Jul.26 fri.  「東京へ」

■7月27日から31日までは、東京にいます。その間のノートは「東京模様」に掲載。8月1日から少しの期間また京都。時間が取れれば京都の町もまたゆっくり見たいのだが。

■朝から仕事。坪内逍遙関連の本を読む。
■原稿を書き出さなくてはいけないが、資料を読むのが面白くて困る。
■それと東京に送る荷物を箱に詰める作業。いよいよ京都を去るのだが、8月1日から3日までは大学のオープンキャンパスでまた京都に来る。去年と同様、ワークショップを開講。そういえば、しばらく前、白水社のW君から荷物が届き大量の本を送ってもらったのだが、そのなかに、鴻上尚史さんの演劇に関する基礎的レッスンの本があった。これまで稽古やワークショップの経験のなかで自然に発見し稽古などでよく口にするようなことが、この本では整理されシステム化されている。鴻上さんの舞台や作品について意識して見ることがこれまでなかったし、むしろ否定的な感想もあったのだが、この本は正直、教えられることがいくつもあった。
■演劇のトレーニングはこういうことになっていたのか。
■このあいだ、斉藤美奈子の『文章読本さん江』という本のことを書いたが、あらゆる演劇のトレーニング本を調べ、「演劇メソッドさん江」という本を書きたくなった。
■坪内逍遙関連の資料をすべて宅急便で東京に送る。夜、新幹線で東京へ。

(8:50 Jul.28 2002)


Jul.25 thurs.  「青葉とみつば」

小浜からまたメールがあった。『ヒネミの商人』に関してだ。きのうのメールに補足していくつかのことを教えてくれた。
 引用した文は、なにかもやもやしている正治が、その状態をあらわす言葉が思いつかない。銀行員の渡辺が「メランコリーですか?」と聞き、「英語はだめだよ」と返し、「じゃあ、憂鬱ですか」と言う台詞に答える台詞です。そこ(P.8)まで「憂鬱」ということばは出てきません。その状態をあらわすことばを探す最中、正治を初め、加藤やミチが言ったことばを列挙すると、

「陰気」「頭痛」「胸糞が悪い」「むしゃくしゃする」「弱気」「苦労」

 などが書いてあります。で、次のことばは、最初の脚本には書いてなく、稽古の段階で出てきたものらしく、僕が持ってる脚本には鉛筆でメモ書きのように記してあるものです。

「てんこしゃんこする」

 なんでしょう、これは。
 なんでしょうと言われても困るが、僕も記憶になかった。稽古中に出てきて付け足したんだろう。稽古中、せりふを変更したり、付け足したりはよくあることだが上演用のプリントした台本にしか記録は残らない。よく保存してあったな、小浜。コンピュータにデータがあるからと僕は上演台本を捨ててしまったかもしれない。しかも稽古中、だめをメモしてゆくのでしまいにわけがわからなくなり、新しい台本を用意してもらうことはしょっちゅうだ。ひとつの芝居で10冊ぐらい使う。芝居作り、その手つきの記録になるがおそらく散逸してしまっただろう。ま、過去は過去だ。

■その小浜とも飲みに行ったことがあるらしい、以前まで参宮橋に住んでいたT君のサイトの日記が興味深かった。「A君」という友人から届いたメールの話だ。メールの文中、こうあったとある。
「これはみなさんへのさよならメールです」
 これをT君の日記で目にしたとき、正直、どきっとした。むろん「自殺」を想起したからだ。そうではなかった。関係をリセットしたいという趣旨のメールで、「A君」という人が、自分もみんなのことを忘れ、そして「願わくば、みなさんの頭からも過去にAという者がいた、という事実を、記憶を、消し去ってもらえたらありがたい」と書いてあったという。「自殺」を想起しどきっとしたが、さらにこうした心情に至ったいきさつを想像すると自殺とは異なる人の意識の深い部分を感じ、より強い印象が残った。なにがあったかT君の日記を読む第三者の僕には想像することしかできないが、ここで気になるのは、それを通告するのに、メーラーのBCCを使って複数の人に一括して送ったという方法だ。
■詳しくはT君の日記を読んでいただきたい。
■「方法」にこそ「思想」は反映する。つまり、やり方っていうか、やり口にこそ、その人そものがある。メーラーのBCCによる一括送信という方法でA君という人が伝えようとしたものはなんだろう。想像することしかできない第三者だが、ひどくやるせない気持ちになるのだった。

■朝、劇団ぽんぽん大将のH君から「昼ご飯を一緒に食べませんか」という内容のメールがあった。快諾。寺町二条の三月書房のとなり、「青葉」という中華料理屋に入る。H君のほか、関西ワークショップに参加したうちの大学に少し前まで在籍していたTと、同志社のK君。美味しかった。もっと早くから知っていればよかったという店だ。三月書房で探し物。『批評空間』の新しい号が出ていたので買おうか少し悩み、カードが使える書店で買うことにした。
■食事のあと少し歩いた場所にある「みつば」というカフェに四人で入る。「みつば」という名前が町の喫茶店風だが、れっきとしたいまどきのカフェである。それにしても京都はカフェが多い。町の大きさから考えたらすごく多い。しかも東京のように人であふれているような店はまれである。ぼんやりするのにはちょうどいい。京都はいい町だ。しかも祭りばかりやってるし。
■三人と別れてからまた丸善へ。また「坪内逍遥」に必要な資料を買う。

(5:10 Jul.26 2002)


Jul.24 wed.  「小浜からのメール」

■僕の舞台によく出ていたというか、いまやニブロールのダンサーとしても活躍中の小浜からメール。きのう、『ヒネミの商人』のテキストがコンピュータにないと書いたらすぐにレスポンスしてくれた。「日記にあった『ヒネミの商人』の脚本、勿論、持ってます。既に取り寄せたかもしれなく、もしかしたら、何の意味もないかもしれませんが、懐かしくなったので、書き写したいと思います。そして、探してるのはここの部分じゃないかもしれませんが、書き写します。書き写させてください」とあって引用されている。印刷屋の主人、正治が言う言葉である。
なんか、このへんがな、どうもすっきりしなくて……。ああ、そうだな、憂鬱ってやつだなこれは。参ったね。憂鬱じゃあな、しょうがないよ。
 たしかこんなふうだった。「憂鬱」って言葉を思いつくまでもっと時間がかかったような気がするし、そもそも、正治は「憂鬱」という言葉を知らなかったのではなかったか。なにかもやもやしているが、その状態をあらわす言葉が思いつかない。ちょうど家に来ていた銀行員から、「メランコリーですか?」と教えられる。正治は驚いて言う。
英語はだめだよ。
 そんな戯曲だったような気がする。で、ちなみにきのう引用しなかったが、最近の翻訳のひとつ松岡和子さんのそれはこうなっていた。
まったく、どうしてこう気が滅入るのかな。
我ながら厭になる、君たちだって付き合いきれないだろう。
 このアントーニオは少し気弱である。語尾の「かな」は、小田島訳の「おれは憂鬱なんだ」とはかなりちがう。それはともかく、小浜のメールにはもっと驚くべきことが書いてあった。『ヒネミの商人』の初演の話である。
ちなみに、ジャスト9年前の93年7月24日が初日でした。やっぱり、一番、刺激的で思い入れのある作品です。
 ああ、そうだったか。知らなかった。突然思いだして書いたのが7月24日の朝。で、あれから九年。まる九年。なにかに引き寄せられるようにして書いたのかもしれない。やっぱり暑い日だったと記憶する。恵比寿にあるフリースペースのような場所で公演したのだった。月日のめぐりは早い。人は変わる。小浜はいまダンサー。僕は大学で教えている。考えてみれば10年前のいまごろは舞台を休止しなにもしていなかったころだ。再開は九十二年の暮れ。人に誘われて舞台をやったのが『ヒネミ』の初演。これで舞台はおしまいにしあとは小説を書こうと思っていた。なんのまちがいか岸田戯曲賞を受賞。受賞した限りは舞台を続けなければと思って、93年、『ヒネミの商人』を上演。それから9年。また休止し、来年あらためて舞台を再開する。人生いろいろだ。

■夕方、少し涼しくなってから自転車で府立図書館に行く。
■借りていた本を返すのと、『明治の文学・坪内逍遥』の解説を書く資料としてまた借りるのが目的だが、幾冊かは継続、何冊か返却、あらたに同じ筑摩書房の『明治の文学』の「二葉亭四迷」の巻、さらに、逍遥関連の研究書を借りた。『明治の文学』は配本されるたびに送っていただくのだが、なぜか第一回配本「二葉亭四迷」の巻が東京の家にない。ほかはあるのに第一回配本の「二葉亭四迷」と「樋口一葉」がない。謎である。なかにどうしても読みたい二葉亭の文章があったのだが、なにより巻末の高橋源一郎さんの解説がすごくよかった。柄谷行人さんの『日本近代文学の起源』にある「風景の発見」を小説仕立てにすればこんなふうになるという文章だ。
■府立図書館の近くにある公園で一休み。ねっとりとした湿度の高い風がふく。
■河原町の丸善でまた本を探す。京都はまだお祭りだった。三条を家に向かって帰る途中、御輿の集団に出会った。夜、BSでサッカーを見る。静岡ダービー。エスパルス対ジュビロ。複雑な気分だが、中山の二点目のゴールは鮮やかだった。高原も得点したし。

■坪内逍遥の解説を書く仕事に苦しんでいるが、作業の課程でいろいろなことを学ぶ。勉強しようと意欲がわく。もっと小説を読もう。書こう。ただ、ここんとこクルマを運転するひまがなかったので、運転したくてしょうがない。駐車場も借りたことだし。

(7:22 Jul.25 2002)


Jul.23 tue.  「くさくさするやけっぱちな人」

■まあ、たいてい人は、誰かから「わたしカレーライスが好きなの」と言われたような場合、「ああ、そうですか」としか反応しようがないものである。「オムライスが好きなの」でも、「夏の朝が好きなの」でも同じことだ。「ああ、そうですか」としか応えるしかすべはない。しかしあえて言わせていただきたい。「表」を作るのがわたしは好きだ。たとえば「年表」を作るのはことに好きで、坪内逍遥年表を作ってみた。西暦・元号による年を並べ、逍遥の生涯と、何年にどんな仕事をしていたか、あるいは参考として誰がどんな作品を発表しているか、または歴史的な出来事を記入してゆく。おおざっぱな歴史を概観できる。そうした作業が異常に好きだ。
■「ああ、そうですか」としか言いようのない話である。
■で、あらためて知ったが、坪内逍遥が、高田早苗の影響で西洋小説を読みはじめたのは一八七八年(明治一一年)、『当世書生気質』『小説神髄』を書いたのが、七年後の一八八五年(明治一八年)である。七年で「神髄」を知ってしまった。逍遥、二十六歳のことである。そして『細君』という作品で小説を書くのをほぼやめてしまったのが、一八八九年。つまり、『当世書生気質』で当時の文学の世界を驚かせてから五年後にはすでに小説に見切りをつけたが、その年、二葉亭四迷が『浮雲』を世に出している。
■さらに驚くべきは、逍遥が早稲田中学校の校長を病気の悪化のため退いたのは一九三六年(大正三年)だったことで、まだ四十四歳の若さ。この異常な速度はなにを意味するのだろう。その後、逍遥は演劇の世界へゆく。逍遥の速度。ただごとならない速度。動物の成長を見るような速度である。

■逍遥を起点に、いろいろ調べるのが面白くなって原稿が進まない。たとえば、逍遥といえばシェークスピアの翻訳ということになっており、「翻訳」について調べれば逍遥以外の、たとえば、『ヴェニスの商人』の冒頭のせりふがどうなっているか気になる。アントーニオが最近、「ウツ気味」だということを友人たちに語るくだり、なにをおまえ、そんなに苦悩しているのだと笑い出しそうになるのだが、最近のところでは、たとえば白水社から出ている小田島雄志版は次のように訳されている。
まったく、どういうわけだか、おれは憂鬱なんだ、
いやになる、おかげできみたちだっていやだろう。
 面白いなあ。いきなりなにを言い出すかと思えば「おれは憂鬱なんだ」とくる。「おかげできみたちだっていやだろう」がさらにすごい。なんだか横柄である。憂鬱になっている人が乱暴に「憂鬱なんだ」と言い出すことはないじゃないか。では、岩波文庫版の中野好夫訳ではどうか。
なぜこう気がめいるのか、まったくわからん。
実にくさくさする。君らもそうだというのか?
 単刀直入である。横柄なところはないので、最後には「君らもそうだというのか?」という疑問形でまとめる。しかし言われたほうは困る。「同意を求められてもさあ」と応えるしかないだろう。と、ここまで来るとやはり、新潮文庫版の福田恆存の訳も引用しないではいられない。
まったく訳がわからない、どうしてこうも気がめいるのか。われながら厭になる。なるほど、きみたちだって迷惑だろう。
 福田恆存といえば、頑なに旧字を使っていたことで有名だが新潮文庫版は平易な新字だ。おかしいな。それはそれとして、ここにはわりと紳士がいる。「なるほど、きみたちだって迷惑だろう」と紳士的態度で、小田島訳の「おかげできみたちだっていやだろう」とはやや趣が異なる。「おかげで」と、「なるほど」は受け取る側のニュアンスが少しちがう。まあ、シェークスピアの原文の英語がどうなっているのか僕はよく知らないが、あきらかに現代の、いや近代の英語ですらなかったはずだから、訳すほうだって解釈に苦心したはずだ。で、最後に、坪内逍遥訳を見てみる。
實際、何故斯う氣が鬱ぐか、解らない。君たちはそれが爲に鬱々しッちまふといふが、自分でも鬱々する。
 ほんとは旧字だが、「鬱々」は「くさくさ」と読む。ここではやはり、「しッちまふといふが」だし、「くさくさ」だ。江戸弁というか、明治の人たちのある限定された地域における口語なのだと思う。小田島訳のアントーニオは横柄だが、逍遥訳のアントーニオはどこかやけっぱちだ。こうした言葉の印象はそう想像させる。「おかげで」と「なるほど」に相当するのは、「それが爲」だろう。突然「文語」が現れるのも奇妙だが、どちらかといえば「おかげで」に近い。こうして比べると、「なるほど」もまた同じような意味合いで使ってもおかしくないのもわかる。で、本稿のまとめとして、『ヴェニスの商人』を下敷きにして書いた僕の、『ヒネミの商人』において印刷所の主人が語り出す冒頭の言葉、「憂鬱」「くさくさ」に関する言葉を戯曲から抜き出してみようと思ったが、京都のコンピュータのどこにもあの戯曲がないのだった。どこにやっちまったんだ。うーん、東京にあるのだろうか。まずいな。

■それにしても、ものごとは歴史的に見なければいけないのだな。「戯曲」という言葉がどこかかっこつけているからという理由で、かたくなに「脚本」という言葉を使う人がいる。しかしながらあなた、「狂言」にしろ「能」にしろ、その台本にあたるものは「曲」と呼ぶ。むしろ「戯曲」のほうが古い言葉だ。「脚本」は、あくまで推測だが「シナリオ」の訳語として作られた比較的あたらしい言葉のはずである。「脚本家」なんていったらもうハイカラこのうえなかっただろう。劇作家よりよっぽどハイカラだ。
■そんなわけで仕事をしている一日。
■午後、丸善で本を探す。ついでに「STUDIO VOICE」を買った。「ポストモダン・リターンズ」という特集。八〇年代的なるものがちょっとしたブームだという話をどこかで聞いた。ファッションの話だっただろうか。ものごとはくりかえす。九〇年代の半ば、七〇年代に憧れるという若い人がいた。ちょっとずつずれつつ、つねに過去は憧憬される。そして復権された「過去」は微妙に現在の姿をしている。変なものだ。
■大学の疲れはずいぶん取れ、こうして書く仕事をしているのが楽しい。資料を読みあさることでとてもなごむ。

(8:08 Jul.24 2002)


Jul.22 mon.  「異常な暑さ」

■京都は、というか関西地方は異常な暑さ。不快指数はかなり高い。今年いちばんの気温の上昇と湿度の高さだ。数日こんな気温がつづいているのだろうか。あまり家を出ていない。自分だけが「きょうの不快さ」を感じているのだと思ったが、昼食をするために入ったレストランのおかみさんが「きょうは、暑い」とつぶやいた。やはりそうか。食事。
■夕方、まだ日が差している時刻、西日が強烈だった。碁盤目状の京都の町は東西に走る通りを歩くと、道はずっとまっすぐ伸び影を作る場所がなくてまともに西日にあたる。
■京都の暑さはいろいろに言われるが、通りの構造に起因するのではないかとさえ思う。盆地特有の風の通らない地形、蒸し暑さもあるのは当然にしても。

■さて、久しぶりに、以降に記した「○」で示したノートは記憶のないまま書いていた。薬の影響だ。あとで読んで唖然とする。なにが書いてあるのかよくわからない箇所もあるしこんなことを書くだろうかと奇妙な気分になる。

○食後、家で暑いホットコーヒーを飲む。輸入物のミルキーマンリンを東京から送ってもらっている。うまい。これに勝るコーヒーは滅多になる。以前カフェでについて個々に書いたところ、カフェの大半のコーヒーはまずいという。そうかもしれないが。カフェは単にコーヒーを飲む場所ではない。だった河原町にある老舗の喫茶店で飲んだほうがどれだけ美味しいか。自画自賛。
○また原稿を書いている。資料からヒントを得たことをもとに構想を固める。いい文書にしたいんだ。これが済んだら小説にかかる。今週の半ばには完成させよう。今度こそは、完成する。と思いつつ、学生の成長を見ていたい。つい練って−はいかいした。漠然と、これまでと異なるは表現について作業。tat大変である。

■なにを言っているのだ。
■「誤字」「脱字」が多い。「暑いホットコーヒーを飲む」は当然、「熱い」だが、だったらわざわざ「ホットコーヒー」と書く必要がなく、「熱いコーヒーを飲む」だろう。「輸入物のミルキーマンリン」は、「輸入物の珈琲豆ミルキーマンデリン」だ。「これに勝るコーヒーは滅多になる」は語尾を「めったにない」に訂正。可能な限り漢字は開く。「滅多」は使わない。「以前カフェでについて個々に書いたところ」は、「以前カフェについてここに書いたところ」だ。「カフェの大半のコーヒーはまずいという」って、誰が? 誰がそう言ったのだ。
■たしかあれは、大阪のカフェに行ったときのことを書いたから二年近く前のことだと思う。同じカフェに行ったことのある人からあの店のコーヒーはまずいとメールがあった。おそらくそれについて触れたつもりなのだろう。
■で、「カフェは単にコーヒーを飲む場所ではない」はいいとして、「だった河原町にある老舗の喫茶店」は当然ながら、「だったら河原町にある老舗の喫茶店」だし、正確には「だったら河原町にある老舗の喫茶店『六曜社』」だ。「だった」ってことはない。じゃあ、「自画自賛」はなにか。誰がなにを自画自賛しているのか不可解だ。

■次の段に移ろう。一見まともに書いてあるふうである。「今度こそは、完成する。と思いつつ、学生の成長を見ていたい」が、文脈としてどうつながっているのか不可解で、この「完成する」と意気込む「小説」と、「学生の成長」はどこでどう関連するのかこれだけではわからない。だいたいが、ほんとに「学生の成長を見ていたい」と思っているのか疑わしい。そんなことを本気で考えているのだろうか。書いた記憶がない者がそんなことを無意識で書いている。となると、本気なのかもしれないので、そのほうが自分としてはおそろしい。
■さらに難解なのは、「つい練って−はいかいした」だ。おそらく「ついネットを徘徊した」である。いまでは陳腐な表現になってしまった「ネットサーフィン」ってやつだ。それはいいとして、じゃあ「漠然と、これまでと異なるは表現について作業」はなにか。「てにをは」ががたがたである。しいて手直しするなら、「漠然と、これまでとは異なる表現について作業」だろうが、それでも意味はわからない。「作業」していたらしい。「これまでとは異なる表現について」だ。しかも、「漠然と」。たとえばこれが、「これまでとは異なる表現について漠然と思いをめぐらす」のならわからないではない。「漠然と作業する」からややこしくなる。作業は漠然とやってはいけないのではないか。事故につながる。そもそも、「これまでとは異なる表現についての作業」とはなにか。
■そして、文末がいよいよいけない。「tat大変である」だ。「tat」とはなにか。コンピュータで書くとき、「漢字入力」から、「半角英数」にすることはしばしばあり、たとえばこのノートのようにHTML文書だった場合、改行のたびに<br>を書くので、そのつど「半角英数」に切り替えるが、「tat大変である」の場合、前からの文脈で言うと、「これまでと異なるは表現について作業。tat大変である」であり、「半角英数」への切り替えはほとんど意味がない。だが、切り替えている。意味なく切り替え「tat」と入力した。私のなかの、なにかがそうさせた。わからない。そうさせたものがわからない。「切り替え」はわからないが、ただ、「tat」から想像されるのは、「たっ、た、た、大変だ」と少しどもるように書くことで「大変」を強調しようとしたのではないかということだ。そんなに強調したい「大変」がそうなるといよいよわからない。

■とにかく原稿を書いていた。ほとんど家を出ないで仕事をする一日だ。

(17:06 Jul.23 2002)


Jul.21 sun.  「バカが意見を言うようになった」

■二年生の発表公演が終わるまでは落ち着いてろくろく本も読めなかった一ヶ月だが、仕事のあいま、っていうか、仕事がそもそも本を読むことだけど、『考える人』を読むと小谷野敦さんの「大衆社会を裏返す」が面白かった。なかでも、「意見を言うようになったバカ」の項はこうしてネットを利用してものを書く際には是非とも参照しておかなければならない論考だろう。
 私が持ち出そうとしているのは、斉藤美奈子の『妊娠小説』のことだ。この書き下ろし長編文藝評論は、一九九四年に筑摩書房から刊行され、インテリ層の間では話題を呼んだ。着眼点が斬新であったのみならず、その攻撃的で、軽薄なようで、嘲笑を多分に含み、しかし根においてフェミニズムの立場をとる「フリッパントな文体」は、既に存在していた伏流を一挙に表面化させたものだろうが、やはり若い書き手たちに影響を与えたであろうことは否めない。
 そして、小谷野さんは斉藤美奈子について、「十分な教養を持ち、その文体にも関わらず、最低限のマナーが守れることは、見て取れた」とつづけるが、問題はそれを模倣する者らが現れた点にあることを指摘する。つまり、軽薄そうでもあり、攻撃的であり、なおかつ嘲笑的な斉藤美奈子の文体を、「十分な教養を持ち、その文体にも関わらず、最低限のマナーが守れる」のとは正反対の者らが、表面的に文体をまねる最悪な事態が進行しているということだ。これはナンシー関にも言えることではないか。あれもやはり表面的に模倣すればとんでもないことになる。「斉藤本人ならば守れる最低限のルールが守れない者に斉藤文体を与えることは、なんとかに刃物なのである」の、「斉藤」を「ナンシー」に置き換えても当てはまる。そして小谷野さんは書く。
 現在の「大衆社会」が、それまでのものと異なるのは、以前は「バカが大学へ入っている」程度で済んでいたものが、「バカが意見を言うようになった」点である。もちろん、呉智英の『バカにつける薬』(双葉文庫)にあるように、昔だって、意見を言うバカはいた。けれど、呉が指摘しているのは、当時の「進歩的知識人」に共通する矛盾であり、彼ら、たとえば中野好夫が本質においてバカだったとはとても思えない。

 ここで私が言っているのはインターネット上の、大小の「フォーラム」の「過去ログ」とかいうやつである。これを覗くと、よくもこんなものを世間に公開して恥ずかしくないものだというようなものがわんさとある。以前、売買春の是非をめぐる長い議論を見たことがあるが(これも前掲拙著--『恋愛の超克』角川書店 引用者註--に書いた)、驚かされたのは、延々と続く議論を行っている者たちの中に、その議論に関係する書物を読んでいる形跡のある者が一人もいなかったことだ。しかし「フォーラム」の世界ではこの種のことは珍しくない。ただし、良質なサイトもあることはある。だが、彼らはただ自分自身の狭い知見と直感だけで議論に参加し、相手が何か言えばただちに返答するから、ほんらいならそこで読んでおくべき書物がある、と、覗いている私には思われる場所でも、誰一人そのようなものを参照することも、あるいは、参照するよう勧めることもなく、不毛な議論が続くのである。
 この「フォーラム」は「掲示板」と置き換えてもいいのだろうが、言われてみて気がつくのはたしかにそうした場所での発言には「引用」が少なく、自分がよく引用するから書くわけではないが、書き写すのが面倒だから引用しないのだと思っていた。そうではない。つまり「読んでいないから引用できない」という事態だったのだな、おそらく。

 知人から聞いた話によれば、ペットに関する掲示板では「猫は外飼いをしてはいけない」という驚くべき意見が主流らしい。部屋から出すと他人に迷惑がかかるという。あるいは、外に出すことでノラ猫から病気をうつされる可能性もあるという。猫をほんとうに愛しているなら外に出すなという主張だ。ここには、おそらく「共同体」の問題がからむので、小谷野さんの言葉を戒めにすればそうした書物を読んでからでなければ議論に参加できない。猫の外飼い反対論者のなかには、外出先で猫を見つけて触ったらそこでウイルスなり菌を手に付着させたまま家に戻ることになり自分の家の猫に感染するおそれがあるから触らないと発言する者、つまりバカもいて、じゃあおまえは感染の恐れがあるからと、結核病患者とは握手もしないし、エイズ患者にはぜったい近寄らないということなのかと書けば、行き着く先はアウシュビッツである。となると、以前から探しているが見つからない『ナチスドイツ 清潔な帝国』も読まなければ議論に参加できない。

 探しているんだ。ずっと古本屋を探すがみつからないので、思いたって検索したら、文化書房という古書店がサイトを開いておりそこで売っていた。正確には、『ナチ・ドイツ清潔な帝国』(H.P.ブロイエル 大島かおり訳 1983 人文書院)だった。すぐに注文。

 それにしても、「バカが意見を言うようになった」は面白かった。面白いが、この言葉だけを取り出すと誤解されるおそれがある。小谷野さんの原文、『考える人』創刊号の「大衆社会を裏返す」をぜひ読んでほしい。
 私はバカを憎んでいるわけではない。しかし、バカが大学へ、いわんや大学院へ来るのは困る。分相応に職業学校に行っているなら、私は「バカ」などと言わないだろう。寿司の修業をしている若者が米国大統領の名前を知らなくてもいいのである(ただし参政権のある者はまずい。これはあとで論じる)。村上龍の名前を知らない学生が文学部へ来たりするから「バカ」と言いたくなるのである。
 ついでに書くと、マガジンハウスから出した『百年目の青空』は、こんど文庫化され、『よくわからないねじ』というタイトルで刊行されるが、解説を小谷野さんにお願いした。とてもいい文章を書いてくださった。励まされた。原稿を編集者から転送していただいたのは、ちょうど舞台がはじまる直前で、疲れがかなりたまった時期だったが小谷野さんの文章に救われたのだ。あと、斉藤美奈子さんの『文章読本さん江』(筑摩書房)はかなり面白いらしい。らしいというのは、まだ読んでいないからだが、読んだ人と電話で話したところ、ところどころ引用して読み聞かせてくれた。かなりすごい。笑える。すぐに読みたいが本が東京の家にあるのだ。こっちで買うと二冊になってしまって不合理なんだ。

■そんなわけでまた仕事をする。原稿を書く。坪内逍遥の資料を読む。それ関連で資料にしようと二葉亭四迷の『浮雲』を買ったが、これも東京にあるはずだから無駄になったものの仕事だからしょうがない。梅雨はあけたらしい。夏である。七月である。とても気持ちのいい季節だ。

(16:12 Jul.22 2002)


Jul.20 sat.  「倫理と便利」

■ある人が、「お金って便利だからさあ」と言っていたそうだ。言葉の誤用だろうか。いや誤用とも思えぬし、たしかに「便利だからさあ」とも言えるが、貨幣をそんなふうに表現することはまれである。なぜまれか。貨幣について「倫理」が抜け落ちていることを、よしとする考えが前提になっているからだろう。倫理なんか一瞥だにしない。利便性で貨幣を語る。倫理のない貨幣そのものの価値ばかりが上昇する。かくしてデフレは進行する。ただ、「お金って便利だからさあ」という言葉が、表現として面白いから始末に悪い。
■そんなわけで、仕事をする週末である。
■ひたすら、坪内逍遥だ。逍遥の小説も戯曲も面白い。もっと読みたくなって困る。原稿を書かなくてはいけないのだし、原稿を書いたら書いたで、またべつの本が読みたくなるのも人の常、だが逍遥を読むことでいろいろな発見があった。そういうことになっていたのか、小説は。
■夜、エスパルスの試合をテレビ観戦。前節、ぐちゃぐちゃに崩されたディフェンスが修復されていた。ジュビロの高原が2得点というニュース。高原は変わった。からだが以前よりさらに強く大きくなって頼もしい。日本を代表するストライカーとしてもっと活躍してほしい。
■相変わらずの京都の夏である。

(12:51 Jul.22 2002)


Jul.19 fri.  「不眠症だった」

■眠れなかったのである。
■火曜日の午前中に目を覚ましてから、金曜日の朝9時過ぎまで、睡眠時間は3時間ほど。つまり3日間で3時間睡眠だ。しかもその3時間のあいだ、夢なのか現実なのかよくわからない状態にいた。なにしろ、そのうちの2時間はジョン・ジェスランさんが演出する三年生の発表公演を観ており眼が覚めたあともしばらく現実だと思っていた。現実であるはずもないのは、まだ公演がはじまる前だからで、落ち着いて考えれば当然だがしばらく実際に観たのだと、たしかに観た、面白かったと三年生の発表公演を振り返っていた。
■夢のなかの舞台では、ジョン・ジェスランがいきなり登場し流ちょうな日本語でしゃべる。ほんとは日本語ができるが学生のためにわざと英語でしかしゃべらなかった、そのコミュニケーション不全の状態で学生が苦労することに私が授業することの意味があると話すので、それに僕は感銘さえ受けていた。
■夢だった。あきらかな夢だが、しばらく現実だと感じていたのはどうかしているし、眠れないあいだ神経が過敏になっており、雨音や小さなノイズがすべて音楽に聞こえてくる。このままの状態が進行すると幻聴が聞こえるようになるらしい。眠ろうと横になるがそれでも眠れず苦しんだ。東京から眠るための薬を送ってもらった。ようやく眠ることができた。それがきょう(金曜日)の朝。

■火曜日から眠れないことに苦しんでいたが、そのあいだ、水曜日にはスタッフワークの授業があったのでそれに出席し、木曜日は学科会議があった。原稿も少し書いたがすべては上の空である。ぼんやりしていた。ぼんやりしたまま数日を過ごした。
■だから日記が停止していた。いったいそのあいだなにをしていただろう。
■記憶を追って書いてみる。

15日(月)
 坪内逍遥の原稿を書くため資料を読み少し書く。夕方、外に出て祇園祭の京都を歩く。

16日(火)
 原稿を書いていた。夜、また外へ。祇園祭もいよいよ宵山。すごい人手。40万人以上いたらしい。長刀鉾を四条に観に行くが通りに人がぎっしり。そのまま河原町まで歩いたが途中で気がついたのは長刀鉾の先から河原町まで四条を歩くことにはなにも意味がないということだ。ただただ無意味な行進である。河原町を上がってカフェ・オパールまで行き休憩。で、あしたスタッフワークの授業あるからと眠ろうとしたがまったく眠れない。疲れたはずなのに眠れない。

17日(水)
 京都は大雨。一睡もせず、朝9時からスタッフワークの授業へ。ぼんやりしたままスタッフワークの授業と僕の舞台表現の授業を合同で進行。ぼんやりしたままだ。太田さんの演出に関する言葉がひっかかり、そのことをずっと考えていた。部屋に戻って、いくらなんでも眠れるだろうと思っていたが眠れない。意識が朦朧とする。いったいなにが起こっているのかよくわからない。なにもできぬままぼーっとしたまま起きている。

18日(木)
 いくらなんでももう眠れるだろうと思って、ベッドにもぐりこむ。そこで三年生の発表公演を観た。2時間ほどしてベッドから出、客観的には覚醒した状態であるはずなのに眠っている時間と現実との境界があいまいなままタバコを吸うと面白い作品だったといま観ていた舞台を振り返る。しばらく現実だと疑わなかった。時間が来たので学校へ行く。外はどしゃぶりの雨。午後5時から学科会議。エアコンが強くて寒いからと窓を開けた教員がいた。窓の外から聞こえる雨音。ノイズが音楽に聞こえてしょうがない。会議中、朦朧とした意識で不意に、ぜったい今年限りで学校を辞めようと決意する。ところが学科案内のパンフレットがほぼ完成し入稿まぎわだと知った。僕の名前もある。言い出せなくなった。家に戻ったがやはり眠れない。原稿を書く。小さなノイズが音楽に聞こえる状態が続く。

■で、きょう(金曜日)の朝、薬が届いたので服用。ようやく眠ることができた。眼が覚めたら晴れ晴れとした。夜は三年生の授業発表公演を観る。深夜、部屋に戻って原稿を書く。みんなに迷惑をかけている。まずい。崖っぷちである。
■そういえば、寝屋川のYさんが舞台を観に来たとき差し入れしてくれた、芭蕉堂の「わらびもち」が冷蔵庫でよく冷えて美味しかった。
■体力的には今年の授業は去年に比べてかなり楽だった。出席率の高さというか、学生個々が積極的に授業に参加してくれたのが大きかった。だけど精神的には疲弊していた。いろいろあって疲れた。人数が多くて稽古場が騒がしい。落ち着かない。学生の質問に応え、全員に気を配る。一人になる時間をなんとか確保しなくちゃならなかった。そうした疲れが今週になって一気に出たようだ。だけどきょうは熟睡した。いろいろ忘れよう。大学のことは忘れる。あとは自分の仕事に力を注ごう。みんなに迷惑をかけている。待ってくれる人たちがいる。なにより自分のためである。

(16:43 Jul.20 2002)


Jul.14 sun.  「舞台のあと演劇人になにを言ってもむだ」

■昼過ぎ眼を覚ます。食事をしようと外に出れば祇園祭だ。

■舞台が終わった翌日はたいてい茫然としている。ぼーっとしたまま過ごし、舞台のことを考える。あとになって気がつくこといくつか。大変だったがやっぱりやってよかった。学生ともっと話をするべきだったとはいうものの、教育者が舞台を演出しているのではなく、演出するのを仕事としている人間が大学で教えているので、教育技術は未熟である。どっちがいいんだかわからない。
■そして次の舞台への意欲がわく。
■仕事は続く。原稿を書かなくてはいけない。坪内逍遥はもちろんだが、岩崎書店の絵本があり、「一冊の本」「ガルヴィ」の連載が締め切りだとメールがあったし、筑摩書房から出す単行本の校正もしなくてはいけない。だが舞台の直後、茫然としてしまうのが演劇人だ。しかも外は祇園祭だし。

(23:12 Jul.14 2002)


Jul.13 sat.  「楽日、打ち上げ、京都の夏」

■京都の夏は暑い。
■そして二年生の発表公演の最後の日だ。これで二年生の授業もほぼ終わる。「がんばれ」とか「悔いのないように」といった陳腐な言葉を口にするのもなんだし、だけど、おのおのが納得のゆく舞台をやってほしいと思った。午後一時からBチーム。五時からAチーム。Bチームは初日の緊張から解放されたのかだいぶよくなった。Aチームは逆にきのうの舞台がよかったのと比べ、全体的にばらつきがあったのは残念。初日の緊張とはまた異なる、最後だからなのか、妙な力が入ってそれが全体の整然さを壊したのか。でも、緊張するなとも、力を入れるなとも言えない。これが彼らのいまの段階の到達点。
■もちろん、俳優ばかりではない。照明、美術、音響と、それぞれがきちんと仕事をしてくれた。開場したら僕の仕事は終わり、あとはただ客席で舞台を見る。まあ、見るのも仕事だけど。でも、時間が来れば学生たちによって舞台は進行してゆく。

■最後の舞台を見ながら、今回、主に舞台監督として奮闘しつつも俳優としても舞台に立ったM君を見ながら、M君への演出が足りなかったことに悔いが残った。M君は、同志社にいたころすでに舞台をやっており、しばらく演劇に関わったあとうちの大学に三年生として編入してきた。稽古の初期段階は、まったく舞台経験のない学生、ほとんど経験のない学生に対するごく基本的な演出からはじめる。そして次に演技経験があってもまだ未熟な者へと段階的に進行するが、すると結局、M君は最後になる。もっとあったはずである。M君に求めるものはもっとあったはずだ。東京に呼んで僕の舞台に出てもらいその続きをやりたいと思った。
■終演後、観に来てくれた去年の関西ワークショップの参加者たちと話す。でもそのころにはすでに眠くなっていた。打ち上げ前なのに、「眠くなっちゃったな」と口にしたが、やはり去年、彼らが楽日に観に来、同じ言葉を言った記憶がある。
■正直、疲れました。

■で、そのとき竹中直人から携帯に電話があった。いま京都にいるから会わないかという連絡。京都でテレビドラマを撮影しているとのこと。しかしこれから打ち上げなので数日後に会おうと電話を切る。しばらくしてまた電話。「○○○がね、宮沢の本の愛読者だからぜひ会わせたい」と言う。この○○○は人物名なのだが、よく聞き取れず、じゃあ大学の前で待ってるから来てくれよと言うと、タクシーでやってきた。信号の向こうに何人かの人の姿。竹中と、一緒に舞台をやったこともある秋山奈津子や西田のことはわかったが、すでに薄暗い時間、よく見えない。○○○さんが誰だろうと、信号が青になったので近づいてゆくと、ユースケ・サンタマリアさんだった。
■それからよくわからない展開になった。
■なにしろ、学生の授業発表公演の打ち上げに、竹中直人とユースケ・サンタマリアさんがいる。秋山奈津子もいる。西田もいる。なぜなんだ。この状況の不思議さに笑い出しそうになった。しかもユースケ・サンタマリアさんがスピーチをしてくれて、「いやあ、素晴らしい舞台だった」と観てもいないのに言う。「特にきみのあのせりふには泣いたよ」と指さしたのは、きょうの昼の公演、通行人で出るはずなのに寝坊して遅刻したKである。「あの、『なにか食べますか』はよかった。あと、あのぶりぶりぶり」ってもうでたらめである。
■竹中たちは途中で帰ったが、それから学生たちの芝居に関する質問に答えるのに大変だ。これが仕事である。順番待ちのような状態で次々と学生が来る。男たちばかりである。いや、いいんだけど。ほとんど話ができなかった学生もいて悔いが残る。配役のことや、役割分担に関して不満を持っていた学生もいた。役者をやりたかったができなかったこと、あるいは最初の授業で、オーディションのように簡単な芝居をさせてから配役を決めたがその授業に出席していなかったのに役をもらえた学生がいるのはどうしてかについても不満があったようだ。うまく答えることができないが、ただ言えたのは、「世の中は不平等にできている」ということで、「みんな平等」という言葉のうそ、舞台は特別である、役者は特殊であることだけ。それしか答えるすべがない。
■舞台コースの学生にしたら、映像コースの学生に重要な役を任せたことに不満があるだろう。でも、映像コースのY君にしろ、A君にしろ、あるいは歌を歌ったMにしろ、魅力的であるとしかいいようがないのだしそもそもふだんの舞台でも僕はそういう人を舞台に出している。なかでもA君は歩いているだけでも僕には面白くてしょうがなかった。
■こうして話ができたのは公演が終わってからだ。もっと早くからわかっていればフォローのしようがもっとあった。来年、もしやるなら、まずは一人一人と面接をし、よく話を聞いてから出発しよう。

■来年かあ。来年なあ。この日記に大学を辞めるかもしれないと何度か書いたので、学生のあいだではもう僕が大学を辞めることになっている。「私たちが卒業するまではいてください」というのだが、それやっぱり、「卒業するまでいてくださいの連鎖」ってことになり、俺は一生、いるのかよここに。
■二次会は朝4時まで。タクシーで帰宅。疲れた。眠かった。だけど、とても楽しかった。

(20:06 Jul.14 2002)


Jul.12 fri.  「省察と執筆と、生のために必要な時間」

■このあいだ、「サークル・ゲーム」のバフィ・セントメリーが歌っているヴァージョンを探していることを書いたが、それできのう(11日)の昼間、午前中の稽古を終えてから河原町までCDを探しに行った。初日の直前の話。
■ところが『いちご白書』のサントラもなく、バフィ・セントメリーのCDも見つからず何軒かCD屋をめぐったが、たまたまタワーレコードでスタンリー・キューブリックのサントラを集めたCDを見つけた。99年に発売されたようだが知らなかった。ありました。『博士の異常な愛情』のラストでかかる『We'll Meet Again』も収録されていた。いきなり「サークル・ゲーム」はやめて、『We'll Meet Again』を流すことにした。
■で、関係ないけど、タワーレコードに入ったすぐの場所に「頭脳警察」を特集した棚があり、発売当初すぐ発禁になった幻のファーストアルバムもCD化されていた。アナログ版もあった。三枚目のアルバムは持っているけど発禁だっただけにファーストは持っていない。買おうか少し悩む。荷物が重くなるのでまたにすることにした。

■で、初日(11日)のことから。
■学生たちがものすごく緊張していた。緊張でがちがちだ。稽古では戯曲の通りに関東の言葉、イントネーションだった台詞が一部、関西弁になっていたりする。台詞も飛ぶ。ミスするとあわてる。ミスしないようにあせる。落ち着きがなく次になにをしたらいいかで頭がいっぱいになっているらしく、生きた言葉にならない。なんていうんでしょう、死にものぐるいである。落ち着け落ち着けと、客席からじっと舞台を見ていたのだった。
■しょうがない。初日だ。次はきっといい舞台になる。

■二日目のきょうは少し落ち着いた。それというのも、きのうは開演直前まで俳優たちの一部はスタッフとしての仕事もあわてて片づけており、その落ち着きのなさが集中力を緩慢にさせていたところがある。きょうは一段落ついて舞台にのぞめたのではないか。
■一部ミスはあったものの、客席で安心して見ていられた。 
■終演後、学生たちと話をする。あしたで長い稽古からの時間は終わる。「もっとやりたい」という。それだったら成功だな。舞台をやること、芝居するよろこびみたいないものが見つけだしてくれたらそれでいい。これから自分にあった舞台や演出家と出会ってゆけばいい。

■しかし公演の日々、とはいうもののわたしは教員でもあるので午前中は一年生の「舞台基礎」の授業をやっていたのである。きょうはAクラス。Cクラスと同様、ペアで二つの言葉を使って短い劇を作る課題。まったく指向の異なるU君とI君を組ませたのが正解だった。お互い全然かみあわない。I君の提案にU君が「いややそんなん、やってられんわ、そんなん」と言い、かみあわなさ、かみあわない作業の課程を見ているのが面白かった。
■これで今期も終わる。
■フランスに行っていたあの一週間は休講したがあとは遅刻もしないで働きました。自分でもこれはおかしいのじゃないかと思えてならないのだった。こんなにわたしは熱心な人間だったのだろうか。熱心すぎて気持ちが悪い。

■ところで、中山元さんの「哲学クロニクル」というメールマガジンをずっと読んでいるのだが昨日届いた最新号は、フランスの哲学者、ミシェル・アンリの死についての話だった。フランス人でアンリっていうとサッカーフランス代表のアンリを思いだしてしまうが、そうではなく哲学者。その人のことがこう解説されている。
ミシェル・アンリ追悼 (ロジェ=ポル・ドロワ、ルモンド2002年7月7日)

 哲学者のミシェル・アンリが南仏のアルビで7月3日に亡くなった。1922年生まれのアンリは、20世紀後半のもっとも重要なフランスの哲学者の一人であることに間違いない。彼は謙虚で、つねに孤独であることを望み、現代の風習となったセンセーションや駆け引きを拒み、独創的な思想を構築しながらも、大衆的な読者に自分を開こうとしなかった。パリで哲学者としての経歴を確立するのではなく、モンペリエのポール・ヴァレリー大学の哲学教授のポストを選び、メディアから離れて暮らし、省察と執筆と、生のために必要な時間を確保していた。
 全文ではなく冒頭の部分を引用。「メディアから離れて暮らし」とか、「省察と執筆と、生のために必要な時間を確保」という生き方にあこがれる。そんなふうにはできないな。ぜったいできない、俺には。悲しい。

 原稿の依頼があると引き受けないとなんだかまずいような気分になってすぐ引き受けてしまう。「東京人」という雑誌からの原稿依頼もあったし、「THE CARD」という雑誌からも連絡があった。どちらも忙しくて返事をしていないのだけど、返事しなくちゃな、来た仕事を引き受けなくちゃとあせる自分がばかのよう。「メディアから離れて暮らし、省察と執筆と、生のために必要な時間を確保」しなくちゃいかんのだ、きっと。

■もうすぐ夏休みだ。「省察と執筆と、生のために必要な時間を確保」しようと思う。それで来年の舞台のこと、小説のことをゆっくり考えよう。静かな場所で考える。ひとりになって考える。

(9:59 Jul.13 2002)


Jul.11 thurs.  「初日」

■二年生を中心にした舞台表現の授業の発表公演『おはようと、その他の伝言』を春秋座の舞台で初日を迎える。Bチームの公演。学生たちたいへんな緊張。ミスが目立ち稽古通りにできなかったが、でも、こりゃいかんとか事故もなく、もういっぺんある舞台でいいものを見せてもらえたらいい。あしたはAチーム。長い一日だった。書きたいことはいろいろあるがそれはまたあした。

(8:16 Jul.12 2002)


Jul.10 wed.  「勝ちましたと牛尾からメール」

■朝早くから仕事をしたのである。まずは新潮文庫のゲラの直しをはじめる。なにしろ文庫編集部のIさんが京都まで直しを入れたゲラを取りに来る。ほかにも、あしたから本番の『おはようと、その他の伝言』で使う音楽、ひとつだけどうしても見つからずそれを探しに町に出る予定だ。場当たり(テクニカルリハーサル)が夕方からある。それまでの時間を有効に使う。っていうか、それしか時間がない。
■ゲラを読み直していたが、眠くなったので昼まで睡眠。このところ小刻みの睡眠が続く。

■午後、家を出て姉小路にある「コチ」というカフェで仕事の続き。食事をし無心に仕事。なんとか終える。終えてからCD屋へ。初演の『おはようと、その他の伝言』で遠くから小さく流れる、『サークル・ゲーム』という曲がないのだ。映画『いちご白書』のサントラの中に入っているはずだが、京都の部屋にも、東京の家にも見つからない。CD屋にもない。たしかあれは、ジョニ・ミッチェルが作った歌なはずでサントラがないのならとジョニ・ミッチェルのCDを買った。あとで聞いたら初演で使ったのとは異なる。わかったのは、『いちご白書』で使われていたのは、バフィ・セントメリーが歌っているヴァージョンであった。
■音楽の選曲でうまいといつも感心していたのは、映画監督ではスタンリー・キューブリックであり、知人では桑原茂一さんである。茂一さんの選曲のうまさはただごとならず、そばで仕事を見せていただきどれだけ勉強になったかしれない。「選曲のうまさ」とは、いい曲、かっこいい曲をただかけりゃいいってことではない。たとえば、キューブリックが『時計仕掛けのオレンジ』の強烈な暴力シーンで、ミュージカル映画『雨に歌えば』のテーマ曲を流した選曲は見事だった。
■キューブリックはどの作品でもたいてい唸るような選曲の場面がある。
■『博士の異常な愛情』のラストで流れる音楽もすごい。スタンダードの女性ヴォーカルの歌。核爆発の映像に美しいそのメロディーが流れるが、歌詞が「生きていたらいつかまたお会いしましょうね」という内容。このアイロニカルな使い方がすごい。その曲を手をつくして探したが見つからず、見つけたのはニッポン放送というラジオ局のレコード室だった。知人に頼んで録音させてもらったのを思い出す。で、「サークル・ゲーム」を流したかったのだ。60年代のフォークソングはいま聴くとひどく古くさいが歌詞の内容とそのアナログな手触りが流す場面にぴったりだと思ったからだ。だけど、バフィ・セントメリーだったんだよ。失敗した。あと、同時にそのとき、ボサノバのCDも買う。これも使うかもしれないっていうか、かなり趣味。三条河原町から5番のバスで学校へ向かう。

■夕方から場当たり(テクニカルリハーサル)。きっかけ稽古。照明、音響を担当する学生はほとんどはじめての経験でなかなかうまくいかないが、少しずつよくなる。そういえば美術を担当している牛尾が春秋座の方と交渉し舞台の使い方で事前まで問題になっていたことを承認してもらったという。昼間、牛尾から短いメール。「勝ちました」とあった。よくやった。ほんとうによくやった。
■で、場当たりは10時近くまで続く。ふと気が付くと観客席の僕のすぐ背後に、研究室のKさんともうひとりの男の人がいる。どなたかと思ったら、新潮社のIさんだった。雨の影響で新幹線が止まり東京から京都まで8時間かかったという。よかった。ゲラを直しといてよかった。8時間かけて京都に来た人に、「まだできてません」と言ったらいよいよ泣くだろう。
■11時過ぎに帰宅。今回は比較的、おだやかに稽古をしていたつもりだがあしたいよいよ本番かと思うとなんだか妙に興奮して寝付かれない。どうかしている。

(7:55 Jul.11 2002)


Jul.9 tue.  「生えないんだからしょうがない」

■午前七時起床。九時から一年生の「舞台基礎」である。
■Cクラス。このクラスの授業は楽しいがきょうが最後になった。
■二人で組を作り二つの言葉だけで短い劇を作る課題の発表。すごくミニマルな作品、二つの言葉をそれぞれ一度しか口にしないごく短い、しかし見る者に想像をうながす発表が面白かった。ほかにもそれぞれ工夫があった。終わってから時間があるので春秋座に行き、二年生の発表公演の仕込みを見学することにした。それから舞台上で授業。だらだら話をする。質問を受けると、「先生のひげはなぜ真ん中だけはえていないんですか」と聞かれた。生えないんだからしょうがないとしか答えようがない。
■午後、いったん家に戻り仕事。

■夕方から「舞台表現」の稽古。『おはようと、その他の伝言』。そういえば、開場アナウンスを何人かの学生で録音したがみんな関西人だった。「おはようと」の「よう」の部分にアクセントがつく。なんだか変だがしょうがない。稽古は、実習室が空いていないとのことで普通の教室だった。机をだーっとずらして場所を作る。まだなにも作っていなかったカーテンコールの練習。その場の思いつきでホワイトボードに登場順、人の動線などを書き、それに沿ってやってみる。音楽は、映像コースのY君のギターとMの歌。カーテンコールを作るといよいよ舞台がはじまるという気分だ。
■しかし去年のような稽古場全体が舞台に向けて熱を増してゆく感じがしないのは、劇場と稽古場が離れており、仕込みに何人かの学生が行ってしまうことで一体感がないからだろう。舞台監督のM君などここんところ仕込みにかかりきりでほとんど稽古ができない状態だ。システムの作りを失敗した。俳優希望の者には可能な限り出演してもらおうとダブルキャストにしたが、俳優と、スタッフをきっちりわけるべきだったのかもしれない。M君や、美術をやっている学生らの負担はそうとうだ。どれも中途半端になっていないだろうか。
■で、ほとんどの学生が仕込みの手伝いをするので、8時近くから、主要な登場人物の三人姉妹による場面を稽古することにした。つまり、ダブルキャストなので六人の学生との稽古。Aチームの三人、Bチームの三人で。それぞれひとつの場面を三回ずつ反復。ただ反復。すこし気になるところ以外、僕はほとんど口を出さない。ただただ反復させる。人が少ないこと、静かなこと、気になる余計なものがないことで、久しぶりに濃密に稽古した感じがする。

■大学を出たのは11時。タクシーで帰宅。夕方からの雨はあがっていた。 
■そういえば、新潮社の『考える人』という雑誌が届いていたが、僕の連載のページのカラー写真はメールに添付して送ったデジカメ画像だ。きれいに印刷されているので驚いた。

(7:54 Jul.10 2002)


Jul.8 mon.  「舞台に入ってしまった演劇人になにを言ってもむだ」

■新潮社の出版部文庫編集部に所属し、こんど僕の文庫の担当になったIさんからメール。マガジンハウスから出した『百年目の青空』が文庫になり、文庫用のゲラが京都に届いた。チェックして返さなければいけないのにやっていなかった。メールのタイトルがすでに尋常ではない。「新潮文庫より緊急!緊急!超緊急!」とある。内容もなにやらせっぱつまっている様子をうかがわせる。
お願いです。ゲラ戻してください。なんとか、水曜日まで小社に着くよう、お送りください。無理だったら、わたくしが京都まで受け取りにはせ参じても結構です。お願いします。わたくし、いよいよ泣きそうです。タイトルも、なんとかお願いします。本、出ません。困ります。うろたえて、日本語おかしいです、もうわたくし。お願いします。お返事だけでもいいです。メールください。お待ちしてます。
 いまにも泣き出さんばかりの人がいる。申し訳なかった。だが、「舞台に入ってしまった演劇人になにを言ってもむだ」ということが世の常である。忙しかった。時間がなかった。で、メールを受け取ってはじめて、これはかなりまずいのかなと思い送られてきたゲラの入った袋を開けた。なんてだめなんだ俺は。そして私は知ったのだ。
「新潮社の校閲は細かい」
 これはもう、『牛への道』のときに経験済みだが、文章の固有名詞などに対して細かくチェックが入っている。マガジンハウスで単行本が出たときはまったくチェックが入らなかった箇所って言うか、マガジンハウスにそもそもそんなことをする気がなかったのかもしれないが、たとえば太宰治の小説が引用してあるとちょっとした引用の間違いも見逃すまいぞと、原文のコピーが添えられ、ゲラに「?」が入っている。「原文はこうなっています」と、証拠を突きつけられた犯人のような気分だ。

 この新潮社の姿勢にはいつも驚かされる。むしろそれを楽しんでいるかのようなふしがある。「ほらあった、ほらここに」とばかりのチェックだ。まあ、そんなことはともかくゲラを直さなくてはいけないが時間がないのだ。水曜日までに送り返すのはほとんど無理だ。やっぱりIさんに京都に来てもらうしかないのだろう。申し訳ない話である。そもそも、文庫が出なくて困るのはなによりこの僕である。なんとかしなくては。

■新潮社もそうだが、筑摩書房のHさんから連日メールが届く。Hさんのメールは端的っていうかいつも短い。で、いつもお願いされる。「信じています」とまで書いてある。信じられている。ぜったいにいい原稿を書きたいのだ。だが、やはり言っておかなくてはいけないだろう。
「舞台に入ってしまった演劇人になにを言ってもむだ」
 だめである。舞台のことばかり考えている。ほかに手がつかない。忙しい。稽古場と家との往復。考えてみたら大学の研究室にもほとんど顔を出していないので、なんだか大学の人間ではなく、たまたま二年生の授業のため稽古をしに大学に通っているような毎日だ。

■舞台は仕込みがはじまった。それを見ながら「あした劇場入りは何時だっけなあ」とふだんの舞台をやるような感覚になっていたのだが、ふと、あしたも朝九時から一年生の「舞台基礎」の授業があるのを思いだした。そうか、学校で教えているのだった。ここでは演出家ではなかったのだ。教員だったのだ。あやうく一年生の授業を忘れるところだった。
■制作をやっている女の子たちが当日パンフレットを作ったと僕のチェックを受けに来た。
■気絶しそうになった。
■なにしろ、女子高の文化祭のなにかのような「かわいらしさ」である。手書きの文字。少女コミックのようなイラスト。かわいい似顔絵。全体を漂うファンシーなテイスト。『おはようと、その他の伝言』という舞台とどこがどうつながっているんだこれは。ただ、やけに熱心に細かく書いてある。その熱心さが不気味である。「だめ」と言えなくなってしまった。直せといえなくなったのだ。僕が作ったほうが早いんじゃないかと思ったがやめた。劇場に来た人はそれを見てびっくりしてください。気絶するかもしれません。

■夕方から照明のシューティング。照明班がどんな明かりを作ったかチェックをする。少しずつ直し、僕の希望を伝えながら進行したが、春秋座の退出時間が夜10時と決められているのを知らなかったのでゆっくり考えたり、照明が直しをするのに休憩を取ったりしながら進めていた。しまった。10時かよ。春秋座の舞台はでかく、美術、装置、照明など、学生が仕込みをするのはかなりな困難が伴う。春秋座はいろいろ面倒なのだった。しかも春秋座のスケジュールのこともあって四日でやる。ふつうの舞台だったら四日もあったら贅沢だがまだ経験も少ない学生はかなり無理を強いられる。そのころ、僕たちより一週間あとに公演のある三年生の授業はstudio21ですでに仕込みに入っている。
■これがおかしい。
■なにしろ、僕たちの公演が春秋座になったのは、studio21で仕込みはじまると授業ができないと言い出した教員がいたからで、じゃあなにかい、俺は仕込んじゃいけないが、三年生の授業を担当するアメリカ人だったらいいわけかい。むこうはもう音響の卓をしこんであるので僕たちの稽古ではまともに音も出せないし。やはりあれだね、日本はアメリカに戦争に負けたからしょうがないんだね。フォークナーというアメリカ南部出身の作家が日本に来たとき、「わたしは日本人の気持ちが分かる。わたしたち(南部人)もヤンキーに負けた」と言ったらしい。これ、南北戦争のことらしいんだけど。
■こういった諸々の事情で大学を辞めようかとまたちらりと考える。なにしろばかばかしい気分になってきたからだし、その件について抗議するのもそもそもばかばかしい。そんな時間があったら小説を書こう。原稿を書こう。自分のための時間を作ろう。

■5番のバスで帰った。いつもなら河原町三条で降りるが、そのひとつ手前、京阪三条のバス停で降りた。三条大橋を渡りたかったからだ。橋から夜の鴨川を見る。遠くにかすかな明かり。すこし風が吹いている。気持ちがいい。
■ところで、いつのまにか、PAPERSのTOPページは更新されていますよ。

(7:29 Jul.9 2002)


Jul.7 sun.  「体力の低下」

■去年に比べると今年は稽古のあとやけに疲れる。
■家に帰るとなにもする気がないただ寝るばかりの日々。
■去年は疲弊し結局12キロやせたが、やせてはじめて疲れているのだと知った。なにしろ体脂肪率が12ぐらいになっている。精神的なものかもしれない。ダブルキャストのせいもある。受講者が45人いてそれも影響している。ほっとくと稽古場がわーわーうるさくてしょうがない。落ち着いてものを考える時間がない。

■12時過ぎに学校に到着。12時半からBチームの通し稽古。かなりよくなってきたがまだ気になるところがある。一部の学生の演技を徹底的に直さなくてはいけない。時間がない。学生の半分は春秋座で仕込みをしている。Bチームの俳優と、休んでいる学生の代わりに代役を立てての通し稽古は半分くらいしか意味がない。理由はよく分からないが、台本を床にたたきつけている学生がいた。楽器を大事にしないミュージシャン。包丁を大事にしない板前。道具を大事にしない職人。みんな三流である。台本を大事にしない学生は三流にしかなれないのだろう。
■通しをするだけの人数がいないので場面ごとに抜きの稽古をする。
■しかしこれはもう経験からわかることだが、自分の芝居に自信のある俳優は堂々としており、演出に対して堂々と構える。あまり反論しない。プロでもそうだが、学生もそうで、よほどのことがない限り反論するのは自信のないことの反映だ。「前、先生はこうやれと言いました」と反論するが、要するに下手だからいけないのだ。下手だからやり方を変えているのだ。下手がなにを言ってやがるばかやろう。下手なくせに「わからない」と悩んでやがる。下手が悩むことほど無意味なことはない。いや、そうでもないか。悩むのはなにより大事である。

■45人の相手をするのは神経を使う。
■多いよそれにしても。
■でも、何人かかなりよくなっている。牛尾など一年のときから目を付けていたがすごくいい。っていうか僕が好きなタイプの俳優。東京の家にも来たY君もよくなった。稽古の中での発見がある。稽古の中でなにかに気づく。作業を通じて進歩する。そうした学生を見るとうれしくなる。全体的にもかなりよくなっている。かなりいいできになってきた。

■夜8時まで稽古。疲れた。僕が疲れた。限界だった。もっとやるべきことはあるはずだが。
■65番のバスで帰る。
■すぐに眠ろうとしたが、稽古のことなど考えていると眠れない。仕事をする気力もない。原稿を書かなくてはいけないのだった。家に戻って眠ろうとするが眠れないので、気晴らしにと買ったクルマ雑誌を読む。その表紙に大きな活字で次の言葉があった。
日本で買えるすべての新車の中から、この時代に活きる僕たちのライフスタイルの相棒になれる100台を選んだ。これをENGINは”サ・ホット・ワン・ハンドレッド・カーズ”と呼ぶ。しかしその顔ぶれも毎号更新されていく。新しい試みである。
 この文体はどこかで読んだ記憶がある。この文体。特に、「この時代に活きる僕たちのライフスタイルの相棒になれる」の、「僕たち」が怪しい。そうだ、70年代の『宝島』だ。「全地球カタログ」といったああいった文体によく似ている。考えてみればいまある程度の収入があってクルマを買うのは70年代に若かった世代なのだし、作っている者らもきっとそうにちがいない。

■疲れた。眠い。仕事ができない。なにもできない。

(0:12 Jul.8 2002)


Jul.6 sat.  「流しそうめんに興味はない」

■昨夜、疲れてどろどろになりながら眠ったはずなのに、眼が覚めたのは朝5時。しばらくぼんやりする。眠気が覚めず、しばらくぼーっとしたままいたが、稽古のことを考えてもう一度眠ることにする。
■土曜日。天気がいい。京都はやはり暑い。
■学校の授業はない日だが、午後から「舞台表現」、『おはようと、その他の伝言』の稽古。学校に着くとなにやらお祭りだった。七夕のせいだろうか。夕涼祭とかなんかそんな名前の祭りで、食堂のあたりでバンドが演奏していたし、流しそうめんをやっていた。まったく興味なし。それより稽古。舞台のこと、原稿のことで手一杯。
■先日はストリートミュージシャンの音楽の稽古だったが、きょうは登場人物としてストリートミュージシャンの芝居がまだ曖昧だったのを直す。それからいくつか気になるところを稽古。まだやるべきところはいくつもあるはずだが、土曜日になるととたんに出席率が悪くなる。聞くところによると、美術装置を作る「たたき」にまったく来ない学生がいるらしい。僕が知らないと思ったら大間違い。どうしたって成績に影響するこいうのは。美術の学生の何人かは一生懸命だ。キヨスクができてきた。キヨスクになってきた。あとは小道具の並べ方。新聞の、例の「竹の子積み」とかそういった細かい作業でキヨスクはキヨスクらしくなるのだった。

■何人もの人からメールをもらう。
■返事を書かねばならないが、余裕がない。しっかり返事をしたい。時間がもっとあればいいが、なにしろ、稽古ばかりかべらぼうに締め切りを過ぎている「坪内逍遥」がある。だめだ。
■去年の、扇町でやっていたワークショップの参加者で、いまは東京のテレビ番組制作会社につとめている貸川が稽古を見学に来た。休憩の合間に少し話をする。当時は、京大にいたせいか関西弁で話をしていたが、もともと東京生まれだからだろういまはすっかり東京の言葉だ。人間、環境慣らされるものだな。テレビの制作現場の話など聞く。もっと話がしたかったが稽古をしなければいけない。

■夕方から、とりあえずメンバーが揃っているAチームの通し稽古。いつもりよりできがよかった。部分的に気になるところはあるが、さらに稽古し、磨けばもっとよくなる。ほんとはもっと通しをし、それで発見があってさらによくなるはずだが時間が足りない、まあ、しょうがない。あと、わりと自由に芝居させているので統一感が若干欠けているところがあるものの、そのほうが逆に生き生きとしている部分もあって、こういうのはよしあしだ。
■何人か、稽古のあいだにすごく成長した学生がいる。これは重要。ちょっとずつ俳優らしくなってきた。とはいえ、もっとよくなるはずが、本番はもうすぐそこだ。しかも舞台の仕込みがあって稽古をする時間がもう少ない。むつかしい。
■夜10時近くなって稽古を終える。
■きょうは3番のバスで河原町三条まで帰る。家までの途中、コンビニのような小さな本屋のような奇妙な店で雑誌を買う。気晴らし。読もうと思ったら激しい睡魔。寝る。ただただ寝る。

(4:51 Jul.7 2002)


Jul.5 fri.  「一日中はたらく」

■また午前中は一年生の「舞台基礎」の授業。早起きである。一日、からだがもつか不安だ。午後、学校の近くの「猫町」というカフェで食事。感じのいい店。少しほっとした時間。本を読む。気が付くともう1時過ぎ。「舞台表現」の授業だ。行かなければいけない。稽古しなければいけない。

■『おはようと、その他の伝言』は自転車が重要な小道具である。
■大学内にある歌舞伎を上演するために作られた春秋座の舞台は板である。まあ、劇場はどこでもたいてい板だが、歌舞伎だけに板はかなり重要。傷を付けてはいけないので稽古で自転車を走らせることができなかった。そこで自転車が走る動線にリノリウムを仮に貼ることにした。なんだ、最初からこうすればよかったんじゃないか。広い春秋座の舞台を自転車が疾走する。見ていると気持ちがいい。
■いくつか気になるところ、まだ不安定な場面を稽古する。だいぶよくなった。少しずつの積み上げだが、去年に比べるとなかり進行が早い気がする。学生の出席率が高いのと、オリジナルの戯曲を大幅にカットし無駄を省いた『おはようと、その他の伝言』がコンパクトにまとまっているからではないか。ただ、台詞が錯綜する場面、と書いてもなんのことだかわからないと思うが、舞台上のいくつかの場所でいくつもの会話が、重なるのではなく、重ならず、しかし、錯綜し、いわば音楽のようにリズムを刻んでたたみこむのがどうもうまくいかない。稽古。稽古。ひたすら稽古。
■Bチームの通しを春秋座の舞台でやってみる。距離の感覚がうまくつかめず、はるか遠くからやってくる人物が台詞のタイミングにまにあわないことしばしば。上演時間が少し延びる。タイミングを合わせるのはむつかしい。それがずれると、シャープにならず、どこかとろんとした印象。気がつくともう午後5時である。重要なキヨスクなどの装置を撤収。

■夕食を取って、6時からまた稽古。美術班ががんばってキヨスクを作っている。「KIOSK」の文字がある看板の背後に蛍光灯を入れ、電気をつけると見事なキヨスクになっていた。
■夜は、Aチームの通し。かなりできがよかった。部分的に気になるところはあるがそれをまた稽古で磨いてゆく。もっとよくなる。もっとよくしなくてはいけない。で、疲れた。学生はまだ稽古する気でいたかもしれないが、僕がもたなかった。だめである。少し早めに稽古を終える。10時少し前になっていた。タイミングが悪くてバス停でかなり待つ。204番のバス。府庁前というバス停で降りる。西洞院通りをまっすぐ御池に向かって下る。夜の京都の小さな通り。夏の夜の京都を歩く。まだ町屋がいくつものこっている。静かだった。とてもいい雰囲気だ。
■しかし疲れた。肩から胸に掛けて痛い。部屋に着いたらなにもする気になれずすぐに寝た。金曜日はハードである。しかし本番まであと5日。あっというまだ。最後まで粘る。いい作品にしたい。いい作品にすることが学生にとっていちばんいいことだと思う。

(12:53 Jul.5 2002)


Jul.4 thurs.  「少しずつ進む稽古」

■京都は暑い。いよいよ夏。

■比較的よく眠った。というのもきのう「創造する伝統」の打ち上げが深夜まであり家に戻ったらすぐ眠ったからだ。まだ眠気が覚めぬまま、外へ。65番のバスで学校へ。バス停からそのまま「舞台表現の授業」、つまり、11日、12日、13日に公演のある、『おはようと、その他の伝言』の稽古がある春秋座へ直行。今年になってから朝研究室に寄ることがまったくなく、というか、考えてみたら、稽古場と家のコンピュータの往復で、研究室にすら顔を出していないというていたらく。
■それにしても原稿が書けないのであった。
■それでも稽古は着実に前進している。学生たちも最初に比べたらずっとよくなってきた。作品も短く台詞を刈り込んだせいでコンパクトにまとまった。ただ「慣れ」のようなものはあって、「せりふ」が生きた言葉にならずつるつるっと出てきてしまう者もいて、「台詞も覚えたし、芝居も慣れてきたしこれでいいや」という新鮮みを失う傾向も否めない。とくにある程度演技の経験がある者にその傾向は多い。稽古場で変化すること、稽古から自分の可能性を発見する姿勢が感じられないのは残念。これでいいと思ったらそれほどつまらないことはない。ただ何人かはかなり進歩しており同時に発見もしている。それを見ているのが楽しい。

■午後、学校を出て、204番のバスで府庁前というバス停まで乗る。考えてみたら府庁前から家まで歩くと直線だときょう気がついたのだった。ただ暑かった。日差しが強い。
■家に戻ってこのノートを更新。PAPERSのTOPページを更新して、ワークショップのこと、来年の公演のこと、そして「舞台表現」の発表公演のことなど宣伝したいことはいろいろあるのに、その時間がない。坪内逍遥関係の本を読む。本屋に行きたいが、多少時間があっても、河原町まで出る気力がない。古本屋もまわりたいが。で、少し睡眠。夕方眼を覚まし、また学校へ。
■稽古。
■Bチームから通し。通しを終えてだめ出しをしてから、こんどはAチームの通し。一気に両チームの通しをする。かなり効率のいい稽古だった。だいぶ形になってきた。気になってどうしようもないというか、まったくだめだという箇所が少なくなってきた。でもまだよくなる。もっとよくする。ぜったいいい作品にする。最後まで気を抜かない。こんなもんでいいと思ったらおしまいだ。なにごとも終わりはない。

■稽古を終えたのはやはり夜10時班。5番のバスで東山まで行って、そこから東西線という地下鉄び乗り換え烏丸御池まで。コンビニで貧しい食事を買い眠る前に少し食べる。本を少し読み睡眠。またあした午前中から授業。午後も授業。夜は稽古。一日切れ目なく仕事。本が読めない。読みたい本は、坪内逍遥ばかりではなくまだ無数にあるというのに。

(7:23 Jul.4 2002)


Jul.3 wed.  「しりあがりさん」

■朝まで坪内逍遥関連の調べもの、それからしりあがり寿さんの作品を読でんいるうち九時になったので眠ることにした。
■昼に眼が覚め、三時間の睡眠で、三条烏丸にある新風館へ。東京から筑摩書房の打越さんと、ガルヴィのNさんが来て打ち合わせをする。食事をしながら打越さんと単行本の話。そしてガルヴィのNさんがとんでもないことを言い出した。京都からTREKの日本支社のある神戸まで自転車で行くという計画。
■というのも、ガルヴィの連載があと二回で終わることになり、TREKを今後も貸していただこうとお願いに行く。それをガルヴィの巻頭で特集するという企画だ。京都・神戸間、60キロ。真夏に決行。とんでもないことを言い出したよ、この人は。小説と戯曲が書く時間を作りたいが、まあ、やることにした。しかし自転車の連載はどこかで続けたい。誰かこれを読んでいる編集者で連載させてもいいという人はいないだろうか。いま自転車はちょっとしたブームである。自転車を取り上げない雑誌はだめだ。というより、自転車に関して取り上げない雑誌はいまや雑誌ですらない。

■三人で大学へ。「創造する伝統」という授業でしりあがり寿さんと話をする。
■久しぶりに会ったしりあがりさんは、短パンだった。春秋座という歌舞伎用に作られた劇場で公開された授業がどんな様子だったかは寝屋川のYさんの日記で読んでいただきたい。いろいろ話ができて面白かった。で、しりあがりさんも出演している『おはようと、その他の伝言』のビデオを巨大スクリーンに映し出してみんなで見たが、しりあがりさんがすごい芝居をしている。
■終わってから、しりあがりさんや、映像コースの教員の天野さん、学生、寝屋川のYさん、劇団ぽんぽん大将のH君らと飲み屋へ。しりあがりさんはホテルで仕事をすると途中で帰ったが、僕らは深夜12時まで店にいた。飲めない僕もいた。仕事をするべきだったと少し後悔したが、たまには学生らと話しをして気晴らしになった。
■家に戻ってすぐ寝る。あしたはまた朝から授業。原稿が書けない。

(13:09 Jul.4 2002)


Jul.2 tue.  「府立図書館」

■午前中、一年生の「舞台基礎」。Cクラス。あれって思っているまにこのクラスの授業も来週の一回になってしまった。やけに短く感じる。もっとやりたかったな。

■授業を終えて、5番のバスに乗ると動物園前で降りた。府立図書館に行くためだ。開架図書が少なくやけに棚がないのでどうなっているのかと思ったがコンピュータで検索して図書を請求するシステムだった。かなり蔵書があるらしい。そりゃあそうか、府立だしな。坪内逍遥に関するものを五冊ほど借りる。一回五冊しか借りられない。しかし、その五冊をバッグに詰めて背負い、地下鉄の駅まで歩くと肩がこった。
■府立図書館の隣は近代美術館で、カンディンスキー展をやっていた。見ようかと足を止めたが、仕事を優先する。図書館があり、美術館があり、動物園や疎水があってこのあたりはとてもいい環境だが、平安神宮の巨大な鳥居だけはなんとかならないものなのか。夜見るとすごく怖い。三条まで歩いて、地下鉄の東山駅から烏丸御池まで移動。いったん部屋に戻って資料を読む。
■あした大学で「創造する伝統」という授業があり、しりあがり寿さんと話をすることになってる。そのしりあがりさんの最近の作品も読んでおかなければと思いつつ時間がない。

■夕方からまた学校で「舞台表現」、『おはようと、その他の伝言』の稽古。きのうやったBチームの通しで気になった部分を抜きで稽古する。さらに同じ箇所をAチームもやってみる。八時からきょうはAチームの通し。やけにミスが多い。何人かすごくよくなってきた者もいるし、自分たちで考え工夫し、少しずつ前進。もっとよくなるはずだ。授業における発表は自分の作品を見せるというより、学生が作品を通じてどう変化してゆくか、発見があるかだと思うが、そのためにたいせつなのは結局、いい作品にすることではないか。そうでないと意味がない。細かいことの積み重ね。可能な限り僕も力になりたいが、原稿をはじめ、やることがいろいろあるのと、体力が持たないのが不安だ。特に体力。図書館で借りた五冊の本だけで肩がひどく凝って疲れた。だめである。
■10時半に稽古を終える。バスで帰る。五番のバスで烏丸四条まで行き、室町通りを歩いた。そろそろ京都の町は祇園祭の準備。夏である。いい季節になった。

(7:51 Jul.2 2002)


Jul.1 mon.  「遅刻した。原稿は書けない」

■七月である。京都は暑い。
■原稿が進まぬ。資料が足りない。結局、書けなかった。
■少し眠る。ほんの少し眠るつもりが、眼が覚めたら稽古のはじまる時間だった。遅刻して稽古場に。部分的に稽古をしたあと、「通し」をやる。Bチーム。だいぶ形は整った。まだ細かいところが気になるし、やはり「できるようになる」のと、「表現」はちがう。ようやくできるようになったところ。まだ台詞があいまいなところ、台詞を何行か飛ばすところもある。安定感がない。ただただ反復しからだになじませなくてはいけない。だめ出しを終えると10時半。5番のバスで帰る。三条河原町でバスを降りて歩く。河原町から家まで何度歩いたかもう忘れた。
■家に帰って食事。もう眠らなくてはいけない。あしたは朝から授業だ。

(0:12 Jul.2 2002)