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演劇では、芝居に出演することを「立つ」と表現する。慣用的な言葉なので、考えもなく私も使っていた。たとえ椅子に座っている役だろうと、鉄棒にぶら下がっているだけだとしても、俳優は「舞台に立つ」のだ。何気なく使っていたが、「立つ」はかなり重要な言葉ではないか。ある種の「演劇」は、俳優たちが姿勢を正し堂々と立っている。「なんて立派な人物たちが、舞台上にいるのだろう」と、私は奇妙な感慨を抱いたが、立派なだけで、「人」は表現できるものなのかという疑いも感じる。「立つ」という言葉から、演劇についてなにか考える新しい方法が見いだせるかもしれないと思ったのは、隈研吾の『新・建築入門』を読んだからだ。
たいへんな刺激を受けた。本書は、「構築」という言葉を軸に、建築史と思想史を平行してたどり、歴史的な建築物の意味を分析してゆくが、読みながら私は何度も、「建築」という言葉を、「演劇」に置き換えていた。なかでも、「構築」と、「舞台に立つ」とは、異なる表現の領域の、同じ意味の言葉だと考えられ、「構築」が解体され、「ポストモダニズム」「脱構築」へという建築の新しい流れは、「堂々と舞台に立つ演劇」への疑いと同根のものではないかと思った。同じ著者による、『建築の危機を越えて』に収められた、「劇的なる公的表現者達」というエッセイを読むと、表現の領域は違うが、同じようなことを考えている人がここにいると驚かされた。
「脱構築」で思いだすのは、W・フォーサイスのダンスだが、『西麻布ダンス教室』も刺激的な本だった。音楽家でダンス批評も手がける桜井圭介が講師となって、いとうせいこう、押切伸一を相手に、ダンスの手引きをしたいわば講義録である。その冒頭、講師の桜井はいう。
「みなさんこんにちは、私が先生です」
こんな先生が、かつていたでしょうか。
先日、女の子ばかりで構成されたダンスグループの公演を見た。ダンスの文脈で評価すれば問題ありにしても、「東京という都市に現象するポップな出来事」としては面白いと思った。で、この「ポップな出来事」は、年齢とは関係のない「大人」と称する人たちには理解されないケースが多い。それはいわば、「子どもの声」だからだ。大人たちの社会性とはまったく無縁の場所に、「子どもの声」は響く。「大人」はうるさいと感じるだけだ。けれど、「子どもの声」が聞こえない町とはどんな場所だろう。それは、「死」という言葉に繋がるのではないか。「子どもの声」が聞こえるからこそ町は活性化する。80年代の「ポップな出来事」の中心をなしていたのは、「笑い」だった。ここにきて、「ダンス」が注目に値するのは、「言葉が困難な時代」と無縁ではない。『西麻布ダンス教室』は、そうしたことを背景に読まれるべき本だと思った。デリダ、サルトル、バルトらを引いてダンスを解読する一方で、フレッド・アステア、黒人音楽などを引用して分析する手つきは精緻をきわめるが、そうした桜井圭介の、教養の柔軟さ、幅の広さ、奥行きはただごとではない。すべてを等距離の視点から見つめる姿勢には、権威的な「ダンスの鑑賞法」にゆらぐこともなく、「見えているものを、よりディープに味わう」という、「うっとりと生きる」者のまなざしにあふれている。
最後に、近刊ではないが、今村仁司の『近代性の構造』を取り上げたいと思ったのは、その一節にたいへんな感銘を受けたからだ。
「異者の共同体は、中心のない共同体である。同一化も排除もない共同体である。率先して自己排除する道を選択した人々が作るこうした消極共同体は、たとえ無力であっても、すくなくともそこでは排除と差別のない生活の実質が実現していることだろう」
演劇は集団で作る。ともすれば、それは閉鎖的になりがちだ。どんな集団を作ればいいのかという手がかりが、この言葉にはある。
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