Apr.30 「なんという楽しさだ」

■月見の里学遊館はとにかく建築がすばらしい。長谷川逸子さんの設計。細かい部分まで一貫したデザインが美しい。入り口を入ってすぐのところにあるロビーのような場所の椅子の配色はすごくきれい。窓が大きく開放的で、夜、外から見るとあかりのきれいさはただごとではない。建築を見るだけでも価値がある。
■そこで稽古ができるのはぜいたく。一週間前からホールを使って通しができるのもぜいたく。とてもいい環境での芝居作り。建物のなかに「もの作りのワークショップの作業室」があり、すぐ近くでものを作っているスタッフがいるのもいい。市民の方たちが衣装を縫い、舞台監督の武藤を中心に高校生たちが道具を作っている。やけに楽しそう。わーわーわーにぎやかだ。そんな雰囲気の芝居作りは、なんていうんでしょうか、学園祭とか文化祭みたいでやたら面白い。
■ストレッチ。歩きの稽古。歌の練習から稽古をはじめる。
■それから細かい直し。高校生が家に戻ってくるシーンで、家族が「おかえりー」となぜか意味なく脱力しながら倒れて出てくることを思いつき、それをやってみる。脱力の手本を示そうと僕が何度かやって見せたがやっているうちに頭がくらくらする。午後はちょっとずつ細かい稽古。時間がもっと必要だ。気になるところはまだある。緻密に作りたい。時間がない。だけどちょっとずつよくなっている。
■夕方から通し。シャープにするつもりが、思いついたこといろいろあって付け足し、逆にのびている。シャープじゃないところもあるのでそこを直さねば。伊地知が軽くなっていいでき。しかしほめるとまた硬くなる恐れあり。通しが終わってから全体の印象を簡単に話してきょうの稽古は終わり。しかし、終わっても、よほど遠いところから来ている者をのぞいて、たとえば自転車で帰る者などいつまでも帰らず劇場にいる。帰るのがもったいないかのよう。なんだかみな、変に楽しそうで、道具を作っている高校生らはやけに生き生きと仕事をしている。なんだこのなごやかな雰囲気は。この面白さはただごとではなく、これほどぜいたくな遊びがあるだろうか。
■あとは客がどれだけ来てくれるか。遠方からの客多し。それがうれしい。ただ、地元の人たちに演劇の面白さを伝えたい。作ることのよろこびも。だからいい作品を作る。ぜったいいい作品にする。
■帰り、伊地知にまた車で送ってもらったが、少し疲れている気がする。昼間仕事で、夜の稽古はきついだろう。しかも稽古に入ってから休みがないはずだ。少し心配になる。家に帰って早く寝、しかし夜中に目が覚めたので台本のチェック。あらためて全体をよく読み、わかったこといろいろ。まだよくなる。まだまだよくなるはずだ。
(5:42 May.1 2001)

Apr.29 「舞台のことばかり考えている」

■時間があっというまに過ぎてゆく。桜井圭介君から劇中歌のテープと楽譜が届き歌の練習。なかなかうまくゆかない。で、だめ出しをしていたらだめ出しだけで一時間半。もう午後の三時。それでどうしてもやっておかなければいけない転換部分などを稽古。衣装が出来てきたのでそのチェック。食事しているひまがない。ちょっとだけ休憩し、気がついたらもう通しをしなければいけない時間だ。
■通し。きのうより出来がよくない。疲れているかな。ばたばたしていて集中力が散漫になっている気がする。舞台監督の武藤が「やることがないですよ」というくらい出演している者が自分たちで小道具のことやらなにやら自覚的にどんどん準備してゆくのはとてもいいが、俳優として、舞台上のこと演技のことに集中しなくてはいけないのだなあ。よくなにからなにまで人まかせの俳優がいるが、あれはあれで、演技に集中しているからだとも考えられるし、舞台の上のことにすべて集中させる力のある俳優のすごさはあるにちがいない。なにからなにまで人まかせで、しかも演技に集中できないばかものも東京ではよく見かける。で、ばかものにはばかものなりの面白さもある。いろいろだ。
■少しずつ、気になるところを直してゆこう。可能な限り最高のものを作る。
■終わってから、伊地知や武藤、永井やT君らと食事。くだらない話をいろいろ。家に帰ってからは舞台のことばかり考えている。舞台のことを考えているとなかなか寝つかれない。
(9:09 Apr.30 2001)

Apr.28 「通し稽古」

■朝10時50分のひかりで袋井へ向かう。
■浜松で降り在来線に乗り換えるが、新幹線のホームを降りると浜松の近くの町に住む僕のクラスの学生がいた。その新幹線に乗ると言ってあったので、同じのに乗ったらしい。僕は自由席だが、学生はグリーン車で帰って来たとのこと。なんということだ。その学生も袋井の公演を見に来るという。ほかにも2年生が何人か。一年生も大挙して押し寄せる。ありがたいというか、なんてえらいやつらだ。で、うちの大学の学生は招待あつかいにした。
■1時から稽古。演出助手というか、舞台監督手伝いというか、そういう名目でT君を東京から呼んだが、突然ひとり参加者が抜けその役をやってもらうことにした。T君の稽古。それから細かい部分で気になっているところをいくつか手直し。あるいは、まったくやっていない転換部分。みなぱっぱと自覚的に動いてくれるのでスムーズにことが進む。伊地知はやや軽くなって少しずつよさが出てきたし、最年長の牧野さんもいい感じになってきた。市民参加の舞台では「作品」というよりひとりひとりの魅力が引き出せれば僕の仕事は完了だ。あと中学生だな。中学生をどうひっぱってゆくか。もうちょっとだが。
■夜、ホールで通し。舞台がすぐ使えるのは贅沢な話だ。あと、いきなり来て、いきなり稽古し、すぐ「通し」に参加するT君のことをどう考えたらいいものか。そんなものじゃないだろう演劇は。はじめての「通し」なので、よほど気になったところ以外はメモも取らず、ただ全体の雰囲気を観る。自分で言うのもなんですが、静かだった。この10年、舞台からいろいろなものを省略することをこころがけてきた。音楽を少なくし、照明の変化を減らし、動きを小さくし、だが、言葉はやけに多い。言葉を省略してゆくことができないだろうか。言葉を、たとえば、映像で壁に映しだし、俳優はあまりしゃべらない舞台がしたいと思った。映像で映し出される言葉は、身体とは無関係に存在するのか。そこらへんが課題。
■思ったより全体的に長い。あと何日かで全体をシャープにし15分短くする。
(2:45 Apr.29 2001)

Apr.27 「やけにいい日」

■夕方から大学へゆく。大学内にあるStudio21のオープニング企画の一環として、学生の作品が上演される。「学生の作品」という気持ちと、まったく関係なく「作品を批評する目」が混在しつつ観ていたので複雑な気持ちだ。いろいろ考える。演出したO君とこんどゆっくり話をしようと約束する。学内にある学生の劇団が「演劇的なるもの」へうたがいを抱かなかったことと、今回の舞台の「かっこいいもの」や「スタイル」にうたがいをもたない姿は、根は同じなのではないか。ふたつはまったく異なる舞台だが。
■終わったあと、学校の階段の下にいたら舞台芸術研究センターのHさんが来ていまの舞台の感想を求められた。で、Hさんの友人だという作家のKさんに紹介された。名前を出すべきなのだが正しい漢字をいま確認できないので「Kさん」と表記する。Kさんはものすごく不思議な人だった。そのままタクシーで河原町三条のOPALへ。深夜まで話をした。Kさんの「柄谷行人エピソード集」は面白い。それと、「小説トリッパー」に書いた僕の中上健次に関する文章を読んでいてくださってうれしかった。OPALの店主のOさんとKさんは幼なじみだとのこと。Oさんにも紹介してもらった。京都でいろいろな人と出会う。
■先日、OPALに来たとき傘を忘れたのだが、ちゃんと保管していてくれた。で、チラシのコピーを大阪から持ってきてくれたYさんもそのとき一緒に傘を忘れ、だったら僕があずかっておきますと受け取ったのだが、考えてみれば、しばらく京都を留守にするのだった。預かられても困ると思う。
■帰宅したのは12時を過ぎていた。あしたから袋井なのでばたばたと準備。
■部屋がちらかっている。片づかぬまま袋井へ。
(1:30 Apr.29 2001)

Apr.26 「京都の町をまた歩く」

■朝六時に目が醒めた。昨夜は早く眠ったので調子がいい。で、授業の準備をして家を出る。一年生の授業。映像コース、舞台コースが混在して授業を受けるシステムのうち、きょうはBクラス。どうしてクラスによって差が出るのか、Dクラスに比べてどうも重い。なにか発表するにもしりごみする者が多く、学生もいろいろだなあ。だから担当する者は、それぞれの学生に合わせて運営の方針を変えなくてはいけないのだろう。
■一人ずつの発表で、いました発表について質問してもなにも答えない学生がいた。なにかこちらが問いかけても沈黙。待っても答えは出てこない。だんだん腹が立ってきて、思わず、帰っていいよと言ってしまった。だが、さらに沈黙。帰りたくないのかと質問するとうなづく。わからなかった。
■で、冷静さを取り戻すのはなかなかむつかしい。次の順番の学生に悪いことをした。
■授業を終え、学校をあとにしてからわたしはヒモを探していたのだった。ヒモはどこにあるのだろう。というのも、ワークショップのチラシをほんやら洞に置きたいのだが、ほんやら洞の場合、吊さなくてはいけない。文房具屋でヒモ発見。包装もなにもなく、ヒモをむき出しのまま手渡された。ほんやら洞でKさんと合流。チラシに穴を開けヒモを通す。ほんやら洞には紙に穴を開ける装置など「吊すもの」が一式そろっていると知って驚く。
■Kさんが調べてくれた場所にチラシを置きに行くことにする。このあとバイトであまり時間がないというので、のんびりもしていられない。歩いた。のんびりもしていられないはずなのに、近くのギャラリーまで歩くのははまだいいとして、河原町今出川から、三条河原町まで歩くのはいかがなものか。
■日が照ってやけに暑い。汗が出る。三条河原町の「六曜社」という喫茶店へ。こうやって店をまわり、チラシを置かせてもらうなんてはじめての経験だ。いろいろなことを知る。そのあと、「さらさ」というカフェへ。名前を忘れたレコードショップ。三条烏丸の新風館にある「ヴィレッジヴァンガード」にも置いた。映画館の「みなみ会館」や「メトロ」というクラブには、Kさんが置きにいってくれるという。僕も調べてどこかに置きにゆかねば。
■考えてみるとすごく歩いた。また歩いてしまった。
(2:56 Apr.27 2001)

Apr.25 「先生が見たいだけでしょと学生は言う」

■家を出る直前、メールチェックすると、伊丹のAIホールの方からワークショップのチラシ配布に協力してくれるとのメール。すぐさま、ワークショップ準備委員会掲示板と、大阪のYさんに内容の一部を転送し動いてもらうことに。
■それで家を出たので大学に着くのがいつもより少し遅くなる。八時三〇分を少し過ぎていた。
■一年生、Dクラスの授業。「歩き」をテーマに短いドラマを作る。どこかで訓練を受けたのだろう学生に少し厳しいダメを出し、冗談で「きみの演劇観をくつがえしてやるよ」と言う。でも、やけに素直。すーっといろいろなものを受け入れていまの身体になったのだろうと想像する。東京とその周辺の学生が何人かいて、なんと言いますか、ノリが近いものがあり、言葉のせいだけではない気がする。いくつか優秀な作品があって驚く。もっとも面白かった作品をべつの人間が演じると、またちがうドラマになるということを示そうと、Y君とMさんという注目すべきふたりにやってもらおうと思ったら、Y君が、「それ、先生が見たいだけでしょ」と鋭いことを返す。このクラスはやけに面白い。
■授業が終わったあと、実習室のある建物の前で煙草を吸っていたら学生たちが集まってくる。驚いたのは、男ばかりが集まってきたことだ。ふうつこういうときは、男は遠慮がちで、女ばかり話しかけてくるがこのクラスはちがう。みんなで立ち話。とてもいい感じである。
■学校を出て急ぎ三条へ。ワークショップのチラシを配布している大阪のYさん、京都のKさんと、アートコンプレックスの前で合流。メディアショップに置いてきたという。で、チラシを置くついでに落ち着こうとOPALへゆく。なんのはずみか、あまり最近は語ることのない昔の話をしてしまった。損したような気分だ。Yさんからチラシを受け取る。あしたから配布活動だ。
■この時期の京都は人が多い。観光客や修学旅行生。急いで三条にゆくため五番のバスに乗ったがものすごく混んでいた。途中、三条京阪のあたりで交通事故。バスは動かない。
(22:56 Apr.25 2001)

Apr.24 「先のことはあまり考えない」

PAPERS、少し更新。
■京都に雨が降る。少し冷える。
■二年生の授業。『あの小説の中で集まろう』を発表するための準備。あらかじめ決めておいたキャストを学生たちに報告。それで戯曲の読み合わせをしたが、映像コースの学生で授業を選択してくれたK君がクヌギの役が面白いらしく、終わってからやりたいと言う。なんだかいい味を出していたし、そのやる気が単純にうれしい。あと、昨年度、僕の授業の単位を出席数が足りずに落としてしまったO君を主役にしたが、主役だったら、来なきゃまずいだろうということでいい教育的指導という気もするが、ほんとのことを書けば、O君は役者としてなにか魅力があるし、期待している。
■男は数が少ないものの、上演するだけの人数がいるのでよく、むしろ、数の多い女たちが問題で、なにか役を振らなきゃまずいんじゃないかとさえ思う。まずいな。ムーンライダーズの鈴木慶一さんがやった「男」という役を、数人の女の子のグループにした。なんだかわからない人物たち。
■で、戯曲はいわば、原作。これから次の授業まで(連休明け)に上演用の台本を作らなければならない。忙しい。
■それで10回の授業と、あと直前になれば夜の稽古で作る。可能な範囲のなかでベストなものを作りたい。
■学生たちと、学食で昼御飯を食べる。むかしを思い出す。やたら僕は学食にいた。で、閉店の時間になると、学食の人から、「宮沢君、終わりだよ」と言われた。授業にも出ないで学食ばかりにいたのだった。
■さて、もうすぐ『月の教室』も公演だが、公演前になにも稽古をしない時間がこんなにあるのも妙な気分だ。準備する時間があるといえばあるが、俳優が動くのを見ないと演出した気分にならないので困る。28日から稽古は再開。武藤が来る。演出助手の太野垣も来る。永井が来る、桜井君も来るし、あとうちの大学の学生たちも何人か来るらしく、なんだかやたら楽しくなりそうだ。
■だけど、あまり先のことは考えない。「いま、ここ」である。あしたは一年生の授業だ。その授業を楽しむ。
(1:11 Apr.25 2001)

Apr.23 「チラシと呼ぶべきか、フライヤーと呼ぶべきかで私は悩んでいる」

関西ワークショップ「WORLD TECHNIQUE」の宣伝活動がようやくはじまった。S君に助けられる。で、PAPERSでも告知しようと思うが、いま家のMacが動かない。学校で作るしかないだろう。ワークショップ準備委員会の掲示板で、S君が大阪以外でチラシ配布ができる人を募っているが、掲示板に反応なし。このあいだ大阪の施設見学に来た人たちはどうしているのだろう。袋井にまた戻る前に、俺が京都はなんとかしなくてはいけない。それにしても、S君がいなかったらどうなっていたことか。
■というわけで、京都に戻ってきた。
■あちらこちらたいへんな忙しさ。帰りの新幹線では、二年生の授業のことを考えていて、今週は、『あの小説の中で集まろう』の戯曲を読み合わせするとして、それからどうやって作業を進めたらいいか。袋井の公演が終わって、連休明けの授業から本格的に発表に向けての実習ということになる。で、そのまえに戯曲とは別に、上演台本を作っておかなくてはいけない。今週中だな。袋井に行ってからできるとはちょっと考えにくい。残り10回の授業で一本作品を作る。そんなことがはたしてできるのでしょうか。
■さらに京都周辺にワークショップのチラシ配布。やったことがないよそんなことはかつて一度も。舞台をはじめてからもう20年近くなるがチラシ配布を自分でしたことがなかった。申し訳ない話だ。
■『月の教室』の音楽や照明のこともしっかり考えておかなくてはいけない。まだ音響さんとは一度もあったことがないが、向こうに着いたらすぐに打ち合わせなどできるのだろうか。上演する月見の里学遊館の人たちも芝居についてなにも知らないので、打ち合わせのことなど考えていないのではないか。
■でも、そういったこと全部ひっくるめて、楽しくてたまらないですなあ、いや、ほんとに。
(4:11 Apr.24 2001)

Apr.22 「前提」

■夜、通しをやろうと思っていたが、ひとり病気の者が欠席してできなかった。しょうがないか、子供だからな。それで、できるところを反復。あるいは細かいチェック。中学生の男の子がぜんそくで、芝居中、せきをするのでおかしいと思ったら軽い発作になったりし、しょうがないよな、そういうことも。あと、酸素を多く取り入れすぎて呼吸が苦しくなる病気で袋を口に当てて発作をおさめたりとかって、そういうことのいちいちが、まあ、考えようによっては面白い。いろいろな人がいる。だから稽古場が好きなのだが。場面を転換するために舞台上にある机など、どうやって移動させるか稽古場でやりながら作ると、みんながわーわー意見を言って、それが面白い。ふつふつと沸き立つのだ。わけのわからない混沌が愉快である。
■伊地知と焼肉屋で食事していると、店の人が『月の教室』のチラシを手にしてやってきた。よーくチラシを見ているのだが、わからないらしい。これなんですかと伊地知に質問するのを聞いて気がついた。あたりまえだと思っていることがここでは通用しない。つまり、劇場にチラシを置けば、それは芝居を宣伝するためのチラシで、誰もがそうだと認識するという前提は、ある特定の狭い場所でしか通用しない話だ。
■稽古場の近くのジャスコで、伊地知をはじめとする宣伝班がチラシを配布したという。演劇が根付いていない土地である。いきなり、『月の教室』と言われたってなんのことだかわからないだろう。「演劇です」と説明したところでよくわからないし、舞台のことをイメージすることさえできない。それは気がつかなかった。あたりまえのこととしてチラシをデザインしていた。袋井を中心とした周辺の土地に演劇を根付かせるのは、時間と根気を必要とするただごとならない事業だ。たいへんそうだなあと思うと、よけいやってみたくなるから困ったものだ。
■しかし、根付かせることと、大衆化することは同じではない。ある一定のレベルをキープしつつ、劇場に地域の人たちを迎える。そこがむつかしい。
(17:57 Apr.23 2001)

Apr.21 「それは15日の昼間のことだったという」

■袋井でまた稽古。
■伊地知に怖い話を教えられた。先週の日曜日だから、4月15日、稽古を終えて食事をし、いつものように伊地知の車で送ってもらった。また「けもの道」を通って帰ろうということになった。ユニバーサルスタジオジャパンにはもう行かなくてもいいと思ったほどの恐ろしいあの道だ。深夜になる時間。どこをどう走ったかよくわからない。何週間か前にも行ったあの道に向うはずだったが、伊地知が道を間違えたという。引きかえしてべつの道をゆく。だが、どう走ってもあの道には出ない。それであたりをぐるぐる走った。そのうち伊地知が、「なんか変だ」と言い出す。走っても走ってもたどり着かず、伊地知も走ったことがないという山道に入ってしまった。「なんかおかしいよ。変だよ」と伊地知はくりかえす。見れば額にあぶら汗さえ流す。その日の昼間、老人を四人乗せたベンツが私たちが迷っていた森のなか、農業用水を溜めた池に落ちる事故があったという。発見されたのは三日後。つまり、私たちが道に迷っていたころは、まだ池にベンツは沈んでいたことになる。道に迷っているすぐそばの池で、老人が四人死んでいた。
■「見つけてーって呼んでたじゃないかねえ」と伊地知。
■伊地知の話にぞっとしながら稽古をはじめる。高校生たちも少し疲れ気味か。声があまり出ない。稽古場が変わった違和感もあるようだ。ちょっとしたシーンをじっくりやろうと思うとすぐに時間がなくなる。細かい部分をチェックしてもそれが安定するまで繰り返すのではなく、次へ次へと進んでゆかなくてはならない。少し長めに流してみた。約40分。せわしない気がする。もっと落ち着いて芝居すればいいところを、慌て者ばかりいる世界のようだ。あっというまに稽古時間は過ぎてゆく。何度も同じ場面を繰り返すことで気がつくことがよくあるが、その余裕がないのが残念だ。もっとじっくり参加者たちと稽古場でつきあいたい。人が多いと、見逃してしまう者も何人かいて、ひとりひとりに演出がゆきわたらない。それは芝居の場合、意味のないことではないか。作品さえ成立していればいいというものではないだろう。特にこうした市民参加の劇では。
■で、いろいろトラブル。あとチケットが売れているのかどうか、市の人がなにも言っていないのが不安。客がいないところで芝居するのはいやだよ。いろいろありつつも、やっぱり稽古場は楽しい。
(9:32 Apr.23 2001)

Apr.20 「ヒデオ君に会う」

■D君が作ったワークショップを告知するチラシ原稿を受け取る。ほんとはもう少しねばりたかったが、もうチラシを配布しなければまずい。彼が授業で忙しいというので、べつの学生のYさんが届けに来てくれることになった。ほんやら洞で待ち合わせをすることに。そんな折、僕の舞台によく出ている笠木が大阪にいるというので、では、ほんやら洞で会おうということになった。
■わざわざチラシ原稿を届けに来てくれたとても立派なYさんと、ふつうの人の笠木と三人、ほんやら洞で話をする。あまり時間はなかったが、ひさしぶりに人とのんびり話ができて面白かった。芝居の話。なんでこんなに演劇のことばかり考えているのかとあきれるほど芝居の話をする。
■夕方、MONOという劇団を主宰する土田英生君に会う。
■京都アートコンプレックスの地下にあるカフェで、五月十日、土田君とトークイベントをすることになっており、その打ち会わせ。土田君の目は怖い。そのことが気になってもう話がまともに聞けない。気を遣っていろいろ話してくれるが、その目をなんとかしてくれと私は言いたかった。「身体」は「言葉」と同じように、いろいろなことを語りかけてくる。土田君が身振り手振りで話をするのを見ると、こちらに気を遣って一生懸命なのがよく伝わり、そんなにがんばらなくていいんですよと、切ない気持ちになってくる。
■それにしても、関西に来てからやたら人に会っているような気がする。東京では人に会うのが面倒になっていたが、こちらでは積極的に会いにいったりする。それでまたいろいろな人からいろいろな話を聞く。扇町ミュージアムスクエアのYさんはものごしがやわらかくてとてもいい感じだ。京都に来なかったら会うこともきっとなかったと思うと不思議な気分である。
(2:37 Apr.21 2001)

Apr. 19 「65番のバスは曲がり角の向こうで待っている」

■一年生の授業。きのうとはちがうグループ。八時半に研究室に着くと、すでに鍵が開いており、岩下徹さんがもういらした。すごく早い。実習室は二部屋あり、隣で日舞の授業。その音楽がよく聞こえる。先週まで岩下さんの授業が隣だったが、おそらく僕の授業がわーわーうるさくて迷惑だったにちがいない。壁をなんとかしないとこれはまずいな。二年生の授業で『あの小説の中で集まろう』という作品のビデオを学生に見せたが、隣から鼓の音がする。静かな場面で、ぽんぽんと音がし、そんな効果音を使った記憶がないのでなにかと思ったのだった。
■人はいろいろなものに支配されるが、音楽が強制する力はまぬがれようがない。舞台の場合は、俳優がそれを自覚するかどうかは大きく、無自覚に音楽に支配された演技はばかに見える。家の近くの烏丸御池の駅では、朝、さわやかな音楽が流れ、たしかに人は通勤通学のあのいやな気分を音楽で救われるかもしれないが、いつもそうだとうんざりする。むしろ、さわやかな音楽が、これを聞くとまたいやな一日のはじまりかと人を苦痛にさせるのではないか。僕も大学があるときはいつもその音楽を聴く。わざとらしいさわやかさだ。
■授業を終えてから、二年生を二人呼んで、授業のことで協力を頼んだ。二年生の授業は七月に作品を発表をすることになっている。いわば制作ともいうべき役割をまず決め、作業を進めることにした。一人で考えていると、発表までこぎつけるとはとうてい思えず、どうしたものか困っていたが、協力してもらえることになって少し先が見えた。
■帰り、大学の前からバスに乗ったが、なぜかバス停にゆくと65番のバスが来る。65番は一時間に一本しかない。となるとこの確立はちょっと異常で、俺が出てくるのをどこかで待っているのではないかとさえ思うようなタイミングのよさ。しかもいつもすいている。
■はじめて三日間連続の授業を終えた。原稿も書き終え、ほっとする。少し眠ってから荒れ果てた部屋を少し片づける。ヤクルト逆転負け。それにしても疲れた。袋井と京都の往復は予想以上にたいへんだ。しかし、五月の最後あたりにもうひとつたいへんなことが待っており、五月三十日、授業を終えたあとワークショップ。終わって帰るのが深夜。三十一日、朝から授業。終わって東京へ。岩井克人さんと対談。できるのかそんなことが。対談のとき眠ってしまったらどうするかだ。しかも、対談の載る『JN』の編集者は締めきりのことを書いた数日前の日記を読んで怒っていたし。
(0:31 Apr.20 2001)

Apr. 18 「忙しい」

■『一冊の本』の原稿が書けないのだ。で、『月の教室』の劇中歌の詩を仕上げ桜井圭介君にメールした。僕がこれだけ遅くなったら、桜井君が早く作曲してくれるかはむつかしいところで、もう綱渡り状態だ。袋井の月見の里学遊館のうさぎホールでは、照明さんも音響さんも小屋付きの方。いつもだったらやり慣れているスタッフなので融通がきくが今回に限ってどうなるか先が見えない。照明さんは見るからに音楽系の人。台本読んどいてくださいとか、稽古を一度見に来てくださいとお願いしたが、そもそも、それがどういう意味なのか理解されていないような気がする。役者陣はがんばっているがスタッフとのコミュニケーションがうまくとれるか不安。舞台監督を武藤に頼んだのが救い。ああ、ほんとうによかった武藤で。
■髭も剃らねばとか、準備しなければとか考えているうち、ほとんど眠らないで授業に行く。
■一年生の授業。映像・舞台芸術学科の81人の学生を4つのグループにわけ、前期は、いろいろな授業を体験する。だから映像学科の学生も僕の舞台基礎の授業を受ける。4つのグループのうち、先週の木曜日とはべつのグル−プ。全員出席。まだ一年生は緊張感もあり、授業をしていて楽しい。授業中はちっとも眠いとは思わなかったが、終わったとたんに、なにか疲れが吹き出した感じがする。見学したい授業があったが、きっと眠ってしまうだろうと思ってあきらめた。
■深夜、関西ワークショップのチラシを作っている学生のD君からFAXで、チラシの案が届く。もう何度もだめを出し、そのたびいろいろアドバイス。なかなかうまくいかない。これでいいやと俺があきらめたらD君のためにもならないと思って、とことんねばる。D君は舞台の学生。べつにグラフィックデザイナーになろうとは思っていないかもしれないが、ものを作るのはたいへんだということを教える。で、ようやく『一冊の本』の原稿を書き上げた。少しほっとする。
■京都にいても観光どころではない。
(1:12 Apr.19 2001)

Apr. 17 「学食で」

■二年生の授業。十五人ほどの出席。いろいろ書けないことがあります。大学に気をつかってって、どうして俺はいろいろがまんしているのだろう。そもそも職業的な教育者ではないわたしはいつ大学を追放されてもかまわないのだけれど、ただ学生が好きだから、学生のためにいるのだなあ、きっと。みんな研究室の僕の席に集まってくれるし、ラーメン食べにゆこうと約束してしまったし、部屋を掃除しに来たいとも言われたら、彼らのためになんとかしなければと思うじゃないかやっぱり。だから反省するのは、つい学生に、俺、やめようかなと口にしてしまうことだ。教師がそんなこと言っていたら学生はいやな気分になるな。ほんとうに反省する。
■あと、ものを考える場所としての大学。きょうも門上先生の授業で使うという本の存在を知って、すぐに買いに行った。学生の教科書販売が学内であり、世の中にどうやらあと二十冊しかない本だというので、学生を押しのけて買った。行くと、最後の一冊。買えなかった学生もいるかもしれない。
■舞台芸術研究センターのWebを立ち上げるために、学内であらたにWeb作りをしている部門の方に話を聞きにゆく。知りたかったのは、技術的なこと。どこにサーバーがあって、そこにFTPでどうやってアクセスするのかといった話。笑ったのは、ずっと新たに作られるWebの説明を聞いていて、それはすごくよくわかったものの、ようやく僕が知りたかった話になったとき、担当の方が言った言葉だ。「それは、われわれも、わからないんですよ」って、笑ったなあ、わからないのかあ、わからないんだろうなあ。じゃあ、誰がわかるのかがもう謎である。わたしはなにしに来たのだろう。
■研究室のKさん、舞台芸術センターのHさんとカフェにゆこうということになったが、近くのカフェがどこも休み。そのときHさんの、「なんだろうなあ、もう」と怒る姿が面白く、高くなった声が俳優の中島陽典さんとほぼ同じだった。結局、学食でカレーを食べた。Hさんがなんだか面白くて目が離せない。しかも、学生のころ舞台に立っていたというし。
(1:41 Apr.18 2001)

Apr. 16 「犬と草の上」

■昼間、また犬の散歩。通っていた小学校の裏手に檀家を持たない寺があり、なにか徳川家にまつわる人が祀られているらしい。坂を上がって寺までゆくと、草が一面に生えた場所があり、犬を放し、ごろんと横になった。草の上。天気がいい。暑いくらいの気温。少し風が吹いている。気持ちがすごくいい。
■京都に戻ったのは夕方の五時過ぎ。
■きのうの稽古で見た、あの女子高生の変化と成長のことをずっと考えていて、演劇観が変わってしまうのではないかとすら思える。というのも、あの三人は、袋井にある高校の演劇部に所属しているが、いままで考えていた高校の演劇部とは異なる種類の表現が出現していることが不思議でならないのだ。もちろん、僕がワークショップのときから口うるさくある種の演劇に見られる単純化された表現を否定してきたことはあるにしても、だったらなぜ、そんなに素直にそれを受け入れたか。
■高校の演劇部らしい基礎は確実にある。肉体訓練もしっかりやっているし、発声もやっている。だが、気持ち悪くないのだ。「気持ち悪い」はひどく主観的な言葉だが、「気持ち悪さ」とは、従来の基礎訓練が生み出す内面のことだと考えていた。何度か書いたが、俳優訓練の本があるとしばしば俳優が手本を示した写真が載っているがあの顔や身体がどうにも気持ちが悪い。含羞のないあの姿はどうしたものか。現在とずれた身体がそこに存在する。
■僕の考える「基礎訓練」は、あそこからどう遠ざかるかだ。集団的な肉体訓練はさせない。集団として発声練習もさせない。自分でどう考えるか、自立した個人がどう自分を訓練するか、そのための考え方を養う方法だ。だが、自立した個人が出現しずらい国である。自分で鍛える方法がわからない。自分で方法を考えない。どこかに勉強にゆくこともない。僕の稽古場ではなにもさせないが、それを、なにもしなくていいと勘違いする。自立した個人なんてほんとうにあるのかこの国では。
■だけど、ほんとうにだめな人は、だめだから面白い部分もある。だが、「だめだから面白い」は、「だめだから面白い」以上のことができないのだった。そこでまた別の問題がいくつか浮かぶ。だとえば、なにに向かって表現を作り、そのためにはどんな身体が必要かというむつかしい問題がある。なぜなら、「だめだから面白い」以上のことができない人は、それでもべつにかまわないかもしれないからだ。表現の根本のところで、なんのために、誰に向かって、どう表現するかが、「基礎訓練」を規定することになるのだろうか。
■それにしても袋井の高校生には刺激を受けた。その表現に喚起されてまた考える。去年の夏前、長谷川逸子さんから袋井のワークショップの話をされたときはどうしようか躊躇したが、ほんとうにやってよかった。演劇の世界ではこんな仕事は誰にも認識されないだろうし、派手な舞台や、外国での活動などが問題にされるが、きっとどこかで、こんなふうにこつこつ積み上げるような仕事をしている人たちがいるのだろうと想像もできる。いろいろ認識をあらためた。
■授業の準備をし、早く眠ろうと思ったが、『JN』の「資本論を読む」を書く。締め切りから二週間が過ぎたのだった。ほんとうに申し訳ない話だが、よくよく考えると、二週間は大丈夫だったということでもある。あの締め切りはなんだったのだろう。
(22:41 Apr.17 2001)

Apr. 15 「高校生の成長率について」

■去年の九月にワークショップをはじめ、月に一度ずつ、何回か袋井で作業してきた。ベケットの『行ったり来たり』の構造を使って短い劇を作らせたが、そのとき一番よくできていた女子高生たち三人の台本を、そのまま『月の教室』に使っている。きょう、稽古のいちばん最後にそれをやってみた。ほんとうに驚いた。九月のときとは比べものにならないほどよくなっている。数ヶ月で、彼女たちが一気に成長したのを目の当たりにし、そのことに驚いたし、素直に感動した。ワークショップの時点ではまだ子供の劇だった。きょう見るとしっかりした大人の表現になっている。「うまくなった」という浅薄な言葉よりもっと深い言語化できないなにものか。こんなに深い表現ができるようになるとは想像もしていなかった。この成長率は異常な高さだ。
■ほかにも、僕がいないあいだの指示を伊地知にメールで送ってあったが、指示の通りしっかりできている場面もあるし、それぞれが自覚的に取り組んでいることに助けられる。なにか指示すれば、それが何を意味しているかすぐに把握し、自分たちなりに考え工夫してくる。不思議なほどだ。それにしても、「変化」を見るのがこんなに面白いことだとは思わなかった。稽古が終わってからいま自分がなにを見たのだろうとしばらく呆然とした気分になった。外に出て一人でたばこを吸った。見上げるともう夜だが、袋井の空はものすごく広い。
■稽古はまた一週間後になる。またなにか変化があるかもしれない。それが楽しみになってきた。
(2:37 Apr.16 2001)

Apr. 14 「稽古」

■朝の新幹線で袋井へ。以前、僕のワークショップに来ていた富士宮に住んでいる女の子が稽古を見たいとメールしてきたので、だったら袋井の駅に何時ごろいろと返事をしたらちゃんと来ていた。富士宮から袋井まで二時間ぐらいかかったらしい。駅まで伊地知が迎えに来てくれたが、女の子がいたので興奮状態。まだ会ったばかりなのにお礼をしたいと言い出す。
■二時から稽古。
■細かくやっているうちに時間はすぐに過ぎてしまう。この二週間、僕がいないあいだにみなほぼ台詞を覚えていた。冒頭の高校生たちの会話。生き生きとしたものが少し消えたのは、台詞を間違えないようにという意識にとらわれすぎているからだろう。こういったことが難しい。だからそれを乗り越えて稽古の繰り返し。新鮮さを失ってからそれを捨てるのではなく、繰り返すことで新鮮さを取り戻す。なによりこの舞台はそれがテーマだ。
■ドラマの縦線として重要な若い夫婦の場面はかなり稽古ができていた。ただ、劇的になる部分でもうひとつ奥行きが出てこない。やっぱり若い。大学生と高校生が夫婦を演じることのむつかしさ。伊地知と牧野さんの場面では伊地知がやけにかたく、稽古がはじまるまえのお礼をしたいと言っていた明るさはどこにいってしまったのだろう。夕食をはさんでまたべつの稽古。欠席者が少なからずいて、稽古できない場面がいくつもある。それで少しずつ進む。教室で、高校生が日常をしゃべっている場面は、ほぼ完璧と言っていいほどなにもしないでしゃべりつづける。そこに教室があり、そこにただ会話する高校生がいる。
■まだまだだが、手応えは確実にある。
■稽古が終わってから伊地知の車で浜北(浜松の北にあるそのものずばりの名前の市。僕の舞台や岩松さんの舞台によく出る戸田君の出身地)までラーメンを食べにゆく。伊地知、食事の前にいきなりベルトをゆるめる。ラーメンを食べながら、ふとたまっている原稿のことを思い出す。かなりまずい状況である。
(2:27 Apr.14 2001)

Apr. 13 「スタジオ・ステーション・スタジアム」

■関西ではOMSと言えば有名だが、それは、「扇町ミュージアム・スクエア」の略称である。この日記にも何度か書いたが、よく見れば、「扇町ミュージアム・スタジオ」とか、「扇町ミュージアム・ステーション」などと間違って書いている。ほんとうに申し訳ない話だ。気づかなければ、今後、「扇町ミュージアム・スタジアム」とか、「扇町ミュージアム・スタジアムジャンパー」などと書くところだった。
■袋井で公演する『月の教室』の稽古のため、向こうに行く予定だったが原稿を書いているうちに一日が終わる。『JN』の「資本論を読む」が書けないのだ。そうこうするうち、朝日の連載も締め切りが来てしまったので、とりあえずこっちを片づけてと思っても書けず、やっぱり順番だからと、「資本論」に取りかかるがうまい切り口が出てこない。うなりながら食事をしに外へ出る。
■近所にあった蕎麦屋に入ったが、だめだろうと思っていたのに意外にうまい。わりとしっかりした店なのに、店の外に旗を立てたり、ランチメニューがあったりと、蕎麦だけでは商売が成り立たないのだろうか。地方ではそうなのだろうなあ、残念な話だと考えつつ蕎麦を食っていたが、そんなことに心を痛めている場合ではなかった。
■気分を変えようとぶらぶらしているうち、近所にある、「大西清右衛門美術館」に入ってしまった。釜座通りのつきあたり三条とぶつかるところに、「御釜師」という看板があり、そこが「大西清右衛門美術館」だ。わたしは見た。釜の数々だ。代々の、御釜師・大西晴右衛門の作品だが、現在で十六代目だと知ったし、歴史も知り、さらに美術館内で、「釜師の家に生まれて」というビデオだって見てしまった。
■いま、「陰陽師」はかなりブームだが、「御釜師」のことはあまり知られていないのではないか。まったく残念でならない。だが、そんなこともいまの私には関係のないことだ。
■関西で開催するワークショップはかなりのところまで具体的になってきた。場所は「扇町ミュージアムスクエア」のテントで出来ているという稽古場にほぼきまりだ。S君とYさんが活発に動いている。AIホールの方や、扇町の人も、このワークショップに関心を寄せているそうで、S君が行くと、そのことで質問されるという。ワークショップの名前は「World Technique」にする。ずっと東京で使っていた名前だが、やっぱりこれがなにかぴったりくるような気がした。で、昔の資料を調べていて、ふと、そうだ、『西麻布ダンス教室』(白水社)の桜井圭介君を大阪に呼ぼう、講義をしてもらおう、いつものようにダンスの授業を設けようと思いついた。これだと受講料もたいへん有効に使える。
■それで思い出したが、『月の教室』の劇中歌の歌詞も書かねばならないのだった。せっぱつまってきた。
(0:59 Apr.14 2001)

Apr. 12 「死なないでくれ」

■京都は、突然、気温がさがった。
■映像・舞台芸術学科の一年生を対象にした「舞台基礎」の授業が朝からある。新しく完成した実習室を使っての授業で、去年の秋とは雰囲気がまったくちがう。一年生にとってはじめての実技という緊張感もあるだろうが、「場」が作り出すものはきっとある。ストレッチからはじめ、途中、実習室の床が汚れているので掃除。それでようやく授業。
■「歩く」ことについていろいろやったが、一人の学生が、部屋をゆっくり歩き出したかと思ったらいきなり走り、そのまま壁に激突。壁にひびが入る。いったいなにをするのだ。
■授業の終わりまぎわ、先に授業を終えた二年生が、数人、見学に来た。なかに、ものを食いながら入ってくるやつがいた。これはやはりなぐるべきだろう。自分が授業を受けていて、突然、誰かがものを食いながらそこに入ってきたらどんな気分になるか想像できない人間が、「ものを作る仕事」などできるわけがないということをきちんと教えなくてはいけないはずである。で、申し訳ないのは一年生だ。来週、授業を受けていた一年生にちゃんとあやまっておこうと思う。
■ある人から聞いた話。関西のある大学で、演劇の授業を受けていた学生が教師から追いつめられ自殺したという。「ある種の演劇」にはそういった危険性がある。だけど、人ごととも言えず、話を聞いてどきっとした。またべつの人からもらったメールによれば、僕に追いつめられ、精神的にまいってしばらく芝居ができなくなっていた者がいたという。思いあたるふしがないのだが、しかし、考えようによっては何人もいて、ワークショップでさえいきなり蹴ったことがあったし、ひどいことを口にしたことは何度もある。考えていると、落ち込むよ、しかし。
■そんな折、扇町ミュージアムステーションのY君から電話がある。おとといの日記にひどいことを書いたので、気にして掛けてきた。半分、冗談だったのだが、文字だけでは伝わらない。ひどく気にしている様子。悪いことをした。頼むから死なないでくれと言いたい。
■授業を終え、4時半からの学科会議まで時間があるので研究室のMacの環境を整える。この日記を読んでいる学生がメモリを安く譲ってくれた。助けられた。で、自分用のHDDをセッティング。さらに京都の部屋から持ってきたHDDをつなぎ、必要なデータをコピー。最初、そのHDDが認識されないのでついドライバの更新をし、わかっていたことだが、あとでひどく後悔することになる。環境が整い、学内のLANに接続。インターネットは爆発的な速さ。ISDNの10倍ほど。僕のWebもよく会社から読んでますという人がいるが、こういうことになっていたのか。驚くべき速さである。で、家に帰って試すと、案の定、うちの古いMacはドライバを更新してしまったHDDを認識しないのだ。またいろいろ試さねばならない。そういえば、reset-NのN君からHappy Hacking KeyboardのUSB版が出ているとの情報。「新宿のDOS/Vパラダイスにはありませんでした」ともあり、「ありませんでした」という情報の価値を考えたらなんだか笑い出しそうになった。
(4:26 Apr.13 2001)

Apr. 11 「授業がなかった」

■早起きして授業の準備。シャワーも浴びたし、必要なものも揃え、意気揚々と家を出た。で、学校に着いてから気がついた。まだ授業が開講していない日だ。ないことに気がつかなかった自分の責任だが、なにしろストレッチ指導をしてくれるHさんにも声をかけ、朝早く来てもらうことになっている。あやまろうと慌てて実習室に行くと、入り口で観世栄夫さんが、鍵が開いてないと憮然としている。すごいものを見た。建物のなかに入れなくて憮然としている観世さんだ。京都に来てほんとうによかった。
■結局、太田さんのスタッフワークの授業を見学。照明のことを教える照明家の岩村さんにいくつか質問をした。どうしたら演出と照明はうまくコミュニケーションをはかれるか。僕はこれまで何度も照明のスタッフと喧嘩している。うまくできないか悩むのだった。
■正午、学生たちと近くの公園でパンを食べる。
■学校前のバス停は、これまで単に「上終町」だったが、この春からいきなり、「上終町・京都造形芸術大学前」になっている。で、65番のバスに乗って驚いたのは、直通で家の近くまで走ることだ。このあいだ間違えて乗り百万遍に行ってしまったバス。ことによると、京都市バスが俺のために作ってくれた路線じゃないかと思うほど便利だ。百万遍から東大路をさらに南進。丸太町通りを右折。鴨川を渡り、河原町通りを越えると、烏丸丸太町を左へ折れる。そのまま烏丸通り。家の近所のバス停で降りる。
■夜、テレビで野球を見て驚いた、中日・巨人戦のはすが、阪神・ヤクルト戦をやっている。そういえば、誤解される恐れがあるが、NHKの手話ニュースはとてもいい。ニュースの要点だけを放送し、無駄がない。
■なんだったのかよくわからない一日である。
(2:55 Apr.13 2001)

Apr. 10 「いろいろ」

■能学演習という授業の発表がStudio21である。受講している学生が能を演じるが、学生の発表とはいえ観世栄夫さんが鳴り物を担当し、贅沢な話である。狂言「彦一ばなし」の天狗の子どもを演じた女の子がなんともいえぬ魅力があってよかった。
■あしたからの授業でストレッチをはじめにやるが、去年の一年生で、こんど大学院にいきなり入った学生のHさんにそれを指導してもらうのでその打ち合わせ。打ち合わせといっても簡単に話がすんで、あとはいろいろなことを学校のことやら演劇のことやら話す。
■で、「関西圏ワークショップ」の打ち合わせをしに、S君とYさんが大学まで来てくれたので、どこか喫茶店にでも行こうと思ったら学校の近くのカフェは定休日。仕方なしにほんやら洞まで電車と徒歩でゆく。いろいろ話が出た。ずいぶん話をしてしまった。すごく面白かった。
■それはそうと、五月に京都アートコンプレックスで、MONOという京都の劇団の主宰者である土田英生君とトークセッション的なことをするが、扇町ミュージアムスタジオがつけたタイトルが、「ヒデオ君とアキオ君」という噴飯もののタイトルって、いうか、あったなそういう冗談が、もう二〇年くらい前に。なんだかやる気が失せ、出てって一言もしゃべらないようにしようかと思った。そういえば、S君によれば、土田君はひとりでずっとしゃべり放しの人だそうだ。途中、「ちょっと、黙っててくれないかな」と言って、しばらく舞台上で二人、沈黙しているというのが面白いような気がしてきたのだった。
(6:49 Apr.10 2001)

Apr. 9 「メモリが足りない」

■午後から新入生のコース別オリエンテーション。舞台芸術コースは新しく41人が入学。やはり女子が多いが今年はそれでも男の比率が多少あがった。自己紹介すると、全国いたる所から来ているのがわかって、とくに東京が去年よりずっと多い。またこの41人とつきあってゆくのだなあと思うと、どうしてここで出会ってしまったのか不思議な気分だ。
■ところで、舞台芸術研究センターのWebを立ち上げる計画があり、僕が作る予定でそのためのMacを学校から借りた。G4/400というやつ。研究室の机に置きセッティング。見れば、メモリが64メガってなにもできないよこれじゃ。マウスが摩耗して使い物にならないしキーボードが使い慣れないAppleの純正。キーボードはHappyHackingKeyboardにしようと思うが、あれをUSBに変換することはできるのだろうか。マウスも新しいのを調達しよう。ハードディスクも自分用のを用意しよう。そこまでやると、ディスプレイだってNANAAOにしたくなる。それで自作機も横に置き、家と同じ状態にしたくなる。きりがない。それにしても、メモリが。
■夕方からStudio21で観世栄夫さんの能、井上八千代さんの舞を見るのだが開演までずいぶん時間があいた。食事をしようと学校前から行き先も確かめぬままバスに乗ると、いきなりすぐそこの交差点を右折し白川通りからはずれる。失敗したと思っているうちに百万遍に着いた。進々堂でサンドイッチを食べる。コーヒーを飲みぼんやりする。店を出て銀閣寺道の方向へ歩き、哲学の道をさらにゆけば、爆発的な桜。ただごとではない。ただごとではない桜の美しさだ。桜の下、ベンチに腰を下ろしてタバコを吸う。とても気持ちがいい。
■哲学の道から大学まで歩く。だから、合計すると、百万遍から上終町まで歩いたことになるがたいへんな距離だ。大学に着いた頃にはへとへとだった。「上終町」はこう書いて、「かみはてちょう」と読む。すごい地名。京都らしい。六時からStudio21で能と舞を見る。贅沢である。コンピュータ、桜、能と舞って、ほんとに贅沢な話だ。劇場で、もうずいぶん以前、静岡で開かれた演劇祭のシンポジウムで知り合ったKさんと再会し話がはずむ。いまは京都の大学で教えていらっしゃるそうだ。そうそう、その静岡の演劇祭であの「超歌劇団」が発見されたのだった。何年前になるのだろう。あれからいろいろなことがあった。まさか京都に住むなんて想像もしていなかったころのことだ。
(3:52 Apr.10 2001)

Apr. 8 「京都に」

■朝八時過ぎののぞみで京都へ。いったん京都の部屋に荷物をおきそれから大学へ行く。日曜日と桜の満開が重なったせいか地下鉄が混んでいる。天気はいいし外に出たくなるのもしょうがない。午後から新入生のオリエンテーション。研究室がべつの場所になって机とスペースもしっかり確保されたし、劇場ができたのに伴い、新校舎も完成、一階にはカフェもあり吹き抜けのフロアは気持ちがいい。なにからなにまで新しくなったようで気分がやけに高揚する。走り出さんばかりの勢いだ。
■Studio21という名前の学内の劇場では、二日間、観世栄夫さんの能の公演などがある。実習室までどうやってゆくのか確認も兼ねて劇場をのぞくと、二年生になった学生たちがスタッフとして働いていた。みな明るい表情。劇場が生き生きとしている印象を受けた。劇場は、やっぱりそうなんだろうな、ここでなにかが生まれ、ふつふつわきたつものがあってはじめて、劇場が劇場として生きるのだろう。それに関連して書けば、伊地知からまたメールが来ていたが、袋井市の月見の里学遊館もふつふつわきたつものが発生しいているようで、稽古を報告してくれるメールの文面からそれが伝わってくる。
■観世さんがいらしたので挨拶をする。緊張した。
■学校をあとにし叡山電鉄で出町柳までゆく。鴨川あたりを歩くとすごく気持ちがいい。橋から見る土手沿いの桜がとてもきれいで、川べりには、花見をしているのかすごい数の人たち。春の京都はやけにいいじゃないか。知らなかった。で、久しぶりにほんやら洞へ。食事。
■伊地知のメールによれば、『月の教室』の稽古は僕がいなくても着々と進行しているようだ。伊地知たち情宣班は今度は花見をする人たちのところへいってチラシをまいたという。花見客にチラシをまく演劇がかつてあっただろうか。私は知らない。だけど、伊地知をはじめ、高校生たちもがんばっているようで頼もしい限りだ。
■そして、もうひとつ、「関西圏のワークショップ」も着々と準備が進み、こちらも大阪のS君やYさんたちが精力的に動いているし、なにか面白いことが起こりそうだ。
■あちらこちら春である。
(3:14 Apr.9 2001)

Apr. 7 「フランス料理と伊地知からのメール」

■午後、朝日新聞のYさん、Kさんと会って経堂のフランス料理屋へ。連載の打ち上げと、四月以降の引継ぎみたいなことをし、なにより美味しい料理をいただく。Yさんが永井さんもと言うので永井も経堂に来た。たまたまうちから経堂に自転車で向かう途中、バイクで走る永井に会ったが、そこから先、バイクもクルマも一方通行。永井知らずに入ってゆこうとする。入ったことさえあるという。いつ捕まってもおかしくなかった。
■べつにグルメとかそういったあれではないが、フランス料理といえばフランスパンとバターが好きだ。もう、バターがうまかったらそれだけでもいいくらいで、あと水。バターをつけたパンを水を飲みながら食べる。なんて経済的なことだろう。料理もとても美味しかった。それでYさんから様々な話を聞いて笑う。とくにYさんのコンピュータがだめだという話は、ほんとうにだめなのでかなしみさえただようのだった。
■夜、伊地知からメールが来る。袋井では僕がいないあいだに自主稽古が進んでいる。メールはその詳細な報告。とても助かる。メールによればかなりいい感じで進行しているようだ。チラシが届いたそうで、宣伝を担当する伊地知たち近くのジャスコに行って配ったという。大売り出しのチラシではないというのに。でもその熱意がうれしい。あと伊地知たち宣伝カーによる宣伝まで計画しており熱意はいいがプロレス興行だと思われたらどうするつもりだ。
■あしたの朝の新幹線で京都へ。半年、東京を留守にする。
(2:03 Apr.8 2001)

Apr. 6 「記者会見」

■正午から、京都造形芸術大学舞台芸術研究センター発足にあたり、記者会見がある。両国のシアターXのそばにある会議室のような場所。はじまる前、白水社のW君に会ったが、聞くと、同じ建物に住んでいるという。驚いた。W君は記者会見にも参加。
■センター側の出席は、太田さんをはじめとする大学関係者。川村毅、松田正隆氏らの顔も。新聞、雑誌の記者らが10数名。設立の趣旨、新しく大学にできた劇場などいくつか主催者側から発表や報告があり、研究センターを構成するわれわれもひとことずつコメント。
■記者会見が終わり、近くから料理をとって軽い飲み会。みんなと話をする。W君と話をしたかったが岸田戯曲賞のパーティがあるというのですぐに帰ってしまった。東京での数日でいろいろな人と会うべきだったかもしれない。疲れていたのでだめだった。『JN』の原稿も書かなくてはいけないのだった。気を緩めると元に戻すのに苦労する。だからゆるめたくないが、なんてせわしない人生だ。それが20数年続いているような気がする。そういう性分としかいいようがないね、こうなると。
■外に出るとものすごく気持ちのいい天気。
■家の近くに戻ってから周辺を散歩。久しぶりに豪徳寺までゆく。招き猫発祥の場所だからか、山門の横、墓参りに来た人に花を売る店にはいつでも猫がいる。それからまたぶらりとあたりを歩く。桜が少し残っている。のんびりとした夕暮れだった。
(3:06 Apr.7 2001)

Apr. 5 「大江戸線に乗って」

■はじめて大江戸線に乗った。
■新宿から六本木や麻布十番に行くのが近くなって驚く。ただホームはものすごい地下だ。エスカレーターをいくつも乗って下へ下へと降りてゆく。しかも車内は狭い。ためしに麻布十番で降りた。有名な鯛焼き屋に行くと45分待ちだという。鯛焼きごときにそんな待っていられるかとそこをあとにしあたりをぶらぶらしたが、麻布十番はなにが面白い町なのかいまひとつわからない。温泉はある。美味しい店もたしかにある。少し行けばテレビ朝日の裏手に出るのではなかったか。池があり、周辺に赤穂浪士の墓があったような記憶がある。もう忘れた。
■バスで渋谷へ。ひどく道が混んでいる。ラウンジもののCDを何枚か買う。フロアーごとにジャンルわけされた大型店は、客層も各階それぞれで面白く、クラシックのフロアーには落ち着いた大人。ダンス系・ヒップホップ系のフロアはその手の連中が集まり、レゲエのコーナーにドレッドの男。
■のんびりした一日。三日間、ほんとうになにもしなかった。
(0:48 Apr.7 2001)

Apr. 4 「世田谷写真日記」


(写真と写真のあいだではなく、写真のなかに白い線があったらリロードしてください)

(2:28 Apr.5 2001)

Apr. 3 「風が強い」

■東京は午後から雨だった。風も強く満開の桜が散ってゆく。
■一日のんびりするが、身体に疲労がたまり背中や首などがちがちだ。コンピュータを前にするとついなにか書かずにいられなくなるので可能な限り起動せず、なにもしないで過ごすことにした。ただメールのチェックだけはする。返事を出していないメールがどんどんたまる。あと、『月の教室』の劇中歌の詩を書かねばいけないのだった。それから台本をもう一度よく読もう。大学の授業の準備もある。
■京都から研究室のKさんの電話がある。仕事をひとつ忘れていた。夜、朝日のYさんも電話をくれ、四月からの連載がはじまるにあたり、新しい担当者とともに食事をしようという話になる。こちらまで来てくれるそうだ。世田谷周辺の美味しい店のことを考える。
■本を読もうと思うけれど首が痛くて集中に欠ける。
(15:45 Apr.4 2001)

Apr. 2 「犬はどう思っているのか」

■午後、犬の散歩をしに掛川の町をぶらぶらする。東京に住み、京都で仕事をし、袋井で舞台を作っていると、生まれた町への愛着もだんだん薄れてゆく。両親が住む町という程度の感情。城のある公園までゆきたばこを吸う。それにしても、ときどきどこからかやって来ては散歩に連れてゆく人のことを、犬はどう思っているのだろう。
■夕方に近い時間に新幹線で東京へ。
■品川あたりからビデオを回し窓の外をずっと撮りつづけた。ただ横に流れてゆく町。ちょうど帰宅の時間か東京駅はひどい混雑。中央線で新宿へ。新宿から小田急。久しぶりの世田谷。家に帰ったら気分が落ち着く。『月の教室』に向けて気力は充分だが、からだのほうがどうもいけない。少々、くたびれた。三日間ほど、ぼんやり過ごす予定。どうも気持ちが「小説」に向かってゆくことができない。舞台をやっているときはどうしても人と会わねばならず、人との関わりのなかで意識が生まれる。「小説を書く」のはやっぱりごく個人的な営為なのだろう。人と関わるのは楽しく、稽古場が僕はとても好きだが、小説を書くときはそれらを絶たなければ僕の場合はだめだ。書けなくてこの数ヶ月、ずっと苦しんでいるけれど、しょうがない、こればかりは。そうしようと自分で選んだことだ。もう十年以上前、ある集団として舞台を作っていたが、「作品」と「集団」の折り合いが悪くなり、「集団」の意味より、僕は「作品」を選んでしまった。それからひとりでここまで来たのだし、これからもきっとそうする。そうすることしかできないのだが。
■この日記を読んで伊地知をひと目見たいと言い出す者がいま続出している。たいへんなことになってしまった。そんなものを見てどうするつもりだ。ここに書かれている「伊地知」は、「書かれたもの」、つまりエクリチュールに過ぎず、いわば、「伊・地・知」という「文字列」である。ほんとうに「伊地知」は存在するのだろうか。「こっそり風俗貯金をしている伊地知」は実在する人物なのだろうか。わたしはまだ見たことがない。
(4:15 Apr.3 2001)

Apr. 1 「とりあえずの最後に」

■このあと東京と京都にゆくが五月の公演が終わるまでは『月の教室通信』を続ける。
■二週間ほどの稽古が終わった。四月は土日を使って稽古。ただ第一週目の土日は大学にゆくので自主稽古。僕がいないあいだも参加者たちがきちんと稽古してくれると信じる。大学と稽古で四月は過ぎてゆく。春の観光はできない。京都の春はきっといいのだろうなあ。
■いつものように一時半から稽古を開始。
■舞台監督の武藤が来た。いつも僕の舞台を手伝ってくれ、『砂に沈む月』では、割れる花瓶を作った。スタッフが来ると舞台がはじまるという感じがさらに高まる。舞台そのものや、稽古が見たいという者、続出。東京からわざわざ来るとのこと。ありがたい話である。
■で、年長者二人のシーン。伊地知と牧野さん。どうも固くて気になる。繰り返し稽古。考え方というか、舞台上に作られた世界に生きられればそれで簡単にできるはずが、形を記憶し、形で表現しようとする誤解があるのではないか。一部ないわけではないものの、高校生たちが形にならぬままやたら生き生きするのとは対称的。どうしてなのだろう。たとえば、俳優の経験が長い者がいてその「形」を崩すのに苦労することはあるが、それとも異なり、芝居の経験が少なかろうが人はやはり「芝居」というやつをし、それもまた厄介。すっかりそこに時間を使ってしまった。
■少し長めに流す。まだばたばたしている。ところどころ子供っぽさを感じる場面があってその修正をしなければいけない。細かく稽古して全体をタイトにしたいが問題はその時間だ。時間がない。悲劇的に時間がない。

■月見の里学遊館にゆき劇場のスタッフと打ち合わせ。

■打ち合わせを終えてから、武藤と永井、伊地知とこのあいだも行ったイタリアレストランへ。伊地知をテーマに話は進む。今回の舞台をほんとうに楽しんでいる伊地知は、高校生になにかお礼をしたいという。だったら金を配ったらどうだと意見すると、封筒に入れて渡さなければと伊地知。「封筒にはなんて書けばいいかねえ?」と質問するので、僕は答えた。「お礼」。しかし、いきなり「お礼」と書かれた封筒を渡された高校生もとまどうだろう。
■特に女子高生があぶない。怪しいことを感じる女子高生もいるにちがいなく、武藤が、「母親に付き添われて返しに来るんじゃないですか」と言った。かなりだめな事態だ。それでさらに考えたのは、女子高生ひとりに渡すのではなく、家族全員分を用意して渡す方法だが、「なんでこんなにうちの家庭のことを知ってんだ」と余計に気味悪がられるにちがいない。家族全員で返しに来るとなると事態はさらに深刻で、伊地知家もてんてんこまいだ。次々と家族が来る。父親が玄関で、「これは受け取れません」と「お礼」と書かれた封筒をつき返す。見ればドアの向こうに家族たち。祖父が「伊地知ってのはどんなやつなんだ」と一目見ようと視線を向けているにちがいなく、女子高生はと言えば、ドアの外、こちらに背中を向け、伊地知とはいっさい目を合わせようとしない。
■「お金だからいけないんじゃないですか」と永井が言った。「図書券はどうですか」。なるほど、「金」だからどうもいやらしさが発生してしまう。芝居が終わって高校生たちに伊地知が「お礼」の文字のある封筒を渡す。「ありがとうありがとう」と伊地知。高校生だからすぐに封を切るだろう。中から出てきた図書券を見てつまらなそうに言う。「あ、おれいだ」。いったいどうすれば、伊地知の感謝の念を高校生に伝えることができるのだろうか。
■2日、東京にもどる。東京は寒いとのことだが桜は満開。奇妙な天候。
(3:11 Apr.2 2001)