[2001年07月25日]


■タブッキの小説を読んでいると、食事の場面がしばしばあらわれ、それがひどく食欲を誘う■「カルドーソ医師がウェイトレスに手で合図して、今晩私たちは、魚にします、とたのんだ。なるべくなら、網焼きか、ゆでたのを召し上がっていただきたいのですが、いや、料理法はかならずしもこだわりません。でも、網焼きの魚は、昼も食べましたから、ペレイラがいいわけをした。それに、ボイルした魚というのは、どうもきらいなんです。いかにも病院くさくて。じぶんが入院しているみたいな気持ちになりたくないんです。ホテルに来ていると思いたいんです。だからヒラメのムニエールにしたいんです。よろしいですよ、カルドーソ医師がいった。では、ヒラメのムニエールに、ニンジンのバター煮をつけて」■で、夕方、新風館にいってイタリアレストランで食事をすることにした。コースを注文。たまの贅沢。メモしておけばタブッキみたいに書けるがメモするのもばかばかしい。記憶に頼って書けば、水とパン、トマトとモッツアレラチーズの前菜、蟹の入ったトマトソースのパスタ、鴨を蒸した料理、リンゴのシャーベット。エスプレッソコーヒー。だめだ、言葉が貧しい。というか、書いていると腹立たしい気分になる■演出する者であることを意識したことをきのうここに書いた。それでピーター・ブルックの本をあらためて読む。たとえば、『秘密はなにもない』。不思議なのは、以前読んだのとはまた異なる印象が出現することだ。演出する者として次になにをすればいいか。そういえば、きょう学生が集まって、『あの小説の中で集まろう』の反省会をしたという。僕のことを、「教員」と考えるか「演出家」と考えるかという議論が出た。たとえば、「教員」ならば、ばらしを最後までしっかり見届けて学校を出るべきだという。しかし、「教員」だとしたらその労働時間はどう保証されるかという問題になる。全然、保証されない。残業手当もない。きちんとした作品にするためならべつに気にならないが、それは「教員」なのか、「演出家」なのか。あと「教員」だったら、自分のやりたいようにスタッフたちが、美術プラン、照明プランを提案できたというが、すると、俳優だって「教員」に対してやりたいことを提案できたはずで、僕の演出ではまずありえない「客席に向かってせりふをまくしたてる」ような俳優も出現しかねないとすれば、これはもう、僕の作品ではない。「教員か、演出家か」という議論がそもそもまちがっているのだろうか。「大学の授業内における発表公演の教員」とはいったい何者なのだろう■小説のことを考える。それで、『草の上のキューブ』を少し読み返した。掲載されている「文學界」(二〇〇〇年十一月号)のほかのページに、まだ読んでいなかった坪内祐三さんの文章があり、これがたいへんな面白さだ。「インターネット書評誌の私物化を『ぶっ叩く』」というタイトルである著名な編集者を徹底的に叩く。僕は坪内さんを支持したい■さらに言葉の話。福島県のOさんからメールをいただいた。●福島県では「い」と「え」の発音の区別ができない(特に年輩の人)ようです。例としては「伊藤さん」が「えとうさん」、「江藤さん」が「いとうさん」と発音されたりするので、非常にまぎらわしいです。また、田舎の八百屋に行くと、「えんどうまめ」が「いんどうまめ」、「さやいんげん」が「さやえんげん」と値札に書いてあるので、力が抜けます。(ちなみに「キャベツ」を「キャ別」と書いてある八百屋をいくつか見かけるのですが、全国的にはどうなのでしょう?)●「キャ別」はかなり特殊だと思う■時間に余裕ができ、ようやくいろいろ考えられる。あと、映像コースの一年生、Y君とMの二人にバンドをやろうと誘われその気になっている■
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