Jun.30 sun.  「六月が終わる」

■日曜日だが朝から仕事。坪内逍遙を読む。原稿を書く。で、仕事になってしまうと、仕事だからなにごともいやいや読みだしながら、「いやいや」が途中から面白くなるのもしばしば。『当世書生気質』が面白くってしょうがない。すると、いい原稿を書きたくて、もっと坪内逍遙を読みたくなり、『小説神髄』やシェークスピアの翻訳を手元に用意しそれを引きつつ、さらに資料を調べたいと思うのも後の祭。東京にいさえすれば資料も家にあるがしょうがないので丸善に行っていくつか揃えようと思ったが見つからぬ。それもこれもぎりぎりになって仕事をするからで、余裕を持って仕事をしていればこんなことにはならなかったはず。とは、どうもいけない、『当世書生気質』の文体というか、馬琴風というか、戯作風文体に影響されてついつい書いてしまえば調子がよくってどうにも筆は止まらぬが、これば戯作風というより野坂昭如風でもあって野坂昭如の文体が戯作に影響を受けているのはよく知られ、にわかじたての戯作風はとどのつまりこのていたらく。
■やめた。文体を変える。
■結局、まだ書けないのだった。締め切りである。いよいよやってきた締め切りだ。だからといっていい加減な書き方をしてはいけない。ていねいな仕事をしたい。雑な仕事をするくらいなら原稿が落ちてもしょうがないけど編集者には迷惑をかけっぱなしだ。ほんとうに申しわけない。今年に入ってから二本落とした。これはわたしの人生でもまれなことで、20年間で四本しか落としていないのに、その半分が今年になってからだ。そもそも、落とさないのがふつうである。申し訳ない。しかも、落とさなくてもいつも締め切りぎりぎりだし。
■で、「落とす」というのは、原稿が書けなくて刊行に間に合わなかったことである。去年は『月の教室』の戯曲を出すのに白水社のW君にすごく迷惑をかけた。だめである。このところどうもだめだ。
■午後、久しぶりに本屋に行って何冊か買う。サッカーの本が大量に出版されていることに驚く。ベッカムの写真集。デル・ピエロの写真集。あるいは、戦術書のたぐい。発表公演が終わったら、サッカーの本をたっぷり読もうと思った。

■稽古はなかった。去年に比べてだいぶ稽古が楽になったのは学生が稽古に来るからだし、意欲的に仕事をしてくれるからだ。その学生に答えなければと思いつつ原稿は書けない。去年、あれだけ稽古に力を注いでもべつに評価されるわけでもなく、給料も上がらず、東京まで帰る新幹線代もけちられたり、理不尽なことが次々と起こるが、文句を書くのもばかばかしいので、まあ、今年は楽にやろうと思うが学生のためだけにはできる限りのことはしよう。
■というのも、坪内逍遙を調べたらこの人がすごいからだ。
■ただごとならないエネルギーである。文学について考え、小説を書き、演劇の活動に精力を注ぎ、シェイクスピアを翻訳したかと思えば教育者としての仕事にも力を惜しまぬばかりか、『早稲田文学』を創刊する。もちろん断片的に『小説神髄』や『当世書生気質』、あるいはシェイクスピアの翻訳、早稲田文学の人だってことは知っていたが、通してその生涯を見ると、おそらく坪内逍遥は五人いた。そうとしか考えられない。サッカーを見ている場合ではないのだった。見てしまったけれど。

■ワールドカップが終わってしまった。生きているうちは日本でワールドカップが開催されることはもうないだろう。いい六月だった。サッカーのことばかり考えていた上の空の六月。その六月も終わる。一年でいちばん好きな七月がはじまる。

(9:34 Jul.1 2002)


Jun.29 sat.  「髪型といいうもの」

■髪の毛が伸びてきたのである。もうこうなると坊主頭とは言えない。ひげも伸び放題だ。いつだったかある写真家について書かれたエッセイを読んだ。写真家は理髪店に行ってこう言ったとあった。
「これまで髪型というものをやったことがないので、ひとつ髪型というものをやってください」
 そんなふうに言われた理髪師もさぞかし困ったことだろう。いまの僕も「髪型」になっていない。坊主の髪が伸びただけの状態。いつも行っている髪を切ってくれる店に行きたいが時間がないし、そもそも東京の店だ。ふつうの床屋では坊主頭といったらバリカンだが、いつもの店ではハサミで丁寧に坊主にしてくれる。すごいと思うのはハサミだけで坊主頭にしてくれるばかりか、頭の形に合わせて微妙に長さを変えているところだろう。頭のてっぺん周辺に少しくぼみがあるが、そこは少し長く刈り、全体がきれいな坊主頭になる。見事な技だ。それにしても、坊主頭にした当初、会う人が口をそろえて、「頭の形がいいですね」と言ったのだが、それはほめ言葉だろうか。よくわからない。だいたい、頭の形を自分で確認できないので困る。

■明け方、ようやく原稿をひとつあげ、睡眠。午後から稽古。
■それほど長くはないが、きちんと睡眠を取ったせいか稽古に集中できた。「通し」をやって弱いと感じた部分を細かくやる。だいぶよくなってきた。稽古は不思議だな。なにしろ、やればできるようになる。ただ、「できるようになる」のと、「表現」はちがう。「できるように」するのはわりと簡単である。それをどこまで深めてゆくか。だから稽古は反復する。ただただ反復。反復の過程で俳優のなかに変化が発生すればと思う。あるいは稽古場にいることの意識のありよう。待っているとき、人の稽古を見ることで生まれるものがある。俳優としての自覚はそんなところに出現するし、「見る力」がそうして養われそれが俳優にどれだけのことを与えるか。
■来年の公演のためにこの秋、ワークショップをやる。
■オーディション形式になっていて、一次から三次まであり振り落としてゆく。試しに走らせようと思う。走れば俳優になれるってものでもないが、走らなければいけないし、からだは鍛えなくてはいけない。驚くだろうなあ、一次のワークショップではひたすら走らされる。一日に30キロ走る。タイムを計って振り落とす。まさか僕の舞台でそれはないだろうと思っているだろう。しかもタイムが早い者が残ると思うだろう。一週間かけてようやく完走した者、走り方が面白い者、走り終えたあとの態度が面白い者が残るとしたらどうだ。
■そんなワークショップをやったら面白いという話。どうなるかはまだわからない。内容は未定。

■夜、家に戻ると、韓国が負けていた。準決勝から韓国の勢いがなくなったのは疲労のせいだけではないのではないか。審判の問題、判定への疑問など様々に取りざたされている。選手とは関係ないところでものごとが動く。その影響がきっとある。ワールドカップもあと一試合で終わりだ。いよいよさみしい。

(5:41 Jun.30 2002)


Jun.28 fri.  「だめだめの稽古」

■朝五時に眼が覚めるとひどく体調が悪い。きょうは夜まで稽古がある。これはだめだと思って、午前中にある一年生の授業を休講にしたほうがいいかもしれないと考えたが、「テキストを読む」という課題の発表でこれは先週とのセットだから意味がある。一週あけると意味がないし、午後からは舞台表現の授業、稽古のことを考えるとからだを休めたいし、うんうん唸りながら逡巡しているうちに、もう七時になった。
■出かけることにした。
■朝九時から授業。いきなり最初の学生が、山の上のほうで発表。登る。歩く。ひどく疲れた。
■午後から春秋座で「舞台表現」の授業。通し稽古をする。どこがまだ進んでいないかチェックするための通し稽古だ。僕にまったく集中力がない。ほとんど細かいだめが出せないし、稽古を進める気力が出せないので、それはすぐに学生に伝播し、稽古場自体がだめである。無意味に時間が過ぎてゆく。
■だめな稽古だった。授業としても意味がない。
■そんな状態なので、稽古の途中で音響がPAで出す音のきっかけの指示をまちがえた。音響を担当する学生が「聞いてません」と怒っている。ふだんの稽古だったら、ここで音響を蹴っていたかもしれないがっていうか、変更にすぐ対応してくれない音響さんとは仕事できないが、学生だからがまん。そもそも僕のまちがいだし。
■早めに稽古を終える。ぐったり疲れて家にもどったのは夜の八時半。眠る。 で、深夜、原稿を書く。

(6:28 Jun.29 2002)


Jun.27 thurs.  「せっぱつまってる人になにを言ってもむだ」

■朝から「舞台表現」の授業で、春秋座を使って『おはようと、その他の伝言』の稽古。朝は集まりが悪く、遅れてくる者続出。ちょっとずつ進行。まだまだである。春秋座の舞台はリノリウムを貼るなどまだ養生をしていないので自転車を走らせられない。自転車の部分の稽古が遅れる。ほかにも遅れている部分いろいろ。
■午後、部屋に戻ってひとまず睡眠。夕方、眼を覚まし原稿を書く。「資本論を読む」。というわけで読むのである。文字通りまずは読む。とはいうものの、「一冊の本」に連載している横光利一の『機械』を読む連載にしろ、「資本論を読む」にしろ、締め切りに迫られいつも中途半端な気がしてならないのだった。落ち着いて読み、書かなければと思うが、いつもせっぱつまっている。
■筑摩書房から出す単行本の初稿ゲラが宅急便で届いたので、そのチェックもせねばならないし、筑摩書房ではなにより「明治の文学」の解説の締め切りが大幅に遅れている。大幅というか、けた外れである。でたらめなほどである。ほんとうに申し訳ないが、せっぱ詰まっている人になにを言ってもだめだ。まったくだめだった。
■ほかにもやることいろいろ。とにかく稽古を進めなくてはいけない。

■このあいだまで参宮橋に住んでいたT君からメール。三月の「サーチエンジン・システムクラッシュ・ツアー」にも参加してくれたT君だ。せっぱつまっているときのメールはうれしかった。ツアーで知り合ったガルヴィのNさんらと飲んだという。人はどこで出会ってしまうかわからないものだが、楽しそうでうらやましい。飲めないけれど、そう思う。
■去年のこの時期は扇町でワークショップをやり、帰りの阪急電車がことのほか楽しかった。ワークショップをやるのは体力的な負担があるが、帰り、京都まで着くあいだずっとしゃべりっぱなしだ。どうかと思うような状態。ああいうこともたまにはないとだめである。
■原稿を書かなくてはいけない。

(23:51 Jun.27 2002)


Jun.26 wed.  「結果的に変化していれば」

■朝方まで坪内逍遙を少しずつ読み進め、その後、睡眠。
■午後、遅い時間になって目を覚ますと学校へ。稽古。studio21の下にある実習室で夕方6時半まで稽古したあと、春秋座の舞台裏にある大きなスペースに移動。また稽古。相変わらず人が集まらないが、それでも来た学生たちは台詞がきちんと入りはじめた。ようやく稽古らしくなってきたがちょっと遅い。しかもダブルキャストだから細かくやっているとすぐに時間がなくなる。
■流して芝居してもらい、わりとおおざっぱに意見をするという稽古方法。たまに、どうしても気になるところは細かくやる。こうやって動けと指示する感じだが、なかなかできなくて歯がゆいところもあるし、しかし時間が足りない。おまけにダブルキャストの一方ができたと思うと、もう一方がまだだめで、また同じことを繰り返すやり方。ダブルキャストは大変である。
■だけど、流してそれを見、わりと抽象的な言葉で意見してもそれを理解して芝居が変化する。自分たちで考えているのが頼もしい。こういう稽古の方法もあるのだな。あとは反復。反復し、丁寧に芝居し、そのなかでおのおの発見があればと思う。まだこれから。

■とはいうものの、去年のやみくもな稽古よりずっとノウハウを獲得し、効率的になっていると思うし、12キロ痩せてしまった、去年のどうかと思うような状態よりはよくなっている。あれを続けていたら死んでいた。少しは余裕が今年はあるが、それも学生たちのおかげだ。
■夜、眠る直前、ふと演劇に関する本が読みたくなる。ぱらぱらと読み、新しい舞台のことを考える。来年の一月の舞台。やりたいことがわいてくる。これまでと異なることがしたい。「ちがうことをやる」という意識で作るのではなく、この二年間の時間が自分のなかに変化をもたらし、結果的に異なる舞台になっていればと思う。京都、大学、あるいはパリ、その周辺で受けた刺激はじゅうぶん変化を与えてくれているように思うのだ。二年間はむだではなかった。ような気がする。

(7:21 Jun.27 2002)


Jun.25 tue.  「いつもこんばんは」

■きのうの午後、「なぜか23日分の日記を削除してしまった。誰か奇特な方で保存している人はいないだろうか」とこのノートに書き、保存している方がいたら送ってくれるようおねがいしたところ何人もの方からメールをいただいた。無事23日分は復活したのだった。ありがとうございました。
■ニフティで知り合ってもうずいぶん長くなるコンピュータ関連の文章をいくつもの雑誌に書かれているFさんからも送っていただいた。Fさんは、つかこうへいさんのすすめで芝居を書いたとのこと。驚いた。作・Fさん、演出・つこうへいという舞台で、来年の4月に公演があるようだ。とリンクするとなにもわざわざ「Fさん」と表記するのも変ですが、なんというか、これもならわし。
■人はメーラーをどのように設定しているかわからないが、僕はリストの部分、最新の日付のものが上に来るようにしている。寝屋川のYさんのメールが7月24日という未来から来てしまった。だからここしばらく、Yさんのメールが必ず先頭に来ることになる。標題は「こんばんは」。メーラーを開くと決まって目にはいるのは「こんばんは」。朝も「こんばんは」。昼間も「こんばんは」。夜はいいとしても、いつも「こんばんは」ってことはないじゃないか。
■先日、関西の劇場が次々閉鎖されてゆくことを書いたが、Yさんによれば、近鉄劇場、近鉄小劇場も閉鎖という話。関西は、とくに大阪はもうだめになりました。京都です。これからは京都。演劇だったら京都。

■朝9時から一年生の「舞台基礎」の授業があるが、なぜか午前二時に眼が覚めてしまった。眠れないので舞台芸術研究センターのサイトを更新しそれから家を出た。Cクラス。自分が読みたいテキストをそれぞれが選んだ場所で読む。学校中を歩いた。大学は山の斜面にある。その頂上付近で読むという者がいて、またあそこまで登るのかと思うとめまいがしそうだったが、その学生が来なかった。一安心と思ったら、遅れてきた。歩いた。声を聞いた。様々な声を聞くのは面白い。
■23日のサッカーの話はかなりでたらめを書いたつもりなのだが、「読んで少しサッカーのことがわかった」という人がいた。いや、あれでわかったら、サッカーのほんとうのファンたちが怒ると思う。ところで、遊園地再生事業団はこれまで劇団の形態をとらず、演劇の制作集団として、僕と制作の永井のふたりでやっていたわけだが、来年の公演からしばらく固定したメンバーで長期的にものを作るシステムにしようと考えている。とりあえず4年だ。4年で輪郭を作る。そして目指すはドイツ。みんなで貯金しドイツに行く。ワールドカップかよ。
■午後、家に戻る。眠った。すごく眠った。

(6:36 Jun.26 2002)


Jun.24 mon.  「音楽はたのしい」

舞台芸術研究センターのサイトを少しだけ更新。

■夕方、学校へ。ストリートミュージシャンの役を振られている学生たちと音楽作りと練習。面白かった。すごくよかった。そもそも音楽は楽しい。生で音楽が鳴っているだけで楽しくなるのだ。
■今回は、MDを使って音楽を流すのはごく少なく、ほとんどがストリートミュージシャンによる演奏と歌。Bチームでストリートミュージシャンを演じるY君のギターはすごくいいし、Mの歌もよい。個人的な僕の趣味のためだけに歌ってくれとせがむ。少しずつできてきた。
■さて、だめだめなAチームのストリートミュージシャンも少し形が見えてきつつある。でもあの「だめ」がよかったんだよな。しかし「だめ」だけではほんとうにだめなのであって、「だめの魅力」を生かしつつ音楽としてもきちんとできたらきっとすごくよくなる。
■きょうは音楽の練習だけで終わる。集まったのはふと気が付けば映像コースの学生たちばかり。しかもほとんど男。舞台コースの男がだめというわけではないし、舞台コースの男たちも魅力的だが、僕が遊園地再生事業団の舞台に出すのはこの映像コースの学生のような連中ばかりだ。まあ、なんていうか、誤解を恐れずに書けば、「いま」なわけですよ。

■八時半まで練習して学校をあとにする。こういうとき酒が飲めたら、「どっか飲みにゆくか」と学生を誘うのだろうけれど、遊園地再生事業団の稽古でもそうだがきまって行かない。すぐに家に帰る。つきあいが悪いよ、俺。いやそれはいまにはじまったことではなく、昔からそう。むしろ昔は「酒を飲む場でのコミュニケーション」をかたくなに拒否していた。
■というのも、「演劇」の人たちの、「稽古が終わったら酒」「舞台がはねたら酒」という、あのなんともいえぬ空気になじめなかったし、むしろそれが「演劇」に対する抵抗だと考えていた。いまはそうでもない。誘われたらゆく。人と話をするのは嫌いではないし、昔に比べたら人付き合いがよくなったと思う。
■考えてみれば、あまり友だちがいないのである。むかし(80年代)の友人たちとはすっかり疎遠になった。テレビなどでたまに見かけるとみんな太っている。ナンシー関は昔からだけど、悔やまれるね、痩せろと誰かがはっきり言うべきだった。からだに負担になっているのは当然じゃないか。ずいぶん会っていなかったが、いつかどこかでまた会えると思っていると遠くで友人が死ぬ。会っておくべきだ。ほんとに会えなくなってしまうことを後悔する前に。
■ワールドカップサッカーも終盤になり、さみしいと思っていたら、ウインブルドンテニスがはじまった。家に戻るとセンターコートのオープニングマッチにアガシが出ていた。アガシ、圧勝。つくづくスポーツ観戦が好きだ。しかし、テニスの点数の入り方が不思議でならぬ。ポイントを上げると、15点ずつ入る、その15点の根拠が判らないし、30点までゆくと次が10点で、合計40点になる。次にポイントを取ればそのゲームは勝ち。わからない。サッカーに比べちょっと複雑なルールを覚えるとテニスというゲームは面白い。テニスなんて、おまえ、「あんなちゃらちゃらしたもの」なんて偏見をかなり長い期間抱いていたが、最近、やけに面白いのだった。
■ワールドカップから次はウインブルドンへ。そして野球。さらにJリーグ。スタジアムに出かけ生のゲームを観なければいけない。あと、映画と演劇。劇場へ足を運ぶ。まあ、なんていうんでしょう、どうもおっくうになって映画もビデオでいいかって気になるのはいかんです。

■そして本を読む。
■読書の夏。とりあえずいま仕事だからと、死にものぐるいで坪内逍遙を読んでいる。それで思いだしたが、うちの大学内にある舞台芸術研究センターが出している『舞台芸術』という雑誌を少し読んだが、たとえばニブロールの矢内原さんの原稿など期待したら量的に物足りなくて、「なんだ、もう終わりかよ」という気にさせられた。いくつかの原稿がそうだった。編集作業が大変だったのだろうか。でも、世田谷パブリックシアターの『PT』なきあと、いまや読むべきは『舞台芸術』である。
■サイトにその告知ページも作らねばならぬ。
■しかし、『資本論』と「坪内逍遙」がなあ。

(3:56 Jun.24 2002)


Jun.23 sun.  「ルールは改変される」

■久しぶりの休日。家の近くにある「ルゴール」というカフェでコーヒーを飲む。ただぼんやりしていた。考えていたのは、去年の9月11日のことやいろいろ。店にあったSTUDIO VOICEを読む。ダンスに関する記事に、ニブロールや、天野由起子さんのことが取り上げられていた。また見に行きたい。
■関西では小規模の劇場が次々と閉鎖される傾向にある。コンテンポラリーダンスを多く上演していたトリイホールもなくなるというし、OMSもなくなる。これはかなりまずい。この国の演劇がいよいよ東京中心になってしまうおそれがある。演劇を志す者がみな東京へ流れてゆくことをそれは意味し、となるとですね、「演劇をやるために東京の大学にゆく」という状況がちょっとあれであり、ここはひとつ、目先の問題より京都の演劇地盤を活性化することが、うちの大学にとって必要じゃないか。つまり、「演劇やるんだったら京都だよ」といった流れを生み出し、それがしいては……(以下略)
■京都はいい町だ。ルゴールにいたらなぜかそう感じた。カフェでのんびりするのも久しぶりだったので余計にそう思った。

■韓国はこのまま優勝するかもしれない。
■かつて日本がバレーボールで世界最強だった時代がある。ヨーロッパのバレーボール関係者はそれにがまんならず、ネットの高さを上げるなどのルールの改変をし、日本にとって不利になった。べつに日本のバレーボールがどうなろうと知ったことではないが、ヨーロッパのやり方、その根本にある思想が気になる。なにしろフランスでは極右のルペンが大統領選で18パーセントも支持を受けたのだ。その「思想」は韓国が優勝したらサッカーのルールを一部変えさせるだろう。
「ゴールの幅を狭くし、しかし、少し高くする」
 とんでもないことを考えたものだ。アジアのサッカーにとっては痛手である。高さに弱い。やるね、やつらは。まず、イタリアがそう言い出す。次にスペイン。今後の展開ではドイツも言う。

 韓国のヒディング監督のことをきのう書いたが、ワールドカップのようなお祭には、ロジカルな戦術家よりああした意味不明な勢いを持った監督が強い。意味不明な勢いが審判をも動かす。誤審なんかあたりまえである。なにしろ意味不明だ。どう考えてもあの試合はスペインが勝っているが、祭はなにが起こるかわからないし、意味不明の前ではルールなんかお手上げである。祭とは本来そうしたものだ。トルシエは日本代表をベスト16まで進めたという実績と、ロジカルな戦術家としての印象を残して日本を去り、ヨーロッパのクラブチームの監督になるだろう。「祭」ではない、「現実」において戦う方法とその姿勢を、あのトルコ戦でしっかり印象づけた。どこまでもクールな賢い人である。

 同時に、そうした戦術家のもとで育まれた日本のサッカーはきっと進化する。あれこそ意味のある敗戦だったとのちの人は語る。負けたからこそ価値がある。なにかの拍子にあの試合を勝ったらやはり勢いだけで終わってしまい進化は止まる。負けてなによりだった。あとは栄養か、突然変異だ。イタリアのビエリのようなFWが出現するのを待とう。

■深夜、僕の舞台によく出ている笠木から電話があったので久しぶりに話しをした。ジャン・ジュネの『屏風』をパリで観たことは以前書いたが、その出演者のオーディションが日本であったという話ははじめて聞いた。その最終選考に、なにかのまちがいで笠木が残ったという。だけど結局、日本人は一人も選ばれず、そのかわりに結城座の人形たちが、世田谷パブリックシアターでも公演される『屏風』で重要な役割を演じている。
■いまの日本人のからだより、結城座の伝統的な人形にフランス人は魅力を感じた。
■やつらはやるね。きっとルールを改変する。

(4:37 Jun.23 2002)


Jun.22 sat.  「加茂周の解説を味わう」

■午後から稽古だったが寝過ごしたのである。遅刻した。
■それには伏線があり、早朝に眠ったにもかかわらず、朝9時少し前に宅急便が来た。荷物はたしかに受け取ったが、そのときどのような状態で出ていったか記憶がない。すごくだらしない状態で玄関に出て荷物を受け取った気がする。それで起こされ、しばらく眠ることができなかったがやがて眠る。携帯にセットしたアラームで目を覚ましたが、それを切ったらまた眠ってしまった。
■失敗した。学生たちに悪いことをした。それでも自主稽古をしていてくれたので助かった。
■夜7時過ぎまで稽古。
■きょうの発見は、Aチームのストリートミュージシャン役の者らである。ダブルキャストで公演することはすでに書いたが、むろんストリートミュージシャンも二チームある。Bチームでは以前書いたMの歌と、東京の僕の家にも遊びに来たY君がいて音楽としてもしっかりしている。で、Aチームが問題。楽器もままならぬ者らだ。だめである。そして、その「だめ」が魅力的である。ほんとうにだめなんだこれが。面白かったなあ。

■いま注目すべきは、加茂周さんのサッカー解説だ。近所のサッカー好きの老人のような解説がうならせる。「あ、お、すごい」とか、「あ、チャンスだ」と、テレビを見ているサッカー好きがテレビでしゃべっているのかと思った。かつて日本代表の監督もしていたくらいだからすごい人のはずだが、どんどん味わい深くなってゆく。NHKのダイジェストでは、解説していたかと思ったら突然の沈黙ではらはらさせた。いまは加茂だ。東京の僕の家の近くに「サッカーショップ・カモ」があって日本代表の試合のときは店の前に人が群がっていたらしい。ワールドカップが終わったら「サッカーショップ・カモ」がどうなってしまうか気がかりだ。あと長谷川健太は微妙に静岡のなまりがある。
■それにしても、あのトルコ戦。問題は、中田浩二がものすごくだめなパスミスをした直後のトルコのコーナーキックだ。見ている誰もが点を取られるだろうと予感した。テレビを見ているこちらがそう予感したくらいだから、ピッチに立っている選手がそう感じないわけはない。ミスのあと80パーセント失点するのが勝負事だ。そこになにかが発生するのだろう。いやな予感がすきを作りだす。トルコの選手を一人、フリーにしてしまった。サッカーに限らず、だからスポーツは面白い。
■Mさんという方からサッカーについてのメールをもらった。
スポーツを観るという行為には、人間の身体能力の素晴らしさをほれぼれと眺める、という側面のほかに、阪神ファンでおなじみの「浪花節」的観戦の仕方がついて回るように思います。
 そうだな。たしかにそれもある。特に後半は「物語化」ということだと思うけれど、スポーツに限らずあらゆる場所で「物語化」はしばしば発生する。それから逃れなければいけないが、人は「物語」に弱い。同時に「物語るまいぞ」と思うが、物語りたくなってしまうのも人の常である。それはさておき、「フィジカルの魅力」も「物語」もスポーツ観戦にはあるが、やっぱりゲームとしての面白さを見たいと僕は思う。「ワールドカップという物語」はMさんもメールに書いている通り巨大な物語だが、そこから逃れてゲームを見なければ。戦術のかけひき。技術。ゲーム中の選手たちの微妙な心理のあやなど、あらゆるスポーツが持つゲームの魅力。

 きょうあった、トルコとセネガルの試合を見ると、つくづくトルシエ監督の戦術家ぶりにうなるのだった。なにしろきょうのトルコはちゃんとゲームを作っていた。トルシエはトルコに対して、陣形をワントップにし、中盤を分厚くしてトルコにつなげさせない戦術に出ていたのだろう。トルコ、全然、だめじゃないかと思ったのはかんちがい。トルシエの戦術勝ちだ。そしてワントップだったら西澤しかいない。ところが、中田浩二のパスミスに端を発した相手の先制点が計算を狂わせた。あるはずのない失点だったのだあれは。そして、トルシエはクールでロジカルな人でもあった。試合前から決めていたのだろう選手交代をきっちり行う。ここが韓国のヒディングとは異なるところで、イタリア戦、一点ビハインドの場面で攻撃的な選手をヒディングは次々と投入したが、あれ、どう考えても論理じゃない。感情のおもむくままだ。

 Mさんは、日本代表とロシアの試合をバリ島で見ていたという。
ホテルのラウンジの大画面で日本対ロシア戦を観たとき、事前に仕入れた「物語」だけで、わたしは、まったく意味の分からないインドネシア語の中継であっても、90 分、びっちり集中することができたのです。
 たしかにそうだと思う。だからこそ、「物語」をつきぬけ、「ゲーム」の魅力をそこから発見し、むきだしの「ゲーム」にたどりつかなければと思うのだ。そのためには、スタジアムに行く。サッカー場でも野球場でもそうだが、そこにはむきだしのゲームがある。なにしろ中継のアナウンサーも解説者もいないのだ。それにしても中田浩二だ。日本は戦術的にトルコを圧倒していたがミスによってなにかが狂った。ロシア戦であんなにいいパスを出し、技術的にもすぐれた中田浩二がなぜあんな単純な、そして決定的なミスをおかしたのだろう。ミスは誰でもおかす。いかにそこで動揺せずに立ち直るか。高度のレベルでのゲームにはそれが要求される。サッカーが過酷なのは、野球のように、そこでちょっと一呼吸おいてという時間が許されないことだ。ピッチに立った選手が自分の考えで動く。このあたりは舞台に似ている。舞台に立ったら、あとは演出の指示を受けることはできない。

■フランスから日本に帰るとき、空港まで乗ったタクシーの運転手さんが、ふつうだったら「いい旅を」というところで、気をきかせクルマを降りたわれわれに、「いい試合を」と言ったのだった。あれからもう一ヶ月か。ワールドカップ、終わっちゃうんだな。さみしい。

(7:44 Jun.22 2002)


Jun.21 fri.  「一日、はたらく」

■朝から一年生の授業。午後、「おはようと、その他の伝言」稽古。
■一日働いてくたくただが、考えてみればこれがふつうの労働だ。月金でこれが続いたらだめになる。学校と自分の仕事を平行してうまくやれると思っていたが、連載はともかく、小説や戯曲が書けない。まとまった仕事ができないのだった。しょうがないか。それは覚悟の上である。
■大学にしろ、ワークショップにしろ、このまま「教える人」になってしまうのではないかと不安である。どこまでも作家でいたいのだった。だけど発表公演が終わるまでは稽古に集中だ。ひとつひとつ集中しないとみんなだめになる。丁寧な仕事をしてこその作家だ。稽古で学生が変化してゆくのを見るのは面白い。受講している学生が多すぎて全員に目を配れないのが残念なところ。もっと細かく稽古したいし、稽古の出番を待つ学生が、人の芝居をどんな目で見ているかが大切なポイント。そこまで見る余裕がどうもない。
■夜、家に戻ってまた仕事。イングランドとブラジルの試合をビデオ予約したがうっかりニュースで結果を知ってしまった。やたら損した気分になる。静岡、というか、試合のあった袋井にあるエコパはさぞかし盛り上がったのだろうな。3月、静岡に帰郷した際、父親のクルマを借りてエコパの駐車場まで行ったのを思い出す。あの頃はがらがらだった駐車場もきょうは満車だったろう。
■サッカーはともかく、考えることいろいろ。少し本を読む。だけど稽古。いまは稽古に集中。

(3:04 Jun.22 2002)


Jun.20 thurs.  「京都は雨だった」

■もちろんPAPERSもそうだし、舞台芸術研究センターのサイトも更新しなければと思っているが、時間が足りない。
■京都は朝から雨。
■午前中、「舞台表現」の授業で、『おはようと、その他の伝言』の稽古。少しずつ進める。学生それぞれの、技術というか、表現力に差があるので、進み具合がばらばらなのがむつかしい。なにより稽古していてうれしいのは変化してゆく学生がいるときだ。だめだなあと思っていたのに、少しずつよくなってゆく。それより最初からある程度の演技ができ、しかし変わらないのはつまらない。稽古場で発見することの意味、稽古場の意味がそこには感じられない。稽古場と、稽古の面白さ、あるいは困難、共同作業の意味がわかってくるのがいちばんだと思うし、俳優になるとか舞台関係の仕事をしなくても、なにかの役に立つのではないか。というか、人はどうあがいても、経験とか、体験が、からだにしみこむ。それが将来、どんな姿になって表現されるか興味深い。
■午後、家に戻るとすぐ眠くなる。眼が覚めたのは夜。メールをチェックすると朝日新聞のOさんから『青空の方法』が増刷になったとの報せ。単純にうれしい。新潮文庫から『百年目の青空』が文庫になるのだが、ゲラチェックばかりかいろいろ問い合わせがあったにもかかわらず、返事が遅くなっていた。まずいな。学校のことであたまがいっぱいだ。サッカーも見ていたけど。

(23:54 Jun.20 2002)


Jun.19 wed.  「生き生きとしてきた稽古場」

■ほんとうは休日だが、夕方から稽古をしに学校へ。ちょっとずつ稽古が進む。
■初演時の『おはようとその他の伝言』には、「男」という役があるがある程度年齢がいった者が演じなければだめなので、その役そのものをばっさりカットし、新たにストリートミュージシャンという役を作った。路上に腰を下ろし音楽を演奏する。映像コースの二年生でMという学生がいるが、Mが英語で歌った。すごくいい。驚いた。いつまでも聞いていたい気持ちになった。Mは芝居は未経験だし技術的には未熟だが、潜在的に持っている表現力にしばしば驚かされる。
■うまく引き出せたらとんでもない女優が出現するかもしれない。

■で、各自、いろいろ工夫し、考え、面白くなってきた。稽古場が生き生きしてきた印象。
■相変わらず稽古にこない学生がいる。これには毎年悩まされる。
■それでもちょとっずつ前進。もう時間がないのだ。

(7:11 Jun.20 2002)


Jun.18 tue.  「大人ということについて」

■もっとサッカーを見なくてはいけないと決意した一日である。
■そういえば、10年以上前の正月、ある病気で入院していた。退院した日、退院したその足で病院からタクシーを使い国立競技場に向かった。サッカーを見るためだ。ばかじゃないかとそのときは思ったがあれは正しい行為だった。あれこそが正しい人間の生き方だ。四年後はドイツ。そして東京に戻ったら自転車で国立にまたサッカーを見に行こう。
■ヨーロッパのチームの試合を見ているとパリの町の匂いがふっと記憶としてよみがえる思いがする。たとえではなく「におい」そのもの。で、パリ、ヨーロッパ、サッカー、演劇と、これらがすべて何かの力でつながったのだった。これはきっと来年の舞台に反映するだろう。反映するからって、バリを舞台にしたサッカーの芝居をやるわけではけっしてないが。

■昨夜、やけに眠れなくて睡眠不足のまま、朝から「舞台基礎」の授業。自分が選んだテキストを読む。なにを読むかもあるが、むしろ、声、読み方を聞いていればなんとなくその人がわかる。今年の一年生はちょっと子どもが多い印象。「大人になる」とはよく言われる言葉だが、どう大人になるかが問題だろう。世の中には様々な大人がいるから一概に大人がいいわけではない。鈴木宗男はすごい大人だ。権力を使うことに遠慮を知らない見事な大人。大人はまた、「反復」や、「変化しないこと」に耐えられる点においてかなり大人であるが、僕はその点がまったくだめだ。
■しかし、人はふつう、「反復」や「変化しないこと」に耐えられるものではない。そこをぐっとこらえ「変化しない」と覚悟する態度はそれこそがまさに大人だ。寿司屋がいきなりフランス料理も出したいと思ってはまずいのである。ただ「惰性」と「変化しない覚悟」はよく似ているから微妙だ。「惰性」は変化していないようだが、じりじり後退している。「変化しない覚悟」は、変化しないその位置でぐっと力をこめている。
■今年もワークショップをやるが、「変化しない覚悟」ではなく、「惰性」になっている。なんとかしなくてはと思うが、方法というか、手法、やり方を変えるのではなく、ワークショップそのものについてあらためて考える必要を感じる。そこでなにを生み出すかという問い直し。大学の授業もそうなのだけど。

■原稿がいくつか書け、ちょっと油断したので本を読む。「論語を読む」をWEBで連載することになっており「論語」関連の参考書に目を通したら思いのほか面白い。久しぶりに落ちついて本を読んでいる。稽古も進めなければ。せわしない毎日だが、大学にいるこの時期は落ちついている暇がないと覚悟をきめた。それでも前へ。少しでも前へと進みたい。

(5:38 Jun.19 2002)


Jun.17 mon.  「稽古をする」

■夕方、学校へ。稽古である。
■休憩なしで三時間の稽古。AとB、二つのチームをバランスよく稽古したいが、うまくいかない。同じ進行で進めるのがもっとも望ましい。Aばかり細かくやってゆくとBがおろそかになる。そもそも学生の集まりが悪いので、別チームの学生が代役をつとめることになり、となるとその学生だけ稽古が進む。
■八時過ぎ、65番の最終バスに乗りたくて学生より先に稽古場を出ようとすると、「サッカー見たいんでしょう」と学生に言われた。いや、そうではない。けっしてそうではなく、そうではないものの、それも少しあるというか、たしかにサッカーは見たいが、65番のバスに乗りたかったんだ。バス停に着いたら65番の最終バスまで30分あるとわかった。8時半まで稽古ができたのか。
■家に戻ると、毎日新聞に書いた原稿のゲラが届いていた。見れば、まだ髪が長いときの写真が掲載されている。困った。研究室のKさんからきのう書いたことについてのメールをもらった。同感だという内容。「何で気が付くのは今なんでしょうね」とある。やってみないとわからないことはいろいろある。ノウハウの蓄積は何だって時間がかかる。

(0:18 Jun.18 2002)


Jun.16 sun.  「いろいろする日曜日」

■洗濯をした。原稿も書いたし、サッカーも見た。月曜日までに書いておかなければいけない原稿を終え、気分が少し楽になったので小説を読む。
■ふと来年のことを思う。もし来年も大学で教えるなら、二年生が中心の「舞台表現」の、僕が担当している前期は、「発表公演」ではなく、「ドラマリーディング」をはじめ、もっと小さな試みを連続するべきではないか。本格的な発表は後期でもいいし、前期はその準備のためのレッスンとしてあればと思うのは、俳優もそうだがスタッフなど経験がない学生らが手探りでやっており、中途半端な仕事で終わってしまうのはあまり意味がないと感じるからだ。発表までの経過で学ぶことは、口で説明するより「経験する」という意味で確実にあるものの、俳優、美術、照明、音響、舞台監督、制作、衣装など、それらを一気に学ぶには限界がある。
■時間に追われ、雑になるのは意味がない。ひとつひとつ丁寧にやるべきだ。
■そのための、「小さな試みの連続」。「舞台表現」の授業を二年やってようやく気がついた。

(15:08 Jun.17 2002)


Jun.15 sat.  「逃避する一日」

■原稿を書こうと思うが眠いのであった。すごく眠い。すきあらば眠ろうとする。原稿を書こうとするといよいよ眠くなる。仕事のことが気になってほかに集中できず、早くすっきりしたいがやっぱり眠い。逃避である。
■兵庫県立美術館と奈良に行きたいが、その余裕もいまはない。
■というか、京都に住んでいることの意味がないほど余裕がないまま、学校とコンピュータの前の往復だ。ただ、たとえば学校から帰るバスを烏丸丸太町で降り、ふだん歩いたことのない道を入ってゆくと、感じのいい蕎麦屋を見つけたり、カフェを見つけるのはこの町で生活しているからにちがいなく、そうした発見は楽しい。
■自転車で走る途中、橋で休んで鴨川を見るだけでも気持ちがいい。ずいぶん贅沢をしている。

■いまの三年生はわりとのんびりした学生が多かったが、「舞台表現」を受講している二年生はおどろくような熱情を持った者が多い印象がある。「有名になりたい」とストレートに口にする者は特別だが、「ものを書きたい」と言う学生など、表現欲にあふれている。そうした学生たちにどうアドバイスしてあげたらいいか言葉がうまく出てこない。
■むしろ、逆に刺激される。
■なにしろこちらは原稿を書こうと思うと眠くなってしまう者なのだ。
■眠い。眠い。とにかく眠い。

(6:05 Jun.16 2002)


Jun.14 fri.  「せっぱつまっている」

■朝5時に眼が覚めてしまった。寝不足のまま学校へ。
■一年生の「舞台基礎」の授業を午前中に終え、午後は「舞台表現」の稽古だが、稽古に集中したあと学生らとサッカーの観戦をした。一人で観るのもいいが大勢いるとそれはそれで面白い。ドーハの悲劇から九年になるかと思いだすと不思議なのは、学生たちがまだそのころ子どもだったことだ。もうそんなになってしまうのだな。あと、森島のインタビューで、「珍しく器用なシュートでしたね」という質問がありそれを「失礼」と言っていた者がテレビに出ていたが、質問者が堀池だってことの意味がわからないのか。Jリーグがはじまったころ、「サッカーは野球よりスピード感があって面白い」とまぬけなことを言っていた当時はまだオフサイドも知らないニュースキャスターがいたが、異なるスポーツにはそれぞれの魅力があるのであって、「100メートル走のほうが、マラソンよりスピード感があって面白い」とは誰も言わないだろう。で、Jリーグの人気がかげるとサッカーに見向きもしなかったくせに、ワールドカップになってまた大のサッカーファンとして登場。恥ずかしいということを知らない人はすごい。
■しかし、ワールドカップはある種の見本市なんだな。ヨーロッパのクラブチームへ自分を売り込む絶好の機会だ。しかしあれはどうなんだろう。あの契約金の高騰と、どうかと思うようなサッカービジネス。稲本が所属しているアーセナルが、このワールドカップで活躍する稲本を、いまなら高く売れると放出しようとしているらしい。株の取引みたいなもんだねこうなると。

■夕方、家に戻ると、早速、『一冊の本』のOさんから電話。原稿の催促。今朝締め切りだったのを忘れていた。原稿を書かねばと思いつつ眠る。とにかく眠い。眼が覚めたのは『ガルヴィ』のNさんの電話。まだ目が覚めていないのでなんだか変な受け答えをしたような気がする。
■それで原稿を書く。あしたまでに一本。月曜日までに二本。あと月末までにはいよいよぎりぎりになった『明治の文学』の解説。新潮社から届いた文庫本のゲラのチェック、筑摩書房から出す本のことも考えねばならないし、なにより岩崎書店の絵本があるではないか。あと小説。まずい。
■稽古も進めなくちゃいけないが、仕事も山積。そんなときにかぎってワールドカップだ。そういえば試合を終えて日本代表の選手が帰る新幹線の駅は、うちの両親が住む町である。サッカーには関心のない父親だが騒ぎが好きだから犬の散歩のついでに駅まで見に行っているのではないかとそれが心配だ。あと代表の合宿所がある森町は、去年の5月、『月の教室』を上演した「月見の里」の先だ。その舞台に立っていた伊地知が合宿所を見に行ってやしないかとそれも心配である。
■決勝トーナメントの組み合わせを見ると、袋井にあるエコパでことによると、ブラジル対イングランドというすごい試合があるかもしれず、こんなことなら、地元枠を利用し親の名前で申し込めばよかったと思う。

(4:07 Jun.15 2002)


Jun.13 thurs.  「体力の勝負である」

■午前の授業は「舞台表現」。春秋座の舞台を使った稽古はやりやすい。そもそもどれだけの距離があるかからだで理解できる。少しずつ稽古を進める。学生の集まりが悪い。しょうがないか。去年に比べたらずっといい。
■いったいこういう稽古をいつまで続けられるのか不安になるのは体力的なことで、稽古が終わるとへとへとになる。ただ座っていて、俳優がすることを判断するとか、俳優の自主性に任せ考えさせる稽古ができればいいが、どうも気になって細かく口を出したくなる。演出の方法を考えないとからだがもたないなこのままでは。
■午後、すぐに帰宅。食事。睡眠。原稿を書く。午後から本格的な暑さである。梅雨のはずなのに乾燥注意報。どうなっているんだ地球は。

(23:44 Jun.13 2002)


Jun.12 wed. 夜  「稽古」

■夕方から「舞台表現」の稽古。出席者が少ない。やりくりして稽古する。
■なにしろダブルキャストなだけに稽古も倍かかるものの、他チームの稽古を見ていればその場面でなにが求められているかは理解できるはずだ。だから見なければいけない。八時過ぎに稽古を終える。
■家に戻って知ったのはアルゼンチンの予選敗退。イングランドサポーターがアルゼンチンの予選敗退を喜んでいるのが腹立たしい。そういえば、ニュースで知ったが、カメルーンのサポーターの、スタンドでまじないをしている姿がすごかった。なんだあれは。
■とこんなことばかり書いているとまるでサッカーにしか興味がないかのようだが、いまはしょうがないじゃないか。とはいうものの、稽古と原稿がある。六月を乗り切ればすぐそこに夏。夏の京都。祇園祭。去年の発表のあった翌日、あの気持ちのいい夏の夕暮れどきを思い出す。

(0:25 Jun.13 2002)


Jun.12 wed. 午後  「ナンシー」

■午後、ネットのニュースをチェックするとナンシー関の訃報。
■もう10年以上会っていないと思うが、週刊文春のコラムはずっと読んでいたし仕事はいろいろなところで目にしていた。ちょうどその直前、俳優の手塚とおる君から僕がフランスに行っているとき届いた携帯へのメールにいまごろになって気がついた。ある俳優さんが亡くなられたという知らせ。いつでも会えると思っていると知人の死を知らされ、会っとけばよかったと後悔することを返事に書いたのだが、死の前で人はつくづく無力。

(15:12 Jun.12 2002)


Jun.11 tue.  「授業と原稿、そして睡眠 」

■そういえば、7月3日、大学にしりあがり寿さんが来る。「創造する伝統」という授業で僕と話をすることになっている。16時40分開講。誰でも聴講できるはずである。

■午前中、一年生の「舞台基礎」。やけに明るいCクラス。最後少し時間が余ったので質問を受け付けると、「先生は誰ですか?」と聞かれて面白かった。ワークショップは僕のことを知っている者がやってくるので、ややもすると、教えているこちらがばかになる恐れがある。学生はちがう。緊張を強いられるがそのことで刺激されることも多い。
■そのクラスに、去年の6月のオープンキャンパスに参加したという学生がいた。ワークショップが面白かったという。俺、記憶力ないなあ。覚えてなかった。
■午後、家に戻り寝る。眼が覚めてから原稿を書く。今月の締め切りラッシュを乗り越えれば発表公演までは稽古に集中できるはずである。こつこつ書いておかなければと思いつつ、フランス代表のことが気になってニュースを見る。フランス予選落ち。パリで劇作家の松田さんが「フランス応援しましょう」と言っていた。だからいけなかったんじゃないのか。
■それで思いだした。「パリノート」を作る時間がない。

■仕事をする。とにかく今月を乗り越えればあとはもう大丈夫だ。

(2:59 Jun.12 2002)


Jun.10 mon.  「PKのような緊張感」

■時間があるときに原稿を書いておこうと思うが、サッカーをつい見てしまう。これから忙しくなるのはわかっているのにこのていたらく。
■テレビ中継を見ればおのずとCMが目に入るが、朝日新聞のCMが気になる。同じ高校のサッカー部だった友だちが代表に選ばれたという内容を新聞の記事で知るという短い情景がドラマ仕立てになっている。ドラマはよくできているがいったいこれはなにを伝えようとしているのだろう。よくできているだけに余計気になる。

■今年の8月で京都の部屋を引き払おうと思っている。引き払うにあたって考えると、いらないものがいろいろあることに気がついた。まず、洗濯機。冷蔵庫。ベッド。テレビ。欲しい学生がいたらあげようと思うが、運ぶのも大変だ。
■それでも本やコンピュータ、デスクは東京に持ち帰らなければならない。引越屋に頼むしかないか。片づけが大変だし、入るときはともかく、出てゆくときの不動産屋との手続きが面倒だ。不動産屋で思いだしたが、東京の初台に格安の駐車場を見つけた。家から1分。屋寝付き。シャッター付き。初台あたりはめったに駐車場の空きがないので奇跡に近い。で、日曜日、問い合わせた駐車場を管理する不動産屋が、「きょうはいつもより早く仕事を終えさせていただきます」と言う。なにかと思ったら、「サッカーがあるので」と、もう、どうなってしまったんだこの騒ぎは。
■見つかった駐車場は初台にしては格安だが、並んでいるクルマがベンツとアルファロメオだという。ぶつけやしないかと、車庫入れのたびにPKのような緊張感だと思わず表現する。サッカーである。いまはとにかくサッカーだ。
■うちの大学にある舞台芸術研究センターが出した『舞台芸術』という雑誌がある。サイトにそれを宣伝するページを作ろう思うが研究センターから連絡がないので作っていいのかどうかわからないものの、とりあえずアップする以前に作ろうと雑誌本体をデジカメで撮る。スキャナーがないので苦肉の策だ。外光を利用し窓際で撮影。「キッチン・カタ」のフライヤーはうまく撮影できたが本というか、雑誌はどうもゆがむ。白い紙をバックに、三脚を立てればきれいに撮れるだろうなどと考えていると、作ること自体にマニアックな気分になって本来の目的がよくわからなくなる。

(0:56 Jun.11 2002)


Jun.9 sun.  「いい日である」

■サッカーだった。もう凡庸なほどにサッカーだったのだ。
■わざわざここで結果を書いてもしょうがないのでそれには触れないが、しかし、ベルギー戦のほうが面白かったのはなぜかについて考えていたのだった。べつに2点入ったからではないはずだし、まして2点取られたからでもなく、いくら勝ってももうひとつすっきりしないのはべつに点が少ないからでもない。イングランド・アルゼンチン戦も同じスコアだがやたら面白かった。負けたアルゼンチンを応援していたにもかかわらずだ。ロシアのカルピン選手がロシアバレー団にいてもおかしくない容貌であることばかりつい気になって、いつ踊り出すかそれが怖くて仕方がなかった。
■あと素人目に印象に残ったのは中田浩二で、稲本のゴールの起点になったパスが気持ちよかった。中田英寿のバーに当たったシュートも気持ちよかった。試合後の戸田のインタビューもよかった。
■そういえば、ワールドカップについて毎日新聞から原稿を頼まれていたのを忘れていたが、しばしば時評的な文章はワールドカップのような狂的現象について否定的になるものだがそれはそもそもつまらないし、わたしが珍しくこうした現象に肯定的気分なのは、前年度優勝のヤクルトスワローズが開幕戦を神宮球場で迎えられなかったことと同時に、Jリーグの理想主義的な未来像に共感するからだとしたら、結局のところ「読売」がいやだってことでしょう。原稿の依頼が毎日新聞でよかったという話である。

(3:31 Jun.10 2002)


Jun.8 sat.  「学ぶ」

■午後から非常勤講師をしている照明家の岩村さんによるワークショップがあるので、いちおう担当教員として参加。美術、照明、舞台監督などについてのかなり総合的な話だったが、スタッフという立場から岩村さんが舞台の仕事を整理して解説してくれたので、僕にとっても勉強になる。長く舞台をやっていながら知らないことがまだある。そういことになっていたのか、舞台の裏側は。
■夕方、家へ。少し休めた。体力的にはタフなつもりだが、40人以上の学生がいるとその対応に神経を使う。だけど「俺にはこういう仕事は向いてない」とはけっして口にすまい。引き受けている以上、向いていないなんて言ったら学生に申し訳ない。

(3:31 Jun.10 2002)


Jun.7 fri  「リーディング二日目」

■午前中は一年生の「舞台基礎」。きょうからAクラス。Cクラスとはうってかわっておとなしい。映像コースにスリランカの留学生がいて面白いものの、このクラスの授業はむつかしそうだ。ほかとはやりかたを変えようかと考える。
■午後は「舞台表現」。studio21を使ってAチームの稽古。
■それにしても「studio21が三つあれば」と、言ってもしょうがないことを思う。学内にこの規模の劇場が三つあったらどんなにいいだろう。スケジュールがぎっしりつまって授業で思うように使えない。京大には24時間使える教室があるらしく京都の演劇関係者は稽古場に困ると京大にゆくという。そうであることがいいとは一概に言えないし、以前、稽古場に困って大学を使わせてもらったが、演劇をやっている連中がまわりでわーわーにぎやかなあの環境はどうもなじめなかった。
■しかしこうしてリーディングをやってみるような「試み」が比較的たやすくできるのは大学ならではのことだ。そういった意味での「ものを作る場」として大学はすごく機能しているがもっと贅沢を言ってもいいじゃないか。照明の実験など時間をかけてやりたい。リーディングがあるのなら、ライティングがあってもいいな。ドラマライティング。人がいて、簡単な装置があって、しかし照明だけでなにかを表現する。照明の舞台。

■で、リーディング二日目。午後六時開演。Aチーム。比較して考えるなというのは無理な注文で、やっている学生たちがちがう班の自分と同じ役を演じる学生を意識する。おそらく劇における「役」に正解はないはずだ。自分によって演じられるその「役」が、その人にとっての正解のはずだし、だから稽古は「自分にとっての正解」を目指して自分のものを作ればいいのではないか。そう納得させるのはむつかしい。
■むつかしいことはまだある。きのうの終演直後、考えごとをしていたら、舞台コースのS君がやってきて「先生、深刻な顔しないでくださいよ」と言う。あまり自分が人に見られていると意識しないで生きているつもりだが、やっぱ見てるんだな、学生は、こちらがどう反応しているか。終演直後がどうもあぶない。油断すると考え、考えているとき人はふつう暗い表情になりがちだ。しかし考えているときへらへらするわけにもいかないし。
■舞台の成果というより、授業でリーディングをやったことの意味を考える。舞台監督などを担当した学生たちへの負担が大きすぎなかったか、七月までのあいだになんらかのスタイルで公開するのは授業の進行にとってはよかったなどいろいろ。
■まさかと思っていたが、リーディングなのに打ち上げがある。

■そういえば、きのうはM君、きょうは劇団ぽんぽん大将のH君ら、去年やった関西ワークショップの参加者もわざわざ見に来てくれた。

(3:31 Jun.10 2002)


Jun.6 thurs.  「リーディング」

■朝から授業。
■昨夜打ち合わせが長引いたのでかなり寝不足。
■リーディングの公開をする「舞台表現」の授業だ。夕方から本番なので、B班の稽古を中心にやる。40人以上の受講者がいて可能な限り俳優志望の者には出演してもらおうとダブルキャストにした。AとBの二つのチーム。Aばかり稽古が進んでいるような気がしていたのでこのところBを細かく稽古していたが、ふと気がつくとAの進行が遅れているといまごろになって気がつく。

■午後、美術の非常勤講師をしている池田さんと学生とで七月の発表公演に関する打ち合わせ。池田さんのアドバイスにかなり助けられた。そのあと、研究室のKさん、学生のM君とで昼食。いろいろ話した。入試の話にもなるが詳しくは書けません。で、思い出すのは去年『月の教室』をやった袋井の高校生のことだ。いいなあと思っていた高校生がそろって東京の、某雑誌に募集広告を出していた某大学の演劇の学科に入ってしまった。あいつら。演劇をやっている高校生への某雑誌の影響力に、『月の教室』をやっていたころ驚かされたが、また、してやられた気分になったのだった。

■午後六時開演。Bチームの発表。
■『おはようと、その他の伝言』という99年に世田谷パブリックシアターで公演した作品だが、大幅にカットして学生の発表公演用に作った台本を読む。初演より40分短い。短く台詞を刈り込んでわかったがなんてむだな台詞が多いのかと思う。とはいうものの、その「むだ」はねらいでもありいかに「むだ」を書けるかに情熱を燃やしていたのだった。
■それももうあきた。どんどん削除したら気持ちがいい。
■終演後、遅れているAチームの稽古をする。途中、芝居の進行中にもかかわらず相手役を見てにやにや笑っている学生に対して怒る。あきらかに芝居に集中する意識がないのでそれを指摘すると、ト書きにある通りに芝居をしているといった意味のことを言う。しかられた子どもがするような言い訳だ。ト書きのどこにも相手役を見てにやにや笑うなんて書いてない。「作品」がとか「芝居」がということではなく、同じ舞台上にいる者たちへの配慮が感じられないことに腹を立てたが、怒るのはひどく疲れる。
■こういうことをどう考えていいか悩む。通常の舞台だったらそもそも芝居に集中する気のない人とは一緒に仕事をしないだろうし、たとえ大学の授業とはいえ必修の科目ではない。しかも最初に「発表公演」に向けて希望を募ったところ「俳優」を希望したのだし、なぜ集中できないかがわからないのだ。「作品」が不満なのだろうか。「配役」が不満なのだろうか。わからない。
■そのことではなく、感情的になったことでいやな気分になった。

■帰り、学生たちにTREKを自慢する。

(3:31 Jun.10 2002)


Jun.5 wed.  「TREKで学校へ」

■朝、やけに早く眼が覚めたので仕事をする。読む仕事。
■新潮社の雑誌「考える人」の連載に添える写真をデジカメで撮らなくてはいけないが「無意味な、なにも考えていない写真」を撮ろうとしてもそこにどうしても作為が入ってうまく撮影できない。
■午後、少し眠る。三時過ぎに目を覚ましシャワーを浴びて自転車で学校へゆく。「舞台表現」の発表公演のため太田さんに予算のことなど相談。
■それから稽古。studio21をすごくひさしぶりに使う。6日、7日にある「リーディング」公演のための照明のシューティング、場当たり。最初「リーディング」を学生に提案したときは「授業を公開する」といった程度の考えだったが、学生たちがやけに意欲的で、完全に「公演体制」になってしまった。意欲的なのはいいが公演をするとなるとスタッフとしての仕事、もろもろの作業が膨大になり、稽古よりそっちのほうが忙しくなるのはなんというか本末転倒なような状態だ。
■稽古不足。
■意欲的なのはいいけど。
■夜10時に退出してから、美術班と、照明班と白川通り沿いにある「からふね屋」という喫茶店で打ち合わせ。終わったのは深夜12時半。それから自転車で家に戻る。Tシャツ一枚だったので寒い。眠い。
■知人から「添付ファイルのあるメールをもらった」という内容のメールが来ていた。出した記憶がない。あきらかにウイルス。僕のところからではなく、誰かのメーラーからそのメーラーにある僕の名前を使い、またべつの誰かにメールを送信する種類のウイルスだ。このところこれが僕のところにもやたら届く。まずい。

(7:49 Jun.6 2002)


Jun.4 tue.  「贅沢な話と、録画で観たワールドカップ」

■一年生の「舞台基礎」の授業。新しいクラスになった。
■先週まで、BクラスとDクラスだったが、きょうはCクラス。このクラスがやたら明るい。ちょっと疑問になるほど明るい。こんなに明るくていいのだろうか。最初、いつもと方針を変え、声を出すことからやってみる。はじめは小さな輪を作り生まれた土地について自己紹介のようなことをそれぞれ話す。だんだん輪を広げ、距離に応じて声を届かせることをからだで感じる練習。で、さらに距離をとって大きな声を出す。なんでもいいからいま言いたいことを発表させたらワールドカップについて語る者が多く当然出るだろうと思って聞いていたらなかには「有事法案断固反対」という学生がいて驚きさらに面白いのは「有事法案ってなに?」という学生がいたことだがそれも予想した通り。
■午後、二年生の「舞台表現」の発表公演ための打ち合わせ。学内にある劇場「春秋座」の方たち、照明、美術の非常勤講師の方たち、学生らと話し合いを持つ。

■午後、いったん部屋に戻り眠る。
■夕方、再び学校へ。「舞台表現」の6月6日、7日に予定されている『おはようと、その他の伝言』のドラマリーディングのための稽古。少しずつ前進。ほんとに少し。といってももうあさってだよ公開は。
■で、7月11日、12日、13日に予定されている発表公演だが、春秋座で公演するのは様々な種類の困難が伴うのであった。そもそもでかいし。ただ春秋座を使わせてもらうのは学生にとったらすごく贅沢な話だ。市川猿之助さんや、玉三郎さんが立った舞台にいきなり学生が立っちゃうんだからもうどう考えていいんだかわからんねしかし。

■夜10時まで稽古をしバスで家に戻る。
■予約録画してあった「日本・ベルギー戦」を観る。市川の、特に前半の市川の動きが印象に残った。後半は稲本。中田英がマークされるのは当然だから、相手が「おまえ誰?」という選手がすきをねらうというのはどうだろう。
■ふと気がついたら夕ごはんを食べるのを忘れていた。あと、一日せわしなく動いていたので研究室に行くのも忘れていた。

(10:19 Jun.5 2002)


Jun.3 mon.  「夕方から稽古」

■このところ少し歩くと右胸が痛くなる。べつに内臓器官が悪いというわけではなく筋肉の「こり」から来るらしく胸の筋肉、背中の肩胛骨の下あたりの筋が引っ張られるようになって呼吸が苦しくなる。四ヶ月ほどこういう状態が続いていた。だいぶよくなってきたが、少し歩くと少し苦しい。
■で、原因を考えていたのだが、車の運転にあるのではないかと気がついた。
■つまりハンドルを操作する運動だ。ああいった筋肉の動きってものは日常生活ではハンドルの操作以外にまずすることはない。ふだんからハンドル操作のような動きをしていたらわけがわからない人だ。からだが慣れていない運動。右肩から胸の筋肉、背中の筋が、それまで経験したことのない運動を強いられ苦しんでいる。かつてコンピュータで、というかキーボードを使いはじめたころ左手の小指を動かすことからくる筋肉痛にも苦しんだ。右利きの人間にとって、まあ右手の小指もめったに使わないが左手の小指となるとさらに使わず、左手の小指から右腕、右肩にかけて痛みが続いた。
■人間、慣れないことに慣れるのは時間がかかる。特にある年齢になると、「慣れるまで」の時間はひどく長くなる。

■夕方から学校にゆきリーディングのための稽古。
■学生の集まりが悪い。去年の二年生の発表公演で「学生の集まりが悪いこと」は経験ずみなのでそれほど気にならない。出席した学生だけで稽古する。ちょっとびっくりするほど表現ができない学生がいて驚かされる。俳優をやりたいというので配役したのだし、まだ経験もなく「へた」なのはべつに気にならないが、まあ「へた」にきまっているし、「へた」に味わいがあればそれもいい。だけど、なんていうんでしょう、少し考えてテキストを読めと言いたくなる。よーく読めば、ちょっとはわかるはずのことだし、演出すればわずかだが理解できて変化する。つまり戯曲だけじゃなく、「書かれたもの」を「読む経験」がこれまでほとんどなかったのじゃないかと思えてくるのだ。
■というか、「向こうから歩いてくる」というだけでもなんの表現にもなっていないのであたまがくらくらしてくる。
■もちろん、ある一定のレベルの学生もいるし自覚的な学生も多い。
■まあ、毎年のことだからしょうがない。ここからこつこつ積み上げてゆく。

■studio21では、インドの劇団、ザ・カンパニーによる『キッチン・カタ』の公演。七時から見ようと思っていた。見終わってから再び稽古をしようと予定していたら学生が全員、公演のばらしの手伝いをするというので、それまでの時間を何とか有効に使おうと美術を担当する学生らと打ち合わせ。ほかにももろもろ。『キッチン・カタ』見られず。

(7:02 Jun.4 2002)


Jun.2 sun.  「さらに休む」

■また原稿のことを考え憂鬱になるが、うっかりべつの仕事を引き受けてしまった。
■日曜日なのに気分は落ち着かない。
■アルゼンチン-ナイジェリア戦を見る。めちゃくちゃ強いよアルゼンチン。

(15:25 Jun.3 2002)


Jun.1 sat.  「休む」

■深夜から朝の八時過ぎまでかけて『資本論を読む』の原稿を書いていた。
■すごく疲れた。
■眠ろうと思ったが原稿を書いて神経が高ぶっていたせいか眠ることができず、しょうがないので10時過ぎになったら買い物にゆく。ふらっとコンピュータショップに行って出たばかりの新しいiBookを衝動買いした。一週間発売が早かったらフランスに持っていったが残念だ。でも、軽い軽いというが、iBook、意外に重い。けっして軽くない。
■MacOSXを動かすにはちょっと負担が大きいがそんなことはどうだっていい。

青土社から最新の「ユリイカ」が届く。「特集・フットボール宣言」って、ワールドカップでなにからなにまでサッカーのご時世だがユリイカおまえもか。蓮見重彦と渡部直巳の対談、大杉漣さんが出席している対談がある。僕はすごくくだらない原稿を寄稿。どうもすいません。
■その編集後記に、「フットボール宣言をかつての同僚『フットボーリック』(by 陣野俊史)なH氏に捧げます」とあるそのH氏というのはおそらく、うちの大学にある舞台芸術研究センターのHさんにちがいない。
■それにしても、急ごしらえというか、ワールドカップが開幕するというので急遽、担当にさせられたキャスターたちのサッカーに対する無知な中継はいかがなものか。あと、サウジアラビアが大敗したのは、以前から議論されている「アジア枠を減らす」が現実化するのじゃないかと心配になり、日本と韓国ががんばらないといよいよまずい状況になってきた。しかし日本と韓国が開催国で予選免除だったのが一因にしてもアジアのレベル低すぎ。

■疲れがとれない。一日中、ぼんやりしている。
■で、少し休んだらすぐ次の仕事へ。

(11:43 Jun.2 2002)