.  開催地(1995・共同通信) .
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  理由がわからないまま、いやな気分になる、「もの」や、「こと」がある。理由がわからないだけに、胸のあたりにもやもやとわだかまり、なおさらその気分が増幅する。
 たとえば、「開催地の決定」が私はいやだ。
 人それぞれ、誰にでも、そうした「もの」や「こと」があるのだろうが、私がいま一番いやなのが、「開催地の決定」である。オリンピックの開催地の決定がどうもいけない。どうにかならないものなのか。国と国が対立する。戦争に比べたら平和な対立という見方もできるが、毎度のことのように繰り返されるお祭り騒ぎはうんざりだ。そこまでして開催に夢中になる人の気持ちがわからない。
 だが、何が駄目なのかについて私は言葉を見いだせないのだ。経済的な効果を数字で説明され、「あんたも日本人だろ」と言われれば、「そりゃそうですけどね」と曖昧に答えるしかないだろう。冬季オリンピックが長野で開催される。自然破壊に反対するエコロジストや市民グループに加担するわけではないが、IOCだかの視察団が日本に来たときの、あの地元の人たちの騒ぎをニュースで見れば、いやな思いはいよいよ深まるのだ。
 いまはサッカーのワールドカップの開催地が問題である。
 韓国と日本が有力な開催地の候補として対立しているという。Jリーグのチェアマンがニュースに出演し、開催に向けてどんな努力をしているか説明していた。
 ヴァーチャルスタジアムだそうだ。
 スタジアムに巨大なスクリーンを設け、他のスタジアムの試合が、まさにいまここでプレイしているかのように見られるという。それが誘致に向けて展開するアピールの目玉だそうだ。どかんと一発、派手に盛り上げればそれで事足りるのか。
 まあ、ワールドカップが日本で開催されようがされまいが、どうでもいい。ただ書こうと思ったのは、この「いやな思い」の空虚さについてだ。「いやな思い」は、自然破壊に反対するグループの人たちのように、「反対!」と言葉にする毅然としたものは何もない。「こんなものはだめだ」と断固として否定する態度でもなく、うまく言葉を見つけられない曖昧な姿勢で、「こと」や「もの」に対処する。それはまさに現在的な思想のスタイルだ。
 その感情を、「否定」や「反対」に組み立てられないまま、ニヒリズムに陥れば、オウム真理教の虚妄に近い場所に行かざるをえないのではないか。その危険を感じつつも、「いやな思い」を捨てようと私は考えない。そこからはじまる。とりあえず、そのこと自体を、考え続けることしかない。


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