■夜、通しをやろうと思っていたが、ひとり欠席でできなかった。しょうがないか、子供だからな。それで、できるところを反復。あるいは細かいチェック。中学生の男の子がぜんそくで、芝居中、せきをするのでおかしいと思ったら軽い発作になったりし、しょうがないよな、そういうことも。あと、酸素を多く取り入れすぎて呼吸が苦しくなる病気で袋を口に当てて発作をおさめたりとかって、そういうことのいちいちが、まあ、考えようによっては面白い。いろいろな人がいる。だから稽古場が好きなのだが。場面を転換するために舞台上にある机など、どうやって移動させるか稽古場でやりながら作ると、みんながわーわー意見を言って、それが面白い。ふつふつと沸き立つのだ。わけのわからない混沌が愉快である■伊地知と焼肉屋で食事していると、店の人が『月の教室』のチラシを手にしてやってきた。よーくチラシを見ているのだが、わからないらしい。これなんですかと伊地知に質問するのを聞いて気がついた。あたりまえだと思っていることがここでは通用しない。つまり、劇場にチラシを置けば、それは芝居を宣伝するためのチラシで、誰もがそうだと認識するという前提は、ある特定の狭い場所でしか通用しない話だ■稽古場の近くのジャスコで、伊地知をはじめとする宣伝班がチラシを配布したという。演劇が根付いていない土地である。いきなり、『月の教室』と言われたってなんのことだかわからないだろう。「演劇です」と説明したところでよくわからないし、舞台のことをイメージすることさえできない。それは気がつかなかった。あたりまえのこととしてチラシをデザインしていた。袋井を中心とした周辺の土地に演劇を根付かせるのは、時間と根気を必要とするただごとならない事業だ。たいへんそうだなあと思うと、よけいやってみたくなるから困ったものだ■しかし、根付かせることと、大衆化することは同じではない。そこがむつかしい■
●四月分
●月の教室通信
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