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Published: Feb. 21, 2003
Updated: Feb. 16 2004
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Feb.20 fri.  「呼吸の創造」

■「文學界」のO編集長からメールがありいきなりこうはじまっている。
「悪霊」メールです。
 なんという恐ろしいメールだろう。「文學界」には「神戸のあの町に行った話」をどうしても書きたい。京都から、そのニュータウンまで行くまで移動していた車内、ずっとビデオを回しそのあいだ「あの中学校」の卒業生に話を聞いた。会話が中心だ。とはいうものの小説では、話し相手になってくれた若い男などかなり創作が含まれる。そこから感じたこと、現実、そして町を描こうと思っているが、最近、『ヴァンダの部屋』のプロモーションをしているHさんから、本田孝義監督の『ニュータウン物語』というビデオを送ってもらたものの時間がなくてまだ未見。ふつふつと書こうと思うことは膨らんでゆく。なぜ、あの町に行こうと考えたか。単純に僕は、京都からそこにいたるまでの、彼との会話が小説になると思っていたし、「事件」そのものはずっと底辺に流れているとはいえ、これはある意味でのロードムービーだ。書くことそのもによって考えることがいろいろあると思っている。
■小説を書く順番が当初予定したものとはずいぶん異なってしまった。だだっと書くのはことによると「勢い」によって意味のあること(『サーチエンジン・システムクラッシュ』がそうだった)にも思えもし、特に「en-taxi」に書く小説は勢いにこそ本領があると思えてならない。文學界に発表したい『ニュータウンへ』(仮題)はそれとはまた異なる仕事になると思う。『草の上のキューブ』で習作としてした作業を踏まえつつ、ぜったいに面白い小説にしてみせる。それにしても「悪霊」のメールは怖かった。

■きのう演技について考えていたところ、ふと「呼吸の創造」という言葉を思いついた。
■演出をはじめたのは、20代の半ばだったと思うが、まず気がついたのは「呼吸」のことだった。もう20年近く前になる。「呼吸」こそが演技の基礎だと考えたのはあることがきっかけだった。また新しい「呼吸の創造」が必要だと思えてならない。「新しい呼吸の技法」。それは「からだ」からの出発だとその後に考えた。インターネットを調べると様々な身体論、身体の訓練法があることを知ったし、「声」「呼吸」について書かれた本も数多くある。だから、新しい「呼吸を創造」する必要がある。僕はそもそも、いまではすっかり完治した「ぜんそく」に苦しめられた経験があり、呼吸にはかなり意識的ではあった。「呼吸」が苦しいとそれに伴って身体が緊張し、縮こまるような感覚を受ける。堅くなる。いかにして「やわらかいからだ」は可能かと考えればいかに楽な「呼吸」が、「技法」としてできるかが、演劇術にも関わってくると思える。「呼吸」によって「声」もまた変化する。そのとき、「からだ」はどうなっているかということなのだ。単純なことを書けば、椅子に深々と座り、だらんとした状態のときの「声」と、椅子から前屈みになって「声」を出すときでは、からだの状態が「声」にあきらかに反映され、そのとき「呼吸」も姿勢によって変化する。「呼吸」が意識も変化させ、「からだ」にも影響を与える。
■それを考えていたのはずいぶん過去だが、仏教の瞑想における「呼吸法」がかなり参考になった。まだ考えが中途半端だ。そして、その次に来るのが「訓練法」で、この「訓練法」というか「トレーニングのやり方」によっては、気持ちの悪いものになるおそれはかなりある。きのうも書いた「からだ」についての探索はそのことを考えるのが中心だった気がする。

■きょうは一日、休んでいた。休みつつ演劇のことを考えていた。まったく家を出ないでそんなことばかり考えていた。そういえば、いまは演劇をやっているがかつて「ヤマギシ」にいたある人からメールをもらって、それがとても興味深い話だった。おそらくきのう書いた「特別な集団」について彼なりの実体験を教えてくれたものだろう。とてもためになった。また今度、紹介したい。

(6:15 feb.21 2004)


Feb.19 thurs.  「稽古第二回、また池尻へ」

■文芸評論家の斉藤美奈子さんは、『文章読本さんゑ』『男性誌探訪』など次々と上梓し絶好調だが、以前、なにかの新人文学賞の審査で、ある著名な作家の名前をあげて新人の作品を評し、「この小説は○○○にほめられなかっただけでも、すぐれている」といった意味の発言をしているのを読み笑った。僕の小説も「○○○さん」に褒められなかった。二度に渡って否定された。ばっさり否定。
■その斉藤さんの最新刊が、『文学的商品学』だ。前書きで小説の読み方に触れている。ストーリーや登場人物しか読んではいないか。それだけを読むのではもったいない。「いっけん些細な細部にこそ、その小説の魅力がひそんでいるケースは少なくないし、筋書きや主人公にのみとらわれていると、おもしろいかもしれない小説の『おもしろさ』を見逃してしまうかも知れない」とある。それでたとえば、小説に登場する人物がどんな服装をしているか、その描写について細密に読んでいる仕事はすごい。いかに三島由紀夫がうまいか、谷崎潤一郎がどんなふうに鮮やかに着物を描写しているか、現在の作家たちの描写と引き比べて例証してゆく。すると、悪い例に出された人たちの描写のへたさがくっきり浮かび上がる。というか、三島、谷崎はすごい。見事だ。描写そのものが美しい。だってねえ、悪いほうの例にあげられた作家の女性の着ているものを読むと、いないよ、そんなやつ、いまどきっていったふうなダサさで、「白地に小さな花模様のブラウス。濃紺のフレヤ・スカート、アクセサリは金色のブレスレットだけ」って、現代の人ですか、これが。しかも文章がぞんざいだ。
■さらに村上春樹に触れ、一人称の「ぼく」によって書かれた小説において服装を細かく描写された女性は、たいてい「ぼく」が下心を持っており、結局セックスに至ると分析しているのが斉藤さんの鋭い読みだ。たとえば、『ねじまき鳥クロニクル』で「加納クレタ」という女性の描写がやけに細かいことは私も気になっていたが、そうした「春樹の構造」があるとは気がつかなかった。人間、やはり修行である。もっと細密に描写し、その描写が文章としてきれいであらねばと思う。いやべつに、下心はない、わけでもない、わけではない、といったような。修行だ。

■「en-taxi」のために考えている、『トーキョー/不在/ハムレット』の小説版のために今週、北関東「北川辺町」に行き、それももちろん書くが、さらに、「新潮」に渡す『28』は、調べることが多くてたとえば自衛隊の資料が積み上がってゆく。というか、それまで書いていたことが、自衛隊の歴史を通じて「戦後」を書こうとしているまたべつのテーマだと石破防衛庁長官の顔を見ているうちに気がついたのだ。もちろん直接的ではないが、そこが要だ。
■さらに小説中に登場する「劇団」がある。活動を何年か中断したあと、突然、「自己啓発セミナー」みたいな集団になって戻ってくるというのは、ある方から以前教えてもらった「実在する劇団」の変容がヒントだ。Sさんという女性からのメールだった。「からだ」についてずっとこのサイト内で書きつづけていたころ(一九九九年後半)だ。ある種の「演劇トレーニングの手法」を僕は「解放系」と名付け、それを「自己啓発セミナー」が真似したのではないかと推測したが、その文脈にそって報告してくれた。
 シアターグループ○○を御存じでしょうか。わたしはそこの演出家のSさんが好きでワークショップにいったのですが、そこで「あなたは水に浮かぶ死体です」とゆうことをやりました。で、なんどか芝居や、パフォーマンスを見に行ってたのですが、ある日、Sさんから来たDMは、「現代のストレスをいやすセミナー」に変わっていました。演劇の手法をまねられたのではなく本人が移行したのです。
 小説に登場する「劇団」は引用した「シアター○○」とは性格がかなり異なるものの、それが最後にあらためて登場し人々の前で作品を表現する姿をどう描いたらいいかで悩むのは、そうしたものをイメージしたとき、どうもオウムみたいになってしまうからだ。オウムのイメージから逃れ新しいものを造形しようと思うがむつかしい。
■さらにイメージとして現れるのは、ある沖縄のミュージシャンだ。ニュー・エイジ的なるもの。それも単純すぎるがそうならざるをえない。ただそうしたものを、嘲笑的に、愚弄的に書けば、薄っぺらなものにしかならないと想像する。そういうつもりは一切ない。それもまた現在の一断面であり、生半可の理解では書けないと思う。しっかり把握し理解する。しかもそれは、「身体論」や「演劇」の問題でもある。だからかなり前に中断してしまった、このサイト内にある「からだ」(あるいは、その過去ログ)のページでの思考をもっと深めるべきだった。だからまた調べる。学ぶ。で、考えてみれば、大学にたとえば山海塾の岩下徹さんがいて、岩下さんからもっと話を聞くべきだった。『トーキョー・ボディ』から少し私の身体論も揺れている。説得力のある論が立てられない。「コドモカラダ」もひとつの現在だが、小説で書こうとしているのはまた異なる「からだ」だ。

■前回の稽古(八日)と同じ、池尻の公共施設で夕方から第二回目の稽古だ。
■このあいだもそうだったが、近くに駐車場がなくて苦労する。三宿あたりのコインパークにクルマを入れて歩くと、途中、古本屋を三軒見つけた。私鉄にしろJRにしろ駅周辺の商店街ならわかるが、地下鉄の駅があるとはいえそこから少し距離のある場所だったので奇妙だ。このあたりは昔、路面電車の駅がありもっと栄えた場所だったのだろう。古本屋に入って棚を見ていたらもう時間がぎりぎりだ。246から細い道を抜けるとすぐに稽古場に使う区の施設に到着。
■きょうこそ、『ハムレット』を読む。集まった女優たちが順番に、せりふとト書きを読んでゆく。今回はためしに福田恒存訳を読むことにした。なにしろシェークスピアは30数種類の翻訳があるはずで、翻訳者によってずいぶん印象が異なり、福田さんの翻訳は単純に言えば長い。英文学者だが、漢文の教養も深く、これ、音として意味が伝わるだろうかと疑問に思うような漢語の使い方である。休憩を挟み読んでゆく。「読み」をしているとわかるのは、「呼吸」の仕方がきちんとしている者と、曖昧な者だ。「読み」もまた、「からだ」がする行為であり、「呼吸」は身体器官の営みである。日常的に自分にあった「呼吸」でふだんはしゃべるが、表現はまた異なるものだろう。しっかり息を吸い込んでから、言葉を発することが日常でもできない人がいるし、たとえば、人前に出て緊張すると奇妙な「呼吸」で声を発してしまうことは誰だってある。大学で演技経験のない者に基本を教えるときまずはじめに注意するのはこの「呼吸」だ。ただ、「表現」における「呼吸」はことによるともっと異なる姿(=非日常的)であってもいいのかもしれない。それもまた、「身体論」にゆきつく。「からだ」についてどう考えるかがそのまま、「呼吸」にも反映される。

■まったく、なんで演劇のことばかり考えているんだろう、たまには美味しいラーメン屋の話でも書いたらどうだ、っていうでたらめな論法は過去にも何度か使ったが、演劇人なんだからしょうがないじゃないか。あるいは、女性に受けるために「恋愛論」とか、「結婚できる人の10の条件」といったものを書こうとしたって、書けねえんだよ、こちとらは。それで思い出したがある人が唐突に、「結婚しようと思う」と口にした。それというのも最近、三〇代の女性のあいだで結婚しないのが流行だからだそうで、「わたし流行がきらいだから」というのがその理由だ。よく理解できない。

(11:50 feb.20 2004)


Feb.18 wed.  「シラバス」

■シラバスは、どうやら英語でsyllabusと表記し、「授業概要」といった意味らしい。大学にそれを提出するぎりぎりの締め切りだった。研究室のKさんから電話があったので慌てて書いてFAXで送る。一年生の「身体表現基礎」は例年と同じでいいが、二年生が中心(三年生も受講可能)の「舞台基礎」は去年、いまやっている「テキスト・リーディング・ワークショップ」のようなことを授業でやり最終的に「リーディング公演」をする計画を立てたシラバスになっているので大幅に書き直す。去年は「リーディング」と書いたものの、学科の要請で、舞台を一本作る授業に変更した。シラバスを書いて知る春の気配だ。とはいうものの、まだ外は寒い。
■そういえば、きょうの午後、ある人から電話。内容は、私があることで怒ったことに対する謝罪であった。しかし数日とはいえ、時間が経っていたのでもうほとんど忘れており、というのも私は、眠ると感情がほとんど治まるという性格だからだ。いくらいやなことがあっても、眠ってしまえばだいたい忘れる。事実は記憶していても、感情は消える。謝罪されてもどう答えていいかわからず、沈黙したままただ唸るしかなかった。あと、「いやなこと」がどうしても忘れられず憂鬱になることが人はしばしばあるが、そういった場合、忘れようとするのではなく克明に思い出すという方法をあるとき思いついた。忘れようとするから逆に「いやなこと」に捕らわれる。克明に思い出す。ときには文章にしてみる。そうすると、なにが「いやなこと」だったか、なにをそんなに悩むことがあるか、とるに足らぬことだと、ばかばかしい気分になる。
■しかしこの「技法」が有効なのは「憂鬱」や「不安」に理由がはっきりしている場合に限る。理由のない不安に襲われたときは、なにが「いやなこと」だったかそもそもそれがない。二年ほど前、あることをきっかけに襲われた「不安感」がそうだった。結局、精神科に通院しその状態を「パニック障害」と名前を付けられはじめてほっとした。あるいは、「気鬱」が年齢的なもののように感じているし、どうしても逃れられない、ものを作ることによる圧力はある。青山真治さんが「名前のない日記」を続けるのはそうした鬱から逃れるためといった意味のことを書いていたが、それはよくわかる。「書く」という行為にはそうした力があるにちがいない。

■夜、曙橋へ。「テキスト・リーディング・ワークショップ」。今週は、前回の続きで、宮本研の『美しきものの伝説』と、清水邦夫の『真情あふるる軽薄さ』を読む。どちらも六〇年代に書かれた戯曲。
■『美しきものの伝説』は、様々に趣向がこらされているものの、近代劇の枠組みにあることによって、いま読んでも違和を感じないのは奇妙で、さらに大杉栄と伊藤野枝らを中心とした歴史劇は、そうであることによって言葉の風化から逃れているように思えた。近代はぶあつい。というか、「近代劇」に到達するまでの「劇」の歴史が二〇〇〇年以上あるのだからそれを乗り越えようとするなら、あと千年くらい必要なのではないか。しかしよくできてるな、この戯曲。あるいはこれが歴史劇だとしても、初演が一九六八年だから、たかだか、五〇年ほど前のことが書かれており、ではいま(二〇〇四年)の五〇年前が歴史劇になるかは疑問だ。おそらく「歴史劇」にはロマンチシズム(『新撰組』といったようなね)がひとつの要素として必要になるのではないか。一九五四年にロマンチシズムを感じることができるとしたら、「プロジェクトX」になってしまう。あるいは、一九五六年を描こうとすればそれはおそらく「左翼回顧趣味」になる。「歴史」によって、「現在」を照射しようとするなら、『美しきものの伝説』ほどには、「現在(二〇〇四年)」は、描くに価するものがあるとも思えぬ。いや、そうでもない。それを分節するのが、劇作家の役割だ。もしかしたらそこにいま書くべき劇の可能性があるかもしれない。
■蜷川幸雄の初演出であり、劇場に機動隊がどっと乱入してくるという演出によってしばしば伝説的に語られる『真情あふるる軽薄さ』は、さすがに言葉の風化を感じるものの、それとはまったくべつのことを読みながら考えていた。上演されたのは一九六九年の新宿。「新宿文化」というATG映画を上映する劇場があり、映画がはねたあとの公演だったとなにかで読んだことがある。おそらく、前年(六八年)の「新宿騒乱事件」、翌年に控える七〇年安保のはざま、これは時代と同衾した戯曲であり、「新宿」という町によって作られた「劇」なのではないか。10年ほど前、たしか僕は「大人計画」についてその舞台を「下北沢」という町の作った劇だとなにかに書いた記憶がある。それ以上に、六九年当時、「新宿」には混沌とした熱量があり、ふつふつ煮えたぎるようにしてこの劇もまた生まれた。戯曲を読んだだけでもそれは伝わってくる。再演(二〇〇一年)が渋谷のシアターコクーンだったのはなにかの誤解だ。「新宿」とこの戯曲が不可分に結びあっていることを、初演と同様、再演もまた演出した蜷川さんが忘れていたのではないか。だからといっていまの 「新宿」で再演したところで意味がないとするなら、「再演」それ自体の根拠を失う。「再演」を成功させるためにはこの戯曲がいま上演に耐えうる「普遍性」をどこに求めるか。おそらく、それこそが、「真情あふるる軽薄さ」だと私は考えた。戯曲に指定されたいくつかの「趣向」や「言葉」はいまではすっかり新鮮さを失ってはいるが、「真情あふるる軽薄さ」という存在だけは理解できると思えたのだし、同時に、いま問われるのは、それを「肯定」するか「否定」するかだ。そこに「演劇」そのものへの態度が生まれる。だから、面白い戯曲だった。同時代性を感じた。演出したい気持ちになった。

(11:30 feb.19 2004)


Feb.17 tue.  「講習を受ける」 ver.2

■春から大学がはじまるとまた、午前九時の授業があって早起きになる。そうした場合、意外にわたしは用心深く、早く寝て、余裕を持った時間に目を覚まし遅刻しないようにするが、きょうもまた、違反者に対する「運転講習」が午前九時からあるというので、早寝をし朝六時に目が覚めたのだった。早く起きすぎた。日記など書いてはいたものの七時半に家を出る。
■首都高と中央高速を使って府中の自動車試験場に向かう。道がすいていた。思いもよらない早い時間に到着してしまった。それでも眠いと思わなかったのは、自動車教習所のころの緊張感を思い出したからではないか。午前中、教室で三種類の講義。道路交通法の点数制度などの解説を聞く。隣に70歳過ぎのお年寄りがいて、よくしゃべる。書類の書き込み方がわからないと横からいろいろ質問され、それがひどく単純なことなので面白くてしょうがない。この人がいなかったら退屈な講義に耐えられなかった。12時から昼休み。食事をする気になれないのでぼーっとしていた。本を持ってくればよかった。午後、実車講習。オートマ車だった。がっかりだ。しかも近くを一周するだけでほんの五分程度乗って終わり。教習所のときもそうだが、横に乗っている教官の態度はでかく、走りつつ交通法規について次々質問するがほとんど答えられない。運転講習は簡単に終わり。さらにシュミレーションといって、ゲームセンターにあるクルマのゲームに似たような装置で模擬運転。これをすることの意味がほとんどわからない。また教室に戻ったのは三時になっていた。三〇分の講義のあと、作文提出。もっともらしい反省文を書く。久しぶりにボールペンを使って手書きで文章を書いたらひどく手が疲れる。
■これで、ひとまず点数はゼロに戻った。免許停止処分はしばらくないだろう。講義のなかで教えられたのはものすごい女性のエピソードだ。免停になった人も講習を受けるが、免停期間中だというのに、クルマで講習に来て、しかも自動車試験場の駐車場が空いていなかったので路駐したという。路駐で捕まり、無免許運転で捕まり、なんだかんだで、25点。3年クルマに乗れなくなったという。で、隣に坐ったご老人は、同じ日に路駐で二度つかまり、さらにもうひとつの違反で点数が合計六点になったのでここに来た。聞けば、路駐の取り締まりがひどい。配達を業務にしているその方は、届け先へのお釣りに細かい貨幣がなかったのでくずしにいったほんの数分のあいだにやられたという。この理不尽はなんだ。うちの近所に安くてそこそこの味だという評判の寿司屋があるが、そこでは無法な路駐が(歩道に止めていたりもする)いつもあるのに取り締まらない。警察はなにをしているのだ。寿司を食いに来た人間と、仕事中の人間の路駐はどちらを取り締まるべきか。渋谷の駅前のあの路駐はなぜ取り締まらないのか。歌舞伎町の怖いお兄さんがたのクルマはなぜ見逃すのか。

■午後四時に終了し家に戻る。東八道路から、武蔵境道路を経て甲州街道へ。
■夕方、永井が来て、オーディションの話。永井がいなかったら私はなにもできない。「男優募集」の応募はさらに増えていた。書類段階で半数以上落とす。というか、今回の舞台には向いていないと思う人は、またいつかということで。もちろん書類だけじゃわからないことはある。ほんとは全員に会ってみたいが今回は時間がないのだ。名古屋から応募している人がいて、どうなんだろうと思うものの、京都のばかものも応募してきている。書類に添付されている写真を見ているとどうも滑舌が悪そうな顔だ。「イ行」の言葉が言えないのではないか。家が京都の寺ではないか。そう考えてよく書類を見れば、「ヨーロッパ企画」の本多君だった。京都公演のときは、本多君の家を宿舎にすればずいぶん助かる。それだけで点数がずいぶん上がった。
■また、長い長い稽古のはじまり。旅をするかのような一年だ。

■書こうと思って忘れていたが、エレキコミックのヤツイ君からメールをもらい、「百年日記」というのを最近はじめたのを知った。このあいだまでコンピュータで書くのがたいへんそうだった人間が、ものすごい速度で成長しているのを知って驚く。その業界の者の日記では、むかし僕の演出助手をしていた山名の「規則と不規則のあいだ」もあり、山名、会議をしているか酒を飲んでいるかどっちかなのが面白い。

(2:46 feb.18 2004)


Feb.16 mon.  「偉大な小林」

■アップル社はえらい。
■大ぶりの封筒がアップルから届いたのだった。以前も書いた、iBook「ロジックボードリペアエクステンションプログラム」に関するお知らせである。修理費を丸ごと「返金」してくれるという。なんていい会社なんだろう。なんて立派なサポートセンターの小林だったことであろうか。小林は偉大だ。しかしいくら小林君が立派でもこのところ、どうもiBookのシステムが不安定だ。特に、メイラーがどうもいけない。Outlook Expressを使っているが終了しようとするとシステム全体がフリーズしてしまう。やっぱり、OS X 10.3に完全に移行し付属しているメイラーを使うべきなのだろうか。OS X 10.3はそもそもシステムが安定しているし、開いているファイルが、キーひとつ押すとぱーっと縮小してすべてが見渡せる(名前を失念した)機能が面白いものの(すごく便利だし)、やっぱりちょっと重い。使えないソフトが出てくる。つまらない苦悩。
■最近、iBookばかりで仕事をするのは仕事場にあるコンピュータを起動するのさえ面倒になってついつい居間で作業するだめな気分に支配されているからだ。仕事場は寒い。すると居間に資料用の本がどんどんたまってだらしない気分はいよいよ増幅。棚から資料の本を出したら元に戻せばいいようなものだが、できないんだ、そんなことが。

en-taxiのTさんと会う予定になっていたが、僕のほうの事情でまた今度ということになった。なにか忙しい。制作の永井からメールによると「男優募集」のオーディションは最終的に120人くらいになったという。少なめに見積もっていたので時間はそんなにかからないはずだったが、また大変になった。だいたい男ばかり120人と作業するのがいやだよ俺は。
■「ユリイカ」のゲラの直しは「四十七歳の憂鬱」というタイトルの原稿。いくつかの原稿依頼に返事を書かねばと思いつつ疲れて気力が出ず、申し訳ないことをしている。だめなときは、なぜだめなのだろう。からだが動かない。これはなにかあるな。そういうふうにからだの状態ができているような気がする。ふっと、勝手にからだが動くこともあったり、調子がいいときは、からだが軽い。なにかに動かされるような感覚だ。だからなりゆきまかせ。なりゆきまかせの人生だ。なりゆきにまかせて生きているうちに四十七年。憂鬱な気分を抱え、世界が陰鬱にしか見えてこない。海上自衛隊出発。
■あした違反点数の累積がオーバーしたので運転講習を受ける。早起きをする。

(6:36 feb.17 2004)


Feb.15 sun.  「闇雲に北川辺町を目指して」

■心が穏やかでないときは、『資本論』とか、『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。『カラマーゾフの兄弟』をはじめて手にしたのは高校の時で、そのときほんとうに最後まで読んだのか不明なのは、読み進めるうちまったく記憶にない場面が登場するからだが、まるで眠る前に聖書を開く「よき信者」のようなふるまいで、一章ずつ読み、ようやく中巻(新潮文庫)の半分ほどまで進んだ。かつて大江健三郎の『万延元年のフットボール』は五年かけて読みそのこつこつ読み味わうことの面白さを知ったが、『カラマーゾフの兄弟』はまるでありがたい書物を読むかのようにゆっくり吟味している。ゆっくりであることの快楽と、読みの意味はきっとある。ほかに自衛隊関係の本を大量に購入し、それは仕事の資料として読む。様々な政治的立場の人による自衛隊に関する本はだから面白い。「ユリイカ」に全精力を使ったせいかもう力つきた。だけど、また新たな「悪霊」たちが次々と襲いかかる。
■関係ないけど、みんなが幸福であってほしいとなにか宗教者のような気持ちになっていた。かつて僕の仕事に拘わったことのあるみんながなんらかの世界で幸福になってくれたらいいと、やけに優しい気分になったが、いまどこにいるのかまったく行方知らずの誰かが幸福になることを願ってやまない。いや、自分で書くのもひどくばかに思われると思うが、僕の仕事に拘わった人は必ず幸福になる。きっぱり私は言いたい。ぜったいそうなるのだ。なにしろ、『トーキョー・ボディ』で演出助手をしていたTに子どもができたと知ったのは、去年のことだ。当時は悩んだそうだが、いまは幸福そうだ。ほんとによかった。
■しかしあたりまえのことを書くようで申し訳ないが、「幸福」は不可解なもので、なにがほんとうの「幸福」なのかわからない。新橋の駅前でインタビュー受ける会社員たちをテレビのニュースで見たが、「元気に仕事ができること、美味しいお酒が飲めること」が幸福だと話していた。そして何より重要なのは、僕自身が、いま「幸福」だと感じているかどうかだ。世の中は陰鬱だが、そこからかすかな光を見つけられる希望がないわけではない。この曖昧な「幸福」という言葉の真の意味を見つけだしたいのであり、六本木ヒルズに行ったからといって幸福であるとはけっしていえない。バレンタインデーにチョコレートをもらったからっていったいなにが幸福なものか(いや、ちょっとは幸福なのかな、ごくささやかに)。世界はきょうもまた、幸福とはまるで無縁な事実が出現している。

■夕方から、映像班の鈴木、浅野と家で夕食をしながら打ち合わせ。大雑把に僕が考えていることを話す。これから具体的に作業を進めるが、ひとまず、こんどの土曜日に埼玉県の北川辺町に行ってカメラを回し取材することにした。北関東だ。なにがあるかまったく見当がつかない。ただ、地図で見たとき興味を持ち、たとえば、埼玉では唯一、利根川の向こうにあり、渡良瀬川と挟まれているのが奇妙だ。なぜこの町は埼玉なのだ。群馬に組み込まれてもよかったはずではないか。きっとそこは、どこにでもある、小さな町なのだろうが、「路地はどこにでもある」という言葉を忘れず、興味を持ったなにかに向かってただただ闇雲に行ってみたいと思った。

(4:12 feb.16 2004)


Feb.14 sat.  「なぜか今月は忙しい」

■金曜日(13日)のことから書いておく。「ユリイカ」の「チェーホフを読む」の連載を夕方までに18枚ほど書き、そこで時間切れ、世田谷パブリックシアターに出かけなければいけない。「狂言劇場」を見る。終演後、評論家の内野儀さんと「アフターセミナー」と題したトークをやる予定になっている。「狂言劇場」のきょうの演目は、『鎌腹』と『二人袴』だ。演技の質の高さと様式によって、まったく異なる笑いの世界を作っているが、わたしはしばしば声を出して笑った。出てくる人間の大半がひどくばかものだ。室町期から武家社会によって育てられた狂言という芸能にありながら、『二人袴』は、その武家たちの形式主義を批評するのである。武家もまたそれを見て自分たちの姿を笑っていたとしたら、かなり大らかな笑いの世界を形作っていたことになる。以前も書いたが、『茶壺』という作品を、「狂言」と「歌舞伎」によって同時に上演するという実験を京都の大学で催し、筋立ては同じだが幕切れのちがいに、狂言のきわめて乾いたナンセンスがあった。悪いわけではないが、歌舞伎は大衆的なわかりやすい笑いだ。狂言はきわめて不条理なナンセンスだった。若い俳優たちに見せたいと思ったな、もっとこうした舞台を。すでに書いた伝統的な芸能の「からだ」のすごさを感じさせたい、というか、格式張った意味ではけっしてなく「教養」として見ておけと思うからだ。
■それにしても問題は、狂言を観に来たお客さんたちがなぜアフターセミナーで、「東京の地下」の話を聞かされなくてはいけないかだ。私はべつに地下のことを話そうと思ってはいなかった。内野さんがしきりにふるので、つい話しだし、話し出したらもう止まらない。熱がこもる。とはいうものの、チェーホフ作品のあの切ないドラマがどうして「喜劇 四幕」と書かれているのか、そこに人の愚かさをアイロニカル見つめるチェーホフがいるという話も少しした。あと、さすがに狂言や能の舞台のしきたりは厳しく、たとえアフタートークとはいえ、土足はもちろん、靴下や裸足もいけない。舞台に上がるのに足袋に履き替えた。
■終わってから野村萬斎さんに会うと、チェーホフの話をもっと聞きたかったとのこと。それで『桜の園』のロバーヒンを演じる萬斎さんが見たいと思い、そんな話を少しする。萬斎さんは僕よりあきらかに若いわけだが、しかし、身に付けた落ち着いた雰囲気は、生まれ育った世界のせいなのか。しかもチェーホフにしろ演劇をよく勉強している。そうした意味でも強度なプロフェッショナルな意識を感じさせる。それから、淵野、三坂、永井、相馬君らが、アフターセミナーだけ聞きに来てくれた。相馬君は、たしかウェブを作るデザイン会社に勤めているはずだが、演出助手をしたいと永井に応募書類を出したという。できるのか、そんなことが。

■最近わたしは、原稿の締め切りのことを「悪霊」と呼んでいて、原稿を書きながら「悪霊退散、悪霊退散」とぶつぶつつぶやいているのだ。パブリックシアターの仕事を終えて家に戻り、また「ユリイカ」の原稿を書く。メールをチェックすると次々と「悪霊」がやってくる。でも、仕事がくるのは幸福である。求められるのは幸いだ。たとえ悪霊だとしても。そして私は「ユリイカ」の悪霊にひどく苦しめられた。最後がなかなか書けない。あと五枚くらいになってからぴたりと書けなくなって、うんうん唸る。しきりに「悪霊退散」を口にする。
■で、本日(14日)、ようやく夕方になって脱稿。推敲もせずメールで送ると、たちまち眠った。目を覚ましてからメールチェックやいろいろな人の日記を巡回したが、みんな最近書いてないのでがっかりする。そんななか、青山真治さんの日記が更新されていたので読むと、知らない映画の話が数多く書かれていて観たくなり、そういえば先日、青山さんが書いていたハワード・ホークスを観たいと新宿のTSUTAYAに行ったらほとんど借りられていて、これ青山さんの影響ではないかと思ったのだった。もっとみんなの日記を読みたい。インターネット初期、ウェブ日記を否定する論者はけっこういたが、いまではblogという確立したメディアとして成長しつつある。青山さんの日記はきわめて刺激的だが、そこまででなくてもただ日常が書かれているだけでいい。日記否定論者には「素人の日記なんか」と言う者もいたが、言ってるおまえが素人だろうということはしばしばあり、しかし、どんな人の日常もまた興味深い。
■注文していた清水邦夫の戯曲が届く。今週の「テキスト・リーディング・ワークショップ」で、『狂人なおもて往生をとぐ』を読もうか、『真情あふるる軽薄さ』を読もうか逡巡する。落ち着いてから「ユリイカ」の原稿を確認すると、だめだ、もっと推敲するべきだった。ゲラで直そう。そうだ、「ユリイカ」のYさんのメールで教えてもらったが、来週、フォーサイスのダンスがある。なんとしても観に行かねば。

(10:52 feb.15 2004)


Feb.12 thurs.  「狂言の所作と、身体論」

■午前中、「ユリイカ」の原稿。
■ようやく半分まで書けたが、もう午後には眠くなったというか、夜、どうしても世田谷パブリックシアターに行かなくてはいけないので寝ておくことにした。ぎりぎりまで眠って目が覚めると、また奇妙な夢の途中だ。詳しいことを書くと長くなるので簡単にまとめると、「大丸デパートに預けてある鱈を取りに行く話」だ。まったく奇妙な話だった。夜、パブリックシアターまで、野村萬斎さんの出る「狂言劇場」を観にゆく。家を早めに出たのは道が混んでいるかもしれないからだ。山手通りをできるだけ避けたつもりだったが、代々木公園あたりの交差点で渋滞。それで結局は山手通りに出るわけだが、意外にすいていた。246に出て一路、三軒茶屋へ。
■『トーキョー・ボディ』のとき稽古から本番まで何度も走ったコースだ。慣れてくると、どのあたりでどの車線に入ればいいかといった勘が働き、すいすいと進む。左端の車線は路駐車がいたり、バス停があったりでたとえ空いていても通るとあとで損するとか、右車線を走り続ければいいかと思うと、三宿で右折するクルマがときとして渋滞し動かないことがあるものの、最終的には右車線にいないと世田谷通りに入れないなどとゲームのように考えながら走る。以前、『relax』という雑誌でインタビューを受けたとき「趣味は?」と質問されて即座に、「車線変更」と答えたのはこういった意味である。車線変更は面白い。パブリックシアターの建物のある地下の駐車場へ。

■その「狂言劇場」のアフタートークのようなもので、あした(13日)評論家の内野儀さんと話をすることになっている。本日の演目は、『川上』と『三番叟』。パブリックシアターの舞台を改造し、三方向に延びる「はしがかり」を設置するという珍しい舞台装置で、それがとてもきれいだった。なかでも中央にあるはしがかりに、人物たちがゆっくり去ってゆく姿がとてもいい。どこをどう動かしたら、こうした所作が生まれるのか不思議な身体だ。しばしば、「ゆっくり動くと何かを表現したかのように見える」と書いたことがあるが、それとは決定的に異なる、「ゆっくりした所作、移動」によってきわめて洗練された表現を見ることができた。
■ニュースで、イラクにいる自衛隊先遣隊が、本隊に対して任務を引き継ぐという儀式のようなものを映像で見たとき、形式だけにとらわれたその姿に笑ったのは、終わって報道陣のほうに目を向け、「いまので、よろしかったでしょうか」といった表情をしたからだ。「狂言」では、たとえば音曲を担当する人たちの立ち居振る舞いまですべて様式化され、それが洗練されて美しいと思えたのは僕にしたら奇妙で、たとえば鼓と坐るもの(名前失念)を手にして登場したあと、腰を下ろすまでがきちんとした手順にのっとっているのがわかり、いったん、その二つを床に置いて身を整え、それから坐るという行為に入るが、たとえば鼓を小脇に抱え、片手で坐るものを立ててもいいようなものだが、それはきっと美しいとはされなかったのだろう。そうした細かい所作が印象に残った。むろんのこと、作品それぞれも興味深かったが、「所作」にはいくつもの発見があった。それはすべて神事であり、室町期の武家社会によって作られて来たという歴史も感じるのだ。
■終演後、楽屋にまわって萬斎さんと少しお話をする。うちの大学には狂言の家の子が学生にいるが、狂言の流派によって修行の仕方が異なるのだと教えられ、関西系のものは、まず「語り」から入るのだという話も面白い。萬斎さんはまず、動きから、たとえば踊りから入ったと聞き、そこで「身体」の作られ方が変わってくるのだろう。しかし、この美しさ。「はしがかり」を奥へ去ってゆく幽玄さを会得するのにはいったい何年かかるかわからないが、やっぱりあれを見たらやってみたくもなるというものだ。今年の稽古はただゆっくり歩こうとすら思った。それにはまず、「からだ」だ。「形式」にならぬよう、それでいて「速度を落とし」、なおかつ「強度」があり、そして「やわらかく」、「ゆっくり歩くことがたしかな表現になっている」といったいくつもの条件はどんな方法論をもってすれば可能なのか。根本的な「身体論」を生み出さなければいけないのかと、疑問になりつつ、これが今年の課題のひとつになった。

■あした話をする内野さんは「光が丘」に住んでいるという。なにか話し出すと「地下」関係で止まらなくなりそうである。そして原稿も書く。じつは、『トーキョー/不在/ハムレット』の小説版も「ユリイカ」を書くあいまに三分の一まで書き進めている。うーんと、30枚という約束だが、50枚くらいになってもいいのだろうか。といったことで、「ユリイカ」のYさんにはほんとうに申し訳ないが、あしたには書き上げているだろう、というような気がする、といったことを思いつつも、夜、またパブリックシアターに行くので、できている気がすると思うが、書けていないとは決して言い切れないといったような、じつに、どうも、まったく困った困ったと苦しみつつの日々である。

(5:21 feb.13 2004)


Feb.11 wed.  「戯曲を読む日」

■よくわからない夢から覚めてぼんやりしていたが、夢についてメモするノートに書きこもうとするがからだがいういことをきかない。矢作俊彦の『ららら科學の子』を少し読む。面白くなってきたので先を読み進めたいもののそれどころではなかった。「ユリイカ」の原稿を書かなくてはいけないのだ。少し書いたらまた眠くなったので、何度も書くようだが、ここは不思議な家だ。「原稿を書こうとすると眠くなる家」である。
■午後、眠る。夕方になってようやく目を覚まし、曙橋へ。「テキスト・リーディング・ワークショップ」である。Superman Redの相馬君が見学に来ていた。さて今回は、佐藤信さんの『浮世混浴鼠小僧次郎吉(うきよぶろねずみこぞうじろきち)』と、時間があったので、宮本研の『美しきものの伝説』を途中まで読んだ。『浮世混浴鼠小僧次郎吉』を読みながら、『ヴァンダの部屋』のペドロ・コスタ監督と対談したとき、彼がしきりに画家のセザンヌについて語っていたのを思い出すのは唐突だが、つまり、佐藤信さんのある時期の作品に見られるような劇作法は、どこから生まれてきたのか、どこに出典を求めるべきかと考えており、たとえばセザンヌがいたからこそピカソが出現したこと、そして「印象派」はやはりすごいのかもしれないと美術史を顧みれば、演劇においては「近代劇」の評価をきちんとしておくべきだと思い、たとえばその一人が、チェーホフなのだし、セザンヌとチェーホフはほぼ同時代の表現者ではなかったかなどと考えつつ、佐藤信に先行する戯曲を探していた。
■一九六〇年代の末期に、佐藤信と唐十郎がいて「アングラ演劇」としてひとくくりにされることは多いが、よく読めば、唐十郎は身体性が高く、佐藤信には「知識人の劇」であることを強く感じる。唐さんの『特権的肉体論』は、一口で言うなら、でたらめである。私はこんなに笑える演劇論をあまり読んだ記憶がないが、では佐藤さんの演劇論はどうだったか。たとえば『演劇論集 眼球しゃぶり』(晶文社)。これほどなにが書いてあるのかよくわからない本はない。そういえばあるとき佐藤さんは、当時、「現代思潮社」の本しか読むものがなかったと話していた。みんなそれを読み、演劇をやっている者らみんなそれに影響されたという。やっぱりアルトーの線なのか。その後の佐藤さんの作品、たとえば『ブランキ殺し上海の春』になるとブレヒトを強く思い起こさせるが、先日書いた、「ブレヒト→福田善之→」の先にあるのは、「井上ひさし」でもあり、「佐藤信」でもあった。異なる質の二方向にわかれたのではないか。そしてまた、佐藤信は「詩人」でもあるだろう。『浮世混浴鼠小僧次郎吉』に「ドラマ」はなく、それは「イメージ」の集積であり、「詩」だと考えてもいい(そしてブレヒトよろしくやはり劇中歌がひどく多い)。読み手である私は、近代の人間なので、近代にある者としてこれを解釈し、近代の枠の中で言語化しようとする。そもそもそのことを拒否し、その地点から遠ざかろうとするのが、「アングラ演劇」と呼ばれた一連の演劇(=反近代)ではなかったか。

■宮本研の『美しきものの伝説』を途中まで読み、いろいろ話をしていたらすっかり時間が過ぎていた。で、ワークショップ終了後、永井が三月にあるリーディングの出演者を決めるのに用意してくれた、野村萬斎の『ハムレット』のビデオを見る。少し画面が暗いのでわかりずらかったので、「この俳優、いいね」と僕がある人を示して言うと、永井が、「これは萬斎さんなので、無理だと思います」とたしなめる。しかしビデオで見ただけだが、ハムレットの母親を演じる篠井英介さんがすごくいい。ものすごいな、この人。一度、なにかの芝居を見に行ったらロビーで会い、「やだ、宮沢さーん」と高い声を出した人には思えない。
■原稿を書かなくてはな。そのことを考えると、また眠くなる。

(2:36 feb.12 2004)


Feb.10 tue.  「仕事をすることなど」

■ふと気がついたら、自動車免許の違反点数の累積が重なっており、「東京都公安委員会」から講習を受けるようにとの通達が来た。もう「1点」あると思ったら先日の一時停止は「2点」で、講習するべき点数に達していたのだった。きのうはアップル社のサポートセンターに電話したが、今度は「安全運転学校事務局」に電話し講習を受ける日を変更してもらうよう依頼する。「安全運転学校事務局」とは、いわば「運転講習サポートセンター」だ。「運転講習サポートセンター」略して「運サポ」の態度はでかい。こちらが交通違反をしたという弱みがあるのをいいことに、横柄な態度で電話の応接をする。名前を聞き忘れたのは失敗だが、名前を聞くような余裕を与えない態度の話しぶりだ。
■しかも、この「講習」が三万円近い料金がかかる。ということはつまり、罰金と合わせ、数万円を「ぼったくられた」のようなもので、わたしはすっかり相手の思うつぼだ。このあいだの品川の近く「御殿山」での「一時停止違反」は詐欺みたいな取り締まりだと書いたが、その後、ある人から、「あそこはやってるんですよ」と教えられた。ときにはもっと姑息な場所に隠れて張っているらしい。御殿山は危険だ。おそらくそこかしこにこうした「ポイント」があるはずで、インターネットでそうした情報を流すサイトを作るべきだ。自衛である。
■で、講習だが、わたしは実習コースを取ろうと思った。久しぶりにマニュアル車に乗れるのがいまから楽しみになってきた。楽しいんだか、腹立たしいのかよくわからない。久しぶりに府中の「運転免許試験場」に行く。あれもやはり、二年前の二月だった。試験を受けたのだったな。免許証をもらったときは正直うれしかった。

■「ユリイカ」のYさんから電話。原稿の催促だが、目次用に先にタイトルを考えてくれとのことだった。今回は『ワーニャ伯父さん』を読む。タイトルは「四十七歳の憂鬱」だ。以前も書いたが、ワーニャも四十七歳、わたしも四十七歳。そして石破防衛庁長官は二月五日に誕生日を迎えて四十七歳になった。原稿を少し書く。戯曲を読むと憂鬱になるが、書いているうちにだんだん楽しくなってきた。ほかにもいくつか仕事。写真家の鬼海さんらとするイヴェントのスケジュールを調整し、メールで伝える。
■小説がなあ、進まないんだよ。書けなくて苦しむ。「新潮」に『28』を渡したい。「文學界」に神戸の「あの町」に関する話を書きたい。では、「en-taxi」はどうするかだ。それで、『レパード』にも登場した「ルシ」のことを書いた小説は「群像」に発表すると担当の方に宣言してしまった。あとは戯曲があったな。これ、無理でしょう。これだけのことを書くのは。だけど、約束したのだ。「ルシ」にも約束している。約束は守ろう。今年こそは約束を守る年にしよう。で、いま思いついたが、「en-taxi」に、書こうと思っている戯曲、『トーキョー/不在/ハムレット』の小説版を書くのはどうか。すると「小説版」として掲載された「en-taxi」を、戯曲とはべつに劇場で売ることも可能ではないか。こいつはいい。
■北関東に行こう。渡良瀬遊水池を見に行く旅に出よう。

(3:35 feb.11 2004)


Feb.9 mon.  「歯切れの悪いサポートセンターの小林」

■このあいだ、「Mac Power」のT編集長からメールをいただき、そこに、読者アンケートで僕の連載が、ある月、連載のなかではいちばんの人気だったとあり、おそらく、「サポートセンター問題」について書いたからだろうと思った。多くの人にとって共感するものが存在したのではないか。その回の原稿ではアップル社のサポートがやけにいいことについて触れた。で、きょうあらためてアップル社のサポートにべつの用件で電話すると、どうも歯切れが悪いのだ。前回のような明解さがなく、はっきりしない。
■電話した内容は、以前も書いたことのあるアップル社のiBookに関する、「ロジックボードリペアエクステンションプログラム」についてだ。そこには「このプログラムの対象となるiBookの修理に対する修理代金は、お客様に払い戻しいたします。お客様の修理履歴を元に、対象となるお客様へはアップルからご案内いたします」とあるので、僕のiBookも対象になるだろうと思って「ご案内」を待っていたが、まったく案内がない。それで電話すると、前回修理を頼んだときはとても機敏に対応してくれたアップル社だが、今回はひどく歯切れの悪いサポートセンターの小林だ。
■はじめ、こちらの機種のシリアル番号を伝えるとなにか少し調べ、「あ、対象になりますね」とあきらかに言った。ところが、しばらくお待ちくださいと人をえんえん待たせたあげく、「あらためて調べてから連絡させていただけますか」との返事である。なぜなんだ。最初の言葉はなんだったんだ。それで、どれくらいしたら連絡があるのか質問すると、「修理費の返却ということですよね」って、最初からそう言っているだろうと思うことを答えた小林は、さらに、「急いでらっしゃいますか」と言う。そう切り出されると、まるで私が生活に貧窮し、せっぱつまって電話したかのように聞こえる。「いやあ、すぐにでも返却していただけないと、あしたのごはんにも困りまして、いや、娘がね、今年三歳になるんですけど、おなかすいたよと泣きましてね」と言いたい気持ちをぐっとこらえ、ついつい、「いえ、急いではいないんですけどね」と見栄をはりたくもなるだろう。だが、そこで「じゃあ、待ちますが、もしこちらから電話するときは、誰に連絡すればいいんでしょうか」と質問すると言葉をにごす小林だ。
■近所なのですぐにアップル社に行き、小林を探してやろうかと思ったものの、サポートセンターが初台にあるとは限らないので、やめることにした。待たされているとき、ずっと受話器から音楽が流れているが、あんまり長いので、つい声に出し、「もう夕方の五時だし、小林のやつ、帰り支度をはじめてるんじゃないのか、で、準備が整ってからまた出てくるつもりだろ」と言った瞬間、「お待たせしました」と小林がいきなり出てきたのだった。俺の声を聞いてたんじゃないのかこいつ。それで、またなにかあって、待たせる。歯切れが悪い。で、じつは電話する前からすでに、なにか原稿に書くことを提供してくれないだろうかと期待していたが、これで十分だ。大いに感謝したいと思う小林さんだ。

■そんなわけで、ニュースにしろなんにしろ不愉快なことが続いた一日である。原稿が書けねえよ。en-taxiのTさんに日本代表のサッカーの試合に誘われていたが、12日は狂言を観にゆかなくてはならない日だったことを思い出した。すると、エスパルスから、三都主とアン・ジョンファンがレッズに移籍したことさえ思いだして腹立たしい気分がよみがえるし、日産のゴーンはポルシェを運転していて事故を起こしたというので笑いもするがばかやろうという思いはマリノスに向けられ、まあ、なによりよかったのはジュビロが天皇杯で優勝したことだがニュースで観たロベルト・カルロスのシュートはものすごく陸上自衛隊本隊はイラクに到着。ところで、ブラジル籍のサッカー選手が帰化したことはニュースになるが、この国に育ったブラジル籍以外のサッカーが大好きでとてもうまい外国人選手もきっと帰化して日本代表を目指していると私は想像し、ニュースにならないことの奇妙さがこの国の歴史だ。

(3:35 feb.10 2004)


Feb.8 sun.  「稽古がはじまった」

■池尻にある区の施設で、『トーキョー/不在/ハムレット』の第一回の稽古がある。男優募集をまだしているにも拘わらずすでに稽古がはじまっているというのには事情があり、女優中心のメンバーでまずスタートを切るという目論見があったのだ。少しずつ今後の作業の整理をしてゆかなくてはいけない。きょうは、全員に、(書くまでもないが)シェークスピアの『ハムレット』を持参させその読み合わせをする予定だったが、稽古場に来る前というかきのうから、きょうは顔合わせというか、親睦会にしようと決めていたので、まず僕から今回の公演のコンセプト「舞台の作り方の新しい試み」について話し、あとはもう終わりだ。戯曲を「再現する」という枠にとどまらず、もっと異なる作り方があるはずだと考えていること、今後の展望を話す。
■ただ、戯曲をしっかり書こうという気持ちはもちろんある。それはあくまで叩き台であり、それを通じて一年間の稽古をするという方向での作業。そして叩き台になるべき新作戯曲の、さらに叩き台が『ハムレット』である。『ハムレット』をじっくり読む。そしてそこから劇についての異なる切り口を発見しようという目論見だ。僕の作家としての作業は、「なにを書くか」、いまアクチャルな「語るべきこと」はなにかを見つけだすことだ。それには一年という時間がいる。あるいは、最近の舞台によく見られるのは、わりと名の知れた俳優が舞台に出ている傾向(いけないわけじゃないし否定はまったくしないけど)に対して「作り方」によるオルタナティブを示そうという野心がないわけではない。そのためのひとつの方法として、全稽古を映像に記録してゆこうと考え、それは一本のドキュメンタリーを作るぐらいの気分だ。
■いま、イメージが散乱しており、たとえば、「ハムレット」であり、「北関東」であり、「トーキョー」と記号で記された都市的なるものなど。そこから「ドラマ」を叩き台として書く。ドラマを壊すのではなく、横にずらしたいと考えている。『トーキョーボディ』で試したことのいくつかをさらに洗練させたい部分もあるし、また、まったく異なる方法によってアプローチすることも考えている。たとえば、「パフォーミング」をどう考えるか。映像の扱い方はどうするか。だが、前方へ。先のほうへ。なんじゃこりゃと言われてもいいのだ。「安定」なんかするよりずっといい。

■ふと考えていたのは、父と母の「戦後」のことだった。一九五五年に結婚した父と母は、すでに仕事をリタイアしており、いまはある程度の余裕を持ったなにもない生活をしているが、二人にとって一九四五年からリタイアする直前の一九八九年あたりまでが、「戦後」ではなかったか。二人は「戦後」を死にものぐるいで生き、生活をし、生産していた。わたしが生まれた一九五六年、「戦後は終わった」と呼ばれた年だが、一面では当を得ていたにしても本質的にそうだったとは考えられない。二人の「戦後」の終焉は、昭和天皇の死と重なっている印象を受ける。もしそうであるとするなら、それからの「十五年」という時間がなんであったか興味深いし、ひとつの典型としての「戦後の終焉」としてもっとその時代を、父と母が若かった時代から、昭和天皇の死までを、どのように描けば意味のあるものになるかを考える。もちろん風俗やノスタルジーとしての「昭和」を描こうとは思わない。たとえば「戦後民主主義」や「自由史観」、「右傾化」といった知識人の言語ではすくいきれない「戦後の終焉」があるならば、単なる「家族史」ではないものとしてどのように言語化できるか。
■稽古は、すごく早い時間で終わらせた。結局『ハムレット』を読むのは次回に回し、きょうは親睦をしたかったのだ。大いに親交を深めたかった。稽古場を出、僕の家に参集。深夜まで話す。大いに話す。いろいろやらなくちゃいけないことがあるけれど、少しずつこつこつと、仕事をしてゆこうと思う。とりあえずの目標は、五月にあるリーディング公演だ。戯曲をしっかり書こう。時間があるようでいて、時間はない。取材すべきこともまだたくさんある。「北関東」に行かねばな。あとは、引き受けている原稿を書く。仕事の関係で来ているメールにも返事を出さなければいけないのになにをしているのだ。地図ばかり見ている場合ではないのだった。

(14:50 feb.9 2004)


Feb.7 sat.  「六本木にも行った」

■金曜日(2月6日)のことから書けば、三月に世田谷パブリックシアター・シアタートラムで上演する「リーディング公演」の打ち合わせをした。スコットランドの劇作家デイヴィッド・ハロワーの作品『雌鶏の中のナイフ』を僕が演出することになっている。詳細は世田谷パブリックシアターサイトの、「月間公演カレンダー」でご覧ください。アクロバットを起動しなくちゃいけないのでひどく面倒ですけどね(あと、カレンダーには異なるタイトルで表記されています)。ハロワーはまだ若い現代の劇作家だ。僕の演出作品を含め、今回はイングランドの現代劇を紹介するという趣旨で何作かリーディングされる。で、『雌鶏の中のナイフ』。とてもいい戯曲だ。戯曲の持つ魅力を「リーディング」という限られた上演形態で可能な限り観客に伝えられたらと思う。
■その夜、六本木ヒルズに行ったのだった。ニブロールの矢内原さんに招待され、森美術館で始まる『六本木クロッシング:日本美術の新しい展望2004展』と、その「オープニングレセプション」に足を運ぶ。とにかく人の数が半端ではない。ひとつひとつじっくり見ようと思うがそうした雰囲気ではまったくなかった。で、たまに印象に残る作品があって、これいいなあと思うと、意外にも中西夏之だったりしてね、あるいは、「きもちわるいかわいい」、略して「きもかわいい」がどこか通底して流れているのと、あえてチープな素材で作品を構成し時代の気分を反映するものなど、「日本美術の新しい展望2004」の潮流を感じつつも、とにかくもう一度、落ち着いたときに来て見たいと思うほどの、人の数だ。落ち着いて作品と向かい合えず、ゆっくり考えることができなかった。というか、この状態こそが、「日本美術の新しい展望2004」かもしれない。
■レセプションの会場に行くと三坂がいて、三坂の「知識人ミーハーぶり」が爆発していた。いちいち誰かを発見し、たとえば、「あ、浅田彰さんですよ」といったふうに報告してくれる。浅田さんの本はもちろん読むが、だからといってそこにいることを報告されても喜ばしいことではないのではないか。いちばん困ったのはある作家に突然、僕を紹介しようとしたときだ。なにが困るといってパーティで人を紹介されたときだ。話すことがなくて、その間をどう埋めたらいいかわからなくなるし、紹介された相手もきっと困っていた。そんなわけで、パーティ会場は早々に退散し、矢内原さんと話がしたかったので、三坂を連れ三人でクルマで少し走って青山のデニーズに行く。
■話をしたかったのは、矢内原さんとコラボレーションをしようと思うことについてだ。たとえば、舞台を作り、そこに「振付け」という仕事で矢内原さんに参加してもらっても意味がないと思い、そのことを話し、だとしたら、どんなことが一緒にできるか相談をもちかけたのだった。美術展はゆっくり見たいと思ったが、レセプションのことより、ほんとは矢内原さんと話すために六本木に来た。少しでも話ができてとてもよかった。具体的に作業を進めるためにはまだ、むつかしいことがいろいろあるが、なにかできたらきっと面白くなるはずである。

■さてきょう(土曜日2月7日)は、原稿を少し書き、『文學界』に掲載された柄谷行人さんの「帝国とネーション――序説」を読んだりしておりましたが、メールチェックすると「東京の地下」に関する仕事の依頼がいくつかあった。雑誌「東京人」のTさんからのメールでは明治通りの下に建設中の地下鉄工事を見学しレポートしないかという打診だが、わたしが苦手な仕事のひとつがレポートだ。なにかを見に行ってそのことをエッセイに書こうとしてもうまく原稿が書けたためしがない。こういうのはきっとうまい人がいるのですね。ただ「地下」は見たい。あるいは、『帝都東京・隠された地下網の秘密』(洋泉社)は、「ビジュアル版」ともいうべき本が出るそうで、つまりもう少し地図など図版がわかりやすくしたものをあらためて出版するということだが、その本へのエッセイの依頼がある。なにを書いても、著者である秋庭俊さんにはかなわないわけで、僕が書いていいのか戸惑いつつ、なにか協力ができるのならしたいと思った。
■また、Kさんという方からのメールは、Kさんの祖父の代から住んでいたという「京王線・東府中駅」にある、いまは自衛隊の基地になっている土地の話だった。「東府中」は僕もよく知っている土地である。なにしろ、本籍があのあたりだし。というのも20代の前半の数年、東府中に住んでいたからだ。当時、すでに米軍から自衛隊に土地が移譲されていたとはいえ、金網の向こうに見える風景はアメリカだった。東府中の駅から基地の正門に続く通りは米軍基地時代の名残があり、米兵相手のあきらかに日本ではない店が並んでいた。でもKさんのメールには興味深いこともいくつか書かれ、アジア全域を探知する巨大なレーダーがその土地の地下に埋められているという話もあった。数年前に行くとかつての基地の半分は公園に、半分は廃墟になって残っていた。そうだ、「光が丘」の旧米軍基地は、「光が丘公園にあった」と前回のノートに書いたが、「光が丘」という地区の全域が、「成増飛行場」であり、「旧米軍基地」だった。すると奇妙なのは、では「光が丘公園」のあるそこは、なぜ「公園」にしたかだ。つまり、なぜ宅地にしないでそこだけは「公園」として造成されたか。たてまえとしては近隣住民のための「憩いの場所」だろうけれど、住宅を建ててはまずい土地なので公園にしたのではないかと、うがった見方もできますな、すでに書いた「噂」のことを考えると。
■夜、二〇〇五年の本公演に向け、「映像班」との打ち合わせを予定していたが、映像班の鈴木がインフルエンザにかかったというので延期になった。制作の永井だけ来てもろもろの打ち合わせ。

(16:30 feb.8 2004)


Feb.5 thurs.  「ここは未来の都市かよ」

■原稿も書かぬまま、地図をずっと見ていたところ、奇妙な場所を発見して興味を持った。同じ箇所をいくつかの地図にあたる。最初に気になったのは、『大きな文字の地図首都圏7000』(人文社)である。「7000分の1」で描かれた東京を中心にした地図だ。この不可解な縮尺はいったいなんだろう。さらに、『東京都区分地図』(昭文社)、『10万分の一関東道路地図』(昭文社)、『文庫版・東京都市図』(昭文社)、『東京駐車場マップ』(国際地学協会)などをあたる。『大きな文字の地図首都圏7000』によく似た、『大きな文字の地図東京7000』(人文社)も調べてみたが、『大きな文字の地図首都圏7000』(以下、『首都圏』と表記)が特に興味深い。それは「環状8号線」である。東京以外の人のために書いておくと、東京は皇居を中心として、それを取り巻く環状になった幹線道路がいくつかあり、その八番目にあたるのが環状八号線で、一般的には、「環八(カンパチ)」と呼ばれている。おそらくぐるっと東京を取り巻いているのだと思っていたが、中野区を出て、練馬区に入った付近でそれが途切れ、しかし地図上では道はさらに延び、練馬区から先、「笹目通り」という道路になっているのはいくつもの地図でわかる。
■で、『首都圏』をさらに見ていたら、その近くに、唐突に、直線の「環状八号線」があるのに気がついた。よく知っている「環八」とこれから接続する計画になっているのだろうか。よくわからないが、『首都圏』では、くっきり描かれた独立したただの直線だ。特にこの地図のその部分は、色分けされており、さらに太く描かれ、ほかの地図とはずいぶんちがって見える。練馬区の住宅のならぶ地域のなかに、唐突な太く描かれた直線があるのはひどく異様だ。直線上に、二つの地下鉄の駅があるのが読める。「都営大江戸線・練馬春日町駅」と「営団有楽町線・平和台駅」だ。そしてその先、川越街道の手前にあるのが、「陸上自衛隊練馬駐屯地」だ。『首都圏』で見る直線の道路はまるで滑走路のように見える。
■ところで、よく知られているように、この『大きな文字の地図首都圏7000』はひどく奇妙な地図で、品川駅の近くの信号に「市役所前」と名前が付されていたり、六本木交差点の信号の名前は、なぜか「新宿一」になっている。山手通りと目黒通りの交差点の信号もまた、「市役所前」だが、当然ながら、東京23区内に「市役所」などあるはずがない。それはともかく、直線の「環八」が問題である。気になったので、早速クルマで見に行くことにした。

■クルマに積んである『スーパーマップル関東道路地図』(昭文社)を頼りに道を探したが、それがまちがいのはじまりで、道に迷ったのは、あの直線の工事が進み、すでに目白通りとぶつかっていたからだ。あとでより細密な「住宅地図」(センリン)で調べると、計画されていたことが点線で示されている。『首都圏』にもその道は記されていなかったし、『スーパーマップル関東道路地図』にもない。迷うのも仕方がないことになっていたが、ようやく気がついて、唐突にある直線の「環八」に入ると、そこはとてつもない光景の道路が完成していたのだった。「都営大江戸線・練馬春日町駅」のあたりは立体交差になっているが、あきらかに地下を道路が走っている。まだ新しく建設されたとおぼしくコンクリートの色は鮮やかなグレーだ。ここは未来の都市かよ。ところどころ天井が開いて空が見えるとはいえ、あきらかに地下に道路はある。ということはですね、「練馬春日町駅」はさらにこの下にあるということになって、その地下たるや、ものすごい深さだ。地下に潜る手前の道路標識に、「光が丘」の文字が見えた。それが気になったのは大江戸線の終点だということもあるが、きのう、Aさんという未知の方から、「光が丘」についてのメールをもらっていたからだ。
■Aさんによれば、「光が丘」と「つくば市」はひどく似ているという。「道路の広さや形、街路樹、建物の形、大きな公園、公園の中にある大型量販店。感覚的なものなのですが、そっくりです」とつくば市の近くに住んでいたAさんは書いてくれた。それで、やはり練馬区にある「光が丘」の周辺を地図で見ると、そこに「光が丘公園」という広い敷地があるのがわかり、その歴史についてもAさんのメールで教えられた。一九四五年以前は、陸軍の「成増飛行場」だった。その後、米軍基地として長く使われていたが、一九七三年に返還。公園として整備されたのは八三年である。十年間の奇妙な空白についてはAさんも触れていた。「光が丘公園」のすぐ近くを「営団有楽町線」が走っている。この周辺には「都市伝説」がいくつも流布されており、深夜、光が丘公園の地下に覆いをかぶされたキャタピラーのついた巨大車両が大量に搬入されたのが目撃されたという「噂」があるそうだ。キャタピラーのついた車両とはなにか。有楽町線といえばむかしから「戦車」が走るために整備されているという「噂」があり、「噂」という「点」が、「光が丘公園」で合致するのを知ることになる。
■それにしても、(そこに住んでいる人たちには申し訳ないが)「営団有楽町線・平和台駅」がある周辺は奇妙な町だ。多分に僕の主観は入るがどこかおかしな人工的なものを風景に感じる。そもそも「平和台」という名前が怪しいじゃないか。ひどく怪しい。ゼンリンの「住宅地図」で見ると、「陸上自衛隊練馬駐屯地」の手前(平和台駅寄り)の交差点(練馬自衛隊南)を、ごく小さな円の形で道が取り巻いている。円のなかには都営アパートが並ぶ。円の内側が「平和台四丁目」だが、この地域の境界はどういう経路で作られたのだろう。その「円」といい、直線的に作られた「環八」といい、「ここは未来の都市かよ」といい、疑問がいくつも浮かぶ。「光が丘」と「平和台」をもっと調べたいと思った。Aさんに教えられた「光が丘」に関するサイトとしてはこんなページがある。

■水曜日(2月4日)は夜から「テキスト・リーディング・ワークショップ」だった。二月になって参加者の顔ぶれもがらりと変わっている。このあいだ、僕のクルマのドアの金具を折った木下君も参加していた。会社帰りにふさわしくスーツ姿である。京都の本社にいたころは、あのノーベル賞の田中さんを会社の食堂で見かけたことがあるという。それはともかく、今週は福田善之さんの『真田風雲録』を読む。六〇年安保の直後に発表されたかなりストレートな政治劇だ。映画化もされているが見たのがもうかなり過去になるので内容はほとんど忘れており、歌っている場面だけ覚えていて、とにかくやたら面白かった記憶がある。徳川に攻撃され大阪城を守る豊臣勢は、ここでは六〇年安保時における「左翼陣営」のアナロジーだ。先鋭的に闘おうとする真田十勇士に対して、「統一と団結」を訴え、徳川との話し合いによる調停を選択する者がおり、しかし、いま読むとそうした背景がわからなければなにがなんだか理解できない部分も多い。「戦後思想史マニア」としては解説に熱が入る。
■けれど、そればかりではなく、『真田風雲録』には当時としては画期的だったであろう、「趣向」がふんだんに盛り込まれ、既成の新劇的なるものから遠ざかろうとする野心にあふれている。一幕のはじまりが、なにしろ、「下克上のブルース(またはロック)」という歌だ。こうした作劇の方法を引き継いだのは井上ひさしさんではないか。すなわち、「ブレヒト」→「福田善之」→「井上ひさし」という脈路が見えてくる。だけどやはり、『真田風雲録』の本領は、これが六〇年安保の直後に上演されたという時代性であり、単にテーマによって時代を切り開いたのではなく、表現の方法そのものが、「旧左翼(=旧新劇)」への抗いになっていることだろう。福田さんは、とにかくかっこいい人だったわけですよ。劇の中で真田幸村がしばしば、「かっこよくありたい」と口にするのは、おそらく福田さんの心情そのものだったのではないか。強い共感を持つ。
■「テキスト・リーディング・ワークショップ」を終えて家に帰り、連載の原稿を朝まで書いていた。ぎりぎりで間に合う。次は「ユリイカ」の連載「チェーホフを読む」だ。『ワーニャ伯父さん』を書こうとすると気持ちが暗くなる。

■「文學界」「新潮」「早稲田文学」など文芸誌が何冊か届き、「群像」に掲載された僕と青山真治さんの小説が、「文學界」の「新人小説月評」で取り上げられていた。取り上げられたことはうれしかったものの、単純に年齢的なものですが僕が「新人」とくくられるのはいかがなものかという気がし、まして青山さんは三島賞作家だ。新人なのだろうかと疑問に思ったが、僕はいまでもときどき演劇界で、「若手」と呼ばれたりもし、なにやら面映ゆい。あと、LOOKING TAKEDAのT君から春になったらサッカーを観に行きませんかと誘われ、何人か連れ立ちJリーグを観たい気分になっているところへ、en-taxiのTさんからは、2月12日の日本代表の試合のチケットが手に入ったとの知らせ。見たいなあ。どうしても見たい。しかし「地図」ばかり見て仕事をしない私が日本代表の試合にのこのこ出かけ、ばちがあたらないだろうかと一抹の不安を感じてもいる。

(14:16 feb.6 2004)


Feb.3 tue.  「なにもする気になれない」

■原稿を書こうと思って苦しむ一日。気晴らしに外に出、新宿西口周辺を、地下鉄に乗り、地下街を歩き続けたが、その話をはじめると長くなるので、またにしたい。三坂からもらったメールにも「新宿西口地下情報(写真報告あり)」がありとても興味深い話があった。営団地下鉄の職員に直接、地下通路の話を質問したというのだが、俺は、できないんだよ、それが。こういったどかーんとぶつかっていける人間こそがルポルタージュを書くにふさわしいのではないか。三坂、資料集めも得意そうだし、その方面へ才能を伸ばすと面白くなりそうだ。
■このあいだ、テキストリーディングワークショップの打ち上げのさい、「つくば市の地下」について質問され、「東京の地下に比べるとあまり興味がないのだなあ」と答えたのだが、「下北沢スタジアム」のO君に教えられた、「あなたはまだ『つくばの本当の怖さ』を知らない」と書かれたサイトを読んでいると、興味がかなりふくらんだ。もっと資料を綿密に集め、検証をしっかりすればかなり面白い読み物になるというか、本が一冊書けるように思える(あと文章力も必要だが)。推測と憶測だけで書かれている印象を受けた。「都市伝説」としての「つくば市」から話を語り出してもいいが、それを確認する作業がきっと必要だ。そこから一気に資料による検証(たとえば、「東京教育大学」が解体され「筑波大学」に移行される当時の国会での記録、自衛隊の記録、学生の側からの反対運動の資料などから調べはじめるとか)を深いところまで進行させ、話を裏付けてゆけば説得力がより増すのではないか。既出の研究文書もきっとあるように想像される。
■単純なことを書くと、俺はそれが読みたいのだ。
■立花隆さんはたいていなにか書くとき、資料を積み上げたときの高さを記しているのが毎度面白く、「二メートルにも達した」とか、「人の背ほどにもなった」「天井に届いた」などとあって、それを読むたび、「出たあ」と思うが、そういうことは必要なのだな、きっと。僕は人に取材というやつが苦手でルポルタージュの類は向いてないと思うが、そっちができないから劇作家や小説家になれるってほど、世の中、甘くないというか、小説や劇作だって部屋にいるだけでは書けないから、町を歩く。資料は集める。

■新宿西口の地下通路と、「都営大江戸線」「営団丸の内線」に乗った話はまたこんど書きます。すごく歩いた。久しぶりに電車に乗った。「新宿近辺ぐるっと地下鉄一周小旅行の旅」もまた面白かった。だが、原稿は書けない。仕事は進まない。鬱々としている。自衛隊はイラク派兵。いろいろ忙しい。落ち着いてものが考えられない。世の中は悪いほうへどんどん進む。いろいろ考えていると憂鬱になる。めまいがする。素直に笑えない。表情がひきつる。なにもする気になれない。茫漠とした日々。茫然とする時間。精神は病んでゆく。得体の知れない恐怖におののく。なにから手をつければいいか戸惑う。ただただ、焦る。

(10:40 feb.4 2004)


Feb.2 mon.  「雨の月曜日」

■やはりメールである人から教えていただいたことだが、大修館書店の『大漢和辞典』には、台湾製の海賊版があるという。べつの人からは台湾に行ってその海賊版を買ったほうが安いという話も聞かされ驚かされたそんな日、新宿西口の地下通路を歩こうと思ったが雨だったので外に出るのがいやになり、一日中、無気力だったとはいうものの、なにもしていなかったわけでもないのは、「なにもしていない」という状態がそもそも人には存在しないからだ。「なにもしていない」と感じるとは、つまり「劇の目」で「生」を見ていることだ、と書いたのは太田省吾さんである。
■関係ないけど、最近の舞台、ダンスにしろ演劇にしろ、映像を使うことが多い。ある人が、映像を舞台に使うのが嫌いと言ったのは、「俳優が映像に負けるから」だそうだ。だとしたら、俳優は、「舞台装置」にすでに負けているかもしれない。新しい舞台の技術が出現するたびにこうした議論は起こっているはずで、では、「プロセニアム」という劇場形態(つまり、額縁型の劇場ですね)はどうなのか。歴史的に考えれば「プロセニアム」はおおむね近代のものだ。「個」を際だたせるため(近代劇の要請)には俳優を大きく見せなければならなかった。「劇場」における「観客席」を暗くしたのもそんなに古い話ではない。外に通じるドアすら開けっ放しなのが、それまで一般的だった。
■以前も書いたことだが、たとえば映像について、「客を飽きさせないために使う」といった議論が妥当に欠けるのは、そうした発言をする者らがいまあたりまえだと思っている劇の仕組みの大半が、かつて「客を飽きさせないため」だったり、「舞台に観客を集中させるため」だったという歴史的な視点がないからだ。おそらく、「客を飽きさせないため」に、「せりふ」を作ったのである。「ドラマ」が発生したのである。「照明の技術が進化」し、「高度な音響システム」が劇場に設けられ、「音楽」があたりまえのように流された。フィスバックが演出した『屏風』では俳優の全員が小さなマイクを身に付けており、せりふはすべて音響システムから出ていた。それでいいにちがいない。新しいテクノロジーが舞台を変化させる。演劇の一面とは、そうしたものを貪欲に吸収する歴史である。

■考えてみれば、ギリシア悲劇の時代、劇とは「詩」のことだった。あ、関係ないけど、チェーホフの『かもめ』で、トレープレフという過去と対決する若い男を、モスクワ芸術座の初演で演じたのが、メイエルホリドだったという話はなにやら運命的だ。メイエルホリドは、モスクワ芸術座のというか、つまりスタニスラフスキーの「自然主義、写実主義」に抗って活動したが、それが「形式主義」と批判され逮捕、投獄されたあと、獄死している。まさにトレープレフをまるごと生きてしまったという意味では、生き方が「自然主義的」なのはいかにも皮肉だ。「文學界」のOさんからいただいた「チェーホフ全集」で知った話。この全集はすごくいい。
■そんなことをぼんやり考え、無為に一日が過ぎてゆくというか、この数日を茫漠と生きている。茫漠とした日々ではどうでもいいことを考えがちだが、そろそろ確定申告の時期になってきょうふと気がついたのは、ふつう演劇人が大学などで教えるのは収入が保証されることを意味すると思うのに、僕は大学で教えはじめてから収入が減ったのだった。消耗する大学での仕事。まあ、お金のためだからと考えていたが、その根拠も崩れた。あとは「新しい演劇教育」「演劇の研究」という理念だけが支えだが、それもちょっと怪しいというか、「理念」は弱い。すると「京都」ということになるものの、京都も飽きている。
■茫漠とした日々を、茫然と生きている。あらがったところでしょうがない。ただやり過ごすしかないのだった。

(4:02 feb.3 2004)


Feb.1 sun.  「日曜日を休む」

■気がつけば、「富士日記」ももう一年書きつづけたのだった。
■このあいだ雑誌「論座」から依頼された「読んだ本についての日記」を書くのにあたり、読書のことを記した部分だけ抜き出して一つのファイルにまとめたが、この三ヶ月ほどで四〇〇字詰め原稿用紙200枚くらいあったのには驚いた。驚いたといえばうちの妹だ。たいへんわたくしごとで恐縮だけど、この正月、僕はイナカの両親のところに帰らず東京にいたが、妹はつきあっている男を連れて帰ったという。男は妹と年が16歳離れているという。となると何歳か。私の妹ですから当然、もう40歳を越しているわけだが、驚くべきことに、男は20代だという。多くの人に希望を与えるような話だ。そんなことで希望を与えなくてもいいのではないか。
■以前もメールをもらったことのあるU君という方からまたメールをもらった。U君は音楽を勉強しておりアメリカに留学していたがこのたび帰国したという。例の「石破はどんな音楽を聴いているか」についてとても示唆的な話を書いてくれた。(引用した部分、読みやすいように勝手に改行させていただきました)
 音楽に携わる者として、防衛庁長官の聴く音楽が「モーニング娘。」だという話には、悪い予感が当たったような気がしてしまいました。僕は「モーニング娘。」がどのように受容されているのか、そしてそれをどのように受けとめるべきなのか、ずっと気になっていたのです。
 ワーグナーの音楽の魅力がナチズムと結び付けられてしまうという図式は、まだ理解しやすい感じがしますが、ポップ・ミュージックが政治に回収されようとしている時、それを再び開かれた耳へと届けることは、恐ろしく困難なように思われます。けれども、政治が回収しようとしている「音楽」というものは、結局記号に過ぎません。彼らは実際のところ、何も聴いていないはずです。確かヘーゲルだったと思いますが、「完全な否定とは部分否定である」というようなことを読んだことがあります。
 問題は、ポップ・ミュージックの否定性をどこに限定し、その残りをいかに救出するのか、ということです。そして、一見無邪気に受容しているようなファンたち(何らかの形でその音楽を利用しようとする政治家も含む)の態度の中からシニカルな破壊性を検出するには、まずその音楽を聴くところ、つまり音楽を質の問題へと一旦還元するところから始めなければならないはずです。僕自身、全てに肯定的ではないものの、「モーニング娘。」の音楽の一部には、ポップ・ミュージックの良質な部分が含まれているように思っています。
 例えば、つんくが総監督となっているサウンド・プロダクションを支えているものの1つには、レア・グルーヴとかダンス・クラシックスとか言う時の聴き手の態度があるような気もするのです。そうした態度にどのような可能性があるのかを考えることは、全く無駄なわけではないと思います。確かに、国家が戦争へと向かって行くのに対抗するには、余りにも無力な営為かもしれません。ただ、こうした状況にあってこそ、できる限り楽観的なヴィジョンを描くということには意味があるように思うこともあります。甘いのでしょうか。とにかく、アイロニーを用いるとしても決してシニカルにならないこと、それだけを考えています。
 最後の段落の前半部分が少し読みとりにくい感じもしたんだけど、言おうとしていることはわかる。ネガティブな部分より、ポジティブな部分の可能性に賭けるといっていいと思う。ただそこで、ポップミュージックが本来持つであろうポジティブな可能性が、なにか危険なものに変容する過程の無自覚もまた考慮しておくべきではないか。というのも、ワーグナーもまた、ある歴史の一時期、ここで書かれる意味での「ポップ・ミュージック」だったかもしれないからだ(ワーグナーについてはこちらのページがいろいろ参考になる)。
 もちろん僕も、あらゆるものの「ポジティブな可能性」を信じているつもりだ。「アイロニーを用いるとしても決してシニカルにならないこと」とU君は書いている。それにも同意する。ただ、「楽観的なヴィジョン」が描けないんだよなあ。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を読んでいたらいよいよその感が深まった。だから、以前も引用した社会学者の毛利嘉孝の言葉のように、「われわれが批判すべき相手は、なにかをつくりだそうとする欲望を資本の流れへとすべて回収し、還元しようとするあるおぞましい制度であり、その欲望そのものではない。そして、仮にその欲望が資本と微妙な共犯関係を結んでいるからといって、欲望そのものをすべて否定してしまうのは、やはりいきすぎである。われわれが求めているのは、ロックもレイブもアニメもマンガも存在しない、知的シニシズムだけが支配するような、退屈な世界ではないのだ」ということを考え、ポジティブであらねばならぬと思いつつ。
 日曜日を休むことにした。日曜日だからお休みだ。いろいろなことの休み。また、好きな地図をただながめていた。U君が書いてくれたことについて簡単に結論づけず、まだまだ考えるべきで、考える契機を与えてくれたことにとても感謝した。

■三坂からはまた、西新宿地下情報を写真入りで報告があった。で、地図でも調べたが西新宿は地下道だらけだし、三坂に教えられたがさらに建設中だという。いま、西新宿の地下が面白い。歩こうと思った。

(11:06 feb.2 2004)


2004年1月後半はこちら → 二〇〇四年一月後半バックナンバー