Apr.23
きょうはとてつもなく長くなるかもしれない。
というのも、紹介したいことが多すぎるのだ。このノートは様々な人が読んでいてくれているようで、アドバイスのメールを送ってくれる方がこのところたいへんに多い。たとえば、大学でフランス演劇を専門にやっているY君が、「演技論」についていま研究している課題とからめて長文のメールを書いてくれたし、きのう紹介したNさんも、またべつの角度から、「解放」についてメールをくれた。また、Hさんという方は、「演劇における解放系訓練」が一般化してゆく状況について、いくつかの情報を報告してくれた。
で、Y君やNさん、あるいは、北九州のTさんも演劇の専門だからいいが、たとえば、大学時代の友人のN君は次のように書いている。
「う〜ん、最近のノートは難しくてなかなかついていけないな」
そうだな。僕のWebを読むのは演劇が専門の方ばかりではなく、たとえば小説やエッセイの読者もいるだろうから、なにが書いてあるのかよくわからないかもしれないし、僕がよく書く「できる人とできない人」の差異について、彼のメールに「モチベーションのちがい」といった意味の理解で書かれている部分があって、いや、そうじゃないのだがと思いつつ、だが、これは演劇人にしたら切実な話だけれど、ふつうの人にとってはどうでもいいことだ。
しかし、そうでもないんじゃないか。
というか、ほんとはこれは演劇だけの話ではない。
つまり、「演劇における解放系訓練」や「身体」について考えつつ現在を読み解こうという、これは試みでもあるし、そもそも、「演技」というか、「身体のありかた」とは、「思想」そのもののことだと、わたしは思うのであるが、それに関しては、かつて書いた、「ただ立つ」という文章を参考にしてもらいたい。
あと、やっぱりこの話の展開には、既存の「演劇論」が前提になっている部分があって、前提がわからないとなんだかまったく意味不明かもしれないという危惧もあるのだ。
ま、それはそれとして。
Y君のメールを全文引用したいが、そうもいかない。
とりあえず、北九州のTさんのメールから紹介しよう。医療関連の現場で演劇の方法が取り入れられているいくつかの実例(これは上記したHさんも書かれていましたが)の報告があり、それで次のように感想が書かれている。
「演劇産業の経済的な『展開』としては、数年前からずいぶん『医療系』に踏み込んでいるとこが多いようですね。今まで『是・是』とした意見しか聞かなかったものの、『演劇を医療に』というのは上のような『生き残りの展開』としては理解できるのですが、私のやってる『芝居』とはきっと違う、なんかその展開してる人が『マジ本音で』それを言ってるなら『コワイ』という印象があったので、宮沢さんの切り口は新鮮でした」
どうかな。やはりあれは、「経済的な展開」というより、Tさんの言葉で表現すれば、「マジ本音」ではなかろうか。医療関連の現場で演劇の方法が取り入れられていることについて、たとえば、竹内敏晴さんの活動などを見ても否定はできないが、なにか安易に、「よさそうだからやってみるか」といったことになるとですね、かなりまずいと思う。というか、無自覚だとかなりまずいでしょう。無自覚に「マジ本音」では。「マジ本音」のぶん、なおさら始末に悪い気がする。
なぜなら、演劇の方法には、すごく危険なものがあると思うからだ。
セラピストが高い技術を持ち、そのための訓練をきちんと収めていなかったらだめだろう。いいのかなあ、安易にそんなことをやって。という懸念をいだく。情熱だけじゃだめだろう。情熱だけじゃ。「自己啓発セミナー」だって、あれ、やってる本人たちはかなり情熱的である。
だが、さらに僕の、「マジ本音」を書かせていただければ、いったいいつからそんな「えらい先生」に演劇人がなってしまったんだという思いはある。Tさんも書いている。
「むかしむかしの『演劇ってアカ』『極道』『浮浪人』から、『役者カッコイイ』『文化人』になっていって、更に『演劇をすることは、癒され、自己変革もできる!』という世間の印象があるとしたら、なんだかまた揺り戻しがありそうな。」
まあ、「先生」になるのはその人の意識のありようだが、やはりここでもそれがどう演劇の状況や表現そのものに反映してくるかだと思う。「情熱」というか、なんだろう、「熱意」というか、「良識」でしょうか、そういったあれに支配された表現など、それこそ気持ちが悪い。
論理がなくて申し訳ないっす。
なんども、「気持ち悪い」と書いているが、論理がないですね。それをはっきりとした言葉にしようと思ってこのノートを書いているのですが。あと、僕もこの秋から大学の助教授というものになってしまうので、「いつから演劇人がそんなえらい先生になってしまったんだ」と書いてもなんだか説得力がない。
かつて、六〇年代から七〇年代にかけての演劇人が、自分たちのことを河原者などと名乗ることのばかばかしさを批判的に無視して、八〇年代以降の演劇は準備されたが、それがまた、妙な場所に向かっている気もしないではないのだった。
そしてそれを、「状況論」だけではなく、表現の問題、「解放系訓練はいかがなものか」、「そこから出現する表現はいかがなものか」というところへと、論をすすめなければいけないのだろう。
と、ここまで一気に書いていたら少し疲れました。長くなると最初に予告したのになんだけれど、Y君とNさんのメールはあしたにしよう。
Y君のメールにこうあった。
「今後ともこの問題に関してはねちっこく考えていってほしいと思います」
もちろん、今後もずっとこのことを書いてゆくが、ちょっと小説を書かなければならないのだった。小説を書くとなると、その世界に没頭しなければ書けないところがあり、いままでのように、「ねちっこく」いけるか心配だが、小説のあいまに、少しずつ、ゆっくり考えてゆこう。
それにしてもY君のメールは全文、紹介したい。あと、Y君の研究を早く読みたいぞ。
それから、Nさんから、「自己啓発セミナー」がらみで、「僕がセミナーのことについて調べている時に発見したページです。僕が知る限り、ここが一番詳しく書かれています。ルポがスゴイです」と、次のWebを教えもらった。→ GO!
きのうのノートは、少し書き直して、version 2 になっています。
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Apr.22(version 2)
コンピュータのアナロジーで考えるということを思いついたのだった。いや、俳優の訓練の話である。
何度か書いたが、いくら解放されると言われても、「水に浮かぶ木の葉」になったり、「チューリップの歌」を笑顔で歌うことのできない人はいる。スポーツの世界でも最近、「イメージトレーニング」ということが言われ、たしかに、「イメージ」は効果的なのだろう。僕も稽古のとき、「〜ということをイメージしてみたら」と俳優に口にすることがあるが、あまり突飛なことにはならないのは、突飛なイメージというか、そこにはどうしたって限度は出てくるので、やってみて、気持ちの悪いことはまずさせないだろう。
竹内敏晴さんの『ことばが劈かれるとき』には次のように書かれている。
「マットの手前端に一人がうずくまる。マットの中央あたりに布をおく。演技者は部屋の隅でこれを狙い、まず虎になる。四つん這いになってもよし、猛然と身をゆすりながら歩き廻ってもよし、自分にとっての虎のイメージが動いてくればいいのだ。--そしてぴたっと獲物(布)に向かうと、ウォーと吼える--実を言えばここまでは別のレッスンでやっているのだが--吼えるや否や走り出し、マットの手前で踏み切りうづくまった人を飛び越して布をつまみ前へころがる」
ここでは、「ウォー」が疑問だ。
虎をイメージし、虎のようにするとびっくりするほどジャンプできるとすれば、それを必要としている人にとっては驚くべき効果がもたらされるが、「ウォー」ができるかどうかではないか。俺はいやだなあ。あと、それを自分の稽古場で俳優たちにさせるのもいやだ。なにか恥ずかしい気持ちになる。
とりあえず、百歩譲って虎はいいとしよう。だが、「ウォー」はいやだ。虎をイメージするのに、なにかもっとべつの方法がないだろうか。
たとえば「イメージ訓練」。この場合で考えれば、「方法」のことを、「プログラミング」という言葉におきかえてみる。コンピュータを使っているとき、ソフトがどうも自分にぴったりこなくてそれをカスタマイズすることはよくある。必要があれば、あるいは技術があれば、自分でプログラミングしたほうがいいという考え方がある。(
『コンピュータで書くということ』を参照してください。といっても、どこに書いたか僕も忘れてしまったのですが)
自分にもっともふさわしいプログラムがそれによって生まれる。
これを俳優訓練におきかえるとしたら、一方的に俳優を演出家のプログラムにあてはめるのではなく、俳優が自らプログラミングし自分にもっともふさわしいプログラムを作ればいいのではないか。もちろん、コンピュータのプログラミングと同様、そのための技術が必要になる。演出家、あるいは、指導者は、「プログラミングのための技術」をレクチャーすればいい。
となると、教えるべき、「プログラミングための技術」とはいったいなにかだ。「技術」という言葉はふさわしいかわからないが、もっと単純な表現をすれば、「自分のアタマで考えさせる」ということになるかもしれない。とすれば、なにを、どう、教えればいいか。
たとえば、僕のワークショップでは、「肉体訓練」を自分たちで考えさせる。俳優には肉体訓練が必要だ。ぜったいにそうだ。ただ、集団でやることでもないし、やたら走るとか、車座になって体操する必要があるのか、僕にはよくわからなかった。しかも俳優は、なにも考えずに肉体訓練のプログラムに従いがちだ。「肉体訓練」に対して意識的にさせるために、自分でその方法を考える。そこで出たのは次のようなものだ。
「口笛を吹きながら、ほふく前進する」
これが訓練になるだろうか。だがやってみると、意外にたいへんで、しかもばかばかしい。
「床に寝っころがり、足で壁を蹴り、そのまま床をすーっと動く」
これもかなりばかばかしい運動である。
さて、「解放」はいいことなのかどうかといった疑問から、この一連のノートは出発している。竹内敏晴さんは、すでに、「演劇のレッスン」という現場を離れ、たとえば自閉症児の治療に演劇の方法を応用するといった方向で成果を上げ、それは評価してやまないし、もちろん、「自己啓発セミナー」とはまったく異なる性質の作業だ。
だが、僕は演劇の現場から離れられないし、そこでものを考えている。繰り返すが、「解放のための手続き」がどうも納得できないのだし、「解放された俳優」や、「解放」によって出現する表現が僕にはどうしても理解できず、そのことをあきらかにしたいと思ってこうして考えている。
きのう書いた、「それはおそらく自分が主宰する劇団だと思われます」という方のメールを紹介しよう。名前が記されていなかったので、メールアドレスからとりあえず、Nさんと表記させていただく。
「メールに書かれた内容には多少、歪曲した部分もありますが、あれは、訓練の場を欲しがる役者たちのために、演技訓練系のテキスト(今、手元にないので書名等は忘れましたが、大体のものにそれはあります)に紹介されている方法をそのまま実践してみた時のことなのですが、実は、やらせた自分自身、宮沢さんが繰り返しているように、どうにも『気持ち悪さ』を感じ、すぐにやめてしまったのです」
まず、その「演技訓練系のテキスト」のことが知りたかった。誰が書いた、どういった傾向のものなのか。
それはともかく。
S君の報告を読んでなにか迂闊にいろいろ書いてしまい、それをまず謝りたい。Nさんののメールはとても面白かった。
その「演技訓練系のテキスト」の内容や、そのことに疑問を抱いて調べた様々な演劇訓練の例が書かれている。
「人通りの多い公道で詩を大声で朗読する」「異性どうしが唇を合わせる」「裸になって横たわり、その状態のままみんなの前で小便をする」
で、さらにNさんは、そのことから「自己啓発セミナー」にも興味を抱いて調べたという。
「(目の前にいると仮定して)母親に対する想いを暗がりの中で大声で叫ぶ」「輪になった人たちの真ん中で、バカを演じる」…これは『村のバカ』という名前がついていました(笑)さらに驚くのは、「セミナー最終日、みんなの前で自慰行為をする」
すごいな、これ。特に最後。
で、Nさんが次のように書いている部分が示唆的だ。
「今、思ったんですが、メカニズムというよりは、『ふるいにかける』という考え方もあるのかもしれません」
なるほど。つまり僕が繰り返して書いた、「できる人」と、「できない人」の問題は、「できる人」だけをふるいにかけて残し、結局、そのことで集団が純化されてゆくという仕組みだということだ。
純化するとは、「閉じる」ということだ。閉じた集団。指導者はしばしばそのことのまちがいに陥る。だが、一概にまちがいと言い切れないのは、純化し、閉じた集団は(演劇にしろ、ダンスにしろ、あといろいろ)、そのことで表現を高める場合もあるから、ことは複雑である。
思想の問題だよ、こうなると。
あと、僕の場合は、「できない人」ばかりで純化させているような気がする。ただ、「できない人の純化」は、純化に見えないから不思議である。ダメな人のあつまりのようにも感じさせるので、いいんだか、悪いんだかよくわからない。
(以下、あしたにつづく)