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富士日記

PAPERS

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菜の花
河津桜

Published: Feb. 16, 2003
Updated: Apr. 1, 2003
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  *遊園地再生事業団二年ぶりの新作『トーキョー・ボディ』公演、シアターテレビジョン放送。
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Mar.31 mon.  「神話的思考について」

■新宿のTSUTAYAで『ヒポクラテスたち』を借りようと思ったら、ビデオもDVDもみな貸し出し中だった。人間、考えることは同じである。で、三月が終わる。もう春である。また京都にゆく。京都で桜を見る。今年は、東京と京都を行ったり来たりだ。また疲れるにちがいないと思いつつ、黙々と。

■中沢新一さんの『人類最古の哲学』(講談社選書メチエ)は「神話学」の入門書としてものすごく面白い。
■大学の講義録をまとめたものだが、だからか、ある意味、エンターテーメントな部分もあり、それでいてこれまで中沢さんが書いてきた思想がしっかり押さえられている。考えてみれば、本書で、というか中沢さんが大きく依拠しているレヴィ・ストロースのたとえば『野生の思考』も大学の講義録がソースになっているのだから、講義録といってもレベルが低いわけではないのは当然だ。しかもライアル・ワトソンの『未知の贈りもの』などにあるような「ほんとうなのかそれは」と疑いたくなるような想像力もしばしば発揮されつつ、だが「神話」とそれを作った太古の人々の思考の深さを正当に評価し、畏怖し、尊敬し、そのことから示唆されることはとても大きい。
■人の思考する力は、太古からそれほど進歩しているわけではないのだった。むしろ退歩しているのではないかと思うのは「神話的思考」の持つ、自然や、死の領域を理解する能力、その想像力の深さに驚かされるからだ。むしろ、生と死といった、対立する概念や状態を切り離すのではなく、仲介する考え方、仲介するものを見つけだすことで、対立状態に通り道をつくり世界をもっと大きなものとして把握しようとつとめる。そうした「神話的思考」を様々な類例をあげて示してくれるが、なかでも、理解しやすい例として民話として残された「シンデレラ」の物語をあげ、「神話的思考」の大きさを語る部分の面白さはただごとならない。

■「神話」が、様々な地域、様々な世界で同じように語られていること、よく似た「神話」が遠く離れた地域に分布されていることは知られているが、「シンデレラ」の物語にも数多くの「異文」がある。一般的に知られているのは、シャルル・ペローの童話による『シンデレラ』だが、さらに大衆的なのはディズニーのアニメで、けれど、当然ながら現代に語られるシンデレラは、本来持っているはずの「神話的思考」が薄められた、ある意味、洗練されエンターテイメント化されたものの姿だ。つまり物語に漂う価値観そのものが西洋的な観念に歪曲されてゆく過程でもある。
■だって、よくよく考えてみると、パーティにやってくる美しい女性(シンデレラ)に心奪われる王子というやつの浅薄ぶりはいかがなものか。美人だったらいいのかよ。でも、まあ、気持ちはわからないではないし、人なんてそんなものだが、ばかはばかである。継母の虐待を看過しているシンデレラの父親もいったい、なにごとだ。なんとかしてやれよと言いたい。現在では「シンデレラ物語」といえば、「女」が、「王子様」とも呼ぶべき「男」と結婚することで、めでたしめでたしというサクセスストーリーだが、これはもっぱら西洋的価値観でしかなく、「神話的思考」のめまいがするほど長い一万年以上もの歴史からしたら、単なる流行思想ではないか。
■で、本書で教えられたことのひとつに、南方熊楠が中国の古い文献のなかから、やはり「シンデレラのお話」を発見していることだった。驚いた。すごい人だとは思っていたがそんなことまでしている。「シンデレラ」の原型は民話だが、こうして広く分布しているところをみると、もっと古くから語られていたのだろう「神話」が変化して遺された「物語」だったと想像できる。

■そしてなによりすごいのは、西洋的に語られた「シンデレラ物語」を聞いて、その浅薄さを自分たちの「神話的思考」によって批評し、新たな物語として作り直した北米インディアンのミクマク族だ。
 オンタリオ湖を中心とする五大湖周辺には、アルゴンキン諸族と呼ばれる人々がたくさん住んでいました。この中でもミクマク族は非常に有力な部族で、早い時期からフランス系カナディアンと積極的なつきあいをおこなっていました。そのためにおそらく一八世紀ぐらいから、彼らはシャルル・ペロー童話集の内容などもよく聞き知っていました。ミクマク族とフランス系カナディアンが、夜の焚き火を囲みながら、おたがいの知っている昔話を語りあっていた様子は、いろいろな記録に残されています。
 そのとき、インディアンたちはとくにシンデレラ物語に関心を持ったようです。シンデレラの話を聞いたミクマク・インディアンは、その話をおもしろいとも、また、くだらないとも馬鹿馬鹿しいとも思ったようです。言いたいことはよくわかるが、精神性が低いと思ったのです。彼らはじつに真摯な態度でシンデレラ物語のパロディをつくりました。いやパロディなどという言い方はふさわしくありません。彼らはそこでまったく新しいミクマク版のシンデレラを、ひとつの神話として創作しようとしました。
 で、このミクマク版シンデレラがすごい。本書ではシャルル・ペロー童話集のシンデレラはじめ、ドイツ民話を収集したイソップのシンデレラなど、いくつもの「シンデレラ物語」が収録されているが、それを読み進めたあとで「ミクマク版シンデレラ」を読むと、話にこめられた神話的思考のすごさ、精神性の高さに驚かされる。というか、読解する中沢さんの手つきもまたすごいわけだが。
 内容は本書にあたっていただきたい。様々なことを考えた。もちろん「神話的思考」という意味では、自分のしている作業を「精神性」という側面からあらためて見つめ直そうと考えたこともあるが、しばしば浅薄に使われる「パロディ」という言葉について厳密に考える必要を感じたとか、本書で検証されている「シンデレラ物語」を、ミクマク版シンデレラから遡行し、ディズニーのシンデレラに至るまでの過程に、「お話作り」の変遷、いわばメジャー化がいかになされているかを読むこともできる、あるいは、いまの戦争の背景にある思想の根源を「神話的思考」への西洋的資本主義による侵犯として見ることもできるなど、様々にある。
 太古からつづく「神話的思考」はかろうじて現在にも残っていることと同時に、「神話的思考」は「宗教」とも決定的に異なると中沢さんは本書に記して示唆的だが、かつて『ヒネミ』で僕は奇妙な「石」について書き、ことによると、無意識が作り出した「神話的思考」ではなかったかと思うものの、なぜあれが生まれたか思い出そうとするが自分でもよくわからない。そして、鈴木理策さんの写真集『KUMANO』や、中上健次の作品について考えてゆくこともまた、この文脈のなかで重要な意味を持っているだろうし、きのう書いた「二つの外部」の話もまた、ここへとつながる歴史的な流れのなかにあるにちがいない。
 ミクマク族がシンデレラの物語を新たに書き換えたように現在の「神話的なるもの」を書きたい。それを可能にしてくれるものがなにか、いつも探している。

■いまニューヨークにいるニブロールの矢内原さんからもメールがあり、「ニューヨーク事情」を伝えてくれた。それも紹介したいと思ったが、長くなるのでまたにする。

(16:44 apr.1 2003)



Mar.30 sun.  「ある俳優の死」

■『トーキョー・ボディ』に出ていた杉村(フライヤーのヌードのモデルになった人)からメールがあって、稽古中に話していた音楽をMDに録音して僕に渡すというのだが、その方法が、うちの近くの遊歩道にあるベンチの裏側に貼り付けてあるから探せというものだった。
■謎である。どうしてそんな方法で渡そうと思ったのか。
■たびたび書いているように、「神話」についていろいろ本を読んでいるところだったので、この「宝探し」とも呼ぶべき状況がなにやら神話的でもあって奇妙な気持ちになった。どうしたらいいのでしょうか。遊歩道は長いしベンチだっていくつもある。ホームレスの方々が寝ていたり、昼間は人が座っている。なぜなら、それはベンチだからだ。困った。謎だ。人に謎をかけてどうするつもりだ。

■このあいだ、オッホの黒川からメールがあって携帯の番号が変更になったことなど知らせてくれたが、伝言の最後で俳優の古尾谷雅人が自殺した話に触れており、「残念でなりません。宮沢さんはいかがでしょうか?」とあった。まず「自殺」が個人的にかなりこたえる話ではあったのだが、おそらく黒川とは異なった意味で「残念」だと感じ、それはこの国における俳優という存在の困難さを強く印象づけるできごとだったと同時に、ほぼ僕と同年代だった人の、死に至る苦悩はまたべつのことを思い起こさせるからだ。
■はじめて古尾谷雅人を知ったのは映画『ヒポクラテスたち』だった。もう20年以上も過去のことになる。とても魅力的な俳優だと思った。たとえば松田優作のような派手さはなかったが、長身のその人にはたしかな存在感があり、それでいて、80年前後の時代の「等身大のからだ」ともいうようなものを抱え、いわば、リアルな現在を象徴する者としてその人は出現したのではなかったか。
■雑誌『AERA』でその死が取り上げられており、記事のなかにある『ヒポクラテスたち』の監督、大森一樹さんの談話がそのあたりの事情を語っている。
『青春の蹉跌』のショーケンが挫折を知った全共闘世代の若者だとしたら、古尾谷君が演じたのは、70年代後半の「祭りのあと」の空疎な若者、自分をどこに置いていいか分からない、やり場のないエネルギーをみごとに表現してくれた。
 神代辰巳の『青春の蹉跌』、東陽一の『サード』、橋浦方人の『星空のマリオネット』、長谷川和彦の『青春の殺人者』、黒木和雄の『祭りの準備』など、20代前半に数多く観た「同世代の者らを描いた映画」(青春映画とも呼ばれた映画たち)のなかでも、作品的な質の問題はともかく、『ヒポクラテスたち』はまさに「あたりまえの現在」を描いてその視線の透明感が強く印象に残っているがおそらくそれを体現し象徴していたのは、古尾谷雅人という俳優だった。大森監督の言葉にもあるように、『青春の蹉跌』のショーケン=萩原健一、『サード』の永島敏行、『星空のマリオネット』の三浦洋一、『祭りの準備』の江藤潤らとは決定的に異なる資質を持っていた。
 自殺を伝える新聞の記事は「仕事は順調だった」とやけにそのことを強調するがそれがこの死とどんな関係があるだろう。大森監督の言う「70年代後半の『祭りのあと』の空疎な若者」の時代において『ヒポクラテスたち』は、薄ぼんやりした風景のなかにぽっかり陽のあたった場所があるような、不思議な明るい側面を持った作品だった。大森一樹の資質が見事に表現されていると感じ、そのことによって名作になったが、その「明るさ」から出現してしまった古尾谷には、よろこびの記憶としていつまでも逃れられないぬくもりのある場所が、あの映画だったのではないか。
 しばしば僕は稽古場で「よろこびの記憶の再現」について言葉にするが、その死は、「よろこび」を、やはり「形態」だけ再現しようとしたことの悲劇だ。
 それはそもそも無理だということが自覚できなかった。「形態」だけ再現しようとしても「よろこび」は生まれない。『AERA』の記事に、古尾谷は「20年後のヒボクラテスたち」をやろうと口にしていたとある。「形態」だけを再現しようとしてもそれは不可能だ。「よろこびの記憶」を再現するためには、いまの自分から出発しなくてはいけなかった。いま、いまの自分が、どのような方法で、「よろこびの記憶」を再現できるか。
 めったにテレビドラマを観ることはないのだが、たまに古尾谷雅人をテレビで目にすると、ずいぶん老けた印象を受けたが、それは自分もまたそれだけ年をとったのだと教えてくれる姿だ。どこかかげりを漂わせているようにも感じられ、それは「あの場所」にとらわれ、逃れられずにもがく暗さを示す表情だったと想像する。きっと僕にも「あの場所」がある。おそらく同世代の誰もがそれを感じているのではないか。そこから逃れつつ、「よろこびの記憶」を再現することで得られる躍動のためには、なにが必要か。

■このことを書くために、ATG映画についてネット上で資料を探したが、このページのデータに助けられた。とてもいいサイトだった。資料としても、読み物としてもとてもいい。ありがとうございました。

(21:50 mar.31 2003)



Mar.29 sat.  「KUMANO」

■このノートの日付がでたらめになってきて、毎日、一日ずれているのだが、驚くべきことに日付の記述がずれているだけではなく、記憶がずれている部分もあるのだった。金曜日(28日)に永井が来たことになっているが正確には土曜日だった。で、重複するようだが正確に書いておく。
■午後、永井が来る。次の公演について永井はいろいろ熱心に考えてくれるが、僕のほうがだめだ。ほんとうに申し訳ない。考えようとするとどうにも憂鬱になって困る。次の舞台をどうしたらいいか、なにをしたらいいか考えはじめると苦しいのだ。たとえば、リクエストも多い「砂漠監視隊」シリーズをやればある程度の成果があるのは経験でわかっているものの、それでいいのか、経験で出来てしまうような仕事に意味があるか。むろん、同じことをクオリティを下げずに続けられる人の仕事はすごいと思うが、僕にはどうも向いていない気がする。
■かといって、集団として作業をしない私は、基盤が脆弱なためになにかしようとしても条件がうまく整わない。つねに舞台ひとつひとつ、ほぼゼロから出発させることになる。『トーキョー・ボディ』はいいチームができたと思うが、あれは奇跡だったのではないか。いつだって綱渡りだ。体力的に、いや、もしかすると精神的にかもしれないが、いずれにしても、そういった「ちから」を保っていられるか、それがいちばん危ういところだ。
■永井に申し訳ないと思いつつ、きちんと返事ができない。次をどうするか。どうしたらいいか。

■以下、きのうのノートからの続き。
■鈴木理策さんの写真集『KUMANO』を見ながら中上健次のエッセイ「日本の二つの外部」を思い出したのは、中上健次が鈴木さんと同じ和歌山県新宮市の出身であること、中上文学にとって「熊野」が大きな意味をもっているからで、どうしたってそれを前提に、というか、意識せずに『KUMANO』を読むことができないからだ。むろん出身地が同じとはいえ二人の境遇はおそらく異なり、中上健次の特別な「からだ」は、「熊野」だけで語ることができない。
■「日本の二つの外部」というエッセイは、「帰郷中の熊野で天皇崩御を知り、早朝、起き出した父とともにぼうぜんとテレビに見入った」と書き出されている。昭和天皇が死んだことをテレビで知った父の涙について「天皇の時代を一個、一兵卒として背負った者の、自然の涙である」と書く中上は、さらに文学の問題として次のように言葉を続ける。長い引用になる。
 おそららくこの島国の内外で自然の涙は無数にわいたはずだ。この自然の涙を考えつめる事が、近代、現代文学の最重要課題であったと言える。中野重治の「村の家」を持ち出さずとも、天皇崩御の報に接した父の自然の涙は様々に形を変えてあらゆるものに浸透しているのが分かる。
 息子の私から言わせれば、父の自然の涙に感動し胸熱くなりながら、天皇という廃絶も放棄も出来ぬ御方をいただく日本という国で、言葉の専門家として、ある愉悦と苦痛に、ただ呻いている。というのは、私も父も被差別部落出身である。私たちは有形無形の差別を被り、目撃し、人権を侵害する事や醜い差別事象に生涯戦い続けるしか生きられないという宿命を刻印されている者らであるが、父に自然の涙を落とさせる天皇は、また自然のようにこの社会に存在する差別の最初の発信者でもあるからである。
 ただ、この発想は日本社会を天皇を頂点とする樹木状に描いての事で、樹木状の物を横に倒す発想に基づけば違ってくる。両横に位置し、社会をブックバインドのようにはさみ込む天皇と被差別部落は、さながら日本の社会の二つの外部の形を取る。
 ここでは、天皇が差別の発信地どころか、天皇もまた自然のように存在する差別を被る場所だという事になる。遊行の人や様々な被差別者が、流された天皇に出自を求めるのは、この縦の物を横にする発想からであろう。数多くある語り物文芸の発想も、私の書き続ける小説群の発想も、天皇と被差別部落(被差別民)は日本社会の二つの外部であるという発想に基づく。
 すべて引用したい誘惑にかられるがここで引用をやめる。全文にあたってほしい。『中上健次全集・第十五巻』に収められている。ただここで構造に対する発想を劇的に転換させることで中上が語ろうとするのは、同じ外部という存在によってより強く自分を「何者か」と認識する過程だ。父の涙を目のあたりにしつつ、その意味を問うと同時に、「天皇は言葉である」と中上は書き、そして「文化の文脈では、天皇の崩御には、言葉をもって答えるしかないと思う」と文学者の宣言ともいうべき言葉に続いてさらに書いた。
 ただどのような挽歌が可能なのか、どのような物語が可能なのかと想う。
 これはおそらく「昭和天皇の死」を前にした単純な戸惑いではない。だから次のような言葉で文章を終え、また異なる文学へのべつの可能性を探る作家の、思考を続ける真摯な態度だ。
 挽歌を歌うにも、物語を語るにも、すべてを言葉によって顕かにするという精神がいる。言葉が天皇のものなら、言葉はいつも外部から来る。
「言葉」が「天皇」のものなら、「風景」もまた「天皇」のものかもしれないという問いかけと視線が『KUMANO』にはある。写真家としてその問いに迫ろうとする試みだ。そのことによって「イメージの深層ともいうべき場所から呼びかける声」ときのう書いたそれが生まれてくるのではないか。それに強く惹かれた。そして同時に、単なるイメージの世界だけではなく「人の問題」を考えるうえで重要なメッセージが内包された世界観であり、哲学だ。単純な政治的な言説ではけっしてないのであり、たとえ「天皇という廃絶も放棄も出来ぬ御方をいただく日本という国」と書かれていたにしても、三島文学に接するのと同様、過去の政治言語で語られるような「政治的立場」などここではまったく意味をなさない。
 複雑な世界、錯綜して混沌とした「人」という存在を「言葉」や「写真」によって語りだそうとする試みだ。このことをもう少し考える。それはおそらく、「神話世界の思考」につながる文脈になるだろう。この項、続く。かもしれない。

(1:55 mar.31 2003)



Mar.28 fri.  「だだをこねる子ども、さらに解体社」

■補足して「劇団・解体社」の舞台について書くのは、言葉足らずで誤解されるだろうと思ったからだ。
■けっして否定をしたわけではない。「刺激的ななにか」「喚起されるもの」が薄いと書きはしたが、それがなぜかを考え、考える過程で促されるものがいくつも部分としてあったのを思い出す。たとえば、丈の短いワンピースを着た女性が後ろ手に手錠で拘束されそのまま床を転げる姿は単純な言葉にすればセクシーだったが、「拘束された身体」であるのと同時に、やはり「あらがう身体」であり、けれどその「あらがい」は文字通り空転しているように見えてならなかった。「あらがいたい意識」ばかり先行するが、あらがう対象、あらがう相手を見つけだせずに、いわば、なにが不満かわからない「だだをこねる子ども」に姿を変え、セクシーな女性の「からだ」というより、幼児性の高い「からだ」が新たに出現することでべつの意味がそこから生まれる。
■「だだをこねる子ども」はむろん比喩だが、ことによったら本質的なものではないかと思えてならず、だからこそ「状況」の隠喩になってはいないか。いまの。いまのからだの。あるいは「だだをこねる子ども」と言葉にすることでもっと深い神話性すら生まれてくるように思える。創作という作業を通じて「人の問題」を考えるなかから出現した、もっと遠い場所からの問いかけだ。

■鈴木理策さんの写真集『KUMANO』が届いた。
■すごい写真集だった。ちょうど「神話」に関する本を読んでいたところだったので「神話性」によって喚起されるものが写真それぞれに散りばめられていると感じた。最初のページには「皇居」に集う人々の姿が背後から撮影された写真があり、遠くに天皇家の人々の姿が見えはするものの、なにより印象に残るのは打ち振られたのだろういくつもの「日の丸」の小旗だ。「日の丸」がデザイン化されたように並ぶ。むろん、そこから様々な政治的メッセージを思い浮かべもするが、それ以上にイメージの深層ともいうべき場所から呼びかける声が聞こえる気がしてひどく戸惑い、「参賀」という行事をいつもなら政治的に否定するだろう自分のなかに、その写真を通じて生まれてくるものの姿がうまくつかめない。写真家は旅をする。「皇居」から自分の生まれ故郷である「熊野」へ、カメラは移動し、その移動が写真として記録されるうち、さらに呼びかける声は大きくなってゆくと感じた。中上健次が昭和天皇が死んだおり新聞に発表した文章のことを思い出さずにいられない。
■それをここで引用し、論を進めるべきだが、ちょっと疲れた。この項、次回につづく。

(2:58 mar.30 2003)



Mar.27 thurs.  「3月20日という日」

■あまり「偶然」に縛られないようにとあえて書かなかったが、3月20日、イラクに対する米英の戦闘開始の日は、オウム真理教による地下鉄サリン事件からちょうど8年目の日でもあった。もう事件のことなど誰も語ることはなく「8年目」という新聞の記事も片隅に追いやられ戦争報道が大きく紙面を覆っていた。麻原の裁判もニュースになったがそれほど大きな扱いではなかったし、目の前に出現した戦争が人の眼を奪う。
■むろん刑事裁判はなおも係争中だが、それとはべつの意味で社会的にすでに事件は清算されてしまったかに見える。狂信的な集団による茶番と簡単に片づける問題に過ぎなかったのか。考えるべき「なにか」などなにも残さなかったのか。この数年、連合赤軍事件を題材にした映画がいくつか作られたがなぜいまあの事件かという疑問がなかったわけではないものの、深部に通底するオウムとの様々な種類の共通項は、「いま」の問題、というかもっと普遍性を持った「人の問題」だと僕には感じる。
■「小説ノート」でしようとしているのはそれを書こうとする作業だ。もっと考えることがあるはずだ、「人の問題」。考える。書くことを通じてようやくそこにちかづくことができるのではないかと期待しつつ。

■オーストラリア大使館の中庭など建物の内部構造をうまく活用する解体社の公演を観ながら、この「身体の劇」はそのこと、いま「人の問題」をどうとらえるか、からだを通じて思考する作業をしているように思えた。意味を強制することのない劇の方法は、だからこそ、観る側のイメージを増幅させ、むしろ「妄想」させる。もちろん意味を読もうと試みれば「拘束されたからだ」による強度な政治性を感じさせはするが、するとあまりに記号的に処理された表現に収斂されてしまい、言葉として適切ではないが「つまらない」ことになってしまう。いや、「つまらない」のならそれはそれでいいのだし、意図された「つまらなさ」はいまではむしろ政治的だ。
■またべつの位置に視点を置けば、ここにあるのは、「あらがう身体」に見える。なんに対してあらがうか、抵抗するか、やはり観る側に読みをゆだねる。
■正直なことを書くともっと刺激されるもの、喚起されるものがあると期待していた。それが薄いと感じたのはオーストラリア大使館の庭園が美しすぎるからだと家に帰ってから考えた。美学的にきれいにまとめられた印象がぬぐえない。おそらくそれは人工的な美によって造園された空間に「からだ」がとりこまれてしまったことによるのではないか。まあ、なんていうか、大使館だからってこんなきれいな庭なんか作りやがってという気分がなかったわけではないわけで、腹がたつよ、これがまったくもう、戦争に軍を送っている国がさあ。「あらがう身体」はあらがうことによって熱量や強度を生み出すはずだが、それもまた美しいものにさせられるおそれがあるから、現在というやつは油断がならない。「あらがう対象」ともいうべきものが不透明だからだ。制度がきちっと整えられていない時代に「あらがう気分」もまたコードになってしまったらつまらない。むしろ、「劇は面白くなくちゃいけない」というやつがコードかもしれないので、「面白くなくちゃいけないという制度にあらがって面白くないものをやろうとするとほんとに面白くない」といったことになって、多くの作り手はただ戸惑っている。戸惑いのない無自覚な作り手こそが幸福な時代でもある。
■だから僕は妄想していた。様々なことを妄想していた。妄想させる劇だった。

■家に戻ると『一冊の本』が届いていた。
■高平哲郎さんの「ぼくたちの七〇年代」を読むと、いまでも続いているテレビの「仮装大賞」の第一回放送について書かれおり、そこにはこうあった。
 素人出演者の中で、ぼくの前歴を知っている男がいた。その男は本番前に、ぼくを探して「『みんな不良少年』読みました」と言ってくれたのだ。武蔵野美術大学のこの学生は予選の段階で落とされるはずだった。ネタが仮装ではなかったからだ。番号を呼ばれた男は『太陽にほえろ』の松田優作を演じた。
 一部まちがいがある。「武蔵野美術大学」ではなく「多摩美術大学」だ。といってもまあ、どっちでもいいような気もするし、たいしたことではない。ただ次の部分は僕の記憶と異なっているのが気になった。
 番組終了後、男がメモを持ってぼくを訪ねてきた。
「高平さん、連絡先を教えてください。これがぼくの連絡先です。電話は呼び出しなんですけど、すぐ通じますから」
 メモには竹中直人とあった。すでに午前零時を越え、八〇年代になっていた。
 竹中に付き添って何人かの友だちと一緒に僕も第一回仮装大賞が公開された新宿コマに行ったので覚えているが、番組が終わってから友だち数人とコマの前にいるところに、高平さんが来たのではなかったか。それで高平さんが竹中に名刺を渡し連絡先を聞いていたと記憶する。もう20年以上も前の話だけにどうでもいいのだが、そうやって八〇年代がはじまったのかと思うといまではひどく不思議だ。
 その文章の中でも一部触れられているが、その数年後、景山民夫さんが『宝島』誌上で高平さんへの個人攻撃をはじめ、それに高田文夫や源高志らが同調するという事件があった。傍観者としてわりと近い距離で見ていたが、「高平はつまらない」と書く景山さんらが、じゃあ面白いのかといったらけっしてそんなことはない。当時、かなり生意気だった僕の目から見るとひどくつまらない人たちだった。くだらないなあと思っていたのだ。その状況全体が。

■筑摩書房のPR誌「ちくま」が届いていたのでどうしたのかと思ったら巻末の「読者のひろば」で『牛乳の作法』が取り上げられており丁寧に読んでくれたのだろう感想がうれしかった。
■オーストラリア大使館の庭園の桜はわずかだが花が開いていた。それで思い出すのは、去年の3月21日だ。あの日、集合場所になっていた四谷の土手は桜が満開だった。「サーチエンジン・システムクラッシュ・ツアー」。みんなで池袋を歩いた。へとへとになりながらあの距離を歩いたのだった。今年のことを考えると、あれは奇跡だったな、あの桜は。とてつもなく気持ちのいい日だった。
■あと、このところCNNのニュースサイトを見る機会が多いがメインのニュースではなく「こぼれ話」のページが面白いことに気がついた。たとえばこんなニュース。冷蔵庫の中に犯人が隠れていたというニュースだがアメリカの冷蔵庫はでかいんだろうな。どういうことになっているのかね、あの国は。

(20:07 mar.28 2003)



Mar.25 tue.  「曖昧な醒めた目つきというスタイルの欺瞞について」

■マイケル・ムーアについて何人もの方からメールをいただいた。
■アカデミー賞受賞式でのスピーチ(英文)が掲載されていることも教えてもらったが、きのうこのノートをアップしたあとニュースで僕もマイケル・ムーアのスピーチを見た。すごかった。やってくれた。その後のインタビューでムーアは、「こうして自由にものを言えるのがアメリカのいいところだ」という意味の答えをしていた。まったくそうだが、同時にそれを作っているのはマイケル・ムーアをはじめとする自由に発言する者たちの存在そのものではないか。あと勇気。タフさに驚かされる。
■簡単に自主規制してしまうこの国のメディアとはおおちがいだ。

■この国では自分の周囲半径五メートルぐらいしか人は興味がないようで、「戦争」よりこの時期はもっぱら「花粉症」のことが問題になっている。たしかにそれは前提だ。まずは自分の身辺が問題であって、遠くで起こっている「悲劇」はしょせん「人ごと」に過ぎないといった「考え方」は100年くらい前からくりかえし語られ、遠くの「悲劇」に対する「同情」は嘘であるという言説もまた、いまでは凡庸な意見でしかない。だってそれは当然なんだから。
■ところが奇妙なのは、9・11同時多発テロをテレビで目撃し「まるで映画みたいだ」と「人ごと」として見ていた者が、たとえば「らち問題」に過剰に反応することで、とんだところで馬脚をあらわした。「人ごと」だろ、あれもまた、歌舞伎町雑居ビル火災で多数の死者が出ようと「人ごと」だと感じ、面白がって「鬼畜」と名乗っていきがるのと同様に。「人ごと」だったら、拉致された蓮池薫さんが、なぜか21世紀枠で甲子園に出場してしまった母校の応援のためにスタンドにいるという絵に描いたようなプロパガンダを、「たまちゃんを見守る会」と同様に笑わなくてはいけない。
■これを単純な「感情論」として片づけてしまっていいかどうか。情緒に流されず安易な「同情」に組みすることなく「人ごと」ととして客観的にものごとを見るためにはただごとならぬ「対象化する強靱な意識の強さ」を示さねばならず、「9・11」を人ごとと見ていながら「らち問題」に過剰に反応してしまう「気分」の曖昧さは単なるばかである。だから坂口安吾は偉大だった。『堕落論』『日本文化私観』における唯物論的視線はただごとならぬ醒めた目つきだ。
■おそらく、イラク戦争は「自分の周囲半径五メートルぐらい」の場所で発生している。「半径5メートルの地盤」はイラクとつながっている。戦争がいやなのはつまり「自分の周囲半径五メートルぐらい」の範囲で発生しているできごとだからだ。情緒ではないよ。戦争によって死んでゆく子どもらへの同情だけでもありえない。「いま、ここ」の出来事だからこそ問題にしている。というか、9・11以降、一連のできごとはすべて「自分の周囲半径五メートルぐらい」の範囲で発生している。

■劇団解体社の方から公演への招待がメールで届く。上演する内容ももちろん興味があったが、公演場所が、オーストラリア大使館のなかで、イラク戦争に参戦しているオーストラリアの大使館だけに当日の入場には写真付き身分証明書と連絡先の提示が義務づけられているとのこと。テロ対策か。行かなければならない。厳重な警戒態勢のなかの公演。それだけでも見る価値がある。
■やるなあ、解体社。これには参った。

(3:35 mar.26 2003)



Mar.24 mon.  「戦争への想像力」

■茫然として、ものを書く気にならなかった。
■開戦直後、ラムズヘルドのうすら笑いがいやだったよ。
■映像として伝えられるものが多いからこそ、伝えられない戦争に想像力を働かせる。カメラの位置に注意深く。カメラのフレームの外側になにが存在しているか。

■戦争になればアメリカが勝つに決まっていると誰もが知っていながら次々と報道される戦況を人は知ろうとする。結末のわかっているドラマをあらためてなぞるのによく似ている。なにを見せようとしているのだろう。これほどまで報道機関を招き入れる「戦争」が意味しているもののことが気になる。
■むろん、結末がわかっている「お話」だったとしても人はくりかえしそれを楽しむことがあり、「芸能」はたいていそうして成立している。「くりかえし」を享受する快楽。「語り口」のうまさと、テクニックを楽しむ。情報をうまく操作する米軍の「語り口」は湾岸戦争からさらに進化した。うまいことを言うねえと思ったのは、最初のミサイルがフセインがいるだろう位置を特定してなされたのは「人的情報」が大きな根拠になったと言葉にされたが、それはつまり「スパイ」ってことだろ。けっして「スパイ」と言葉にしないのは「正義の軍隊」に「スパイ」がいちゃいけないからだろう。表舞台に出てこないCIA。あなたの近くにも公安はいますよ。もちろん、テロリストもいる。
■その後も続く、アメリカ側、イラク側、双方からの情報はこれこそ「戦争」を象徴して気味が悪い。いまこそテレビを消す。チャンネルを換える。そう思っていたらNHKがテレビ放送開始50年と誇らしげに語り、何人かのパネリストによるシンポジュウムのような番組をやっていた。すごくつまらない。そんなにうれしいかよ、テレビ50年。テレビを決して否定しないがハードテクノロジーの進化ばかりでテレビという「メディアの本質」はちっとも語られず、得々と語られるのは新たな「プロジェクトX」だ。「デジタル地上波」の話なんかべつに興味はないのだ。いままさにメディアの本質が問われるているときになにごとだこのばかばかしさは。

■数日前のNews23に出演していた姜尚中さんの発言でひどく驚かされた部分があってそこに引きつけられた。いま問題になっているブッシュに知恵を与えている「新保守主義者」たち、いわゆる「ネオコン」のなかに、かつて「世界同時革命」を夢想していたある種類の元左翼がいるということだ。かつて左翼で現在は自民党の議員になっている者がいるのもよく知られているが、アメリカによる帝国的世界支配に「世界同時革命」をイメージする者がいるとしたらとんでもない妄想だ。気が狂っている。
■あるいは、グローバリズムに対抗するのはナショナリズムではないという話に共感した。経済・金融が主導しているグローバリズムが文化にも波及するのをくいとめ、それとは異なる種類のグローバリズムを対置する。いわばオルタナティブ・グローバリズム。そのためのインターネット。
■世の中、悪い話ばかりではなく、『ボウリング・フォー・コロンバイン』がアカデミー賞のドキュメンタリー部門で受賞した。晴れ晴れとした気分。いいぞ、マイケル・ムーア。アカデミー賞なんてどうでもいいと思っていたが少し見直した。辛辣に戦争批判をするムーアは受賞会場でスピーチしたのだろうか。それが聞きたい。

■花粉やミルクで作品を作ることで知られるヴォルフガング・ライプと写真家の鈴木理策さんの対談が『美術手帖』にあった。鈴木理策さんという方を僕はほとんど知らないが、ただこの名前の文字面をどこかで見た記憶がある。思い出したのは『トーキョー・ボディ』でいくつも受けた取材のとき写真を撮ってくれたカメラマンの方の中にたしかこういう名前の人がいたのではないかということだった。
■一連の取材のなか、印象に残ったカメラマンがふたりいて、そのうちのひとり。対談に添えられている鈴木理策さんを撮った写真で思い出した。特に印象に残った人だ。不思議なたたずまいの人でいやでも印象に残る。和歌山県新宮市出身とのこと。写真が見たい。写真集『KUMANO』はすでに絶版になっているのでネット上の古書店に注文した。
■あと、全然関係ない話だが、以前、桑原茂一さんと対談したときにそのあとの感想で、「笑いは手段ではなく目的」と書いたが、ふと思ったのは、「笑い」はそれ自体が「思想」だということで、「表現された内容」ではなく、「どう表現するか」に思想が出現するとするならば、ある「こと」を、「悲劇」として表現するか、「喜劇」として表現するかにもまた「思想」が出現するのだし、さらに考えれば「笑い」もまた、どう表現するかという方法のなかにこそ「思想」がある。
■「笑い」を使って「なに」を表現するかは二次的な話だった。
■「喜劇として表現する」「笑いとして表現する」ことを無条件に否定する者の大半はばかであると私は考えるが、というのも、連中は「なにも考えていない」からだし、「笑い」について「なんにもわかっちゃいない」からだが、「笑い」をやってりゃいいってもんでもないのは、ある笑いの劇団の女優が、ディズニーの『リロ&スティッチ』のCMで感動的に語り出したり、ドラえもんの「風子」の話に泣いているCMをやっていたりと、おまえらばかじゃねえのかと、劇団を主宰しているT氏にかつてさんざんぱら「私の笑い」を批判された者としては思うのである。でもまあ、だったら俺より面白いこと考えろよと当時から思っていましたが。で、結局、上記のようなCM。ばかばかしい。

■そんなわけで淡々と勉強をするしかないのである。小説を書くのである。遠い国の戦争に想像力を働かせ、それが背後にあることをつねに意識しつつ。

(22:16 mar.24 2003)



Mar.19 wed.  「遅刻の誕生」

■午後、青山ブックセンター本店へ。
■ある本を棚に見つけ、買おうかどうしようかとても悩んだ。『遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成 』である。まず書名がいい。『遅刻の誕生』。以前から近代社会の時間意識、たとえば、「八時間労働」「八時間睡眠」「食事休憩は一時間」といったことに疑問を持っている私は、とくに「八時間睡眠」がなにか間違っているのではないかと思い、すすんでそうしようとする主義ではないが一日に短い時間を三回眠るということを実践している。いや、実践なんて大げさなものじゃなく眠くなるから眠るのだった。なぜ「八時間」か。なぜ「八」か。ひどく奇妙に思っていたのであり、産業革命以降の「労働効率の向上」という思想のなかで生まれたのではないかと疑っており、そうした疑問に答えてくれる研究はどこかでなされていないか探しているときに見つけたから、なおさら興味深い。
■疑問に答えてくれそうな気がする。むろん生理的に、あるいは、医学的に「八時間睡眠」が人にとって正しいとされていたとしても、人間、「眠くなったら寝る」というのが本来の姿だと私は確信しており、「医学的立証」がそもそもよって立つのは、近代の「合理的生産様式」ではないか、「合理的生産様式」において睡眠の正しいあり方だということになっている枠の内側にあるのではないかと考えていたのだ。
■だから注目すべき本だ。だけど買わなかったのは、ほかに読みたい本がいろいろあったからで、つまり、「睡眠」より「創作」ということになってしまったのだった。でもいつか読む。買っておくべきだったか。買おうと思っていた本はすぐに書店の棚から消える。

■で、何冊かの本を買う。あと『美術手帖』。特集が「森山大道」と「中平卓馬」という二人の写真家だ。サブタイトルに「格闘写真史」とある。いやがうえにも読みたくなるのであって、それは「創作」に直結している。
■しかしどうなんでしょうか。「人のことを考える」とか、「他者を理解する」「表現について考える」「テーマが生まれるのを待つ」ことは、べつに書物の中に答えがあるとは思えないばかりか、映画にしろ、ダンス、演劇といった「表現されたもの」に限られるわけではないし、むしろその割合は、現実に触れること、現実を見ることに比べたらたいしたことじゃないのではないか。
■たとえば、アフガニスタンに行くこと、イラクに行くこと、そこに生きる人たちと接し、この目で、なにかを目撃するほうがずっと意味があるにちがいない。べつの棚にアフガンの子どもたちが数多く載っている写真集があった。イラクでまた子どもたちが危機にさらされる。いやな気持ちにさせられるのだ。でも無力。「たまちゃんを見守る会」と同じレベルで「見守る」わけではないけれど、それにしたって、爆撃はすでにはじまろうとしており、その下には自分の身を守ることすらできない貧困層の子どもたちがきっといる。ほんとうに無力。

■きのう内田百間(ほんとうは門構えに月)の言葉を書いたらMさんという方から「私は、内田百間が賞を断った時の『いやだから、いやだ』が、世の中で最も好きな言葉です」というメールをもらった。ありましたね。それもすごくいい。百間らしい。ただ正確には「芸術院会員」に推薦されたときの言葉です。しかも、「いやだから、いやだ」と言っているわけでもないのですね。芸術院会員辞退の理由をメモとして百間は問答形式でこう書いている。
御辞退申シタイ
  ナゼカ
藝術院ト云フ會ニ這入ルノガイヤナノデス
  ナゼイヤカ
気ガ進マナイカラ
  ナゼキガススマナイノカ
イヤダカラ
 これはもう、子どもの言いぐさである。戦争はいやだ。なぜいやなのか。いやだから。いやだから、いやだ。

■ある大学から知らせがあり、坪内逍遙について講義をしてくれないかという依頼。その大学で「坪内逍遙」についてこんな私が話をするのはいかがなものかと思った。逍遙ゆかりの大学である。研究者がいっぱいいるだろうにと思った。ほかには世田谷文学館というところで五月に講演をする。こういうものは、続くときはなぜか連続するものなのだった。
■ふと、ある外国の島に行ったとき、朝、スピーカーから流されるコーランの声で目を覚ましたのを思い出した。

(7:12 mar.20 2003)



Mar.18 tue.  「学芸大学前へ」

■ふと、「たまちゃんを想う会を想う会」を作ろうかと考えた。
■だけど戦争。無力である。
■夜、東急東横線・学芸大学にあるニブロールのショップに行く。ショップというのか、ニブロールのオフィスってことになるのか、矢内原さんの弟さんがデザインした服のブランドのショップだ。まだ桜は咲いていないと思うが「花見」だという。まあ、パーティってことだと思う。
■かなり以前、隣の駅の祐天寺に住んでいたのでこのあたりは詳しいつもりだったが道に迷った。住宅街のなかにあるショップを見つけるのに一時間ぐらい迷ったのではないか。歩いた。電話番号を控えてあったが、控えるとき書き間違えたのか、つながらない。住所だけを頼りに歩くとそこは懐かしい道だった。祐天寺の家から学芸大学の商店街まで、かつてそこらあたりをどれだけ歩いたことか。
■ようやくたどりついたのは、もう七時半になっていただろう。住宅街のなかの一軒家を改装して作った店で、小さいけれど、とてもいい感じの空間だ。こういう事務所が持てたらいい。いろいろな人が自由に出入りできる空間があってそこからなにかはじまるような場所。ただ人と会うのが嫌いではないと思うがどうも僕は「得意ではない」らしいので、こういう空間を作っても面倒になってめったに顔を出さないのではないか。そしてその場所には次のようなことを書いた張り紙をするだろう。
世の中に人の来るこそうるさけれ、とはいうもののお前のことではなし。
世の中に人の来るこそ嬉しけれ、とはいうもののお前のことではなし。
 内田百間が書き残したとても好きな言葉である。

■矢内原さんや、その弟さんら、数人がいて、その後、関や、小浜たちも来る。ニブロールのダンサーたち。矢内原さんは20日からニューヨークに行くということでとんでもない時期に行くことになったが、だからこそしっかりした目であの国のことを見てほしいと思った。
■弟さんとはこれまであまり話をしたことがなかったが、印象として、なんというか、とにかくでかい。でも面白い。ショップを維持してゆくのが大変だと話し、なんでもいいから仕事をするとずっと言っていた。はじめて会う人たちとも話をした。矢内原さんがかつて映画の学校に通っていたこともあり、当時の友だちなのか、映像関係の人が多い。BOX東中野がなくなる話などする。その後、またも三坂登場。しかもベトナム人になっていた。まあ、そういった衣装ということですが。
■終電がなくなるからと矢内原さんは帰っていったのだが、それを見送るのも妙な感じで、その後も、弟さんやベトナム人、知らない方たちと話をする。こんなことも舞台のあるとき以外ではめったにない。

■それはそうとCDデッキが調子悪かったのだが、気がついたのはDVDはCDも再生できるということだ。すこぶる調子がいい。音がいいといろいろ聞きたくなるものでテレビ版の『14歳の国』の音楽をスチャダラパーのシンコ君が担当してくれたのを思い出しスチャダラパーを聞けば、『今夜はブギーバック』であの舞台を思い出してしまったわけで、贅沢だったのは毎日、稽古場で彼らのラップを聴けたことだが、あれももう、七年も前のことになる。時間が過ぎてゆくのはとても早い。

(14:02 mar.19 2003)



Mar.17 mon.  「テーマとコンセプト」

■一昨年の夏、関西ワークショップをやったのは扇町ミュージアムスクエア(以下、OMS)だった。一度だったか舞台を観たことがあったけれど、場所自体にさほど縁がないものの、OMSのYさんからメールをいただいたりいろいろお世話をしてもらったので、まんざら関わりがないわけではない。
■もちろん、東京には様々な施設やスペースがあるけれど、OMSはそれらとも性質が異なる空間だった印象がある。それが閉鎖されてしまったのは関西にとってかなり大きな意味のある事件で、かつて大阪に「プレイガイドジャーナル」(以下、プガジャ)という雑誌があってあれがなくなったときのことを思い出した。プガジャは東京の書店にも置いてあり関西地区の情報を主に扱っていたにもかかわらずいつも買っていた。情報だけではなく、コラムや批評めいた文章、その他、読むべきものがいろいろあったからだ。かつて東京にあった「シティー・ロード」にも少し似ているが、もっと濃かったな中身が。
■噂では知っていたけれど、そのOMSがきのう閉館したことを寝屋川のYさんの日記で読み実感する。たしかに建物が老朽化していたのだろうがだからってこの閉鎖は単なる建物を壊すのとは意味がまったく異なる。形にならないものを閉じてしまうことだ。僕はほとんど東京でしか活動していないので、くり返すようだがOMSへの思い入れはないとはいえ、それは「躓きの石」とでもいうものですよ。この国のどこかで発生した出来事はもっと深い場所を通じて身近な場所まできっと響いてくる。

■ふと思ったこと。
■「テーマは探すものではない」とタルコフスキーが言い、「戯曲セミナー」でその話をしたとき、「戯曲を書いてゆくと講師からこの作品のテーマはなんだと問われるがどう答えたらいいかわからない」という質問が出たことはすでに書いた。言葉にできるようなテーマなど「表現するに値しない」と僕は思ったわけだが、ここで講師が言う「テーマ」とは、「コンセプト」のことではないか。タルコフスキーが問題にしている「テーマ」とは異なるものだ。
■というのも、OMSを運営している企業が建物の老朽化を理由に閉館したことを考えると、ではOMSを文化としての側面からどういった「テーマ」で運営していたかが気になり、「建物」を壊すのではなく、形にならないものを閉ざすものだとしたら、「テーマ」もなにもなかったのかこの企業はと憤りさえするものの、その場合、「テーマ」ではなく、「コンセプト」なのだろうと考えられ、「コンセプト」と言葉を置き換えるとそこには「企業の論理」が入りこむのも必然だと思え、単純に言葉にすれば「採算性」「経済性」がどうしたって問題になるのだし、大げさに言えば、戦争にもつながっている。
■タルコフスキーの語った「テーマ」はそのようなものとは無縁である。
■むろんここでいう「コンセプト」は、現代美術などにおける「コンセプチャルアート」の「コンセプト」とは異なる言葉で、いわば広告代理店あたりの人間が口にしそうな言葉としての「コンセプト」だ。なんか八〇年代を思い出す。なつかしいあの時代の言葉。あの時代の言説。流行思想。
■そして、「テーマはなんだ?」と問う講師(おそらく劇作家)にとって、そう質問した時点で劇を作る上で大きな意味を占めるのは「コンセプト」であり、「劇を書くこと」における「コンセプト」に「企業の論理」とよく似たものが入りこんでいるのをいやでも感じる。おそらく職業的劇作家にはそれが大切だろう。それを含めて「うまい」としか言いようがない劇作をしばしば見る。いやだよ俺は、そんなものは。劇作にしろ、小説にしろ、腕を磨いてもっとうまくなってやろうとは思うけれど「コンセプト」でもってものを作るプロになりたくはないのであって、腕を磨いた末になんだこれはという作品が書きたいのだ。
■そして、その仕組みが解けると、タルコフスキーの言う「テーマ」もよくわからる気がし「生まれてくるテーマ」はよりいっそう重要だと思えた。「コンセプト」ではなく、「生まれてくるテーマ」だ。それを生み出す自分の「からだ」だ。

■そのための日々のトレーニング。
■そうは思いつつなにもしない日々である。「腕を磨くこと」は可能かもしれないがそれ以上の場所までどうやって向かうか。なにしろわからない場所ですよそこは。

(7:03 mar.18 2003)