■「うまい」とはなんであるかについて考えている■俳優にしろ、劇作家にしろ、小説家にしろ。いったい「うまい」とはなんであるのか。僕は「うまくなるな」と俳優たちに言っていたが、それには補足が必要だ。なってはいけない「うまい」と、正しい「うまい」がある。「うまい」を支えるのは、「ことばとして記述できるもの」だろう。記述する方法が科学をお手本にしているとすれば、もっぱら「近代」の産物なのだろうが、だから「うまい」を否定しようとすればいきおい反近代になり、「呪術」や「情念」といったうっとおしい世界へと遡行する。そこから遠ざかりたい。遠ざかりつつ、近代の否定面に目を配り「正しいうまい」を肯定することはできないものか。つまり「記述の方法」だ。またべつの記述の方法■このことを考えつくそう。とことん考えなければいけないのだ■夜、姉小路沿いにある「KOSCI」というカフェへ。学生のYに渡すものがあったからだ。それで学校のことなどゆっくり話をした。人と会うのは久しぶりのような気がする。Yはあしたからある舞台のボランティアの仕事で佐渡へゆくそうだ■関西で開かれたワークショップの参加者たちが連絡用に使っている非公開の掲示板がある。ワークショップは終了したがまだ掲示板を使って連絡を取りあっているようで、なぜかストリップを観にゆくツアーで盛り上がっている。ほかにもいくつか「ツアー」が計画されているのを読んで、ふと思い立ったのは、「池袋サーチエンジン・システムクラッシュツアー」だ。あの小説を読んだ人たちと一緒に主人公がたどった道を歩く。ガイドは俺だ。というか、久しぶりに池袋を歩いてみたいと思った。10月からまた池袋コミュニティカレッジでワークショップ。懐かしの池袋。いや、ちっとも懐かしくなんかないのだが■
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