2002 4-5
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八月になりました。毎日つづく地獄のような暑さのなか、「東京模様」はしばらくお休みです。数日のあいだ京都にいます。京都での生活は「京都その観光と生活」でお読みください。




Jul.31 wed.  「灼熱の東京」

■東京はこの夏いちばんの暑さ。

■エアコンのない部屋は地獄のようだが、むかしの人はこういう環境で生活していたはずで、じっと我慢していたのだからすごい。暑さをしのぐ様々な工夫をしていたのだろうな。とはいえ、過去と現在を比べてもしょうがない。むかしがよかったなんてけっして言いたくはない。どこの家も、マンションも、ビルも、あらゆる場所でエアコンの室外機から熱風が排出されている。一概にむかしといまとを一緒にはできないわけだし。まあ、自然としての地球は破滅に向かっているわけだな。
■汗だくになりながら、坪内逍遥と関連して、二葉亭四迷の小説を読む。そんなことをしていたら一年でいちばん好きな七月が終わってしまった。早かったな、七月。坪内逍遥で過ぎていった七月だ。

■筑摩書房の『明治の文学』の担当をするHさんから連日メール。
■次々と締め切りが設定されてはそれを破る。ほんとうに申し訳ない。しかしこの暑さだ。また書けなかった。同じ筑摩の打越さんから届いたのは、単行本の話ではなく、『内田百間(ほんとは門構えに月)選集』を担当しているのでそのうちの『大貧帳』の解説を書いてくれというメールっだった。書こう。また苦しむかもしれないがぜひとも書きたい。ところで、その「門構えに月」だが、WindowsのATOKで出てくることを発見したものの、ある環境が整っていないと表示できないと判明した。Macはだめだった。Windowsでも環境が整わないとだめだ。やっかいな話である。
■坪内逍遥に関する資料30冊ぐらいを運びながら夜の新幹線で京都へ向かった。資料を京都から東京、東京から京都と、行ったり来たりで疲れる。本を読んでいるうちにあっというまの京都だった。移動にずいぶん慣れた。外国に行くときのあの狭い飛行機内で10時間以上閉じこめられるのに比べたら東京・京都なんてどうということもない。

■また短いけれど京都の生活。8月1日から3日までオープンキャンパスの一環でワークショップをやる。6日には仕事でまた東京に戻らなければいけない。8月中に京都の部屋を引き払うのでそれも厄介だ。落ち着いて小説や戯曲に取り組みたいのだ。

(7:49 Aug.1 2002)


Jul.30 tue.  「商品は対象化された人間労働である」

■『資本論を読む』を書き終える。むろん『資本論』を読むのは当然だが、内田百間(ほんとは門構えに月と書いてウチダヒャッケン。リンクはこちらも。あるいはこちら)を引用するため『百鬼園随筆』を参照したが、というのも借金や貨幣について先生しばしば書いており、そのでたらめな論理が面白くてしょうがないからだ。
「金は物質ではなく、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相に過ぎない。或は、更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものではなく、従って吾人がこれを所有すると云う事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である」

 なにを言っているのだこの人は。でたらめである。僕は主に、『冥土』『旅順入城式』といった百間の小説の読者で随筆はあまり読んでいないが、随筆に見られるこうしたでたらめさは、一方に別役実という先生がおり、そして百間という大先生がいて勉強をさせてもらった。しかし驚くべきは「でたらめへの情熱」のことばかりではない。マルクスが『資本論』で貨幣について百間とよく似たことを書いている。

「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または想像された形態である」

「商品価値の金による表現は観念的なものだから、この機能のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる」

 貨幣は観念だとはっきり書いている。むろんこれは「でたらめ」とは少々意味が異なり、商品、労働、そして貨幣の細密な分析によって導き出された貨幣の特殊な性格だが、百間は『資本論』を読んでいたのかもしれないし、あるいは、誰もがそう結論づけたくなるのが「貨幣」の持つ魔力的な姿なのかもしれず、百間が書くのもまんざらでたらめとも言えない。いや、でたらめであってほしい気もする。百間はそうして尊敬すべき偉大な人物だ。さらに百間は「貧乏」について次のように書く。

「貧乏とはなんぞやと小生は思索する。貧乏とはお金の足りない状態である。単にそれ丈に過ぎない。何を人人は珍らしがるのだろう。普通の人を大別して、二種とする。第一種はお金の足りない人である。第二種はお金の有り余ってゐる人人である」

「第一種と第二種と世間にどちらが多いかは、考へて見るまでもない。第一種が人間の大部分であって、第二種は、そのほんの一部分に過ぎない」

「お金が余れば、お金の値打ちがなくなり、足りなければ、有難くなり、もっと足りなければ借金するし、借金も出来なければ、性分によっては泥棒になる。泥棒が成功すれば、第二種に編入せられ、お金が余り過ぎて、値打ちがなくなると、澤山つかはなければ納得出来ないから、費ひ過ぎて足りなくなって、第一種に返る。あつても無くつても、おんなじ事であり、無ければ無くてすみ、又無い方が普通の状態であるから、従って穏やかである」

 なんて面白いんだ。しかし私は仕事をしなければいけないのだった。労働。「坪内逍遙」はまだ書けない。納得のゆくものを書かねばならぬ。

(7:07 Jul.31 2002)


Jul.29 mon.  「エアコンは壊れている」

■暑い夏の日、『資本論』を読んでいた。仕事をしなくてはいけない。せっぱつまっているのだ。「資本論を読む」の原稿が終われば、次は「坪内逍遙」だ。さらに単行本のことを考えなくてはいけないが、坪内逍遙でこんなに苦しむとは思わなかった。苦しみつつもいろいろためになり、あとは原稿を書けばいいのだが、書けないし、エアコンは壊れているし、京都に戻らなくちゃいけないし、また不眠症になりそうだ。

(11:26 Jul.30 2002)


Jul.28 sun.  「軸がぶれない、構えが崩れない」

■BSの「世界のトップニュース」を見たら、フランスからのニュースは「ツール・ド・フランス」だった。「ツール・ド・フランス」を日本語にすると、「フランス一周自転車競争」になるらしい。自転車でフランスをぐるりひとまわりと書くと、のんびりしているかのようだが、驚いたことに、自転車なのに時速70キロで走っている。自転車で時速70キロ。しかもフランスは日本の1・5倍の国土。ものすごいレースだ。
■レースに対するフランス人の盛り上がりはワールドカップなみだし、深夜にやっているツール・ド・フランスを紹介するテレビ番組を見るとコースになっている沿道は箱根駅伝のような騒ぎだ。時速70キロの自転車にぶつかったら死ぬと思うが、沿道のばかものどもはコースにはみだすし、自転車同士が接触して転倒することもしばしばある。自転車といっても、こうなるともう、命がけではないか。
■レースは三週間にわたる。ルールがややこしく僕もよくわからない。どうやら、山岳コースの優勝者とか、ロードの優勝者とかあるようで、しかしなにより重要なのは総合優勝だ。総合で優勝する者に与えられるのが、「マイヨ・ジョーヌ」という黄色いジャージ。それを四年連続して獲得したのがアメリカのランス・アームストロングなわけだが、彼が所属するUSポスタルが乗っている自転車がすごい。というか、当然ながらTREKである。
■それにしても、ランス・アームストロングはたいへんな人だ。四年連続でマイヨ・ジョーヌを獲得したのもたいしたものだが、ガンを克服して自転車に乗っているという、どうなっているのかよくわからないくらいすごい。あと、マイヨ・ジョーヌを着ることは自転車乗りたちにとっての最大の栄誉だが、山岳コースの優勝者に与えられるのが赤い水玉のジャージで、たしかにそれも名誉なんだろうけど、ほしいかそれ、と聞いてみたいのだ。なにしろ赤い水玉である。

■自動車雑誌『NAVI』の連載で、えのきどいちろう君が「ナンちゃんのこと」という文章を書いている。印象に残ったのは次の部分。

 ナンシー関の特徴であり凄味は軸がぶれないことだった。無名でも有名でも、金がなくても金が入っても、気力充溢でも疲れても、構えが崩れない。アートの方向にも文学の方向にも一切、色気を出さなかった。天安門事件にも湾岸戦争にも、特別なことはしなかった。

 そうだった。ナンシー関はそういう人だった。あれだけの仕事を抱えても質を落とさず一定のレベルを守って、黙々と消しゴム版画を彫り、エッセイを書いていた。「現状維持」は、言葉にすれば簡単だが、本人は現状維持のつもりでも客観的に見ればずるずる後退しているのはよく見られる光景だ。むろんナンシーの仕事を「現状維持」などと軽々しい言葉にするつもりはないが、質を落とさず、軸がぶれず、構えを崩さないためにはたいへんなエネルギーを必要としただろう。そしてほんとうにすごいのは、そう感じさせない彼女の姿ではなかったか。

■東京は曇り空。で、いくぶん涼しいが湿度はひどく高い。仕事をする。坪内逍遙である。京都に戻る前には片づけなければいけないっていうか、もう締め切りを何度も破っている。担当の方にほんとうに申し訳ないのだった。あといま思い出したが、「資本論を読む」も書かなきゃいけなかった。それから、筑摩書房から出る単行本のゲラチェックと、そもそも書名を考えなければいけないが、書名が思い浮かばなくて困っているのだ。
■そんなおり、わたしは気晴らしにクルマに乗った。人はクルマに乗ると行動範囲が一気に拡大するのにはつくづく驚かされ、気がついたら八王子の多摩美のあたりにいた。と書いても、東京多摩地区の地理を知らない方にはなんのことかわからないでしょうが、東京と一口にいっても広い。かつて私が多摩美にいたころ周辺はなにもなかったに等しい辺鄙な土地だった。山だった。森だった。開発が進んでいるのに驚かされる。
■あと、なぜクルマには音楽が必要とされるのだろう。というか、「必要であるとされている」という制度が存在する気がしてならない。について書こうと思ったが、長くなるのでまたにする。仕事をしよう。

(7:24 Jul.29 2002)


Jul.27 sat.  「夏は修行の季節である」

■初台の家には五台のエアコンが入居前から設置されていたが、すべて壊れたのだった。僕が帰ってくるのを待っていたかのように壊れた。夏である。よりによって東京はこの夏いちばんといっていいほどの高気温らしい。湿度もうんざりするほどの高さ。
■午前中、NHKに行った。ラジオ番組で自分の書いたエッセイを朗読するという番組。単行本に収録されたエッセイを田口トモロヲ君に読んでもらったことはあったが、自分で読む、しかも書き下ろしたエッセイを読む。スタジオに入ると緊張して舌がうまくまわらない。収録終了後、聴きなおすのがいやなので、あとはおまかせだ。
■で、べつの番組を担当しているという女性のディレクターが録音に立ち会い、担当しているという番組に出てくれとのこと。以前、断った番組。そのときは忙しいとか何とかごまかして断ったが、目の前にその人がいると断れなくなった。というか、もう出演するのがあたりまえのように企画書が作られている。こまったな。気がすすまない。生の番組だ。まだ学生だという歌人と一緒に、聴取者から送られてきた短歌にコメントをするらしい。いやだよ。でも、断れなくなってしまった。こまった。
■この夏、俺にはやるべきことが無数にあるのだ。
■岩崎書店から頼まれている絵本や、来年の公演のための戯曲もあるが、なにより小説。書く。なにがなんでも書く。夏は修行の季節である。

■このあいだ注文した、『ナチ・ドイツ清潔な帝国』(人文書院)が届いていたので少し読む。わたしはもともと目がいい。視力がいい人は年をとると老眼になるもので、『ナチ・ドイツ清潔な帝国』の活字が小さくて読めないのだ。そのための目がねをかけて読むとひどく疲れる。
■エアコンは壊れる。目は疲れる。原稿は進まない。これも修行である。

(8:26 Jul.28 2002)



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