May. 2 sat. 「能動的なオルタナティブ」
■「サブカルチャー論」でトーキング・ヘッズの話をしたのは木曜日(5月1日)のことだが、そこで、デヴィッド・バーンの次の映像を見ていたら、ボクデスの小浜とか、明和電機の土佐さんといった人のことを思い出した。なにか共通するものがある。体形が似ているのかもしれないけれど、それだけではなく、からだが内包しているもの、それを言葉にするのがむつかしいが「テイスト」といった種類の気配とでも言うか、ある傾向の趣味とでもいうか、あるいは思想かもしれないなにか。
それはともかく、現在の「サブカルチャー」を考える上で基本的に了解しておくべきことは、『サブカルチャー真論』のあとがきに宮台真司さんが書いている次のことだ。
メインカルチャーの一枚岩ぶりが崩れ、メインとサブの対立に意味がなくなる。併せて、かつてのカウンター的なものが消費アイテム化し(ロック音楽など)、ハイカルチャー的なものも単なる消費ジャンルへと横並び化した(クラシック音楽など)。
この「横並び化」のことを「二〇〇〇年代日本のサブカル状況」と呼ぶべきか。それに続けて宮台さんは、「八〇年代半ばまではそうではなかった。サブカルチャーの享受には、単なる娯楽や享楽を超えた『社会的現実についての認識の共有や交換』という側面が、一部とはいえ相当な規模の送り手や受け手において、根強く存在した。」 「その意味では、メインとサブの対立が明瞭だった時代、またはローブロウ(大衆文化)とハイブロウ(芸術)が明瞭だった時代の、文化的表現の授受をめぐる機能が、八〇年代半ばまでは、全てが横並び化したように見えても、辛うじて継承されていたのである。 」と書く。だからこそ、『八〇年代地下文化論講義』において、八〇年代の特色としてあらゆるものの「差異化」について語ることができたし、ヒエラルキーの構造を解きつつあの時代を考えることができたのだろう。すべては、「横並び」になってしまった。誰が、なにを好もうと、なにが好きだろうと、すべては「相対化」され、誰も問題にすらしない。
■かつて「相対化」は「権威的なものを無化」するための強力な方法だったはずだ。だがすべてを「相対化」してしまった先に見えたのは、「打ち捨てられジャンクになった記号の堆積」という惨憺たる光景ではなかったか。それが僕には「廃墟となった遊園地」に感じられた(だから、「遊園地再生事業団」は、その廃墟を「再生」しようという意味においてある)。「相対化」によって、「権威的なるもの」ではなく、ものが内包するであろう「価値そのもの」もまた無化され、そこでは批評軸も、価値判断も、なんの意味もなくなったとしたら、「価値」とはなんだろう。「表現領域」における、語るべき「価値」はなにか。人がそれぞれに抱く趣味だけの主観的な基準だけが「価値」だとしたら、そこでは、なんの衝突も生まれず、ただ曖昧にされた「趣味集団」の、「内閉する連帯」だけが、それこそ「横並び」になっているとしか考えられない。
■だから、またべつの「サブカルチャー」について語りたい。それは能動的なオルタナティブとも呼ぶべきものでありたい。『路上のエスノグラフィ』(吉見俊哉。北田暁大編 せりか書房)で引用されるハワード・ベッカーの次の言葉は示唆的である。
社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人びとに適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生み出すのである。
つまり「逸脱」は所与のものとして、あらかじめ前提としてあったのではく、「支配的な社会集団」によって「それが逸脱だ」とレッテルを貼られてはじめて、「逸脱」として存在させられたということだ。そして、本書(『路上のエスノグラフィー』)はそれを受け、「都市のサブカルチャーが、社会の適応の問題を抱えた逸脱集団の文化というよりも、『逸脱』のレッテルを貼る支配的な文化の諸価値に疑問を差し挟む可能性を孕んだ集団的実践として理解されている」と語る。たしかに、サブカルチャーによる、「支配への対抗」としてあったはずのロックもレゲェも、いまではすっかり「消費」の対象になっているが、そうした現象を後追いするだけではなく、現在をあらためて見つめて吟味すれば、「支配」の原理、その「支配層」によって「逸脱」のレッテルを貼られた者による、オルタナティブはそこかしこに生まれているし(たとえば、高円寺の「素人の乱」の文化的な活動など)、「二〇〇〇年代日本のサブカル状況」から、まさに「逸脱」した「サブカルチャー」もまた、存在しているにちがいない。
■かといって、過去に戻るような硬直した文化状況とも異なる。能動的なオルタナティブには、それこそ、「グルーブ」がなければだめだ。それというのも、『八〇年代地下文化論』で引用した次の言葉、
われわれが批判すべき相手は、なにかをつくりだそうとする欲望を資本の流れへとすべて回収し、還元しようとするあるおぞましい制度であり、その欲望そのものではない。そして、仮にその欲望が資本と微妙な共犯関係を結んでいるからといって、欲望そのものをすべて否定してしまうのは、やはりいきすぎである。われわれが求めているのは、ロックもレイブもアニメもマンガも存在しない、知的シニシズムだけが支配するような、退屈な世界ではないのだ。(上野俊哉/毛利嘉孝『実践カルチュラル・スタディーズ』 ちくま新書)
それがここでも有効であり、能動的なオルタナティブを背景にした「サブカルチャー」は、「おそぞましき制度」や、「逸脱というレッテルを貼る者」らと同様に、「知的シニシズム」からも距離を置くべきものだからだ。で、「能動的なオルタナティブを背景にしたサブカルチャー」と書いたそれは、安易に「ポップカルチャー」を持ち上げることからも遠ざかりつつ、「知的シニシズム」とも距離を置き、旧来の「サブカルチャー」や「サブカル」とも異なる意味を持たせるために、なにかべつの言葉を必要とする。それを考えてゆくのが、いま早稲田でやっている「サブカルチャー論」になるだろう。そのための実践があの授業だ。というか、そこに興味があるから、俺はそれをやっている。きっと同じようなことを考えている人がどこかにいるのではないか。もしかしたら、どこかの街のストリートで、能動的なオルタナティブはすでに活動しているのではないか。
■いよいよ本格的な連休に入ったらしい。このあいだも書いたけれどこちらには関係がない。小説も少しずつ進行しているけれど、「サブカルチャー論」と「都市空間論」について考えているのがいまは私の快楽だ。
(4:47 May. 3 2008)





