[2001年02月27日]


■午後、食事をしに外に出る■ぶらぶら経堂まで歩いたが、変化するのは商店街ばかりではなく住宅街もそうなので、いい木造建築の住宅が取り壊され更地になっていたり、マンションになっていたり、新しい住居になっているが、どうしてそんなデザインにしてしまったんだと思うようなことは多いものの、まあ、他人にとやかく言われる筋合いはないだろうな、住んでいる人にとっては■まったく同じようなデザインの家が三軒並んでいる。迷わずによく家に戻ってこれるものだと感心する■工業製品的に住宅も建てられる。経済効率は高く、従来の家より安く建てられるが、それは一面の真実でしかない。建築家がきちっとデザインすることでまたべつの経済性もあがるはずで、着るもののことがわからずブランド品で身を飾りたてる者もいれば安いものをうまく選んで買いかっこよく着る人がいるのと同じ。「デザイン」とはそもそもそのようなものだ。芝居、あるいは演技でも、工業製品的なものはきっとあり、だが、そこからどうやって逃れるか■経済学者の岩井克人が新聞に書いていた。資本主義の論理は、「売れなくてはいけない」。では倫理はなにか。「売れればいいというものではない」だ。空前の価格破壊の時代には、スーパーやショッピングセンターに人が集まる一方で、デパートの景気は悪い。そこにあるのは文化が壊されてゆく風景の象徴ではないか。デパートが文化を代表するわけではないが端的に文化破壊はそういったところにあらわれていると見え、資本の論理が幅を利かせ倫理が忘れられてゆくこととどう向き合うかが、文化と関わっている者の課題であるはず。いわば倫理。スーパーマーケットでは万引きが多発する。あの小売りの方法の効率のよさは高度な資本主義が作った最高の形態なのだから、万引きのリスクが発生するのは当然のことで、万引きするなというほうがおかしい。むしろあの形態は万引きしたい衝動に人を駆り立てるだろう。「万引きする者」を断罪しようとするのは、倫理なき資本の論理のなかの、ねじれた倫理、うそくさい倫理だ。べつに万引きを勧めはしないし、万引きが僕はきらいだが、正義のようなつらをして万引き者を断罪する資本の偽善を僕は否定する■いまや、「商品」の売り方、棚の並べ方、宣伝こそが「売る」ことのスタイルになっているが、なぜ「商品」そのもので勝負はできないのか。そんなことを、『資本論』の「商品」のあの難解な分析を読みつつ考える■

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