Jan.31 「入試だった」

■朝9時から入試。入試になると学校の周辺にはチラシを配る者らがやけにいてなにやら騒然としている。予備校の入学案内の類のようだ。昔は、学生運動のちらしが配られていたのではなかったか。ずいぶん昔で忘れてしまった。ただ美術系の大学受験で思い出すのが机に画材をだーっと並べるやつ。いまでもいる。つまりほかの受験生を圧倒しびびらせようという魂胆。こいつやるなと思わせたら勝ち。それはいまでも変わっていないらしい■受験の内容や感想は省略。いろいろ書くのはまずいのである。大学の事務局の人がこのページを読んでいると聞いた。授業のことなど書くといろいろ反響があるのだった。メールでもくれればいいのにと思う■帰ってから本を読み、また小説のことを考え、すこし書く。いくつかのメールがあり、いよいよ関西方面でワークショップなど活動を開始するかもしれない■
(8:24 Feb.1 2001)

Jan.30 「ビデオを買いに河原町へ」ver.2.0

■この日記をver.2.0になる前に読んだ人には申し訳ないが眠る直前に書いたのでだめな文章になっていると、目が覚め読み直して驚いた。変更■「書く」には様々な困難がありそのことの覚悟はできているつもりだが、ここんとこ読者数の多いメディアに書くと規制されることも多いし、知らず知らずのうちに自主的な規制をしていると反省する。初めて出した『彼岸からの言葉』という単行本はいいのかねこんなこと書いてという話が多かった。無邪気というか、怖いもの知らずというか。初心忘れるべからずだ。天皇についてほんとうのことを書く勇気はなかったが、危険はきっとどこかできっと出現する。覚悟はできている。逃げるね、俺は。名が知られてくるといろいろなことがあるが、べつにいいんだ、怖いものはもっと無数にあるし、覚悟ができ、どこまでもラジカルでなくちゃただかっこわるい大人になってゆくばかりだ■で、手元に置いておきたくて買ったビデオ、「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」の老ミュージシャンをあらためて見るとあんなふうにいつまでもかっこよく生きたいと思った■河原町三条の本屋やビデオ屋を回り、それから歩いて帰ってくる。そういえば、早稲田の学生に送った原稿で、かつてのように「音楽に導かれてこれからの表現を再構築したい」と大見得を切ってしまった。次の舞台や表現に向かって考えは少しずつ進んでいる。あと、小説のことを考える。あさってから本格的に小説の執筆再開を予定。書くね、俺は。春までに発表したいと考えている■小説のことを考えるあいまに小説を読む。着々と作業は進行している■
(7:18 Jan.31 2001)

Jan.29 「大阪ドーム15個分」

■小説を書く日。少しずつ進めていると、だんだんその世界にからだがひたされてゆくようだし、登場人物たちもスイッチが入ったかのように生きてくる。ようやく小説が書ける気持ちになってきた■夕方、関西のニュース番組を見ていたらまたユニバーサルワールド・ジャパンについて報道しており、そのとき、「大阪ドーム15個分の広さ」と表現していたのでひっくりかえりそうになった。その直後、メールをもらい、東京でもそう報道されたそうだ■夜おそく、コンビニで買い物をしたが家まで帰るときの寒さはただごとではない。昼間、日も差しおだやかな日だったので、よけいに風が冷たい。週末はまた荒れるとの天気予報。■
(7:59 Jan.30 2001)

Jan.28 「存在の物語性」

■共同通信の小山さんにほんやら洞で会う。「ほんやら洞通信」にあった小山さんの文章が面白くて、そう店の人に話すと連絡をしてくれ会うことになった。もう何年か前、共同通信を通じて全国の新聞に配信される連載を書いたが、そのとき小山さんはデスクをやっていたという。文學界のOさんはかつて共同通信にいたので、当然だがよく知っているし、新潮のNさんのこともよく知っている。世間は狭いというか、文学業界は狭いというか■亡くなられた作家の桐山襲さんの話を聞いた。ガンで死ぬ直前、自分が死ぬ時間を計算し、最後まで小説を書いていたという。死ぬ三日前、「きみのことを書いたよ」と奥さんに原稿を渡した。『未葬の時』という遺作。桐山さんに関しては『未葬の時』(講談社文芸文庫)の巻末の解説・年譜に詳しい。知っている人は知っていると思うが、自分の正体を徹底的に隠した作家だった。親しい友人の記者や編集者にも住所を知らせなかった。ほんとうのことを書こうとすると、この国ではそうして正体を隠さなくてはいけない事態はいまだ存在し、ある評論家は天皇について書いてからずっと追われ、「お子さんはきのうこういう服を着ていましたね」と脅迫の電話があるという■書くことには、いろいろ面倒なことがつきまとい、面倒がいやで自主規制するのがいまの風潮に感じるが、「ほんとうのことを書く」ことが面白いと小山さんはおっしゃった。昭和天皇が死んだとき、ほんとうのことを書いた作家や評論家はごくわずかだとも■しかし正直なところ、桐山襲という作家に僕が惹かれるのは、存在の物語性かもしれない。全共闘世代のロマンチシズムや特有のセンチメンタリズムの色濃い作品はときにいやなものを感じるが、『パルチザン伝説』はロマンチシズムが物語と共振し、最良の形でより強い力を物語に与えていると思った。おそらく、それと同様なものを、「存在」そのものから受けるのだろう■
(6:03 Jan.29 2001)

Jan.27 「小説のことを考えて一日が過ぎてゆく」

■観光をしている場合ではないのだった。小説をなんとかしなくてはいけない。『28』は三部構成になっている。第三部を読み返し、作者の都合で書かれた部分を修正しようと思うと、前半も書き直さないとだめだし、つまらない部分を削除してゆくと、前後がつながらないのでまた書き直す。むつかしい。ちまちま直してゆくのも気持ちが悪いが■そんなわけで、一日ほとんど部屋を出なかった。午後、少し日がさした。東京の雪はおさまったのだろうか。部屋が暖房のせいで乾燥する。のどが痛い■
(7:52 Jan.28 2001)

Jan.26 「大観光」

■朝の11時ごろあまり眠っていないのに大学まで書類を提出に。シラバスという授業計画表。研究室でKさんや学生と話しそのあとカフェで昼食。少しぶらぶらしているうち詩仙堂にでもゆこうと歩く。坂を上ってへとへとだが、詩仙堂はほとんど人がいなくてとてもよかった。秋に来たときと庭の景色がまた異なって見える。水が落ちる音がし、ときどき鳥が鳴く。ゆったりした気分でしばらく庭を見ていた。誰もいない。オフシーズンもなかなかにいい■詩仙堂からまっすぐ歩いて、一乗寺の町。恵文社は久しぶりだ。二冊ばかり本を買う。バスで帰ろうかと思ったが近くのバス停からは一時間に一本しかない。やっぱり叡山電車に乗ることにし、終点の出町柳で下車。いつもならここからほんやら洞だが、反対の方向に歩いて、進々堂とあーす書房を目指す。百万遍の交差点を越えまた歩く。あーす書房は閉まっていた。ことによるとつぶれたのではないか。で、進々堂でコーヒーを飲んだが、いつもは人がいっぱいいて座れない窓際の席だ。ぼんやり窓の外を見る。目の前は京大で、ひとつ西部講堂ってやつを見にゆこうと思ったのがまちがいで、どこにあるかわかりもしないのに、無謀にも歩きだした■歩いた歩いた。京大のキャンパスは広い。吉田寮を発見。荒れ果てている。ここに人が住んでいるのかと思うと呆然とする。だが、西部講堂はどこだ。さらに歩くが、気がつくと近衛通り。近くに近衛中学というすごい名前の学校。こっちではないと判断し、また百万遍の方向へ歩く。で、ようやく左手に西部講堂が見えた■これが有名な西部講堂か、といった感慨はまったくなく、ただ荒れ果てた木造の建築を目にするが、講堂前の敷地は水たまりができて歩きづらいし、少しは片づけたらどうなんだと思うような汚さだ。近くにサークル室のようなものがならび、なかに奇術研究会があった。奇術を見せてもらいたい■百万遍の交差点からバスに乗る。東西線を乗り継いで帰ってきた。へとへと。きょう一日でどれだけ歩いたのだろう。腰が痛い■夕方、食事をしに外に出る。雨が降り出していた。東京は雪らしい。食事を終えて帰ると、疲れが出たのか眠ってしまった。こんこんと眠る。朝の4時近くまで眠ってしまった■
(4:36 Jan.27 2001)

Jan.25 「ロシア文学のような気分」

■京都は一日、雨が降り、しかもひどく寒い。ほとんど部屋を出ないまま原稿を書く。SPA! からこのあいだやったインタビューのゲラが来ていた。うまくまとまっているのでまるできちんと話をした人のようだ■関西のニュースでは3月にオープンされるというユニバーサル・スタジオ・ジャパンのことがやけに取り上げられ、きまって「甲子園球場16個分」と敷地面積の広さが表現される。二週間ほどまえ朝日にそのことを書いたが、それからもきまってそう表現され、言うぞ言うぞと思って見ているとしっかり期待にこたえてくれる。東京なら東京ドームだが、関西では甲子園。けっして大阪ドームではないのだった■予報によれば二月はもっと寒くなるという。外に出てなにか見つけたいがおっくになる。だから小説を書くしかないか。家にこもって小説を書く。なんとなくロシア文学のような気分である■
(3:33 Jan.26 2001)

Jan.24 「本年度、最後の授業」

■7時起床。コーヒーを飲んで学校へ。斜面に建てられた校舎のなかでも高い場所にある楽心荘はひどく冷え、きょうあたりどうなることかと思っていたが、事情があってべつの部屋になった。寒さはともかく普通の教室は集中できる。で、本年度、最後の授業。この三回でひとつの戯曲を元にそれぞれが希望した役割で作業を進め、まとめとして公演スタイルの発表。年が明けてからの三回では時間が少ないのは当然にしても、ただ僕としては授業を考えるひとつのヒントになった。俳優はからだをうごかす稽古があるが、では、こうした授業のスタイルを半年続けるとして、べつの役割を希望した者らがどうそれと関わるか、つまり授業の時間になにをしていればいいか。そこがむつかしい。なにかありそうだが、なにかいい手が■ほんやら洞で昼食。店の人と三時間ぐらい話をした。とても面白かった■夜、学科会議。いろいろスケジュールが詰まってものすごく忙しいと判明。ただごとではない■
(6:30 Jan.25 2001)

Jan.23 「この夏はアロハだろう」

■こんな時期に夏の話をするのもなんだが、今年の夏、アロハを着ようと考えたのは、「甦るハワイアンシャツ from 京都」というサイトを発見したからである。きれいなシャツばかりだが、高いよどれも。古い着物を探しその生地を吟味、手作りで縫製、だから仕方がないのだろうし、当然どれも絹製で、実物はもっときれいにちがいない。欲しくなった。もうひと仕事するか■マウスの調子がひどく悪かった。久しぶりに寺町通りのコンピュータショップへ。ここでもいろいろ欲しくなる。物欲は果てがない■午後は少しあたたかだった。自転車で走る。錦小路だったと思うが烏丸通から少し入った小さな店で昼食。山盛りのごはんとおでんに粕汁。おいしかった■
(1:32 Jan.24 2001)

Jan.22 「はたらき、そして寝る」

■共同通信社に頼まれた原稿を二本とも書いてしまった。自分で書くのもあれだがなんて勤勉なんだ。ひとつは書評だから本を読まねばならず、読み終えたとたんにだーっと書く。調子が出てきたのでもう一本のほうも片づけ、朝日の連載を書き、これで心おきなく小説に集中できると思ったとたん眠くなって昼の1時過ぎにベッドに入ったら、目が覚めたのは夜の11時半だった■不思議なことがひとつ。メールにはシンクロする不気味な力があるのだろうか。以前、「ワークショップをやりたい京都周辺の人たち」から何度かメールをもらっていたがこの数ヶ月連絡が途絶えていた。「こちら(関西)でワークショップはやらないのですか」という問い合わせに、「参加したかったらきみが企画したまえ」と返事を書いた。恐れをなして連絡してこなくなったのかと思っていた。この二日ばかりのあいだに同じ人たちから連続して久しぶりのメール。しめしあわせたかのようだ。よし、なにかやろう。返事も書かねば■朝からこの時間までなにも食べていないと思い出す。人間、食べなくても平気なことが、一年にいっぺんはあるものだ■
(1:53 Jan.23 2001)

Jan.21 「小説を書くときめる」

■部屋を片づけ、簡単なそうじもした。さっぱりしたところで、小説を書こうと決める■誰がなんと言おうと小説を書く。やたら原稿を引き受けてしまったがこんなことでいいのだろうか。『ようこそ先輩』にも出てしまう可能性がかなり高い。朝日の連載は3月いっぱいで終わるものの単行本にするための仕事がある。あと、袋井のワークショップ。忙しいじゃないか。なによりいま大事なのは小説だ。黙々と仕事だ。せっせと書くのだ。夏は修行だが、冬は仕事。春になったらまた考える■
(1:14 Jan.22 2001)

Jan.20 「取材を受ける」

■目が覚めたのは午後3時過ぎ。気がついたら外は雪だった。少しうれしくなる■3時半から週刊SPA!の取材を受けることになっていたが間に合いそうもないと、いったん永井に連絡し、永井から先方に遅れると伝言してもらう。河原町のCafe OPALへ。以前、「エッジな人々」で取材に来た編集者のT君、それからカメラマンは女性。女性がマンてことはないが。「関西のエネルギーはいまなぜ衰弱しているのか」という内容の特集でいま関西に住んでいる僕に話が聞きたいとのこと。依頼が来たとき、「衰弱している」と言われても、あ、そうなのという感じで困惑。どうしようかと思ったが、このあいだも取材を断っているので申し訳ない気がしていたのだった。いろいろ話をする。答えているうちに、というか、T君の話を聞いているうちに、関西のエネルギーが衰弱しているような気になってくるから不思議だ■話をするのは楽しかった。ただ、外に出て写真を撮るのは苦にならないが、客がおおぜいいる店で写真を撮られるのははずかしい。終わってから食事をして帰る。ひどく寒い■
(5:28 Jan.21 2001)

Jan.19 「ねじのことなど」

■近鉄小劇場に竹中直人の会『隠れる女』を観にゆく。大阪まで京阪線を使うのははじめてだ。途中に、「中書島」という駅。なんだこの地名は■一幕の緊張感がすごくよかった。岸田今日子さんがせりふを忘れていると竹中は言うが、でもやっぱり岸田さん、よかった。終演後、久しぶりに竹中や、作・演出の岩松了さんに会う。10年以上前になるが大阪に来るたびみんなと行った「ふさや」というお好み焼き屋へ。共演の、小泉今日子さん、岸田今日子さんらと合流。ふさやのお好み焼きはうまいし、話は面白い。遅れてやってきた元宝塚の天海さんの背は高い。あと竹中は「ねじ」と看板にある店を町で見つけたとかで、それを映画にしたいとしきりに言う■終電がなくなった。岩松さんと、僕が連れてきた学生らとともに、近くのバーにゆき朝5時まで時間をつぶす。久しぶりによく話した。岩松さんの話がめっぽう面白い■
(7:39 Jan.20 2001)

Jan.18 「こんなことをしている場合ではない」

■ある本を夢中になって読んでいた。気がついたら朝で、それから眠る。目が覚めたのは夕方。一日がほとんどなくなってしまった。『一冊の本』の原稿は書き上げたが、『STUDIO VOICE』はまだだ。共同通信社から書評する本が届く。共同通信社のまたべつの人から原稿の依頼がメールである。変だなあ。なぜか集中する。寒くて外に出るのがおっくう。コンビニで買ったパンなどくだらないものを食べ、くだらないもので腹が満たされることにいやな気持ちになる■こんなことをしている場合ではないのじゃないかと思いつつ、仕事を引き受ける■
(5:49 Jan.19 2001)

Jan.17 「朝、雪がちらついていた」

■深夜に目が覚め、『JN』の原稿を書く。そのまま大学へ。学校に着くと雪がちらついていた。ただごとではないと思ったがすぐにやみ青空も見えて日もさしてくる。しかし授業のある楽心荘はひどく寒い。先週の続き。戯曲を使いそれぞれやりたい仕事にわかれて作業。美術を担当する者らが描いたスケッチを元に相談する。こういう作業をもっと重ねてゆくのが授業としては有効なのだろう。先週欠席していた学生が俳優をやりたいというので、俳優グループを2つにわける。細かい稽古をする時間がないのが残念だが、とりあえず来週、ある程度の形にしたい。楽心荘はいよいよ冷えるのではないか■あと一回で今年度の僕の授業は終了。反省点も多々あり、大学で教えることがどういうことか少しわかった■夜、竹中に電話。チケットがとれたとのこと。「いま横に片桐はいりがいるよ」と言う。だからどうすればいいというのか■『一冊の本』の原稿がまだだった。Oさんから電話があって思いだし、こまったこまったと思いつつも腰はまだ痛い■
(23:53 Jan.17 2001)

Jan.16 「腰が痛い」

■食事と、煙草を買うのに外に出たきりで、あとはずっと家にいる。原稿を書く。そのあいまに本を読むが、本に夢中になっていけない。あと腰が痛い。目が覚めたら痛く原稿を書くためにコンピュータの前にずっと座っていたからだろう。大阪で「竹中直人の会」があるので、チケットを頼もうと東京の竹中の家に電話。奥さんが出て少し話をする。しばらくして竹中から電話があり、調べておいてくれるという。助かった■深夜、ようやく「JN」の原稿、『資本論を読む』を書き上げる。あとはスタジオヴォイスのニブロールと早稲田の人の原稿■新宿にある「ロストプラスワン」の催しは「ワークショップ」をやることにした。「歌舞伎町・夜のワークショップ」という怪しいタイトルにし、歌舞伎町をフィールドワーク、その後、なんらかの形で発表という企画はどうだ。2000円の入場料でワークショップを受けられるとは、受講者がうらやましい限りだって、自分で書くのもなんだが■腰が痛い腰が痛い腰が痛い■
(6:06 Jan.17 2001)

Jan.15 「さらに原稿が書けずに苦しむ」

■原稿が書けないまま苦しむ一日。夕方、ようやく外に出て食事。丸善で本を数冊。文房具、痛み止めの薬、煙草など、外に出るのはもうめんどうなので一気に買い物。夕方の町を自転車で走るとさすがに寒い■いくつかまとめて仕事の依頼がある。朝日新聞社の出版局にいるOさんから電話。「小説トリッパー」に、「中上健次論」を書けとのこと。かつて別の出版社にいたOさんは中上健次の担当編集者だった。しょっちゅう罵倒されていたという。共同通信社からメールで書評の依頼。永井から電話があり事務所のほうに「ロフトプラスワン」でなにかしないかという話やスパから取材の話が来ているという。袋井でのワークショップもあるしこうして並べるとなんだか忙しい人のようだ。あと、学生の作った観光部の顧問なのでそれにもつきあわなければいけないし、ほんとうに忙しいのではないか。小説を書かなくてはいけないんだ俺は■京都はすごく寒いとか、底冷えがするなどと人にさんざん言われていたが、我慢できないほどではない■『資本論を読む』は「商品」の項をどういう切り口で書くか悩みそれはそれでたいへんだが、スタジオヴォイスのニブロールに関する原稿は、言いたいことがたしかにあるが、どこかもやもやし、すぱっと表現するうまい言葉が見つからない。「ダンス」「からだ」「いま」「現在的な空間」「音楽」「都市」などと言葉がぐるぐるまわる■
(4:00 Jan.16 2001)

Jan.14 「原稿が書けない」

■『STUDIO VOICE』と、『JN』と、あと早稲田の学生に頼まれた原稿が書けないのだった。『JN』は「実業の日本」のことだ。その最新号にある山崎浩一さんの文章を読んではじめて「JJ」が「女性自身」の略だと知って驚愕した。「JJ」といえば植草甚一さんのことだが、なぜ植草甚一が「JJ」かはいまだに謎である。そんな話を東京の家の者と電話で話をしていたら、「いまの人は植草甚一なんて知らないんじゃないの」という。まったくだ■そういえば、世田谷の宮沢さん一家殺害事件で殺害に使われた刃物を犯人が買ったと推測される店は経堂の小田急OXらしい。よくゆくスーパーだ。犯人はあのあたりに出没していたのだろうか。もしかするとはるばる亭のラーメンを食べていたかもしれないし、ピーコックというスーパーの上にあるボーリング場で玉を転がしていたかもしれない。おそろしい話だ■『STUDIO VOICE』にはニブロールについて書く。うまく書けなくて困っている。しかも歯が痛くなるし■ニュースで京都で開催された女子駅伝の結果を知る。きのう町を歩いているとトレニングウェア姿の女とやけにすれちがった。あれは選手だったのだな。観光のようにぶらぶらしていたが観光だったらなにもトレーニングウェアである必要はないではないか■
(3:27 Jan.15 2001)

Jan.13 「いきあたりばったりで龍安寺に」

■午後、三条富小路を少し南にいったあたりにあるカフェに入った。町屋を改造した店だからか少し冷える。タイカレーで食事。しばらくぼんやりしていたが、店を出てぶらぶら古本屋など流し、河原町を御池通の方向に歩いた。バス停があったので最初に来たバスに乗ろうときめる。59系統のバスが来た。河原町通りを北進。今出川通りで左折。左手に御所、右手にほんやら洞や同志社大学を見ながら西に進むが、これといってあてがない。千本今出川で降りようかと考えたのは、近くにある「静香」という喫茶店のことを思いだしたからだ。千本今出川の交差点を右折し、迷っているうちにバス停を過ぎた。しばらく走ると金閣寺の森が現れ、降りずにいると、立命館大学が見えてきた。いきあたりばったり。とりあえずここらでと思い次のバス停で降りる。龍安寺の前だ■龍安寺がこんなに大きな敷地だとは思わなかった。団体といっしょになったせいか、ひどく寒いというのに拝観客は多い。石庭をゆっくりながめたくても話声がうるさくて落ち着いて見られないのは残念だ。「配置」とか「レイアウト」に僕は異常に興味がある。人は誰だってそうだが、配置せずにいられないのはどこからやってくる意識なのだろう。石の配置を見ながらずっとそんなことを考えていた。もちろん龍安寺の石にはべつの意味がある。だけど目の不自由な人のために用意された触って石庭を理解するミニチュアは、「箱庭療法」の箱庭そのものだ。箱庭は「配置」が大きな意味を持つ。箱庭と宗教的な意味で作られた龍安寺の石庭は、どこか深いところで響きあっているのではないか■立命館大学前のバス停からはいくつもの路線のバスが出ていると知り、歩いてそこまでゆく途中、「山猫軒」というカフェがあった。出たよ、賢治好き。コーヒーを飲む■またバスに乗り、堀川御池で降りる■
(3:50 Jan.14 2001)

Jan.12 「大学へ」

■午後、大学へ。学生の提出したレポートを受け取る用事。地下鉄で北大路へ。北大路のバスターミナルから大学のすぐ近くまでバスに乗る。北大路に着いたとき風邪の予感がした。喫茶店に入ってロイヤルミルクティを飲んでからだをあたためる。回復。あぶないところだった■大学で用事をすませ、バスで銀閣寺道へ。バスの乗り換え。白川通りぞいのバス停のすぐそばにスーパーがあってそこで掃除の道具など日用雑貨をいくつか買った。信号を渡って今出川通り沿いにあるバス停まで歩く。今出川通りをずっとゆく203系統のバスに乗り換えるが、バスを待っているとバス停のわきに「私設図書館」という店があるのに気がついた。勉強をするための空間らしい。禁煙なんだろうな。落ちついて読書などできるだろうが、禁煙ではだめだ■バスを、河原町今出川で降り、ほんやら洞へ。食事。そういえば、このあいだ来たとき「ほんやら洞通信」のバックナンバーを八冊買った。店の歴史やらなにやらいろいろなことがわかって面白かった■地下鉄で家の近くまで戻り、地上に出てからふと寺町二条の三月書房に行き、ある本を探そうと思った。また歩く。ひどく冷える■
(1:39 Jan.13 2001)

Jan.11 「大阪へ」

■レポートの提出日が過ぎたので、学生たちが提出したそれを受け取りに学校まで行かねばならなかった。ついわすれて大阪に行った■昼間、家の近所を散歩していたら、阪急の地下乗り場に通じる入り口が目に入ったからいけない。ふいに大阪に行きたくなった。日本橋の電気街にでも足を延ばそうと阪急の特急に乗る。40分程度で梅田に着いた。東京でいうと、横浜から東横線に乗って渋谷に出る感じ、時間的には京王線を使って八王子から新宿まで出るのに近い■日本橋の電気街はいまひとつ把握できないので歩くのがひどく疲れる。秋葉原だったらだいたいのめぼしはつくのだが。帰り、心斎橋まで行き、どこかのリンクで知ったはずの、Contents Label CAFEを探した。歩いた。ものすごく歩いた。だいたい、店の名前も覚えておらず、場所もわからず、このあたりじゃないかと探すのは考えものだ。だが、奇跡的に発見できたのだった。入り口をはいってすぐのところにあるソファのような席に腰を下ろした。木で作られた幅のある椅子にスポンジ製のクッションが置いてある。さぞかし座りごごちがいいだろうと思ったが、だめでした。椅子の座る部分がすのこ状になっており、すのこの空白部分の幅が広い。クッションがあっても痛いわけだ、腰を下ろしたとき。でも店の雰囲気はいい。それでまたぼんやりする。店を出たら夕暮れが近い。冷えてきた■
(0:23 Jan.12 2001)

Jan.10 「ほんやら洞で」

■朝5時過ぎに目が覚め、2、3時間の睡眠で9時からの授業に。目が覚めたとき、ガスレンジがぼーぼーと燃えていたのだった。火を付けた記憶がない。湯をわかしたのはきのうの夕方だ。それからずっとこのままだったかと恐ろしくなったが、眠る直前、ライターが手元になかったのでガスレンジで煙草に火をつけたのを思い出した。いずれにしても危険このうえない■年明け、第一回目の授業。20人程度の出席。ぜんぜん来ないんじゃないかと思っていたのでまずまずだ。それにしても教室が寒い。学生たちはすきがあればストーブの前に集まる。学生たちのする芝居を見ていたら身体ががたがた震える。ただごとではない。一本の戯曲を元に、それぞれ自分がやりたいことを選択。俳優から、美術、音響、衣装など、それぞれの希望が出たが、衣装の二人がよく考えていた。衣装を考える作業が楽しそうなのがなによりいい。来週、すぐ手に入る衣装などを用意するがそれが楽しみだ■で、最終試験の課題、「ハムレットを読んでその感想を書く」を出したら、「できない」とか、「読めない」、なかには、「シェークスピアなんか読みたいと思わない」とものすごいことを言う。自分たちがいるのが「舞台芸術コース」だということをどう思っているのだろう■帰り、いつものようにほんやら洞で昼食。すると、店のご主人から店で出しているミニコミ『ほんやら洞通信』をいただいた。雑誌に書いた、『ほんやら洞とゆく京都ゆきあたりばったり』の書評を読んでいてくれて、書かせていただきましたというと、「やっぱり」と、ご主人であり、写真家の甲斐さんが笑った。しょっちゅう店に来ている人だというのでめぼしをつけていたらしい。さらに、『八文字屋の美女たち』という甲斐さんの写真集までいただいた。とてもうれしい■もらいものといえば、映像芸術コースで教えている天野さんに伊藤若冲の資料をコピーさせてもらった。ほかにも若冲をいくつか見ながら話を聞く。なかに大判の画集があって欲しくなった。印刷もいいし、本の作りもていねい。5万8千円。研究費で買おうかとちらっと考える■
(1:51 Jan.11 2001)

Jan.9 「雨の京都」

■昼の二時まで眠っていた。あしたの授業のための準備。夕方、ようやく外に出、本屋へ。雨が降っていたので傘をさして河原町まで歩く。経堂で探していた本など見つけ、文庫など数冊買う。食事したあと、Cafe OPALへ。夕方だったせいかOPALは混んでいた。正月のあいだコンピュータに接していなかったせいか眼の調子がたいへんよろしい。本がよく読める。OPALの照明の下でも読めた。いつもなら河原町通りまで自転車を使うが、歩けば、また新たなものを見つけるもので、三条に「弁慶石」を見つけた。弁慶が愛した石だという。ほんとうなのか。そのあたりを「弁慶石町」というと謂われにあるが、そんな地名があるか疑問だ。よく看板に書かれている「謂われ」を読むのがことのほか好きだ。読まずにいられない気分にさせられる。ときどき、「謂われ」かと思って近づいてゆくと、「公園使用上の注意事項」といったなんでもない看板だったりしてがっかりする。まぎらわしい看板は困るよ■横光利一の『純粋小説論』をはじめて読んだ。横光利一はその時代のいわゆる「ナウ」ってやつであった。パソコン通信もインターネットもない時代に、「小説は読者が作る」などといい、読者からの手紙によって物語が変容する小説の試みをしていたという。最近、インターネットで、メールなどによって話が変わる小説が発表されているが、メディアのちがいはあってもすでに横光利一がやっていたのかと思うと驚かされる■
(17:49 Jan.10 2001)

Jan.8 「京都に戻ってきた」

■誰にというわけではないが、あけましておめでとうございます■暮れの31日から静岡に帰郷していた。9日ばかり両親の住む家で過ごす。世田谷の44歳になる宮沢さん一家が殺害された事件に驚く。人ごとのような気がしない。家も比較的ちかいし、名前が「みきお」さんだそうじゃないか。ニュースを見たとき、俺が殺されたのかと思った■5日から袋井市のワークショップが三日間あった。下は14歳から、上は58歳まで、参加者は二十名ほど。新しくできる袋井市のホールで5月に公演をする予定。いったいどういったことになるか、僕にもまだなにも見えない。ワークショップの二日目、『砂に沈む月』にも出ていた俳優の戸田君が見学に来た。戸田君は実家が浜北なのでクルマを飛ばしてきたという。いなかで友人に会うと奇妙な感じがする■21世紀の実感をもてぬまま、あれっという感じで年が明けた。いつもの日常がはじまる。この8日間、静岡ではメールを受け取ることができなかった。京都に戻って調べると莫大な量のメール。メールをチェックする日常。そのくりかえし■京都は静岡に比べると空気が冷たいが、思っていたほど寒くなかった。静岡では時間があれば小説を読む。谷崎潤一郎の日記体の短編が面白かった。70歳の作品だというのにストリップを見に行き仔細に踊り子のことを記している。それから、『鍵』を書いたというからすごい。勇気づけられた■
(3:07 Jan.9 2001)

Jan.1 - 7 「静岡に帰郷」

■12月16日から、12月30日までの記録は、「世田谷日記」にあります■
(3:07 Jan.9 2001)