Dec.15 「若冲の墓」

■午後、大学に行った。大学が実施する「授業に関するアンケート」を水曜日の授業で学生に書いてもらったが、回収後、提出するのを忘れていたのだ。で、いくつかもって行くべきものがあったが、そんなにたくさんのことをいっぺんに覚えるのは無理である。ふたつばかり忘れた■帰る途中、古本屋に寄って一冊購入。ほしいものがいくつかあったががまんした。バスを乗り継ぎ、いつものようにほんやら洞へ。食事。買ったばかりの本を読む。一時期、本を読むと眼がかすんで困っていたがこのところなんだか調子がよい。ほんやら洞を出てからすぐ近くの相国寺に行った。目的は伊藤若冲の墓をお参りすることだ。このあいだ相国寺で幽霊を見たという人の話を聞いたばかりだし、しかも夕暮れ近くになっていたし、誰もいなくて墓だけが並んでいる。怖さの要素にみちている。若冲の墓は、藤原定家、足利義政の墓と並んであった■

■そういえば、学生が僕の部屋に来たとき、安斎重雄さんの写真集を見せながら簡単な現代美術解説をしたのだが、東京の家だったらもっとたくさん資料を出していろんなことが話せたのにと残念でならないし、ビデオも見せてやれたのだが。話を聞きたい人がいたら惜しまず話したい。で、朝になってもう眠くてしょうがないときくだらないことばかり口にしてしまった。朝からつづみや太鼓を叩く「鳴り物」の授業があるというので、炊飯器を持ってきた学生に、「寝ぼけて、つづみと、炊飯器をまちがえて叩くなよ。肩に炊飯器が乗っていたらおかしいと思え。人はついそういうことをしちゃうからな」とかそんなこと。なにを言っているのだ俺は■
(23:08 Dec.15 2000)

Dec.14 「眠っていた」

■昼間、ほとんど眠っていたわけで、眼が覚めたときにはもう暗くなっていた。気をとりなおして小説のことを考える。考えるというか、とにかく書くしかないわけだが、どうも調子が出なくていけない■16日から東京に戻る。それまでにやっておかなければいけないことがいくつもある。ゴミは確実に出しておかなければいけないだろう。大学に出すべき書類の整理。仕事部屋の片づけ。東京に帰ってから引き続き小説を書くための作業と、けっこう忙しい■
(3:03 Dec.15 2000)

Dec.13 「すりガラスと炊飯器」

■僕の授業がある大学の「楽心荘」という施設は山の上にある。長い坂を上がり、階段をいくつも上ってようやく楽心荘のある場所にたどり着いて驚いたのは、早くから学生が来てきょうの授業に備えていたことだ。発表の日である。なにやらわからぬ熱気がある。先週、「実技の授業で発表ができないというのは白紙で解答用紙を出すようなものだ」と言ったのが効いたのか今週の出席は、受講者39人中、36人。しかも早くから来て準備している。ほんとうに驚いた。で、発表。授業によく出ているグループは形になっているが、当然のことながらやってない者らはもうひとつである■夜、学生らの何人かがうちに来て、大掃除をしてくれたのだった。助かった。さらにタイカレーを作ってくれたのでみんなで食事。なにしろうちで米が炊けないと知った学生が炊飯器を抱えてやってきた。煮物を作って持ってきた者もいてこういうのは一人暮らしだとなかなか食べられない。いろいろ話をする。「すりガラス事件」やちょっと書けない話などいろいろ。何人か帰ってしまうとさみしくなるのも大人としてどうもあれだが、結局、朝までいた学生もおりそのまま九時からの授業に出たという。それで僕は爆睡。夕方まで寝た■
(17:21 Dec.14 2000)

Dec.12 「ライフワーク」

■早く目が覚めたのでしばらく本を読んでいたが、『一冊の本』の連載原稿を書いた。気がつくと、横光利一の『機械』を読んでもう45回書いたことになる。もうすぐ4年だ。まだ半分しか読んでいないので、このぶんでゆくと八年がかりの連載になるだろう。その頃ぼくは48歳だ。ぞっとする。ほんとうに単行本になるのだろうか。そう考えると、『資本論を読む』はいったいいつ終わるんだ。ライフワークってことなのか■しかしこのところ雑誌の原稿を書くのが異常に早いような気がしてこれはいかんのではないか。このぶんだとあと10本ぐらい連載があっても大丈夫だと図にのる。身辺雑記みたいなエッセイは書かないというのが信条で、まあ、書いてもこの日記のように金をもらっては申し訳ないと思っていたが、尾崎一雄など読んでいると、あの、「味」というか「技」というか、それはそれですごい。書けるだろうか。まずは借金をしに出かけなければならないのだ■そんなわけできょうは自分のことばかり書いてしまった■
(23:51 Dec.12 2000)

Dec.11 「アイロニー」

■京都はひどく寒い。2月はこんなもんじゃないと人は言うが、これ以上寒くなったら死ぬのではないか。夕方、食事に出て丸善で本を物色。数冊買って、買ったことにうれしくなりいやなことをいろいろ忘れる。朝日の連載を書きあげてメールで送る■柄谷行人さんのインタビューをある雑誌で読んでいたらこういう箇所があった。「八〇年代の東欧とかソ連の作家はものすごく幸福だったと思うよ(笑)。演劇だって、あんな難しいものをやって劇場がよく満員になっていたな、と思うものがたくさんある。事実、八九年以降、観客はだれもこない。ハリウッド映画や日本のアニメを見てる(笑)。あのころ、芸術一般が悲惨な状態にあったといいながら、いちばん存在していたのではないですか」文学は本来ネガティブであり、抑圧があってはじめて輝くというアイロニー。ましてこの国では■『28』を読み直す作業。読みながら書き直す。今年中に『新潮』のNさんに渡すようにしなくては。とはいってもあまりあせりたくない。じっくり書く。じっくり直す。あせってもしょうがない■
(2:19 Dec.12 2000)

Dec.10 「しかしこうなればこっちのせいじゃないよ」

■朝、「資本論を読む」の連載を書き上げメールで送った。で、ちょっと気分が落ち着き、岩波文庫に入っている尾崎一雄を読む。面白いので驚いた。そもそも尾崎一雄の小説は「貧乏ユーモア私小説」と呼ばれていたらしくたしかに妻について書いた部分、妻の奇矯はユーモアなんだろうが、いま読むとあまり面白くない。むしろ本気でそう考えているのではないかと思わせる「私」のつぶやきが笑う。ぼんやり考え事をしていると横から妻がくだらないことを言うと怒るが、そのとき「私」は友人に借金をすることを想像していた。自分は友人にこんなふうにいうのじゃないかと考える。「電燈を止められたんだ。瓦斯は先月から来ていない。それは、金を払わないのは悪いかも知れないが、しかしこうなればこっちのせいじゃないよ。俺だって生きてるんだからね、何はともあれ電燈位灯いたっていいじゃないか」(『芳兵衛』)この、「しかしこうなればこっちのせいじゃないよ」はどうなっているのだ。「何はともあれ電燈位灯いたっていいじゃないか」もすごいが、そもそも「何はともあれ」がよくわからない■しみじみとした読書である。マルクスは『資本論』を執筆中、頭を休ませるために微分積分などの問題を解いていたというが、僕は『資本論』を読むあいま、こうしてしみじみとした読書をする。京都は朝からこまかい雨が降っていた。外に出るのがおっくうだ。それで少し小説を書く■
(2:47 Dec.11 2000)

Dec.9 「ありがとうございましたと口にするある種の制度について」

■学内にある劇団の公演を見た。出演している者の大半が僕の授業に来ている学生だ。感想は……。気になったのは、終演になって役者やスタッフたちが、ある種の演劇にありがちな声の出し方で、「ありがとうございました」と大きく発することだ。そこに含羞はない。見ているこちらが恥ずかしい。「演劇」ってやつの僕が苦手な部分で、どこで覚えたんだか踏襲された、くだらない制度的なもの。15年前それをやめようとわたしたちはまず考えた。東京ではほとんど見られなくなったが、関西ではまだ生き残っていたのか。というか、ああいったことで、「演劇をやっています」と自ら確認するということか。それはまちがっている■終演後、劇団員ではないほかの学生たち数人と近所の神社まで散歩した。ちょっと気が晴れたが、一乗寺の町の近くでわかれ、ひとり叡山線に乗って帰るころからまたうつ状態だ■
(1:21 Dec.10 2000)

Dec.8 「ブコウスキーの日記」

■メーラーが壊れてしまった。受信しようとするとアプリケーションエラーが出る。原因はわからない。PRで送ってくるたぐいのメールがいくつか破損し、大事に至らなくてよかったものの、その後、受信することができなくなった■受信用に使っているのは、Windows版のEudoraである。ほかにもいくつかのメーラーを使っているがこうして日常的に使用する道具は慣れが一番で、ちょっとしたフォントの変更だけで違和感がある。その後、新しいEudoraをダウンロードし(いま無料で公開されている)ことなきをえたが環境を元に戻すのはやっかいな作業だ■京都はいよいよ寒くなって、私はひきこもる。ようやく小説を書く環境が整ってきた。観光をしすぎたな。そういえば、学生が、「観光部」というサークルを作りたいので顧問になってくれと言う。そうなるといよいよ観光のスペシャリストになってしまうのではないか■チャールズ・ブコウスキーの日記『死をポケットに入れて』を読むと、日記というより「思索のためのノート」だと感じるが、専門の小説や詩についてではなく、「死」や「人生」についての哲学的な問いだ。それを考えるために考えたというのではなく、ごく自然にそうした問いが、70歳を過ぎたブコウスキーに浮かんできた印象がある。意識してなにか為すなんてそれほどたいしたことじゃない。なぜかそうしている。なぜかそうしてしまった言葉が強い印象を残す■
(0:05 Dec.9 2000)

Dec.7 「相国寺で幽霊を見た人がいる」

■映像・舞台芸術学科の、学科会議と少し早いんじゃないかと思うが忘年会があった。映像・舞台芸術学科は、映像コースと舞台コースがあり、いつも話している舞台コースの人ばかりじゃなく映像の教員の人たちと話ができてよかった。酒を飲む人がみんなそうだというわけではないが、同じ話を何度も反復したり、脈絡なく話がいつのまにか変わっていたりと、そんなふうに話す人は幸福そうだ。で、幸福そうに相国寺で見た幽霊のことを話していた。怖いんだか、楽しいんだかよくわからない■
(8:22 Dec.8 2000)

Dec.6 「働き者」

■やけにはやく目が覚めた。時計を見ると午前4時40分だ。仕方がないので朝日の原稿とアエラのアンケートを片づけメールで送る。それから準備して大学へ。自分で書くのもあれだが、なんて勤勉なことか■授業は先週と同様、三人がそろったグループだけ稽古。結局、三時間で三グループしかできなかった。遅刻してくる者が多く、最終的には80パーセントの出席率、というのはいったいなんだ。ただ危機感はあるらしく、なんとかしようと何グループかは教室の外で自主的に稽古している。来週は発表させるのでそのことの説明。実技の授業で発表できないのは白紙で解答用紙を出すようなものだと話す。冬休みの課題というやつを与えて授業を終えたが、終わったあと二つのグループが芝居を見てくれという。それがとてもうれしかった■帰りバスで百万遍まで行く。京大前にある古本屋のアース書房で本を一冊買ってから、ほんやら洞まで歩く。いつものように食事。いつものようにぼんやりする■帰ってから爆睡。目が覚めたのは夜。何度か電話の音で眠りから覚める。ほっておいた■
(1:33 Dec.6 2000)

Dec.5 「三人姉妹」

■大学で舞台芸術コースの会議があった。途中、様々な演出家によるチェーホフの『三人姉妹』の有名なラストをビデオで見たがことのほか面白い。それぞれの演出と演技の質。なかでもただ叫ぶように有名なあのせりふを口にする演出がよかった。一人はずっと貧乏ゆすりのように身体を小刻みに動かす。せりふは反復される。まるでスクラッチするノイズが音楽を響かせるようだ。なるほどなあ。こういう刺激に出会うとまた新しいことをしたくなる■帰り、叡山鉄道と京阪線を使って三条まで帰る。三条大橋から夜の鴨川を見るととてもきれいだった。本屋に行こうと思ったがもう10時なるところ。店はシャッターを降ろしていた■『しゃべり場』のディレクターと会ったとき、『しゃべり場』ではなく、『ようこそ先輩』はどうかという話になぜかなったのだった。あの番組で演劇はこれまで何人か取り上げている。難しいとおもったが、不意に、これをやったらどうかという企画を思いついた■そんなこんなで原稿が遅れる■小説も書かねばならないのだ■
(23:57 Dec.5 2000)

Dec.4 「恥ずかしいと反省する」

■早朝まで本を読んでいて、その後、眠ろうとしたが眠れない。きのうの反動か。また睡眠異常の気配だ■『しゃべり場』のディレクターが東京から来た。OPALに行って長時間話したが、結論は出ない、というか、そもそも判断に困る。メールでたくさんの意見をもらいよけいに不安になった。基本的に僕は、楽しければいいという方針だが、意見を読むと楽しそうじゃないのがひっかかる。話すテーマということではない。テーマがなんであれ気持ちよく話せることもあるが、番組の作り方を考えると気が重くなる■世田谷パブリックシアターが出している『PT』が届いていた。座談会の模様を伝える写真で僕は満面の笑顔である。ついいろいろなものに出てしまい、恥ずかしいかぎりだ■12月17日は世田谷パブリックシアターで公演のある、『ゴドーを待ちながら』のアフタートークに出る。一週間後の24日は、フジタヴァンテで開かれるガーディアン・ガーデンの催しもの。いろいろ疲れるなあと思い、人は日常にストレスを感じると、「どっか遠くに行きたい」などと口にしがちだが、そもそも京都という遠くにいる俺はどうすればいいのだ■
(2:15 Dec.5 2000)

Dec.3 「異常なほど眠る」

■ほぼ一日、部屋にいたのだった。ほとんど眠っていたのは睡眠異常気味のわたしとしては異例だ。日曜日になるとマンションの周辺はあまり自動車が走らず静かになる。夜など怖いくらいの静けさだ。だから眠ってしまうのかもしれない。家を出ないまま、ただ読書■僕のクラスの学生が参加している芝居のことをすっかり忘れていた。チラシで確認。きのうときょうの公演ではないか。悪いことをした■連載原稿の締切がまとまって来る時期だ。さすがに12月の京都は冷える■
(3:08 Dec.4 2000)

Dec.2 「自転車で走る」

■気がついたら12月であった■プリンターのインクを買いに寺町までゆく。四条を越えた先から寺町通りはちょっとした電気街だ。家電の大型店、コンピュータの専門店が並ぶ。Mac専門店でインクを買って外に出ると、そばに籐製品の店を見つけた。「籐製品の店」と書くとなにやらおしゃれな店を想像しがちだが、昔風の商店の造りのままそこにあり、軒の低い店先のガラス窓の向こうに、積んで無造作に置かれているような籐の椅子がいくつも見えた。30年ほど前の籐の椅子が両親の住む家の物置にあった。もらって京都の部屋に置いてあるが、さすがに劣化し腰を下ろすとばちっと音がして籐が切れるのがわかる。その店で同じ程度の椅子の値札を見ると五万円前後だ。うーん、欲しいが、この値段は■土曜日の河原町通りは人が多い。なんとか人混みをよけて走り、御池通まで出るとそこからまっすぐ走る。「スムース流カルチャーマップ」にあった「湯川書房」が見つからない。寺町二条をちょっと西に入りさらに北上した位置にあると記憶していたが、ちゃんと地図を持って出ればよかった。仕方がないのでさらに北へ。今出川通りまで出て、「ほんやら洞」で食事。しばらくぼんやりした■家に戻るとAERAからアンケートがFAXで届いていた。「21世紀はこの人が動かす アエラ編集部が注目する100人の40代」という特集だそうだ。僕は動かさないような気がする■
(0:06 Dec.3 2000)

Dec.1 「暗闇が固まりになってそこにある」

■午後も遅い時間に目が覚めた■夕方から、同じ教員の、山田せつ子さん、八角さん、そして、学生たちと交流会というか、飲み会というかそういった集まりがあるので白川通りの店まで自転車で行く。学生たちと授業について話すことができた。帰ったのは深夜の二時近くになっていたのではないか。自転車で深夜の京都を走る。御所の近くに来ると暗闇が固まりになってそこにあるようでひどく怖い。御所の手前、丸太町通りを左折、寺町通りを大急ぎで下る。こんなに暗闇の怖い町がほかにあるだろうか■
(6:38 Dec.2 2000)