、やはり、観客には賢崇が面白いように見える。これはまったく萩本さんの作ったシステムと同様のもので、面白いのはこのシステムであり、「構造」である。じつは、このノートをはじめ『月の教室』のノートからつづく、伊地知と僕の関係もこれを利用している。
■悲劇的なのは、「A」が、自分が面白いと勘違いすることであり、周囲が持ち上げる状況だ。小浜は冷静だった。その構造を見事に自覚している。後年、「自分はまったく面白い人間じゃないんですよ」と語る坂上二郎さんのように冷静である。そして一番のまちがいというか、ひどく愚かだと思うのは、坂上二郎さんが面白いと考えるプロであり、その後萩本さんが作り出した人気者こそ「面白い人」だとかんちがいしたプロの作り手たちだ。
■僕もあやうく間違えるところだった。

■つまりこの構造である。それを忘れて一見面白かったパフォーマンスグループを、構造とは関係なくそれだけで成立すると見まちがえるところだった。単独の公演についてはあらためて考える。以前、ある演劇批評家が「宮沢さんは、へたな人を使うのがうまい」と言っていたと人づてに聞いた。そうなんですよ。これはもう、言ってみれば「萩本システム」なんですよ、結局。そこから逃れようと思って俳優部門は演劇経験のある人たちに出てもらったという事情が、またべつの事情とはことなる姿で存在するわけだが、パフォーマンスグループはそうではなかった。またべつのやり方で、これまでと同じことをしていたのにちがいない。
■ただ、その構造を踏襲しつつ、パフォーマンスグループを生かす新しい方法も思いついた。つまり、俳優たちのドラマ部分を先日の舞台で収録した映像で流し、パフォーマンスグループだけが生身のからだで動くという舞台だ。これはどうだ。こんなものも、見たことがないぞ、俺は。『トーキョー・ボディ・パフォーマンスミックス』だ。
■かなりわかりやすい例をあげて書いたつもりですが、わかっていただけたでしょうか。

■うちの大学の舞台芸術センターのHさんの伝言が留守電にあり、その後、批評家の内野儀さんが『舞台芸術』誌上に書かれた「演劇時評」をFAXで送っていただいた。『トーキョー・ボディ』についてきちんとした批評は、この国の演劇状況のなかにおける、『トーキョー・ボディ』について。あるいはそこにある「からだ」についてだった。なるほどなあ。内容の是非はともかく丁寧に見てくれたことにとても感謝した。
■というわけで、そんなことばかり考えていないで、『考える人』を書かなくてはいけないのだが、書くことがなにも思いつかない。困った。

(4:50 mar.4 2003)


Mar.2 sun.  「いまここにある現実、そしてニブロール」

■家から歩いてすぐの場所にあるパークタワービルの中にあるホールでニブロールのダンス公演を観る。アフタートークに呼ばれているのでこれは一部仕事だ。
■で、アメリカのダンスカンパニー、アタックシアターとのコラボレーション作品『ノート』は、ものすごく面白かった。これまでもニブロールは面白かったわけですが久しぶりに刺激的な作品に出会った。感じたこと、作品の感想はアフタートークで話してしまったのだが、一番の印象は、日本人のからだの小さなダンサーたちの姿が、「いまここにある東京という町に出現した特別なからだ」ということだ。
■これがいちばん見ごたえがあり、たとえばフォーサイスに影響されたダンサーたちがいくらフォーサイスのようなダンスをしようとすればどうしたって、「西洋人のからだ」、「日本人のからだ」を比べてしまい、強度の比較で日本人の身体が劣って見えてしまうのは否めなく、となると、日本人の身体表現に残されたのは、伝統的な、「歌舞伎」や「舞」、あるいは「能」「狂言」、そして「舞踏」になってしまうのかと思うと、じゃあ、「いま」はどこにあるのか、いまここで表現している者にとっての現在の「時代感覚」はどうなっているかと疑問に感じることに対する鮮やかな解答が『ノート』で踊る、「小さなダンサー」たちにはあったのだし、それを作った矢内原さんはじめ、ニブロールという集団の表現するアプローチの姿勢に驚いたのだ。刺激された。
■そこに、「いま、ここ」があった。

■きょうもいろいろな人に会った。アフタートークの司会をしてくれた桜井君。小浜も来ていた。『トーキョー・ボディ』のパフォーマンスグループのひとり、鈴木もいる。三坂と宮台さん。以前、関西ワークショップに来ていた貸川と、貸川と高校時代の同級生でいまダンスをしており僕のワークショップに来たこともあるFさんもいた。面白かったのはアフタートークの質疑応答で唯一人、質問してくれた女の子が、ロビーで貸川と話しているところに来て話しかけてくれたことだが、話していたらどうやら京都にいたらしい。「吉田寮」という京大のなかにある演劇公演などしている有名な建物の話などするので怪しいと思ったらやっぱり京大の卒業生で、さらに詳しい話になったら、貸川と入学も卒業も同じ年だった。笑える偶然。
■関係ないけど、京都では京大生は甘やかされている。
■ある意味、京都は田舎なわけだが、そこで甘やかされた京大生はだいたいだめになってゆく。ある人が京都でナンパされたという。そのとき、ナンパした男が開口一番、「ぼく、京大のアメフト部です」と言ったそうだ。こんなばかがいるだろうか。世にも恐ろしいばかである。どうやら京都ではそれが許されるらしい。ナンパの決め手らしい。東京で、「僕、東大の鉄道研究会です」とナンパする男がいるだろうか。けっしていない。
■質問をしてくれた女の子は卒業後、東京に戻って引きこもりがちになっているという。かつてスレンダーだった貸川は東京に戻って……。その肉に京大の悲劇を見た。

■その後、パークタワーの地下にあるカフェで、小浜、鈴木、永井らと話をする。今後のことなど。パフォーマンスグループでなにかやろうと企画しているが、小浜のスケジュールがタイトだ。ドゥクフレのダンスカンパニーとともに世界ツアーに出るのもあるが、ドゥクフレの推薦で、「ボクデス」という小浜単独のダンスをフランスでやることになっているという。世界的なダンサーになってゆく小浜。まったく、世界もたしたいことないのかもしれない。
■やけに楽しい一日だった。いい舞台も見たしな。だけど原稿がある。いまここにある現実。で、戦争はどうなる?

(6:24 mar.3 2003)


Mar.1 sat.  「昔みたいだったよ」

■原稿を書かなければいけない。
■『考える人』(新潮社)はもちろんだが、試写会で見たパレスチナ映画についてのコメントがある。早急に書かなくてはいけないと思いつつ、中村有志君のライブ公演を観に原宿に行った。原宿ラフォーレ。中村君はパントマイマーとして世の中では認知されているかもしれないが俳優としてもとても魅力的だ。もっと売れてもいいはずだが世の中は何を見ているのだ。
■ライブはひとり芝居を中心にした内容。正直なところ「ふつうに面白かった」という感想。もちろんいくつかの場面で笑ったが、それも含めて「ふつうに面白かった」ので刺激されるということではない。というか、予想した通りの安定した「面白さ」でそれは中村君というパフォーマーの高い表現力、実力としては当然出てくるレベルの舞台だ。ただそこからもっと刺激されるなにかが観たかった。

■世の中は、その中村有志をしっかり認識していない。もっといい仕事をするべき人だと思う。すごいんですよ中村君は。
■会場で、映画監督で『SFサムライ・フィクション』など作った旧知の中野浩之君などかつての仕事仲間、友人たちと会う。昔みたいだった。ラフォーレという場所。かつての友人たち。昔みたいだ。で、面白かったのは中野さんが僕の頭を見て、「髪が黒々してるねえ。若いねえ、宮沢さん」と言ったあと、ふいに、「俺、はげちゃった」ともらしたことだ。笑ったなあ。思わず僕は、「リーブ21」の歌、「ノーモア、悩み無用、あなたの髪、きっと生えてくる」を歌い出しそうになった。
■ほかにもかつて僕の舞台の演出助手もしていた放送作家の高橋洋二と山名、ほかに川勝さん、中村君の事務所のTさんたちに会って、ほんとつくづく、昔みたいだったよ。考えてみれば、高橋といい、山名といい、ほかにも、三木聡といい、僕の舞台の演出助手をやっていていま放送作家でやたら売れているやつが多い。大野もいたな。
■いろいろな人たちと会って、ずいぶんそういった場所から遠いところに来てしまったと思った。なぜ大学で教えるために僕は京都にいるのだろう。大学と京都から学んだことは計り知れない。だから、懐かしいあの場所にはもう戻りたいとは思わない。

■で、原稿を待っている新潮社のN君たちには申し訳ないけれど、原稿は書けず、あまつさえ、中村君の舞台を見る前、昼間は南大沢まで行ってクルマの点検、傷の修理を頼んでいたのだった。南大沢は遠い。八王子の山の中にある。しかも途中、甲州街道からその後の道すべて渋滞だった。死ぬ思いだった。歯は痛くなるし。雨は降っているし。クルマは整備のため工場に預けて電車で帰る。久しぶりの京王線。電車は電車で、やっぱりいいものである。

(5:03 mar.3 2003)