DIARY 9 | |
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97/11/03(Mo) | 世田谷線の宮下駅のあたりでタクシーを待ったが、ぜんぜん来ないので十分以上、路上で立ちつくした。気がつくと、もう11時34分だ。青山まで、休日なのでおそらく十五分ほどで着くだろう。道はすいているはずだ。ようやくオレンジ色をしたタクシーが来た。きのうとまったく同じコース。国士舘の前を通り、細い道を抜け、淡島通りに出る。渋谷まではすぐだ。坂を上って仁丹ビルが見えると、もうすぐそこに子どもの城がある。 観光案内かこれは。 休日の子どもの城は、さすがに子どもの数が多く、わーわー、にぎやかでいけない。 スタッフはきょう、劇場のほうで搬入をしているだろう。僕たちは、あいかわらず二階の稽古場へ。稽古は十二時から。五分前に部屋に入ると、すでに全員、そろっていた。 後半をやってみる。 青い風船を手にした女3が現れるあたりから、少しずつ詰める。 これでびしっと決まったという感じが今回はない。通しの数もいつもより少ないし、なんだか不安だ。きのうの通しは、まだいいほうだったが、後半がな。それできょうは後半を詰める作業だ。だんだん楽になる稽古はやはり夢なのか。細かいことが気になって仕方がない。男4についても悩む。最初にイメージしたグルーチョ・マルクスはそれこそ夢である。 細かく詰めていって、ようやく最後まで終え、ひとまず休憩。休憩後、お茶を飲むところから後半を通す。で、いきなり村島、出とちり。 「すいません、もう一回、お願いします」と村島。 ばかもの。そんなことが舞台で許されるかよ。でも、笑ったけど。仕方がないので、少し戻し、やり直し、今度は、きたろうさんが持っているべきライターを忘れていた。重要な鍵を握るライターだ。それを落とさなくちゃならないのだが、持っていないと気がつき、不意にハンカチを落とした。それを見た池津の次のセリフが笑う。 「ライターよ」 そこに落ちているのはあきらかにハンカチだ。戸田君がそれを手にし、「これです、これなんです」とハンカチを示す。 だめだこれは。 止める。 時計を見ると三時。稽古がなんだかあきれたことになってしまったので、みんなで劇場のほうを見に行く。まだ舞台はできていなかった。装置も簡素で、ひどくあっさりした舞台になるだろう。前回、『あの小説の中で集まろう』はすごく複雑だったが、これだったら、二日も仕込みはいらなかったのではないか。ただ、照明のシューティングなど、たっぷり時間があって、明日の場当たり、ゲネなど楽だろう。 あらためて稽古場に戻り、さっきの続き。 四時を過ぎてから食事の休憩。 五時半から通し。 できが悪い。この期に及んできたろうさんがセリフをずいぶん忘れている。だめだこれは。ひどいできだ。宮川君も調子の乗っているというか、やけに滑稽な芝居をしようとしているので、見ていたらだんだん腹がたってきた。くだらない場面は深刻に。シリアスな場面は軽く。そうでなくちゃいけない。抑制ということ。なんにせよ、抑制しなくちゃだめなんだ。それをばかものが。「面白い」ということをなんだと思ってるんだ。 ダメ出しでは細かいことはあまり言わなかった。 ただ、おおざっぱな話。 だめだなあ、なにか、びしっと決まったという気分になれない。 不快だ。 きたろうさんはすぐに稽古に飽きるし。 八時になると、桜井君ができた音楽を持ってくるという。 それを待つため、あらためて劇場を全員で見に行く。ほぼできていた。だんだん本番の気分が高まってくる。ただ僕は、通しで満足なものが得られないので気分が悪い。少し眠くなる。気が晴れない。桜井君が到着したというのでまた稽古場へ、音楽を流しながら稽古。音楽を聞いていたら少し眠気がおさまってきた。 八時半、終了。スタッフたちの片づけを待って劇場を出たのは、九時過ぎ。制作の永井と演出助手の秋本を連れて表参道の喫茶店に入る。久しぶりに長話をした。 別の席から外国語が聞こえる。 それで不意に、ある在日朝鮮人の友人のことを思いだし、永井と秋本に、このところ思っていることを話した。この国と朝鮮半島の歴史や、差別のことを念頭に置きつつ、それでも友人と僕との関係をもっと明確にするべきだと思ってのことだが、僕がもし、外国に住まざるをえなくなってその国の人間に同化させられたとして、名前を、たとえば、ミヤザワビッチとか、ミヤザワニコフにする必要があったとしたら、それ、おかしいだろう、「だから、俺、あいつを、……て呼びたいんだよ」とその本名を口にすると秋本も永井も沈黙した。友人はそれを迷惑だと思うだろう。迂闊なことはもちろんできないが、それを許さないこの国とあの国の歴史が作り出す状況にいらだって、そんなことを話したのだ。また別の友人の俳優の言葉が忘れられない。選挙の話をしていると、不意に、「選挙権のあるやつはいいよ」と友人はぽつりともらした。そうしたことが意識に現れると、きまって、子どものころ、父の元で働いていた朝鮮人の職人さんたちが口から吐く焼酎の臭いを思い出す。 僕はこうして都市的な位置で仕事をしているが、思いをめぐらしていると、僕はどこからやってきたのか、それはあの臭いの充満するひどく暗い場所だったのではないかと思い、いまやっていることがすべて嘘臭く感じてならないのだ。 そんなことを表参道の喫茶店で考えているのも滑稽だ。 喫茶店では声高に話す外国語がまだ聞こえている。 もう11時になっていた。 表参道でタクシーを拾い、家に戻る。 家で食事をしながら、届いたばかりの『波』を読む。 小林信彦さんの連載がものすごく面白い。 芝居のことを考える。 不安だ。 やはり明日、どこかの時間で、すこし抜きの稽古をしなければと思う。
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97/11/02{Su} | 何人か髪を整えに行かせようと思って、稽古の開始を午後二時にした。目が覚めたのは、朝の九時で、やはり六時間ほどの睡眠。しばらくすると、眠くなってきたので朝御飯を食べ、ぼーっとしてから、一時間だけ眠る。気がついたら一時半だ。家の近くでタクシーを拾い、青山に行く。休日のせいで道はすいていた。国士舘の横を通るとどうやら学園祭をやっているらしくにぎわっていた。青学も学園祭。そういうシーズンだということも、稽古をしていると忘れてしまう。 村島が遅刻。前半をなんとかまとめようと、集中的にやる。 道具方がテーブルを並べ、そこに男1が現れ、いまからはじまる実験の説明を客席に向かってするあたりはずいぶんなめらかになってきた。道具方が男1の説明を邪魔するあたりで、きちんとねらい通りにできれば文句はないが、もうちょっとというところ。村島が歌って出てくるあたり、面白くない。 男3の登場までがきちんとできれば導入として問題ないのだが。 女2の後半、ひとりでしゃべりつづけ、それと、周囲との関係がどうしても作れない。いろいろ変える。少しよくなった。 ちょっとずつ進めながら、つまらない部分をなおしてゆく作業。 家を出る直前の睡眠が功を奏して、やけに調子がいい。頭が回転する。いろいろ思いつく。作業が一通りすんだところで、もう一度、最初から流そうと思ったが、五時になったので、食事休憩にした。きたろうさんが、もうそろそろ休憩じゃないのかという顔をしていたからだ。 村島が「考えました」というので、歌って出てくるところを任せた。で、食事後、流してやったら、まるで笑いの構造を理解していない笑わせ方をする。ばかじゃないのかこいつは。で、まあ、全体的にはだいぶよくなった。まだまだ、もっと何かあるような気もしないではない。 で、六時四五分から通し。 いまやったばかりの前半はよくなってきた。 後半だ、こうなると問題は。 男4に関しては、ようやくベースができたというところ。アゴを上げる芝居をやめさせたり、いちいち顔でなにか表現しようとするのをやめさせたり、手の先まで芝居するのをやめさせたり、今林が身体に貼りつけているものを、ひとつひとつ取ってゆく作業。まだなにかついている。はがしてゆくと、今林がだんだん、デブだってことが見えてくる。それを見せなければいけない。なぜなら、デブだからだ。 正直になれ。 脂肪を見せろ。 それが芝居の基本だ。 よくわからないが。 それにしても、今林が背広の扱い方を知らないのにはあきれた。ジャンバーを掛けるように椅子に掛けた。ばかもの。考えてみると変だなあ。日常のあたりまえの「行為」じゃないか。背広の扱い方ひとつ知らず、「芝居らしきもの」だけ身につけている。こういうのが彼がこれまでやってきた演劇なのか。 ふーん。 勉強になるなあ、いろいろなことが。 もちろん、「日常的な所作」から遠ざかろうとする演劇もあるにちがいない。そこを強調する演劇だ。それが間違っているというわけではないだろう。「日常の所作の認識」と「表現」はどういうぐあいに関わっているいるのか、考えると面白そうだが、いまは面倒だからやめる。考えることはまだ、いくらでもある。 通しを終えてダメ出しをするころになると、きたろうさんがひどく眠そうな眼をしている。この人に何を話しても無駄なんではないかという気がするが、とりあえず、きたろうさん以外の役者にはダメをかなり出したので、そろそろ、きたろうさんの番だ。これから本番までは、きたろうさん中心に細かく見て行こう。きたろうさんも、もっと面白く、もっと魅力的に見えるはずだ。 九時過ぎ終了。 で、気がついた。 あと稽古も二日ではないか。驚いた。もう、本番かよ。冗談じゃないよ。まったく。 帰り、地下鉄表参道の駅から帰るのは僕だけだったので、ゆっくり歩く。 稽古が終わったあとは一人になるのがいいな。 よっぽどでない限り、人と一緒にいるのは疲れる。 本屋で数冊の本と雑誌を買う。 家に帰ってから桜井君に電話。音楽の打ち合わせ。コーヒーを飲んで、ようやく落ち着いた。
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97/11/01{Sa} | 公演で配る当日用のパンフというか、チラシに載せる文章を制作に催促されたので、それを書いていたら、朝の五時だった。寝る。五時間の睡眠。さすがに疲れがたまってきた。 眠気がさめないでぼんやりしていたら、もう十一時二十分ぐらいになっていたので、大あわてで用意し家を出る。タクシーで行っちゃおうかと思ったが、一万円札しか持っていなかったのであきらめた。おつりをもらうのに気が引ける。どうして客なのに気を使わなくちゃならないんだ。豪徳寺のホームに着くと電車はいま、出たばかり。小田急線はなんでこんなに一本一本の間隔があるんだ。十分近く待つ。 青山の稽古場に着いたのは十二時十分ほどだ。 桜井君がカーテンコールの音楽を作ってきたので、そこを稽古する。 ハワイアンっぽい音。たいへんになごんだ。 カーテンコール、きたろうさんが、「宮沢は出ないの?」というので、やだよ、かっこわるい、カーテンコールに出るなんて冗談じゃないと答える。じゃ、役者はどうなんだ。役者はずっと出てるからいいのである。で、ほぼ形になったので、少し休憩。休憩後、照明のオペレーターさんのために、通し稽古をする。ため、ってこともないが、きのうダメをだしたところなど、抜きで稽古をしたかったのに、照明さんの時間の都合があるとかでそういうことになった。 通しの印象は、「少しずつよくなっている」というところか。 いいところと、わるいところ。 きたろうさんの力も抜けるかな、いや、まだ力が入っているかなという微妙な感じ。そういった、役者の出来不出来のようなニュアンスは、長いあいだ芝居をやっていてもどうコントロールしたらいいかよくわからない。なにかが影響して力が入ったりする。その日の客に誰か特別な人がいるとか、体調とか、いろいろだ。論理化できないというか、方法論化できない最たるものだ。 それが舞台ってことか。 だから舞台は面白いなんて書くとひどく凡庸だ。 舞台上の失敗を客は楽しむと、昔、ある放送作家の人によく言われたが、ほんとかねえ。幻想じゃないかねえ。精魂こめて作ったギャグがちょっとしたとちりで失敗することがあり、それを客は楽しむか? あるいは、建ててあった柱が倒れたとする。その場合、いまなにかが舞台上で発生しているという興味がわくのはたしかだろう。となると、舞台上の失敗にはいい失敗とだめな失敗があることになり、一概に、「舞台上の失敗を客は楽しむ」とは言えない。まあ、いずれにしろ、それらは、「結果」だ。「舞台上の失敗を客は楽しむ」ということが仮にあるにしろ、不測の事態だからであって、稽古の段階でそんなことはなにも言えないはずだ。 閑話休題。 考えるのが面倒になってきた。 短い休憩中、きたろうさんに、「宮沢の集中力はすごいね」と言われたが、あたりまえに稽古しているだけなので、それが「集中力」という名前のものだとは知らなかった。そうなのかな。 ダメ出しのあと、すぐにいくつかの箇所を稽古する。 四時から一時間、休憩をとったら、なんだか僕自身、だめになった。きたろうさんの言う、集中力が欠けてくる。だめだ。なんだかだめである。食事休憩がいけない。食事休憩後の気持ちの悪さはなんだ。あしたから食事休憩はなしにしたい気分になってきた。で、少しずつ回復。ようやく稽古に集中してきたあたりで、不意に、頭が回らなくなる。いよいよ疲れてきた。いま、何か思いつき、やろうと思ったことが思い出せない。だめだ。八時に終了。 疲れた。 稽古が終わった時点で、こんなに疲れたと感じたのははじめてだ。 家に帰ったらぐったりした。 ドンナジャポーネの竹内君からFAXが来ていた。 原稿の催促。 テレビに竹中が中津川ジャンボリー君で出ていた。 この言葉を聞いて、いまわかる人がどれだけいるだろう。 疲れた。 ほんとうに疲れた。
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