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富士日記

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京都の夏
東京の夏

Published: Feb. 21, 2003
Updated: Aug. 1, 2003
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Jul.31 thurs.  「また京都へ」

■29日付けのノートに書いたことに付随してというか、その後思いついたことをさらに書けば、吉本隆明の悲劇とは「六八革命」と無縁な時代、というか「六八革命」など思いもよらなかった時代に「六八革命」的な思想の実践をしてしまったことにあることだ。『革命的な、あまりに革命的な』ではしばしば吉本の「論理の杜撰さ」をたとえば花田清輝との論争をとりあげ例証され、いまでは思想界においてそれは半ば常識になっているが、「杜撰さ」とは、やはり29日付けのノートに書いた「六八革命」における「ならずものの革命」「革命の祝祭的な享楽」を吉本隆明が先駆的に実践してしまったことを意味する。しかし「六八革命以前」の思想の文脈においてあとづけ的に考えると、吉本論理が生真面目に、あるいは攻撃性を持った斬新な思想として受け止められたことが吉本隆明の意義というか、面目であるとすれなら、はなから吉本もまた、「論理の杜撰さ」、いわば「ならずもの的な祝祭的享楽としての革命思想」を「六八革命」を先駆するように確信犯的に実践してしまったことを意味するだろう。糸圭秀美(=スガヒデミ)は『急進的プチブル宣言』(ごめん、いま京都にいて書名がこれで正しかったか曖昧)の序論に急進的プチブル知識人の定義の核心として「言説に責任を持たない」といった意味のことを上げているのを読めばよくわかる。
■あと、「世界革命は、これまで二度あっただけである。一度は一九八四年に起こっている。二度目は一九六八年である」とあるウォーラーステインの引用はどう考えても、「世界革命は、これまで二度あっただけである。一度は一八四八年に起こっている。二度目は一九六八年である」だった。つまり、「一度は一九八四年」が「一度は一八四八年」の誤り。私の単純な引用のまちがえ。それに伴い少し加筆訂正。ともかく、二九日付のノートにはっきり書かなかったが、『革命的な、あまりに革命的な』はものすごく面白い。
■で、それはともかく、私はまた京都に来ている。ちょっともう飽きたよ。八月一日、二日と大学の「オープンキャンパス」がある。で、もう一泊してびあ湖ホールで「ダムタイプ」を観ることにした。この秋は、ピナ・バウシュをはじめ外国のダンスカンパニーの公演が目白押しだ。しかしそんなことよりいま私は、『資本論を読む』の原稿がせっぱつまっているのだ。

(3:41 aug.1 2003)



Jul.29 tue.  「革命的な、あまりに革命的な」

■Yから借りた学生のダンス発表公演のビデオのことはすでに書いたが、あれから東京に戻ってあらためて観ると、静岡で観たのとはほかに、さらにべつの発表公演のぶんも入っているのに気がついた。Eという学生のダンスがことのほかよかった。からだのキレのようなものがほかの学生とはまるで異なる。で、今年四月に大学に行くとEが大学を中退しいまは京都で工芸のようなものを学ぶ学校に行っているという話を聞いた。単純にもったいないと感じたがそれにはEなりの考えがあったのだろう。ビデオを観てこれからもさらに踊ってほしいと思った。なんというんでしょうか、からだから発する表現する力の強さが観る者をひきつける。ダンスでも演劇でもそうだが、表現をつづけてゆくのは困難なことが多く、簡単に続けろよと無責任には言えないが、持続してゆくことはなんらかの形でできるのではないか、いや、続けてほしいとただそう願う。
■先週の土曜日、昨年度までうちの大学にある舞台芸術センターの事務局をやっていていまは柏書房に勤めるHさんが家に来る。単行本の打ち合わせ。いまこの本を出す意味のような話になる。そこまで考えてくれるHさんに感謝した。それにしても京都での仕事がいかに激務だったかがうかがえるほど、Hさんは健康的になっていた。
■ほかに不在のあいだに届いていた文芸誌などぱらぱら読んだり一部で評判の西新宿の「もーやんカレー」を食べる初体験などして休養する日々である。

■「文學界」の本の紹介というか批評の欄で、糸圭秀実(糸と圭とでひとつの文字です――スガヒデミ)さんの、『革命的な、あまりに革命的な』(作品社)が紹介されておりすぐに買いにゆく。二日ほどで読み終え書きたいことがいろいろあるものの、興味深く読みながらしかし本を手にしているあいだずっと憂鬱な気分になる。これがなにかよくわからない。本書の文脈で書けばプチブル的不安とでもいいますか。本書は次のような言葉でひとまず概要が示される。
「世界革命は、これまで二度あっただけである。一度は一八四八年に起こっている。二度目は一九六八年である」(イマヌエル・ウォーラーステイン他著『反して無』)
 われわれの史論は、直接には、この言葉に導かれているといってよい。マルクスの『共産党宣言』が刊行されたのと同年の、ヨーロッパの一八四八年革命についてはここではさしあたり問わずに、である。狭義には全共闘運動と呼ばれる、日本における「一九六八年の革命」を、今なお続く「世界革命」の一環として位置づけ直すことが本稿の目論見にほかならない。そしてさらには、六八革命を保証し準備した――あるいは六八革命に触発された――「六八革命の思想」を、とりあえず「日本」という場に限定して抽入してみることが、われわれの目的である。
 ここで最初に目をひくのは、「われわれ」という、論考する主体の設定だ。意図的としか考えれられないのは当然としてもだとしたら本書は全体が巧みに仕掛けられた「冗談」なのではないかと、こうして書かれた「概要」から受ける印象がある。なにしろ「本気でそんなことを考えているのか」という疑問がまず浮かんでもしょうがないと思わせるからだ。前提となっているのは「六八革命」である。なにがどのようにして、「六八革命」が存在したのか、具体的、例証的に、いわばはっきりとした形象を巧みに回避して論述は続くが、しかし「戦後思想史」、もっというと、「戦後左翼的思想パラダイムの変遷史」として、本書に付された帯にあるように「日本現代史に新たなパースペクティブを開く」ことに成功していると読めた。過去にも数多くのそうした種類の書物を読む機会は多かったものの(というのも私は中学生のころから戦後思想史マニアだったからだ)、それらとは一線を画すように、「戦後思想」をたとえば廣松渉の「疎外論」を詳述すること、それが六〇年安保以降のブントの思想をどう支えようとしていたかなどの分析や、三島由紀夫の「フェティッシュ(=天皇)」がどのような経路で「六八革命」とアイロニカルに同じ文脈に沿っていたかといった読み替えは、かつて党派に所属し脱退していった者らによる多分にスキャンダラスで情緒的な側面をもったそれら「私にとっての戦後左翼史」的なものとは一線を画しているところに読み応えがあった。いや、もちろん本書には「スキャンダラス」な側面、いわば「読み物」としての面白さも一面的にあるが。特に「注釈」に顕著でありそれがすこぶる興味深い。
 過去のスキャンダラスなそれら書物から距離を置こうとする叙述は「新左翼」を「ニューレフト」と表現すること、「活動家」を「アクティヴィスト」と書くところに一貫しているのも興味深く、そのことによって、「だからなんで英語にするのさ」という疑問を感じさせつつも、過去の「私にとっての戦後左翼史」的なものから一定の位置を置く現在性を維持する担保にもなっている。
 だから「六八革命」とは、その後の潮流となっていった時代の思想状況への圧倒的な影響、つまりそれは、意図していようと、いまいと、自覚的であろうと、無自覚にしてもなんらかの反映として存在しいまにいたるという意味において、有効な規定だ。「六八革命」はたしかに存在していた。ある一定の基準に限定されつつも。全共闘の根本思想のひとつに「戦後民主主義批判」があり、それを支えるものとしてアクティヴィストたちが三島由起夫の思想に心情的な共感を抱いた状況、あるいは、「二・二六事件」の青年将校の心情や北一輝の思想にシンパシーを抱くことの根底として、「六八革命」に内在する「ならずものの革命」や「祝祭的享楽としての革命」にあった一定の正当性を承認させもするし、あるいはドゥルース/ガタリの『千のプラトー』の言葉を参照してしばしば書かれる「戦争機械」の散逸的な戦闘地点の分散によってこそ革命が引き継がれるといった認識には、ニューレフトにおける「党の建設」といったレーニン主義(ボリシェビキズム)の乗り越えといった意味における「六八革命」はあったのだと首肯したい。
 もちろん肯定しがたい部分や疑問ないわけでもないが(たとえば津村喬の評価など)、これはことによると冗談なのではないかといういくばくかの期待をさせることに本書に寄せる私の最大の希望である。いやもちろん、そのこと、「これはことによると冗談なのではないか」と思わせる叙述の全体こそが「六八革命」の最大の実践ではなかったか。「六八革命」は私にはそのことにもっとも意味があると思えてならなかったのだし、「つかこうへい」という劇作家の諸作品の分析は、綿密であればあるほど、その「笑い」を「観客の誰にも気づかれないよう巧みにつむがれた悪意」と捉える文脈に即して書けば、本書もまたそうした「悪意」によって成立することで、はじめに記した通り「これはことによったら巧みに書かれた冗談ではないか」という疑問もあながちうがったみかたとも思えない。「六八革命」はきっと存在した。その延長上に本書も成立しているにちがいない。

■で、あれこれ文芸誌の批評を読んでいるとそろいもそろって精神分析的な視点というか、ラカン的っていうんでしょうか、そうした批評軸が気になった。
■あとねえ、繰り返し『革命的な、あまりに革命的な』に出てくる「文化的ヘゲモニー」という言葉が印象的で、その文脈はたいてい六〇年の安保後、日本共産党が、党内にいる「構造改革派」と呼ばれる中野重治、安部公房をはじめとする「党員文化人」を除名(あるいは離脱)したことで「文化的ヘゲモニー」を完全に失い、「文化的ヘゲモニー」はその後ニューレフトの側に移ったといった使われ方をしたとき、「文化的ヘゲモニー」の獲得とは、批評言語ではけっして使われないのだろう「かっこいい」とよく似た意味じゃないかと思ったことがあり、結局、六〇年代以降のニューレフトを支えていたのは、「文化的ヘゲモニー=かっこいい」だったと感じたことだ。だから「六八革命」を、五〇年代のフルシチョフによるスターリン批判、民主化に揺れるハンガリーへのソ連軍侵攻の衝撃に端を発する「反スターリニズム」による「政治的ヘゲモニー」の確立を「文化的ヘゲモニー」が凌駕してしまったことの歴史だと解釈することもできることだった。その意味で「六八革命」はたしかにあった。七〇年代、八〇年代を通じて、「文化的ヘゲモニー」の凌駕はさらに加速しいまにいたっており、そしてまた、脆弱なものであったから、かつて「文化的ヘゲモニー」を体現する者ら(大西巨人に代表される)は「レフト」であることを堅持していたが、いつのまにかそんなことはどうでもよくなった時代の潮流は生まれ、「政治的ヘゲモニー」とはまた異なる位置に「文化的ヘゲモニー」は移行し、八〇年代、九〇年代の、政治とは無縁の、むしろ、政治について語ることなど「かっこわるい」といった構造へと変化してしまったと想像したのだったし、「六八革命」以降の「文化的ヘゲモニー」はゆらぎつづけ、突出したサブカルチャーの肥大化、あるいはフェティッシュとして「天皇」をまたべつの姿として現前させたという現状を目の当たりにしている気がしてならないのだった。

■東京はやけに涼しい。雨。毎日新聞の連載を書く。クルマで都内を走って気晴らし。内田樹さんの『映画の構造分析』を読む。また京都に行く準備をそろそろはじめよう。

(5:44 jul.30 2003)



Jul.24 thurs.  「東京に戻る」

■朝、午前10時半ごろに静岡を出発。東名をひた走る。たいてい富士川のサービスエリアで休憩するが走りっぱなしで東京まで。はじめて東名を走ったときはさすがに緊張したが人ってのはなんでも慣れるようにできている。静岡にも何度か帰っているしさすがに慣れた。ただ怖いことは怖い。100キロ以上のスピードで事故を起こしたらと思うとさすがに神経がぴりぴりする。あと、ときどき見る「2キロ先落下物あり」といった種類の電光表示が怖い。なにが落ちているのかもっと具体的に書いて欲しいと思う。東名を走って神奈川県に入ってしばらくゆくとあたりはすっかり首都圏で建物の姿も都市的になるので着いたなあと思うと、そこからが長い。いざ東京へ。小説へ。原稿もまだ少しあるが。
■東京に着いたのは午後12時過ぎだった。用賀の料金所から首都高に入ると池尻までが混む。そこで時間をロス。もう少し早く着くはずだったし、さらに246号線が混んでいたし山手通りもほんの少しの渋滞。
■久しぶりの東京。京都でクルマを走らせるのに慣れたせいか東京の町を走るのが怖いと感じた。で、きょう思いっきり信号無視をした。住宅街の細い道を出て山手通りを甲州街道に向かおうとしたとき、信号が赤だったにもかかわらず、なぜか青だと勘違いし、山手通りに出ていってしまった。山手通りを走るクルマがなぜつっこんでくるんだとおかどちがいなことさえ考えたくらいだ。まちがっているのは私であった。錯覚した。なぜか青だと思いこんだというよくわからないまちがい。これで手前の車線をクルマが走っていたら確実に側突するところだった。幸いにも走ってこなかったので難を逃れる。もしかすると、日々、ものすごく危険な状態にさらされていながら気がついていないだけなのかもしれない。

■ほぼ一ヶ月ぶりの東京の家である。東京はやけに涼しい。
■いくつか郵便物をチェックするとある雑誌が届いておりその雑誌への小説執筆の依頼が同封の手紙にあった。うーむ、書きたいのはやまやまだが、順番でいうと、「新潮」「文學界」「小説トリッパー」があり、するとその雑誌は四番目になってしまうわけだけど、これは単純に約束した順番であって、他意はない。申し訳ない。もう少し待っていただけたら幸いだ。だけどどれだけ待ってもらうことになるか想像できない。なにしろ「新潮」は10年になるのだった。さらに、浅草キッドの『お笑い男の星座』という本がなぜか届いている。贈っていただいたらしく少し読んだが、笑ったなあ、ほんとにくだらない。「くだらないことに情熱を燃やす姿」に好感を持つ。これは社会的にはあまりいいこととはされておらず、むしろ「くだらない」がほめ言葉とすら理解されないことのほうが圧倒的に多い。適度な「笑い」なら「ユーモア」とか言われて社会的に認められるといった程度の「笑い」への認識。まあ、しょうがない。
■「資本論を読む」を連載している「Jノベル」を開くと申し訳ないほど僕の連載は浮いている印象。担当のTさんは「どんどん読みを進めてください」とメールで仰ってくださるが、ほんとにいいのか不安になる。
■少し落ち着いたらメールにも返事を書かなくてはな。でも、八月の初頭、またオープンキャンパスで京都にゆく。京都と東京を行ったり来たり。

■朝日の夕刊に連載しているしりあがり寿さんの四コママンガでも「シブヤ」が怖い町として取り上げられていたし、夜、渋谷の駅付近で男が連続的に刃物で人を刺す事件が起こったりとなにかと物騒な町に渋谷が変容してゆく。しばしば渋谷がだめになっているとこのノートに書いていたが、漠然と抱いていた印象としての「だめ」がいよいよ表面化してきたということか。ジアンジアンが閉館したあたりの時期が限界だったのだな。背景にある要因はいろいろ考えられるが、どこまで渋谷がだめになってゆくか、見捨てるのではなくもっと目撃してやろうと思うのだ。

(14:56 jul.25 2003)



Jul.23 wed.  「京都をはなれて」

■前日に引きつづき烏丸丸太町のホテルハーベストだった。朝はホテル地下の和食の店のごはんをいただく。おいしい。そんなに早く京都を発つ必要もないのでどこかに行こうかと思ったがどこにも行かず京都東インターから名神高速に乗る。ちょっと京都に飽きたってのもあるのだが、まだ見ていないものをいまのうちにもっと見るべきだ。京都の土地にもだいぶ慣れたしそのうち機会はあるだろう。
■ほかにも関西圏で兵庫県立美術館など見るべきものがもっとあった。京都を発ち、途中、静岡の両親の住む家に一泊して、あした東京に戻る予定。わたしの91年製のゴルフは古いクルマなのによく走ってくれる。あしたひとつ早起きして洗ってやろうと思ったのだった。一ヶ月間、京都ではほとんど屋外駐車だったからかわいそうなことをした。いまでは珍しい丸目のライトのかわいいやつ。最近のクルマのライトはなんであんなふうに目がつり上がった般若のような顔をしているのだろう。まあ、どうでもいい話。
■そうだ。私は仕事をしなければいけないのだった。いけないと言いつつ、なにもしていない。というか、せっぱつまった仕事はする。京都では本もあまり読めなかったし、映画も観る暇がなく、ビデオですら見る環境になかった。ジョン・ジェスランさんの発表公演が唯一の収穫と言っていい。

■それで思い出した、四回生のYから、去年のダンスの授業の発表公演のビデオを借りていたので静岡の家で見る。それぞれ面白かったが、たとえばFの衣装と全体から出てくるたたずまいがよかったのと、パリに行ったときぶらぶら一緒に歩いた吉田という学生の存在が面白く、なかでもやしの実をみんなで蹴ったりする遊びのようなダンスの時、吉田が転がっているやしの実にヘディングしようとしている姿に声を出して笑った。吉田はねえ、僕の勝手な思いだがニブロールで矢内原さんの振り付けで踊るとどうなるか見てみたいのだ。ほかにも、僕の授業ではどうもからだが不自由そうだったIという学生も、ダンスではずいぶんよくなっていたのが印象的だった。僕にはうまく演出ができなかったが、彼女のかたさを、指導教員である山田せつ子さんがどんなふうにほぐしていったかそれに興味があった。
■やっぱり山田さんの指導だからびわ系を思い出す。でも以前も書いたと思うが、たとえば僕が俳優を見、第一印象でこの人はいいと決めるときの俳優から出てくる魅力は大きな意味があるのと同様、からだから発するものはきっとダンスにもあり、なにをするか、どんなふうに踊るかも大事だが、「からだ」だなあとつくづく思い、しかしそれは、様々な要素が複合してその人のカラダになり、魅力になってゆくのだろうと思った。たとえば僕は山田さんのところにいる天野由起子さんの単純なファンですけれども、それはもう、魅力的としかいいようがない。学生たちはまだ未熟なからだだ。成長してゆく姿をもっと見たい。
■ビデオを貸してくれたYのダンスも面白かったが、えー、たいへん言いづらいことだがYはもう少しやせたほうがいいのではなかろうか。そういえば『アイスクリームマン』を見た人の一致した意見で、出てくる女たちがみんな「ころころしている」というのがあった。みんな体つきが似ているので人の判別がつくか心配だったほどだ。ちょっと書かなくてもいいことを書きすぎた。失敗。自分の舞台では女優たちには稽古中に10キロ痩せろと無理なことを言ったりするが、大学ではそれがセクハラってことになるのだ。どうなんだ、演劇やダンスの場合は。

■いろいろなものに刺激を受ける。それが次の僕の舞台にきっと反映されてゆくだろう。大学はそうした意味でとても大切だった。たとえば、コミュニケーション入試の太田省吾さんの授業は「空間演出ワークショップ」というもので、太田さんがどのようにして舞台空間を演出しているかそれを学びたかった。というか、この場合の「空間演出」は舞台装置というか、美術プランに特化されている気がしたが、太田さんの舞台を見ると、もっと異なる意味で「空間演出」をしていると感じ、それを学びたかったのだ。というか、そもそも「空間演出」という概念自体に新鮮なものを感じるのだ。「装置」や「演技術」だけではなく、演劇を構成する大きな要素としての「空間」についてもっと意識的になろうと思う。手がかりは現代美術にありそうな気がしているのだった。
■よりよい舞台の道は、いまいる静岡から東京に行くより、さらに遠い。
■またいろいろメールをもらう。『トーキョー・ボディ』で映像班を担当してくれた鈴木から、坪内逍遙が児童劇の本を出していたという情報。鈴木は持っているらしい。とてもうれしい情報だ。「どんぶり学校」の僕が担当する演劇の本のタイトルは、『あなたが、だれかと、どこかで ―― 演劇の作り方』にほぼ決まった。というのもこの背景にはピーター・ブルックの『なにもない空間』があるのですけれども、坪内逍遙の本も参考にしたいと思った。鈴木君、ありがとう。で、その本、貸してもらえないだろうか。

(23:26 jul.23 2003)



Jul.22 tue.  「本格的な夏の京都である」

■大学ではコミュニケーション入試の仕事である。発表公演も授業も終わったが終わったと思ったらこれがまたひどく大変だった。一日中授業をやっているようなもの。それが二日連続だったのでさすがに疲れた。
■そのあいだ宿を転々。しかも突然、夏が来た。「これでなくちゃ京都の夏じゃない」ときのう書いたが、湿度の高い高温は体力を消耗させる。エアコンのよく効いた場所と戸外の熱の落差にからだがおかしくなりそうだ。「コミュニケーション入試」とはつまり体験入試ともいうべきもので授業をやるなかで受験生を審査する。その途中、こうやってみたらと僕が学生と格闘のようなことをしたら、一瞬、腰がぎくっとなって、危険な兆候があったのだった。まずいと思ったが幸いにも最悪の事態には至らなかった。東京に戻ったら鍼治療に行こう。
■これをいま書いているのは、烏丸丸太町にある「ホテルハーベスト」。部屋が広くて快適だ。おとといは北野天満宮に近い「卯乃花」という民宿のようなところ。創業100年というお豆腐屋さんが開業した宿らしく朝食に豆腐が出てきてとても美味しかった。北野天満宮は想像以上に大きな神社だったので驚いた。でもやっぱり下鴨神社が僕は好きで、境内に至る森を歩くのがとても心地よい。というか、私は京都の町にやたら詳しくなっている。
■じつはここに書かずにいたが今回僕はクルマで京都に来ており、タクシーの運転手ができるのではないかというほど道に詳しくなっている。学校から支給される新幹線のチケットは高速代とガソリン代で相殺。というか、クルマで来るほうが少し高くなってしまうし時間がかかるが、京都にいるあいだはクルマがあるとほんとうに便利だ。時間があれば京都市内をぐるぐるクルマで走る。といっても発表公演の稽古があったからあまり時間はなかった。こういう機会だからこそもっと観光するべきであった。
■九月には、神戸の「ある町」に実家のある映像コースの学生と、その町にクルマで行こうと思っている。小説の取材。その学生がモデル。数年前神戸で発生したある大きな事件が彼の家の近くで起こり、しかしまったく実感がわかなかったという彼のことを小説にしたいと思ったからだ。京都を出発し僕がクルマを運転、そのあいだ、彼の「実感のなさ」について話を聞き、それを後部座席からべつの学生がカメラで記録する。そして彼のその町へ。あの事件のあった町へ。記録した映像をもとに小説が書けるのではないかという発想だ。この夏から秋にかけ、私は小説に集中する。三本ぐらい書く。書いて書いて書きまくる。

■さて『アイスクリームマン』の発表公演に関していろいろメールをもらった話はすでに書いたが、京大のH君のメールを少し紹介しよう。全文引用したいが長いので一部だけになってしまうが、大事な部分を。といっても少し長い引用になる。しかもセンテンスの最後に読点がない文体だったし、もう少し短い改行だった。H君の了承は得ていないが勝手に読みやすくしてしまいました。(文中にある「≒」は、しばしば現代思想の論文にある「=」に斜線が引かれ「イコールではないよ」といった意味の記号だと思う。というか、わざわざそれを使うのはもう少し深い意味があるが省略。「=に斜線が引かれイコールではないよ」という記号がコンピュータの辞書にないのだろう)
 まず「自動車教習所」という「場」が興味の惹かれるところでした。特に現代において「自動車免許」というのは大人なら持っていてもおかしくないむしろ「大人の証」的なイメージがあるとすれば「自動車教習所」という「場」は子供から大人へと至るための「場」でもあるわけです。
 だから、あの合宿所にとどまる人は大人になりきれない人たちで「ある」のだと思います。「向山の早苗に対するやさしさ」はやもすれば「子供の残酷さ」であり早苗が大人の最たる例である「両親」についてアンビバレントな態度をとりつづける「大人≒子供」についての最もやさしい態度であると考えることもできるわけです。
 水野はその「大人≒子供」の厳しさを形式的に追い越してしまったのでしょう。それは彼の女性に対するだらしなさというか子供特有のエゴイズムを自己正当化することによって塗り固めてしまうそのような態度によく現れている気がしました。彼が忘れていたことはきっと 「自動車免許をまだ持っていない」ということこれに尽きるような気がするのです。形式的な意味でも実質的な意味でもです。
 もちろん教習所が終わったからといって免許があるわけではないのですから彼は「運転ができるということ」と「運転ができるということに責任を持つこと」を捉え違えてしまっているのでしょう。同じ意味で彼は「大人としてあり得ること」と「大人としてあり得ることに責任を持つこと」を誤解していたような気がします。責任という言葉が堅いとすれば「できること」と「できることを考えること」の間の差異と言っても良いかもしれませんね。  最後の賭けの選択も現実的つまり大人的です。にも関わらず彼は実際には大人ではない皮肉というかそのツケというか彼に待っていたものは子供が一番考えることのできない「死」というまさにそのものであったわけです。逆に真正な意味での子供と賭けをしては駄目だと思います。なぜなら彼らは「負け」を知らないからです。つまり彼らは「未来の私」を仮定しない。だから負けることを知らないのです。水野はある意味で必然的に負ける要素を持っていたわけですね。
 山田がそれまで負けつづけていたとすればそれは「負け」も含み込んでパチンコをやっていたからでしょう。私の印象では(演じていた人を誉めるべきかもしれませんが)その瞬間の山田の賭けがとても純粋に端的な賭けのように見えた。つまりそれが今までと違って子供のように見えたんです。まぁ、これは私の勝手な見方かもしれませんが……。その意味で私にとってみれば水野の「死」はもったいなかったと思います。というのも我々が大人であるとするならば死してなお世界に対して責任が問われるものとして我々は生きているからです。
 そしてもし後の情景が書かれていないとすればそれは恐らく学者〔の卵〕である私も含めて哲学的・社会学的に考えている者たちの仕事であるのかもしれません。「場」の色が克明に変化する「自動車教習所」はそのように子供であり大人であるような奇妙でまた面白い空間であるということがよく分かるものでした。
 研究者を目指しているH君だけに、「演劇」としてというより「テクスト解釈的」な分析だとは思ったものの、鋭い「読み」だった。で、僕が『アイスクリームマン』を演出しているあいだずっとひっかかっていたひとつのせりふの意味がこれで分かったような気がしたのだ。
 たいていは三週間もあれば取得できるはずの合宿免許だが、免許も取らず宿舎に半年以上も居座る向山という男に、教習所の教官である井上が言う。
「おまえ、気持ち悪いんだよ。東京でなにやってたのか知らねえけど、確かリレキショには自由業って書いてあったよな……何なの、自由業って。え?」
 井上がそう口にするのはよくわかるつもりだし、どこといって奇異な言葉ではないが、このせりふに引っかかりを感じていたのは、いちおう社会と関わって生きる私も書かねばならない書類のたぐいにしばしば「自由業」と職業を記しているばかりではないはずだ。稽古のあいだずっとこの「せりふ」を考えていた。H君のメールの言葉によって気がつかされたのは、自動車教習所とは通過儀礼の「場」であり、自動車免許を取得するとは「大人になる」ことのメタファーだという示唆だ。合宿所に居続ける向山は「大人になれない人」であるのだし、井上が口にする言葉とはつまるところ、「世間」のことになる。それとの折り合いをいまだつけられない者として、「おまえ、気持ち悪いんだよ……」という言葉にざらついた感触を受けたのではないかと井上の言葉への印象を解釈した。
 大学の二年生の発表公演は、ほとんど演劇経験のない者らによるはじめての舞台という性格があり、これをステップにして、演技にしろ、スタッフワークにしろ、舞台の基礎を学ぶ。とするならばこれもまたうちの大学では「通過儀礼」なのではないか。期せずしてその公演に『アイスクリームマン』という戯曲の上演を選択したのは、ある意味、とても正しかったのではないかとH君のメールで教えられた。もちろん最初はそんなことはちっとも考えていなかった。できるだけ大勢の学生を出演させたかったという考えがあり、20数人出演する『アイスクリームマン』がいいと思ったという程度の選択だったがこれは正しかったのだ。これ以上ない選択だったのだ。
 H君にとても感謝した。きっといい研究者に、学者になるにちがいない。というか、なってほしい。刺激も受けるしね。将来、研究者としていろいろなことを教えてもらえたらこんなにうれしいことはない。

■忙しいなか、私は二つばかり原稿の仕事をこなした。もうずいぶん以前に頼まれていた仕事だったので断れなかった。でもまだ、「チェーホフを読む」が書けません。ほんとにすまん。京都の夜は静かです。とても闇が濃いです。でもそろそろ、東京に戻りたくなっているのだった。

(4:58 jul.23 2003)



Jul.20 sun.  「さらに京都いる」

■あれっと気がついたらもう日曜日で発表公演から一週間が過ぎた。
■木曜日のことを書いてからまたノートが滞る。
■そのあいだ、アメリカ人の演出家、ジョン・ジェスランの実験的な演劇作品(三回生中心の発表公演)を見たり、きょうはきょうで、コミュニケーション入学のために学校に行っていた。で、ジェスランの作品は二度見ると(つまり観客席でまったく異なる印象になるからだ)いろいろなことがわかった。去年の作品とは異なり今回は、俳優のせりふの発し方をはじめ、バンドがあり、あるいは包丁でまな板を叩く音、鐘の音など、「音」が表現の中心にあった印象。全体が音楽のようだった。好感を持ったのは僕もそういうふうに舞台を作る傾向にあるからだ。ただ、映像を使う、舞台の使い方など実験性はたっぷりある。刺激的だった。京都にいてこれを見ない人は損ですよ。
■そういえば、東京の
Power Mac G4のハードディスクが壊れたことはすでに書いたが、まあたいしたデータはなかったと冷静だった気分は一変。考えてみたらパリに行ったときデジカメで撮ったデータをすべてなくしてしまったと気がつく。しばらく悔やんでいた。で、さらに考えみるとあのときたしかパリから一路関西空港に戻り、そのまま京都の部屋に帰ったはずである。京都の部屋にあったコンピュータのなかにデータが残っているのではなかったか。いまそのコンピュータは東京だ。戻ったらたしかめてみよう。
■「パリ日記」のページを作ろうと思っていたのだった。そのために手書きで毎日、ノートを取っていたパリの日々。で、こうなると、そのノートをどこにやったかそれを探すほうが面倒だ。しかし、パリに行ったからといって「パリ日記」はストレートすぎる。「パリその観光と生活」というほど生活していなかったし、「パリ・ボディ」というのもなんだがだめだし、と、そんなことを考えているところへ、近々刊行が予定されている「どんぶり学校」(筑摩書房)という子どもむけシリーズの一冊で、舞台について書く僕の担当をしてくださる打越さんから、本のタイトルを早急にとメールがあったのだった。
21日までにタイトル案をいただけない場合、申し訳ありませんがパンフレットにはこちらで『芝居の作り方』とかなんとか、そんな題で印刷してしまうことになります。いやもしかすると『いま、時代は芝居!』『オモシロ演劇入門』『燃えろ青春 ザ・演劇』になるかもしれません。内容もまだ決まっていないのでタイトルのつけようもないわけですが、仮題にしても、作家の言葉のほうがいいと思うのです。
 えー、なんと申しましょうか、『オモシロ演劇入門』はとにかくいやだ。かといって、『お子さま特権的肉体論』というのをいま思いついたが時節柄まずいのではないか。困っているところへいくつか仕事が来た。私はいま、忙しいというより、小説のことをゆっくり考えていたいので、断ってしまった。FMのラジオ局から「いま14歳は」というテーマで話をしてくれないかとの仕事があったが、申し訳ない、コメンテーターにはなりたくないと思ったのだった。

■それから二年生中心の発表公演『アイスクリームマン』を観た方たちから感想のメールをいくつもいただいた。ありがとうございます。大学の事務局の方は仕事を中断してわざわざ足を運んでいただいたとのこと。ほんとうにありがたい。それから京大のH君の感想が的確なところをついており、『アイスクリームマン』のなかのせりふのひとつに、ずっとひっかっていた意味が解けた気がする。引用し、それについて考えたことを書こうと思ったが、いろいろ事情があってきょうは疲れた。それはまたゆっくり書く。えーとねえ、きょう泊まる宿を探すのにものすごく苦労したのだった。道に迷う。でもいい宿だ。
■松倉がMDに自分の歌を録音してくれた。それを聴く日々。これ僕なりに編集していろいろな人に配ろうと思う。スチャダラパーのシンコ君に聞いてもらおうかとか、桜井君に聞いてもらおうとか、鈴木慶一さんの意見も聞きたい。
■あ、それから『アイスクリームマン』公演の合評をやった。舞台コースの教員、太田さん、森山さんらも参加。これも贅沢。そのへんも詳しく書きたいがまた後日。
■京都は突然、真夏である。京都らしい夏になった。こうでなくちゃいけない。

(23:11 jul.20 2003)



Jul.17 thurs.  「まだ京都にいる」

■おそらく岩松さんは、『アイスクリームマン』の最後のせりふ、つまり向山が早苗の作文を読んで口にする、「私のお父さんとお母さんはとても仲がいいです」というせりふのためにこの劇を書いたのだろう。そこまでどのようにして到達するかという手法によって劇を組み立てた。これはとても切ないせりふです。人の生の皮肉さ、あるいは「運命」というものが人にあるとしたら「運命の皮肉さ」を、まさにアイロニカルに、シニカルに、醒めた視線でみつめる。だから岩松作品はしばしばチェーホフになぞられることが多いのだし、つまり、チェーホフと同様の手つきで人の生を「喜劇」に仕立てる。『アイスクリームマン』はほんとうによく書かれたチェーホフ的な喜劇だった。
■ずっとパチンコで負けつづける山田という登場人物に、水野が賭を申し出る。その賭に勝ったのはずっと負けっ放しの山田であり、負けた水野はその「賭の対象(=雪)」によって死ぬ。ここにも皮肉さはあらわれており、だからこそ、作文を読み、「私のお父さんとお母さんはとても仲がいいです」と口にした向山はそれを読んで笑いつづけるのであって、それこそが、向山の、早苗に対する最大のやさしさだ。岩松さんの「やさしさ」とはそうした態度の表明だ。しばしば岩松作品の登場人物は「いやなやつばかりだ」と言われがちだが、人は誰でもたいてい「いやなやつ」という前提がそこにあり、「いい人」、あるいは「善意」のうそから遠ざかりつつ、人が目をそらしたくなる、人が誰でももっているだろう「いやな部分」をじっと見つめる岩松了という人がいる。「じっと見つめる」とは肯定していることにほかならず、それも人なのだという意味での「存在」の理解だ。それが岩松さんの「やさしさ」である。
■僕と岩松さんは、劇作法が似ているとしばしば言われることがあったが、こうした人への理解の方法がちがうことによって、劇そのものが、まったく異なるといっていいほど似ていない。それは以前からわかっていたが、今回あらためて『アイスクリームマン』を演出することで戯曲を熟読し、わかったことがとても多かった。それは収穫だ。で、一見、ひどくオーソドックスに見える劇の構造のなかに実験性もふんだんにあり、この劇を見て、では、いったい、誰が、誰とどういう関係で、この人はどんな人か、そしてここはどこなのか、すぐに理解できる可能性はまずない。なにしろなんの説明もないのだ。あえて説明はしないというきっぱりした作法だ。観客の想像力を最大限に信頼すると表現するのがふさわしく、つまりここにあるのは、「喫茶店の隣に座った二人の人物の会話」である。隣に座ったその二人は私に対して、自分たちが「どのような関係か」「どういった職業か」「いまなにを話題にしているか」など、まったく説明してくれない。あたりまえである。けれど、交わされる言葉から様々なことを、隣の席にいる私は、二人について想像する。想像すること、目撃することの面白さ。説明されることよりそのほうが演劇的に優れている、あるいは、ずっと面白いのだという確信が岩松作品にはあり、同時に、人の生の深い部分により近づくことがそうした手法によって可能になる。だから『アイスクリームマン』をはじめとする岩松さんの戯曲の多くは、具体的な事物によって埋め尽くされているようでいて、その本質はひどく抽象性の高い作品たちだ。

■では、この劇の主役は誰か。「早苗」なのか。「向山」なのか。「水野」か。「吉田」か。あるいは「アイスクリームマン」と名付けられた「阿部」なのか。いやそうではない。主要な登場人物はこの「空間」だ。「とある自動車教習所の、合宿免許を取得するために設けられた宿舎のロビー」こそが主役である。そこに演出の手がかりがある。本質的に抽象性の高い戯曲は、より克明に、よりリアルに描くことが逆説的に必要となり、同時に、空間に漂う空気をいかに写実するかが重要だと考えられるとするならば、この場がどのような種類の空間なのか読みとり理解するかによって演出の方法に差異を発生させる。そして、様々な人物によってひとつの空間を舞台にしたドラマがある意味オムニバスとして生まれているのだが、それをモザイク状に配置することで、全体を複雑な姿に変貌させ、中心のない重層的な世界を形成する。だからよくわからないのだ。あえて複雑にし、簡単な理解を拒むのだ。しかも一見するとごくふつうのドラマのような姿をしているからいよいよ始末が悪い。そうすることによって岩松作品が表現しようとするのは、人の生の複雑さ、アイロニカルな運命、いわば、人そのものをシニカルな視線で見つめたときはじめて出現する人の本質である。だからその底辺や背後に「性的なるもの」が流れつづけていることを見逃してはならない。
■戯曲は一読すればわかるように、四場によって構成された単純な姿をしており、いってみれば「起承転結」(「一場=起」「二場=承」「三場=転」「四場=結」)というオーソドックスな構造だが、そのことにさしたる意味はない。「空間」が「主役」とするなら、それもまたオーソドックスな「シチュエーションドラマ」のようにも見えるが、「起承転結」にしろ、「シチュエーションドラマ」的方法も、あえて採用したと考えるのが妥当であり、歴史的に見るべきであって無自覚にそれが採用されたとは考えられない。様々な実験が出現した六〇年代、七〇年代を経、八〇年代が無自覚な過去の否定としてスタイルばかり先行する恣意的な演劇の台頭の時期だったとするなら、岩松作品の方法はより戦略的に意図的に微妙に「過去の劇」からずれてみせるのは、つまりは「脱構築的な劇の再組織化」だ。わかりやすい実験もまた拒否し、あるいは八〇年代的な無自覚な「にぎやかさ」からも逃れる。
■だからここで、チェーホフを参照しつつ分析することで岩松作品をより理解することになるのは、先に書いた「脱構築的な劇の再組織化」が、チェーホフの方法の引用、あるいはチェーホフを戦略的に読むことで九〇年代の劇を再編成したと見るべきだからだが、チェーホフについて書くのは「ユリイカ」に私が連載するであろう「チェーホフを読む」にまとめることにする。というか、それをここに書くのには時間的猶予がなく、つまりさっさと「チェーホフを読む」を書いたらどうなのかという話なのであれば、つまり、「ユリイカ」のYさんからまた催促があって今度こそは書かねばならんという事情が隠されているわけなのだし、こうして『アイスクリームマン』を分析しているうちにチェーホフも今度こそ書けるような気がしてきた。手がかりというか、『アイスクリームマン』の熟読がヒントになったからだ。

■それはさておき。
■さらに書いておかなくてはいけないのは、岩松了は一人いればいいということだ。その後数多く書かれた岩松了的戯曲の多くは、無自覚な岩松了であり、岩松さんの視点や方法を分析することなく書かれ上演された劇は、単にシチュエーションドラマにしかなりえず、凡庸な劇の反復でしかない。『トーキョー・ボディ』はつまり、そうした状況を終わらせるために書いたが、なにも岩松了的作品群のことばかりではなくそこかしこに「凡庸な劇の反復」は発生しておりそれはつまり、ある批評家が演劇状況について書いた、「演劇に閉じこもる」をあきらかに示す姿にほかならない。「演劇に閉じこもる」のではなく、あえて「演劇にとどまる」という態度の表明をいま、劇はどのように表現できるか。考えつづけるしかない。僕にとっては、『トーキョー・ボディ』がそのことの手がかりだったが、どこかにきっと、なにかあるだろうと想像する。
■僕はまだ京都にいる。ことによると京都にこそ(っていうか、もっとはっきりいうならうちの大学と舞台芸術センターに)、それが芽吹いている予感がする。東京から遠く離れ、様々な種類のジャーナリズムにわずらわされず、「あえて演劇にとどまる環境」がこの地にはあるのではないか。

(17:22 jul.18 2003)



Jul.16 wed.  「祭と授業」

■発表公演のあった僕の授業とスタッフワークの授業とで合同の、舞台の技術的な部分の反省会のようなものをやる。毎年恒例。で、僕はこの授業がとても好きなのだった。なにしろためになる。照明の岩村さん、美術の池田さん、音響の加藤さんが、それぞれ専門分野の視点から舞台について話してくれる。
■このあいだ、稽古を見に来た久保が、勉強する環境が贅沢だとしきりに言っていたが、もちろん、
studio21を使って公演ができるばかりか、一週間前から小屋入りのような状態で稽古できること、照明の機材をはじめ設備をふんだんに使えることなどたしかに贅沢で、さらに終わってからスタッフワークの授業があってプロの意見を聞けるのもいよいよ贅沢だ。照明、音響、美術、衣装など、それぞれのスタッフを経験した学生ももちろんだが、スタッフワークの授業だけ受講し単に観客として発表を観た学生からも意見が出てそれについて話しあう。特にむつかしかったのは照明で、これは僕もよくわからないことが多いのでどうしても現場でうまく学生に指示を出せない。で、この授業でヒントをもらう。
■まあ、なんにせよ失敗した部分が学生たちを次に進めさせる。ほとんどがはじめて舞台作りを経験した者らで、以前も書いたが、たとえば「集団で作業するのは面倒だ」ということでもわかればそれでいいのではないか。この授業では「俳優」というか、「演技」については触れないので、次の「反省会」の授業で考えることになる。
■あと、岩松さんの『アイスクリームマン』という戯曲についてはあしたにでも分析したものを掲載するつもりだ。自分が書いたもの以外の戯曲を演出するのはほんとうに熟読の作業だとつくづく思った。もちろん、はじめて舞台に立つ者にせりふを発するときの呼吸の方法など細かい技法を教えるのも授業における演出では必要になってくるが、それより、岩松さんの劇作法をよく読むことができ、この戯曲を選んでよかった。僕がそれをどう読んだかはまたあした。

■というわけで私は相変わらず京都にいるわけだが、そのころ京都は祇園祭だった。宵々山の夜、新町通りを歩くと本物の舞子さんを発見した。なにが本物かというと着物の質があきらかに本物だったわけで、観光客相手のコスプレ舞子の舞子とはまったく異なる。

祇園祭「山と舞子さん」
祇園祭「子どもたち」
祇園祭「店にて」


 で、いま大学にほど近いホテルに宿泊しているので祇園祭を観にゆくという気分になるが、以前住んでいたマンションは新町通りのすぐそばだったから外に出ると祇園祭だったと、いまになってあらためて感じる。ほんとにいい経験をしたと思うのである。そこかしこで浴衣姿をしたまだ小学生ぐらいの女の子たちが歌を歌って「ちまきどうですかー」と商売しているのだが、これはなんというか、とてもずるい。つい買ってしまいそうになるほどかわいいからだ。授業の発表公演が終わり、大学もひとだんらくつくと町は祭だ。気持ちのいい夏である。

(13:51 jul.17 2003)



Jul.13 sun.  「アイスクリームマン」

■また一週間書き込みが滞っていた。「通し」「抜き稽古」「照明直し」「ゲネ」「客席設営」、そして「初日」「楽日」「打ち上げ」といった日々だった。そのころ京都では祇園祭の準備が着々と進んでいる。発表公演が終わると祇園祭というのがここ三年の私の夏である。
■では少し記録を。
○7月8日(火) 夕方から稽古。通し。少し形が整ってきたがまだ細部がだめだ。

○7月9日(水) 午前中、一年生の授業。夜、ようやく音響、照明などを入れての通し稽古ができる。ヨーロッパ企画の本多君、『トーキョー・ボディ』に出た久保とその友だちが見学。

○7月10日(木) 今年最後の一年生の授業を午前中に終える。午後から場当たり。夜、ゲネ。ようやく発表するのには間に合う程度に形になった。時間がなかったっていうか、僕自身はなぜか時間があり、学生たちがそれぞれの仕事で忙しくて稽古が出来ず、なぜか暇だという奇妙な公演だった。

○7月11日(金) 午前中、きのうダメを出した部分の抜き稽古。まだ不完全な部分をやっているうちにあっというまの三時間。午後、ほんとはもう一度ゲネをしたかったが授業でこれない学生もいるのでやはり抜き稽古などする。学生は小道具の準備、照明の直しなどで忙しい。せっぱつまってからやるなよ。でもって、夜、いよいよ発表公演『アイスクリームマン』(作・岩松了)本番。できが悪い。東京から『トーキョー・ボディ』に出ていた淵野と、演出助手をしていた安彦が来てくれた。この安彦は、漫画家で『ヒネミ』初演のケンジ役をやった安彦の、いとこである。安彦からの差し入れは山形県天童市にある「将棋村」で買ったという栓抜きだが、ずっしりした重みのあるブロンズ製で、なぜか女体である。裸の女が将棋の駒を頭上に高々と掲げている。くだらねえ。

○7月12日(土) 朝9時半集合。いくつかどうしてもやっておきたい場面を少ない時間で抜き稽古。午後一時開演。これが最後の舞台。観客は、きのう170人ぐらい。きょう150人。きのうよくなかった場面がシャープになり、よかった場面がよくなかったりで、もう1ステージやりたかった。時間がなくて通し稽古の数が少なかったせいだ。安定感がなかった。悔いが残る。もっとできたはずだ、もっとよくなったはずだという後悔。寝屋川のYさん、『トーキョー・ボディ』に出ていたヨーロッパ企画の本多君、あと久保が来ていた。京大の大学院にいるH君、さらに東京から『トーキョー・ボディ』を三回見た謎の人もわざわざ足を運んでくれた。ありがたい。ばらしも終わった夜九時過ぎから打ち上げ。朝四時ぐらいまで学生につきあう。それはそれで楽しかった。そのとき音楽の話になり、二回生映像コースの金子が口にした言葉が忘れられない。「オクターブのオクは、なぜオクなの?」。つまり金子はこう言っていたのだ。
「億ターブの、億は、なぜ億なの?」

 金子のなかでは、「オクターブ」の「オク」は数値としての「億」であり、「ターブ」が音域を示す単位ということに、いまのいままでなっていた。「1オクターブ」は「一億ターブ」で、なぜ、「一万ターブ」ではなくいきなり「億」かが彼の疑問だ。ほかにも指揮者についての疑問など次々とばかな疑問を発する金子。さらにそれまで冷静だったはずの祢津(ネツ)という学生が、「指揮者は、演奏者より一拍早くタクトを振っている」と力説する。ではなぜ最後に同時に終わるかおかしなことになるが、「途中で帳尻を合わせている」という結論になった。
 ホテルに戻ったのは午前4時。フロントのある三階までのエスカレーターが止まっていた。へとへとになってのぼる。ふつうの階段を上るよりよけい疲れる気がするのはなぜだろう。


■でもって、なにもない日曜日。午後まで眠っていた。「一冊の本」の連載を書かなくてはいけないが、なにもする気がしない。今回の反省のひとつとして、学生に「稽古をよく見る」よう注意しなかったことがある。忘れていた。自分が稽古していないときいかに稽古をよく見るか。「見る力」について。それを自覚しているというより、単に見るのを面白がれる学生も数多くいたが。
■授業における発表公演も今年で三回目になり、わかったことがいくつかある。この授業の意味とか、そういったこと。でも来年で僕の大学での授業は終わる。これ、なんとか次の人にひきつがなければと思いつつ、そんなに私はいい人ではないような気がするというか、大学のことを考えている積極的な姿勢を示すのが恥ずかしいので、つい照れて、きっとなにもしないだろう。
■日曜日の京都は一日中雨だった。部屋から泊まっているホテルの隣にある大型スーパーの屋上駐車場が見える。いつもはまったくクルマの姿が見えず、がらんとした奇妙な空間だが休日のきょうは満車だった。その先には、遠く、雨の向こうに山の稜線。京都は山に囲まれている。三条河原町まで出て丸善で買い物。本屋でゆっくり時間をつぶすのもひさしぶりだった。

(17:43 jul.14 2003)



Jul.7 mon.  「仕込み」

■仕込みの日である。僕はほとんどなにもすることがなく、ただ夕方以降、
studio21など学内の施設を使う作業には教員としてついていないといけない。装置を建てるのにかなり時間がかかる。作ったパネルを組み立ててゆくと、ほんのちょっとの狂いが少しずつ増幅し、全体的にゆがんだ形になってしまう。調整するのに苦労するが、春秋座の劇場付きの舞台監督であるKさんが学生を指導してくれ、少しずつできあがってゆく。平台を組んで作った舞台の上に生理的に土足で僕は上がれない。学生たちは平気で土足だ。これはどうなんでしょうか。なにか畳の上を土足で歩く気分になるが彼らにその感覚はない。もちろん作業は裸足でできないだろうから、僕だったら舞台用の靴を用意する。
■だとするなら、外国ではどうなのかと気になった。たとえば歌舞伎の舞台など土足で上がったらぶんなぐられるんじゃないかといった印象があの世界にはあるし、この国の劇には、歌舞伎など伝統芸能から引き継いだ、いくつかの「言葉」や「作法」が残っており、たとえばふつうの小劇場の舞台監督らも「せった」を履いていることが多い。見ればKさんも、せったを脱いで舞台に上がっていた。外国はどうなのか。演劇の本質的な問題ではないが、いやそうした細部にこそ、本質が潜んでいるかもしれない。
■で、まあ、そんなことを考えるよりほんとは稽古がしたかったのだ。全員が仕込みを手伝っており稽古はまったくできない。個別にきのうの通しのダメを出したり、退出時間が過ぎてから何人かに、
studio21の外でダメ出しをした。かなり遅い時間までそこにいたので警備員さんに注意された。学生に誘われラーメンを食べに行く。それでゆっくり学生と話ができたのはよかった。

■いくつかメール。「■リング」希望者からのメールがあったので早速、トップページでリンクした。
■滋賀にすむMさんという方からのメールはある文房具に関するサイトの話だが、というのも、そこで紹介されている新タイプの「しおり」を紹介するのに使われている本が、どう見ても、僕の『牛乳の作法』(筑摩書房)だからだ。
■それはそうと、戯曲をただただ読む「テキスト・リーディング・ワークショップ」は10月からほんとうにはじまることになった。詳細はまた追って連絡することにする。八月は今年もENBUのワークショップがあり、11月は演劇関係で韓国へ。そのあと神奈川県の文化財団が主催する戯曲賞の審査をするという仕事がある。というわけで今年後半はとにかく戯曲を読むだろう。いやでも戯曲を読むことになるのだった。いや、先のはことはともかく稽古がしたい。まだ「通し」を三回しかやっていないのだ。大丈夫なのかほんとうに。

(10:57 jul.7 2003)



Jul.6 sun.  「気がついたら、七月だったよ」

■このノートを書くひまがないまま気がつけば七月になっている。
■大学の発表公演『アイスクリームマン』の初日(7月11日)までもう数日になってしまった。全員が稽古場にそろうことがめったになく、「通し稽古」ができたのは初日を目前にした一週間前のことだ。気はあせるがしょうがない。これは大学の授業。学生たちにしたら生活の様々な側面の一部でしかない。もっとよくしたい部分、まだ拙い場面を抜きで稽古をしたいが時間がないのだ。人が集まらず代役を立てながら稽古するが、もっとよくなるはずである。
■けれどこうして稽古してゆくうち、学生たちが「役者の顔」になってゆくのを見ているのはうれしい。たとえば場面転換で舞台上にあるものを交換するのに、人手が足りないとスタッフだけやっていた者を駆り出したが、あきらかに俳優ではないのだった。当然といえば当然だが、つい三ヶ月前まで同じように授業を受けていた学生たちだ。稽古をつづけてきたことで、くっきりとそれが見えてくる。
■それにしても、私は今回、稽古場でどなったり怒ったりしていないのだが、それもやはり、まあ、こんなもんでいいかなといった、モチベーションの低さの現れか。どうもいかんなしかし。学生に対しては、「乱暴なふるまい」は絶対しないが、そういう気分にまったくならないのもいいことかどうか、よくわからない。
■で、先週はひどく疲れていた。あまり眠れないというか、眠りに入るのは早いがすぐに目が覚めてしまう。そうした疲労の堆積。ただ疲労とうまいぐあいにつきあっている気がする。いまの四回生の発表公演があった二年前は、袋井における『月の教室』の舞台や大阪の扇町で開いたワークショップもあり考えてみればよくやっていたが、疲れていることさえ気がつかないほど労働していた。いまそれを自覚し、からだをコントロールしているのも、どこか意識的な計算のようで自分らしさを感じない。あの、ばかとしか言いようがない死にものぐるいの二年前はなんだったのだろう。ただ反動はあった。二年前の夏、さらに秋になってから精神的な疲労となってからだにあらわれ、精神科に通うはめになるとは思ってもいなかった。タフだと思っていたのだ。まだ大丈夫だと過信していた。そうでもなかったというか、年齢的に無理だと気がつかなかった。いまはコントロールしている。

■書かれていなかったあいだのことを少しメモにして残しておこう。

○6月29日(日) 昼の12時までに京都に着かなければいけないと朝早く家を出る。大学で稽古だ。地獄の七月は目前。七月といえば京都は祇園祭。一ヶ月間なんらかの祭がどこかでおこなわれ、町は祭だが授業の発表公演はさらにせっぱつまる。『アイスクリームマン』を熟読する作業。稽古しつつ、読み切れなかった部分がわかってくる。

○6月30日(月) 午後、連載原稿のための作業。資料を読む。夕方から稽古。

○7月1日(火) 久しぶりにものすごくよく眠る。夕方から稽古があったがからだの調子はすこぶるいい。ぜっこうの七月のスタートである。ただ、重要な役をやっている学生が一人欠席したので、やっておくべき場面の稽古ができなかった。

○7月2日(水) 朝から一年生の授業。やけに今年の一年生は子どもである。うるさくてかなわない。ほっとくと無駄話ばかりしている。とくに、六月からはじまったAクラス、Cクラスが子どもっぽい。むろんよく考えている者も何人かいて授業でやろうとしている課題をきちんと把握していると感じるが、なかにはただ出席しているだけと思える者もいて、だったら大学は時間が自由なのだし外でできることがほかにあるのじゃないか、なにをすべきか自分のあたまで考えたらどうかと思う。高校じゃないんだからただ教室にいりゃあいいってもんでもないだろう。午後、ホテルに戻って「資本論を読む」の連載原稿を書く。八枚。夕方が締め切りのリミット。書けるか不安だったがことのほか早く書ける。夕方、また大学に戻り稽古。きのう欠席したSの出るラストあたりを徹底的にやる。二時間ぐらいぶっ通しで繰り返し稽古。徐々に形になってきた。ようやく。

○7月3日(木) ひどい寝不足。前日、原稿など書いて眠ったのは深夜12時を過ぎてから。目が覚めたら4時過ぎだった。もう一度、眠ろうとするが眠れない。仕方ないので本を読んで朝になるのを待つ。調子がすこぶる悪い。午前中、一年生の授業。午後、さらに『アイスクリームマン』の稽古。ダンスの授業を取っている者が何人かいる。発表公演がきょうの夕方あって彼らが欠席したので稽古はあまり進まない。できるところだけでも完璧にしようと稽古。ただ、まあ、しょうがないかなと、なにかあきらめているところがだめである。授業時間内の稽古だったが終わってから音響を担当している学生と打ち合わせ。

○7月4日(金) ただただ稽古。朝から稽古。で、はじめての「通し」ができた。それでわかってきたこと。どこがだめか、どこをどう稽古するべきか見えてきた。「通し」を何度もすることでようやくわかること、発見があり、だから早く「通し」をしたかったのだ。夕方からさらに稽古だが、はじめて「ダメ出し」らしい「ダメ出し」をした。それでまだできていない箇所を直す作業。抜きでいくつかの場面を稽古する。

○7月5日(土) 朝九時から午後五時まで稽古である。稽古の時間は学生が決めるが、この時間設定はいったいなんだ。まあふだんの授業の時間と同じだが、「稽古」となるとどうしても「夜型」という意識があり、しかし、これはこれで、新鮮でもあった。ようやく二回目の「通し」ができた。できが悪い。

 といった日々だが、まあ、ほとんど稽古のことしか書けないのである。で、きょうも朝九時から稽古だった。ホテルに戻ればぐったりしそれでも本を読もうと無理をする。「フォークナー全集」が古書店にないかインターネットで検索したところ、二十七巻揃いで21万円だった。八月には、PowerMac G5が発売される。そのために貯めていた金をそれに注ごうか悩む。どう考えても仕事柄、「フォークナー全集」を買うべきだが、PowerMac G5 Dual 2GHzも捨てがたく、で、こういった場合のいちばんの解決策は両方買うことである。こうなったらやけくそだ。両方買ってなにが悪い。問題があるとすれば、ただ一点、部屋が狭くなることだ。二十七巻の「フォークナー全集」は場所をとるだろうなと、ちょっと考えるものの、まあそんなことはどうでもいい。

■そういえば、「■リング」の一人、城田あひる君からメールがあって、「
STUDIO VOICE」に原稿を書いたとのこと。「■リング」仲間としてなんだかわからないがうれしい。寝屋川のYさんも、日記によればサイトの件でラジオ出演したという。たいへんよろこばしい。それで思い出した。以前、「■リング」に参加しますという方がいたが、ついリンクし忘れてしまい悪いことをした。「■リング」参加希望者は遠慮なく申し出ていただきたい。
■あと「携帯用」のページを更新してほしいという方もいた。すまん。そこまで手が回らないわけだ。事情を察していただきたい。
■携帯電話といえば、SONYエリクソンから出ている新しい機種がほしくなってしまったけれど、じゃあ、「フォークナー全集」はどうするか。
PowerMac G5はどうするか、iPodとそれをFM電波で飛ばしてクルマで聴けるようにする装置はどうかとかって、もう、全部買おう、こうなったら。それもこれも、こうやって書いているうちに思い出したんだから城田君がSTUDIO VOICEに原稿を掲載したからだ。で、結論として、ひとまず今月号のSTUDIO VOICEを買って城田君の原稿を読もうと思うのである。

■京都は天気が悪い。激しい雨が降り、雷が鳴る。もうすぐ梅雨があける。発表公演のある、7月11日(
17:30開場、18:00開演)、12日(12:30開場、13:00開演)の天気がよければと願ってやまない。

(23:26 jul.6 2003)