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Jul. 2007 MIYAZAWA Akio

宮沢宛メイルアドレス

『ニュータウン入口』にご来場いただきありがとうございました。九月三十日、無事に全日程を終了しました。それにともない、「ニュータウン入口NOTE」も終了です。今後は、「富士日記 2.1を引き続きお読みください。なぜ「 2.1」かっていうと、それは自分でもよくわからないのだけど、そういうことになったのでした。それでは、また。


Sep. 30 sun. 「楽日だったよ」

■公演は無事に終了しました。たくさんのお客さんが劇場に足を運んでくれたことに感謝します。こうした種類の舞台に好意的な意見もいただきとてもうれしかったです。まだまだ反省は数多くありますが。
■雨の日。それでもいっぱいのお客さんに足を運んでいただきとてもうれしかった。バラシは俳優たちも手伝ってくれ、たいへんだったと思うけれど事故もなく進行した。舞台監督の海老沢さんには無理難題を言ったが、でも、スクリーンのことなど、ほんとノーミスで見事な仕事をしてもらった。今回は演出助手の一人が事情で来られなくなったり、海老沢さんも忙しくて稽古場にいられないことが多かったりで、細かい小道具の用意なんかを制作の永井が、あたかも演出助手のように仕事をしてくれた。いろいろ大変だよ。『鵺/NUE』のときはトラムの舞台監督の方が稽古中ずっと稽古場にいて、なにか困ると相談にのってくれたのでいろいろ助けられたが、今回は、いわばまったく手作りな感じだ。大変だった。そんななか、永井を中心に演出助手や、遊園地再生事業団メンバーの上村や田中らが、稽古進行のための細かい仕事をしてくれた。みんなに助けられた。照明の斎藤さん、音響の半田君、あるいは映像班は、稽古場にずっといた(最終的には出演者になっていた)今野を中心に、井上さんと、岸がものすごい活躍をしてくれた。大変だったけど撮影は楽しかった。岸のテクニックに助けられた。最後のアンティゴネの映像には実はマイクとブームが映り込んでいたんだ。それをファイナルカット上で消したんだから驚いた。相馬にも助けられた。岸に言わせると、相馬の作ったエンドロールがうまくなっているそうだ。エンドロールがうまいってどういうことかよくわからない。
■そして、もちろん俳優たち。みんなに助けられた。みんなが魅力的に見えたなら、それにまさるものはない。
■東京で演劇を続けてゆく困難はいやでもある。経済的な問題だとかね。それすごく大きい。好き勝手なことばかりしていると、そうはいかないという、あたりまえの現実が目の前をふさぐ。でも、やってゆこう。だからこそ続けてゆこう。きょうの打ち上げは、この東京で無数に上演されている舞台のなかのひとつであり、僕らはこうして楽しい時間を過ごしたけれど、でも、他人からしたら、そんなことはどうでもいいと見えるだろう。まして、演劇以外の世界はもっと広い。世界はここだけじゃない。そんな微力な舞台。でもそこから、なにかを発見し、次へ続けよう。そしていろいろな面で支援してくれる方たちに感謝しよう。

■あれは土曜日の昼間だっただろうか、スチャダラパーのボーズ君が観に来てくれて終わってから話しをしたが、「知ってる人が誰もいませんね」と言った。ボーズ君たちと舞台をやったのももう10年前になるけれど、それから僕の舞台に出る俳優もすっかり様変わりした。特に『ニュータウン入口』は、『トーキョー/不在/ハムレット』とも人が大きく変わった。いい出会いもたくさんあった。若松さんや杉浦さんはじめ、みんないい俳優ばかりだった。鎮西との出会いも大きかった。アンティゴネができるのは鎮西しかいなかった。そうした幸運もありつつ、でも、いろいろ考えることはあって、俳優が変わってゆくことで観てくれる方たちにしたら、ボーズ君の言ったような「知っている人が誰もいませんね」といった戸惑いもあるんじゃないだろうか。
■バラシも終わり、夜の九時から打ち上げ。いろいろなことを考えていたら、あまり楽しめなかった。でも僕が暗い顔をしていたらまずいのでともあれ楽しくしようとふるまう。それで朝まで三軒茶屋の居酒屋を何軒か移動してわーわーとにぎやかに。若松さんも最後までいてくれた。鈴木慶一さんも途中参加。岸とコンピュータで映像や音を作る話をさかんにしていた。白水社のW君は疲れていたのだろう、途中で、眠ってしまった。なんだか無理矢理呼び出したようで申し訳なかった。無理矢理呼び出したと言えば、「不在」のときのカメラマンだった鈴木だ。ほんとはNHKのNさんにも来てもらうつもりでいたが、鈴木とNさんが似ているというだけで呼んだのだった。家に戻ったのは朝の六時近くだっただろうか。またいろいろ考えて眠れない。もっといい舞台を作ることしか僕にはできることがない。
■もっと考えよう。いろいろ考えよう。ただ、面倒なことがたくさんあって、純粋に作家として作品のことだけ考えたいが、そうもいかない。やっかいだなあ。まあ、僕も社会的に存在しておりますので、いつまでも、いいかげんな態度と、好き勝手にはやってられないんだよな、きっと。それと、劇場に足を運んでくれた多くの方には心から感謝しています。ありがとうございました。メールもたくさんいただきました。返事は書けないのですが、ここでいくつかまた、触れたいと思っています。

■さて、「ニュータウン入口NOTE」はきょうで終わりです。次のノートのタイトルをどうしようかな。「富士日記3」でもいいんだけど新鮮味がないな。だからって、「高尾山日記」にしたら意味がわからないし。「阿蘇山日記」もなあ、山にすればいいわけでもなければ、「多摩川日記」とか「荒川日記」って、川にする意味がわからない。だったら、海だろうか。「太平洋日記」って、大きく出たよ、これはまた。かといって、「プレリードッグ飼育日記」はうそである。またなにか考えよう。では、ひとまずこれで。

(18:43 Oct, 1 2007)

Sep. 29 sat. 「短い報告」

■なにか記しておこう。きょうもやはり時間がないけれど、このノートを毎日書いてきたからな。ここでやめるわけにはいかない。簡単なメモを。昼の回はスタッフ作業でミスがいくつかあって客席で見ていたけれど、すぐに外に出て裏に回り、どうなってんだこのやろうとばかりに走った。そしたら寝不足もあって気持ちが悪くなり吐きそうになってしまった。若いときだったらここでスタッフにいきなり跳び蹴りをしたかもしれないが僕もずいぶん大人になりました。落ち着いて注意。緊張感が欠けたのが腹立たしい。いい舞台をやらなくちゃ。最後までしっかりいい舞台を。夜は、鈴木慶一さんとのアフタートーク。とても楽しかった。舞台は少しみんな過剰な芝居になっているかもしれないが、でも、弾むような感じはあった気がする。たくさんの人に来ていただきました。うれしかった。友人、知人も多数かけつけてくれ、感謝しました。それからメールで感想をいただきそれも励まされます。その話はまたあしたにでも書こう。あとワンステージになりました。いろいろなことを考える公演になりました。そのこともまたいずれ。九月も終わりです。もう秋ですか。これを書いているいま、外は雨です。でも、最後までいい舞台を作ろうと思います。きびしい戦いはまだまだ続きますが。

(10:57 Sep, 30 2007)

Sep. 28 fri. 「若松さんの妄想」

■時間がないのできょうは短めに。
■少しミスが目立った日だ。ただ、ミスはミスだが、どうしても笑ってしまうのは、杉浦さんが「お母さん」というべきところを、その直前のほかの俳優のせりふに「先生」とあるのでついそれに引っ張られ、「先生」と叫んでしまうところだ。あれ、まちがいとわかっていながら、唐突になにを言い出したのかと思って笑ってしまう。ただ、それが出るときは勢いに乗りすぎているときのような気がする。ダンスの講義の場面だ。勢いだけではなく、引くところは引くと、杉浦さんはすごく面白いのだが。
■朝日新聞で扇田昭彦さんに劇評を書いていただいた。いままで誰にも話していないのにそこまで読んでくれ、それを劇評で言葉にしてくれたことがうれしかったのはアンティゴネのこと。「原理主義的なテロリストに見える」という意味のことが書かれていた。あからさまにそうは描いていないけれどまったくその通りだった。おそらく演じている鎮西はわかっていないと思う。きょうもたくさんの方に来ていただいた。知人も多く、早稲田の岡室さん、坂内さんもいらした。岡室さんに言われて思いだしたのは、10月5日、ガジラの鐘下君と早稲田で対談のようなものをすることだ。3日は多摩美の授業に出て話をする。舞台が終わってもいろいろ忙しい。桑原茂一さん、「MAC POWER」のT元編集長もいらした。日本テレビの大塚さんとものすごく久しぶりに会った。谷山浩子さんは二度見てくれてきょうは本をいただいたし、メールをいただき励まされる。「en-taxi」のTさんもかけつけてくれた。ほかにもメールで感想をたくさんいただき感謝している。その意見に励まされ、また、刺激もされる。あ、あと笠木がやはり二度目を見てくれた。
■若松さんとアフタートーク。笑ったなあ。若松さんがすごく面白かった。ビデオショップの場面は若松さんのなかでは西部劇になっているらしい。カウンターがあって、女の子がいると、若松さんの意識ではそれが西部劇だそうで、まったくの妄想だと思われる。ほかにも短かったが天井桟敷時代の話など聞けてとても楽しかった。
■扇田さんが劇評でアンティゴネのことを言葉にしてくれたことと、茂一さんから「かっこよかった」と言われたことがうれしい。茂一さんに「かっこいい」と言われるって、それ、かなりかっこいいでしょう。まあ、そんなこんなの金曜日だ。

(10:19 Sep, 29 2007)

Sep. 27 thurs. 「行けるはずのないところへ行く電車」

■本日の小屋入りは午後五時。ほんとは映画を観に行く予定だった日だが、きのう病院に行ったら午後は休診だと教えられ予定が狂ったのだ。というわけで、病院で骨折のぐあいを調べてもらう。以前も書いた幡ヶ谷のクロス病院だ。レントゲンを撮る。まだ骨は完全にくっついていないがもう指を固定している金属は取ってもいいと言われる。このあいだ、演出助手の白井からやはり骨折の話を聞いた。白井もかつて足の親指の骨を折ったことがあるという。同じように医師から固定している金属を取っていいと許可され言葉に従ったが、おかげで、親指の骨が妙なぐあいにつながってしまったそうだ。油断はならないな。このままにしてあと一週間は様子を見よう。もう痛みはないがここは慎重でなければ。
■あ、そうだ、深夜というか、未明の時間に「webちくま」の連載原稿を書いたのだった。眠かったのでなにを書いたかすら記憶が曖昧である。ゲラを送ってもらったのであとで確認したらわりあいまともなことが書いてあった。前回の原稿はひどかったんだ、やっぱり深夜に書いたら、わけのわからない文章になっていた。でも、わけのわからない文章はわけのわからなさにおいてすぐれているものの、だめな状態で書いたという前提があるから笑える。なにも知らずに読んだらただのだめな文章だ。
■劇場へ。簡単なダメ出し。というか、ほとんどなにも細かいことは話さない。もう僕の仕事は九割方終わりました。開演してしまえば、もう舞台は俳優のものだ。だからあとは、楽日、なにか仕掛けておいて舞台上の俳優を笑わせることを考えているのだ。たとえば、カレーを食べる役があると、そのカレーを異常な辛さにしておくとかね。以前、ピザを食べる場面があって、何人かで食べるが一箇所だけものすごくタバスコをかけておいた。一人をのぞいてほかの俳優はそれを知っていて、さっと、タバスコのかかってないピースを食べる。なにも知らない俳優はなぜ、みんながさっと食べたかきょとんとしているが口に入れてはじめてその理由を知る。固まっていた。口に入れた途端、一瞬、固まるがそれでも辛さに耐え、涙目でせりふを言っていた。笑ったなあ。あと、なにか本を開いてそれを読む場面とかでページにその俳優の若き日の写真を貼っておく。あまつさえ、むかし、舞台上の観客からは見えない位置に僕が座っていたこともあった。シリアスなせりふを言う場面で、そのせりふを発する俳優がそでを見ると、観客から見えないそでで何人かの俳優がけつを出していたこともあった。若き日の話。最近はそんなことはしません。今回はやろうかな。というのも、僕がひまになってきたからだ。

■おかげさまで観客は日に日に増えている。口コミとかそういったあれなのだろうか。当日券もかなり出る。キャンセル待ちの方も並んでくれる。ありがとうございます。
■きょうのアフタートークのゲストはポツドールの三浦大輔君だった。僕もなんどかアフタートークというものに呼んでいただいたが、直後に舞台の感想を話すのはとてもむつかしいので、逆に三浦君に僕のほうからいろいろ質問し、そのことで浮かびあがってくるこの国の現在的な演劇について語りあうことにした。三浦君とははじめてゆっくり話した。会うことはなんどかあったが、こんなに話すのはじめてだ。なにしろポツドールである。初期のころのポツドールの話を聞くと怖くてたまらなかったが、しかし、三浦君はとてもいいやつだ。意外に好青年。ほんとのことはわからないけど。むかしの僕の舞台を観ていてくれたとのこと。きょうはあまり時間がなかったが、こんどゆっくりまた会って話をしようと約束して別れる。
■ほかにも友人、知人が大勢来てくれた。スチャダラパーのアニ君とシンコ君、ドラマディレクターの大根君もいた。三人がトラムの外で待っていると、ろくでもないものどもがいるという印象である。いろいろな方に挨拶してへとへとになった。白夜書房の末井さんらも来てくれたとのことだったがお会いすることができなかったんだな。京都の大学で今野や橋本らと同じ学年の学生も京都からわざわざ見に来てくれた。それから『東京大学[ノイズ文化論]講義』の神戸のニュータウンについて話した回に登場するF君の姿もあった。ほかにも数多くの方。しっかり挨拶や応接ができず申し訳ない次第です。白水社のW君からまたアドヴァイスを受ける。今回、W君の助言でかなり作った部分があって、カメラマンにせりふがあるのも、W君がヒントをくれたことに端を発する。

■友部正人さんのブログでこの舞台の感想を友部さんが書いてくれた。舞台の内容が難解だったという前提で次のようにある。とてもうれしかった(文中「ユミ」さんというのは友部さんの奥さんのこと)

内容はとても複雑でわからないところもたくさんあります。話をどう受け取ったらいいのかがよくわからないのです。帰りは三軒茶屋から新玉川線に乗りました。ユミはぼーっとしていて、そのまま自由が丘まで行けると思っていたようです。新玉川線に自由が丘はありません。それでぼくは思いました。今日のお芝居は、行けるはずのないところへ行く電車だったのだなと。平行して走っているはずのラインが、どこかで交差する幻のラインを、宮沢さんは作りたかったのだなと。

 これが友部さんだ。この言葉に友部さんがいて、中学生から高校生になるころ僕はその言葉に触れ、強い影響を受け、その言葉を通じて世界を見ていたように感じる。友部さんの影響で僕は現代詩を読みはじめた。まだ高校生のころ。もちろんそれまでにも多くの言葉を知っていたし、その後、たくさんの言葉たちに出会ったが、友部さんの影響はかなりある。ある若い時期の決定的な言葉との出会いだ。
■さて、舞台は残りわずかになってきました。なんだかさみしい。半年、このプロジェクトにかかわってきた。この不合理な作り方につきあってくれた俳優やスタッフに感謝する。まだ次のことは考えられないけれど、少しは「次」への勇気もわいてきた。またぜんぜんちがうことをやろうかな。そのためにはもっと勉強しておこうと思うのです。

(9:38 Sep, 28 2007)

Sep. 26 wed. 「人間のやること」

■うーん、むつかしいな。きのうはあれほどよかったのに、どこか少しずれていた。ま、人間のやることですから。そして、そうしたぶれもまた、舞台なのだなあと思うのだった。アフタートークのゲストは内野儀さんだった。「東京で演劇をやる困難」というテーマを勝手に僕が設定して、まるで内野さんに人生相談しているような内容のトークになってしまった。でも、ここでいう「東京」は、「地方」の演劇状況に比べたらずっと環境がいいといった話とは異なってですね、いろいろな意味でいまの演劇の状況のことを踏まえてっていうか、なにか苦しさを感じることの吐露であった。また、内野さんに励まされた。
■で、深夜、あしたにはもうアメリカに出発するという内野さんからメールをいただき、ある人の『ニュータウン入口』の感想が書かれたブログのURLを紹介してもらった。かなり示唆的な内容だった。で、そのブログのトラックバックからたどって、ある映画作家がブログを書いていることを知ったのだった。驚いた。で、じつはその内容は、昨夜メールでいただいていたのだ。励まされ、そして、またなにやら同士意識を持ったのだった。
■きょうもまた、多くの人に来てもらった。で、多摩美の学生が授業の一環として観に来ていたから、終演後、その学生たちでトラムの前はごったがえしていた。アフタートークもあり、退出時間もほぼ過ぎていたので、あたふたとしあまりたくさんの人に挨拶ができなかった。朝日のYさんと少し話す。鳩男が泳ぐ場面は、笑うと言うより、この舞台のお話における救いとして、生きていたのかとほっとしたという。ああ、でも、それが伝わっていたならなによりだと思う。この舞台には死ぬ人がいません。ポリュネイケスは死んでいるのだろうか。いや、ポリュネイケスもまた生きている。けれど、生きていながら死んでいるのかもしれず、そしてそもそも存在していなかったかもしれないのだ。よーく考えると、それがわかってもらえると思うんですよ。最初のころの人とのやりとりを考えるに。見える人にしか見えない存在としての、そして、透明な存在としてのポリュネイケスだ。

■いろいろな人に会ったが、まともな挨拶ができず申し訳なかった。僕の舞台にもよく出ていて、いまパブリックの稽古場で松本修さんの『審判』の稽古をしている伊勢(追記:深夜に感想のメールをもらった)とか、谷山浩子さん(追記:やはり深夜にメールをもらった)からも声をかけられた。笠木もブログで感想を書いてくれた。それにしても入口付近でごったがえしていた多摩美の学生だが、やっぱ、時代は変わっても多摩美は多摩美だ。いちおう私の後輩どもってことになるが、なんといっていいか、早稲田とかにはいないようなタイプの学生たちだった。

(2:56 Sep, 27 2007)

Sep. 25 tue. 「かなり完璧な日」

■小屋入りは夕方の五時。舞台集合。それからダメ出しだがほとんどなかった。ただ一つか二つ注意点を。これからいよいよ後半に入るにあたり注意を短く話してダメ出しの時間は終了。で、七時開演だったわけだが、きょうはほんとにできがよくて俳優にあたまがさがった。前半はリズムもよく、すこんすこんと進行するし、後半、じっくりやるところは力をためて焦ることもなく緊密に演じられた。この気持ちよさ。少し休みがとれたせいだろうか、じつによかった。俳優とスタッフに感謝。これもNHKのカメラが入っていたからだろうか。なにしろ、三科にいたっては、ハイビジョンで撮るというので顔の毛穴さえ気にしていたらしい。
■たくさんのお客さんが来てくれた。もちろん未知の観客の方たちに感謝するのはもちろんだが、知人たちも駆けつけてくれ、ニブロールの矢内原さん、高橋君、小浜夫妻、エレキコミックのヤツイ君。そして、元転形劇場の安藤さんもいらした。『鵺/NUE』で一緒させてもらった上杉さんも足を運んでくれた。とてもうれしかった。ほかにも数多くの知人たち。そして、青山真治監督。カメラマンの今野がファンだというので、紹介したのだが、あがっちゃってあまり話しができなかったという。その気持ちはよくわかる。家に戻ったら青山さんからメールがあって、短いが青山さんらしい内容の感想、それからさらにまた考えるとの伝言。うれしかった。励まされた。
■まだ舞台は続く。終わりに向かっている。でも、きょうのような舞台を続けていればきっと観客に伝わるものがあるはずだ。この集中力をさらに続けてもらいたい。さて僕はあした(26日)から、アフタートークが連続してある。気をつかうけれどそれが僕の仕事だ。舞台はだいぶよくなったから見るほうの仕事はほぼ終わっている。ダメ出しもほとんどないだろう。アフタートークのことを考えなければ。それから足の骨折はだいぶよくなっているので、病院でレントゲンを撮ってもらい経過を教えてもらわなくちゃな。このあと、いろいろなところにゆくにあたって、そろそろ治ってもらわないと困る。この公演が終われば本格的に秋だろう。少しさみしい。そして困難な戦いはまだまだつづく。そういえば、「新潮」のM君や、「考える人」のN君から、短編小説を書いたらと勧められた。もちろん書きかけの小説もあるが、とにかく発表しなくちゃだめだと言われたのだ。ともあれ発表すること。小説も書いているのだと知ってもらわなくては。秋になればまた忙しい。書く時間を意識的に作ろう。あ、「新潮クラブ」にまた行こうかな。

■相馬がブログで感想を書いてくれた。とてもいい文章だ。あと、あれだね、NHKのディレクターのNさんが今回の収録を担当してくれたんだけど、ものすごく熱心に取り組んでくれ、さらに野心的に録ろうという姿勢で作ってくれたことに感謝した。早く編集されたものが見たい。

(8:02 Sep, 26 2007)

Sep. 24 mon. 「一段落ついて」

■俳優たちは疲れていただろう。体調不良だった者も何人かいた。それでもいちばん困難な時期を乗りこえ、一段落ついた。三連休の最後の日。昼公演だけだったし、夜公演だけの25日は入り時間も遅い。みんな疲れをとってもらえたらと思う。NHKの収録のある日で、ある程度、カメラのために席をつぶしたが、そんな日に限って観客が大勢つめかけてくれた。とてもうれしかったものの、そういった状況だったので観劇するにあたって支障になっていなければよかったが。
■だから僕は、一席だけでもお客さんに譲ろうと思って調光室で観た。客席で生の声を聞くのとちがい、動きはわかっても、声はモニターを通じて聞いていたのでよくわからない。でも、もうここまできたら細かい部分のだめだしをしても意味がないように感じる。これが完成ではないし、もっと先へと進んで行けるかもしれない。さらに煮詰めてゆくことはできるかもしれない。だけどなあ、いつも思うことだけど、だとしたら、本番期間中に変更していったら、最初のころに観た人に失礼になるんじゃないだろうか。大幅な変更はもうないだろう。まあ、初日から、稽古で作ってきたものが基本にあって、ごく細部の、ここはこうしたほうがいいだろうと感じた部分を直す作業はする。何度も観て、あらためて気がついたことの変更は多少ある。
■たくさんの方に来ていただいた。俳優の大河内君がいた。ミュージシャンの友部正人夫妻、それから、チェルフィッチュの音楽も作っている大谷能生さんがいらして、本とCDをいただいた。あとで知ったが大谷さんも横浜国大中退だそうだ。中退するのかな、あの大学は。それからスガ秀実さんもいらしてくれほんの短い挨拶を交わす。北海道での演出ゼミでお世話になった、嶋さんと、村山さんもいらした。北海道で思いだしたがそのゼミに参加してくれたKさんはきのう来てくれたんだな。北海道のみやげをいただいたのだった。

■終演後、学生を中心にした観客を養成するプロジェクトを組織しているITIのために(と、この説明が正しいかよくわからないんだけど、っていうか、文章がおかしくないかな)、学生と対話形式のようなトークをする。質問に次々と答えてゆく。疲れたな。進行をつとめてくれたのは、以前、スコットランドの戯曲のリーディングを、やはりトラムでやったとき翻訳をしてくれたTさんだ。なかなかに、みんな鋭い質問をする。でも質問に答えるのはむしろ好きで、というのも、質問に答えつつそのことを考えることができるからだ。あと、Tさんが話の途中、「F」という登場人物の、その「F」が示すのは、「Father」ですかと言うので、なるほどと、驚かされたのだ。考えてもいなかったが、そうとも解釈できる。ああ、そのほうが、ギリシャ悲劇的に正しいのかも。
■それから一段落というわけで、中日打ち上げ。三軒茶屋の居酒屋へ。でも、疲れていたのか、若松さんをはじめ何人かの俳優は不参加。むしろ、しっかり休んであしたの舞台にのぞんでほしい。わーわーと、楽しい時間を過ごした。わりと早い時間に解散。家にもどって僕も休む。
■というわけで、一段落ついたところで、いろいろ考えた。リーディング公演からだーっと走るようにこの舞台を作ったような気がし、なにか落ち着くことがなかった。あまりじっくり考えず、突っ走って作った気がする。でも、これが僕なんだとしか言いようがない。できるものしか作れない。でも、まったく異なる種類の舞台にもなりえたこのテーマや題材が、どうしてこんな姿になったか、あらためていま、いろいろ考えるのだ。衝動のようなもので書き出した第一稿は、自動筆記のように、せっぱつまって書いていた。はじめぜんぜん書けずにひどく苦しみ絞り出すように書いたが、あとさき考えず、出てくるものをとにかく並べてゆくような作業だった。だから、どうしてこんな言葉になったか、いまではよくわからないのだ。「準備公演」の前に第二稿が書けなかった。それを書けていたらまたちがった舞台になっていただろう。戯曲を書くことについて、あらためて意識的になったのは、その書き方というより、取り組み方のようなものがなってないと自分で反省したからだ。忙しいなんて、言い訳だからな。戯曲を書く時間を意識的に作り出して、もっとしっかり取り組まなければ。

(7:51 Sep, 25 2007)

Sep. 23 sun. 「少し疲れがたまってきた」

■昼間の回のとき、こんど僕の戯曲をニューヨークでリーディングしてくれるプロジェクトの打ち合わせのため、その翻訳をしてくれるジョン・K・ギレスピーさんとお会いする。ギレスピーさんは日本語が堪能なので驚かされた。子ども時代、神戸で育ったという。いろいろ話ができてとても興味深かった。外国の方と話しているということもそうだけれど、日本の現代劇の翻訳を多く手がけ、アングラ時代からのこの国の演劇の証人のような側面もある方だ。内野儀さんも同席していただき、『ニュータウン入口』を翻訳するにあたってサジェスチョンしてもらう。で、内野さんが舞台を観るというのでトラムに行ったあと、僕はギレスピーさんと二人で話をしたわけだが、寺山修司の話題になった。パリで天井桟敷の『奴卑訓』を観たという。その舞台には若松さんが出ていたのではないかと、年代とか、若松さんが天井桟敷に入った時期を少し計算したが、よくわからなかった。
■翻訳にはさまざまな困難が伴うと思われるけれど、でも、僕の戯曲が外国の方にどう受けとめてもらえるか興味深い。逆に考えると、もっと戯曲を書こうと思った。もっと広く発信したいと考えたからだ。それにしても、森下のスタジオで稽古しているときは、稽古場に籠もっていたし、劇場入りしてからはずっとトラムにこもっていたので、ギレスピーさんと打ち合わせするため外に出たらとても新鮮な気分になった。
■昼間の回は途中から楽屋のモニターで観た。俳優は少し疲れているのではないかと感じる。昼夜二回がゲネの時から続いているからな。それにしても時田がよくなった。はじめ時田のことばかりダメを出していたが、ここに来てとてもいい。巻きこまれる人物を淡々と演じられるようになったと強く感じたのだ。あと、鎮西だけれど、「ラメ入りのジェル」というものを持っていやがった。どう表現していいかわからないが、なんか、ホタルイカのようだった。ほのかに光っている。なんだと思っているんだ。それで夜の回は客席で観る。杉浦さんの芝居が変わっていた。あ、妹が観に来たが、ぜんぜんわからないという感想。兄妹だけに忌憚がないというか、遠慮がないよ。ほかにも早稲田を出たSや、準備公演でFを代役で演じてくれた森本も来た。少し劇場前で話をする。僕も少し疲れた。終演後、早めに家に戻った。

(8:59 Sep, 24 2007)

Sep. 22 sat. 「少しずつ舞台は落ち着いてゆき」

■昼夜二回の公演のある土曜日。早速、メールで感想を送ってくださったのは、こんど「パーソナル心理学会」の講演に僕を呼んでくれたGさんだった。Gさんのメールはこちらがこそばゆくなるほどの言葉で、いや、それほど僕は偉くないというか、そんなに大それたことを考えていなかったという内容だった。

 詩のような演劇が本当に存在するのですね。演劇詩の誕生の現場を目撃したと思っています。さらにいえば現代を生きるわれわれにとって、詩の語り部はカメラマンなのだと思いました。つまり作者の言いたいことを詩の内的登場人物(俳優たち)のセリフにこっそりと埋め込むのではなく、カメラマンに映像とともに直接語らせれば、映像(虚像)と生身の俳優(実像)が絶妙に交差した演劇詩が出来上がるのだと気付かされました。裏を返せば、宮沢さんが成功させたこの表現技法は、心あるマスコミの人間にとっては自分たちに対する痛烈な批判、嫌味に聞こえるはずです。
 太田省吾さんと宮沢さんの接点についても考えていました。

 そんな太田さんのようには僕はできないです。愉楽と、いわばかっこよさのことばかり考えていたような感じです。でも、Gさんの言葉にはとても励まされました。またそれはとはべつに、このあいだ取材を受けた「演劇情報サイト・ステージウェブ」を主宰しているMさんからもメールを早速もらった。また異なる種類の感想だった。

 開演前に客席について、美術セットを見て、実はかなり違和感を覚えました。
 あのセットはこれまでの2回のプレビュー公演では表面化しなかった、市民を管理・抑圧するシステムの存在をあまりにも強く打ち出していて、ニュータウンに住む住人たちに対して、ちょっと強すぎる気がしました。実際に芝居が始まってからはほとんど気にならなくなりましたが。

 それに関しては全然考えていなかった。ただ、ゲートとして、「森」と「分譲地」との境界、「あちら」と「こちら」を視覚的にどう表現するかを考えていた。でも、見る人によっては「管理」「抑圧」の装置になってしまうのだな。あの柱の重量感がそうさせたのだろうか。もう少し軽い、もっと抽象性があればよかったかもしれない。というのも、ラスト近く、ギリシャ悲劇的な視覚イメージをあとになって感じ、だったらあれをパルテノンのような柱にすればよかったかと、ごく視覚的感覚を持ったからだ。さらにMさんの感想はつづく。

 それとラストシーンの変更がとても驚きました。いわば演劇の作為を放棄しているわけで、ここまで来ちゃったのか、というのと、これをどうやって収束つけるのか気になりましたが、結局、それをまとめることもなく、観客を投げ出してしまったのには、唐さんの紅テントが最後に天蓋を開いて外界へと接続していくのと同じような印象を持ちました。でも、演劇を見に来たつもりの観客に向かって、まだ作り上げられていない材料を渡して、それから先をすべて観客にゆだねるかのようなスタイルですから、唐さんのようなカタルシスはまったくなかったですが(笑)。(中略)今日は、昼夜2回公演ということもあってか、役者たちの元気がいまひとつ足りなかったように思いました。客席もちょっと真面目に構えすぎたのか、イマイチ笑い声が少なかったように思います。そんななかで、カメラマンの今野さんが、観客と舞台を結びつける重要な存在を淡々とこなしていたのが印象的でした。

 笑いに関していうと初日はかなり笑いが起こっていたが、俳優の元気というか、客席の戸惑いのような感じがあったかもしれない。笑っていいんだか、いけないんだかわからないっていうか。かなりばかばかしいことをしているつもりだが。で、「カタルシス」についていうと、あえてなくしたわけではなく、「かっこよさ」ってことを考えていたらああなってしまった。「かっこよさ」と「愉楽」のことばかり考えていた気がする。カーテンコールもないし、なにしろ観客が拍手をするタイミングがぜんぜんない。劇場の係の人が「これで終演です。本日はありがとうございました」と事務的な挨拶をしたところで拍手が起こったのだった。なんだか申し訳ない気がしたのだ。
 俳優が少し疲れていたのはあったかもしれない。仕込み、ゲネから、みんなわりと早い時間に劇場に入り、ゲネもそうだけど昼夜二回をずっと続けていて、このニ、三日、休む時間がなかった。ただ演出上、なにか笑いに関してはまちがっているかもしれない。じゃあ、初日の観客が笑っていたのはなぜだろう。Mさんの感想はなおも続くのだが、内容に触れる箇所があるので、申し訳ないが割愛。いろいろ気づかせてくれる内容だった。Gさんも、Mさんも、早速、感想を送ってくれて感謝した。

■といったわけで、いくつかの修正をし、日々、舞台の完成度は高まっている。さらによくしよう。またあした日曜日も昼夜二回。俳優の疲れはたまっているだろうな。ここにきて売切日が出てきて、もっと早くチケットを買ってほしかったよ。ほかの日も売り切れそうなので、どうかお早めに。カタルシスはないのですが、すぱっと切って、かっこいい表現のことばかり考えていた。いいのかな、これで。わからないな。唐さんのカタルシスって、毎回、そうなるってわかってるんだよな。きまって、こうなるというような様式だ。たしかにわかっていながらカタルシスはある。歌舞伎に近いか。っていうか、歌舞伎だ。「待ってました」の世界。否定はしないが、やらないのではなく、僕にはそれができない。
■きょうは岡田利規君が観に来てくれた。感想はあまり聞かなかったが、少し言葉を交わした。終演後、俳優たちと飲み屋へ。三回の舞台を終え、ちょっと落ち着いたからだ。また舞台を通じてなにか発見があればと思う。次に通じるための発見。これもまた、ひとつの経過。これから僕の舞台はどうなってゆくだろう。まだまだ、厳しい戦いは続く。まあ、ぼちぼちゆこうと思う。

(8:17 Sep, 23 2007)

Sep. 21 fri. 「そして初日の幕が開き」

■無事に初日はあけました。ありがとうございました。何人もの方が劇場に来てくれた。直前になって当日券を買い求めていただき、足を運んでくれた方にとても感謝しています。ありがとうございます。いくつか、初日ならではのばたばたはありましたが、大きな破綻もなく、舞台はできました。うーん、少し直すべきところはあらためて改善してゆこう。緊張感があって、失敗しているところもあったけれど、俳優はきちんとやってくれました。確認せぬまま、音楽を変えたところで、僕が考えたのとちがう箇所があって、そこは意図がちゃんと伝わっていなかった感じがする。初日乾杯で、新潮社のN君、M君らと話をする。いろいろ意見をもらう。白水社のW君とはあまり話ができなかった。いろいろな人に挨拶。白夜書房のE君からは、「ここまで育ちましたか」と、リーディング公演、準備公演との変化をふまえて感想をもらった。変えたからな、あれから、ずいぶん変わった。なにしろカメラマンがしゃべっているし。本も少し変えた部分がある。もっといろいろな人と話をしたかったがあまり時間がなかった。笠木や、「不在」のときにカメラをやった鈴木、相馬らともあまり話ができなかった。三坂の姿もあった。かけつけてくれたことに単純に感謝した。もっと長くいろいろ書きたいことはあり、たとえば、稽古のとき、鎮西は稽古着にヴィヴィアンのTシャツを着てやがったとか、このおしゃれやろうがとか、まあ、腹立たしいことはあるが、またいずれ。開演直前、楽屋のトイレで一緒になったカメラマンの今野には、最後の台詞を佐藤真さんに話しかけるつもりで、と声をかけた。よかったな、今野。もっと細かく書くべきこと、報告するべきことはあるが、また落ち着いてから。二日目もマチネもあり入りが早いのでこのあたりで。初日を踏まえ、ミスしたところなど、また修正しよう。もっとよくしよう。はじまったばかりだ。

(7:30 Sep, 22 2007)

Sep. 20 thurs. 「いよいよ」

■残りのシーンの場当たりをほぼ終えて、午後3時からゲネの予定のある日だ。寝不足だ。昨夜、今後の舞台のこと、われわれの厳しい戦いのことを考えていたら眠れなくなった。来年以降の公演もこの厳しさは続くだろう。だが、新しい戦い方がきっとある。いまのやり方や、考え方、表現を貫ぬきつつ、これからも舞台を続けるために。遊園地再生事業団は、いまでこそ、メンバーとして上村と田中がいる。さらに、制作の永井が協力してくれてはじめて成立している。永井がいなかったらなにもできない。多くの人の支援によってようやく公演ができる。ただ、基本は僕一人だ。きびしいな。このままでは公演してゆくことすらできなくなりそうだ。考えていたら憂鬱になるものの、でも、それを振り払い、いま、ここ。これからはじまる舞台を可能な限りよくしようと最後まで努力する。寝不足のまま、三軒茶屋へ。
■午後、予定通り「場当たり」を終え、夕方からゲネをはじめた。スティールの写真を撮ってくれるカメラマンの方や、それから、またNHKの方が、今度は数名のスタッフを連れてきてくれた。正式に収録するのはべつの日なんだけど、本番では撮れない角度からの絵を撮りたいというのでゲネにカメラを持ちこんでくれたのだ。ありがたい話である。いいものを作ろうという熱意に感謝するしかない。それでゲネを開始。はじめて舞台上で通しをやったわけだが、どこも大きな破綻はなく、よくできていた。照明のきっかけでいくつかちがうところがあったが、全体としてはかなりよかった。作者がこんなことを言うのもなんだけど、面白かったな。まったく自分で作っていてなんだけど、面白く見てしまった。それはもう、僕の手から離れ、舞台は俳優のものになってゆくのだし、俳優たちがそれぞれよかったからにちがいない。それを客観的に感じた。彼らに感謝した。でも、最後まで僕も気を抜かず、細かい部分についてはダメを出す。アンティゴネ役の鎮西がいつもより変なヒゲになっていた。なんだそれは。映像で大きく映し出されたとき、どこのメキシコ人がいるのかと思ったのだ。それを指摘したら、「だめですか?」と鎮西は言った。このあいだの、「よいしょお」といい、いったいなにを考えているのだこの男は。あと、若松さんは歌を歌って登場する場面がある。いつもその直前、自分で用意したカシオトーンを使い音の高さを確認して小声で歌う。その歌声がそでから聞こえてくるのでそれを指摘したら、「聞こえてた?」と驚いたように言う。自分の声がどれだけ通るか自覚していないのだろうか。若松さんの声はすごいよ。低く出しても、ぐわーんと通る。それにしても若松さんのかっこよさはなんだろう。すごいタフだしな。
■いよいよ初日を迎える。映像の一部を劇場の退館時間のぎりぎりまで直し、それで外に出た。家に戻って原稿を書く。毎日のように、一本ずつ原稿を書いていた。これでようやく原稿の仕事は一段落。安心して初日を迎えられるけれど、でも、まだこれからである。もっとよくしよう。ぎりぎりまで粘ろう。さあ、初日だ。もっと多くの人に観てもらいたい。

(8:56 Sep, 21 2007)

Sep. 19 wed. 「もっとたくさんの人に観てもらいたい」

■疲れた。仕込みがほぼ終わり、いよいよ場当たりというものになったわけだが、細かくやっていったらどんどん時間が過ぎてゆく。なんだか納得のゆかない箇所があって、なかなか前に進まない。でも、妥協せずに可能な限りうまい方法を考える。えーと、ライブ映像だけど、それをやっている人たちが見えるっていうのは、なんか、面白いな。そこにいるもんな。あからさまに見えている。準備している段階から野放図にそこにいる。手前で芝居をしているのに何気なく準備している。これはいったいなんだろう。もっと、でたらめにならないかなあ。変にきれいに見せようとするとそれこそ不自然だ。
■このでたらめさを、もっと多くの人に見てもらいたい。後半は席がもういっぱいになっていて、いろいろこちらも困っているから、どうか前半に来てもらいたい。べつに後半になったからといって芝居にそんな変化があるかは疑わしい。というか、そういった舞台でもないような気がするものの、ただ、『トーキョー・ボディ』や『トーキョー/不在/ハムレット』とも質が異なる。なんだろうこれは。愉楽はかなり前面に出ている。若松さんはでたらめだ。みんな俳優ははりきってます。とにかく劇場に来い。来やがれ。
■場当たりに集中したせいか、少しきょうは疲れた。もっと書くべきことがある気がするが、とりあえずここまで、いい舞台にするぞ。もっといい舞台にする。ほんと、たくさんの人に目撃してもらいたい。きょうもNHKの方が下見に来てくれて、このあいだ通し稽古を見てからいろいろ質問されたんだけど、その熱心さに頭がさがったのだ。とことん協力しよう。もうこうなったら、テレビクルーが舞台上にいてもいいんじゃないかってくらいに、協力したい気持ちにさせられた。さあ、あしたはゲネプロ。まだ場当たりはすんでないんだけどね。俺はやる。とことんねばる。これでもかってくらいにねばる。でも、疲れた。きょうは早く眠ろう。原稿もあるし、あしたも早いし。

(0:30 Sep, 20 2007)

Sep. 18 tue. 「三軒茶屋へ」

■以前、僕の舞台の演出助手もしていた相馬が、上にある新しいバナーを作ってくれた。さらに、公演情報ページを書きかえ、アフタートークのことが詳しく記されているのでぜひごらんください。それから、俳優たちの顔写真を横長にして作った画像がなんだかかわいいじゃないか。チケットの半券を持っていればアフタートークは、その日に舞台を見なくても聴きに来ることができるというのは、僕も知らなかった。ことによったら、毎日、アフタートークのために来るという方もいるんじゃないだろうか。あと、トークが盛り上がり時間が足りなくなったら「このあとは、近くの公園でやります」とかいって、みんなで移動するっていうのはどうだろう。
■そんなことがありつつも、いよいよ劇場入りの日であった。俳優の何人かは仕込みの手伝いに朝の10時から劇場に行ったはずだし、舞台監督の海老沢さんはじめ、スタッフや仕込みの専門の方たちが朝から仕込んでいるのだろう。僕は原稿を書いていた。それで午後、MacProをクルマに積んで劇場へ。そのまま、今野と南波さんをクルマに乗せ渋谷に行った。センター街、公園通りなどで、芝居の一部を録音したのである。センター街には街灯にスピーカーがついていて始終音楽が流れている。ちょっと環境音としてはよろしくなかったので、スペイン坂や公園通りで録音。いきなり今野が台詞を発すると、周りにいた歩行者がぎょっとした顔で振り返る。まずまずのものが録れたので渋谷をあとにしたが、渋谷は坂が多い。足の指を骨折しているのを忘れて歩いてしまったら、巻いていた包帯がとれた。いったん、包帯を直しに二人を連れて家に戻ることにした。途中、南波さんに「南波さんは、大学時代、友だちはいたの?」といきなりな質問をする。それというのも、以前も書いたような気がするが、二人は同じ横浜国大を中退し、今野のほうは友だちがまったくできなかったというので、そういう大学なのかと思ったからだ。どうやらそうでもないらしい。今野は唐十郎さんの授業を受けていたという。初回の授業で唐さんは紙をばりーんと破って登場したそうだ。
■家でアイスコーヒーを飲んで少し休憩。足はべつに痛くなかったが、それをかばっている腰が痛くなる。まずいな。たいてい舞台がはじまるころになると腰に疲れがたまり、なにかの拍子でだめになる。今回は左足をかばっているから余計にまずい。それからまたシアタートラムに戻る。仕込みは着々と進行していた。映像の専門の会社の方が来てプロジェクターのセッティングをしてくれた。思った通りの感じになかなかならない。それも終え、美術のチェックもすませプランをたてた大泉さんと少し話して、この日の僕の仕事は終わる。でも、これからだ。これからが忙しい。テクニカルリハーサル、場当たりがあるからな。

■控え室で煙草を吸っていたら、仕込みのプロの方もいらして、その一人がシャープペンシルのようなものを同じ仕込みの方に見せて話をしている。「スミをとるために、これ買ったんだ」とその人は言った。「スミ」というのは、つまり木材なんかを切るとき、印をつけることで、まあ大工の用語からきているのだろう。子どものころからよく耳にしていた。それでその人は、それがいかにすぐれているかについて語りはじめたが、「芯を削らなくていいんだ」とシャープペンシルについて説明する。いったい、いつの時代の話だそれは。
■舞台では照明作りがはじまっていた。照明の斎藤さん、音響の半田君、映像班の井上さん、制作の永井らスタッフはまだ仕事をしていたが、僕は先に劇場を出て、家に戻ると原稿を書いた。原稿は終わらない。次々と締め切りが来る。腰が少し痛いな。舞台のことを考える。結論というのはきっとない。これからのためにこの舞台があり、またなにかが発見できればいい。その試みに協力してくれた俳優やスタッフに感謝するしかないが、半年にわたる『ニュータウン入口』プロジェクトのこれが最後の仕上げだ。もっとよくしよう。そして、楽しもう。

(9:27 Sep, 19 2007)

Sep. 17 mon. 「森下をあとにして」

稽古場ばらし

■セゾン文化財団の森下スタジオを使った稽古はきょうが最後だ。あしたから劇場入り。夕方には稽古場のばらしをはじめなければならないので、午後、新しくしたラストシーンの稽古を少ししてから、すぐに通し稽古になった。きょうはとてもできが悪かった。アンティゴネ役の鎮西は風邪のせいか元気がない。きのう、まったく意味のないところで、いきなり「よいしょお」とかけ声をかけていて、ダメ出しのとき、さんざんだめだと言ったせいで元気を失ったのか。さらにきょうは、同じ箇所で、もっとだめなことを言った。なにがどうなっているのか、鎮西のなかで、なにが発生しているのかさっぱりわからない。
■ラストシーンはよくなった。ずっとなにかちがうと思っていたが、あ、ここで終わればいいという箇所が見つかったのだ。テキスト段階でそれに気づいていればよかったのだが。さらに白水社のW君のアドヴァイスをもとに書き換えたのだった。つまり、アドヴァイスを実現化するのをどうやったらいいか、それに気がついたといってもいい。きのうより、一分、短縮。どこが長くなっているか、短くなっているか、通しをはじめたころから、何度か演出助手に「ラップをとっといて」と言ったはずだが、いっこうに取って報告してくれる気配がない。で、考えてみたら、その意味がわかってないんじゃないだろうか。それをまずは教えるべきだった、といまごろになって気がついた。各場ごとにタイムを記録しておいてくれると、あとで、どこが伸びたり短縮したかがわかる。それが知りたかったんだが。はじめて演出助手をやる者だから一から細かく教えるべきだった。
■通しのダメ出しをして、それから稽古場をばらす。さらに片づけ。舞台監督助手の鈴木君、制作の永井が中心になり、さらに俳優たちが手伝って作業は着々と進行していた。そのあいだ僕は、衣装さんと最終的な打ち合わせ。それから映像班の、井上さん、岸、今野と、最後に流す「映画」の編集をしていた。森下スタジオのロビーにMacProを移動してその作業。岸がパレスチナ自治区で撮ってきた映像を見ながら、どこを使うか決め、それを細かくつないでゆく。岸は、Final Cut Proを見事に使いこなしているが、だいたい勘で覚えたらしい。よく、Macのソフトは直感的にわかると言われるが、これだけ細かいところまで直感で覚えたかと思うと驚かされる。ただ、PhotoShopなんかで、こんなことができたかというテクニックをなにかの本とかネットで知ることがあり、やっぱり直感だけでもないと思う。アプリごとのショートカットーキーも覚えるとほんと便利だからな。だけど、岸はすごかった。なにしろ、ある場面の映像に、あってはならないものが映りこんでいて、それをFinal Cut Pro上で消したのだ。よく消したな、あれ。俺はもう、半分はあきらめていて再撮影に行こうとすら思っていたのだった。

■といったわけで、リーディング公演からの長い森下での作業はいよいよ終わりだ。スタジオを貸していただいたセゾンの方に感謝するしかない。ありがとうございました。で、帰り際、なぜか古武道の話で今野と岸が盛り上がっていた。どういう話になっていたかわからないが、森下スタジオの方に挨拶をしているとき、僕とスタジオの方のあいだで、今野と岸は、鍬で土を掘り返すような仕草をしていた。笑ったなあ。農耕作業における身体の使い方って話なんだろけど、なにも、挨拶しているときに、鍬を使う動きをするなよと、そのばかものぶりに笑ったのだ。
■いよいよあしたは劇場入り。仕込みは三日間。舞台装置を組み、照明が吊られ、それからあさってはテクニカルリハーサルや場当たり。舞台稽古。ゲネプロ。21日が初日だ。ここまで来てしまったか。やり残したことはないかな。いや、やり残したことばかりかもしれない。最後まで集中していい舞台にしよう。シアタートラムにも、MacProは持ちこむ。アップル社に感謝だ。稽古中の映像はほとんどMacProから出していた。ときどき、Final Cut Proはコマ落ちしたけれど、編集といい、すごく働いてくれた。そして、家に戻る。「東京人」の原稿を書く。足の骨折はだいぶ落ち着いてきた。あした、今野と南波さんを連れて、ちょっとした試みをするため、昼間、渋谷に行くが、足が思うように動かないことを忘れていた。その作業にも時間がかかりそうだ。とにかく、着々と舞台は進行しているのだ。

(7:35 Sep, 18 2007)

Sep. 16 sun. 「最後まであがく」

若松さん

■『太田省吾劇テクスト集(全)』(早月堂書房)が届いていた。あとがきを読んだ。いや、あとがきとは記されずメモとあったそれは、とても短い言葉だ。その意味を考えている。死の直前に書かれたその言葉について考えている。

■最後まであがいているのだ。この数年、ある程度、舞台ができたらほとんど直前になって変更などしないし、初日があけたらほとんどダメ出しをしなくなるのだが、今回はあがいている。だからラストシーンを書きかえた。こういう手があると思いついたからだ。このあがきは意味があるだろうか。うまくゆくだろうか。まだ最後までねばろう。なんだろう、この気分は。なにかまたべつのことのためにこの作品があるかのようだ。
■若松さん(写真)は、稽古が終わると家が遠いのでさーっと帰ってしまうからいつも写真を取り忘れてしまうのだがきょうは最後に声をかけて、これは帰り際、長く伸びた髪を後ろでしばった若松さんだ。若松さんは歌う。すきあらば歌っている。鼻歌だ。自分の出が終わり席に戻ると、もう歌っていたりする。あれがわからない。さらにいうなら、からだが不思議だ。どうなってるんだ。あとわけのわからないことをする。以前、三点倒立のことは書いたが、あれ以来、やらなくなったのはどうも自分でもちがうと思ったからだろう。『鵺/NUE』のときもそうだったが、それをですね、ある意味、搦め手で、徐々に演出して削いでもらう。本人も気がつかないうちになにもしてないかのように、少しずつ削ぐ。いきなりそれはやめてくださいと言うと、むしろ、それ以上のことをするので、気がつかない程度に少しずつ言ってゆくのだ。すると、若松さんのなにもしないでも出現する魅力がそこに立ち現れる。でも、変なことをするのも面白いから困るよ。すごく変なんだ。なぜそうなるのかわからないことをする。そのなかでも、それが若松さんの魅力になるときはそれを生かす。なにしろ僕にはあまり想像できない身体性だから、そのことは僕にとっては新鮮なのだ。
■きょう、「演劇情報サイト・ステージウェブ」を主宰しているMさんの取材を受ける。ネットでインタビューの模様を動画で配信するためビデオカメラで映されながらの取材。取材の最後、「からだのこと」に話題がのぼり、そこで、若松さん、杉浦さん、太一というのは、いってみれば、「変なからだ」だと話したんだけど、その「変」こそが演劇の制度への対抗になっているのだという内容だ。たとえば、若松さん、杉浦さんは、かつて、圧倒的な「力的なるもの」へアンダーグランド演劇の文脈によって、「制度による抑圧」や「政治的な権力」へ、表現の力で対抗していたと思うが、その対抗すべき相手がいまは変化したことを踏まえ、またべつの潮流が生まれているのではないかと、太一の身体について触れたのだ。ネグリのいう「〈帝国〉」的なものはかつての抑圧とは異なる姿でいま時代を跋扈し、かつての方法では対抗できない。だとすればそこに「戦術」が必要になる。「相手の作ったルールの裏をかくこと」において、太一のからだは現在的だ。あのだめな身体が対抗になる。それがマルチチュードになるという内容だ。そして、若松さん、杉浦さん、太一の、言葉は悪いが「変な身体」が同じ舞台に立つことによってまたべつの戦術になりはしないだろうか。

■午後、抜きでいくつかの場面を稽古。さらに書き直したラストシーンをやってみる。大事な人物がここにいる。今野である。カメラマンの今野だ。もっとやりこまなければな。あるいは演出も考えることはあるにちがいない。それからわりと早い時間から「通し」だ。細部で、もっとこうすればいいと思うところはもちろんあったが全体的にはかなりできがよかった。鄭、橋本、田中の、数行のせりふがだめだ。まだできるはずだ。もっとよくなるはずだと毎日、しつこいくらいダメを出す。それからいま稽古場は風邪が蔓延している。斎藤が風邪をもってきてみんなに伝染した。しかも、斎藤はずっと鼻声だった。腹立たしい。
■深夜、また舞台のことを考えていたら、ひとつ思いついたことがある。それだな。ちょっと手間のかかる思いつき。やってみよう。もっとよくするためだ。いよいよあしたは稽古場ばらし。あさっては劇場の仕込み。はじまる。

(7:23 Sep, 17 2007)

Sep. 15 sat. 「まだ考えるべきこと」

■ニブロールの矢内原が肩を脱臼したとブログに書いていた。ニブロールの、というか、mikuni yanaiharaプロジェクトってことになるのか、その新作は、僕の舞台とぴったり同じ期間、吉祥寺シアターで公演している。だからこちらも向こうも互いに見ることができないが、なにも同じように怪我をしなくてもいいじゃないか。で、午前中、病院へ行った。また一週間後に経過を調べるためレントゲン写真をとることになった。痛みはほぼなくなった。ただやっぱり骨折だけに足に違和感はある。足の親指を固定しているのが不快だし、親指を地面につかないように歩くからそこをかばってほかの部分が痛くなる。
■それで午後、病院から直接、稽古場に向かう。ライブ映像の部分をやってみてそれをテープに記録し、俳優が見るということをする。もちろん演じているあいだ俳優はそれを見ることができないので、自分がカメラにどう映し出されているかを把握してもらうためだ。で、そのライブ映像について稽古場を見学に来た白水社のW君から次のようなメールをもらった。

 映像の生中継の部分が“生っぽく”感じられました。
 それは文字通りのナマとして受け止めれば誉め言葉ではあるのですが(稽古場で拝見して舞台裏が見渡せていたこともあり)、観客の立場になってみると、なぜわざわざ生中継しているのだろう? 舞台前方でやってもいいのに。という感想があってしかるべきかなと思った次第です。
 それはフレームで遊びたい(実験したい)という宮沢さんの「快楽」だと(わかるひとには)わかるのですが、テレビやYouTubeやDVDで映像に親しんでいる向きにしてみると、おそらく未加工な印象がつよく、“ひいて”しまうところもあるのかな、と(たとえば佐々木敦さんは、生の演劇の舞台や音楽のライブよりもDVDで見るほうがしっくりくると言っていました)。『トーキョー/不在/ハムレット』のときは観客との距離感を意識させるものとして、スリットがうまく機能していたと思うのです。フレームはプロセニアムアーチとどうちがうのか、ということが課題でしょうか。

 そうか、そうだな。その部分だな、問題になるのは。あるいは人が疑問に思うのはきっとそこだ。美術を大泉さんと検討しているとき、やはりスリットを使う美術案もあったがあえてスリットをやめた。というのも、僕は今回、「なぜわざわざ生中継しているのだろう? 舞台前方でやってもいいのに」ということを「わざわざ」やりたかったからだ。『トーキョーボディ』『トーキョー/不在/ハムレット』ではたしかにスリットの向こうで演じられ、観客から距離があるものをライブの映像にした。今回は試しに全部、見えているものを、「わざわざ」カメラを通じてスクリーンに映し出すと、その拡大され、そしてフレームのある映像は、舞台全体のなかでどんな具合に見えるかを試してみたかったのだ。若松さんはそれを「暴力的」だと言った。なにしろ今回はほぼ見えるのである。強引に見せている。見せているものを「わざわざ」映像にする。ただ、W君のメールにある「未加工な印象」という部分は検討の余地がある。そこをどうするかな。いろいろ最後まで考えよう。意見をもらえたことであらためて考えたのだ。そして、若松さんが言った「暴力性」はつまり、ほったらかしにしてしまう感じ、ある種の演劇が持つ行儀のよさを無視した乱暴な野放図のことだと思うんだけど、そのほったらかしにしてしまい、「見えてる」ということがもたらす、ある意味でのでたらめさ(=表現の暴力性)が伝わらなければだめだな。

■そういったわけできょうは抜きの稽古を短くし、早めに「通し」をやってみた。というのもラストに流れる「映画」の編集を、稽古が終わってから時間をとって、夜、やりたかったからだ。「通し」はかなりなところまで来ました。もちろん100パーセントなんて存在しないのだろうし、100パーセントになったら逆につまらない気もするが、可能な限り完璧にしようと思って反復するし、その反復のなかで新たなことを見つけられればと思っている。何度も書いているけど表現としての深さ。で、まだできていないところ、もっとやるべき余地があるところから直してゆき、そしてすでにできていると思われるものを最後の段階で、さらに深めることをしてゆこうとすれば、「ポリュネイケスの独白」が残りそうだ。もっとよくなる。南波さんのなかからもっと深いものが出るはずだと、通しのたび、その声と読みを聞きながら考えている。でも、ほとんどまだなにも僕は演出していない。聞きながら考える。反復してもらいながら考える。それは、たとえば橋本とか田中にここをこうしろと細かく言うのとはまったく異なる方法。またべつの演出のやり方について考えることでもある。それは南波さんとの共同作業だと思っている。
■映画の編集を森下スタジオを出なければいけない時間までじっくり考える。岸も来たのでべつの素材を入れながら編集をする。まだ、なにかちがう。もっとある。もっとある。映像そのものが持つ力に頼るだけではなく、舞台全体のなかで、なぜこれがあるかを考え、素材を編集することが必要だと思った。気持ちよく流れるだけではいけない。ここでは少し意味を考えている。なぜこれがあるか。芝居全体のなかで、この映像が、なぜそのカットが、なぜそのつなぎかをもっと考えるべきだと反省。家に帰ってもそればかり考えていた。もう時間がないのだ。で、深夜、ラストシーンを書き直した。

(6:37 Sep, 16 2007)

Sep. 14 fri. 「アンティゴネの決意」

■午後、朝日新聞のYさんの取材を受ける。あとで知ったが、突然、べつの仕事(ある方の訃報があって)が入り来られなかったところを、僕がすでに家を出てしまい連絡を受けられなかったのでわざわざ森下まで来ていただくことになったのだ。申し訳ない。それで一時間ほど話をする。Yさんは、朝日の夕刊に連載をしていたころの担当者だったので、いろいろこちらのことも知っているから話がしやすい。ときどき、なにも知らずに来られる方がいて、たとえば、それは僕のエッセイの読者ではじめて舞台を取材することになったときなど、かなり戸惑われることがある。そんな話もYさんから質問された。つまり、エッセイの読者が舞台を観に来て驚くというか、やはり、戸惑わないかということ。でも、基本的には同じだと僕は考えている。それというのも、舞台もまた、かなり快楽として作っているところがあるからだ。エッセイを書くときの快楽とあまり距離がない。ただ、そこに俳優という身体が介在するから、エッセイとは異なったものにならざるをえない。
■Yさんの質問のなかに興味深いことがあって、それは、「ギリシャ悲劇」のことだ。今回の僕の舞台の中心にいるのは、「アンティゴネ」と「イスメネ」だ。そして「ポリュネイケス」も出てくる。この引用をなぜしたのか、どうしてそれを思いついたか自分でももう忘れてしまったのだが、いま、いくつかの「ギリシャ悲劇」を題材にした、あるいは、ダイレクトに「ギリシャ悲劇」を上演する舞台があるそうだ。こういった共時性はきっとあるのだろう。誰もそんなことを申し合わせたわけでもないのに、なぜか共振してしまうということ。僕は作家として、かなり直感的にものを作っているので、「なぜ」と質問されると、あとから理屈をこじつけることはしばしばあるが、「なぜいまギリシャ悲劇か」ということになるとかなりむつかしい質問になる。かつて別役さんが、『ベケットと「いじめ」』のなかで、「局部的リアリズム」という言葉で九〇年代の演劇を予感し、それはまさにその後の潮流になったが、いま、またべつの「リアリズム」を神話的物語のなかに人は求めているのではないか。いわば、人の生の「局部」に宿る神話性に、またべつの物語を見いだすというか。というのも、たとえば、前田司郎君の戯曲を読んだとき、なんでもないような書き方がされたその作品の内部に、なんでもなさとは無縁の、神話性があることに奇妙な感触を抱き、これはなにかずっと疑問に思っていたからだ。
■いままた、新たな潮流がことによったら動き出そうとしているのかもしれない。「ギリシャ悲劇」に人はなにを求めるのか。まあ、神話性だけではなく、一見、神の世界の遠い出来事に見えながら、あそこに生起しているものたちはひどく生々しく、そして禍々しい。あの「禍々しさ」に、人は現在性を感じるのかもしれない。もちろん古典はしばしば禍々しいが、神の話だけに、ものすく理不尽な、前近代的なっていうか(まあ、神だけに当然だが)、非論理的な、非言語的な禍々しさだ。そうした種類の「理不尽さ」こそが現在的なのか(ことによったらデリダ的な現在への批評か?)。あるいは、アンティゴネの決意、「おまえは生きるほうを選び、私は死ぬほうを選んだ」という言葉は、現在の、ひどくいま的な言葉で書けば、「ぬるさ」のようなものへの訣別にも響く。だがそれは、その決意はときとして危険。ロマンチシズムへおちこみ、極端なことを言えばテロリズムにも陥りかねないとすれば、いわば原理主義的だ。それを乗りこえなければ。それを乗りこえ次へ。また新しいやり方がきっとあるはずだから。決意を持って「生きるほうを選ぶ方法」があるにちがいない。だから、僕の書くアンティゴネはまたべつの決意を抱く。

■というわけで取材を終えまた稽古である。あれよあれよというまに、初日まで一週間だ。足の骨折のせいで稽古していてももどかしい。なにかあって役者のところにすぐに行き、ここはこうしたらどうかと演出したいが、それがうまくできないし、行ったら行ったで時間がかかる。さらに、演出席に戻るのも時間がかかる。腹立たしい。カメラ担当の今野の稽古は毎日やる。もちろん、きのうの通しでここはやり直しておこうと思った場面、確認すべき場面も稽古で返す。こつこつと積み重ね。今野がどんどんよくなっている。で、台詞を発するのがだめだと思う箇所は、そもそも、カメラを構えている姿勢がむつかしいことになっているのだった。その姿勢で普通、「根本さん、ご職業は?」なんて聞かないだろうという姿勢だ。そんなかっこうで質問されたら、質問されるほうも怒ると思う。カメラマンの今野が登場人物たちに質問する。ドキュメンタリーだ。と、書いていて、いま思いついた。土本典昭さんの作品は、映像と音声をべつべつの日に記録している。というのもカメラを回すと人はあまりしゃべってくれないが、ただマイクをこっそり仕込み酒でも飲んでいると饒舌に語ってくれる。それをべつの日に撮影した映像にかぶせている。あれができないかなあ。あんなふうなことができたらもっと面白かったかもしれない。うーん、もっと早く思いつけばよかった。
■そういった思いつきが、最初に書いた「快楽」だ。演出することの快楽。それとはべつに、じっくり取り組み表現を深める作業ももちろん大事だ。若い女たちが、ときどき、言葉が生きていないことがあり、それを細かくダメ出し。まだ不安定だ。この不安定さを取り除くには、それこそメソッドを作りそれに沿って演出してゆけば、演出家は満足するだろう。満足できるものになる。それをやらない。やらないというより、できない。俺には、そうしたメソッド的なものが不似合いだ。やらないのではなく、できない。できないものを無理してやってもきっとろくなことにならない。
■白水社のW君が見学に来てくれた。「通し」を見て、またいくつかこちらが示唆される意見を話してくれた。そうか、やっぱりそうだな。で、最初の一時間があっというまだったという。よかった。まだ考えることはある。繰り返し繰り返し、通しをやり、場面の反復をし、もっと深めてゆこう。もう時間がなくなってきた。忘れていることはないだろうか。

(5:41 Sep, 15 2007)

Sep. 13 thurs. 「衣装合わせ」

■朝、目が覚めると、痛みはだいぶひいていた。痛み止めのおかげだろうか。もちろん骨折だけになんでもないわけではないが、きのうの夜に比べたらずっと楽になっていた。なにしろ痛みのせいでしばらく眠れなかったのだ。ただ、このノートを書くのも少ししんどいのは、足が気になって集中できないからだ。困った。原稿がある。ガルシア・ロルカの代表的な戯曲『血の婚礼』について、雑誌「東京人」の連載「このせりふから」を書かなければいけないのだ。書けないまま、稽古場へ。
■稽古の前に衣装合わせ。衣装さんがそれぞれいい感じに揃えてくれた。今回衣装を担当してくれる方ははじめて仕事をするが、とても感じのいい人だし、熱心だ。こちらの要求にきちんと応えてくれる。それにふさわしい衣装を、それは芝居を見て、創造的にに考えてくれた部分もあると思われるが、丁寧に仕事をしてくれて助けられる。で、人ってのはつくづく衣装で変わる。たとえば、ギターを弾く場面での橋本がタンクトップにジーンズだけど、ロックの人になっていた。変わるもんだなあ。鄭は、ちょっとサービスな衣装である。男たちもそれぞれ。鎮西は腹立たしいことになんでも板に付く。斎藤はツナギなんだけど、それがかっこよく見える。太一は白いシャツにネクタイ。似合わない。だってふだんはたいていサッカーのユニフォームで稽古しているような者である。でも、ネクタイが似合わない会社員だっているはずだ。衣装合わせはなにか楽しい。どんな芝居でもきっとそうなのだろうが、衣装が揃ってくると、いよいよ芝居がはじまる気分が高まるのだ。
■その後、いくつかの場面を確認のために稽古してから、通しをする。カメラマンの今野のせりふは毎日確認する。若松さんと二反田の場面など、もっとよくなり反復すべき箇所も繰り返す。いま考えていること、演劇についてまたべつのことを発見しようとこのノートにもっと書くべきだが、骨折して、その根気がない。時田の場面について帰りぎわ、杉浦さんから意見され、考えたこともあったのだなあ。そう、あそこがな、不条理劇的に深めることができるはずだ。ただ、運転しているとき芝居のことを考えはじめるとぼーっとそのことに集中してしまい、危険きわまりない。赤信号を無視しかねない。まだ油断はならないが、骨折はなんとかがんばれそうだ。原稿は書けないけれど。困った。あと、いま気がついてこれを補足して書いているが、きのうのノートを消してしまった。だから、概要だけ、あらためて書いておくけれど、だれか、またノートのログを取っている人がいたらお願いします。

(3:53 Sep, 14 2007)

Sep. 12 wed. 「稽古で骨を折る」

骨折した足

■この日のノートを消してしまった。とにかく稽古中に足を骨折したことを書いたことだけははっきり記憶している。まあ、稽古中に、段差に足をおもいきりぶつけて激痛だったのだ。それでも痛みをこらえて稽古した。通しもやった。通しはできがよかった。ただ、通しの途中で痛みが耐えられないほどになっていたのだな。稽古が終わってから、幡ヶ谷にあるクロス病院に救急で行った。レントゲンを撮った。医師が患部を指で押して、ここ痛いでしょうと言う。かなりな力で押す。それからやっとレントゲンを見て、「折れてますね」と言ったんだ。クロス病院は、キリスト系の病院なのかと思ったら、院長が黒須さんだったのには驚かされた。
■といったようなことを書いたはずだ。それで、痛み止めの薬を飲んで寝たんだったな。原稿を書こうにも痛みに耐えかねて書けなかったのだ。たいへんなことになってしまった。まあ、じっと患部を動かさないようにすればなんとかなるから大丈夫だ。これから本番だっていうのに、なんてことだ。でも、俳優たちの怪我を僕がかわりにやったと思えば、これもよかったんじゃないか。みんな無事でいてもらいたい。

(2:09 Sep, 13 2007)

Sep. 11 tue. 「みんなでもの作り」

田中

■もう時間がなくなってきたからというわけではないが、休み明け、少しからだが温まっていないのを感じ集中して稽古をする。今野と若松さんが中心だ。二人とも、もっとよくなると思って反復するのだが、経験のほとんどない今野と、若松さんでは、その意味がまったくちがう。今野にはごく基本的なこと。若松さんはもっとよくなるはずだと思って稽古。たとえば、二反田と若松さんのやりとりは絶対にもっとよくなるはずなのだ。形はこれできっといいが、もっとある。もっともっとよくなると思える。今野はとにかく繰り返すことだ。毎日、繰り返そうと思う。
■ほとんど毎日、俳優たちを写真入りで紹介しているがきょうは田中だ。写真を撮ろうと思って忘れていたのだが、あわてて帰り際に撮影し、光が足りなかったのでぶれてしまったのがこの画像だ。でも、なんとなく雰囲気は伝わってくるだろうと思い、掲載した。田中は、たしか「演ぶゼミ」のワークショップに来たのだった。もう何年になるだろう。はじめはまだ十九歳だった。それから、『トーキョーボディ』から、去年の『鵺/NUE』まで、ずっと僕の舞台に出ている。稽古しているときいちばん口うるさくダメを出すのが田中だ。こと細かく台詞の発し方も注意する。それがなぜ必要なのかも話す。もっとよくなるよう、いろいろな側面から演出する。ただそれは、技術的なことではない。もっと内面のことについて触れることになるが、ときどきメールをもらうと考えているらしいことはわかる。まだそれが表現になっていない。これまで、『トーキョーボディ』以来、すべての舞台で自分がもっとも若かったので、その甘えのようなものがあったのではないか。今回は、橋本のほうが年齢が下だし、演出助手の白井も下だから、年長者として少し自覚したのかもしれない。少しはよくなっているんじゃないだろうか。成長してもらわないと困るのだ。だから、口うるさく言う。ほかの人にはあまりダメを出さないようなこと、たとえば、足の位置とかそんな細かいことまで注意する。このあいだ笠木が稽古を見学にきてよくなっていたと田中について話していたのを聞いて、少しは成長したのかと安心もしたのだが。まだまだだ。まだまだ、道は遠い。
■夜は通し稽古。二日の休みがあったせいか、できはあまりよくなかった。きょうはNHKの方が来て、こんど放送してくれるにあたって、その打ち合わせを兼ね「通し」を見ていただいた。とても考えてくれているのでとてもうれしい。この舞台を映像化するにあたり、僕は全面的に協力したい。むしろ、収録のときは、カメラがどこあってもいいんじゃないか、これまでの舞台中継のようなものとはまったく異なる撮り方を野心的に試してもらえたらうれしい。映像作品としてきちんとしたものが残せたらいいと思うからだ。

■おとといの日曜日に若葉台で撮影したアンティゴネの映像はかなりよくなっていたが、ただ、ちょっとしたミスがあって、それが取り返しのつかないようなものだった。もういっぺん撮影に行きたくなった。どうしても完璧なものを作りたいんだ。今野と岸が、編集でそれをなんとかしようとすると心強いことを言ってくれたが、でもなあ、少し落ち込んだよ。もう一度、撮影に行きたい。本番まで時間はないが、こうなったら稽古前でもいいから、また若葉台に向かい死にそうになりながら撮影をしたい。だけど、最後まで手を抜かず、大変なことはわかっていながら力を尽くしてくれる岸と今野に感謝する。そういえば、あの日、日が落ちるからとあわてて撮った最後のカットが思いのほかいい絵になっていた。
■そんなこともあったのだろうか、きょうの稽古はひどく疲れた。終わってからぐったりした。できはよくなかったといはいえ、でもそれはもっと、いいものを求めているからだ。俳優たちもまた、こちらの無茶な要求にしっかり応えてくれる。桜井君からも音楽が次々と届く。ダメを出し、作り直してもくれる。時間があるのはとてもいい。そして音響の半田君は毎日、稽古場にやってきて僕の要求に即座に応じてくれる。稽古場は研究室。日々変化する。みんなの力を結集してものを作っている。演出助手の大地も白井も、なにも知らないまま仕事をはじめ、おたおたすることは多いがそれでもがんばっている。みんなの力で作っている。本番まで、もう時間がない。もっとよくするぞ。ただ反復し、そしてそこから、もっといいものを生みだそうと思っている。太田さんのことを考えながら。深夜、「考える人」(新潮社)の連載原稿を書く。

(6:19 Sep, 12 2007)

Sep. 10 mon. 「ぼくはあとがきをかいただろうか」

■稽古は休みだった。青山のスパイラルホールで太田省吾さんのお別れ会があった。祭壇は太田さんにふさわしくシンプルで、けれど、植物で飾られとてもきれいだった。大杉蓮さん、別役実さん、品川徹さん、山田せつ子さんらが挨拶をし、それぞれ誠意のこもったあたたかい話だ。もっとも印象に残ったのは、奥さんの言葉だった。こんど太田さんの戯曲全集が刊行される。病床にあった太田さんは、死の直前まで、そのことを気にかけ、そして、「ぼくはあとがきをかいただろうか」と口にしたという。その「あとがき」が絶筆になった。家に戻ってすぐにその戯曲全集を注文した。「あとがき」が読みたかったからだ。だってそれは、「太田省吾という人」のあとがきだからだ。それと同時に、僕はまだ、あとがきを書かないぞって思った。死なないようにしよう。死なずに次のことに向かいたい。会場でいろいろな人に会ったけれどいつものように話ができた。以前、べつの人の葬儀に出席したとき、そこでは不思議なほど冷静だったのに、帰り道、不意に涙が出たのを思いだした。スパイラルホールを早めに出て、地下の駐車場に向かうとき、どうしようもなく悲しくなった。太田さんと、佐藤さんのことを思いだしていた。だからこそ、僕は死なない。

(4:13 Sep, 11 2007)

Sep. 9 sun. 「また撮影にゆく」

ニュータウンで撮影

■稽古は休みだが、音響の半田君をはじめ、スタッフはこの日も映像の撮影にニュータウンへ向かったのだった。半田君はすでに撮った映像を見て、音があまりよくないと思ったのか、この日はブームマイクやら機材を持参して撮影に同行してくれた。半田君の熱心さというか、一緒にものを作ってくれる姿勢にほんとに感謝する。半田君がいるとなんだかいいのだった。朝の六時、初台の我が家に集合し、二台のクルマで多摩に向かう。きょうも天気がいい。撮影の日はいつも晴天だ。半田君のほか、クルマを運転してくれる時田、出演する鎮西、手伝いに来てくれた上村、田中、それからカメラの岸と今野、さらに演出助手の大地と白井、そして制作の永井だ。
■このあいだも撮影した同じ場所。あまりうまく撮れていなかったので再撮影ということになったし、それからシナリオというか、鎮西が演じるアンティゴネの台詞も書き換えた。あとクレーンを使って移動撮影を丁寧にする。10数テイク撮る。うまく撮れていなかったり、撮影しているところにクルマやバイクが来たりで、そのたびに中断。でも、ねばった。なんとか満足のゆくものが撮れたので、そこからまた『ニュータウン入口』のフライヤーの写真と同じ団地に行きそこで撮影。前回(8月16日)もそうだったが、その撮影があるころはたいてい昼近くなっており、きょうもものすごく暑い。前回は死にそうになったが(というのも、あの日本中が灼熱になった日だったからだ)、きょうはまだ、さほどでもない。
■午後、ファミレスで食事をとったあと八王子に向かう。若松さんの撮影があるからだ。森の中にいる「F」という人物の姿を撮るが、若松さんに教えてもらい、そのあとについて入っていった森がものすごい場所だった。若松さんは森というか、山というか、その草に覆われた道をすいすい上がってゆく。僕は途中で挫折した。小川が流れており、木に覆われたそこは、とても涼しかった。川の水が冷たくてとても気持ちがいい。若松さんを先頭に、撮影スタッフはどんどん上にのぼってゆく。若松さんがタフなので驚いた。久しぶりに森に来た。やっぱり森はいいな。なにか不思議なエネルギーを与えられるような気がする。だけど僕は上までのぼる体力がない。だめだなあ。ただ、川の小さな水音を聞いていたのだ。

ニュータウンで撮影

■その後、若松さんに連れられて、城山湖というところに行った。絶景である。で、あとで地図を見て知ったがそこはもう神奈川県だ。八王子と神奈川の境界あたり。いまのぼった山も、やはり地図を見て確認したがすごいところだ。森はまだ東京都だが、とんでもない土地だった。写真は城山湖でなごむ若松さんとスタッフたちである。もっとのんびりしたかったが、あと2カット撮らなくてはいけない。とはいうものの、若松さんに誘われてご自宅におじゃまし、冷たい飲み物や梨をいただく。ふっと一息ついたら眠くなってきた。ここらでみんなの疲れはピークだったかもしれない。
■若松さんの家を辞し、再び若葉台へ。朝、アンティゴネのシーンを撮影した場所に向かうが、もうこのときはみんな疲れきっていたのだ。時田が運転するレンタカーにカーナビがついていたにもかかわらず道に迷った。大学時代、僕は八王子に住んでいたので、だいたい方向の勘はある。どう考えても八王子の市内に向かっているんじゃないかと通りにある神社や市民会館を見て思っていたが、気がついたらわれわれは、JR八王子の南口にいたのだった。時間がない。日が落ちてくる。道が渋滞する時間だ。そのころ半田君はすでにビールを五本は飲んでいたはずだが、あとで聞いたら、カーナビがあてにならないのでその酔っぱらった半田君が地図を見て若葉台へと進んだという。酔っぱらいよりあてにならないカーナビっていったいなんだ。
■もう日が落ちる。若葉台に着いてすぐにクルマから実景を撮影する。時間がないからと、僕はものすごく無謀な運転を繰り返す。というのも、カメラを回す岸と今野が無茶な要求をするからで、もう一度、いまのところを撮らせてくださいと言えば、直進車より先にくるっと廻ってUターンだ。迷惑このうえない。走ったなあ。俺はもうカースタントの人のような気分になっていたのだ。もう若葉台ニュータウンのことはほぼわかった。どこをどう走ればどこに出るかよくわかった。だけど、さすがに疲れた。ようやく撮影を終え、クルマの外に出て吸った煙草がほんとに美味しかった。疲れたけれど、充実感のある一日だった。森にも入った。いい絵が撮れた。楽しかった。

鄭

■さて、きょう紹介するのは、アンティゴネ役の鎮西である。文学座の養成所を出たというが、もともと多摩美を卒業している。いわば、私の後輩になるわけですが、だからなんだって話でもあるのだ。今回のスタッフには演出助手の白井が多摩美の現役の学生だったり、美術の大泉さんもまた卒業生だったりで、たまたま、多摩美が集まった。まあ、それもだからなんだって話だが。
■ところで鎮西は実家がお寺である。自身も読経ができ、その仕事をたまにしているらしい。稽古場に作務衣みたいな格好で来ることがあって、聞けば、仕事をしてから稽古に来たという。その演技というか、身体的なものを見ると少し新劇的なところがあるものの、でも、今回、初めて舞台を一緒にやってとてもよかったと思う俳優の一人だ。みんないいんだけど、鎮西はなにしろアンティゴネだからな。これができるのは彼しかいなかっただろう。あと鎮西は顔が小さい。だから眼鏡をかけるとやけに眼鏡が大きく見える。鄭がおしゃれだって話はすでに書いたが、鎮西の腹立たしいのは、いつもいいものを着ているところだ。なにげにTシャツを見ると、やけにいいものを着ていやがる。若いのになんだと思ってるんだ。それから文学座の小林勝也さんのモノマネをやってくれたがとても似ていた。しゃべるときのんびりしているし、あまり多くを語らない。
■午前中の撮影を終えたあと、鎮西だけ先に帰ったが、それというのも疲れがたまったいるからだ。少し声が枯れ、疲れがのどにきている感じだった。あしたは稽古が休みだ。俳優はゆっくり休んでもらいたい。そうこうするうち、もう初日も間近になってきた。早いな。リーディング公演からはじめ、半年近くがあっというまに過ぎてゆく。そうそう、きのう(8日)も通しをしたが、時間は安定した。できもよかった。まだよくなる。もっとよくなる。最後までねばっていいものを作ろう。

(4:08 Sep, 10 2007)

Sep. 7 fri. 「通しをして、また気がついたこと」

鄭

■この二日、若松さんは休みだった。ドラマの仕事だったそうだが、そのディレクターが日本テレビの大塚恭二だったとのこと。むかし仕事をした人だ。不思議なものだ。大塚さんと、もう20年も前に一緒に作った『三人娘』というドラマがあるが、このあいだ父親に会いに帰郷したおり、たまたまそのビデオが掛川の家にあったので観たのだった。僕はかつての自分の仕事をめったに振り返って観ることをしない。べつに、かっこよくそう言うわけではなく、なんだか恥ずかしい気分になるからだ。それがたまたま、そのときは観ようと思った。そのころ若松さんは、大塚さんと仕事をしていたのだな。なにかの縁というものだろうか。それできょうは久しぶりに若松さんの場面を稽古した。少し忘れていることもありリズムが悪かった。何回か繰り返しているうち、からだが温まるように、また、いつもの若松さんになっていた。
■さて、きょう紹介するのは、鄭(上の写真)である。青年団に所属している。まあ、稽古場に来るとたいてい俳優は稽古着に着替えるわけだが、たまに私服姿を見ることがあると、鄭はかなりおしゃれだと思う。きょうは、つばの広がった、なんていうんですか、かなりおしゃれな帽子をかぶっていて、「その、つばの広さはなんだ?」と唐突なことを私は質問した。すると鄭は、「台風で、ものが飛んでくるのを防ぐためです」と言った。それ、嘘だと思う。だって、その布製の帽子で危険から頭部を守れないと思うのだ。だったらヘルメットをかぶったほうがいいだろう。おしゃれしたことに照れている。「リーディング公演」が終わったあとの打ち上げで鄭と、映画『パッチギ』の話をした。というのも在日コーリアンである彼女がどうあれを観たか知りたかったからだ。面白かったと彼女は言った。そして、僕とは感じ方がべつの部分で異なるだろう。それをもっと聞きたい気持ちがあったが、うまく言葉に出来ない様子だった。ときどき、とんでもない動きをする。不器用そうなそれも魅力だと思う。ただ、子どものころから何年もバレエを習っていたという基礎があるから、ちょっとした動きがきれいだ。きれいすぎる気もしないではない。
■あと、ダメ出しをすると、すごく深刻な表情になって、黙って僕のことを見ているのだが、そんなに深刻になられても困るのだ。深刻になるまえに、考えてもらいたい。なんだかダメが出しにくくなるじゃないか。そういえば、あれは「リーディング公演」のころだったか、こちらの稽古が終わってから、青年団関連の舞台の稽古が深夜にあって、ほとんど眠らず毎日、稽古に来ていた。稽古が終わると更衣室で眠っていたこともある。いまはそれも終わり、こちらの稽古に集中しているようだ。写真はキッシュを食べているときのもの。なんだかすごく照れていた。彼女のような人とも、これまで舞台を一緒にしたことがないので、僕にはいくつもの発見がある。

■で、話は前後するが、三日ぶりに稽古に来た若松さんの場面を何度かくり返す。思いだしてもらうためというか、確認のため。最初に若松さんが登場する部分をもっとよくしたい。まだ、できると思う。クオリティももっとあがるだろう。ずっと若松さんの芝居が固まってくるのを待っていたが、いよいよこれから、若松さんにも細かく話して、よくしたい。ぜったいによくなるはずなのだ。ひとつの方針として、「やらせない」とか、「削ぐ」というテーマがある。もっと細かく意見を言おう。なにもせず舞台にいるだけで若松さんは圧倒的に存在する。夕方から通し。かなりできてきた。杉浦さんの「ダンスの講義」なんてもうかなりなクオリティだ。あとは、田中、橋本、鄭、それから斎藤ら、若い者らがもっとよくなると思える。次はそこを重点的にやろう。
■その一方、この数日でかなりよくなったのは、アンティゴネとポリュネイケスの出会いの場面だ。ぐっと高まった印象がある。やり方を大きく変えたわけではない。ちょっとしたこと。それを、鎮西と南波の二人が深めてくれたと感じる。あるいは、イスメネとオブシディアンの場面も、二人とも、毎日稽古が終わってから何度も繰り返す自主稽古をしている成果が出ているのではないか。さらに、カメラマンの今野の台詞部分は、もっとよくなるはずだ。何度も繰りかえそう。もっとよくするため、細かく指示を出すべきだときょうの稽古で感じた。それにしても、今野とはきのういろいろ話をしたこともあって、これからももっと一緒に仕事がしたいと思った。表現について真摯に考えている姿にあらためて好感を持ったのだ。今野には佐藤真さんの遺志をついでもらいたい。
■稽古が終わるころ、僕はかなり疲れていた。というのも午前中というか、未明に「MAC POWER」の原稿を書いていたからだ。それから少し早めに稽古場入りし「ぴあ」の取材を受けたのである。寝不足。終わって家に戻る道、あくびばかりしていた。ヨーロッパ企画の本多君や、早稲田の卒業生のSが来ていた。あまり本多君と話ができなかった。生八つ橋をおみやげに持ってきてくれた。おいしかった。あるいは、以前はWAVE出版にいた、編集者のTさんが、幻冬舎に移ったというので挨拶に来てくれた。また仕事が一緒にできればいい。
■さらに、9日に再撮影する映像のシナリオをまとめ、さらに絵コンテを完成させる。テオ・アンゲロプロスの『永遠と一日』をお手本に。もっといい絵を撮るぞ。完璧にするぞ。このところ稽古と、細かな原稿ばかりで日々が追われ、ちゃんと本を読んでいない。こんなせっぱつまっているときだからこそ読まなくてはな。ばかになってしまいそうだ。身に迫っているむつかしい問題はいろいろあるが、この逆境のなかでこそ力を発揮せねばな。それがものを作ること。たいへんだからこそ、学ぶことも多い。小説も書くよ、俺は。こんどというこんどは、書く。若い劇作家たちの活躍に刺激を受けている。連載の原稿はあと二本。忘れていた原稿があと一本。初日までもう二週間。早く多くの人に観てもらいたい。どんな反応があるか楽しみなのだ。観てもらいたい。強引にでも見させたい。それだけ、俳優がいい。それぞれのスタッフがいい仕事をしてくれている。そういえば、舞台監督の海老沢さんに最近、会っていない。どうしているのだろう。

(7:21 Sep, 8 2007)

Sep. 6 thurs. 「台風が来る」

■台風が東京に接近していた。稽古は早めに終えることにした。各シーン、だいぶ表現が深まってきた。これからまた新たな発見があるかもしれない。小手先のことだけでなくもっと深いところ、じっくり考える稽古の成果になるだろうと予感する。いや、そうしていかなければ。かなり形は整っている。あとは深めること。もっと奥のほうから出てくるものがきっとあるだろう。俳優を信頼して稽古をしてゆきたいと思っている。それから桜井君が来たので、音楽について最終的な確認をした。
■稽古を早めに終えたあと、カメラ担当で、京都の大学で佐藤真さんに教えを受けていた今野と、佐藤さんについてゆっくり話をする。それがとてもいい時間だった。佐藤さんの真摯な学生との向かい合い方に感服させられる。僕は、京都の大学を、あのまま、ずっと授業を続けていたら体調がだめになると思ったから逃亡してしまったので、よけいに頭が下がる。そのころすでに精神的にまずかったのかもしれないが、今野が在籍していた映像コースの卒業制作合評に佐藤さんは欠席したという。今野の卒業制作に、佐藤さん以外の教員がまともな批評をしてくれなかった。そして、その後、佐藤さんは丁重に数枚のFAXに感想を書き送ってくれた。そして、最後に佐藤さんと話したのは電話だったという。それはとても長い電話だった。いいかげんなやつらは生き延びている。表現に頑固ともいえるほどの集中力で立ち向かっていた佐藤さんはすごかった。今野の話で知った。表現にとことん向かい合った佐藤さんだからこそ、精神的にダメージをさまざまに受けていたのだろう。
■だいたい、あの大学はいい教員に対して待遇がひどい。それでいて、少し有名な芸能人みたいな人を学校に呼ぶ。名前が売れているというだけだ。それで学生を集める。そのときだけよければいいという、これから長い大学の教育の過程なんてちっとも考えず、表層だけで学校運営をしている。あの大学には数年前まで、可能性がたっぷりつまっていた。それがどんどんだめになっている印象だ。今野と話をしていたら、佐藤さんの死をきっかけに、表現に向かうこと、そして作品を発表してゆく困難、いまこの時代において表現者の多くが直面している苦悩について考えざるをえなかった。私たちは最初から負けている。だが、あきらめはしない。シニシズムにも、ニヒリズムにも陥らず、いくら時間がたっても、それを待ってでも、いい作品のために力をためてゆくことだ。じつは、まるで佐藤さんの苦悩について僕はこの、『ニュータウン入口』で(もちろんそんなことはまったく考えていなかったが)、そうした表現者の苦しい状況について書いていたように思えてくる。まるで、主人公のアンティゴネは佐藤さんのようだ。だが、僕はあきらめない。またべつのやり方がある。この逆境の中で、もう一度、闘い方を組み直してゆこう。それは待つことでもある。あせらず、じっくり待つこと。それまで僕は陽気でいたい。いまははじめから負けてるかもしれないが、相手の隙をつくことがきっとできるはずだ。今野との話は長かった。だけど、そのゆったりとした会話のなかでいくつものことを喚起された。

(6:13 Sep, 7 2007)

Sep. 5 wed. 「佐藤真さん」

■深夜、ドキュメンタリー作家の佐藤真さんが亡くなられたことを報道で知った。きわめて残念だ。もっと仕事をしてほしかった。この時代のなかでもっと発言してほしかった。
■僕とは同世代。そして、京都の大学で一緒に教えていた時期があり、そのとき少しだけお話をさせていただいたことがある。大学の目の前に交差点があった。信号待ちをしていると佐藤さんがやってきて、気さくに声をかけてくれた。あまり話をじっくりしなかったが、遠目から見ても、教員としてとても真摯に学生と向き合っていた印象を受けた。このあいだ、そのころ大学で教えていた教員でやたら休講の多かった人の話を、いま僕の舞台でカメラを担当している今野にしたとき、佐藤さんの名前が出た。それというのも、その大学の出身で佐藤さんの授業を受けていた今野によれば、佐藤さんはまったく休講しなかったというからだ。学生たちからも佐藤さんの授業の話はよく聞いていた。評判がすごくよかった。話を聞いていたら、僕もその授業を受けたい気持ちになったが、怠けてちっとも行かなかったのをいまごろになって後悔している。
■佐藤さんの遺作は、『エドワード・サイード OUT OF PLACE(2005年)だ。『ニュータウン入口』を書くにあたって参照させてもらった。なにが佐藤さんを苦しめたのかといろいろに想像する。想像していたら、余計に、休講ばかりしていた教員に対していまごろ、ひどく腹立たしい気持ちになってきた。ばかやろう。いや、この腹立たしさは、そんな教員に対してじゃない。どうだっていいよ、そんなやつ。もっと大きなものに対してだ。怒りがふつふつとわいてくる。なおさら、いい作品を、と。とことん考えつくそうと思った。もっとよくするために。

■だから稽古だ。午後、雑誌の取材を受ける。取材が終わっていつものように稽古をはじめ、夜まで細かい部分をさらっていった。きょうは、鄭の写真を載せて紹介しようと思ったが、それはあしたにしよう。もっとよくなる。ごく細部をもっと磨こう。田中、橋本、斎藤ら、若い者らの表現のしかたを直すのに、まるで学生に教えるときのように、ごく基本的なところから話す。細部の積み重ね。繰り返し稽古する。ひどく疲れたがもっとねばろうと思うのだ。稽古中、みんなで僕が差し入れた特製のキッシュを食べる。みんなが美味しい美味しいと言うのがうれしかった。太一にいたっては、お母さんに食べさせたいと言ってひときれ持って帰ったという。なんだかかわいいね、太一は。そして、またあした。あしたからも気持ちを入れ替え稽古に集中しよう。佐藤さんの冥福を心から祈る。

(3:13 Sep, 6 2007)

Sep. 4 tue. 「よろこびの記憶の再現」

時田

■残暑が少しうっとおしい一日、稽古はまた続く。少しずつだがよくなってきた。
■本日の写真は、根本洋一役の時田である。『ニュータウン入口』のサブタイトルは、「私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入を決めたか。」だが、この「私」はドラマの上では、この根本のことになる。とはいえ、「私」はもっと無記名の、ごく一般的な多くの人たちのことになる。このお話には、アンティゴネという軸となる人物がいるが、しかし、根本も大事な役になるし、少しむつかしい役になる。というのも「巻きこまれる人」だからだろう。いろいろに巻きこまれる。主体はもちろんしっかりありながらも、やってくる出来事に翻弄され、すると、どのように出来事の渦中でふるまっていいか複雑だからだ。最初からこの役は、ある程度、年齢のいった人がいいと思っていた。時田は三十代の半ばである。その妻の和子を演じる三科もたしか同じくらいの年齢で、そうでなければ出てこない表現の質がきっとあるのだ。
■時田はよく質問する。もちろん芝居についてだが、リーディングの稽古のころ、まだこの稽古に慣れていないせいか、いまよりずっと質問が多かった。それを見ていた杉浦さんが、リーディングの打ち上げで「質問する男はもてないよ」と時田に言っていたのが面白かった。もてるか、もてないかは知らないけれど、その質問に答えようとすると、それはたしかに疑問に思うべき戯曲の問題部分なので、それであらためて僕も考えた。「書く」もまた、身体的な行為だが、その「書かれたもの」を俳優が身体的に形象化する過程で、戯曲の異なった読みをすることになる。書いている私がそれを読むのとはまたちがう読みになる。時田はそうして、よく「戯曲」を読む人だ。以前も書いたことがあったと思うが、ふだんは野村萬斎さんのもとで舞台をやっている。今回のような作り方は時田にしたら、また異なる性質のものだろう。そこらをどう感じているのか僕はよく知らない。しっかり話したことがない。今回の俳優はみんな、『ニュータウン入口』という作品に真摯に向かってくれるが、なかでも時田は、映像の撮影のときもクルマの運転手として参加してくれたし、とても協力的で、それがうれしい。みんなで作っている。これは時間をかけ、そして、俳優をはじめスタッフとともに、みんなで作っている。でも、通しをしても、ダメ出しは時田がいちばん多いのだ。それはねえ、べつに悪いわけではなく、もっとよくなると期待してのことだ。もっとよくなるにちがいないのだ。あと、時田は映像の撮影の日、運転の助けに来てくれたのに、なぜか何度も着替えをしていた。それがよく理解できなかった。

■昼間はまだ未整理だった場面などを稽古した。ずっと悩んでいた、アンティゴネ、イスメネ、オブシディアンの独白が続く場面をやってみる。オブシディアン役の田中の読みがなあ、もうひとつだなあ。もう繰り返し繰り返しやるしかないね。ただただ、読ませること。その反復のなかでなにかをつかめばいいと思う。それはこの作品ということではなく、田中にとってもっと大きな意味があると思いながら稽古を見る。うまく読めばいいってもんじゃない。うまい朗読はものすごい数の人ができる。というか、新劇の養成所なんかいったらものすごくいるだろう、そういう人が。まして新劇の俳優はみんなテキストを読むのがすごくうまいに決まっている。それに異を唱えたある時代の演劇から、さらにまた遠い位置にいまわれわれはいるが、一般的に「へた」と呼ばれるのもどうかと思うが、「うまい」が最大の魅力じゃないだろう。そして田中にとっては、表面的な「うまさ」なんかぜんぜん必要のないことだ。まして、「うまくやろう」なんて考えるのがいちばんだめだ。若い俳優にはもっとべつのことを求める。もっと深い表現のなにか。
■夜は通し。細部でまだ、ここはこうしたほうがいいと思う箇所はもちろんあったが、全体的にはかなりいいできだった。あるいはひとりひとりの変化を感じたが、南波さんが、なにか確信のようなものを持ったという印象。休み前とは、かなりちがったので、特にそれを感じた。それまであまり南波さんにだめを出していなかったが、というのも、少しずつ変わってゆくだろう、いま、なにか自分のなかで整理できていないものがあるのだろうと待っていたら、やっぱりそうだった。若松さんも、そういったことがあり、稽古のたびにやることが少しずつちがうが、それもまた、自分のなかでいろいろ試しているのだろうとわかる。杉浦さんが稽古後、いろいろ試させてくださいと、きょうわりとだめが多かったのでそう声をかけてくれた。僕はかつて、すぐに答えが出ないといやだというほどに、そう、僕自身、かなりせっかちだったが、最近は待てるようになってきた。演出において「待つ」は大事だな。だからこその稽古。時間をかけての創作だ。
■きょうは、ある場面での鄭が笑ったなあ。ものすごく面白かった。しかも無自覚なのがいい。べつに面白くしようとしていないのがいい。一生懸命なのがいい。若松さんも笑っていた。僕の隣の席にいる音響の半田君も笑っていたが、半田君はねえ、稽古場にいると、なんだかいいんだよな。ときおり意見もしてくれてそれがうれしいし。森下スタジオの小さな稽古場で、わたしたちは、こうしてこつこつとものを作っている。どうして僕は稽古が好きなのかよくわからないんだけど、ただ、ある一瞬、それはまれにあるかないかのことだけど、はっとするような発見が稽古場に出現するときの、あのよろこびに出会うからこそ稽古をしているように感じる。それはきっと、はじめて芝居にかかわったころに感じた、舞台を作るよろこびの記憶の再現だ。それを失ったら舞台をやる意味がない。

■家に戻ったら、さらにべつの原稿(「考える人」新潮社)の催促があったのだった。だめだ。書けない。「webちくま」がなあ。筑摩書房のIさんには迷惑ばかりかけている。毎日、届くメールがどんどん悲鳴に変わってゆく。それはそれで面白いので、さらに書かないとどうなってしまうかとすら思う。きょうはかろうじて、劇作家協会が刊行している「ト書き」という雑誌の、太田省吾追悼特集への短い原稿を書いた。南波さんが7月14日付けのブログに書いていた太田さんの言葉(反対語の話)を引用させてもらった。あしたは雑誌の取材を受けます。

(7:23 Sep, 5 2007)

Sep. 3 mon. 「取り急ぎの報告」

■いろいろあってこのノートが更新できない。少しでもいいからメモを残しておこう。2日(日)は「通し」で出来のよくなかった前半を返し少しずつ詰めてゆく。ライブ映像の場面を演じるのは舞台奥だが、映像のために稽古場に照明を吊ってそこだけすごく暑い。暑いなか、何度もくり返し稽古しているうち、三科がからだの不調におちいった。それでべつの箇所を稽古。少しずつ修正し、あるいは、よく考え深めてゆく作業。削れる台詞は削る。そこまで覚えたのに申し訳ないが削除。シャープにしようと思ったのだ。通しのとき、ラストの場面がもうひとつ納得いかなかった。うーん、答えが出ない。このあいだ直してよくなったと思ったがなにかちがう。さらに考える。で、その日は少し早めに稽古を終え、僕はそのあとすぐに、クルマで静岡に向かったのだ。家の事情である。静岡の家では到着するなり、ものすごい勢いで眠る。稽古と運転でひどく疲れていた。妹も帰っていたので久しぶりに家族で対面。「家族」とか「親族」について考えていた。そんなおり、このニュースを知って、大島渚の『少年』という映画を思いだした。なにかやりきれない。家に戻ると、たいてい親戚の誰それがどうしたという話題になる。それがいちいち面白く、またいつか、そうしたことをなにかの作品にしてみたい。もちろんそれをいかに解釈するかだが。普遍的な物語として言葉にすることができるか。これから十月も忙しいので帰郷するのはむつかしい。父親に会っておいてよかった。で、夜、東京に戻ってきた。メールチェックすると原稿の催促が次々と。申し訳ない。書けないなあ。困った。そして、また稽古だ。いい舞台にしよう。たくさんの人に観てほしい。

(6:05 Sep, 4 2007)

Sep. 1 sat. 「ニュータウン入口の九月」

■あまり九月になった感慨もないまま、稽古場に向かう日だった。本日の写真は舞台で無謀にもギターを弾かされることになったジャスパー役の橋本である。だが、はじめぜんぜん弾けなかったのが少しずつ上達しているから驚くべきことだ。人間、その気になればなにごともできる。
■橋本は、カメラ担当の今野と同じ京都造形芸術大学の出身で、この春、東京に出てきた。もともとは大阪の生まれだ。大学の二年生のとき僕の授業を受けて、一本、舞台を作った。毎年、そうだったが映像コースの学生が何人かその授業を受け、あまり演技経験というか、舞台の経験はないが、映像コースには面白い学生が多かった。一年時の僕の授業をはじめ、からだを使ってなにかすること(ダンス、能楽実習など)に興味を持った者が、舞台コースに移ることがよくあった。たとえば、松倉などもそのひとり。橋本は映像コースのままで、今野らと映画を作ったりしていたようだし、それから、伊丹のアイホールで公演した岡田利規君のワークショップをもとにした舞台にも参加しているので、舞台にも興味があったのだろう。『ニュータウン入口』のオーディションを受けてくれた。もちろん芝居はほとんど未経験に近いとはいえ、僕はあまりそういうことは気にしない。またべつのからだとしてそれはそれで貴重だ。
■稽古の、あれは初めての顔合わせのとき(四月)、自己紹介がわかりに、それぞれまったく異なる場所で芝居を経験してきた者同士、それぞれがこれまで受けた訓練のようなものをみんなに教えるということをやった。鈴木メソッドの杉浦さんが、歩きのレクチャーをしたとき、わりとみんな形がよかったが、橋本のぜんぜんだめなからだが面白かった。ほんとにだめだった。わけのわからないからだだった。原理主義的な演劇の人にしたら、もう絶対に許せないようなだめなからだだ。僕はそういうものを面白がるところがあって、笑った笑った。いったい橋本のギターはどこまで上達するだろうか。しかもギターを弾きながら歌も歌う。でも、絶対にできる。できるにきまっている。

■稽古場に行く前に、新宿の石橋楽器で、中古のエフェクターを買った。このあいだヤフーオークションで落札できなかったものだ。安く手に入って満足だ。まったくなんだよ、オークションに使ってしまった時間がなんだったんだってひどく後悔した。これを橋本が使っているギター(といってももちろん僕のギターだけれど)につなげて稽古が終わったあと遊んだ。面白いなあ。音がゆがむ。そのゆがみだけで、いきなりロックな感じになる。稽古が終わってからの楽しみになった。ま、それは稽古とは関係のない楽しみの世界だ。
■この三日間、まず前半の三分の一を作り、翌日、まんなかあたりを細かく稽古。そしてきょうは午後、後半部分を稽古した。稽古の直後、いま稽古した箇所はかなりできがよくなるが、一日でも間があくとよくない。というのも、夕方から「通し稽古」をしたら、それが如実に出てきたからだ。九月になってこれを何度もくり返し、安定感を増さなくてはならない。少しずつの前進。繰り返しそれを反復することでもっとよくなるはずだ。反復、反復。そして、その反復のなかで、またべつの深い表現を見つけられたら。
■通し稽古をしたら、少し長かったので、どこかを短くしたい。一場面を短縮するのはせわしないので、ばっさりどこかを切るべきだ。とにかくしばらくやってみて、緊張感というか、できのよくない部分を削ろうと思う。その決断がなあ。どこを切っても、物語に不具合がでるから、そこがむつかしいのだ。そして「間」は丁寧に残さなくては。ただ、少し長いとはいっても、見ているぶんには長さをまったく感じなかった。せわしなさからも逃れ、そしてシャープに。いい舞台にするために、最後まで考えつくそう。三科の芝居に、斎藤が笑っちゃってしょうがない。笑わない稽古を自主的にやっていたが、そんなことをしなくても、僕が、突然、「笑うな」と声を荒らげて一喝すれば、すぐに笑わなくなるにきまっている。これまで何度も同じようなことを経験している。そういうものなんですよ、俳優というのは。

■家に戻ってテレビをつけたら、「世界陸上」をやっていた。誰もが感じているのは織田裕二の異常なテンションの高さだ。為末が四〇〇メートルハードルの予選で落ちたとき、「やっちゃったよ、タメ」と為末を「タメ」呼ばわりした織田裕二は、きょう4×100メートルリレーに出場した末続について、「でも、スエは、よくがんばったよ」と言っていた。なんだろう。いったいあれは、なんだろう。それはともかく、九月になって一気に気温がさがった。きのうだったかな、深夜、風邪気味になって目がさめた。鼻の奥が痛い。典型的な風邪の症状。薬を飲んであらためて眠ったらすっかり治っていた。いやだなあ、風邪はいやだ。さあ、九月、初日まで時間がなくなってきた。映像のことを含めやっておかなくてはならないことはまだある。まだまだ忙しい。

(6:31 Sep, 2 2007)

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