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いま私はこの文章を、Windows95上の、一太郎ver.6で書いている。Windows95だ。これが噂のWindows95である。ここでまず私が気になったのは、「95」という数字だった。どうやら体重のことではないらしい。もし体重だったら、世界中の人が困惑したにちがいなく、なぜなら、誰の体重なのかわからないからで、なにより驚かされるのは、95キロもあったら、ものすごい人だからだ。これはけっして体重ではない。体重ではないばかりか、95番目の記念というのでもなく、誰かの年齢でもないし、大型船舶の海難事故で95人が行方不明になったとかいった、意味のある歴史的な数字でもない。ではいったいなんだというのだ。
どうやら、発売された、1995年のことを示すらしい。
そんなことはいまや子どもでも知っているが、では、なぜそれが95年だったのかについて知る人は少ない。今年はいろいろなことがあった。忌まわしい第二次世界大戦が終結して50年にあたるこの年に、Windows95が発売されたのも何かの因縁なのだろうか。いや、おそらくそうではないだろう。やっとこさ発売にこぎつげたのが、たまたまこの年だった。よく知らないがそうに決まっている。だいたい、この記憶にとどめるべき50年という数字と、Windows95のあいだに何があるというのだ。
「戦後50年記念 Windows95大謝恩セール 」
もしそんなふうに売り出されたとしたらどうだったか。なにかぱっとしないではないか。これでは売れるものも売れなくなる。だが、ある種の歴史主義者や社会学者なら、戦後50年というこの節目の年に、Windows95が発売されたことに何らかの意味を見いだすのかもしれない。
それは50年という時間を象徴する特別な事件なのだろうか。それとも、ごく偶然に起こった日常的な現象に過ぎないのだろうか。
何かのニュースで見たのだと思う。Windows95が世界中で発売されたその日、販売店のカウンターに列をなす無数の人々の姿がテレビモニターに映し出された。それで、よく知らない者までがなにか大変なことが起こっているのだと勘違いする。ニュースキャスターは興奮した声でそれを伝え、コメンテーターはこれでコンピューターが誰にでも使えますと気楽な顔をして話す。「あ、そうなの」と思ったのは私ばかりではあるまい。
「誰にでも使える」
それがそんなに魅力的な言葉なのか。では、「犬でも使える」とか、「日本人でも使える」や「ベルギー人でも使える」はどうか。どうかってこともないが、とにかく使えるらしいのである。この言葉の背後には、コンピューターを使うのには困難が伴うという神話が前提になっており、その文脈から、あるCMのコピーもまた、生まれるべくして生まれたのだった。
「コンピューターを使えない人って滅びると思います」
何という恐ろしいコピーだ。滅びるのだそうです。皆、ばたばたと倒れてゆくのだろうか。笛の音につられて川に身を投げるとでもいうのか。だが、たとえばここで、「コンピューター」のかわりに、もっとべつの言葉を入れたらどうなるか。
「栓抜きを使えない人って滅びると思います」
そりゃそうかもしれない。栓抜きを使えない人は問題である。なぜなら、栓が抜けないからだ。だが、そうは言われてもこの言葉がちっとも怖くないのはなぜだろう。むしろなんだか呑気な気分にさえなる。「栓抜き」がことさら呑気なのではない。むしろ、前者のCMのコピーが怖いと感じることのほうに問題が潜んでいる。「コンピューター」に「意味」というテンションをかける何ものかがそこにはあるのだ。つまり、「コンピューターを使えない人って滅びると思います」と、「誰にでも使える」という二つの言葉のあいだで、コンピューターにまつわる、現代的な神話が語られてゆく。神話は様々な形で流通し、またべつの言葉に書き換えられるので、インターネットにからめて、「情報ハイウェイを占拠せよ!」などと、ちょっとどうかと思うような大袈裟な言い回しがされてしまうのだった。
だが、すでに私の前にはWindows95がある。
そう、すでにあるのだ。ほんとに、あれってな感じでここにある。もう、あなた、そんなの、へへーんてなものですよ。使いやすかろうが、どうだろうが、あるものはあるんだから、知ったことかと私はいいたい。マシンのスイッチを入れれば、いきなりWindows95のタイトル画面が出現する。これまでDOSの、わけのわからない情報がだらだら流れる画面に慣れていた目には新鮮に映るが、考えてみれば、Windows95で初めてコンピューターに触れる者にはごくあたりまえのことになるだろう。
そして、いきなり出現したWindows95のデスクトップは、コミックを連想するようなデザイン性を持っていた。一太郎のver.6も、アイコンなど、ver.5よりずっとコミック的な感触だ。
「誰にでも使える」の正体はこれなのか。
ことさら強調される、「愛らしさ」は何を意味するのだろう。もちろん、3.1に比べて操作性が数段上回っているのはよくわかった。一太郎の編集画面に、アイコンをドロップするだけでファイルが開くのを初めて見たときは感動的ですらあった。それがMacintoshによく似ていたとしても、それでムキになって批判するほどのこともない。ここにあるのは、「情報ハイウエイを占拠せよ!」というあの大袈裟な言い回しの裏返しである。神話にどっぷりつかった精神が、「愛らしさ」を逆に強調する。真面目一点張りでやってきた人が、冗談の一つでも言おうと考え、ダジャレで満足するのとよく似ている。
意味の重圧が、人をことさら、「軽さ」へと誘う。それは逆に、「軽さ」の重圧ともいうべき奇妙な空間を作る。
だから、私はあの二つの言葉のあいだで、やけに深刻ぶることもしたくはないし、ダジャレを言おうなどと考えたくはない。ここに、Windows95があるから、私はそれをただ使う。様々な便利を、「ああ、便利だなあ」としみじみ受容したいのだ。栓抜きがあれば、栓を抜く。それはあたりまえのことだ。栓抜きはかつてのプロレスなら凶器に使われたが、その使い方はあきらかに間違っている。私は栓抜きを本来の目的で使う。栓を抜いたとき、私はただ、瓶の中身を飲みたいだけだ。
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