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富士日記

PAPERS

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新緑の葉
花

Published: Feb. 16, 2003
Updated: May. 18, 2003
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 | PAPERS | 京都その観光と生活 | 市松生活 | からだ | トーキョー・ボディ | send mail |



May.15 thurs.  「自転車の話など」

■終日授業がある木曜日である。曇りときどき雨の京都。
■一年生の舞台基礎はきのうにひきつづき「テキストを読む」。学校中を歩いた。ピクニックのようだった。ただDクラスに比べてきょうのBクラスは工夫が足りない。Dクラスには浴衣姿で森の中、番町皿屋敷の話を読んだものがいて、森の中には使われていない井戸がある。その演出が面白かったし、ほかには手製のブランコで手話と同時に読む者などいろいろな工夫があったのだった。ただ、どちらのクラスも共通だが森の中にぽつんといる「読む人」を遠目に見るのはとてもいい。なにかを目撃している。風景にとけこむ読む人をながめている。
■途中から雨が強くなってきた。天気がよければもっとちがう気分で、読めたのだろうし、聞くことができたと思えた。あと、Dクラスだったと記憶するが漱石の『それから』を読んだ学生が休んだのが残念で、べつに『それから』がいいからというのではなく、読んだ学生の声がとてもよかったからだ。もっと異なる環境で聞きたいと思った。歩いたなあ。きょうも歩いた。体力をつけなくてはいけない。階段で息をきらしている僕を見てスイスからの留学生のモリッツが、「先生、たばこ吸い過ぎ」というので、「はい」と返事。

■午後から舞台表現の授業で先週と同様、『アイスクリームマン』の読み合わせ。もちろん戯曲は個人的に何度も読んでいるし、こうして読み合わせをするのも何度目かになるが、きょうよくやく、この戯曲のいくつかの部分が理解できたのだった。ああ、そうだったのか。ラストの向山のせりふのなんて悲しいことか。おそらく岩松さんはこの「せりふ」のために『アイスクリームマン』を書き進めたのではないか。それを解説しつつ読み合わせを進める。
■やっぱり「読み合わせ」はとても大事だ。様々な戯曲を読む「戯曲研究会」を発足させようかとすら思ったのだった。メンバーを募り何人かに役を振り分けただ戯曲を読む。単に「読む」、つまり「黙読」だけではわからないことが、人のからだを通じたときようやく出現するものがある。それが戯曲というテクストだ。小説とは異なるものだ。で、しかも議論しながら読むのが「戯曲研究会」で、読むことの悦楽、考えることの愉楽。
■これは具体化するぞ。東京でメンバーを募ろう。僕自身の勉強になると思える。そうだ、あそこに相談しよう。曙橋にある、とある、演劇関係の団体だ。以前から一年間のワーックショップをやらないかと声をかけられていたが物理的に無理だった。「戯曲研究会」だったら、なんとかなるのではないか。様々な戯曲を読む。それを通じて演劇を学ぶ学校だ。もちろん、俳優志望者ばかりではなく、戯曲を書きたい人、演出を学ぶ人、単なる演劇好きでも参加の幅が広くなる。声に出して読む。それはいまこそ重要な仕事だという気がする。

■また、様々な方からメールをもらった。ありがとう。池袋サーチエンジンシステムクラッシュツアーにも参加しワーイアードの翻訳もしているT君から、「USポスタル・サービス」と自転車に関する続報があった。
「自転車と米国の郵便の関係」に興味を持ち、ちょっと調べていくつかわかったことがあるのでご報告します。(以前の「PAPERS」の特派員みたいですね。その頃もし知っていたら、きっと「特派員にしてください!」ってお願いしてたと思います。)まず、アメリカでは昔自転車で郵便配達をしていたかどうかですが、『最古のバイク・メッセンジャー(自転車便)に関する短い歴史』と題された文章に、「すでに1883年には米国の郵便事業に自転車が使われていたという(非公式の)記述があるが、当の米国郵政公社(USポスタル・サービス、1971年より公社化)は、正式に郵便配達の自転車乗りが登場したのは1895年シカゴでのことだったと述べている。」(※括弧の中は訳注)と書かれています。
 どうやら自転車で配達する専任の人がいたようです。プロの自転車乗りのはしりですね。ですから、のちに自動車やオートバイが登場してからはマイナーな存在になった可能性はあるものの、少なくともそれまでのある期間は確実に郵便配達の自転車乗りが存在していたわけですし、だだっ広いアメリカでもシカゴのような大都市では自転車が十分に機能したのではないかと思われます。
 それに、僕自身も1998年にサンフランシスコに住んでいたとき、たしか自転車の郵便配達人を見かけました。後輪の両脇にツーリング用らしき布製のバッグを据え付け、それに郵便物を入れていたのを覚えています。サンフランシスコは都市部が狭い範囲に収まっているという意味では自転車向きかもしれませんが、とにかく坂の多い街なので、車やバイクのほうが効率いいだろうに物好きだなあと思ったものでした。でも今考えると、働きつつプロチームを目指してからだを鍛えていたのかもしれません。
 やはり歴史があったのだった。先日のIさんのニューヨークの現在の状況も貴重な報告でありがたかったが、では、いつからアメリカの郵便事業は自転車ではなくなったかも気になる。あと地方都市ではまだ自転車かもしれない。さらにフランスのトロワという町で学校に通っているMさんは「フランス郵便配達事情」を報告してくれた。
 私が住んでいるのはパリではなく、トロワという田舎町だからかもしれませんが、ココの郵便屋さんは、今でも自転車で配達をしてくれています。フランス全土で自転車なのかは分からないのですが、郵便(La Poste)は全土一律サービスなので、自転車率は高いと思われます。ちなみに、雪の深い地域では、スキーで配達している郵便屋さんもいました。
 トロワの郵便屋さんは、とてものんびりした趣で、私がぽてぽて散歩していると、「やぁ、マドモワゼル! 元気かい?」と声をかけたかと思うと、鼻歌うたいながらふらふら去ってゆきます。彼らは、たいてい歌ってます。とても楽しそうです。
 フランスも自転車の国かもしれません。日本のマラソン中継のように、自転車中継が日常的にあります。ただただ、走る自転車が画面にいっぱいです。トゥールデュフランスも、フランス人の誇りらしいです。失礼ながら、私はフランスに来るまで知りませんでした。そして街角には、自転車パワーアップ屋さんが存在します。いろいろな自転車パーツが売っているので、自作自転車も作れちゃいます(たぶん)。たいていの道路に、自転車道があります。それに、本格的な自転車で本格的な衣装を身にまとい颯爽と走るおじさん集団も、よく見かけます。とても、さわやかな汗をかいていました。
 そうだ、フランス映画ではよく見る、自転車に乗って郵便を配達する人を。日本ほどマラソンが好きな国は世界中にそんなにないと思うが、フランスは自転車だったか。イギリスは乗馬らしい。でもパリに行ったとき、路上に自転車が放置されているという光景をほとんど見なかったのだが、あれはもしかすると、放置なんかしといた日にゃ、すぐ盗まれるからではないか。日本でも自転車が盗まれた話はよく聞くがその比ではないのだろう、あちらでは、って勝手なこと書いていますが。
 この国では自動販売機の普及はすごいが、いくつもの外国での普及率の低さは単純に「壊されるから」だと聞いた。というか壊さないこの国が不思議なのかもしれない。平和な国。安全な国。豊かな国。ほんとうなのか。もしそうなのだとしたらそれはそれでけっこうな話だが、表面的にそう見えるだけだと思え、もっと深い場所でひずみは進んでいると感じ、自動販売機の普及が人にもたらす幸福などたかがしれている。単に便利。便利だけで人は幸福になれるわけではけっしてない。テクノロジーは人を幸福にしてきただろうか。ほんとうの意味において。

■夜、ぶらぶらホテルの近くを歩く。少しお腹がすいたので近くで食事。橋の上から夜の向こうを見る。京都の闇はとても濃いがそれがほんとうはあたりまえの姿だ。夜は暗いにきまっている。

(8:02 may.16 2003)



May.14 wed.  「山を登る、森を歩く」

■たしか建築を専門にしている方ではなかったか、以前も「建築とプログラムに関する質問」といった内容のメールをもらったはずのYさんから、ゲルハルト・リヒター展のことを教えてもらった。舟越桂展を観にいったことを書いたからか。「ゲルハルト・リヒター展」ももちろん興味を持ったが、紹介しているサイトの「トーキョーワンダーサイト」が気になった。なんだろう。このサイトのトップページのフラッシュが僕の
iBookでは見られないのですが、ほかのMac環境ではいかがでしょうか。
■あるいは、ニューヨークに住んでいるIさんはあちらの郵便配達事情を教えてくれた。自転車で配達していないという。いや、いまはそうかもしれないが、古いアメリカ映画とかで自転車に乗って配達しているのを見た気がする。記憶違いか。フランス映画だったかもしれない。Iさんによれば、ニューヨークでは手押し車でがらがら運び配達しているそうだ。で、「昔はそうだったかもしれませんが」とあり、ここがきっと大事な点で「USポスタル・サービス(米国郵政公社)」はその伝統を重んじているのではないか。
■それにしても、ニューヨークから、パリから、遠い土地からの便りはこれぞインターネットという気がする。とてもうれしい。

■いきなり朝から山登りである。もちろん授業の話だ。
■「テキストを読む」という課題だが先週読んだテキストを様々な場所を使い、自分なりの工夫で演出する。大学は山の斜面にある。どこを歩いてもたいてい坂か、階段になっているが、その頂上付近に屋外の能舞台があってそこでまずは発表。ながめがいい。天気がよければもっと気持ちがよかっただろう。それに続く学生の発表はさらに山の上だった。森の中。落ち葉が堆積した山の道を進む。樹木の香りがする。風の音がする。こんな場所に来ることもめったにない。じつははじまるまで山に登ることがかなり憂鬱だったが、やってみると気持ちがよかった。学校中を歩いた。いろいろな場所で発表があって面白かった。それぞれの工夫もよかった。あと自分のタフさに驚く。あまり疲れた気分にならなかったのは森が気持ちよかったからではないか。つくづくもっと天気がよければと思ったのだ。
■こうした気持ちのよさをどう考えていいか。「自然回帰」といったものや、「上から与えられる健康増進」といった思想に否定的な気分になるのは、たとえば、哲学者ハイデッガーの生き方を見たときに知ることになるような、ある危険な方向へ進む可能性を感じるからではないか。
■ハイデッガーは若き日、「ドイツ青年運動」にコミットしていた。それは「都市文明に背を向け、野山をまわって自国の国土や歴史を再発見する運動」だったという。「自然回帰」が、「人の本来的な生き方」だとする思想があるとするなら、その追求はちょっとまちがえればナチズムになる。「ドイツ青年運動」が第一次世界大戦によって終結したあと、ハイデッガーが思想を実現するよりどころにしたのがまさにナチスだったわけで、なにもまちがったことをしようと思ってナチスにコミットしていったわけではなく、思想に忠実なゆえに、彼はよりどころを求めるようにその道を歩いた。ハイデッガーがナチスと関係していたことが資料によって明らかになったのは比較的最近のことだったと記憶するが、だからといって、ハイデッガーの思想をたやすく否定することができるだろうか。その考える行為の中心にあるのは、政治性とは異なる「人の問題」を追求する根源的な態度だったにちがいなく、いや、それが、その「根源的な態度」がナチズムと結びつきどこかでなにかが狂ったとすれば、やはり必然的に政治性を強くはらんだ思想だったということか。むろんそれは、「哲学史」ではなく「現在」について考えている話だけど。
■といったことを、竹内敏晴さんと木田元さんの対談『待つしかない、か。』を読んで考えていたのだった。

■京都は雨。ゆううつな天気だ。どこかに行こうという気持ちも起こらぬまま、午後、ホテルで本を読んでいた。データ通信デバイス
AH-F401Uは快調だが、少々、通信速度が遅い。まあつなぎっぱなしでいいからほっとけばいいが、さっとものを調べられないのはストレスになる。メールチェックぐらいなら快適だ。
■雨の京都も、それはそれで風情があるのだった。

(8:13 may.15 2003)



May.13 tue.  「秘密兵器を使う」

■今回の京都行きには秘密兵器持参である。
■富士通から出ているPHSのデータ通信用デバイス
AH-F401U。USBポートに接続。それだけで通信がつなぎ放題だ。これまでホテルの電話線を引っ張ってきてiBookに接続していたが電話代がけっこうかかる。計算するとAirH"の「データ通信つなぎ放題」に契約した方が安上がりだと気がついたのだった。PHS本体を買ってケーブルでUSBにつなぐ手もあったがべつにPHSで電話することもないだろうと思いデータ通信専用のものにした。
■ためしに新幹線のなかから通信したが、神奈川と静岡の県境あたりはトンネルも多くほとんど通信ができない。熱海を越してもしばらく通信不能。あと関係ないけど、新幹線内で使う例の簡易な台の上に、
iBookを置こうとすると、前に座った人がシートをめいっぱい倒した場合、まったく使えない状態になる。だめである。こういう場合は一番前の席などがいいのかもしれないし、あと運がよければシートをまったく倒さない人が前の席にいる可能性もある。というかあまり混まない時間に乗ればいいのかもしれないが、AH-F401Uとはまったく関係のない話だった。
■べつに新幹線のなかでコンピュータを使わなくちゃならないほどビジネスなマンではないので、そんなことは本来どうでもいいことだ。夕方の新幹線はビジネスなマンの方々でいっぱいだ。弁当とビールの匂い。眠る人が多いのは先日、うるさい子どもが乗っていてひどい目にあったことを考えればずっと静かでいい。しかし新幹線における「静か」とはなにか。なにしろ走行音がものすごいのだが、それはとりあえずないこととして前提にし、で、「車内の携帯電話はご遠慮ください」といったことで周囲の迷惑になる行為は禁じられるのだから、当然、「車内の応援団」もだめである。「煙草の害」について、あるいは「禁煙ファシズム」は、「煙が迷惑」ということが基本だが、前提になっているのはたとえば「クルマの排ガスは迷惑ではない」ということだ。千代田区は「路上喫煙者」を禁止するが、「路上走行車」は禁止しないのである。
■なんの話かわからなくなってきた。

■自作マシンは相変わらずXPがインストールできない。
■そのままにして東京をあとにしなければいけない。
■で、よくアドバイスをいただくYさんからデバイスをひとつひとつ取ってなにがいけないか試したらといった意味のメールをいただく。そうなんだろうなあ。だけどその時間がない。というか、時間がなかったら自作している場合ではないと原稿のことを思うのだが、人はそんなふうに合理的にできていないのだった。あとYさんからこのページの一部の英単語の綴りのミスを指摘された。あ、ほんとだ。誰も気づかなかったのかよ。本文以外、しっかり僕も確認していなかった。

■京都に着いたのは夜10時近くになっていた。まずはホテルでシャワーを浴びる。火曜日の時間の使い方は悩むところだ。早く東京を出て京都を少し散策するか、それともぎりぎりまで東京にいて、東京ですべきことをするか。ふと来週は京都にクルマで来ようかと考えた。クルマだったら時間があれば京都をいろいろ回れるのではないか。いまは京都に来ていることの意味が5パーセントぐらいだ。梅雨に入る前に一度、クルマで来てみたいと思っているのだった。
■見るべきものがまだあると思う。この町には。だって、京都だよ。

(0:44 may.14 2003)



May.12 mon.  「長崎自転車問題」

■長崎の方、出身の方から何通かメールをもらった。「長崎自転車問題」だ。とてもうれしかった。もちろん長崎の人全員が自転車に乗れないとか、チャンポンが異常に好きということもないだろうが、メールを読んだ限りでは、長崎の人は自転車に乗れてもあまりなじみがうすいようだ。坂道の上に住んでいたという方は「降りるときはいいが、登るとき、自転車を引いて歩くのに不合理を感じた」という意味のことを書いており、いまそのUさんは埼玉の川越に住んでいるが、自転車に乗るのがすごくへただという。「自転車がへた」というのは、どう考えていいか、悲劇か、喜劇か。あれは本来その人の持つ感覚のせいか、それとも子ども時代の環境に左右されるのか。むつかしいところである。
■そういえばオランダは世界でも有数の自転車国だが、それというのも国全体が平地だからとどこかで読んだ。京都は北に向かってゆるやかな坂だ。油断しているとひどい目にあい、はじめて烏丸御池から自転車で北白河にある大学まで自転車で行ったところ、風が強くて前に進むのが苦しいのかと思った。坂でした。気がつかない程度の坂。
■あと自転車で思い出したが、また今年もツール・ド・フランス(フランス一周自転車競争)がやってくるが、チャンピオンチーム、「USポスタル・サービス(米国郵政公社)」(とはじめ書いたときはまちがっていたが、ワイアードの翻訳をしているT君から教えてもらった)は郵便事業をしている会社だが、それが自転車に力を入れているのはそもそも郵便配達の歴史に起因するのではないかとふと思った。なぜなら、郵便配達の人と自転車は切っても切れない関係ではないか。この国でも年賀状を配達するアルバイトや職員たちが自転車で出発する映像が季節の風物詩としてニュースで流れる。「USポスタル・サービス(米国郵政公社)」の自転車好きもそこらあたりから来ているにちがいない。

■自作マシンは動くようになったが今度はOSがインストール出来なくて困っているのだった。まったくすんなりいかない。まあ、その困難を乗り越えるところに自作の醍醐味があるのだった。と自分を納得させる。あ、あと光ファイバーの工事に関する連絡がないので、こちらから電話したら大幅に遅れているとの報告。よく理解できない専門的な問題を説明されたがそんなことは俺の知ったことか。このあいだ毎日新聞に工事検査に来た方々の話を書いてしまった。
■文學界のOさんから、中央公論社版「チェーホフ全集」を送ってくれるとのメール。なんていいい人ばかりだ。あと、いま欲しいのは「三島由紀夫全集」と、「安部公房全集」だが、これはいくらなんでも誰も送ってこないだろう。
■で、またクルマを走らせ気晴らしに。このあいだ六本木ヒルズに向かうのは「外苑西通り」と書いたが、「外苑東通り」のまちがいだった。ちょっとした未来都市へ向かう気分が「外苑東通り」にはある。ただぐるっとあのあたりを走って帰ってきた。原稿が書けた気晴らし。「一冊の本」の連載原稿である。以前「ばかばかしい原稿を書きたい」と書いたがあれは新潮社のPR誌「波」に決まりそうだ。よーしまた、でたらめなことを書くぞ。で、その一方、なにか舞台、映画に関する批評とまではいかなくても、感想の原稿をどこかで書かせてもらえたらうれしい。というのも、そういう仕事がないと舞台も映画も、観に行くのにおっくうになるからだ。仕事だと観るのである。そんな仕事の中から、かつて大人計画を発見したようなできごとが出現するかもしれない

■「トーキョー・ボディ」にも出た笠木からメール。舟越桂展を観たとのこと。ああ、笠木が住んでいる船橋から東京現代美術館はきっと近いだろう。水戸芸術館も近いにちがいない。そういえば、いまや世界的なダンサー小浜はどうしているだろう。話をゆっくりしたいと思っていたが時間が経ってしまった。次の舞台のことなどいろいろ相談したいと思っているのだった。「トーキョー・ボディ映像班」はなにをしているだろう。京都でヨーロッパ企画に所属する本多君や、ノーベル賞を受賞した田中さんをちらっと見たという島津製作所に就職したK君らにも会いたい。
■どうもかつてのように、ホテル住まいだと関西でのんびりもしていられないのだった。それが残念。今年になってOPALにも行っていない。自転車でもっと走らなくては。

(7:25 may.13 2003)



May.11 sun.  「白水社からの届け物」

■やけに朝早く目が覚めたら、宅急便の「至急」というのが届き、見れば白水社の和久田君からの荷物。なんときのう白水社のUブックスのチェーホフが読みたいと書いたら『ワーニヤ伯父さん』『桜の園』『かもめ』『三人姉妹』を送ってくれたのだった。ほんとうにありがたい。なんて素早い対応なんだ。
■でもって、それをもとにユリイカに原稿を書くのは申し訳ない気分になったのだった。さらにうちの大学の学生のD君からネット上の古書店に、「チェーホフ全集」(筑摩書房)が三万五千円で出ているとの情報。これはちょっと悩みました。買うかどうするか。研究費で買うべきだろうか。それにしてもUブックス版は読みやすい。遠視で悩む私には文字が大きく読みやすいのでこれまで読んでいた岩波文庫に比べたらずっと楽に読み進めることができる。ただただ肉体の衰え。和久田君から本を作りましょうという話をとにかく進めなくてはと思ったのだった。でもって、チェーホフに関する原稿を書くのも大事だ。っていうか、ほんと書く書くと言いながらぜんぜん進まない。
■ほかに「システムエンジニアを仕事にしている33歳男」という方からメールがあって僕のことをまったく知らなかったようだが、「立つこと」などのキーワードでサーチエンジンをたどっているうち、PAPERSにたどりついたという内容。こうして人に出会ってゆく。毎日ノートを更新してゆくことで人に出会えるのだと思った。ありがたい。

東京現代美術館へ、舟越桂さんの作品展を見に行く。作品から受ける刺激ももちろんあるが、「展示」という形態、舟越さんの作品の「人のからだ」をモチーフにした木彫が展示され、それを見ている自分、ほかの人たちの姿から様々な印象を受け、考えることいろいろ。舞台のことについ結びついてしまうが。
■つまりは、美術館という空間がいいということになってしまうわけだけれど、なかでも現代美術館にいると気分がなにか落ち着く。いい日曜日。原稿には追われているわけで、そうした焦燥感はぬぐえはしないのだが。
■舟越桂さんといえば、どうしたって父親のやはり彫刻家、舟越保武さんを思い出さずにいられない、仕事で九州に行ったとき少し足を伸ばして長崎へゆき舟越さんの作品「長崎26殉教者記念像」を見たことがある。よかったなあ、あれ。長崎に二日ばかり滞在し二日連続して見に行ってしまったくらいだ。旅はよかった。長崎はよかった。坂が多かった。この町では自転車に乗る人はいるのだろうかとすら思ったのだった。

■で、自作機でさらに悩む。動かないのだ。腹立たしい気分になってきた。今回はやけにうまくいかないのだ。そんなことを考えつつ『桜の園』と、横光利一の『機械』、再読。深夜、関東地方は地震。渋谷区もかなり揺れた。

(7:21 may.12 2003)



May.10 sat.  「秋葉原に行った」

■突然、新しい自作機を作ろうと思い立ったのである。
■ストレス解消だ。自作製作でストレスを解消する。
■うちにある四台の
Windowsマシンはすべて自作機なのだが、っていうか、なかにはLinuxもあるけどつまりPC(Macではないもの)と呼ばれるマシンはとにかく自作だ。そろそろ時代遅れだ。新しいマシンが欲しくなったので秋葉原に買い物に行く。
■秋葉原周辺はお祭りでした。神田明神の祭り。御神輿が出ていた。で、ここは千代田区。いま東京でもっとも頭の悪い「区」で、なにしろ決められた場所以外の煙草が禁止されているのだった。このあいだ三坂からもこうした「禁煙ファシズム」に関してのメールをもらったが、例の「国民健康増進」に関する法案など、なにやらわけのわからないことがまかり通っている世の中を否定する内容だった。同感。

■で、仕事もしないで秋葉原でパーツを買いあさる。家に戻って組み立て。大失敗した。動かねえ。なにがだめかよくわからない。マザーボードか。CPUか。ビデオカードか、まったく起動しないのだ。途中、僕も訳の分からないことをしたので初期不良だけの問題ではないが、これで三万円以上は無駄にした。原稿を書くぞ。取り戻すためにこうなったらなんでも書く。
■まあ、自作機製作はギャンブルみたいなものだから、パチンコで負けるのに比べたらたいしたことではないのである。損したけど。落ち込んだが。ただまあ、そうして失敗をすることもまた自作機製作の醍醐味である。あと、七月くらいにおそらく新しい
PowerMacがと予想しているのでそれも買おうと計画し貯金していたからこの三万円は痛いといえば痛いが、ギャンブルだ。風俗に行ったらそんなものは一時間ぐらいで終わってしまう金額。そんなことを考え自分を慰める。
■ところで、
WindowsXPってやつのアップグレード版は高いよ。無謀に高い。なにを考えているのだマイクロソフトは。こうなったら「ものを書く主流マシン」をLinuxに完全移行しようかと考える。まあ、「Mac大好きな人」ほどマイクロソフトに悪い印象は持っていないし、Mac好きってまじめに考えている人はともかくなんと申しましょうか、ばかに感じるからいやなのだ。Macがあればなんでも出来るとでも思っているのかのような安易な考え方がいやだよ。MacOSXの基本はUNIXだ。以前、Mac大好きな人が、Windowsには拡張子があるのを否定的にインターネットのサイトに書いていて、あのね、インターネットって基本がUNIXでしょうが、拡張子が必要だろう。おまえ、どうやってサイトを構築したんだとあまりのばかさに笑ったのだった。
■とはいうものの、このノートはもっぱら
iBookで書いております。慣れですね。原稿を書くときはあっちのマシン、このノートを書くのはこっちのコンピュータと、つまり筆記具によって気分を変えるのに似ている。慣れですな。コンピュータはなにがいいかなんてどうでもいい。むしろ自分に慣れたものを使うのが一番いいと思うのだった。

■筑摩書房から出ていたはずの文庫版の「チェーホフ全集」は絶版になっているらしい。古書店でも売り切れ。サイトで探すがどこにもない。秋葉原の帰り、神保町の三省堂で探したがほしかった白水社のチェーホフコレクションが見つからなかった。ふと棚を見れば「ブレヒト全集」がそろいであったので買おうかと思ったが少し悩み、やめてしまった。読むべきものは無数にある。見るべき映画も無数にある。一生でどれだけのことができるのかと不安になるのである。ひとまず、死ぬまでに『資本論』を読もう。読まずに死ぬのはいやなのだ。

(5:48 may.11 2003)



May.9 fri.  「また東京に戻ってきたわけです」

■二年生中心の「舞台表現」の授業。テキストが決まり配役が決まって二日目。すでに来なくなった学生が何人か。朝だからか。役がないということでやる気をなくしたか。そういえばきのう、映像コースの学生と研究室で会ったとき「リーディングをやるっていうから授業取らなかったのに」と言われた。発表公演だったら授業を取っていたという話。ほんとにすまない。今回授業を取ったのは「リーディングをやる」ことを前提にした学生ばかりでつまり俳優志望の者らばかり。役がないと知ると授業に出てこなくなるのもいたしかたないか。
■とはいえ、何らかの方法で舞台に関わることもまた勉強になると思うが、そう思えと強制するのも酷なところ。だけどスタッフがいなくちゃ舞台は成立しない。先が思いやられる。だいたい岩松さんの戯曲がむつかしいよ。
■岩松さんに電話したところ「どうぞどうぞやってください」とのことでさらにどうしても男の数が足りないので「男」の役を女が演じることも自由にやっていいという。大事なところはむろん変えないが多少せりふの変更も出てくるだろう。本読みの段階で直しを入れたり、学生から質問を受けせりふの意味、場面の解釈などをする。こうやって話をするのは戯曲を理解するのに僕自身も勉強になる。「リーディング」をやりたかったのは、こういうことを様々な戯曲でやってみたいと思ったからだ。「発表公演」はもっと異なるエネルギーを使う。だから「リーディング」をやりたかったのだがなあ。

■午後、東京に戻る。新幹線の中で『待つしかない、か。』(春風社)を読む。哲学者でメルロ・ポンティなどを数多く翻訳している木田元さんと、演出家の竹内敏晴さんの対談。そのなかで竹内さんは、演劇をはじめた当初のスタニスラフスキーの演技論を学ぶ過程(ロシアで実地に学んだ者もおらずただスタニスラフスキーの本によって学ぶ環境など)でいだいた違和感や、日本の演技作法ともいうべきものにひそむ疑問を前提にして、こう発言している。
 スタニスラフスキーの晩年の探求はいまでもほとんど日本で知られていないのですが、友人を手伝いながら原著を訳したんです。なかでも「オセローの演出ノート」を読んではじめて、ああそうかとわかってきた。いままでの演技術は――これはヨーロッパでも同じですが――たとえばハムレットならこういう環境に育ってこういう状況に追い込まれているから、これこれこういう気持ちでいるだろう、だからこういう行為をやるだろうというふうに推測してやってきた。こううごくだろうと想像したしぐさや声の出し方、しゃべり方をぜんぶ計算して、肉体を精密に操作してきたわけです。ところがそういうふうにやると、それは無限に近似値を追い求めることで、どこまで近づいても、ハムレットはこういうものらしいという説明に過ぎない。演じているまさにそのとき、自分がハムレットとして舞台上に生きていく――王と向かいあい、オフィーリアとことばをかわす――という臨場感というか、いまここに生きている充実感とは別の次元のことに過ぎない。これでは本当のドラマにならないのではないか。これは日本の戦前のプロレタリア演劇からはじまった、いわゆるリアリズム演劇に対する理論的批判にもなっていったわけです。
 演技はからだ全体でのはたらきかけでなければいけない。類推や解釈で自分の肉体をうごかしていくというとらえかたではなくて、自分自身が一人の主体として、からだ全体で舞台のその場でこうどうしていくことこそ演技(アクション)だという考え方がスタニスラフスキーの最晩年にあります。彼はそれを「身体的行動の方式」と呼んだ。もっとやさしい日本語で言えば、「からだ全体でのはたらきかけによる方法」とでも言いますか。演技とは感性の表出などではなく、意識下も含めた全心身で行動することなんだと気づいたときに、芝居の考え方が自分の中で変わりはじめた。スタニスラフスキーは、正確にからだのはたらきかけを押し進めていると、ある地点で「無意識がはたらきはじめる」と言います。感情とイメージが奔騰してくるわけです。すると、舞台での演技の創造ということは意識のコントロールを超える。つまり創造する真の主体は自我意識ではない。それを超えるものだということになります。では、それをどう考えたらいいのか。こんな考え方は近代演技術においてなかったわけです。
 僕がはじめてスタニスラフスキーの『俳優修業』を読んだのはわりと最近のことでむしろもうあれは古典であり、古い演技論に関する本だとされて長いあいだ読もうとすら思わなかったが、きっかけがあって読んだところ、そのとき自分が考えていた演技論、演出論はすでに、スタニスラフスキーが書いているじゃないかという感想を持った。そして竹内さんが語っている内容はいまほとんどの演出家が異なる表現で同じ意味のことを口にするのではないか。だからこの竹内さんの言葉を読んでずっと疑問に思っていたこと、そしてあらためて感じる疑問が浮かぶ。
 第一に、なぜおなじような「演技論」を語りつつ、しかし「表出」されたものは異なるか。たとえば、僕とガジラの鐘下君は話をするとほぼ同じことを考えているが、作品の質はまったくちがう。第二に、なぜスタニスラフスキーを最初に学んだ過去の時代の近代劇の担い手たちは竹内さんが言うような「いままでの演技術は――これはヨーロッパでも同じですが――たとえばハムレットならこういう環境に育ってこういう状況に追い込まれているから、これこれこういう気持ちでいるだろう、だからこういう行為をやるだろうというふうに推測してやってきた」になってしまったかだ。よく読むとそうは書かれていないと思うのだし、だからってべつに僕の読解力がすぐれていたわけではけっしてなく、いま引用した「いままでの演技術は〜」以降の部分がおかしいという前提がすでに存在しそれ以後の演劇を体験することで、スタニスラフスキーを読むことができたからだ。だとするなら、「本だけでスタニスラフスキーを学んだ人たち」が、スタニスラフスキーの意図するのとは異なる解釈をしたのにはなにか理由があったはずだ。
 ここには思想の問題があるとしか考えられない。人をどのようなものとしてとらえるかといった哲学の問題だ。だから「創造する真の主体は自我意識ではない。それを超えるものだということになります。では、それをどう考えたらいいのか」と考えつくした竹内さんがメルロ・ポンティの『知覚の現象学』に出会い、そこから新たな、というか、正直、いまの僕をはじめとするその後の世代の演劇人にとっては自明と言うべき「演技への手がかり」を見つけだしたところには、想像する以上に大きな意味があったと考えられる。これはただごとならなかったんだろうな。きっと。構造主義だってまだ(知識人のあいだですら)一般的ではなかったのだろうし。
 だが、同様の考え方をしつつしかし「表出されたもの」がまったく異なる問題は複雑だ。なぜ同じことを考えながらああなるのか。育ってきた過程による教養の差異か。単なる感覚的なちがいか。好きな音楽が異なる程度の差異か。でも、その「差異」が演劇を豊かにし、面白くしているのも否めない。
 そして、みんな同様のことを考えているのならまた異なる考え方を対置することで異なる演劇、本質的に異なる演劇が生まれる可能性があると、竹内さんの言葉を読んで考えた。新しいことを話しているようで結局、竹内さんがぶつかり、解答を見つけたことがいまや演劇のごく一般的なかんがえかたとして流通しているに過ぎないのではないか。

■ところで、フランスに行ったときジャン・ジュネの『屏風』を見たことは何度か書いたことがあると思うが、竹内さんはすでに六〇年代、『屏風』を上演している。それはメルロ・ポンティに出会って新たな演技論を模索する過程で上演されたものだと想像する。それに関して面白いのは、正確ではないので申し訳ないが竹内さんも出ていたはずの日本における『屏風』を、鴎外の娘、森茉莉が見ていて、「戯曲はいいが、役者がよくない」と、たまたまぱらっと目を通したエッセイに書き残していることだ。これにはちょっと笑った。
■まあ、そんなことはどうでもよくてですね、いまだからこそ、あたりまえだと思っている「演技論」、あるいは「演出論」を、過去の演劇人がいかにして理解してゆくかという困難な過程は、やはり歴史的にみるべきで、漢文の教養に縛られた文学者が言文一致の文章を書くのに、なぜそんなにしてまで、というほど苦労していた歴史を彷彿させるのだった。
■あたりまえだと思っていることはきっといつかまた歴史的な遺物になってゆくのだし、正しいと考えるその前提、その土台にある思想もまた、単にいま流通し主流であると思っているだけのことかもしれないのだった。「身体論」をもっと考えよう。というか、「身体論」をどの位置から考えるかが問題。あと僕はいま、ドラマや物語のことをもっと考る必要に迫られ、だから話は戻るが、「リーディング」をやりたかったのだ。チェーホフを読むとかね。ユリイカのYさんから原稿催促のメールがあった。まずい。

■ところで京都は寒かった。やけに冷えた。帰り、どこかに寄ろうかと思ったが荷物が重いのでやめ、すぐに新幹線にのって夕方には家に帰ってきた。まだ日のある時間、いつものように新宿から荷物をがらがらひきながら家まで歩く。この時間が気持ちいい。夜、気晴らしにクルマで都内を走る。新宿通りを半蔵門の方向へ。途中、四谷三丁目の交差点を信濃町方向へ右折。外苑西通り。そのまままっすぐトンネルをくぐって六本木ヒルズまで走るコースは未来都市ですよ、ちょっとした。帰り、おなじ道を走りちょっとコースを変え青山墓地の中を通ってから青山通りを渡り、表参道を通って代々木公園の脇を家に向かって走るのが楽しみな道になってしまった。学校でためたストレスがこれで少し解消。それにしても六本木ヒルズの周辺はもう夜の11時半だってのに人でにぎわう。なにごとかと思った。

(8:06 may.10 2003)



May.8 thurs.  「怒濤の勢いの木曜日」

■驚いた。僕はめったに寝坊することがないが、授業の手伝いをしてくれている四回生のYから携帯に電話があったとき気がつくと朝の九時過ぎである。九時から授業なのですでに遅刻だ。ホテルの部屋に備え付けの時計を見ると九時十五分。嘘だろと思った。なにしろ早く目が覚めて困ることはあってもそんなにぐっすり眠って寝坊することなどこの10数年なかったことだったのだ。
■大いにあわてる。すぐに着替えをし部屋を出てタクシーを拾って大学に向かったのは9時20分。教室に到着したのは9時30分。ぎりぎりセーフ、というのも教員が30分遅刻すると授業は休講あつかいになってしまうからだ。Yの機転で学生たちはストレッチをまだやっているところで、授業には間に合った。大学で授業を始めてから初めての経験である。
■Bクラス、きのうのDクラス同様、テキストを読む課題。スイスからの留学生が好きな日本の小説として宮本輝さんの作品を読んだのが驚いた。わかるのか、日本の小説。海外にもっと進出しなくてはいけないと思った。きのうのクラスに比べ、きょうはみんなやけに読むのが長い。小説、詩といった文学作品が多く、ちょっと長いよ。僕が遅刻したのもあるけど、時間が少なかった。でまたも、その後のロケハンで山の中の発表の予定をした者があり、このクラスも来週、へとへとになることだろう。

■午後、カフェ「猫町」で昼食。
■二年生中心の「舞台表現」の授業。岩松さんの『アイスクリームマン』の稽古。というか、台本配布。キャスティングの発表。ここからあたり二年やった経験でだいぶ作業に慣れた。まず配布した「テキスト」はいってみれば「教科書」だから大事に扱うことなどいくつか注意する。だって、芝居ってこのテキストから出発なのだから大事にするのは芝居のごくごく基礎だろう。と、そんなことから教えなくてはいけないのである。
■キャスティング、スタッフ発表は、なにやら運命の瞬間。口には出さなくても学生間に様々な思いが漂うだろうと発表したあと学生の顔がまともに見られない。出演のない学生には申し訳ないがまたべつの側面から舞台に関わることで学んでほしい。それから読みあわせ。そこで、うーん、キャスティングとしてちょっと失敗したかなといった部分もあるが、基本的には成功か。『アイスクリームマン』には二カ所「キスシーン」があるのだった。キスをするNという女の学生が複雑な表情をしている。あとうれしかったのは、単位がかなり不足して心配していた四回生のMが授業に顔を出していたことで、なにやら悩んでいるという話を聞いていたが顔色もよく元気そうなのでほっとした。

■去年までうちの大学内にある「舞台芸術センター」の事務局はいま柏書房にいるHさん中心で運営されていたっていうか、全部、Hさんがやっていたが今年からはそれを何人かで分担して運営されることになった。Hさんに代わってその中心に世田谷パブリックシアターにいたSさんが今年から赴任した。きょうの授業が終わったあとSさんと打ち合わせ。というのも、舞台芸術センターのインターネット上のサイトがこのところ僕が、Webデザインに飽きたせいで全然更新されていないので、その説明などし今後どうやって進行してゆくかなどの相談であった。
■僕はWebデザインに飽きているのだった。だめだめだ。
■Sさんは僕が来年で大学を辞めるとことを知っており「さみしい」と仰っておられたが、うーん、話を聞いていたらSさんが大学に慣れるまでいてあげたい気分になるというか、後ろ髪を引かれる思いになった。まずいな。
■Sさんと話が終わってから学科会議。学科会議がはじまるまで時間があったので研究室にいた。久しぶりに研究室にいて研究室にあまり顔を出さない教員であるところの私がこんなに研究室にいるのも珍しいことになっている。一日中、ものすごい勢いで仕事である。内容の濃い一日だ。帰り、204番のバスでホテルに戻る。高野橋北詰という妙な名前のバス停で降りてそこから徒歩。簡単な夕食。スターバックスでコーヒーを買って部屋で飲む。ホテルがいいのは部屋に戻るときちんと片づけが済んでいるところだ。

■柏書房のHさんといえば、10月刊行の本についてメールが来ていたのだった。返事をしなければいけないがきょうはだめでした。ものすごく働いてしまった一日。京都にいてもただただ仕事で観光している暇などまるでない。東京と京都を行ったり来たりはいいところもあるが、京都でゆっくりできないのは残念。まあ、京都にいるってだけで贅沢なのだが。

(3:25 may.9 2003)



May.7 wed.  「授業のことなどでいろいろ悩みつつ」

■昨夜(6日夜)は二年生が中心になっている舞台表現のクラスの親睦会が北大路通りに面した居酒屋であった。七月の発表に向けて決意を固めたのだが、授業を取った学生の誰もが舞台に立ちたいのはよくわかるものの、そうもいかないのが難しいところだ。ひとまず二年生の目標として僕が考えるのは、舞台をやることの面白さを発見してくれることだが、そう考えると「舞台に立つこと」が、いまの彼ら、彼女らにはもっとも楽しく見えるのは仕方がない。
■これまで二回の発表公演の経験でも舞台に立てばよかったという「スタッフに徹した学生」の声を聞く。というわけで、悩むのである。キャスティングでひどく悩むのだ。ただ、このクラスの学生たちは二年前のことを考えると、おそろしいほど積極的だ。帰り、僕はみんなと別れて自転車でホテルまで走ったが、行こうとすると学生の一人が、「役をくれー」と叫びながら走ってついてきた。笑ったなあ。
■で、結局、岩松了さんが書いた戯曲『アイスクリームマン』を上演することにした。学生たちからは僕の戯曲をやりたかったという声もあったし、むろん僕もそうしたかった。できませんでした。あ、ユリイカに連載予定の「チェーホフを読む」の原稿も書いていなかった。忘れていた。いよいよだめである。

■7日水曜日。午前中、一年生の舞台基礎。Dクラス。「テキストを読む」という課題。いろいろあって面白かったが、どんな種類のテキストを選ぶかよりそれを発する声でその人を理解しようという課題。クレープ屋で買い物をした際のレシートを読んだ学生と、漱石の『それから』の最後を読んだ学生がよかった。で、さらに学生に考える時間を与え学内をロケハン。来週、自分が選んだ場所で好きな演出で読んでもらう。授業の最後、どこで読むか報告してもらったが、出ました、山の中、森の奥、学内で一番高い場所など。来週はおそらくへとへとになるだろう。もうずっと歩きっぱなしだ。なんでこんな大変な課題を設定しちゃったんでしょうか。
■午後、授業の手伝いをしてくれる四回生のYと大学の近くにある「猫町」というカフェで食事をしながらいろいろ話をする。舞台の話、ほかに「差別問題」など。それからやはり自転車でホテルに戻った。住宅街の道を通ってまだ走ったことのない道を走るのは新鮮だった。天気は曇り。ときどき雨。京都に来るとどうも天気がすぐれない。
■ホテルで仮眠。その後夜になって食事に出る。外は気持ちがよかったのでホテルの前、カナート洛北という大型スーパーマーケットの駐輪場にある背の低い壁に腰を下ろし煙草を吸う時間がとても気持ちがよかった。発表公演のキャストのことなど悩みながらいろいろ考える。のんびりとした時間。のんびりものを考えるのには京都はとてもいい町だ。

(1:33 may.8 2003)



May.4 sun.  「悩むこといろいろ、そして励まされるメール」

■二年生中心の「舞台表現」の発表公演になにをするかで悩む。たとえば過去の作品を大学で上演するために書き直す方法がある。
■たとえば、かつて遊園地再生事業団の舞台で、「女優の劇」として書いた作品を書き直し新しい本にしようと思ったが、いかんせん時間がない。というのもその劇(『ゴーゴー・ガーリー』)は不完全である部分が多く、もっと根本的に書き直すのがいまこそ必要だと思っているのだが、それは自分にとって、「戯曲を書く」、あるいは「劇を書く」という作業を再構築し「やり直し」を意味するので中途半端で終わらせては意味がないと思ったからだ。
■このあいだの授業で岩松了さんの『アイスクリームマン』のリーディングをやった。この戯曲は登場人物の数が多く、ある意味かなり都合がいい。学生を舞台に大勢立たせることができる。しかし困ったことは男は数多く出るが、女の登場人物が意外に少ないということだ。授業を受けているのは女が多いのだ。さらによく読むと、まあ、これはしばしば僕もやることだが、演じる者のことをよく知っている作者によって書かれた部分がかなりあり、女に向かって男が、「おまえ、顔が四角いな」というせりふなどありこれはあきらからに、その女を演じる女優の顔が四角くなくては成立しない。せりふを変え、同様の意味で使うこともできるが、「四角い顔の女」でなくてはいけないとなぜか強く思った。では、どうしたらいいか。

■そこで考えたのは九十五年に上演した『知覚の庭』だ。これを、『ゴーゴー・ガーリー』とは異なる書き換えかたで手直しし、上演用の台本を作る手がある。大事な役柄としてゼミの教授(初演では「トーキョー・ボディ」にも出ていただいた小田さんが演じた)がいるが、この役を演じるのは学生ではまず無理だ。あと五歳くらいの子どもがでてくるがこれも無理だ。かなり書き直す。書き直さなくてはいけない。しかし『ゴーゴー・ガーリー』を書き直すのとは作業の意味がちがい、こちらはなんとか短い時間でできるのではないかと考える。
■しかし悩むのだ。まだ悩む。
■もう時間がない。

■そんなことで鬱々とする日々は続く。連休なんてまったく関係がない。気晴らしにまたクルマで都心を走る。連休中の都心の道はすいている。気持ちがいい。
■さらにSさんという方からのメールに励まされた。とても個人的な悩みについての話を聞かせてくれたが、『トーキョー・ボディ』をきっかけにして新たな道を歩こうと思ってくれたという。とてもうれしかった。どこかで誰かが見ていてくれる。こちらからの、言葉ではないもっと異なるメッセージを受け止めてくれる。作品を作る上でこれ以上、励ましになることはないと思った。もっといい作品を書こうと意欲もわくってもんではないか。
■鬱々としている場合ではないのだった。

(6:00 may.5 2003)



May.3 sat.  「六本木」

■また腰を痛めたのだがこれまでとは種類がどうもちがう。伸ばそうとすると痛い。たとえば過去の腰痛では靴下がはけないという困難が伴ったが今回はその痛み、つまり腰を曲げた痛みはなく、座っているときはなんでもないのだ。ただ立った状態が辛いので仕方なしに腰を曲げたまま移動することになるが、まるで老人になったかのような気分になる。たしかに祖父はこんなふうに腰を九十度近く曲げていた。
■腰の弱い家系である。
■腰の弱い人は原稿を書いていた。「資本論を読む」の連載。「チェーホフを読む」の連載。それから、大学の授業で発表するための戯曲の直しなど、いろいろ手をつけるが、どれもうまく書けず、時間に迫られ、ただ焦燥感ばかりがつのって、鎌倉から帰ったあと鬱々としていた。だめでした。

■そんな折、少し腰が楽になったので気晴らしにクルマを走らせるとついつい六本木に行ってしまった。
■六本木ヒルズはとんでもないことになっていた。夜九時過ぎだからもう人はまばらだろうと思ったら、お祭り騒ぎである。駐車場はほぼ満車。人があふれている。建物ばかりか、周辺にも人はおり、なにごとが起こっているのかと思った。しかも私は腰が痛いのだ。関係ないけど。どうかと思うような再開発である。建築である。新しい道路ができていたり、新しい建物があったり、かつての地理感覚がうまくつかめず、めまいのようなものを感じる。かつてテレビ朝日周辺にはひんぱんに来ていた記憶があるが、その勘も働かないので、あとで考えてみると、なぜ六本木ヒルズのあの位置にいて、あの方向に東京タワーが見えるかよくわからないと地図でたしかめたりなどした。
■家にあった地図は古かった。六本木にあるのはまだ「ソ連大使館」だ。シネ・ヴィヴァンもまだある。地図を見ながら思い出すのは10数年前のことで、考えてみると、舞台の稽古をするのにテレ朝を使っていたり、WAVEでよくレコードを買い、一階にあった「レイン・ツリー」というカフェで打ち合わせがしばしばあり、シネ・ヴィヴァンで映画を見、と当時私はあの周辺にやたらいたのだった。忘れていた。遠い過去である。

■神話の本を読む。『アメリカ先住民の神話伝説 上・下』(青土社)。
■それからほんとうに久しぶりにコミックを読んだのは、岡崎京子の『ヘルタースケルター』。事故直前に完結したが単行本化されていなかった作品。「からだ」についての物語として興味深く読んだが、作品としてはですね、『リバーズ・エッジ』にあった「現在性」は、グロテスクな現在を強調するあまり、逆に薄いと感じた。「大時代的物語」を岡崎京子の見事な描写力によって「現在」の「物語」にした印象。つまりそれこそがエンターテイメント。面白いとしか言いようがないよ、その意味では。
■しかし、これもまた「都市」における、神話的思考による物語ではなかったか。その意味では刺激される。なにより刺激されるのは、表現力、描写力、つまり画質の魅力だ。文章を書くことでそれがなんの刺激になるかと思うかもしれませんが、「表現」はどこかでつながっており、結局、同じことだ。まだまだ自分の文章がだめだといやな気分になるし、あるいは、ある種の小説を読んでいると、なんだこの文体はと、驚かされるときがあって、これでいいのか小説はなどと悲しくなるときがある。いい文章を書こう。刺激を受ける。もっと腕を磨こう。

(7:12 may.4 2003)



May.1 thurs.  「気がついたら五月だったよ」 ver.2

■このノートを書く時間がなかった。いきなりな五月だ。先月分のノートは27日までしか書かれていないので、まとめて書いておくことにしよう。
○4月28,29日は、本ばかり読んでいた。これも仕事。時間がない。なだいなださんの著作を下準備として読む。30日に対談をするので読んでおかなければいけないが、途中で対談のことを忘れただ読んでいるときがあり、というのも、これはあとで書くが松尾スズキからのメールにもあった「ウツ問題」など、精神科医でもあるなださんならではの話を、切実に読んでしまったからだ。ほかに、『資本論を読む』を書かなくてはいけないが「読み」が停滞。やるべきこといろいろ。焦る。この二日、焦燥感にさいなまされ、なにをしてもどうも集中しない。二年生の発表公演のための戯曲づくりのことでも悩む。できないかもしれない。いい戯曲を新たに書き直したいと思っているが、ほかの仕事で手一杯。だめだ。

○4月30日。鎌倉へ。なだいなださんのご自宅にうかがうことになっている。首都高から横浜横須賀道路に入ると、あれれというまに、もう鎌倉である。鎌倉を散歩した。鶴岡八幡宮に行ってしまいました。鳩サブレーも食べました。これが仕事が進まないと苦労している人間のやることだろうか。で、観光化された場所から一歩入り、路地の先、住宅街のなかに味のあるカフェを見つけたのだった。そこで一休み。やけにいい時間を過ごしたのである。
 思わず江ノ電にも乗りそうになったが時間が来たので、なださんのご自宅に向かうことにした。「あじさい寺」として有名な明月院の近くと話に聞いていたが、ものすごい場所だった。森である。山の中である。道が細くて、対向車とすれちがうのに必死だ。ときどきバックしてスペースがある場所まで戻ったりしつつ、しかも道に迷う。「本とコンピュータ」誌の編集者の方に連絡しようとしたが、山の中だからか、携帯電話がつながらないのだ。約束の時間よりかなり遅刻した。
 対談は面白かった。話をたくさん聞かせてもった。対談というよりただただ聞き手である。なにか得した気分になったのである。しかも予定されていた時間をかなり超過してしまった。もっと話を聞かせてもらいたいとすら思ったのだ。

■というわけで連休である。
■巷では、「パナウェーブ研究所」が話題だが、なによりあの異様と思える「白」がテレビ的なのではないかとニュースを見る。森の木々まで白く包むのはクリストの美術作品かと思った。警察庁長官は「オウムの初期に似ている」というが、報道によると連中の母胎である団体は一九七七年に創設されているというから、オウムに似ていると断定するのはいかがなものか。ただ、オウムも初期のころは単に「笑える現象」として人は見ていたのではないか。それがどこかで変容する。その変容に対して「笑っていた者ら」はより激しく変化する。こんどはむきだしの憎悪で彼らを見た。この単純さがすごい。
■母胎である団体が一九七七年に創設されたと聞くと、どうしてこれまで報道されなかったか、表に出てこなかったのか奇妙で、いやむしろ、同じ種類の団体が無数に存在しているのを想像させるが、慎重に考えなくちゃいけないのは、それらすべてを単純に同一視してはいけないことだが、「素人」にはわからないわけですよね、どれが、どう、あれと、なにが、どんなふうに、異なるか。たとえば「演劇」でもそうです。どんな集団も、「あいつらと、ひとくくりで、<演劇>とまとめないでくれ」と言うのではないか。当事者はそう考えつつ、けれど、世の中は「差異の反復」、そして人はものを認識するにあたって「あれは、なになにに、よく似ている」と、まずは似ているものとの比較で判断する。残されたのは「小さな差異」ばかりだ。現象のなかにくっきりと立ち上がる強い言葉はどのようにして出現するのだろうか。

■松尾スズキのメールを少し紹介。
 ところで僕も宮沢さんに会わぬまま中年になってしまったわけですが、自分のやっている表現というものが、どうやら「若者」むけであることにやっとじれったさを感じているのです。
 世間でいわゆる「大人な」表現にまだ足を突っ込む気になれないもんですから困ります。
 どうなんだろう。それはそれでいいのではないか。たとえ「若い観客」だとしても「松尾の表現」を理解できない人間はいるだろうし、中高年の観客でも理解してくれる人はおり、松尾君の表現を借りれば、「どうやら「若者」むけであることにやっとじれったさを感じているのです」などどうでもいいことではないか。僕だって表現の質はちがっても、年齢に関係なく評価してくれる人はたしかに存在する。唐十郎さんを見てみたまえ。いまだにものすごくくだらないことをしている。あるいは、桑原茂一さんの主催した「
TALK dictionary deluxe」は、むろん大人の観客向けの部分もあったが、クラブシーンをリードする茂一さんの活動は、あきらかに「若者向け」だがそこに細野晴臣さんもおり、そうして大人がいることがイヴェントの深みを増しているように感じた。
 ほかに松尾は四〇代以降の表現者の「鬱」問題にも触れていたが、これはもう少し時間をかけて考えたい。というか、僕自身の問題でもあるのですね。なだいなださんのご著書を読ませていただくと、中高年になってからの「鬱」はある意味、必然的だと教えられ、鬱にならないほうがおかしいくらいだ。そして、ちょっと考え方を変えるだけでそれをべつの方向に、べつの力に変えることができると、なださんは書いている。
 ただ、表現者の誰もがそこで苦労する。それは必然だが、松尾君らしい大胆さでこの時期を乗り切ってほしいと思った。

■何日か前、眠る直前に、メールに返事を書かねばと思いたち、新潮社のN君、文學界のOさん、白水社の和久田君らに返事を送ったのだが、眠る直前のメールは危険であった。しかも僕は眠るための薬を飲んだあとだ。あとになって送信したメールを見たが、まあ、とんでもないことは書かれていなかったが、誤字は多い。おかしな変換になっている。あやうくとんでもないことを書いてしまうところだったと肝が冷えたのである。

(17:59 may.2 2003)