■関西以外の方たちから、「ネット上のワークショップの場所」を教えてくれとメールがくる。いまやってるのは実際にワークショップを開く準備のためにある。多くを期待されると困るので全国規模で参加できる、本格的な「ネット上のワークショップ」を計画中だ。考えていたら、だんだん面白くなってきた。アイデアがふくらむ。なにかあるかもしれない。なにより、ほかで誰もこんなことを考えていないだろう■だが、私はいそがしい■誰か、がんばってくれる人はいないかと、城田あひる君や、コンピュータを持ってる役者たちのことをふと思う■よく僕のワークショップでは、参加者を町に放りだして徘徊させるが、あんなふうにこのネット世界を徘徊させるワークショップはどうだろう。あと、いいネーミングだな■中上健次論を書く■「論」というほどのものではない気がするが、まあ、向こうが「中上健次論を」と頼んできたのだからしょうがない。「俺に論はだめだよ」とも言えない■全集を開いていくつかの作品を読んでいると、小説への思いが高まる。文体、文章、もちろん作品世界、それがすごくて、もっと書かねば、もっとうまくならなくてはと思う。うまくなっても、というか、うまくなるだけじゃしょうがないけれど。越えられないものはある。ちまちまエッセイを書いていていいのかという気にさせられるが、エッセイは僕にとって大事だ。俺はそこから来た■「文体」とはなんだろう。一時期、問題になったのは、ほんとは漫画を描きたいが絵が描けないのでだったら小説を書くという不思議な人たちのことだ。絵が描けなかったら漫画家になれないように、文章が書けなかったら小説は書けないというのはあたりまえの話だ。問題は、その「文章」だ。誰でも書けちゃうんだよな、意外に。ちょっと読むに耐えない文章の小説がジャンルを問わずあるけれど、それでもなんとなく流通する。やっぱり「文」だろう。それ以外に表現の方法がほとんどないわけだから■といったことを考え、中上健次論は先に進まない■ともあれ東京に帰ろう■
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