Text by Akio Miyazawa

■QV10Aとは、CASIOから発売された最初期のデジタルカメラだ。
■QV10A主義は、まだ発展途上にあったごくチープなQV10Aを、チープであるがゆえに、デジタルカメラのあるべき形がこのカメラにあると考える。
■QV10A主義者は、高品質化されたデジタルカメラを、デジタルカメラとは認めない。いくらきれいに撮影できたところでそれは真のデジタルカメラではない。チープな画像にこそデジカメの精神がある。

■ある場所にこんなことが記述されていた。
「QV-10でスタートしたデジカメがだんだんとクオリティを上げることで『パソコンに画像を与えるためのオモチャ』から『デジタル方式のカメラ』へ質的な変化を遂げたように,プリンタも『写真風に印刷できるオモチャ』から『写真としてプリントできる印刷装置』に質的な変化を遂げたと見ていい」
 これはプリンターに関して書かれた文章の一部だが、たとえにあげられているQV-10の後継機種、おそらく、まだ「パソコンに画像を与えるためのオモチャ」の域を出ていないと思われる、QV-10Aを私は使っている。もしかすると、カメラだと考えるからいけないのではないか。カメラに似た、もっとべつの、なにかだ。
 よく知られていることだが、液晶画面のついたデジカメをはじめて手にした者はたいてい、カメラのようにファインダーをのぞこうとする。顔をぐっと近づけてはじめて、「これは違うんだ」と気がつき、それはそれで面白い。だが、ああなってしまうのは、デジカメのデザインがカメラのそれを模したからだろう。
 手にすると、その気にさせる形だ。
 ほんとはそうではない。
 カメラによく似た、もっと、べつのなにかだ。
 デジタルカメラの進化は、「カメラによく似た、もっと、べつのなにか」を脱皮し、カメラになろうとする努力のように感じる。成長なのだろうか。大人になったってやつか。だが、子どもっぽさのなかにも、デジカメの魅力はあると私は思うのだ。

「カメラによく似たなにか」
 けっしてそれはカメラではない。カメラではないそれが切り取る映像はどんな姿をしているか。「カメラによく似たそれ」だからこそ、<いま>という時間を、カメラとはちがったニュアンスで切り取ることができるのではないか。それこそが、「QV10A主義」だ。



(Jan.15 1998)