■学生たちが作っている集団、「dots」の公演を、大学内の劇場、studio21で観た。*参照
■ダンスと映像作品を組み合わせたパフォーマンスが中心の集団だが、今回は観る環境も変えてインスタレーションの要素もある。天井から吊ったスピーカーのほかに客席にイヤフォンが設置されそこからも音楽が流れる。それをstudio21の一画に設けられた壁で仕切られた空間のなかで観る。席は壁沿いに並びぐるっと回廊状になっている。演出しているのは三年生になったばかりのK君だが、はじめてK君が演出した舞台を観たときはやりたいことが散乱し整理しきれていない感じを受けたし、パフォーマーたちも未熟で、未熟な身体のまま既成のダンスをなぞっている印象だった。全体的にシンプルになってそのぶん観る側に想像する余地を与えてくれる。パフォーマーも成長している。で、これまで踊ったのを見たことなかった三年生のYという小柄な女の子が僕には面白かった。ニブロールの矢内原さんに推薦したいとすら思った。
■空間がそういう環境だから、むろん観客数も限定。50人くらいか。いいよなあと思ったのだ。劇場を借り、これだけの機材を使ったらどれくらい予算が必要か、で観客は一回につきどれだけ入れなきゃいけないかつい考えてしまう。貧乏性だ。でも学生たちがこれだけの舞台を作っている。刺激される。
■学校から帰るのにきょうは5番のバスに乗った。京都駅行きのバス。いつも混んでいるのでめったに乗らないが、三条河原町の本屋に行きたかったので乗る。やっぱり混んでいた。また数冊、本を買う。土曜日の夕方は京都も人が多い。三条を烏丸通りに向かって歩く。気持ちのいい夕暮れ。
■このノートでスタイルシートを使っているが、Netscapeの4.xxのバージョンには全然効果がないときのうわかった。それでNetscape4.xx用にソースを書き換える。ソースが複雑に、煩雑に、要するに重くなっている。そこまで気を遣う必要があるのかよくわからないが、まあ、それで読みに来る人もいないとは限らず、ましてテキストだけを表示するブラウザの人もいるかもしれない。「テキストが読みやすいサイト」への道は困難である。
■ワンギリのことをこのあいだ書いたが、以前、ワークショップに来ていた人からメールがありやはり「06」地域からのワンギリがあったという。いま大阪でなにが起こっているのだろう。例の、出会い系サイトのサクラのバイトをしている人からメールがあり経営者とおぼしき連中がやってきたというが関西人だったらしい。しかも昼間はWebを作る会社だという。闇の世界の奥は深く、タイガースは好調。いま「06」地域が怪しい。
■でも、ワンギリもなければないでさみしいものである。
(23:37 Apr.13 2002)
■一日中、学校にいた。朝から授業。午後も授業。夕方から会議。
■昨夜は深夜0時に眠り、7時間は眠れるだろうと思っていたら4時過ぎに目が覚めてしまった。こういうときつい「変な時間に目が覚めた」と口にしてしまうが、考えてみると「変な時間」とはいったいなにかだ。午後8時ぐらいに目が覚めて「変な時間に目が覚めた」と言うことはめったにない。いったい何時に床につくと午後8時が「変な時間」になるのか。
■もう一度眠ろうとベッドにもぐりこむが、いったん目が覚めたらだめだ。眠れない。仕方がなく仕事をする。仕方がないってことはないのだが仕事。本を読む。それから支度をして家を出た。烏丸御池のバス停から65番のバスに乗った。
■七月に予定している二年生中心の授業の発表公演は、去年使ったstudio21ではなく、歌舞伎を上演するのに作られた「春秋座」で公演することになった。パブリックシアターで公演した『おはようとその他の伝言』をやろうと思っているので、studio21をどうやって使ったら大きな空間になるか悩んでいた。春秋座の大きな舞台を使えるのはうれしい。
■ただ客席の数が多いので、おそらくぱらぱらとしか客が来ていない印象になるだろう。それがちょっとさみしい。去年は客がぎっしりという状況で上演でき出ている者らも幸福だった。
■夜は少し冷える。帰りもまた65番のバスに乗った。
(3:15 Apr.13 2002)
■朝九時から二年生中心の授業。
■去年は二年生だけ受講できたが今年は三年生もいる。七月に発表のある授業だ。三年生ばかりではなく、映像コースの学生もいて、全部で38名。去年25人でも多いと思っていたが38名はただごとならず、どうやって発表にこぎつけるか悩む。ふたつのグループにわけダブルキャストということになるだろうか。
■それはそれでまた大変なことである。
■自己紹介のかわりに、よく知らない相手と二人組なり、相手を取材して紹介する。38人はやはり多い。紹介だけでも時間がかかる。実をいうとこの課題は「紹介している人」のことを見ている。相手との会話のなかで相手をどう知ろうとするか、相手になにを質問するか、どんなふうに紹介するか。それを見ている。紹介者が面白いと、紹介されたその人も面白く感じる。そもそも、質問する内容に、質問者が姿を見せるので、音楽に興味があれば相手がどんな音楽に興味があるか質問する。かつて考えられなかったことだが、最近の私は、人がどんなクルマに乗っているかが気になり、なに乗ってるんですかとつい質問したくなるのはいけない。興味がないことを人は質問しないのである。
■紹介が全員終わってからアンケートをとる。この授業で、というか発表に向けて自分はなにをしたいか。もちろん「俳優」が多かったが、「照明」もいるし「音響」もいる。「演出助手」だったらいいが、なかには「演出」という者もいた。おまえが演出するんだったら、俺はいったいなにをすればいいんだ。
■午後、研究室でWebの更新作業などする。夕方から学科会議。会議中は禁煙。禁煙と指定されると煙草を吸わなくても平気だ。たとえば映画館がそうだ。映画を見ているときなど煙草が吸えないことが苦にならない。吸っていい場所ではこれでもかと吸う。ただ最近本数を減らしている。徐々にやめる方向にむかっている。月4万円ぐらいは吸っている煙草代で、駐車場が借りられると思ったからだ。
■すべてはクルマである。
■一日中、学校にいた。この木曜日、金曜日はけっこうきつい。今年度最初の授業。まずまずのスタートである。
(23:19 Apr.11 2002)
■バスに乗って船岡山公園に行った。
ほんとうの目的は
船岡温泉だったが地図も持たずなんとなく歩いた。「船岡山公園」というバス停で降りてまず船岡山の頂上を目指す。近くに信長が祀られた建勲神社があるがそっちは登らず、というか京都の神社を全部まわっていたら百年ぐらいかかるだろう。そういう小説を書こうかな。「百年の神社」。公園を上がってゆく。頂上で休んだ。天気がよかった。エスクァイアの京都特集「京都だけが知っている。」によれば市内を見渡せるはずだが、見渡せない。見渡すとしたら京都タワーだろう。京都タワーは怖い。展望台の一部に鉄製の通路があってそれがすのこ状になっている。つまり、地上からどれほどの高さが知らないが足下にはるか果ての地上が見える。これが怖い。あとわけのわからない展示とかものすごくだめな人形とかあって怖さはさらに増す。
山を下って、目的の船岡温泉を探した。だいたいあっちだろうと歩き出す。西陣の細い路地に入ってゆくと船岡温泉が見つかった。もう開店している時間らしく、洗面器とタオルを手にした老人が入ってゆく。そうか、温泉とはいっても銭湯だ。タオルがなければまずいじゃないか。番台で買えばいいかもしれないが、帰りにそれをどうするかだ。デジカメで撮影だけしてまた歩く。
■西陣の細い路地を歩いているうち道に迷う。どこをどう歩いているのかよくわからなくなっている。それで中上健次の小説、『天の歌』の冒頭を思いだした。
通りから小路へ入る度に、春美は耳を澄ました。夕暮れ時の西陣の小路では、糸を紡ぐ機械の音がどの家からも流れ出て、それが一層、家並みの間に響き籠り、機械の切れ目のない単調な音の夜の隙間から歌が聞こえてくる気がするのだった。誰が歌っているのでもない、それは単なる思い過ごしにすぎない、と春美は分かっていたが、春美は幻のように耳にする歌が、もうひとりの、本当の母の歌う歌のような気がして、いつも小路に帰りつく度に、歩を緩めた。
いくら「春美」だからといっても、うちの大学のYのことではない。この「春美」は都はるみさんのことだ。いま西陣を歩いても、「糸を紡ぐ機械の音」は小説に書かれているほど聞こえない。時折、カシャッカシャッと音がしてそれが珍しいほど西陣の織物産業は衰退している。ただ「小路」だけが続く。それを迷いながら歩いた。迷うのが心地よい町だ。そもそも目的がないのだから、迷っているというのもおかしな話だが、迷っているのだと思いながら歩く心地よさだ。気がついたら千本通りに出ていた。少し行くと「千本今出川」という交差点。近くにある
「静香」という喫茶店に入って休んだ。
■そういえば、
TREKがなんのことだかわからないという、最近このノートを読みはじめた人からのメールがあった。自転車である。しかしいい自転車に乗っているとむかし無印の自転車でよくもまあ二子玉川まで走ったなと感動的ですらある。走った。ものすごく走った。あきれるほど走っていたのだった。
■池山3ラン。高津の好きな言葉は「全力投球」。いい日だった。
■あしたから授業。不安である。
(22:04 Apr.10 2002)
■参宮橋のT君のサイトの日記にも書かれていたが、『jam 東京―ロンドン』展の音響はうるさかった。で、面白いのは、僕は二回観たが、最初より次に行ったときのほうが音が大きくなっている気がしたことだ。作家たちがほかに負けまいと音を大きくしたのではないか。最終日近くになるとどんなことになっているか、もう一度たしかめたくなった。
■京都をぶらぶら歩く。あまり変わらない町なのかと思っていたが、少し離れているあいだの変化に驚かされ、マンションの建設が進んで町屋は壊されてゆく。町屋を残せといってもそこに住んでいる人にしたら住みにくい建築なのだろうといろいろ考える。エスクァイヤの最新号は、『京都だけが知っている。』という京都特集。つい買ってしまった。しばしば言われるのが、京都は歩くにかぎるという話だが、自転車も捨てがたい。というより、自転車がいいよ、なにしろバス代が高いし。東京からTREKが届いたのでいやがおうにも走らねばならん。
■歩きか自転車。クルマで回るのはきっとつまらないだろうな。ただ奈良に行こうと思うのだった、レンタカーを借りて。で、TREKを積むのはどうだろう。
■関係ないけど、何人かの「サーチエンジン・システムクラッシュ・ツアー」ページを見ていて気になっていたのは、白い帽子の先がぴょんと立ったアンテナみたいな人だ。誰だろう。あと、いつもうつむいている小浜の写真。
■夜は少し冷える。
(3:04 Apr.10 2002)
■今年の大学における私の授業は、週に八限ある。
■去年大学の方とお話しして、週に六限しかなく一限足りず給料が安いままだと説得されたので、すると今年から給料が上がらないとおかしい。上がっているのだろうかと不安になりつつ今週の木曜日から授業。週のうち、火、木、金が授業の日である。去年の四月は休みも袋井に通っていた。その後、扇町でのワークショップもあった。地獄の日々だ。今年はもう少し余裕が持てるだろう。余裕がなくなるのはおそらく六月の後半から。
■余裕というのは、遊ぶというのではなく、考える時間のことだ。去年はゆっくり考えることもできなかった。ただ、「考える姿」は、はたから見ると、ただぼーっとしているような姿でしかない。ただぼーっとしている人だと思われがちだ。なんだか悔しい。
■しかし、袋井、扇町、そして大学と、三つの活動はそれぞれ意味がすごくあった。あのころはやたら元気がよかったと一年前のことなのにそう思い出す。懐かしいいい思い出。先日の教員による親睦会のとき、歌舞伎の講義をなさっている先生に、「去年はぱーっと明るい感じだったのに、今年はなんだか暗くなりましたね」と言われた。そうかもしれない。去年の夏からずっとこんな感じだ。
■学生の何人かによって「dots」という集団が作られ、いま新入生歓迎の公演を週末やっている。今週ぼくは見ようと思うが親睦会の直前も公演があって、歌舞伎の講義をしている先生がべつの人から「見ますか」と誘われた。すると先生が「見なくちゃいけないの?」と答えていたのはたまらなく面白かった。僕はもちろん見るが、それと同様のケースがあって見たくなくても、「うーん、ちょーっと、きょうは……、えー、からだが、あれでー、なんかー、だもんで……、いやー」といった曖昧なことをいつも口にしている。「見なくちゃいけないの?」はすごい。こんど二年になった学生が学外の劇団に入ってノルマのチケットを売っていた。見る気はなかったが僕はチケットだけ買った。太田省吾さんはすごい。学生がやはり声を掛けたという。「こんど、こういう芝居が」言い終わらないうちに「見ない」ときっぱりおっしゃったそうだ。
■曖昧な態度はだめだ。見もしないのにチケットだけ買うのは一番始末におえない。
■見たくない人は見なくていいはずだし、たとえば僕の舞台を見に来ないからといって見ない人を悪く考えたことがない。自分だってそういうときがある。どうも見にゆく気にならないとき。それを押しつけるように見に来いよとは言いたくないからな。
■京都に来たらまた一日一食ペースになってしまった。お腹がすかない。痩せたい人の町、京都。
■ダイヤモンド社という出版社のWebマガジンで「論語を読む」という連載をやるとすでに書いたが、本屋に行ったらプレジデント社から出ている『「論語」を読む』という本があるのに気がついた。「ダイヤモンド」であり、「プレジデント」である。すごいなどうも。で、岩波文庫に入っている『論語』を買う。少し読んだら面白い。『資本論』を読むのは試算によると25年かかることになっているが、『論語』は一ヶ月で読めそうだ。まいったなこれは早すぎて。ただ、「読めた」=「理解できた」ではけっしてない。「論語読みの論語知らず」とはよく言ったものだ。あるいは新たな読みかたの発見がなければ「論語」を読むことに意味がない。おやじの人生訓じゃないんだ。「論語」は革命思想であると、ある人は言った。
■それから小説における「描写」について考えようと、江戸川乱歩の『パノラマ島奇談』を買う。というのも中学生のころ読んでいてある場面の描写がすごいと驚きそれをノートに書き写した記憶があるからだ。その件については、きっとあしたあたり、
「小説ノート」に書く。
■それで思いだしたが、きのうリンクした、
nice web linksに飛ぼうとすると新しいウインドウが開くのではなく、フレームの中に表示されると参宮橋のT君からメールで教えてもらった。ありがたや。<target>というタグの綴りをまちがえていた。ときどきあるのがリンク先をフレーム内に出しちゃうサイトだ。腹が立つからな。「テキストの読みやすい新しいデザインのスタイル」が見つからない。やっぱり、スタイルシートの技術をもっと磨くべきか。nice web linksの、TOPページで紹介されているサイトのスタイルシートはすごい。
■こんなことばかりし、こうしてノートをまめに書いていると、人から「ヒマだねー」と言われるのは容易に想像できる。いいんだそれで。僕はもうずっとむかしから「ヒマだねー」と言われてきた。なにかに夢中になる。集中する。『パノラマ島奇談』を書き写す中学生もかなりヒマということになるだろう。生産する大人たちの目から見ればそれは「ヒマ」である。「ヒマだねー」こそが、生産主義から逃れる創造力や表現力の源泉である。だいたい「ヒマだねー」って言うやつより俺、ずっとものをたくさん作ってるし。「ヒマだねー」を口にできるのは才能のない人の特権である。
(22:13 Apr.8 2002)