Oct.31

■百万遍に用事で行ったあと、四条大宮行きのバスに乗った。まあ適当なところで降りて途中から家まで歩こうと思ったが、そういえば、京都のそっちの方角には行ったことがない。四条大宮まで降りずにバスで行く。近くに新撰組ゆかりの壬生寺というのがあると知り、細い路地をさらに西の方角へ。途中の寺で、「新撰組スタンプラリー」をやっているのを見かけた。新撰組の墓や屯所跡など、このあたりに点在しているからだろう。壬生寺には近藤勇の像があった。その脇に無数の絵馬がある。見れば、新撰組ファンたちのものだ。その不可解な情熱に呆然とする。壬生寺の裏口のあたりの細い路地に面した家の並びは、さすがに京都らしいたたずまいだった。
(2:13 Nov.1 2000)

Oct.30

■すぐに目が痛くなる。ディスプレイをしばらく見ていてもそうだが、少し暗いところで文字を読もうとすると痛い。よく見えないので目に力が入るとでもいうか、すると目の奥の筋肉が痛くなる。カフェなどで本を読もうとするとどうもだめなのは、照明が暗いからだろう。かつてもそうだったのだろうか。カフェってやつが特別なのだろうか。京都はずいぶん寒くなってきた。夕方、自転車で河原町まで走った。ひどく冷える。
(5:24 Oct.31 2000)

Oct.29

■家の近くの御池通りはパレードだった。京都祭り2000という催しで、あれはなんという名前なのだろう、巨大な山車があった。山車はその姿といい、乗り込んでいる者らの鉦や太鼓、笛といい、見ていて面白いが、パレードという催しの全体はちょっとあきれるものだ。パレードとは本来、こういうものなんだろうな。騎馬隊の馬はすごかったが。このところ寝不足。どうも調子が出ない。今週は、大学が学園祭なので休みだから、この機会に小説を集中して書こうと思う。
(4:55 Oct.30 2000)

Oct.28

■床に落ちている髪が気になるのだった。人間、日々、新陳代謝しているのだと思うが、想像以上に髪は抜けているし、とくに僕は髪が長いので目立つ。髪を片づけ、部屋を整理しているうちに一日が終わってゆく。やるべきことはたくさんあるというのに。
(4:47 Oct.30 2000)

Oct.27

■電話で目が覚めた。研究室のKさんからで、きょうは理事長から話がありますと突然、言われた。いや、べつに個人的に僕に話しがあるわけではなく、全教員を前にしての話だ。きょうは学生に出した課題の締め切り日なので学校に顔を出すつもりだったが、時計を見ればもう午後四時半ではないか。やけに眠った。あわてて準備し学校へ。ひげも剃らずに。水曜日に課題を出し、期間が短いと思っていたから二次締め切りも設定してあったにもかかわらず、提出率がまことにいい。驚いた。理事長の語る個人史は面白かった。大島渚の『日本の夜と霧』の世界だ。帰りバスで河原町三条まで行きそこから歩く。途中、OPALというカフェに入ったがとてもいい店だ。コーヒーもうまい。
(2:24 Oct.28 2000)

Oct.26

■原稿が書けないので、そういうときは部屋を片づける。掃除機が欲しい。ぞうきんがけは疲れるからだ。締め切りが過ぎてもうずいぶんになり、さらに延ばしてくれたのに、それでも書けないのだった。白水社のW君から、『草の上のキューブ』の感想をメールでもらう。とてもうれしかった。書きかけの、『28』もがんばらなければ。あとちょっとだ。さらに、ネット上で発見した、ある女性の話を小説にしようと思って、その方にメールを書いたのはもう一ヶ月ほど前のことだ。いろいろ質問させてくださいというこちらの一方的な申し出をこころよく引き受けてくれた。質問がまとまらずまだ書いていないのだが。目が痛い。ディスプレイを見るとひどく目が痛い。
(0:05 Oct.27 2000)

Oct.25

■授業。前回に引き続き、ベケットの『行ったり来たり』の構造を使って短い劇を作る。授業が始まる前にストレッチを必ずやるが、「とりあえずメニューをこなす」かのようにやっている受動的な姿勢を感じ、だったら自分たちで考えさせようと、「私の考える肉体訓練」の課題を出す。四、五人のグループ単位で作るが、そうしているととたんにいきいきとしてくるのが見ていて面白い。で、かなりいい運動が開発された。後半、前回と同じ三人のグループで短い劇の発表。ひとりなんだかよくわからないほど面白い学生がいる。またべつのグループがいいものを作ってきた。それでちょっとほっとする。九グループ中、ひとつでもいいものができたのは成果だと考えなくちゃいけないのだろうか。
(15:22 Oct.26 2000)

Oct.24

■百万遍の近くにある病院まで自転車を走らせ健康診断を受けに行った。おなじ舞台芸術学科の門上さんがちょうど検査を終えて帰るところだ。病院内の地図を渡され記してある数字の場所を探す。そうやって血液の採取やレントゲン撮影などするのはオリエンテーリングのようで面白い。帰り、進々堂で昼食でもと思ったら定休日。仕方なくほんやら洞に行こうと自転車を走らせる。途中、寺の山門の前にぼろをまとった僧侶がいる気がし、あらためてもう一度、見ると姿がない。幻視か、霊とかそういったものかと思ったが、まあ、京都だからそういうことはあるだろうと、気にせず、ほんやら洞へ。昼食。家に帰って夜九時過ぎまで眠ってしまった。セゾンの原稿を書かなければいけない。このまま朝まで原稿を書き、眠らずにあしたは授業をやる。
(2:49 Oct.25 2000)

Oct.23

■朝、原稿をひとつ書き上げた。少し落ち着き、家の近くにあるスターバックスコーヒーで朝食。店内は禁煙なので外のテーブルに座ったが、少し寒い。いくつか平行して原稿を書いていたが、とりあえずひとつ片づいた。白水社が出している「出版ニュース」の「戯曲の読み方」という原稿だ。早速、メールで送る。昼過ぎゲラがもうFAXされてきたので驚いた。このあと、セゾン文化財団が出しているニュースレターの原稿を仕上げなければならないが苦しんでいる。あしたは大学が実施する健康診断に行かねばならず、夕方、研究室のKさんが健康診断に必要な、「あるもの」を届けにうちの近くまで来てくれた。こんなものをわざわざ運んでもらって申し訳ない気持ちになった。京都周辺に住む人たちからたくさんメールをもらう。関西でワークショップはやらないのですかと問い合わせも多く、誰か企画してくれたらやりたいと思った。以前、取材を受けたSpottingという雑誌が届いたが、すごいアップの写真があって恥ずかしい。
(0:32 Oct.24 2000)

Oct.22

■一日中、原稿を書いていた。どうもうまく書けない。夕方、Hさんに教えられたカレー屋で食事。四条河原町をちょっと上がった路地を入る。となりに「築地」という古めかしい喫茶店。外の壁に張り紙。「バイト生求む」とあって笑った。学生じゃないと働けないらしい。部屋の片づけ。ぞうきんがけなどする。
(6:18 Oct.22 2000)

Oct.21

■家を出たら、御池通りにパイプ椅子が並べられていた。なにをしようというのだろう。百万遍に行ったら、たしかに、「百万遍念仏道場」という、いよいよわからないものがあった。「南無阿弥陀仏」と唱えるのに何秒かかるか。たとえばそれを1秒だとすると、百万遍となえるのに、不眠不休で11日半。できなくもないような気もしてきたが、2秒で23日だ。ガイドブックによれば四月に百万遍念仏が聞けるらしい。期間は三日。ちょっと足りないと思う。そのあたりで進々堂という、パン屋に付属した喫茶店を見つけた。以前、人から教えられていたが、たしかにいい雰囲気だ。夜、買い物に出たら、京都の町は少し冷えてきた。
(1:57 Oct.22 2000)

Oct.20

■ちょっと何か食べたいと思ったとき、ちょっとにふさわしい店が見つからないと書いたら、以前、僕の舞台の美術を手伝ってくれたHさんや、そとばこまちの山西君からメールをもらった。Hさんの情報は詳細。山西君は京大だったから詳しいはずで、百万遍の意味も教えてくれた。百万遍、念仏を唱えたお坊さんがいた寺が交差点のすぐ近くにあるそうだ。しかし、百万遍ってちょっと大げさじゃないだろうか。「白髪三千丈」と言葉にした中国人も大げさだが、百万遍もどうかと思う。京都は夜まで雨だった。雨が上がってから自転車で外を走る。きょう気がついたが、京都のコンビニは無理な建て方をしがちだ。入ると、妙に広くて無駄なスペースがあったり、逆にやたらせまかったり、曲がりくねっていたり、奥の方がよくわからないところにあったりで面白い。あと、コンビニでは決まってたばこを販売している。たばこの自動販売機も東京より多い。喫煙者にとってはとてもいい町だ。
(4:11 Oct.21 2000)

Oct.19

■昼食をと思って自転車で外に出るが、どこで食べたらいいかわからない。家の周辺をぐるぐる走る。以前、蕎麦屋に入って失敗したことがあったので迂闊なことはできないのだった。たしかにいいお店も京都には数多いが、それはそれとして、では、昼どき、ちょっと食べたい思って入るような店はどこかにないだろうか。おいしいオムライスを出す洋食屋とか。見あたらず、つい寺町二条あたりのラーメン屋に入ったらやっぱりだめでした。近くに、梶井基次郎が『檸檬』に書いた果物屋がある。檸檬が並んでいる。そういえば、翔泳社にいたE君からメール。仕事が変わったこと、『草の上のキューブ』の感想を書いてくれた。とてもうれしかった。ほかには、以前、ワークショップに来ていた人からメールがある。経堂のはるばる亭について書いたら、あそこの店主はやばいですよとあった。グレートフルデッドのTシャツを着ていて、あれはきっとマリファナやってますと断言している。たしかにそう見えなくもないが、いかがなものか。
(1:39 Oct.20 2000)

Oct.18

■朝九時から授業。いつも使っている部屋の外でなにか作業があるらしく、作業の音がうるさいからと体育館を使う。はじめ出席者が少なかったが、遅れてきた者がばらばらと現れ、結局、二十九人。ベケットの『行ったり来たり』の構造を使って自分たちで短い劇を作る。ほんとは参考資料として、 ベケットや、『行ったり来たり』の構造で僕が書いた、『おはようと、その他の伝言』の一シーンをビデオで見せたかったが、ないんだ、そのビデオが。どうしてだ。だから話をして説明。三人ずつのグループで劇作りの作業。相談の時間はあまりないが、とりあえず完成品でなくていいからと、授業の後半は発表。全然、だめである。この課題はある程度のレベルに達するまで続けよう。それぞれ次回また発表してもらう。劇作りは宿題。ほんとうにやってくるか不安である。来週は台本を課題として提出させよう。
(3:15 Oct.19 2000)

Oct.17

■午前中、病院に行って薬をもらう。冬に備えるためだ。準備万端である。夕方の新幹線で京都へ。東京より、京都のほうがあたたかい。原稿がたまる。なにから書いていいか悩む。しかも、全部、締め切りを過ぎている。東京で書こうと思っていたが、まったく書けなかった。どうしたことだ。
(0:48 Oct.18 2000)

Oct.16

■東京に帰って三日目。なにもしなかった。原稿を書かなくてはいけなはずだが、どうも書けない。経堂のはるばる亭で東京風のさっぱりしたしょうゆ味のラーメンを久しぶりに食べた。うまい。京都にはこれがない。ラーメンを食べただけの一日。
(0:39 Oct.17 2000)

Oct.15

■午後から下北沢のザ・スズナリへ。ガジラの舞台を見る。終演後、ガジラを主宰する鐘下君と舞台でトークセッションというのか、公開で対談をした。一時間以上、話しっぱなし。今回、東京に来た目的はこれで、このあいだの、PTでやった座談会の続きであるかのように話は進行したが、ガジラの観客たちが僕のことをちゃんと認識しているのだろうかと疑問に思いつつ話していたのだった。鐘下君と僕は、作風がまったく異なるが、こうして話をするとなんだか面白い。外に出ると雨になっていた。
(0:57 Oct.16 2000)

Oct.14

■朝八時ののぞみに乗り、お昼前には東京に帰った。東京で仕事がある。原稿もこちらで書かなくてはと思い、時間に余裕があると考えていたが意外に忙しい生活に驚く。京都でゆっくり執筆という、夢のような生活ができないではないか。まあ、京都で時間があると散歩ばかりしているのだが。夕方、買い物に出かけたとき油断したら、東京は寒かった。風邪をひく。夜、風邪に苦しみながらアジアカップサッカーを見ていたのだった。
(1:54 Oct.15 2000)

Oct.13

■午後、大学に行く。八角さんの授業で、僕の、『知覚の庭』のビデオを学生たちに見せる。その解説。で、時間をまちがえて遅れた。余談の多い解説。なぜか、父親に関する話などし、なにを話しているのか自分でもよくわからなくなっていた。終わってから僕の授業にまだ一度も顔を出していない学生を研究室に呼び、話を聞く。とにかく、九時からの授業に来られない、起きられないという。自分のことを思いだしても、学生の時、一限に出たことがほとんどないので、来ないやつはだめだとも思えず、授業に出たからいいというわけでもないとすれば、難しい問題だ。帰り、バスに乗り、銀閣寺道というバス停で降り今出川通りを歩いた。しばらく行くと、百万遍というわけのわからない名前の交差点に出るが、通りには京大がある。夕暮れ時に歩くのはとても気持ちよく、しばらく進むと鴨川、橋からの眺めがとてもいい。
(1:48 Oct.14 2000)

Oct.12

■小学校で同級生だった伊地知君からメールがあり、そのタイトルがすごい。「わー、感激!うれぴーです」だ。これが四十歳を過ぎた男の書く言葉だろうか。インターネット上で買った本が届き、留守をしていたので郵便局に保管されていた。探していた本だったのでとてもうれしい。原稿を書こうと思うがどうも書けない。
(3:24 Oct.13 2000)

Oct.11

■朝九時から授業。受講者は三分の二。まだ一度も顔を見ていない学生もいる。ごく単純な、「対話」のテキストを先週と同様にやってみる。ほとんど演技経験のない学生も、台本と人に見られているという状況を与えると、芝居らしきものをするのが不思議だ。いったいどこから、「演技」というやつはやってくるのだろう。人は、人との関係で存在し、見られていることを日常でも意識しているが、その場合の、「演技」とも違う種類の、「演技」が出現する。それがなんだか面白い。昼に授業が終わり、学科会議が五時半からなので食事をしようとぶらっと外に出る。出町柳まで行ってカレーを食べ、コーヒーを飲む。新聞をくまなく読んでも時間があまる。本を持ってくればよかったと後悔した。大学の近くに戻って京都に最初にできたオープンカフェという伝説のカフェに入り驚いたのはコーヒーが二百五十円だったことだ。学科会議には映画監督の林海象さんが来ていた。来年から映像・舞台芸術学科で一緒に教えることになる。あと、アニメーションの相原先生も来ていてうれしかったが、私はもうその時点でへろへろであった。一日が長い。会議中、林海象さんはノートに鳥の絵を描いていた。学科会議のあとの飲み屋で、林さんと相原さんは爆発していた。相原さんの言葉で表現すれば、「スパークしていた」ということになるが、とにかく二人の話がものすごく面白い。私は半分、眠っていた。
(15:34 Oct.12 2000)

Oct.10

■東京から帰ってきた。途中、静岡の実家に寄って二泊。町はちょうどお祭りだった。鳥取県で地震があったとき、関西地方にも揺れがあったとニュースで知り、少し不安だったが、京都の部屋にはなんの変化もない。新聞がたまっていた。あと、ある劇団からのダイレクトメールがあり、どうやって京都の住所を知ったか謎である。『草の上のキューブ』を発表した文學界も届いている。
(0:27 Oct.11 2000)

Oct.7

■夜の九時から東急文化村の中にある本屋で演劇ぶっくの撮影。なにしろ表紙である。雑誌の表紙なんてものは経験がないし、衣装が用意されての撮影でわけのわからない緊張をする。それからインタビュー。この二日間で東京でできる仕事をだーっと片づけ原稿も二本書き、ちょっと疲れた。これから朝日の連載を片づけよう。
(0:23 Oct.8 2000)

Oct.6

■『PT』という雑誌のための座談会。ガジラの鐘下君、評論家の西堂さん、パブリックシアターの松井さんが出席。テーマは、「演技論」といった内容。なんだかやたら面白かった。詳細は『PT』を読んでもらうしかないが、とにかく、三時間。あっというまの三時間だったことに驚く。終わってから、松井さんや、鐘下君、やはリパブリックシアターの酒井さんたちと三軒茶屋の飲み屋へ。また、しゃべった。家に帰ったらへとへとになっていた。
(8:23 Oct.7 2000)

Oct.5

■世田谷パブリックシアターが出している、「PT」という雑誌であした座談会があり、東京に戻ってきた。久しぶりに東京に戻って気がつくのは、町が明るいことで、京都が暗いのではなく、東京が異常なのではないか。こんなに明るい都市など世界的にもあまり例がないような気がする。
(1:11 Oct.6 2000)

Oct.4

■昨夜は少し早く眠ったのでこの日記をアップできなかった。で、早起き。六時半に目が覚めた。準備をすまして学校に行く。九時から授業だというのに、七時半に到着。研究室のKさんが来てから、授業で使う台本などコピー。学生の出席は三分の二。朝九時の授業の出席率は低い。だが、自分が学生の時のことを考えると、朝九時からの授業は出ていなかったのだから、だめだとも言えず困った話だ。ほとんどの学生がこれまで演劇経験のないものばかりで、それはそれでいいとして、むしろ高校で芝居をやっていたのかがちがちな者をどうやって崩すかそれがむつかしい。授業は十二時で終わりだとばかり思っていたら、十二時十五分までだった。つい早めに終えてしまったのだった。学生たちと話をし、それからバスと徒歩で部屋に戻る。明るいうちに眠った。ものすごく眠かった。
(12:09 Oct.5 2000)

Oct.3

■朝、八時に家を出て学校に行く。山田せつ子さんのダンスの授業がある。見学させてもらうことにした。朝から家を出ると一日が長い。授業が終わってから太田さんと山田さんと食事へ。少し話をする。山田さんがタクシーで京都駅まで行くというので出町柳まで乗せてもらった。少し歩いて、ほんやら洞という喫茶店へ。コーヒーを飲んで休憩。御所と同志社大学のあいだを烏丸通りまで歩き地下鉄で帰ってくる。あしたの授業のための準備。
(11:42 Oct.3 2000)

Oct.2

■大阪の扇町ミュージアムスクエアで、中村有志君が舞台をやっている。雨の中を観に行った。ちょっとしたところで身体の動きがきれいなのはさすがである。何度もころぶところなど、勅使河原三郎より身体にやわらかさを感じる。二人は、同じパントマイムの研究所出身だが、それが基本にありながらこういうのはやっぱり意識の問題だろうか。というか、転ぶときの重心の位置かもしれず、それは単に技法ではない。大げさだが、どこで転ぶかに思想がこもるというか。重心が高く意味ありげに転ばれるといやなものだ。中村君は足首あたりを重心にして転ぶ。そのやわらかさ。
(1:19 Oct.3 2000)

Oct.1

■四月くらいから、原稿を依頼されると、10月以降なら書けますと言い続けてきた。その10月になってしまい、気がついたら原稿の締切がいくつも重なっている。失敗した。10月以降でと言えばあきらめるか、忘れるだろうと思っていたがあきらめないし、忘れていなかった。ありがたい話である。なんだかわからない結論だが。
(12:38 Oct.2 2000)