.  添え物(1995・初出不明) .
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 添え物という言葉がある。映画の二本立て興行では、メインになる映画とともに上映される作品に、「添え物」というひどく差別的な形容がされてもいたし、あるいは、コンサートで前座をつとめるバンドもまた、「添え物」と呼ばれる存在である。だがときとして、「添え物たち」は、メインとなるべき映画やバンドを陵駕することもあった。また、それを期待する観客も存在する。その少しひねくれた観客たちは、「添え物」が持つ、奇妙なエネルギーに魅力を感じていたのだろう。そうしたエネルギーは、「添え物」であるがゆえに、ある一瞬、輝くことがあり、ひねくれた観客たちにとっては、その一瞬に立ち会えたことがこのうえない幸福になる。添え物の一瞬のエネルギーは、メインたちが持つものとはまったく異質なものだ。メインたちが安定感を観客に提供するのだとしたら、添え物は、アナーキーなパワーで強烈な印象を観客に与える。
 私はときとして、トンカツ屋でそのアナーキーなパワーに出会うことがある。
「異常に高く積み上げられたキャベツ」
 それは恐ろしいほどの形である。キャベツがうず高く積み上がっているのだ。いまにもキャベツのなかかから、何かが吹き出してくるような勢いである。キャベツはたしかに、トンカツの添え物だろう。だが、その勢いに圧倒された私は、いったい、いま、自分が何を食べようとしているのかわからなくなる。トンカツなのだろうか。キャベツなのだろうか。あるいは、もっとべつの食べ物なのか。いや、そのどれでもない。私が食べようとしているのは、添え物が放つ、アナーキーなパワーそのものである。だから、いまトンカツ屋で私は、めまいを感じている。ここはすでにただのトンカツ屋ではない。
「気前のいいトンカツ屋」だ。
 だってそうだろう。キャベツを惜しげもなく皿にのせるのだ。うず高く積み上げ、いまにも皿から落ちそうにさえ見える。
 私はちらっと、カウンターの向こうでキャベツを刻む店主の顔を見た。店主は一心不乱に包丁を使い、見事な手つきでキャベツを刻んでゆく。その表情に、気前のよさと同時に、もっとべつのものも感じる。彼の精神の奥深い場所にしまいこまれたアナーキーな狂気ともいうべきものが、包丁を通じて、キャベツに伝えられてゆくのだ。
 もし皿から外へ、キャベツが出ていったとしたらどうだ。添え物が反乱し、自己を主張する。皿という領域を越え、もっとべつのものへとキャベツは進化するだろう。テーブルの上はすでに、キャベツで溢れている。だがキャベツのもつ、アナーキーなパワーはそれだけでとどまりはしない。店の床へ。店の外へ。通りへ。町へ。そして、この国がいつかキャベツで覆われる。そのとき、私たちはようやく口にするだろう。
「誰が片づけるんだ」
 ちらかったキャベツを片づけるのはやっかいだ。キャベツは、しょせんキャベツでしかない。生気を失い、しんなりしたキャベツが床に張り付いた姿は悲しい。そこには、あのアナーキーなパワーなどどこにもない。キャベツは、しょせん、キャベツでしかない。
 たとえば、全体の九十七パーセントをキャベツが占め、残りの三パーセントに辛うじてトンカツがのっている皿がここにあるとしよう。それを見て人が思い浮かべるのはなんだろう。その答えはたったひとつしかないと私は断言できる。
「やけにキャベツの多いトンカツ」
 キャベツはキャベツだ。トンカツの添え物でしかない。そして人は、「全体の九十七パーセントをキャベツが占め、残りの三パーセントに辛うじてトンカツがのっている皿」を見て、無神経に、「貧しい食卓」という言葉をつぶやくのがおちだろう。けれど、「皿の上の比率」が、「貧しい」や、「豊か」の決め手となるかは、はなはだ疑問である。そもそも、「トンカツ」それ自体に貧しさを感じる者がいても少しもおかしくないではないか。そのとき、「トンカツを貧しいと感じる者」にとって、「キャベツ率」のひどく高いトンカツはどのようなものとして認識されるのだろう。「ひどく貧しい食事」だろうか。「貧しさにまみれた食卓」なのか。だが、けっして、「トンカツを貧しいと感じる者」は、そんなふうには考えない。
 やはり、「やけにキャベツの多いトンカツ」である。
 それはトンカツだ。けっしてトンカツが添えられた、「キャベツ」ではない。そして、キャベツが添え物だからこそ、そこに魅力が生まれる。トンカツを陵駕する一瞬の魅力のなかにこそ、キャベツの可能性は存在する。
 では、「キャベツ」が五十パーセント、「トンカツ」が二十パーセント、残りの三十パーセントに、「鯛焼き」がのっていたらどうだろう。
 それは、添え物ですらない。



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