■昼間、また犬の散歩。通っていた小学校の裏手に檀家を持たない寺があり、なにか徳川家にまつわる人が祀られているらしい。坂を上がって寺までゆくと、草が一面に生えた場所があり、犬を放し、ごろんと横になった。草の上。天気がいい。暑いくらいの気温。少し風が吹いている。気持ちがすごくいい■京都に戻ったのは夕方の五時過ぎ■きのうの稽古で見た、あの女子高生の変化と成長のことをずっと考えていて、演劇観が変わってしまうのではないかとすら思える。というのも、あの三人は、袋井にある高校の演劇部に所属しているが、いままで考えていた高校の演劇部とは異なる種類の表現が出現していることが不思議でならないのだ。もちろん、僕がワークショップのときから口うるさくある種の演劇に見られる単純化された表現を否定してきたことはあるにしても、だったらなぜ、そんなに素直にそれを受け入れたか■高校の演劇部らしい基礎は確実にある。肉体訓練もしっかりやっているし、発声もやっている。だが、気持ち悪くないのだ。「気持ち悪い」はひどく主観的な言葉だが、「気持ち悪さ」とは、従来の基礎訓練が生み出す内面のことだと考えていた。何度か書いたが、俳優訓練の本があるとしばしば俳優が手本を示した写真が載っているがあの顔や身体がどうにも気持ちが悪い。含羞のないあの姿はどうしたものか。現在とずれた身体がそこに存在する■僕の考える「基礎訓練」は、あそこからどう遠ざかるかだ。集団的な肉体訓練はさせない。集団として発声練習もさせない。自分でどう考えるか、自立した個人がどう自分を訓練するか、そのための考え方を養う方法だ。だが、自立した個人が出現しずらい国である。自分で鍛える方法がわからない。自分で方法を考えない。どこかに勉強にゆくこともない。僕の稽古場ではなにもさせないが、それを、なにもしなくていいと勘違いする。自立しない個人なんてほんとうにあるのかこの国では■だけど、ほんとうにだめな人は、だめだから面白い部分もある。だが、「だめだから面白い」は、「だめだから面白い」以上のことができないのだった。そこでまた別の問題がいくつか浮かぶ。だとえば、なにに向かって表現を作り、そのためにはどんな身体が必要かというむつかしい問題がある。なぜなら、「だめだから面白い」以上のことができない人は、それでもべつにかまわないかもしれないからだ。表現の根本のところで、なんのために、誰に向かって、どう表現するかが、「基礎訓練」を規定することになるのだろうか■それにしても袋井の高校生には刺激を受けた。その表現に喚起されてまた考える。去年の夏前、長谷川逸子さんから袋井のワークショップの話をされたときはどうしようか躊躇したが、ほんとうにやってよかった。演劇の世界ではこんな仕事は誰にも認識されないだろうし、派手な舞台や、外国での活動などが問題にされるが、きっとどこかで、こんなふうにこつこつ積み上げるような仕事をしている人たちがいるのだろうと想像もできる。いろいろ認識をあらためた■授業の準備をし、早く眠ろうと思ったが、『JN』の「資本論を読む」を書く。締め切りから二週間が過ぎたのだった。ほんとうに申し訳ない話だが、よくよく考えると、二週間は大丈夫だったということでもある。あの締め切りはなんだったのだろう■
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