DIARY 7
. 10/26 - 10/28

 宮沢章夫『稽古の日々』7


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97/10/28(We)
 Webの更新で、昨夜、眠ったのは三時半過ぎだったと思う。目が覚めたのは九時半。少し眠い。十二時から青山円形劇場のある子どもの城の稽古場。五分ほど前に到着。道具がようやくほぼそろった。テーブル、椅子、細々としたもの。
 ほんとは女2が登場する部分、男4のところをやりたかったが、おなじところばかり繰り返していると、疲れるので、道具方たちの場面を稽古する。少し形になってきた。だけど、形ができたかと思うと、すぐつまらなくなる。まさに、「形」におさまってしまうからだろう。
 必要なのは、「おさまらなさ」ともいうべきこと。
 それは、俳優が固有に持つ奇妙なものだ。
 破綻も関係する。
 うまく説明できないし、方法論化するのも困難だ。
 村島で楽しむことにした。どこか村島には、その、「おさまらなさ」があって面白い。道具方だけで二時間ほど稽古。それから女2の部分、男4のあたりをやってみる。男4のあたりをやっていて気がついたのは、別役さんの戯曲に出てくる「彼」という言葉だ。僕は戯曲の中で、「彼」を使ったことがあるだろうか。
 中上健次は、その作品のなかで、「彼」を回避していた。
 翻訳から生まれたのだろう「彼」は、そもそも日本語になかった言葉で、身体性が薄い。身体に近い部分で、別役戯曲を演じようと思うと、おそらく「彼」でひっかかる。よほど注意深くないと、言葉から身体性が遠ざかり、たとえば新劇のような、「別役上演作品」になるのではないか。
 なるほど、そうか。
 男4の難しさはここにもあった。
 言葉に負けないよう、身体がしっかりしていなくてはいけない。新劇はそのへん、反省はなく、むしろ「彼」という言葉のある劇の世界を構築しようとしているのだろう。新劇の気持ち悪さはそのようなところにある。翻訳劇を無反省にやるものなあ、ポールだの、トムだの、ナンシーだの、日本人のくせに。
 この場合の、「言葉に負けないしっかりした身体」は、おそらく、肉体訓練のゆきとどいた、例の、あの演劇的な身体ではあきらかにない。
 以前、演劇集団66について書いた文章に記したような、「やわらかな身体」だ。いや、べつに前屈が五十センチとかってそういう話ではない。
 別役さんが、「彼」を使うのはなぜか。べつに近代劇の名残ではない。ここでは、「彼」が単に、「He」を翻訳した言葉としてあるのではなく、劇全体から、様々なものを捨象し、「関係」だけを浮かび上がらせるためにある。それはよくわかる。よくわかるのだが、ここに落とし穴があると思えてならない。「彼」という穴だ。そこに落ちてしまうと、きっとその上演は気持ち悪いものでしかなくなるだろう。男4の難しさとはこのことだ。
 今林にそんな話をする。
 今林はきっとそのことがわかるな。話せばわかる。で、そのわかってしまうところが、彼を押さえてる部分であり、そこからなにか抜けると、もっと面白くなる。
 途中、時間がぽっかりあいた。稽古に使っている部屋を他で使うというので出て行かなければならないからだ。あとで知ったことだが、それはきょうではなく、明日だという。みんな意味なく二時間半をだらだらしていた。ほんとは使えたのだが、ほんとうに意味のない二時間半になってしまった。
 戸田君は映画の仕事で夕方からになるという話だったが、結局、来られないという連絡。夜は通しをやろうと思っていたが、これではだめだ。また女2の登場から、お茶を飲むまでを稽古。特に後半。
 道具方1の「民主主義をなんだと思ってるんだ」というセリフはどう考えても笑える。宮川君にそれを説明すると、きたろうさんが横からすぐに、「そうなんだよ」と言ってくれる。打てば響く。だって、単に道具方ということで登場した男が、いつのまにか司会になり、あまつさえ、道具方のくせに、「民主主義」なんて言葉を口にするのはおかしいじゃないか。きたろうさんと僕は、戯曲の中の、「ここは笑えるものになる」部分を探しあい、それは楽しい。
 八時頃、稽古終了。帰り道、事務所の井上と来年のことなど話す。この芝居が終わったらすぐに来年五月の新作について考えなくてはいけないという。せわしないなあ。
 家に帰ったのは九時過ぎ。食事をし、ニュースステーションを見ていたら、いつのまにかうたた寝してしまった。うたた寝は気持ちがいい。遠くでテレビの音声。電話する声。とろーんとした気分のなかでそれを聞く。

to 10/29


97/10/27(Mo)
 昼の十二時に池袋芸術センターの稽古場に着くと、まだ誰も来ていなくて、一瞬、場所を間違えたかと不安になった。稽古場のスケジュール表が廊下に張り出されている。確認すると、僕たちは十三時からだった。
 昼食でも食べに行こうとしたら演出助手の秋本が来た。
 秋本、やけに早いので驚いた。「早いですねー」と驚いたように秋本が言う。
 仕方なく、外に出て食事をする。
 戸田、佐伯が夕方から来る。稽古は、女2の登場から男4の登場するまでを繰り返す。女2の登場とそこからの周囲を無視して長い話をする部分がとくにだめだ。いろいろな方法を試す。で、きたろうさんが、女2を演じる池津にごく基本的なアドバイスをする。「芝居の基本だよ」ときたろうさん。つまり、セリフの音ばかりが立って、意識が見えてこないことについて。それは稽古の当初から僕も感じていたことで、うまくやろうとして作為ばかりが表に出ている。それを何度も繰り返して、細かく直してゆく。しかし、意識していればいいが、そうでないところはすぐにだめになる。ごく基本的なこと。形になる。覚えたセリフをただしゃべっている印象だ。
 とりあえずのところで、それを終え、懸案になっている男4がそこにいる者らを追いつめて行く場面。セリフごと、誰に向かって言うか、言葉のトーン、そのときどんなふうに動くか、少しずつ変化をつけてゆく作業。疲れる。
 その二つの場面をほとんど休みなしでつづけ、夕方になったので、食事休憩をとる。
 食事のあと、しばらく戸田君と佐伯を待つ。佐伯がなかなか来ないので、女2の場面、昼間と同様、代役でやってみる。
 ほうれん草のあたりがまだだめだ。
 うまく意識が出てこない。生き生きとしない。
 とりあえず、明日に持ち越し。
 男4の部分。さらにやり方を変える。セリフのトーンがべたっとして変化がないので、押すところ、引くところ、低くでるところなど、細かく変えてゆく。少し、見えてきた。とくに、男4がそれで殴られたという木の棒を道具方1に持たせるあたりなど、すごく面白くなった。それで、いままで、巻き込まれないなあと思っていたことが、ふっと解消される。あるいは、周囲の者らが、男4が示すもの、木の棒や壊れた椅子などに、いちいち興味深そうにのぞきにゆくといった、ごく単純なことで、その場がずっと生き生きとしてくる。ごく単純なことだ。
 あたりまえに考えてゆけば、できるようなこと。
 で、その二つの場面をやっているうちに、八時になった。
 稽古時間が少ない。もっとほかも面白くなるはずで、そのためには、やりつつ、考え、なんども試し、だめだったら、またべつのことを考える。稽古場自体が生き生きとしてこなければいけない。稽古時間が少ないと、つまり、余裕がなくて、だらだらとした、だが、だからこそ贅沢な時間が過ごせない。
 家に帰ってWebの制作。
 更新しようと、作業するが、u-ench.comにうまくつながらないし、ひどく時間がかかる。いらいらする。これを書いていているうちにひどく眠くなった。疲れて、佐伯のことをサル君と呼ぶような、陽気な日記が書けない。疲れると、人は陽気にはなれないな。様々なことが不安になってゆく。疲れは、人を不安にさせる。

to 10/28


97/10/26{Su}
 昨夜、午前二時頃だったか、きたろうさんからメールが届いておりそれがほぼ同時刻に送信されたもので、これまでこんなことはなかったし、時間も奇妙だし、どうしたのかと思って早速、読んだ。稽古について、芝居について、いろいろなことが書いてある。考えこんでしまった。ただ、一点だけ、きたろうさんらしい、大きな誤解をしているのではないかと思える部分がある。変わらないなあ。それをきちんとしなくてはいけないと思い、ほかのことに対する答えとともに返信した。
 送ってから、さらに考える。文面の背後になにかべつのものがあるのではないかと、気になって仕方がない。芝居について何か言おう言おうとして、はっきり表現できないのではないか。核心がどこかにあると思えてならず、もう一度、メールを出そうかと考えているうちに朝になっていた。
 きょうは、こんな時期なのに、諸般の理由で稽古は休み。
 なんだか眠れず、昼近くまで考えていたのだが、少し眠ることにした。目が覚めたのは午後二時過ぎ。立花ハジメがタイポグラフィ展をやっているので、それを見ようと外に出る。飯田橋にある写植やフォントで有名なモリサワのギャラリーらしい。で、場所をちゃんと確認していなかったと思い、本屋でぴあを立ち読みしたら日曜日は休みだと知る。
 どうしたらいいんだ。
 それから、とりあえず電車に乗りいろいろな町をぶらつく。
 長い距離を歩いた。
 帰り松原の住宅街に忽然と存在するそば屋、「いな垣」に寄ってそばを食べた。
 家に帰るとテレビではサッカーの中継。あまり興味がわかず、更新に間に合わせるためにWebの制作。新しいアイデアはないものだろうか。ほかのWebでやっていないようなこと。ついやってしまいがちなのが、VOW的なことだろうか。あれは、最初にあのことをはじめた、渡邊祐がえらい。なによりえらい。投稿してくる人の中にもえらい人がいるかもしれないが、あのコンセプトとそれを提示する方法がすべてだ。だから、そのコンセプト上でどんなに面白いものを発見したところで、彼にはかなわない。
 ま、祐君にかなわなくてもいいという人はいいが、僕はちょっといやだな。
 芝居についていろいろ悩むことがあるので、夜、桜井君に電話。稽古を見た感想を聞く。「別役っていうと、なにか単調なセリフ回しって印象があるけど、そうじゃなくていいんだね」とのこと。そうなんだな。ごくあたりまえに言葉を発すれば、別役さんの戯曲はすごく面白いのだということを、この舞台で表現できればいい。桜井君と話しをしたらなんだか元気が出た。
 結局、思想の問題だろうか。
 きたろうさんのメールに、「役者には思想はないんだから」とあった。いきなりこれは思想的である。思想のない俳優がこんなことはまず言わない。村島がこんなことを口にするとは想像できない。まして佐伯の皮をかぶったサル君は「思想」という言葉すら知らないだろう。七〇年前後をかいくぐった俳優のきたろうさんだから、こういう言葉がするっと出てくる。
 かつて同じ舞台をやっていたきたろうさんと僕は、いまではすっかり、ちがう場所にいるのだと考えるしかないのだろうか。などと考えていたら、また憂鬱な気分になってきた。

to 10/27



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