Jul.26 fri. 「東京へ」 |
Jul.25 thurs. 「青葉とみつば」 |
引用した文は、なにかもやもやしている正治が、その状態をあらわす言葉が思いつかない。銀行員の渡辺が「メランコリーですか?」と聞き、「英語はだめだよ」と返し、「じゃあ、憂鬱ですか」と言う台詞に答える台詞です。そこ(P.8)まで「憂鬱」ということばは出てきません。その状態をあらわすことばを探す最中、正治を初め、加藤やミチが言ったことばを列挙すると、なんでしょうと言われても困るが、僕も記憶になかった。稽古中に出てきて付け足したんだろう。稽古中、せりふを変更したり、付け足したりはよくあることだが上演用のプリントした台本にしか記録は残らない。よく保存してあったな、小浜。コンピュータにデータがあるからと僕は上演台本を捨ててしまったかもしれない。しかも稽古中、だめをメモしてゆくのでしまいにわけがわからなくなり、新しい台本を用意してもらうことはしょっちゅうだ。ひとつの芝居で10冊ぐらい使う。芝居作り、その手つきの記録になるがおそらく散逸してしまっただろう。ま、過去は過去だ。
「陰気」「頭痛」「胸糞が悪い」「むしゃくしゃする」「弱気」「苦労」
などが書いてあります。で、次のことばは、最初の脚本には書いてなく、稽古の段階で出てきたものらしく、僕が持ってる脚本には鉛筆でメモ書きのように記してあるものです。
「てんこしゃんこする」
なんでしょう、これは。
「これはみなさんへのさよならメールです」これをT君の日記で目にしたとき、正直、どきっとした。むろん「自殺」を想起したからだ。そうではなかった。関係をリセットしたいという趣旨のメールで、「A君」という人が、自分もみんなのことを忘れ、そして「願わくば、みなさんの頭からも過去にAという者がいた、という事実を、記憶を、消し去ってもらえたらありがたい」と書いてあったという。「自殺」を想起しどきっとしたが、さらにこうした心情に至ったいきさつを想像すると自殺とは異なる人の意識の深い部分を感じ、より強い印象が残った。なにがあったかT君の日記を読む第三者の僕には想像することしかできないが、ここで気になるのは、それを通告するのに、メーラーのBCCを使って複数の人に一括して送ったという方法だ。
Jul.24 wed. 「小浜からのメール」 |
なんか、このへんがな、どうもすっきりしなくて……。ああ、そうだな、憂鬱ってやつだなこれは。参ったね。憂鬱じゃあな、しょうがないよ。たしかこんなふうだった。「憂鬱」って言葉を思いつくまでもっと時間がかかったような気がするし、そもそも、正治は「憂鬱」という言葉を知らなかったのではなかったか。なにかもやもやしているが、その状態をあらわす言葉が思いつかない。ちょうど家に来ていた銀行員から、「メランコリーですか?」と教えられる。正治は驚いて言う。
英語はだめだよ。そんな戯曲だったような気がする。で、ちなみにきのう引用しなかったが、最近の翻訳のひとつ松岡和子さんのそれはこうなっていた。
まったく、どうしてこう気が滅入るのかな。このアントーニオは少し気弱である。語尾の「かな」は、小田島訳の「おれは憂鬱なんだ」とはかなりちがう。それはともかく、小浜のメールにはもっと驚くべきことが書いてあった。『ヒネミの商人』の初演の話である。
我ながら厭になる、君たちだって付き合いきれないだろう。
ちなみに、ジャスト9年前の93年7月24日が初日でした。やっぱり、一番、刺激的で思い入れのある作品です。ああ、そうだったか。知らなかった。突然思いだして書いたのが7月24日の朝。で、あれから九年。まる九年。なにかに引き寄せられるようにして書いたのかもしれない。やっぱり暑い日だったと記憶する。恵比寿にあるフリースペースのような場所で公演したのだった。月日のめぐりは早い。人は変わる。小浜はいまダンサー。僕は大学で教えている。考えてみれば10年前のいまごろは舞台を休止しなにもしていなかったころだ。再開は九十二年の暮れ。人に誘われて舞台をやったのが『ヒネミ』の初演。これで舞台はおしまいにしあとは小説を書こうと思っていた。なんのまちがいか岸田戯曲賞を受賞。受賞した限りは舞台を続けなければと思って、93年、『ヒネミの商人』を上演。それから9年。また休止し、来年あらためて舞台を再開する。人生いろいろだ。
Jul.23 tue. 「くさくさするやけっぱちな人」 |
まったく、どういうわけだか、おれは憂鬱なんだ、面白いなあ。いきなりなにを言い出すかと思えば「おれは憂鬱なんだ」とくる。「おかげできみたちだっていやだろう」がさらにすごい。なんだか横柄である。憂鬱になっている人が乱暴に「憂鬱なんだ」と言い出すことはないじゃないか。では、岩波文庫版の中野好夫訳ではどうか。
いやになる、おかげできみたちだっていやだろう。
なぜこう気がめいるのか、まったくわからん。単刀直入である。横柄なところはないので、最後には「君らもそうだというのか?」という疑問形でまとめる。しかし言われたほうは困る。「同意を求められてもさあ」と応えるしかないだろう。と、ここまで来るとやはり、新潮文庫版の福田恆存の訳も引用しないではいられない。
実にくさくさする。君らもそうだというのか?
まったく訳がわからない、どうしてこうも気がめいるのか。われながら厭になる。なるほど、きみたちだって迷惑だろう。福田恆存といえば、頑なに旧字を使っていたことで有名だが新潮文庫版は平易な新字だ。おかしいな。それはそれとして、ここにはわりと紳士がいる。「なるほど、きみたちだって迷惑だろう」と紳士的態度で、小田島訳の「おかげできみたちだっていやだろう」とはやや趣が異なる。「おかげで」と、「なるほど」は受け取る側のニュアンスが少しちがう。まあ、シェークスピアの原文の英語がどうなっているのか僕はよく知らないが、あきらかに現代の、いや近代の英語ですらなかったはずだから、訳すほうだって解釈に苦心したはずだ。で、最後に、坪内逍遥訳を見てみる。
實際、何故斯う氣が鬱ぐか、解らない。君たちはそれが爲に鬱々しッちまふといふが、自分でも鬱々する。ほんとは旧字だが、「鬱々」は「くさくさ」と読む。ここではやはり、「しッちまふといふが」だし、「くさくさ」だ。江戸弁というか、明治の人たちのある限定された地域における口語なのだと思う。小田島訳のアントーニオは横柄だが、逍遥訳のアントーニオはどこかやけっぱちだ。こうした言葉の印象はそう想像させる。「おかげで」と「なるほど」に相当するのは、「それが爲」だろう。突然「文語」が現れるのも奇妙だが、どちらかといえば「おかげで」に近い。こうして比べると、「なるほど」もまた同じような意味合いで使ってもおかしくないのもわかる。で、本稿のまとめとして、『ヴェニスの商人』を下敷きにして書いた僕の、『ヒネミの商人』において印刷所の主人が語り出す冒頭の言葉、「憂鬱」「くさくさ」に関する言葉を戯曲から抜き出してみようと思ったが、京都のコンピュータのどこにもあの戯曲がないのだった。どこにやっちまったんだ。うーん、東京にあるのだろうか。まずいな。
Jul.22 mon. 「異常な暑さ」 |
Jul.21 sun. 「バカが意見を言うようになった」 |
私が持ち出そうとしているのは、斉藤美奈子の『妊娠小説』のことだ。この書き下ろし長編文藝評論は、一九九四年に筑摩書房から刊行され、インテリ層の間では話題を呼んだ。着眼点が斬新であったのみならず、その攻撃的で、軽薄なようで、嘲笑を多分に含み、しかし根においてフェミニズムの立場をとる「フリッパントな文体」は、既に存在していた伏流を一挙に表面化させたものだろうが、やはり若い書き手たちに影響を与えたであろうことは否めない。そして、小谷野さんは斉藤美奈子について、「十分な教養を持ち、その文体にも関わらず、最低限のマナーが守れることは、見て取れた」とつづけるが、問題はそれを模倣する者らが現れた点にあることを指摘する。つまり、軽薄そうでもあり、攻撃的であり、なおかつ嘲笑的な斉藤美奈子の文体を、「十分な教養を持ち、その文体にも関わらず、最低限のマナーが守れる」のとは正反対の者らが、表面的に文体をまねる最悪な事態が進行しているということだ。これはナンシー関にも言えることではないか。あれもやはり表面的に模倣すればとんでもないことになる。「斉藤本人ならば守れる最低限のルールが守れない者に斉藤文体を与えることは、なんとかに刃物なのである」の、「斉藤」を「ナンシー」に置き換えても当てはまる。そして小谷野さんは書く。
現在の「大衆社会」が、それまでのものと異なるのは、以前は「バカが大学へ入っている」程度で済んでいたものが、「バカが意見を言うようになった」点である。もちろん、呉智英の『バカにつける薬』(双葉文庫)にあるように、昔だって、意見を言うバカはいた。けれど、呉が指摘しているのは、当時の「進歩的知識人」に共通する矛盾であり、彼ら、たとえば中野好夫が本質においてバカだったとはとても思えない。この「フォーラム」は「掲示板」と置き換えてもいいのだろうが、言われてみて気がつくのはたしかにそうした場所での発言には「引用」が少なく、自分がよく引用するから書くわけではないが、書き写すのが面倒だから引用しないのだと思っていた。そうではない。つまり「読んでいないから引用できない」という事態だったのだな、おそらく。
ここで私が言っているのはインターネット上の、大小の「フォーラム」の「過去ログ」とかいうやつである。これを覗くと、よくもこんなものを世間に公開して恥ずかしくないものだというようなものがわんさとある。以前、売買春の是非をめぐる長い議論を見たことがあるが(これも前掲拙著--『恋愛の超克』角川書店 引用者註--に書いた)、驚かされたのは、延々と続く議論を行っている者たちの中に、その議論に関係する書物を読んでいる形跡のある者が一人もいなかったことだ。しかし「フォーラム」の世界ではこの種のことは珍しくない。ただし、良質なサイトもあることはある。だが、彼らはただ自分自身の狭い知見と直感だけで議論に参加し、相手が何か言えばただちに返答するから、ほんらいならそこで読んでおくべき書物がある、と、覗いている私には思われる場所でも、誰一人そのようなものを参照することも、あるいは、参照するよう勧めることもなく、不毛な議論が続くのである。
私はバカを憎んでいるわけではない。しかし、バカが大学へ、いわんや大学院へ来るのは困る。分相応に職業学校に行っているなら、私は「バカ」などと言わないだろう。寿司の修業をしている若者が米国大統領の名前を知らなくてもいいのである(ただし参政権のある者はまずい。これはあとで論じる)。村上龍の名前を知らない学生が文学部へ来たりするから「バカ」と言いたくなるのである。ついでに書くと、マガジンハウスから出した『百年目の青空』は、こんど文庫化され、『よくわからないねじ』というタイトルで刊行されるが、解説を小谷野さんにお願いした。とてもいい文章を書いてくださった。励まされた。原稿を編集者から転送していただいたのは、ちょうど舞台がはじまる直前で、疲れがかなりたまった時期だったが小谷野さんの文章に救われたのだ。あと、斉藤美奈子さんの『文章読本さん江』(筑摩書房)はかなり面白いらしい。らしいというのは、まだ読んでいないからだが、読んだ人と電話で話したところ、ところどころ引用して読み聞かせてくれた。かなりすごい。笑える。すぐに読みたいが本が東京の家にあるのだ。こっちで買うと二冊になってしまって不合理なんだ。
Jul.20 sat. 「倫理と便利」 |
Jul.19 fri. 「不眠症だった」 |
15日(月)
坪内逍遥の原稿を書くため資料を読み少し書く。夕方、外に出て祇園祭の京都を歩く。
16日(火)
原稿を書いていた。夜、また外へ。祇園祭もいよいよ宵山。すごい人手。40万人以上いたらしい。長刀鉾を四条に観に行くが通りに人がぎっしり。そのまま河原町まで歩いたが途中で気がついたのは長刀鉾の先から河原町まで四条を歩くことにはなにも意味がないということだ。ただただ無意味な行進である。河原町を上がってカフェ・オパールまで行き休憩。で、あしたスタッフワークの授業あるからと眠ろうとしたがまったく眠れない。疲れたはずなのに眠れない。
17日(水)
京都は大雨。一睡もせず、朝9時からスタッフワークの授業へ。ぼんやりしたままスタッフワークの授業と僕の舞台表現の授業を合同で進行。ぼんやりしたままだ。太田さんの演出に関する言葉がひっかかり、そのことをずっと考えていた。部屋に戻って、いくらなんでも眠れるだろうと思っていたが眠れない。意識が朦朧とする。いったいなにが起こっているのかよくわからない。なにもできぬままぼーっとしたまま起きている。
18日(木)
いくらなんでももう眠れるだろうと思って、ベッドにもぐりこむ。そこで三年生の発表公演を観た。2時間ほどしてベッドから出、客観的には覚醒した状態であるはずなのに眠っている時間と現実との境界があいまいなままタバコを吸うと面白い作品だったといま観ていた舞台を振り返る。しばらく現実だと疑わなかった。時間が来たので学校へ行く。外はどしゃぶりの雨。午後5時から学科会議。エアコンが強くて寒いからと窓を開けた教員がいた。窓の外から聞こえる雨音。ノイズが音楽に聞こえてしょうがない。会議中、朦朧とした意識で不意に、ぜったい今年限りで学校を辞めようと決意する。ところが学科案内のパンフレットがほぼ完成し入稿まぎわだと知った。僕の名前もある。言い出せなくなった。家に戻ったがやはり眠れない。原稿を書く。小さなノイズが音楽に聞こえる状態が続く。
Jul.14 sun. 「舞台のあと演劇人になにを言ってもむだ」 |
■舞台が終わった翌日はたいてい茫然としている。ぼーっとしたまま過ごし、舞台のことを考える。あとになって気がつくこといくつか。大変だったがやっぱりやってよかった。学生ともっと話をするべきだったとはいうものの、教育者が舞台を演出しているのではなく、演出するのを仕事としている人間が大学で教えているので、教育技術は未熟である。どっちがいいんだかわからない。
■そして次の舞台への意欲がわく。
■仕事は続く。原稿を書かなくてはいけない。坪内逍遥はもちろんだが、岩崎書店の絵本があり、「一冊の本」「ガルヴィ」の連載が締め切りだとメールがあったし、筑摩書房から出す単行本の校正もしなくてはいけない。だが舞台の直後、茫然としてしまうのが演劇人だ。しかも外は祇園祭だし。
(23:12 Jul.14 2002)
Jul.13 sat. 「楽日、打ち上げ、京都の夏」 |
Jul.12 fri. 「省察と執筆と、生のために必要な時間」 |
ミシェル・アンリ追悼 (ロジェ=ポル・ドロワ、ルモンド2002年7月7日)全文ではなく冒頭の部分を引用。「メディアから離れて暮らし」とか、「省察と執筆と、生のために必要な時間を確保」という生き方にあこがれる。そんなふうにはできないな。ぜったいできない、俺には。悲しい。
哲学者のミシェル・アンリが南仏のアルビで7月3日に亡くなった。1922年生まれのアンリは、20世紀後半のもっとも重要なフランスの哲学者の一人であることに間違いない。彼は謙虚で、つねに孤独であることを望み、現代の風習となったセンセーションや駆け引きを拒み、独創的な思想を構築しながらも、大衆的な読者に自分を開こうとしなかった。パリで哲学者としての経歴を確立するのではなく、モンペリエのポール・ヴァレリー大学の哲学教授のポストを選び、メディアから離れて暮らし、省察と執筆と、生のために必要な時間を確保していた。
Jul.11 thurs. 「初日」 |
Jul.10 wed. 「勝ちましたと牛尾からメール」 |
Jul.9 tue. 「生えないんだからしょうがない」 |
Jul.8 mon. 「舞台に入ってしまった演劇人になにを言ってもむだ」 |
お願いです。ゲラ戻してください。なんとか、水曜日まで小社に着くよう、お送りください。無理だったら、わたくしが京都まで受け取りにはせ参じても結構です。お願いします。わたくし、いよいよ泣きそうです。タイトルも、なんとかお願いします。本、出ません。困ります。うろたえて、日本語おかしいです、もうわたくし。お願いします。お返事だけでもいいです。メールください。お待ちしてます。いまにも泣き出さんばかりの人がいる。申し訳なかった。だが、「舞台に入ってしまった演劇人になにを言ってもむだ」ということが世の常である。忙しかった。時間がなかった。で、メールを受け取ってはじめて、これはかなりまずいのかなと思い送られてきたゲラの入った袋を開けた。なんてだめなんだ俺は。そして私は知ったのだ。
「新潮社の校閲は細かい」これはもう、『牛への道』のときに経験済みだが、文章の固有名詞などに対して細かくチェックが入っている。マガジンハウスで単行本が出たときはまったくチェックが入らなかった箇所って言うか、マガジンハウスにそもそもそんなことをする気がなかったのかもしれないが、たとえば太宰治の小説が引用してあるとちょっとした引用の間違いも見逃すまいぞと、原文のコピーが添えられ、ゲラに「?」が入っている。「原文はこうなっています」と、証拠を突きつけられた犯人のような気分だ。
「舞台に入ってしまった演劇人になにを言ってもむだ」だめである。舞台のことばかり考えている。ほかに手がつかない。忙しい。稽古場と家との往復。考えてみたら大学の研究室にもほとんど顔を出していないので、なんだか大学の人間ではなく、たまたま二年生の授業のため稽古をしに大学に通っているような毎日だ。
Jul.7 sun. 「体力の低下」 |
日本で買えるすべての新車の中から、この時代に活きる僕たちのライフスタイルの相棒になれる100台を選んだ。これをENGINは”サ・ホット・ワン・ハンドレッド・カーズ”と呼ぶ。しかしその顔ぶれも毎号更新されていく。新しい試みである。この文体はどこかで読んだ記憶がある。この文体。特に、「この時代に活きる僕たちのライフスタイルの相棒になれる」の、「僕たち」が怪しい。そうだ、70年代の『宝島』だ。「全地球カタログ」といったああいった文体によく似ている。考えてみればいまある程度の収入があってクルマを買うのは70年代に若かった世代なのだし、作っている者らもきっとそうにちがいない。
Jul.6 sat. 「流しそうめんに興味はない」 |
Jul.5 fri. 「一日中はたらく」 |
Jul.4 thurs. 「少しずつ進む稽古」 |
Jul.3 wed. 「しりあがりさん」 |
Jul.2 tue. 「府立図書館」 |
Jul.1 mon. 「遅刻した。原稿は書けない」 |