.  ワールドテクニック(1995・産経新聞) .
.
..
 この春、WORLD TECHNIQUE(以下、WTと表記する)という名前のワークショップを開いた。オーディションから数えると、約四カ月、六月の末でひと区切りつけたが、考えてみるとちょうどその期間は、地下鉄サリン事件が発生してからきょうまでになる。単なる偶然に過ぎないと思うが、それまであまり意識したことのなかったオウム真理教と、彼らが関わるとされた一連の事件の情報が、連日、様々なメディアを通じて流される。少なからず、ワークショップと関連づけつつ、考えることにもなった。
 WTは、べつに俳優教育といった目的があったのではない。それを、〈世界技法〉と日本語にすると大袈裟な言葉になるが、もともと、精神療法のひとつだ。それが発展し、サンド・セラピーになり、日本に持ち込まれて、〈箱庭療法〉という名前になった。よく知られているように、〈箱庭療法〉は、ある一定の大きさの箱に砂を敷き詰め、傍らにある様々な種類のアイテムを砂に置いて、箱の内部に世界を作る。子どもの遊びのように単純な作業だ。けれど、作業を通じて自分と対話するのだと考えれば、単純であればあるほど、対話は深いものになる。自分が箱庭を置く経験からそう感じた。たとえば、一本の木のミニチュアがありそれを砂の上に立てる。一度、立ててみたが、どうもその位置がしっくりこない。少し動かしてみる。動かした位置なら、気持ちがすっきりするものの、理由は説明できない。どうやらその差異に、自分の深い部分が隠されているのではないか。
 私たちのワークショップは、この〈差異〉を見つけだすことだった。
 参加者たちにはそれぞれ固有の身体がある。俳優訓練のなかには、システム化された方法によって、「身体」を解放するものがあり、それはそれとして、私は高く評価するが、WTでは、そういったことはいっさい無視した。解放することがそこでの目的ではなかったからだ。解放せず、むしろ、どれだけ自分の身体が不自由かを知る。「不自由」が、〈差異〉につながると考えた。人前で何かを表現するとき、人は、当然、「見られている」ことを意識する。単純なことをいえば、「見られている」ことを意識し、「見せる」と考えれば、システム化された身体訓練は大変に有効だろう。トンボを切ったり、軽快に動いたり、見せるのだったら、こんなに素晴らしい身体はない。だが私は、舞台上に存在する世界に俳優が生きていればいいと考える。「見せる身体」ではなく、「生きる身体」だ。生きている身体は、どこか歪んでいるに違いなく、差異を抱える。生きる身体がただそこに立っていれば、それだけで、表現がうまれる。つまり、「差異」そのものが、「表現」になる。
 麻原彰晃をはじめとする教壇の幹部が逮捕され、彼らの犯罪があきらかになった。残された信徒たちの精神的なケアが重要だといった発言もされるが、私がそのことに興味を持つのは、それはなにも、彼ら信徒だけの問題ではないと考えるからだ。
 かつて演劇には、演技のメソッドと、システム化された集団が存在した。俳優は集団に所属することで、根拠を確認することができたが、いま、表現の現場では、確実に変化が生まれている、メソッドや、集団的な訓練の方法では生み出すことのない表現が求められるのなら、重要なのは、かつて当たり前だと考えられていた、「集団」そのものにに対する、「根本的な問いかけ」ではないだろうか。もちろん、「劇団」は、すでに形骸化し、無惨な姿しか残っていないが、理念そのものを問わなければ、「劇団」でなければいいわけでもない。
 参加者にむかってメッセージらしいものを、WTは何も送らなかった。しいていうなら、私たちの前に広がっているのは空虚な空間だという認識だけだ。オウムの信徒と同様、何も支えるもののない空虚の場所で、それに耐えなければと思う。そのことだけが、差異を感じつつ、〈いま、ここ〉に立つことにつながる。それが、いま私たちにとっての、「世界技法」である。


.
.
. . .