.  子どもの声(1995・共同通信) .
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 いま、東京を中心に、ダンスがちょっとしたブームだ。
 外国からアーチストが来てその公演も盛況だが、日本人による様々な種類のパフォーマンス的なダンスのグループが盛んに活動している。たとえば、まだ二十代の女の子たちで構成されている、『珍しいキノコ舞踊団』は、アメリカのコリオグレファー(振付師)でいまや人気絶頂のフォーサイスに影響を受けているが、まだ若い彼女らの感性が作り出すのは、どこかポップな軽やかさだ。
 それは、権威的なダンスシーンではあまり評価されないかもしれないが、東京という都市が作り出す、〈イマの出来事〉として面白いと私は思った。これまでにも、様々な〈イマの出来事〉が都市に生まれ、消えていった。それを通俗だと嫌悪するむきもあるが、〈イマの出来事〉があるからこそ、都市は活性化するのではないか。いわば、「子どもの声」だ。
 子どもの声が聞こえない町は、死んだように静まりかえっている。『珍しいキノコ舞踊団』の彼女たちは、十年前なら、ことによると小劇場演劇を目指したかもしれない。十年前の東京には、『劇団・青い鳥』や『自転車キンクリート』といった若い女性たちで構成された劇団が活発に公演していた。それが当時の、〈イマの出来事〉だったが、では、なぜ九十年代の半ばになって、『キノコ』の彼女たちは、ダンスを選んだのか。
 単なる流行というだけではすまされないものがその背後にあるのだろう。たとえ、流行だとしても、それを生み出した状況がいまの私たちをとりまいているはずだ。
 私にはそれが、「言葉の困難」と関わりがあると思えてならない。
「私はあなたを心から愛しています」
 たとえば、こんなふうな心情を言葉にしようとしたとき、それにいまの私たちはひどく困難を感じるだろう。ストレートに、「私はあなたを心から愛しています」などと言おうものなら、自分の言葉だとはとうてい思えず、「なにいってんだおれ」と腹立たしい気分にさえなり、ついつい言葉は、「俺、なんか、おまえをさ、なんか、あれなんだよな、なんかさあ」とわけのわからない羅列になってゆくのだった。「愛」ばかりではない。あらゆる、「心情」を言葉にすることに私たちは躊躇する。どんな言葉を使えばいいのかと、ただ戸惑うしかない言葉の状況が、私たちを取り巻いている。
 言葉を頼りに、それぞれが抱く、いまにたいする感覚や思想を表現しようとすることに困難を感じ、彼女らは言葉を離れ身体そのものが発する表現力の世界を選択した。それがダンスだった。踊る彼女らの身体は、生き生きとした言葉だった。

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