DIARY 6
. 10/23 - 10/25

 宮沢章夫『稽古の日々』6


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97/10/25(Sa)
 眠かった。朝の十時に眼を覚ましたが、どうにも起きられない。
 ようやくベッドから出たのは十時半過ぎで、すぐにも稽古に行かなくてはならない。昨夜、この日記を更新したあと、午前一時半頃、桜井君から電話があり、音楽の打ち合わせ。悩んでいるという。いろいろ話す。これまでの別役作品らしくない音楽という話になる。だとしたら、想像もつかないような音楽か。しかし、音楽が作品を批評するものになってはいけないのではないか。べつにパロディのような古いことをやろうというのではない。そうではなく、なおかつ、新しいもの。結論はなかなか出てこない。とりあえず、桜井君に稽古を見てもらったほうがいいということになる。
 十二時から青山円形劇場のBリハ。
 去年も『スチャダラ2010』のときに使った場所だ。
 ほんとうは、まだ青年団が使っているが、きょうは休みなのか使わせてもらえることになった。コーヒーが飲めるようなセットが置いてある。青年団のものだ。冷蔵庫もある。青年団のものだ。衣装も整理されて置いてある。なんてきちんとした劇団なのだろう。
 お茶を飲み終わってからラストまでを少しずつ進める。
 まだ細部に曖昧なところが多いので、そこをやりつつ、もっと別の方法があるのではないかと、繰り返す。青い風船を持った女3が通り過ぎ、男1と道具方1が追いかけるあたりから、男1がライターを落とすまで。どうも、あわてている感じが気持ち悪い。いったん男1がきちんと全員に挨拶し、それからゆっくり歩き出すことにした。そのほうがぐっとしまる。女3の場面も、少しできた。なんともいえぬ味わいの場面にしたい。
 男4が中心になっての後半は、たしかに難しいが、あと日数もわずかになったのでそろそろ結論をださなければならない。「巻き込み」について考えてみると、「押す」ことだけではなさそうだ。押されてばかりいると、周囲は意外に客観的になるかもしれない。「引く」部分もあるべきだろう。すると、「おや」っと聞くものが引きつけられる。聞く者たちの芝居が形になっている。もう少しだ。もっとやりこまなくてはだめだ。
 ある程度すんだところで、桜井君が来、桜井君に見てもらうためお茶を飲む場面からラストまでを初めて通す。いくつか、よほど気になる部分を台本にチェックしつつ、通して見た印象を大事にしたいので、何も考えず、見ることに専念する。舞台上に漂う空気がどのように変化するか。よどみなくそれが流れるのを見て、戯曲の力を感じる。
 そういえば稽古場に、今回のフェスティバルのパンフレットがあった。
 なかに『会議』の初演時の写真がある。男4が男1を殺す場面らしい。すごい表情で芝居していることが写真でもわかる。男4の狂気が全開ということか。僕は、あるちょっとした演出で、「狂気」を、「幼児性」にすりかえた。だから、そんなにすごい表情は作らない。ところで、初演時を演出した末木さんの舞台で、きたろうさんは、別役体験をしているらしい。どんな方なのか聞いたところ、「すごく二枚目なんだよ」と言う。
夜からは、前半の稽古。なぜ、前半と後半が逆かについては、意味がない。
 道具方たちは、村島が考えたという方法でやってみる。少し面白かったが、なんだかよくわからない。それより気になったのは、道具方たちではなく、「額を押さえてぐらぐらする」場面がつまらなくなったことだ。理由を考える。もともとその仕草が面白いわけではけっしてない。構造的なものだ。構造的なまちがい。それにいたる過程が問題なのか。そこだけ取り出し、もっと考えつつ稽古しなくては。
 前半も通す。
 かなりいいと思ったが、女2が登場してから、がくっとだめになる。なんだろう。どこかおかしい。女2が長いセリフをまくしたてるところも、もっとやり方があるのではないか。きのうも、そこを指摘したので、池津なりに考えたのだと思うが、それが悪い方向に行き、稽古をはじめたころに戻った印象を受ける。なんだろう。明るさみたいなものがなくなり、やはり、うまくやろうとしているのではないか。
 そこがつまらないと感じはじめたらもういけない。あと全部、つまらなく感じる。
 だめだ。
 つまらない。
 八時になって、宮川君を出さなければならないと思って稽古終了にしたが、きょうが土曜日だということを忘れていた。宮川君、ラジオの仕事がないはずだ。で、気がついてもう一度、仕切なおそうとしたら、きたろうさんが、「おつかれさまー」と大きな声で言う。みんなが次々に、おつかれさまーときた。取り残された。僕だけ、取り残されたのだった。
 稽古終了。
 うーん、まだやりたかった。
 制作と演出助手らが片づけをしているのを待っていると、役者たちから永井のPHSに電話。これから飲みにゆくので来ないかという。稽古が終わると僕は、集中していたものがぷつっと切れ、不意に疲れがくるので、いやだなと思いつつ、ま、つきあいだからとちょっとだけゆくことにしたが、結局、最後までいた。
 無駄だ。無駄な時間だ。
 ただ、原さんや池津、今林と話しができたのはよかった。
 帰りはタクシー。家に戻ったのは十二時過ぎになっていた。

to 10/26



97/10/24(Fr)
 きのうと同じ子どもの城の会議室で十二時から稽古。
 昨夜というか、今朝だが、大人計画に関する原稿を四時ぐらいに上げた。これで一週間は原稿の締め切りがない。来月のほうが厳しいかもしれない。ま、なんとかなるだろう。家を出たのが十一時半だったので、思い切ってタクシーを拾って青山まで行く。意外に道が混んでいなかった。渋谷の手前でやや渋滞。それでも、十二時少し過ぎたあたりで到着。
 きのう、きたろうさんが疲れていたので気になる。
 声を掛けると、「大丈夫だよ」という。
 僕が書き足した部分の後半を稽古。台本にない言葉を付け足したり、引いたりする。それから妙なにぎやかさを作り出したくて、それを加え、これまでやっていたことよりずっといきいきとしたものになった。
 そういえば、今朝、メールの確認をしたら、音楽の桜井君から来ていた。演出助手の深見に何度も桜井君に確認の電話をさせていたのだが、頼むから、深見には電話をさせないでくれ、気がめいるとあったので笑った。それで深見に、少し声を変え、「鈴木です」と電話しろと命じた。あるいは、深見以外の人間が、一時間おきに電話するのも面白いんじゃないかと思ったが、冗談のために、こっちが大変になってもしょうがないですよと、みんなが言うので、それはやめた。
 で、きのうから懸案になっていた道具方のところ。宮川君、小沢君、村島君、さらに、佐伯の皮をかぶったサル君の四人がいろいろ考えてきた。
 まず、サル君のアイデアでやってみる。やや、なかなかにいい。サルの知恵だ。直せば面白くなるかもしれないので、それを発展させ、少し加工する。こういうとき、サル君はすごくえらい。サル君だけが家で考えノートにそのアイデアをまとめている。サル君は立派だ。だが、よく学校で見かける、授業中、一生懸命ノートを取るがちっとも点数の上がらない不幸な人に似ていなくもない。小沢のアイデアは、ただひそひそ声でやるというもの。これはこれで、私は嫌いではないが、それ以上、何も考えていなかった。もしかすると、小沢もサルか。村島は、三段落としだった。ある種、コントのテクニック。わかりやすい。笑った。きたろうさんが、「コントの人だねえ」という。オーソドックスだな。きたろうさん、それぞれにアドバイスする。
 サルが聞いている。
 うなずいている。
 わかっているのだろうか。
 さらに、きたろうさんが考えたものをやってみる。
 面白いが、芝居がむつかしい。
 最近ではこういう稽古をする機会もあまりなかったので、面白かった。稽古場で楽しんでるだけではしょうがないのだが。
 四時になって戸田君、早退。
 夕方から夜にかけて、後半の、男四を中心にした場面の稽古。なんとか軽くできないかと思って、考えていたら、原さんが「クッキー、食べててもいいんじゃないかな」という。ああ、そうか、それはそうだ。それが、表現されてしまうとなにか作為的だが、テーブルの上にある小道具のクッキーを、なにげなく食べられれば、そのことで男4の意識も分散され、効果的だろう。やってみる。このほうがいい。男1を追いつめつつ、クッキーを食べる。ある種の軽さと同時にそれがまた、怖さにも通じる。
 これがきょうの稽古の発見。
 こういうことがあると、稽古は楽しい。何度も同じ場面を繰り返しつつ、それを見ているうちに、新しい思いつきが生まれる。それで変更。だから、何度も繰り返す。ただ形を整えるということではない。
 面白くしようとして、あざといことはしたくないし、演出家の自己顕示欲が見えでもしたら、恥ずかしくてしょうがない。それでなおかつ新しい別役戯曲上演にしたい。その魅力をたもちつつ、稽古のなかで、べつのものを発見したい。この作業もまた、いままで経験したことのなかった面白さだ。
 八時過ぎ、宮川君が仕事なので、とりあえずここで終了する。
 稽古時間はいつもよりずっと少ない。
 少し不安だ。まだ、なにか見つけだすことがたくさんあるような気がしている。
 帰り、渋谷のビッグカメラでZIPのメディアを買う。それから少し歩く。考えごとをしながらゆっくり歩いた。人と接触せず、一人で茫然とする時間は、なんていいのかと思う。

to 10/25




97/10/23{Th}
 円形劇場のある青山の子どもの城の建物の十二階。会議室を稽古に使う。狭い部屋だ。窮屈だが仕方がない。十二時ぎりぎりに行くと、ほとんどの役者が来ていたが、村島だけが遅い。道具方のところをやろうと思っていたが、村島の出ていない後半を稽古。
 テーブルを囲んでお茶を飲むあたりだ。
 お茶を飲みながらの話、なんだかつまらないものになってきた。
 長く感じる。やはり、一分三十秒は長いか。
 やめるかもしれない。
 そこらあたり、少しずつ稽古。原さんが大声で怒鳴ると、伊沢さんが額を指で押さえ、ぐらぐらっとするのが面白い。この、「額を指で押さえてぐらぐら」がなんだか楽しくなってきた。ほかの場面でも、原さんが大声を出すところ、戸田君が「受け取りませんよわたしはそんなもの」というセリフを言うところで使うことにした。ここらあたり、伊沢さんも、原さんも楽しそうだ。だからいいんだろうな。
 喜びの記憶ということか。
 一時からだと勘違いしましたと、村島がすっかり遅れて来た。それで、道具方を稽古するが、やっぱり佐伯が面白くない。きたろうさんが、「楽しまなくちゃだめなんだよ」とアドバイスするが、楽しむというより、苦しんでいる。だから、「楽しむ」ということがどういうことか、説明した。「表現の喜びの記憶」の話だ。
 佐伯、うなずいている。
 わかったという顔。
 ほんとうにわかっているだろうか。
 サルにわかるのだろうか。
 不安である。
 でも、そこ、台本にはない部分で、佐伯になにかやらせたいと考えたから作った。佐伯にチャンスを与えたかったのだ。萎縮しているのだろうか。どうもちがう。もっと図々しくやればいいが、きたろうさんとかそばにいた場合、萎縮するなってほうが、むつかしい。
 それをひとまず保留にして、べつの場所を稽古する。
 時間がたつのは早い。もう夕方だ。食事休憩をとる。
 休憩のとき、佐伯にさっきの話のつづきをする。佐伯にとっての、「喜びの記憶」はないのか、普段の生活で人を笑わせた記憶はないのか質問すると、少し考え、「それギャグか、ってよく言われるんですよ」とのこと。これはだめだ。そういえば、普段から、佐伯に笑わせてもらったことがあまりない。笑いの根元的な感覚をこいつは持っていないのか。子どもの頃から笑いを享受してきた経験が少ないような気がする。
 だが、僕は佐伯が面白い役者だと思っている。
 つまり、「見ていると面白い人」なのかもしれない。「面白いことを表現してくれる人」ではないのかもしれない。
 で、なぜ、このことに、やけにこだわるかといういと、私の会社、ウクレレ所属の俳優である佐伯が心配だとか、佐伯を育てようとかってことでは一切、ない。そんなに私はいい人間ではない。それはワークショップで教えていることと関連する。自分の考えが、こうした稽古の中では、まるで意味をなくす場合があるからだ。おそらく僕がワークショップで教えていることは、「見ていると面白い人になれ」ということだ。「面白い」に語弊があるなら、「魅力的」と言い換えてもいい。「客観」を重視する作品では、面白いことをしてくれる人などまったく必要がない。「魅力的な人物が、ただ立っている姿」だけがほしい。
 これ以上書くと、いつも書いてる演劇論のように必要以上に難かしくなる恐れがあって、エッセイの読者が困惑するのでやめるが、とにかく、『会議』という戯曲を演出する私は、ここではすでに、「客観」を放棄しているということだ。つまり、「面白くしよう」としている。
 食事休憩後は、とくに後半を集中して稽古。
 見るからに、きたろうさんが疲れている。大丈夫だろうか。なんだか心配だ。心配になってきたので、八時に終了。でも、この二,三日で、きついくらい稽古をし、本番に向かって徐々にだらだらしてゆきたいのだ。つまり、逆にする。最初がきつくて、だんだん楽になる稽古。
 いっそのこと初日の前日を休みにしちゃおうかとさえ考えている。うそ。
 そういう演出をしたかった。
 だって、本番に向かってたいていの演出家は目つきがきつくなり、僕もそうなりがちだから、それを逆転させたいと思うのだ。
 だんだん楽になる稽古。
 弛緩する稽古場。
 だらだらする演出家。
 そういうものに私はなりたい。
 帰り、青山ブックセンターで、デザインプレックスという雑誌と、美術書など買って帰る。家に帰ったら、西武の最後の打者がセカンドゴロに倒れるところだった。ヤクルト優勝。だが、九十三年の優勝の時のようには私は燃えなかった。


to 10/24




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