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Matatabi Online
LOOKING TAKEDA
ここであいましょう
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ボクデス on the WEB
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Published: Feb. 21, 2003
Updated: Mar. 1 2004
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  (ENBUゼミの「短期集中講座」のページに直リンクさせてもらいました)

Feb.29 sun.  「ニブロールを観たことなど」

■「InterCommunication」(ICC NTT出版)の最新号でペドロ・コスタ監督との対談が掲載されています。ご一読いただきたい。対談ページの表紙は並んで撮影した写真だが、揃えたかのように二人ともタバコを口に持ってきている。新聞によれば最近、ヨーロッパでも「禁煙」の風潮が拡大しているとあり、「喫煙」は反社会的な行為であるといわんばかりの傾向が世界的に広がっているのを知ったが、テレビ演説をするブッシュが「同性愛結婚」について否定的に言及している姿とそれがだぶって見え、「帝国の意志」の圧力による息苦しさを感じつつ、タバコを吸いながらこれを書いている。
■ニブロールを観に新宿パークタワーホールに行く。『ドライフラワー』という新作だが、いままで観たニブロールの作品のなかでいちばんよかった。観ている私の気分がかなり反映した感想だとはいえ、それだけではないだろう。ニブロールはスタッフ総体のコラボレーションによって作られるが、固定されたダンサーが所属していないという意味では、僕の集団に俳優が所属していないのと似ている。踊る者によって作品の印象が変化するのは当然だとしても、しかし、矢内原さんの作品であることに変わりはなく、しかし、今回の完成度、というか、成熟度のようなものはどこから出現したのか。そして、これまでのニブロールの「ある部分」に魅力を感じていた者は、この整合性に否定的になるのではないかなどいろいろ見終わって考えたが、実作者として共感するものがいくつかあって、終演後、矢内原さんと話をし、ほぼ同じようなことを考えているのだと確認した。ニブロールと共同作業することに決めた。三月中にまた矢内原さんと会おう。もっと具体的に話を進めることを約束してホールをあとにした。
■家に戻って仕事のための読書。今週はこのノートが滞っていたのだった。書きたいことがほんとは山積で、書いてはいたものの、アップしようと思いつつ、しそびれていたというか、まあ、正直、疲れていた。オーディションやワークショップで時間を取られ衰弱しているのを感じたのだが、いったいいつまで演出をやっていられるのかと不安になるのは、オーディション程度のことでくたくたになるからだ。

■27日(金)。『トーキョー/不在/ハムレット』に向けて実施された「男優オーディション」の最後の日だった。場所はとつぜん吉祥寺である。井の頭通りが意外にすいていた。今回のオーディションは三日とも共通して同じ課題を出した。まず最初にやった「からだで表現する私の履歴書」は一人ずつの発表だが、そのあと『ハムレット』の冒頭から数ページを渡しそれを様々なスタイルで表現する。で、最後に、冒頭に登場する四人の登場人物がそのあと、どうしているか(台本にない部分)をエチュードで作る課題。俳優のいろいろな面を見せてもらうというのが目的だ。いろいろわかったものの、わかればなおさら選ぶのはむつかしい。ある程度の人数に絞ってあらためてワークショップをしようかと考えたがその時間をどう作るかだ。忙しい。

■で、そうした状況のなか、28日(土)は世田谷パブリックシアターへ、フォーサイスが振り付けをした、安藤洋子とフランクフルト舞踊団のダンスを観たが、その感想はあとで書くとこにする。
■で、いったん家に戻り、小説版『トーキョー/不在/ハムレット』のことを考えていたら、週末の夜の北川辺町に行かなくてはいけないと思いたち、出かけることにした。先日と同様、首都高から東北自動車道に乗り継ぎまた走る。加須のインターで降りると利根川を渡り北川辺町に入った。夜の北川辺町は暗い。途方にくれるような暗さだ。例のローソンの灯りは煌々としていたが、まだ夜の八時過ぎだというのに広い駐車場にクルマは二台。人の姿はほとんど見えない。このあいだは東武日光線・新古河駅に行ったので町にもうひとつある柳生駅も見ておこうと、「民俗博物館」があった小学校の前を過ぎ、さらに走ると、駅の周辺に民家はあるものの、暗いことには変わりなく、駅前に人の姿はほとんどない。若い男がひとり、駅前の暗がりに佇み携帯電話で誰かと話している。近くにクルマを停めて駅を見ているところに、ちょうど東京方面からの電車がやってくる時間だった。降りてきたのは五人ほど。迎えのクルマが二台。電車は走り出す。するとまた、ひっそりとした駅に戻った。この静けさはただごとではない。
■真っ暗な夜の道をクルマで走る。またひとつ北川辺町を理解した。なにもないことがいろいろなことを喚起し想像させてくれる。どこをどう走ったかよくわからないが、渡良瀬川を渡って茨城県に入る。さらに来たときとはちがう橋を使って利根川を越え、また埼玉県だ。東京に戻ったのは夜の11時半を過ぎていた。予約してあったテレビ番組をビデオで観たが、期待していなかったとはいえ、あまりの内容の薄さにあきれてものも言えない。劇作家協会が開いている「戯曲講座」でレクチャーをやったとき、休憩中、受講者の一人(テレビ関係者と思われる)が、「今度、テレビで東京の地下を扱うんですが、なにを取り上げたらいいでしょうか」と質問してきたのは、おそらくこの番組のことだと思うが、そのときすでに、テレビはきっと無理だと思いつついくつかやって欲しいことを伝えたものの、そこまで踏み込むどころか、最後は森ビルを礼賛するあきれた内容に、気絶しそうになった。ところで、いろいろ情報を提供してくれるヨミヒトシラズのT君がはじめた、「地下への道」は力作だ。今後の展開に期待が持てる。で、件のテレビ番組は、「例の本」と「その著者の名前」を出さなかったことが製作サイドのせめてもの良心であろう。この内容でもしそれを出したら失礼だ。テレビの限界だな。まあ、そんなことだろうと思っていたが。とはいえ、たとえ視聴率が1パーセントだとしても東京なら12万人ぐらいが見ていることになって、この数字はやはりただごとならない。だからこその可能性と限界である。
■フォーサイスの舞台を観ていたとき、たとえば、安藤洋子のソロ作品は、三人いるのになぜソロなのかなどと思ったものの、そんなことはどうでもよく、観ているあいだずっと、この作品はいつはじまったのか、どれだけ時間が流れたか、時間の感覚が麻痺するめまいのようなものが心地いいと感じており、この「めまい」はどうやったら作れるか考えていた。そして、舞台にはすごいからだの人たちがいた。ただ一人、黒人のダンサーがたしかに踊りはすごいんだけど、気持ちよさそうに「どうです、わたしは、こんなに踊れるんですよ」と言わんばかりの調子で踊るのがなんだか気持ち悪かった。二つ目の男五人のダンスが奇妙なのは、音楽がなかったにも拘わらず、パンフレットにその作品の「音楽」がクレジットされていることだ。どういうことかいろいろ想像しているうちに、舞台のアイデアがひとつ浮かぶ。で、観ながらさらに考えていたのは、唐突だが「ワークショップ」のこと、あるいは「演劇教育」に関するあれやこれやで、いま舞台で踊っている者らはまさに選ばれし特別な身体であり、たとえばそれは子どものころからのバレエの基礎はもちろんだが、基礎を身につけてきた者らの中でさらに選ばれてきたとするなら、「世界は平等ではない」というあたりまえのことをあらためて考え、すると演劇やダンスの教育、たとえばワークショップをいくら受けようと選ばれる者は限定されるし、だとするならそうしたリアルをワークショップの参加者がどう感受するかといったこと、そして、では、ワークショップはどういった意味を持つかだ。
■つまり、かつて何度も書いたことだが、「ワークショップで奇跡は起こらない」ということを、どの視点から考えるか。ワークショップには三つの視点があると思われる。
1)「講師の視点」
2)「受講者の視点」
3)「第三者の視点」
 この三点。「奇跡は起こらない」といくら、3)の「第三者」が見ていようと、1)が「奇跡は起こる」と信じ、2)が「奇跡が起こった」と感じれば、なにかよくわからない「奇跡」は出現してしまうのかもしれない。それは幸福な状態だ。3)がどんな目で見ていようと構わず、そこに「小さな幸福な空間」が出現する。ここでの「奇跡」の基礎をなすのは「西洋的な合理主義」であるのと同時に、キリストの「奇跡」にも通じる。だから僕がしばしば書いてきた「解放系ワークショップ」のシステムはたいていが欧米からの輸入だ。もちろん「選ばれし者」が漫然と踊っているわけはなく、トレーニングをきちんと積んだ上で、フォーサイスの要求に答えるからだを維持しているのだろうし、そうしたトレーニングに「方法」は有効にちがいないものの、やはり、ある「特別な身体」の前では、演劇にしろダンスにしろ、その教育において「方法」や「技法」は無力に思えてならない。まして短期間の「ワークショップ」で「奇跡」はけっして起こらない。「受講者」が「奇跡が起こった」と思ったとしたら、それは「錯覚」であり、欺瞞である。「奇跡は起こらないんだよな」ということについて教え、実感させるのが「ワークショップ」の可能性であり、そこに救いはないとさえいえる。
 だから、私がワークショップに対して意欲をなくしているのも、その「救いのなさ」をも凌ぐ異なる可能性を見つけられないからだ。ただ、誰かと出会う可能性はある。もしかしたら、どこかにいるかもしれない、誰か、とんでもない何者かが、なにかの拍子でワークショップに来てくれることの幸福はある。
 関係ないけど、人なんて勝手だなあと思うのは、かつて「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」で舞台をやっていたころは、「うまい俳優としか芝居が作れない人」として私は評価されがちだったが、最近、若い俳優や、ワークショップを多くやるうち、「未熟な役者をうまく使って芝居を作るのがうまい人」に評価が変わった。どっちなんだよ、俺は。だから人の意見なんて、あまり気にしてもしょうがない。といったことを、矢内原さんにも話したいと思いつつ、共同作業のビジョンに意欲がわく。でも、忙しいんじゃないのかと矢内原さんに切り出すと、「宮沢さんのためならなんとかなります」と言ってくれ、とてもうれしかった。うれしかったが、なんとかなるのかほんとうに。

■というわけで、『トーキョー/不在/ハムレット』はすごく楽しい仕事になりそうな予感がする。小説版も鋭意執筆中。締め切りが近くて焦っているがそれを乗り越えればもう大丈夫だ。とはいうものの、また「チェーホフを読む」という最大の悪霊がやってくる。二月はやっぱり早いよ。


 三月一日(月)からは早稲田大学演劇博物館で『遊園地再生事業団と宮沢章夫展』も開かれますので、ぜひごらんいただきたい。

(12:09 mar.1 2004)


Feb.26 thurs.  「儀礼的無関心について」

■からだのすべてをさらさなければならないのが、ひどく因果な仕事だと思わざるを得ないのが俳優だ。もちろん、かつて書いたものをいま目にしたとき、ひどく恥ずかしい気持ちになることが作家にもあるが、「恥ずかしさ」の点では俳優の比ではないように思うといったことを、早稲田大学演劇博物館に行って考えたのだった。
■三月一日(月)から、演劇博物館で、『遊園地再生事業団と宮沢章夫展』が開催される(八月六日まで)。その展示の確認をしに行った。過去の作品の舞台写真や、フライヤーなどが拡大され、パネルになって展示されている。パネルにしてあるととてもきれいだが、これ、ほんとに展示していいのだろうかと思うような写真がないわけではない。もちろん、映画だったらフィルムとして永遠に残る運命にあるが、一瞬にして消えてしまうはずの舞台も、写真という形態でこうして残される。俳優はそうしたことを引き受ける人たちなのだな。マイナスばかりではなく、プラスに考えればある過去の時間の自分が刻まれ、過去がいい姿で保存されることもまた俳優の特権にちがいないが。
■しかし、いろいろな資料があって、当事者でありながら見ていて面白かった。まあ、懐かしいという気持ちもあるがよくこんなものが残っていたなという舞台の小道具に驚く。小道具を担当した武藤の作品、たとえば「鷲」がある。砂漠監視隊の衣装もある。あ、でも僕が恥ずかしいのは、ノートに書いた、遊園地再生事業団第一回公演、『遊園地再生』の手書きの台本だ。十五年ほど前に書いた。『遊園地再生』の舞台写真を見れば、松尾スズキ、吹越満、温水洋一、宮川賢、布施えりらがまだ若い。『ヒネミ』再演を見ると、村松克巳、大杉蓮、徳井優、中村有志、深浦加奈子、山崎一と、豪華キャストだ。「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」のころの、竹中直人、いとうせいこう、大竹まことらを含め、ものすごい数の人たちと仕事をさせてもらえ、それがやっぱり僕にとっていちばんの財産だ。どれだけ教えられたことがあったかわからない。

■きのうまで入学試験だったという早稲田は静かだった。人の姿もまばらだ。かつてならいたるところにあった立て看板もなく、やけに整然としている。演劇博物館の坪内逍遙の部屋を見学させてもらったあと、そこを辞し、永井とキャンパスのなかにある喫煙所でタバコを吸いながら簡単な打ち合わせ。というか、立ち話。桜井圭介君から携帯に電話があり、ダンスの公演に誘われたがさすがに今週はもういっぱいいっぱいだ。オーディションでかなり疲れた。
■家に戻ると、「ユリイカ」(青土社)の最新号が届いていた。特集は「論文作法」。ぱらぱら見ていると、「引用学」と題された北田暁大の文章に目がとまった。というのも、ネット上の「リンクするという現象」を例にあげ「引用」について考察しているのが興味深かったからだ。僕は「リンク」をはるときほとんど了解を得ていないが、むしろリンクすることが「リンクした相手」にとってもそれを「参照する側」にとってもいいことだと単純に考えてそうする。そうではない「例」もある。そうではない「例」によって、「誰も幸福にならない事態」の可能性についてまず書かれ、つまり、ごく小さな仲間のなかだけで流通しそのつもりで書いていた「
blog」や「日記」がリンクされたことで、多くの人の目にさらされ、それに怯えた書き手が日記を中断し、さらにサイトさえ閉じてしまうことがあるとしたら、いったい誰がそのことで幸福になれるだろう。そのことを「はてなダイアリー」で提議をした方がいて、その後、論争が生まれたという。
■繊細な問題だ。僕のこのノートは、どう扱われようと、どんな形で使われようとリンクフリーだし、その覚悟で書いているが、誰もがそう考えているとは限らない。先に上げた「提議」の文章には「儀礼的無関心」という言葉が使われている。社会学の用語だそうだが、つまり、町で人と接触するのが一般的な社会というものだがそこに配慮を働かせ「見て見ぬ振りをする」といった態度のあり方が「儀礼的無関心」だ。ネットという「社会」でそれは通用するかどうかが論争の焦点になるのだろう。「
blog」や「日記」は、すでに一般に公開された「表現」として「批評」の対象になるか、それとも、「社会」に流通する「現象」に過ぎず、道行く人とすれ違うように接するのか。どう解釈するか。

■少しずつ、『トーキョー/不在/ハムレット』に向け、からだが温まってきた気がする。いろいろ思いつくことがある。小説版の締め切りも近い。北関東のことばかり考えている。

(11:54 feb.27 2004)


Feb.25 wed.  「人のことを骨で見ている人」

■突然、遊園地再生事業団の次回作『トーキョー/不在/ハムレット』のフライヤーのデザインについて思いついたのは、この有名な絵を写真で再現するというものだ。川に流された女である。オフィーリアである。モデルを誰にやってもらうかも問題だが、なにより、この湿地帯のような場所をどうやって完璧に再現するか。スタジオにこういったセットが組めたらと思うものの、そんな予算があるわけがない。『トーキョー・ボディ』の写真はなにしろ永井の部屋で撮影した。あれはヌードだったので撮影はデザイナーの斉藤さん(女性)、僕は外で待っており、そこに永井(女性)がポラロイドで撮影したものを届け、確認するという作業工程だった。予算があればなあ。あるいは、あの絵とまったく同じ場所がどこかにあればいいと思うが、そういうことはおそらくない。あとモデルがぶくぶくぶくと水に沈んだら笑うなあと思ったが、自力で上がってきてもらうしかないだろう。
■午前中、「考える人」(新潮社)の連載原稿を書き上げてメールで送る。「なにも考えずに北川辺町に行く」について書いていたが、はじめ「こたつ問題」に触れてそれがやけに長くなり、最後、ばたばたと終わるはめになった。この連載は原稿用紙8枚という分量。「ユリイカ」(青土社)の「チェーホフを読む」の連載は25枚で、毎月25枚書いていると、8枚がやけに短く感じる。まして「一冊の本」(朝日新聞社)の連載は、3枚弱なので、あれっと気がつくと終わっている。「慣れ」はおそろしい。そして私は、こたつがだめだ。こたつは人をだらしない気分にさせる。それがどうもいやなのだ。
■午後、小説版『トーキョー/不在/ハムレット』を少し書いて、北川辺町のことばかり考えていた。「東京の地下」から、いまは北川辺町の「隠れキリシタン問題」に興味が動いてきた。このあいだ、野村萬斎さんの「狂言劇場」のときに催されたアフターセミナーで、演劇評論家というか、東大助教授で演劇を研究なさっていると書いたほうがほんとは正しいのか、とにかく、このノートをいつも読んでいてくれる内野儀さんが「地下について話せ」としきりに促すので話したが、興味が移っているとはいえ、やっぱり話していると「地下」はきわめて面白い。内野さんとも「光が丘」のことを話し出すと止まらなくなるような気がする。で、笑ったのは、「狂言劇場」のとき地下についていろいろ語ると、会場から、「ほう」といった反応があったことだ。私はそのとき、蘊蓄王になっていた。

■さて、今週も「テキスト・リーディング・ワークショップ」である。唐十郎の『少女仮面』を読む。いろいろ考えることはあったが、今回、こうした形式(ワークショップ)で読んで印象に残ったのは、やはり「演劇」と「死」の親和性だ。
■もちろん、再演された舞台も見たことがあるし、戯曲も読んだことはあったが、ワークショップというごく日常のなかで、しかも、なんの思い入れもなく声に出して受講者たちは読み、すると、「死者たちの影」ともいうべきものが奇妙な姿で立ち現れ戯曲が内在する構造を冷静に見つめることができると感じた。いわゆる「アングラ演劇」が反近代的な心性として参照したのは、「能」という芸能に存在する「幽玄」ではなかったかと、『少女仮面』にその反映を見た。「能」において「幽玄」は、「枯淡にして心の深い境地。ひえさびた美」のことだが、「能」そのものが「生者」と「死者」の世界を往還することによって表現の魅力が生まれ、その「美」は、「死の世界」の陰りを引きずっていると感じるのだし、近代以前のこの国にあった「美」のひとつの姿がそれではなかったか。「死者の世界」、あるいは「黄泉」と「現世」が遠く隔たってはいなかった。唐十郎はそうして、この国にかつてあった「美意識」を参照し、そこに、「満州」「甘粕大尉」「嵐が丘」といった言葉から立ちのぼるロマンチシズムを盛り込むことで、「アングラ演劇」と呼ばれる劇世界の空間を、六〇年代に出現させた。おそらく当時としてはきわめて新鮮だったはずだ。福田善之の『真田風雲録』の先駆性とはまた異なる、異質な世界観をこの国の「演劇」にもたらしたのだろうと想像できる。
■終わってから、今月の打ち上げだ。いつもの居酒屋へ。いろいろ話した。カイロプラティックスを勉強している人が受講者のなかにいて、僕のからだを見ると、骨の形がおかしいという。ここと、ここが痛いでしょう、肩が内側に入っているので、背中の筋肉が引っ張られています、いまに不整脈が出ますよとアドヴァイスしてもらったが、いちいち指摘されたことが当たっているので驚いた。「骨の形」だけでわかるという。というか、この人、人のことを「骨」で見ているのではないかと思った。つまりは「レントゲン視線」だ。きのう絵画のことを書いたが、そういえば人体デッサンでもやはり、骨格の標本図を参照していたのも思い出し、人とは「骨」なのだなと、また異なった「からだ」へのアプローチの方法を喚起されたのだった。あと、この三月で東京を引き払い札幌に帰るという人がいた。なにか切ない気分になったし、かと思うと、話してはじめてわかったが、俳優座の準劇団員という人もいた。人生いろいろである。
■で、女性の受講者たちから、なぜ『トーキョー/不在/ハムレット』のオーディションは男優限定なのか責められる。「ま、いろいろ事情があって」としか答えられなかった。そうか、いま思いついたが、僕は演劇においてカイロプラティックス施術者的だ。つい骨(=構造や方法)に目がゆく。そうではない視線があるはずだ。そうではない演劇へのアプローチがあるにちがいない。

(14:50 feb.26 2004)


Feb.24 tue.  「オーディション二日目」

■そういえば、青山真治さんの「名前のない日記」で、「絵コンテ」を描かなくてはいけないのに「僕は絵がド下手だ。自分で描いた絵を見て泣きたくなる」とあるのは、おかしいような、悲しいような話だった。やっぱり「絵を描く」のも「手の運動」なので、最近、ほとんど僕も絵を描く機会かなく(=手を動かさない)、すると、すごくへたくそ(=手が動かない)になっていることに気がついて愕然とする。わたしはこう見えても美術大学出身である(中退だけど)。なにか説明するとき、絵を描いて相手に示すが、最近うまく手が動かない。「つまり、こういう、ほら、これが、……なんだこれは」と説明のために描いた絵を見て自分で驚く。へただ。
■アドバイスするのもおこがましいが、ふだんからスケッチをするといいと思います。最初うまく描けなくても、とにかく手を動かす。やっぱり絵を描くのも手の運動だ。繰りかえすうちに誰だって動くようになるはずで、というか、僕もそうしようという自戒だ。クロッキー帳でも買いに行こうとふと思い、で、むかしすごく好きなスケッチ用のノートがあったんだけど、最近それを画材屋で見ない。町に出て人の姿をスケッチしようとするのは、このあいだ書いた文章における「描写」のこととも関係する。スケッチするためには対象(=人、風景)をよく見なくてはいけない。よく見る。それを絵に描く。で、身体的に認識する。さらに文章に置き換える。といった訓練はなかなか有効ではないか。「見る」ことは重要だな。
■さらに青山さんは「幸福」について書いていた。僕が「幸福」についてこのノートで触れたころ、共時的に青山さんもそれを考えていたという。ふだんなにか見るにつけ、読むにつけ、「このばか」とか、「死んじまえ」と思うことは僕もしばしばあるが、そう思える世界はある意味、幸福なのかもしれず、こんな僕ですら世界が幸福であればと感じるあいまいな気分の漂う時代こそ、「不幸」なのではないか。幸福になってもらいたい。とにかく幸福に。

■朝、六時起床。このノートを書き、「考える人」(新潮社)の連載原稿を途中まで書いていたが家を出る時間になった。オーディション二日目。再び、東武東上線・中板橋へ。今回は迷わず現地に到着。午後一時から、七時まで。集まったのは男ばかりが21人。最初はやっぱり、みんないい俳優だと感じるが、少しずついろいろなことをさせてゆくうち、わかってくることがある。悩む。毎回、オーディションのたびに言うのは、たとえ落としたとしてもそれは表現者としてのその人を全否定するわけではないということだ。たまたま今回の作品に必要な俳優を選んだのであり、たまたま僕という演出家の目がそう見ているに過ぎない。ただ、書類段階で落とした一人から制作の永井に電話があり、「なぜ落としたか、その見解を聞きたい」と質問してきた者がいるそうで、困ったことになっている。「見解」を知って「次のオーディション」の対策にでもするつもりだろうか。だからやっぱり、それも今回に限った偶然でしかない。そもそも、「対策」ってないと思うよ。俳優はからだひとつが持ち物だ。
■まだオーディションは続くので詳しくは書けないが、今回の作品のイメージにあう人という基準と、俳優としての技術的なもの、本来その人の持っている魅力など、考え出したら混乱する。俳優の視点に立てば、自分にあった、「作品」「演出家」「役」がきっとあるはずで、自分がもっとも映えるものに出たほうがぜったいにいい。選ぶ側としてもそういったことは考えており、この人はいいが、今回の作品は少しちがうだろうと思えば、次の機会に出てもらおうといったことはある。しかし、やってみなけりゃわからないこともあるしで、「劇団」というスタイルを取らない集団の場合、それはそれで困難をいつも抱えているのだ。
■まだ一年ある。そのあいだにプレ公演はあるものの、突然、本公演に出てもらう女優、男優がいてもいいのかもしれないし、それもまた、またべつの劇の作り方になるのではないか。

(11:02 feb.25 2004)


Feb.23 mon.  「オーディションで中板橋へ」

■午後から『トーキョー/不在/ハムレット』に向けての「男優オーディション」がある。オーディション会場にあてられたのは、板橋区の貸スタジオのような場所。東武東上線の「中板橋」という駅の近くだと商店街をクルマでうろうろする。「一方通行」に苦労したものの、どこをどう走ったかよくわからないが、とりあえずコインパークに入れてその場所を探そうと歩き出したら、驚くべきことにすぐそばだった。この勘のよさはなにごとか。幸先がいいとひとり満足する。
■きょうは十九人集まった。応募は百二十人だったが書類段階で六十人に絞ったものの、しかし、それでも三日間に渡って二十人ずつぐらいに会わなければならない。会って簡単な芝居をしてもらうとみんないい俳優のように見えてくるが、ワークショップ形式で長い時間やっているうちに、少しずつ差異が見えてくる。しかし、だからといって選ぶのはそう簡単ではない。いろいろ考えてしまう。「芝居がうまい」「芝居ができる」といったことはとても複雑だし、今回の舞台にあった人を探すことに重点をおけば一定の選択基準は自ずと決まってくるというものの、だが悩む。これから長い時間の稽古をしてゆくにあたり、やっぱり、というかぶっちゃけた話、長い時間一緒にいて苦痛でない人がいい。演劇は作品に関わる者が同じ時間、同じ空間にずっと一緒にいなければいけないという奇妙な表現分野だとするなら、ばかものと一緒にいるのはちょっとどうもな。そうはいってもやはり選ぶのはむつかしい。
■そしてまた、いろいろな人間の「からだ」を見ていると、「からだ」についてもっと考えようとあらためて思う。いま「有効」な「からだ」、あるいは、いま演劇が必要としている「からだ」とはなにか。その訓練はどうあればいいか、あの二〇〇一年の九月十一日からどうもそこらあたりが曖昧になっている。

■さて、さらに21日のことを少し記録しておこう。
■「民俗資料館」が荒れ果てていたことはすでに書いたが、なぜか「学童保育げんきクラブ」から入って展示室を見る。そこには古い農機具や、かつてこの町で使われていた生活用品が雑然と置かれていた。部屋ごとに一応の分類はあるものの、説明もなく、ただ並べられているので、「各家で、いらなくなったものを、ここに持ってきただけではないか」という結論になったが、とにかく数は多い。貴重なのか、なんなのかよくわからない。部屋にはかびの匂いが充満している。かび臭さが僕はどうもだめらしく、京都の東寺にいったときもやはりその匂いで気持ちが悪くなった。こういう人間は考古学とか歴史学はできないのだろうと思った。
■すでに書いたように、町役場で紹介してもらって図書館に行き、『関東平野の隠れキリシタン』という本を発見したがその詳述はやはりまたにする。ひどく長くなる予感がするからだ。その本の「北川辺町」とその周辺の土地について書かれた部分をコピーし外に出た。渡良瀬貯水池に向かう。この冬、あまり雨が降らなかったせいか貯水池はかなり干上がっていた。「魚釣り禁止」などの看板があるが、貯水池のなかにある島へ渡る橋では、魚を捕る者らが堂々とそれをしている。風のない日でよかった。暖かくてよかった。冬に来たらたまらんと思わせるような荒涼とした風景だ。池のほとり、藪のようななかなど、いくつかの場所で笠木に『ハムレット』を読ませそれを撮影。なにかに使えるかもしれない。とにかく、どこかに行ったら『ハムレット』は読むのだ。

■渡良瀬貯水池に閉門時間があるとは知らなかった。そろそろ閉門の時間ですと告げる放送がしばしば流れる。監視車も巡回している。それで帰らなければと最初に入ってきた門に行くと、クルマが入れないようにしてある大きな門は最初から閉まっていたが、さらに時間になって「閉まる門」がたしかにあったものの、それは歩道にある、高さ十五センチほどのものだった。またげば簡単に入れる。しかも、もう閉門時間だというのになかに入ってくる人の数は多い。このだらだら感はなにごとだ。
■まだ明るいうちに「渡良瀬貯水池」をあとにした。また来ようと思う。今度は四月ぐらいがいいかもしれない。季節ごとにここに来ては、いろいろな『ハムレット』を撮影しようと思うのだ。今年、なんどかあるプレ公演のうち、七月は池袋シネマロサで「映画上映会」がある。そのためにはきちんと作らなければいけないが、とにかくいまは素材を撮影しようと長い時間をかける。じつはオーディションも撮影した。これは審査用という意味もあったが、なにかに使えるかもしれない。
■それからさらに町にある二つの駅のうち、東武日光線の「新古河駅」に行ったが、見事なほどなにもないさびしさの漂う駅だった。比較的新しく作られた駅だとは聞いていたが、このなにもなさはいかがなものか。いったいこの町で、ヤンキーたちはどこに集結するのだろう。暴走族などいるのだろうか。いたとしたら集合場所はどこか気になるものの、集まるとしたら、最初にわれわれが行ったローソンしかない。夜の「北川辺」にも来てみないといけないと思った。まちがっても「民俗資料館」には集まらないだろうし。

■さて、きょうの帰り、オーディションの手伝いに来た久保をクルマで池袋に送る途中、道に迷う。どこを走っているのかまったくわからなくなった。なんとか池袋にたどりつきようやく家に戻る。疲れた。原稿が書けない。さらに「新潮」のM君からも「悪霊メール」が届く。みんな待っていてくれてほんとうに幸せな話だと思った。繰りかえすようだが、たとえそれが、悪霊だとしてもだ。

(7:09 feb.24 2004)


Feb.22 sun.  「さらに北川辺町に行ったことを書こうと思ったが」

■朝日新聞の一面の記事は、警察官による女児連れ去り事件だった。『シンセミア』だ。記事(新聞のほうの)を詳しく読むと容疑者はいくつかの職を転々としたあと警察学校に入りその後巡査になっている。警察官は、「警察官」をはじめから目指すような人物なのかという思いこみはここではずいぶんちがう印象になる。「警官にでもなるか」と男が考えたとするなら、つまり、「国家権力にでもなるか」ということであり、こうして出現する「軽さ」が、「権力」の持つ重苦しさとバランスを欠いてどうにも奇妙だ。
■それはともかく、北川辺町についてさらに書かなければいけない。「民俗資料館」がいかにだめだったか。北川辺の人は、「なんだっぺや」と話すこと。渡瀬貯水池で『ハムレット』を読む笠木を鈴木と浅野が撮影した話、そして貯水池の水際、ぬかるんだ泥の中にずぶずぶとはまっていった笠木を、笑って見ていた私たち。『関東平野の隠れキリシタン』の「北川辺町」の項を読んでさらに知ったことなど、書くことはいろいろあるが、時間がない。あと、現場にある標識には「渡良瀬貯水池」と表記されていた。だけど資料を見るとたいてい「渡良瀬遊水池」とあるので混乱する。
■画像も増え文章も長くなってこのページがいかんともしがたく重くなったので、2月20日以前の数日は、「二月前半」のページに移動することにした。あれもやらなければいけない、あっちも書かなくてはいけないと思いつつ、ただ焦る日々である。今週は「男優」のオーディションもある。フォーサイスも見る。ニブロールも見る。いつ原稿を書くんだ。

(11:45 feb.23 2004)


Feb.21 sat.  「北川辺町に行った」

■埼玉県北埼玉郡北川辺町は、関東平野で最初の「隠れキリシタン」発祥の地だった。とはいっても、いまの住民のほとんどはその歴史を知らないし、先祖が「隠れキリシタン」だったとしてもそれを公表することはない。その町に行って、偶然知った事実だ。いまもごく限られた有志によって「祭り」が秘密裏に開かれているが、住民たちの多くはその存在も知らない。なぜ、それを僕が知ったかは、あとで詳しく書くことにする。
■天気のいい日だった。その町に行った。町を見た。人にあった。資料も調べた。さみしい民俗資料館にも入った。渡良瀬貯水池も見た。バードウォッチングする人たちもいた。


■ふとしたことで、「北関東」に興味を持ったのは少し前のことになる。それでなんども地図を見ているうち、埼玉、栃木、群馬、茨城が接している場所を見つけ、そこに渡良瀬遊水池があるのを見つけた。さらに地図を見ていると、奇妙な土地があるのに気がつく。利根川と渡良瀬川に挟まれた三角州のような場所に町があり、しかし、群馬でも茨城でもなく、埼玉に属している。これはおかしい。利根川の向こうはたいてい、群馬か、茨城なのにも拘わらず、そこだけ埼玉だし、しかも、「埼玉、栃木、群馬、茨城」の接点のようにその町はある。あとで地図をあらためて見ると、その町は、東京、神奈川、千葉を含めた関東全域の中心点にもなる。
■埼玉県北川辺町だ。とても興味を持った。おそらくなにもない、どこにでもある町にちがいないだろうが、興味を持ったら一度は足を運んでみたくなる。以前、ワークショップで、「町をフィールドワークする」という課題があった。そのとき、「面白い町はない。町の面白さはある」と話したことがあるが、つまり見る側が対象をどう見つめるかが必要で、町はなにも語り出してはくれないということだ。北川辺町を地図の上だけで見つめている時点で、僕の視線だけがあり、ほかになにも情報などないまま、「面白そうだ」という視点と主観だけがある。
■とにかく北川辺に行こう。なにも見つからなくてもいい。むしろなにもないほうがいい。小説の舞台として、劇の設定として、作品のひとまずの拠点としてそこに向かうことにした。なにもなくても書くのが作家の仕事だ。「路地はどこにでもある」。そして最初に書いた「隠れキリシタン」とその秘祭について発見したがやはりそれはまたあとで。

■朝、部屋を出るととんでもなく天気がいい。きょう同行してくれる、撮影班の鈴木、浅野、それから笠木が、うちのマンションの前でぼんやり待っていた。あたたかい。春のような日。三人をクルマに乗せ明治通りに出る。王子の先から首都高に入って、その先は東北自動車道だ。都内は少し渋滞していたが、高速に入ると快適である。加須(かぞ)のインターで高速を降りると、そこはもう埼玉の北部である。北関東はこの時期、風が強く寒いと教えられていたが、やけにあたたかい。田園地帯のなかを一路、北川辺へ。利根川を渡る。あとで知ったがかつて北川辺から利根川を渡って埼玉側に行くには、渡し船しかなかった時代がある。
■町役場が近くにある、町の中心ともいうべきポイントには、ガソリンスタンドとローソンしかない。あとパチンコ屋。ファミレスならどこかにあると思ったが調査が足りなかった。どこにもない。食べ物屋など見あたらない。ただ田圃だけが見える。ところどころに住宅。仕方がないのでローソンでおにぎりなど買って駐車場で食事をする(あとで気がついたがすぐ近くに美味しそうなそば屋があったので失敗)。それからローソンで地元の詳細な地図を買い、今後の方針を検討する。なにもないなあ。いや、それでいいのだ。なにもないからこそ面白いのだ。地図に大きく赤い文字で表記されていた「民俗資料館」に行くことにした。
■「民俗資料館」は荒れ果てていた。なにしろ、一瞬、見過ごしてその前を通り過ぎたくらいだ。鈴木が、「あ、いま、そこに民俗が」と言ったのでようやくわかった。「民俗資料館」は小学校の敷地の中にあって向こうにコンクリート建ての校舎が見え、おそらくもう使われなくなったのだろう古い木造の校舎を利用しているらしい。整備している様子はなにもない。入り口がわからず困っていると、人がいたので笠木が民族資料館を見学したいと申し出ると、ここからどうぞというので入るが、そこは、「学童保育げんきクラブ」の入り口である。靴を脱いで上がると人の家におじゃましたような案配で、げんきクラブを抜け、かつての校舎の廊下を通って展示室に入る。展示室はつまり、かつて使われていた教室だ。ここのことも詳しく書きたいし、渡良瀬貯水池のことも書きたいが、それより、「隠れキリシタン」について書いておこう。

■その後、町役場に行ってこの町の資料になるものがなにかないか質問すると、簡単な町を紹介するパンフレットを渡してくれた。さらに図書館がないか訊ねると、コミュニティセンターのなかに小さな図書室があるという。センターは市役所から歩いてすぐの場所だった。案内されてなかに入ると、それほど大きくない、たとえば学校の教室二つぐらいの空間に、本棚が並べられているものの、蔵書も多いとは決して言えない。入ったとき、何気なく左に歩いた。笠木たちは右手のほうに行く。僕はそのまま左へまっすぐ歩き、なにかに引き寄せられるようにその本の前にいた。見れば、『関東平野の隠れキリシタン』(川島恂二・さきたま社)という本がある。関東平野に広がる各地区における「隠れキリシタン」について詳細に記された分厚い本だ。北川辺町を探した。すぐに見つかった。何気なく見つけてそれを読み、ほとんど期待してはいなかったが、最初に書いたように、関東平野で最初の発祥の地ということを知って驚いたが、同時に、この土地の地形(利根川と渡良瀬川挟まれた三角州)の奇妙さの意味が少しわかった気がした。水害に苦しめられた歴史のある町なのは予想していたし、この不利な土地で生きようとする人たちの歴史には興味があったが、それがまさに『関東平野の隠れキリシタン』に書かれている。
■こんなことを口にすれば奇妙だが、その本に呼ばれた気がしたのだ。この土地に来ることがなにかに決められていたかのように、そして、その本の前に立つことがあらかじめ予定されていたようにそこにいた。多くのことを教えられた。なにかを書けと、その本と、「土地」そのものがうながしているかのようだ。
■この項、つづく。更新は、今夜か。あした、か。

(8:42 feb.22 2004)


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