[2001年08月15日]


■京都は38度。気持ちがいいくらいの暑さ。「一冊の本」の原稿を書き上げメールで送る。ニュースではおなじみの8月15日。右へ右へ。さらにその先を右へ■スタニスラフスキーはまさに近代の人だから、俳優における「うまい」を言語として記述しようと『俳優修行』を書いたが、読めばわかるように、理解に困るようなあいまいな言葉がしばしば出現し、たとえば「霊的なインスピレーション」といったことにそれはなるが、言葉の是非はともかく、スタニスラフスキーが伝えようとしていることはわからないではない。言葉にすることに問題があるのだろうか。「うまい」は言葉にならないのか。つまり「言語化できないなにものか」だ。それはどのようにして伝えることが可能なのか。「記述の方法」についてきのう書いたが、むしろ「記述の不可能性」について考えるべきではないかと思った。不可能だからこそ書くに値する■『資本論』を読む。JNの締め切りだったのだ。思いだしたように『資本論』を読んでも仕方がない気がし、これからは原稿を書く時期以外でも少しずつでも読み進めようと思ったのは先月、JNの原稿を書いていたときだが、だめだ、どうも読めず、こうしてせっぱつまってから読む。思い出しながら、少しページをさかのぼれば、「商品」の項、めまいがするほどの難解さ■あいまに頭をほぐそうと小説を読む。あとサッカー。エコパで日本代表とオーストラリアの試合。BSで見る。エコパといえば袋井市だ。PKの場面で、急遽、中山を投入して蹴らせたのはトルシエの演出か。地元へのサービスではないか■池袋ツアーのことをきのう書いたが、そういえば、「新潮」という文芸誌の編集者があの小説を手に池袋を歩いたという話をいつだったか人づてに聞いた。ほんとに歩けただろうか。それ、ちょっとちがう、こっちの道と指摘してみたかった。しかし、『路地へ』という映画は中上健次の小説舞台である新宮を旅するいい作品だが、ただ、行ってしまう人がいるのだなあと感心もしたのだし、こういうこともよしあし、文学の土地とは、実際に存在する場所だとしてもけっして「実在」ではないのであって、そこにはやはり、ただの日常があるだけだろう、というようなことを、ロラン・バルトが書いていなかったか、どこかに■
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