[2001年04月1日]


■このあと東京と京都にゆくが五月の公演が終わるまでは『月の教室通信』を続ける■二週間ほどの稽古が終わった。四月は土日を使って稽古。ただ第一週目の土日は大学にゆくので自主稽古。僕がいないあいだも参加者たちがきちんと稽古してくれると信じる。大学と稽古で四月は過ぎてゆく。春の観光はできない。京都の春はきっといいのだろうなあ■いつものように一時半から稽古を開始■舞台監督の武藤が来た。いつも僕の舞台を手伝ってくれ、『砂に沈む月』では、割れる花瓶を作った。スタッフが来ると舞台がはじまるという感じがさらに高まる。舞台そのものや、稽古が見たいという者、続出。東京からわざわざ来るとのこと。ありがたい話である■で、年長者二人のシーン。伊地知と牧野さん。どうも固くて気になる。繰り返し稽古。考え方というか、舞台上に作られた世界に生きられればそれで簡単にできるはずが、形を記憶し、形で表現しようとする誤解があるのではないか。一部ないわけではないものの、高校生たちが形にならぬままやたら生き生きするのとは対称的。どうしてなのだろう。たとえば、俳優の経験が長い者がいてその「形」を崩すのに苦労することはあるが、それとも異なり、芝居の経験が少なかろうが人はやはり「芝居」というやつをし、それもまた厄介。すっかりそこに時間を使ってしまった■少し長めに流す。まだばたばたしている。ところどころ子供っぽさを感じる場面があってその修正をしなければいけない。細かく稽古して全体をタイトにしたいが問題はその時間だ。時間がない。悲劇的に時間がない■月見の里学遊館にゆき劇場のスタッフと打ち合わせ■打ち合わせを終えてから、武藤と永井、伊地知とこのあいだも行ったイタリアレストランへ。伊地知をテーマに話は進む。今回の舞台をほんとうに楽しんでいる伊地知は、高校生になにかお礼をしたいという。だったら金を配ったらどうだと意見すると、封筒に入れて渡さなければと伊地知。「封筒にはなんて書けばいいかねえ?」と質問するので、僕は答えた。「お礼」。しかし、いきなり「お礼」と書かれた封筒を渡された高校生もとまどうだろう■特に女子高生があぶない。怪しいことを感じる女子高生もいるにちがいなく、武藤が「母親に付き添われて返しに来るんじゃないですか」と言った。かなりだめな事態だ。それでさらに考えたのは、女子高生ひとりに渡すのではなく、家族全員分を用意して渡す方法だが、「なんでこんなにうちの家庭のことを知ってんだ」と余計に気味悪がられるにちがいない。家族全員で返しに来るとなると事態はさらに深刻で、伊地知家もてんてんこまいだ。次々と家族が来る。父親が玄関で、「これは受け取れません」と「お礼」と書かれた封筒をつき返す。見ればドアの向こうに家族たち。祖父が「伊地知ってのはどんなやつなんだ」と一目見ようと視線を向けているにちがいなく、女子高生はと言えば、ドアの外、こちらに背中を向け、伊地知とはいっさい目を合わせようとしない■「お金だからいけないんじゃないですか」と永井が言った。「図書券はどうですか」。なるほど、「金」だからどうもいやらしさが発生してしまう。芝居が終わって高校生たちに伊地知が「お礼」の文字のある封筒を渡す。「ありがとうありがとう」と伊地知。高校生だからすぐに封を切るだろう。中から出てきた図書券を見てつまらなそうに言う。「あ、おれいだ」。いったいどうすれば、伊地知の感謝の念を高校生に伝えることができるのだろうか■2日、東京にもどる。東京は寒いとのことだが桜は満開。奇妙な天候■
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